5.07.2021

[film] Effie Gray (2014)

4月22日、土曜日の晩、有料のYouTubeで見ました。日本では公開されていないもよう。

John Ruskinの妻だったEffie Grayを描いた英国の評伝ドラマで、脚本を(出演もしている)Emma Thompsonさんが書いている。ちなみにこの作品でJohn Ruskinを演じているGreg Wiseさんは彼女の夫。

誰もがそうであるように幸せな花嫁を夢みていたEffie (Dakota Fanning)がJohn Ruskin (Greg Wise)と結婚して、彼の父 (David Suchet)と母 (Julie Walters)のいる実家で同居の新婚生活を始める。この家の最初の晩にEffieが彼の寝室に入っていって彼の前でガウンを脱いで裸を見せると彼は見事に凍って固まってしまい、その姿に動揺した彼女は自分の部屋に戻って、そのまま南極のような結婚生活に突入する。

彼の両親は彼を誇りにして溺愛して(ママが入浴させてくれる)、社交でもアカデミーの世界でも賞賛と羨望の嵐のなかにあった彼の傍で、ただそこに立っているだけのEffieは孤立し、脱毛症になり、不幸のどん底で固まってぼうっとしているのだが、それに気付いたのは家に遊びにきたElizabeth Eastlake (Emma Thompson) - 彼女自身も芸術批評家で夫はNational GalleryのDirectorだったCharles Lock Eastlake - くらいで、でも気付いたからといって初めのうちはどうすることもできない。

やがてJohn Ruskinが持ち上げていた新進画家John Everett Millais (Tom Sturridge)と知り合ったEffieは、滞在していたスコットランドで彼の絵のモデルになったり、少し仲良くなるもののそれ以上には発展しようがなくて、ますます塞ぎ込んで幽霊のようになっていくEffieを見かねたElizabethが彼女を医師に診察させ、彼女が未だに処女であることを確認すると、これは離婚の理由になるわって、行動を起こして…

頭の切れるエリートで評判もよいのに結婚したらどうしようもないマザコンで結婚生活どころではなくて、というのは現代でも転がっていそうな話で、それを19世紀のアート界隈におけるスキャンダルのように描くことにどんな意味があるのか? あんまりない気がするのだが、これが当時の絵画や建築における「美」とか芸術運動のありようを考察したり自分でも絵を描いて浸ったりしていたJohn Ruskinの足元で起こっていた、というのがなんかおもしろい。実際には本件についてふたり共それぞれの見解をきちんと残しているので、それを少し広げて架空の法廷劇にしてもよかったのでは。

Ruskinて、”Mr. Turner” (2014)でもろくでもない奴みたいに描かれていた(演じていたのはJoshua McGuire)けど、本当のとこはどうだったのかしら? まあこれらが本当だったとしても彼の著作を読まないでおくことなんて不可能 - それくらいRuskinの著作って英国のアートを見たり考えたりする上で基本の基本みたいになっている - のだけど。

ここで見るべきは夫に家庭内放置されて、そんな自分をどうしてよいのかわからずに幽霊のようにホラー映画の主人公のようになって彷徨うDakota Fanningさんで、ここでの彼女は”War of the Worlds” (2005)で宇宙人の襲撃をうけて目の奥を空っぽにして叫ぶこともできなくなってしまったあの娘の姿に近くて、それは傷ましさを通り越してすごいとしか言いようがない、彼女にしかできない演技で、これがあるので見事な女性映画になっていると思う。Ruskinが彼女の表情を見たらなんと言っただろうか。

映画の最後でRuskinの元を去るEffieは後にJohn Everett Millaisと一緒になるのだが、彼の“Ophelia” (1851–2)のモデルがEffieであったかのように描かれているのって、違うよね?(モデルは当時19歳のElizabeth Siddal)

まだ美術館が開いていなくて絵を見ることができないので、本屋の美術書のコーナーに通って端からめくりながらどうしよう、とかやっている。いくらでもやっていられて楽しいけど、楽しくない。美術館で絵を見たい。

5.06.2021

[film] La mort en ce jardin (1956)

4月15日、木曜日の晩、アメリカのMUBIで見ました。

Luis Bunuelの監督作で、英語題は”Death in the Garden”、邦題は『この庭に死す』。原作はJose-Andre Lacourの小説で、脚色には『地下鉄のザジ』のRaymond Queneauの名前があって、元はJean Genetも雇われていたとか。日本では劇場未公開で放映のみっだったらしい。今から見るとなかなか豪華なフランス人のキャストだし、きれいなイーストマンカラーだし、とってもお金が掛かっているふうで、でもこれもメキシコ時代のLuis Bunuel、なのね。

南米のどこか – たぶんメキシコの鉱山でそこを支配する軍と労働者が衝突するのが前半で、まるでGoyaのあの絵のように禍々しく混沌とした地獄図が展開されて、その混乱のなか、町のごろつきっぽいShark (Georges Marchal)と娼婦のDjin (Simone Signoret)と宣教師のLizardi (Michel Piccoli)と鉱山の労働者 Castin (Charles Vanel)とその聾唖の娘 (Michele Girardon)の5人が命からがら船で逃げ出してブラジルの方を目指すことにする。ここまでだと、途中でアナコンダが襲ってきてもおかしくないパニック冒険活劇ふう、に見える。

そのうち船がダメになり、船を捨ててジャングルに入り込んでからが更に地獄になって、ブラジルに向かうどころか、ジャングルの同じ地点をぐるぐる回っていることに気付いて、そこに飢えと湿気のびたびたが加わると、とにかくここから抜け出したい、自分らをこんなふうにした張本人はどこのどいつだ? って。

一触即発になりかけたところでジャングルに落下した飛行機の残骸から酒とか衣料とかいろんなものを見つけることができて、やや落ち着いたかに見えたのに、やっぱりどうにも満足することはできなくて。

人のあらゆる類型とか業とか欲とかを容赦なく横並びにしてほうら… っていうLuis Bunuelのパノラマ技は十分に冴えていて、冒頭の支配者 - 被支配者同士の諍いの図から離れたところにいて生き残った5人 - アウトロー、娼婦、坊主、老人、障害者 - ですらジャングルの自然状態に晒された途端に弱さ狡さ無力さなどなどをむき出しにしてそれぞれの立場から小競り合いを始めて、自然状態の残酷さや気色悪さを露呈していく。 というより、その気色悪さこそがヒトの世界 - 自然状態そのものなのだ、って。目をひんむいてようく見やがれ、って。

ジャングルはヒトの手が入っていない野生のなにか、としてあることは許されず、ヒトもまた歪められることのない野生状態をそのまま生きることは許されず、ジャングルにヒトが踏み入れた途端にそれは人為的なガーデンと化してしまう運命にある。ヒトというのはそこで、どうあがいても「ガーデン」でしか死ぬことができないような愚かで哀れな生き物なのだ - かわいそうにー、という世界とか生死のありよう。Bunuelの映画ってなにを描こうが常にそういうスケールで万象を測るべくジェットコースターのように自在に乱高下しながら、我々はだれで、どこにいるのか、を問うてくる。コンパスの針はぐるぐる回り続けて役にたちやしない。

なので、ここに悲惨な残酷な絵図を見ることはなくて、ああそういうものなのだ、って納得させられるしかない(これもまた地獄なの?)。どうしても嫌なら、関わりたくないのなら人間をやめるしかないのかも、とまで。 日々SNSとかであまりに酷いくそみたいなのばかり見せられているところでこういうのを見るとかえって清々しかったりする。

そして、こういうギリギリのドラマを生きるSimone SignoretもMichel Piccoliもなんと壮絶に生きていることだろうか、って。

おおむかし、『メキシコ時代のルイス・ブニュエル』っていう特集が千石の三百人劇場(もうない)、っていうところであってものすごーく衝撃と影響を受けたのだが、そこにこれを加えてもう一回俯瞰してみたいところ。


いよいよ滞在も残り少なくなってきて、送別会のようなものをやってくれるというのでここ数日、夕方になると出かけている。今の規則ではオープンエアの着席6人までなら飲食ができるようになっているので、オンライン飲み会ではなくこっちの方でやろう、と。 でもここ数日は異様に寒いし雨がぼたぼたくるし、お酒飲めないのでお茶をとってもあっというまに冷茶になってしまう。こうなるとあのバカバカしいオンラインの方がまだよかったかも。つまんない会話のときは好きなことやって遊んでいられたし。そんなことよりさすがにいいかげん荷物箱詰めをどうにかしないと。

5.04.2021

[log] Isle of Wight, etc.

4月30日にWalesに行って、それに続くBank Holidayの連休の間もうろうろし続けてしまった。お片付けと引っ越しどうするのか。

5月1日の土曜日はワイト島に行った。このシリーズでは東のNorwichに行って、北のHowarthに行って、西のSt. Ivesに行って、北西のWales - Cardiffに行って、次は南かな、くらい。本当はずっとジャージー島とガーンジー島に行きたくて、昨年計画たてて決行直前まで行ったのだが、直前に飛行機が飛ばなくなってしまったの。 ワイト島なら日帰りで行けそうだったし。 基本は電車とバスのみを使う日帰りでも、こんなふうにネタはいくらでもある。やろうと思えば北北東でも南南西でも東東南でもなんだって。なんでこれまでやってこなかったのかバカ、っていうのはいつもの。

距離的にも時間的にもこれまでのよりはやや楽なかんじなのだが、乗り物に乗っている時間が多かったのがやや難点で、ワイト島も最初の目的地 - Osborne Houseに行くにはロンドンから電車 〜 バス 〜 ホバークラフト 〜 バスだったり、なにもかもGoogle頼りというのがややきついけど、それでも便利になったもんだわ。

Osborne Houseは19世紀にヴィクトリア女王とアルバートのために建てられたイギリス王室の離宮で、館内はまだ見られない(..あーみたかったよう)ものの庭園には入ることができる。敷地がでっかいことはあたりまえとして、すばらしくよいシェイプのでっかい樹々がいっぱいあって、春の花々が咲き乱れていて、カラスがやかましいことを除けば極楽としかいいようがない。

そこからバスで島の真ん中のバスターミナルに行って、さらに乗り換えて島の西のJulia Margaret Cameronの館 - Dimbola Lodgeに向かう。いまはMuseum & GallaeriesとTea Houseになっていて、Book Shopもあった。MuseumとBook Shopは閉まっていて、外のテラスでTea Houseはやっていたが寒くて天気が崩れそうだったのでやめる。 

写真家としてのJulia Margaret Cameron - ヴィクトリア朝の頃のアートと人々 - に興味があるのはもちろんだが、ここも(どちらかというと)Virginia Woolf絡みで、彼女の唯一の劇作 - “Freshwater: A comedy”(1935)は、彼女の大叔母であるJulia Margaret Cameronが主人公で、このDimbolaが舞台になっていて、どんなかしら、というのはずっと思っていたの。(もういっこ、この作品にも登場するAlfred Tennyson卿の館 - 近所のは行けなかった) あと、Patti Smithがここで撮影した写真を発表していて、その展示を見たのはDulwich Picture GalleryのVanessa Bellの展覧会だった、とかいろいろある。 Vanessa Bellのスタジオで上演されたこの劇 - 演出: Virginia Woolf、出演:Bloomsbury Groupの面々って、どんなだったかんじだったのだろうか - 館の中に入れればなー。

この館も、Dylan Thomasの生家と同じく、ごくふつうの住宅街のなかにあった。外側だけでも見れてよかった。

そこから、どうせここまで来たので、西の端っこのThe Needlesにも行ってみるか、とバスで行けるところまで行ったのだが、終点は小さな遊園地のアトラクションがいっぱいあって、そこの展望台から遠くに並んでいる3つの岩と切りたった崖が少し見えたくらいだった。ここの全体像はそこから更に上の道を抜けて山の上まで行く必要がありそうだったので諦めて帰った。崖の草のところに牛みたい?な四つ足のがいっぱいいた。

なんとか戻りの電車には乗れたのだが、午後遅くに急激に寒くなってなにこれ? だった。


5月2日の日曜日は、天気も不安定そうだったし足腰が既にじゅうぶんがたがただったのでもう遠出はやめて、ロンドンの北東にある森 - Epping Forestにいった。 Epping Forestは、ロンドン市が管理している(公園ではなくて)森で、チューダー朝の時代にヘンリ8世とかエリザベス1世の狩猟場だったり由緒ある森らしいのだが、なんといっても有名なのはGenesisの”Selling England by the Pound” (1973)に入っている”The Battle of Epping Forest”よね、ってあたまの中で鳴らしながらいく。そんな有名でもないか?

地下鉄に1時間くらい乗って30分くらい坂を登っていくとおおよそ森の真ん中くらい、に着く。のだが、森なので中心とか案内とかがあるわけでもなく(事前にちゃんとWebとか見ておけばいろんなルートがあることを知ったバカ)、ひたすら人とか自転車が流れているところを見つけて一緒に歩いていくしかない。途中雨がばらばら来たりしたものの、いっぱいの木と緑が気持ちよければひたすら気持ちよいので、歩くのが止まらない状態になった。途中ツノのあるでっかい牛(English Longhorn Cowっていう)が数頭いたり。

あと、この時期はBluebellsの青紫の花がきれいで、本当はNational Trustの管理するAshridge Estateのがすごいらしいのだが、ここはやや遠いので諦めて、でもここの森には数カ所見れるところがあるのを知って、それだけは見て帰ろうかと。音楽を”The Battle of Epping Forest”からThe Bluebellsの"Forever More" (1982)に切り替えて探していったら、あった。遠くからみるとそこだけ浮かびあがって見えるのが不思議だったねえ。


5月3日、Bank Holidayのまだ行っていないとこに行ってみようシリーズは、天気予報では雨風ひどい、って出ていたので、近場のLondon Zooにした。 ここは4月12日からオープンしていて、歴史も伝統もあるところなので行かねば、だったところをようやく。朝の10時から並んで入って、でも動物たちが出てきていないのとか屋内展示のは見れなかったりとか結構あった。 カバとかゴリラとか、ここまで寒いとしょうがないよね。かわいかったのは、ミーアキャットとマングースと豚とペンギン(いつもの)。柳の下のペンギンが、絵になってて素敵だった。

動物園に対する視点とか期待って、動物保護や教育の観点では必要と思う反面、やっぱりこれって虐待だよね、って(歳をとってから割と)思うようになっていて、足が向かなかったのはその辺もあったのだが、驚いたりはしゃいでいる家族とか子供たちを見るとしょうがないのかな、とか。 いろんな看板とか表示が昔からのも含めてかわいいのがいっぱい残っていて、かわいかった。 ブロンクスのほど茫洋としていないしセントラルパークのほどごちゃごちゃしていない。正常になってからまた来たい。


で、とにかくこんなふうに4日間を過ごしてしまったので、もうほんとうにほんとうに引っ越しモードにはいらないとやばい。

5.01.2021

[log] Wales

もう4月も終わりで悪あがきを続ける時間もなくなってきたので少し焦ってじぶんでじぶんを追いこんでみようか、と金曜日(30日)にまた休んだ。そうすると翌月曜のBank Holiday祝日とあわせて4連休になるし。

どこに行くかはほぼ決めていて、まだ行ったことのなかったウェールズ。英国に来たとか言ってウェールズに足を踏み入れていないのはだめじゃん、とずっと思っていたので。

ただウェールズといっても行きたいところはいっぱいで、ほんとは北の方のスノードニアとか、『わが谷は緑なりき』のブレナヴォンとか行きたくてさんざん悩んで、あまり無理強行すると4連休しんでしまうかもしれないので、わかりやすくカーディフにした。ここならロンドンから直行の2時間くらいで行けるし。

でもここだけだとつまんないので、少し北にあるお城と少し西のスウォンジーを足してみる。スウォンジーにはDylan Thomasの生家があるし、その先をぐるっとまわってみると灯台もあるし、程度のノリで。

お天気は数日前からずっと雨マークが70-80%くらいだったのだがそんな程度のことで揺らいでいる余裕なんてないはずだ、って突っぱねて決行する。

電車はパディントン駅を7:48にでてカーディフ中央駅に9:38に着くやつで、朝のうちはほぼ快晴だった。毎週電車で遠出していると緑がはっきり濃くなってきているのがわかって頼もしいったら。

カーディフに着くと駅の表示からアナウンスからぜんぶ二か国語になって外国みたいで楽しい。まずはメインの通りを抜けた突き当たりに見えるカーディフ城に行く。城のなかには入れないがお濠の周りとか敷地をうろつくことはできる。ウェールズにはお城がどかどかいっぱいあって、戦うためにみんなお城をつくったのかお城を作るために戦ったのかしらんが、大変だよねえ、って思った(←この程度の)。いまはどれもかっこよく朽ちて寂れてよいかんじだけど当時はいちいち憎悪と称賛が渦をまいてこれらの石のあいだで人がいっぱい死んでたのね、とか。

カーディフの街中の建物はどれも素敵に古くて、昔のアーケードも沢山残っていて、そこに世界最古のレコ屋があるというので行ってみる。看板には"EST. 1895" ってある。ほんとかしら。外観はふつうのレコ屋で、営業時間は11:00-16:00だというので中には入れない。でもこれで世界最古の本屋(@リスボン)と世界最古のレコ屋を見ることができた。それがどうした、だけど。

お城をもうひとつ、カーディフから電車で30分くらいのところにあるカエルフィリー城にも足をのばす。名前にカエルってあったから、程度だったのだが、お濠がでっかくて廃墟としての腐り具合も申しぶんなくて痺れた。竜とか巨人とかが出るならこういうスケールのところだよねえ、とか。

お城に向かう途中で雨がらばさばさ来たのだがお城に着いたら魔法のように晴れたり。

で、ふたたびカーディフの中央駅に戻って、電車で1時間くらい西にあるスウォンジーに向かう。Dylan Thomasと灯台(がある)以外は予習もなんもしてなくて、でもとりあえず駅でバスに乗り換えてDylanちにむかう。結構きつい坂の上にあるほーんとふつーの住宅の並びにあるふつーの家だった。中には入れない。で、次に行くかって振り返ったら坂の上から遠くに海が広がっててうわーってなった。サンフランシスコの坂の上からのよりなんかでっかくて感動したかも。

そこから灯台の方に向かうべく坂を延々くだってバスが走っている通りまで出たのだが、バスが来るまで30分くらいあったので浜辺の方に歩いていってみた。潮が引いているのか砂浜の向こうに干潟のような湿地帯のようなのがざーんと広がっていてかっこいい。干潟って海が近いのだか遠いのだかわからない錯覚のようなのを引き起こして、それを確かめるべく先の方に行きたくなってうずうずしてしょうがないのだが、バスの時間になってしまうので突撃は諦める。

バスは湾をぐるっと回って岬の先の方まで連れていってくれるのだが、バスの窓から広がる浜とか干潟のかんじがすごくよくて今度ここにきたらぜったい半日ここで過ごそうと思った。干されているのか湿っているのか人を寄せつけない(実際ぜんぜんいない)陸と海の境い目の攻防とそれが織りなすだんだら模様と。

灯台が見えるところでバスを降りてみると人はほぼいなくて、海の方に降りていって大きめの丸石がごろごろしているところを抜けると半乾物の海藻がべったりしているところと波をうった砂の浅瀬とごりごりの岩場が折り重なるように広がっていて、その合間にヒトデがいっぱいくねっていて、とってもこの世の果てのかんじがした。先週のGodrevyの岩場の(風ぼうぼうだったにしても)人懐こいかんじからはほど遠く人を凍りつかせてそのまま死滅させる。

雨がひどくなってきたのと帰りの電車(に間に合うバスがつかまるか)が心配だったので引き返すことにしたがウェールズの海おそるべし、って思った。 Dylan Thomasがこんな海を見て育ったのだとしたら、海のように歌った彼の「海」がこれなのだとしたら.. とか。

カーディフに戻って、ロンドンへの便までの20分くらいでアーケードの奥にあったお土産もの屋で羊のぬいぐるみかなんかを買おうと思って走っていったのにもう閉まっていたので悲しかった。

帰りの電車も2時間なので少しうとうとした程度。ディスタンシングでよいのは横に人が座らないことよね。 この日、歩いた距離はたったの8.9マイルで階段も30フロア分だって。 ものたりないんじゃないのか?

ぜったいまた来る。戻る。言うのはいくらでも言って、繰り返しておくとそのうち。

パディントンに降りたったら、あいつがいたの。

4.30.2021

[film] Conte d'été (1996)

4月19日、月曜日の晩、Film ForumのVirtualで見ました。
ロメールの四季の物語をリリース順に見ていくシリーズ。英語題は ”A Summer's Tale”、邦題は『夏物語』。

ロメール作品の中では最も個人的な内容で、若い頃にロメール本人に起こったことを題材にしている、のだそう。なので、ロメールの夏だというのに、主人公は若い男性なの。

物語の展開が日にちと曜日の日めくりで表示されていく。最初は7月17日の月曜日で、そこから8月の6日頃まで(どうでもよいけど、曜日と日付の前後が違ったりしていることがある - そんな時空のおはなし?)

若く物憂げなGaspard (Melvil Poupaud)がギターを抱えてブルターニュの海辺の町に降りたって、自分のではないらしいアパート - 壁にはピカソとOASISの” Definitely Maybe”のポスター - に入ってギターをつま弾いたり、カセットレコーダーに録音したり、そのまま退屈そうに町にでて、パンケーキ屋に入るとそこでウェイトレスをしているMargot (Amanda Langlet)が声をかけてくる。最初は適当に応じているのだが、浜辺でも一緒になって、互いにヒマだし会って一緒に散歩をしたりするようになる。

Gaspardは数学の修士を取ってこの休暇明けにはナントの方に仕事の研修に出る予定で、Margotはおばさんの店でバイトをしながら人類学の博士課程にいる学生で、遠くに想っている考古学者の彼がいて、Gaspardもここで落ち合うはずなのに連絡が行き違ったりでなかなか会えない(たぶん)恋人のLéna (Aurelia Nolin)がいるので、よいかんじになっても日々のお喋り相手から先に進むかんじはない。

やがてふたりで踊りにいった先ですれ違ったMargotの友人Solène (Gwenaëlle Simon) – Margotは彼女いいわよ、って勧める – と道端で会って仲良くなって、そのまま彼女の叔父さんの家に行って、でもはじめからセックスはしないと言われ、こんなふうに情熱的に振り回してくるSolèneからLénaかあたしかどっちか選べ、と強く言われた彼はSolèneを選んで、ふたりで遠出する約束をする。

そしたら突然Léna が現れて、彼女は彼女でGaspardはとっくに自分のものと思っているので、自信たっぷりに彼を誘ってきて、やっぱりSolèneのほうは諦めるか、になって..  こういうのが男女4人の間で高速回転するシーソーみたいにぎったんばったんと展開していく最後の数十分はなんかすごい。

こんなふうにそれぞれにタイプの違う女性たちの間で揺れ動く軟いGaspardの姿を描いて、男と女は友達になれるのか? とか、なんでその人じゃなきゃだめになるのか? とか、理想の恋人とはどういうの? とか、約束っていったいなに? とか、誰が誰にそれを問うているのか、その答えを出すのは誰なのか、とかいろんなのが夏場の潮風とか夕立のように適当に移ろったりこちらに降りかかってきたりする。

それにしても、いくらかつての自分の身に起こったこととはいえ、70代後半のじいさまが作る映画かよこれ、とは思う。よい意味で生々しくて瑞々しすぎるというか、50数年前にしでかしてしまった決断について未だにぐじぐじ引き摺っていたりするものなのか、とか。

「春」が哲学で、「冬」は演劇で、「夏」は音楽、だろうか。Gaspardがカセットに重ねていく自作の歌の他に、Margotと“Valparaiso”を歌うシーンが印象に残る。一緒に歌って歌声を重ねるみたいに恋が叶うのならこんな楽しく簡単なことはない〜、とか。

ぜんぜん思い切れずにうだうだで、人によっては引っ叩きたくなるであろう迷い犬のような主人公をMelvil Poupaudは極めて的確に演じていてすばらしいし、Margotを演じたAmanda Langletさんは『海辺のポーリーヌ』(1983) の海辺に戻ってきて全くブレていないかんじが素敵ったらない。

Gaspardって「夜のガスパール」から来ているのかと思ったら、セギュール伯爵夫人の小説 - “La Fortune de Gaspard” (1866) から来ているのだと。翻訳は出ていないみたいだけど読んでみたい。19世紀の女性が書いた若者のお話なのだとしたら、いろんな観点からおもしろいかも。

いつものロメールのように女性がまんなかにいる設定だったら、Gaspardはうじうじしているだけの情けない端役、として物語の初めの方で彼方にふっとんでしまっていたのではないかしら。


久々にオフィスに行って机の周辺を片付けて箱詰めしたりしていた。書類の積みあがりっぷりときたら壮観で、仕事のやつは目をあわせないように端からシュレッダー行きの大袋にばっさばさぶっこんでさよなら。 美術館とかBFIとかの送付先も会社の方にしていたのでそっちの積みあがりの方もすごくて、BFIからはなぜかDVDが3枚も届いていた(プレイヤーないのに)。ロックダウン直前のTime Out誌のその年(2020年)の夏のお楽しみ特集とか涙なしには目を通せないので、持ち帰ることにした。まったくねえ。

もう4月が終わってしまうって、いいかげんにしてほしい。もう時間が...

4.29.2021

[film] Sisters with Transistors (2020)

4月21日、水曜日の晩にCurzon Home Cinemaで見ました。
英国映画だが、制作にMetrographも噛んでいるようなのであっちで見てもよかったのかも。

まずはタイトルがものすごくかっこいい。そのままバンド名になってもおかしくないかも(もうあるのかも)。
監督はこれが長編デビューとなる女性のLisa Rovner。この人、”Babyteeth”のクレジットでSpecial Thanksされているのだが、なにか関わったのかしら? 

電子音楽というジャンルがなかった第二次世界大戦の頃から独りで電子や電気のあれこれに魅せられて、それぞれのやり方で音楽や電子音響への道を開いていった女性たち10人 - Clara Rockmore, Delia Derbyshire, Daphne Oram, Eliane Radigue, Bebe Barron, Pauline Oliveros, Maryanne Amacher, Wendy Carlos, Suzanne Ciani, Laurie Spiegelのストーリー。

こうして女性がそれなりに活躍してきたのに「歴史」はそれを、というか「歴史」=「男性」が明確に見て見ぬふりをしてきたあれこれを暴くやつ。ドキュメンタリー映画としてはこれまで  “Bombshell: The Hedy Lamarr Story” (2017) のHedy Lamarrとか、”Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché” (2018) のAlice Guy-Blachéとかがあって、電子音楽のジャンルでは、本作品でも登場するDelia Derbyshireさんを取りあげた”Delia Derbyshire: The Myths and Legendary Tapes” (2020) もあった(この作品と一緒に上映してもよいのでは)。この辺のことは予告編のなかでもかっこよく簡潔に語られている。

“Somehow women get forgotten from the history – the history of women has been a history of silence of breaking through the silence – with Beautiful Noise”

というわけで、それぞれの業績や音や音楽について、Laurie Andersonさんをガイド(ナレーション)に、当時の記録映像を繋ぎながら紹介していく。Jean-Michel JarreやKim Gordonのコメントも入るが彼らの登場は声だけ。エンドロールでは既に6名が亡くなられていることがわかるのだが、存命されている場合は彼女たちの現在の姿も少しだけ。

なんでここにきて突出した個人、というよりもトランジスタで音楽を奏でる10人が? というのは、別にいただけできちんと紹介されて来なかった、というのもあるけど、注目すべきのはその同時性の方なの。 誰が一番最初にそれをやったのか、誰が一番革命的だったのか - そういうことではなくて、それぞれが互いのことを全く知らなかったのに、同じ時期に当時出てきた電子技術にそれぞれのやり方で向き合ってDIYで試行錯誤しながら音楽を作っていく、そういうひとりひとりの女性たちが大陸を跨いでこんなにもいた、ということを、その見えないシスターフッドの糸を紹介することには大きな意味があるのではないか。

紹介されたひとり、Pauline Oliverosさんの追求したテーマ“deep listening”や“sonic awareness”が興味深い。“It will effect a great change. Listening is the basis of creativity of culture.”。 聴くこと、「沈黙」も含めて耳を傾けて、そこにあるもの、あったものを、誰も聞いたことがなかった音を拾いあげること、物理的に見えない音や波を増幅してその居場所を与えること、それらのノイズでその場を支配してしまうこと。 このドキュメンタリーのやっているのもそういう活動の続きなのだと。

彼女が50年以上前に書いた文章 - “And Don’t Call Them Lady Composers” (1970) – ぜんぜん古くない。
https://www.nytimes.com/1970/09/13/archives/and-dont-call-them-lady-composers-and-dont-call-them-lady-composers.html

音楽は誰かの耳に入って彼の/彼女の鼓膜を震わせてはじめて音楽になる。歴史もそれに近いところがあって、ここで発掘されて紹介された半世紀以上前の音たちが、シスターたちの活動が、世界中の女性たちのなにかに火をつけて広がっていったらすばらしい。その点でも公開されてほしい。 こういう発掘作業、映画の世界だと”Women Make Film” (2018)があったし、抽象絵画だと一本には纏まっていないけど50年代後半のNYの女性画家のショートとかいろいろあるし。

Delia Derbyshireさんのドキュメンタリーにもあったが、子供の頃の戦争体験 – コベントリーで聞いた空襲警報の音とその後の静寂とか、Eliane Radigueの場合は近所の飛行場の爆音とか、男たちが戦争でいなくなったところで手にすることができたなにか、というのはあったのだろうか。あと彼女たちにほぼ全員にクラシックの素養があって、それなりに裕福な家の出であったり、というあたりも興味深い。

男女の向き不向き、みたいな話をするつもりは全くないのだが、例えばお料理に近いようなところもあったりするのかしら? いちからレシピを作っていくような、つまみを加減して調節して時間を計っていろんな素を放り込んで、生きていくために必要ななにかを作って盛って、それをみんなにサーブして、みたいな。

アーカイブ映像のなかでは、Maryanne Amacherさんの家でわざとらしく耳を塞ぐとっても若いThurston Mooreとか、同様にすごく若いPhilip Glassとか、映像が楽しいところも。

でっかい音をだしてみたくなる。随分鳴らしてないし。

4.28.2021

[film] Clockwatchers (1997)

4月18日、日曜日の晩、MetrographのVirtualで見ました。

コメディアンのJohn Earlyさんの熱狂的なイントロ - 11歳のときにこの映画をレンタルビデオ屋で借りて以来、この映画は自分にとっての”Star Wars”になった云々 – から入る。JillとKarenのSprecher姉妹が脚本を書いて、Jillが監督をしている。日本ではビデオスルーにすらなっていない模様。おもしろいのに。

Iris (Toni Collette)がGlobal Creditうんたらという格付会社(?)に派遣されてきた初日から、受付のところで2時間以上待たされて、聞かれたので事情を告げるとなんで言ってくれなかったの、って軽く怒られて誰か - 産休かなにかで不在 - の机をあてがわれて、タイプするようにって書類の束をどん、て置かれて、このフォームは高いから無駄にしないでね、と言われる。

会社に入った時点からすでにいない人として扱われ、自分ではない人の机に連れてこられ、仕事の指示以前に書類のことを心配される、これが血も涙もない派遣社員(Temp)の世界で、Muzakがオフィスを優雅に流れていくなか、Clockwatchersっていうのは早く終業時間が来ないか、ってトイレに籠って時間を潰したり、時計をじーっと見つめ続ける彼女たちのことをいう。Irisは同じセクションの派遣の同僚であるMargaret (Parker Posey)、Paula (Lisa Kudrow)、Jane (Alanna Ubach)にいろいろ教わったり一緒にランチしたり、文具供給係のおっさんとか郵便係のあんちゃんとか名前を覚えてくれそうにない元締めのおばちゃんとかと日々のどうでもいい – けど彼女たちにとっては決死の攻防を繰り広げていくの。

職場の女性を描いた映画でいうと、セクハラ上司に立ち向かった”9 to 5” (1980)あたりの威勢のよさは微塵もなくて、搾取とかハラスメントとか、そういう用語が入りこむ余地のない契約で職場カーストにおける派遣の位置は厳格に定められていて、それは誰にでも取り替え可能な仕事を取り替え可能な人がただ機械のように事務処理を実行するだけのポジション、としてある。 それは首のない人体がそこにいるようなもん、でしかない。

Irisの少し後に職場に正社員として入ってきたCleo (Helen FitzGerald)との待遇差を見ても明らかで嫌になっちゃうくらいなのだが、雇う側は嫌だったら辞めてくれてぜんぜん構わないから、で来ているのでびくともしないの。地獄じゃないよ、抜けられるでしょ、って軽くいうの。くそったれ。

そのうち職場でいろんなモノがなくなる事件が起こって、まずは派遣の彼女たちが疑われて、監視カメラを付けられたり抜き打ち検査をされたり、ちょっともういいかげんにしろよ、になってきて…

時代的なところは正確にはわかんないけど、80年代の好景気を背景に働き方のひとつのスタイルとして隆盛を極めた「派遣」が当たり前になってきた頃のオフィスの話なので、今とはやや事情が異なるのかもしれないが、この時点でもこういう雇用のあり方はどこをどう見てもおかしいのではないか、というかんじはとってもするしあるし。 特に、不況の皺寄せが一気に襲ってきている(よね?)日本の派遣のケースを見ているとこんなのほんとにただの奴隷じゃないか、って。でも雇用する側にとっては痛くも痒くもないので奴隷制よりも悪質だし。

でもこの映画に登場する4人は(当たり前だけど)キャラクターも適度にばらけて、ひと固まりになっていなくてよいの。絶妙な不機嫌のToni Colletteも、豪快なParker Poseyも、適当なLisa Kudrowも、シリアスになるのでもおちゃらけるのでもなく戯画化される一歩手前で、なめんなよ、って見事なアンサンブルを見せてくれる。

でも1997年て、撮影したのが1996年だったとしても、オフィスには既にメールもネットもあった時代なので、そういう道具がほぼ出てこない - 旧型のデータ入力専用みたいなPCは置いてある - のってどうなのかしら、は少し思った。メールやチャットがあればもっといろんなことができたはず。

派遣とはちょっと違うけど、小さめの会社でいいように酷使されるアシスタントの女性を描いた”The Assistant” (2019)も日本で公開されてほしい。 疲弊しててそんなの見たくないかもしれないけど、そういう世界はあるんだからな、って男どもに。 お仕事ばんざい恋愛ばんざい映画はもういいの。

自分は派遣ではないけど、ずっとClockwatcherだったねえ(今も)、とは思った。仕事は続ければおもしろくなる、って言われたけど、会社も変わったけど、結局仕事きらいなままでずっと来てしまった。職業を選ぶのって大事よね、って今更思ってももうおそい。


お昼に、最後のあがきシリーズで、The Fallの総括本 - “Excavate!: The Wonderful and Frightening World of The Fall”などを買いに久々にRough Trade Eastに行った。店内のレイアウトが変わってて、中古盤が増えてて、帯のついた日本盤がいっぱい壁に貼ってある。中学生でレコード買い始めた頃から帯ってばっかじゃねーの、ってばりばり破って捨ててきたので、帯がついてる中古を見るとふうん、て思う。

Tha Fall本はまだぱらぱら眺めているだけだが、すばらしい。序文でウィリアム・ブレイクとアーサー・マッケンが。