2.21.2026

[theatre] Dance of Death

2月13日、金曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。

ここのところずっとばたばただからかなんなのか、映画をまったく見れていなくて、時間ができると演劇のチケットを取ってしまって、映画館に行けていない。どういうわけでこうなっているのか自分でもあまりよくわからないのだが、ライブでじたばた、というあたりが地続きなので(楽しいの?)はないか、とか。

原作はAugust Strindbergの同名戯曲 – “Dödsdansen”(1901)、脚色と演出はRichard Eyre。昨年9月にこのシアターで見たCharles Danceらが出演した”Creditors”もStrindbergが原作の3人(老人)芝居で、この時も画家Strindbergの絵画がモチーフの色模様で天井などが彩られていて、今回も。でも、舞台の上は古くて陰鬱で雑然としたリビングで、タイプライターや無線の受信機(唯一の外との交信手段)があって、やや重苦しいかんじ。

陸軍大尉Edgar (Will Keen)と彼の妻Alice (Lisa Dillon)がそのリビングに姿を現して、病弱であちこちにガタがきているEdgarとそんな奴の面倒をみるのも面倒っぽいAliceが激しくはないが刺々しい言い争いを繰りひろげていって、その刺々しさがなんだかおかしい。軍人だけどまったく出世できずに、でも軍人なので愚直に制服を着て外に出ていくEdgarと、結婚しなければ女優として成功していたはずというAliceは、互いに本当にあんたなんかいなくなっちゃえ死んじまえ、って全力全霊そう思っているようで、その言いようがストレートすぎて、それぞれ言われれば言われるほどふざけんな、って膨れて力を蓄えてくような、全体としては不条理劇の体裁でこちらに迫ってくる。 映画であればベルイマンあたりが撮りそうな。

時代設定はオリジナルの1900年初からスペイン風邪が流行した1918年頃に変えていて、ふたりの様子を見にきたAliceの従兄弟のKurt (Geoffrey Streatfeild)は最初にマスクをしていたりする。パンデミックで閉じこめられたなかでの夫婦の不和、という話は古い話に聞こえないし、すぐそこにいくらでも転がっている死、という背景がドラマをより生々しいものにしている。

そして、この閉ざされた空間で、憎み合い文句を言いあう彼らの背後に見えてくるのは本当の虚無、というか孤独で、それが第三者であるKurtの登場によってより明確になっていく。あんたなんか死んじまえ、と言ったその先、それが実現された後に、待っているのはどんな世界なのか、そうやって自分はひとりになった時に何が起こってどうなるのか、どうするのか、等々。これらが”Dance of Death”というタイトルのもとで形を作っていく、コレオグラフされていく過程がスリリングで、それを振りつけていくのは誰なのか、等。

一度Kurtが動かなくなって、あ、本当に死んじゃったんだ.. ってなるシーンがあるのだが、その時に見せるAliceの表情や挙動がすごくて、そこで自身の存在の境目(のようなもの)や重みを改めて測って見極めようとしているかのようで、こういうことは確かに起こることかも、って誰もが思わされるに違いないのと、あと、ここで問われているのは愛ではなくて、愛なんてなくて、ではなにがあるのか、と。なにが我々を、どこに向かって動かすことになるのだろうか、と。

 

[theatre] Beautiful Little Fool

2月12日、木曜日の晩、Southwark Playhouse Boroughで見ました。

脚本はMona Mansour、演出はブロードウェイのMichael Greif、ミュージカルで歌詞とスコアをアメリカ人のHannah Corneauが書いて4人編成のバンドがライブでバッキングして、アンサンブルの2人はコーラスも兼ねる。90分間、休憩なし。

舞台は暗い倉庫のようなアーカイブのなかで、ファイルや本や書類が山積みになっている2階建て、そこにScottie (Lauren Ward)がひとりで現れ、父は44歳で亡くなって、母は47歳で亡くなって、今日、48歳の誕生日を迎えるわたしは父母の亡くなった歳を越えてしまった!って嘆いたり叫んだりするとどこからかZelda Fitzgerald (Amy Parker)とF Scott (David Hunter)が蘇って、ふたりの出会いから先を歌って踊って綴っていく。

音楽は当時(1910-20年代)のジャズ等を使うわけではなくて、ずっと極めてプレーンなポップス・ロック調で主にZeldaが中心で歌って、ScottもScottieもソロを取る場面もあるが、やはりメインはZaldaの歌。18歳で地元アラバマのMontgomery Country ClubでScottと出会ってから盛りあがっていく恋、そこにScottの作家としての成功が加わって、奔放かつ最強のパワーカップルが生まれていくところ、やがてScottieが生まれて、ふたりの関係が壊れていって... という史実として知られているところをなぞりつつ、やはり中心は歌いあげるZelda、それを背後で見ているしかなかったScottieの嘆息、ということになるだろうか。

“This Side of Paradise”や”The Beautiful and Damned”といったScottの小説名が曲に織りこまれていたりもするが、文芸ドラマとしてはあくまでも控えめで、Scott自身が歌う場面も何かを訴えたり押しだしたり、という場面は殆どなくて、ふたりの関係の破綻についても、ScottによるZeldaの書いたものの盗用とか、精神病院に送ったり、の虐待に近い史実については十分に掘り下げられていなくて、強いふたりの個性がぶつかった帰結のような – すべてはどうすることもできなかった、なトーンで、真ん中と最後に歌われる”Call It Love”として貫かれていて、それを恋と呼ぶのであれば、そりゃなんでもそうなっちゃうよね、なのだった。

タイトルの”Beautiful Little Fool”はZeldaがScottieを産んだ時に呟いた言葉で、後にScottが” The Great Gatsby”で引用したりしているのだが、すべての女の子に”Beautiful Little Fool”であってほしいと願ったScottとあの時代のアメリカの男たち、それに対する毒なり批評なりが少しはあるかと思ったのだが、結局あのときの愛はほんものだったー 程度で終わってしまっているのはどうにも残念だしおめでたすぎるし、父母の歳を過ぎてしまったScottieも、せっかく資料庫にいるのだから改竄するくらいの勢いで何かを見つけ出して叩きつけてくれてもよいのに、結局思い出に溺れてしんみりしたまま終わってしまう。

ふたりが20年代、欧州で過ごした日々のことは、Gertrude Steinの肖像が舞台の袖に置かれて少しだけ出てくるのだが、『優雅な生活が最高の復讐である』のテーマにフォーカスしてZeldaに思う存分語って歌って暴れてもらう、という構成にした方が内容的にもおもしろくなったのではないか。

3人のアンサンブルは歌も含めて固まっていてうまいし楽しくて、でも個人的にはZeldaを壊して潰したのはScott、くらいに思っているので、このトリオネタでそんな楽しいミュージカルになるわけが… という違和感がずっと残ってしまうのだった。

2.18.2026

[theatre] Chiten Theatre: The Gambler

2月10日、火曜日の晩、Coronet Theatreで見ました。

原作はドストエフスキーの『賭博者』(1866)(亀山郁夫訳)、演出は三浦基、音楽は空間現代、初演は2021年。 90分間休憩なし。
地点の演劇は2017年、英国に渡る直前に早稲田大学大隈記念講堂で『ロミオとジュリエット』を見たのが最初で、それ以来。

舞台の上にはルーレットの上方で(or それ自体がルーレットなのか)LEDネオン付きで回転するがらがら、真ん中に長方形のテーブル(これも回転していく)、床もルーレットの色模様に色分けされている。舞台の左手にギター、左手奥にドラムス、右手にベースが入って、バンドがステージの周囲を固めてカウントして音楽が始まると、それに乗っかるようにして俳優たちがテーブルの各自の位置につくと同時にテーブルが回転を始めて、やはりものすごいテンションと速さで台詞が放たれて英語字幕上に映しだされていく。

ふだん字幕があったら字幕のほうを見る習慣がついているのでつい字幕を見て、ああこれは日本語の劇だった、と思い直すのだが、日本語であったとしてもラップのような強さと切れ目のなさで矢継ぎ早に繰りだされるので、字幕で確認したり補強したり、とにかくせわしない。途切れることのない空間現代の音楽は昔のパチンコ屋の軍艦マーチで、ルーレットの回転に油を注いでいって止まらないしこの輪から逸れることを許さない。依存症をかき混ぜて攪拌してもう一回固めて溶かして、の繰り返し。

とまらない、やめられない、というのがギャンブルに向かう、ギャンブラーの基本的な態度で、完全に中毒で自分で自転車をこぎ続けてしまう家庭教師アレクセイ、彼が恋するポリーナ、彼女の義父のロシア人「将軍」、彼が恋するマドモワゼル・ブランシュ、英国人のミスター・アストリー、フランス人のデ・グリュー、何度も死にかけては蘇る「将軍」の「おばあさま」など、このテーブルの上とか脇にこうしているいろんな人たちも何かの縁で、ギャンブルだって何かの縁に違いないし、って熱狂的に喋りまくり賭けまくる彼らはここでこんなことをしていて幸せなはずで、ひょっとしたら誰かの何かを救っているのかも知れなくて、その欲望のありよう – 絶望~ひょっとしたら~まだまだいけるかも – の循環を反復されるポーズとかフレーズなどで繋いで端から端に叩きつけていく。

ただ近年の日本のお笑いなどで顕著になった(ように思う)、キメのポーズとかそれに合わせた掛け声とか台詞とか、それにみんなの声を重ねたりとか、どこがおもしろいんだかぜんぜんわからない、運動会の幼稚さを思わせるあれらが延々重ねられていくのはちょっと苦痛で、これって海外(あ、こっちが海外だが)の客にはどう見えているのかしら、とか、でもこの子供っぽい集団の熱狂と喧騒こそがギャンブラーを焚きつけて90分間をノンストップで走らせてギャンブラーたらしめる、ということはわかる。

やはりこの装置の外側で、なんでこんなことになっちゃったのか?とか、これらがなくなったらこの人たちは? などはあってもよかったかも – 有り金への言及はあったけど。これだけだと90分のトチ狂ったパフォーマンス(異国の)、にされて「なんかすごいねー」で終わっちゃうだけなのではないか、って。

[theatre] The Constant Wife

2月9日、月曜日の晩、Richmond Theatreで見ました。
Richmondって、ロンドンからは電車で1時間くらいかかるくらい遠くにある場所なのに、Orange Tree Theatreとかこれとか、なんで素敵な劇場があったりするのか?

Royal Shakespeare Companyの制作で昨年Stratford upon AvonのSwan Theatreでプレミアされたのがキャストを替えて英国中のツアーを始めて、それがロンドンに来て、ロンドン公演は一週間だけ、英国ツアーの後は、Queen Mary 2のクルーズに乗りこむんだって。

原作はW. Somerset Maughamの同名戯曲(1926)- 1929年にはアメリカでWilliam Powell主演、”Charming Sinners”のタイトルで映画化されている - 翻案はLaura Wade、演出はTamara Harvey、ジャジーでラウンジ―で素敵な音楽はJamie Cullumのオリジナル。 舞台は淡い幾何学模様の壁紙から淡い照明から風にゆらぐカーテンまで、ものすごくおしゃれな一軒家のリビングで、冒頭に執事Bentley(Philip Rham)が現れて、ピアノをじゃんじゃか鳴らしてからドラマがはじまる。

36才の主婦Constance Middleton (Kara Tointon)は医師のJohn (Tim Delap)と結婚してだいぶ経っても幸せそうで、颯爽と誰の心配もいらないふうに暮らしているように見えて、最初の方の母(Sara Crowe)や妹Martha (Amy Vicary-Smith)とのやりとりもコミカルで揺るぎなくて、将来にわたって何の不安も心配もいらないかんじであることがわかるのだが、そのうち - 気づいていたのかいないのか、親友Marie-Louise(Gloria Onitiri)と夫が不倫関係にあることを知り、家に乗りこんできたMarie-Louiseの夫Mortimer (Jules Brown)がわめきたてたことで、夫の嘘や裏切りが決定的に晒されてみんなお手上げ、になってしまう。

お話しはそれを知ったConstanceの揺らぎ、失望や怒り、あるいはどん底からめらめらの復讐やリカバリ、立ち直りにフォーカスしていくのかと思いきや、ぜんぜんあっさりさばさばとひとりで生きていくためにインテリアデザインの職を身につける - その準備を1年くらいかけて着々と進めて行って、それによって却ってじたばたする周囲の愚かさ、いろんな恥ずかしさが露呈していく、その工程を描いていって、そこにおまけのように献身的な恋人Bernard (Alex Mugnaioni)まで付いてくるので、いろいろご心配頂きありがとうー、って爽やかに旅立っていくConstantなConstanceの肖像を描いてかっこよいったらない。

経済的自立がすべて、誰にもやりこめられない、のようなやり方を貫いてとにかく感情に流されない/訴えない、誰の味方もしない、そういう地点から時間をかけて自分を磨いていくと、結局は周りに誰もいなくなっちゃったり、みたいな人間関係における乾いたシニカルな認識 - 原作者Maughamの時代にはちょっと皮肉に映ったかもしれない女性のありようが、今の時代だったらどんなふうに見えるだろうか、という実験? これが皮肉でもなんでもなく極めてまっとうで健全に見えてしまう、というのは一体どう捉えるべきなのか?

お勉強とか備えとか、そんなのやる余裕すらない、とかその間も一緒に暮らしたりしているんだろうし、実際のところは? とか横から意地悪く突っ込まれそうで、でも少なくともこの舞台のConstanceの態度にはブレとかなくて、あたふたするのは周囲の方で。

とにかくConstanceを演じるKara Tointonの颯爽としたしなやかさが突出していて、彼女が約100年前の舞台の世界にいることが勿体ない、そればっかりだった。

2.17.2026

[log] Amsterdam - Feb 6 - 7

2月6日金曜日から7日土曜日まで、1泊でアムステルダムに行ってきたので、その簡単なメモを。

アムステルダムは前回赴任していた時に2回くらい行っていて、大好きなところなのでいつでも何度でも行きたいのだが、今回の駐在ではまだ行っていなくて、行かなきゃなー、になっていたところで、Eye FilmmuseumでのTilda Swintonさまの展示が終わりそうだったのと、Rijksmuseumで新しい企画展 - “Metamorphoses”が始まったところだったので、このふたつをメインにして。

Anne Frank House

これまでいつ行っても予約いっぱいで入れなかったところなので、やはり見ておかないと、と。

やはり前夜に見た演劇 – “Here There Are Blueberries”のこと、少し前に見た演劇 – “A Grain of Sand”を考えてしまう。Anneがこんな狭い棚の裏側で、家族と共に息を潜めて暮らしていた、その反対側で党の幹部たちはカメラの前であんな笑顔を晒して何も考えない善人のふりをして暮らしていた。そしてエプスタイン・ファイルの醜悪さやガザの件は今、目の前にある。記録はもちろん大事だけど、想像力と、なんのためにこの建物が残されているのか、ということと。

Nijntje Museum

これまでアムステルダムに行くと、少しだけ遠出してMauritshuis(美術館)に行ったりしていたのだが、今回もそのシリーズでユトレヒトのミッフィーミュージアムに行った。ミッフィーは去年の5月に松屋銀座で見たではないか、なのだが、ミュージアムがあるのであれば、そりゃ見にいくよね。

小雨でずっと寒くて暗くて、駅から結構歩いたが、入口に合羽を羽織ったミッフィーがいたのでぜんぶ赦された(バカ)。

館内はミッフィーだけじゃないいろんな動物たちが壁とか物陰に張りついていて、もう少し博物館的に、起源とか書誌とか世界的な広がりとか、あるいはDick Brunaそのひとについて、彼のヴィジョンとかミッフィーに託したものとか、説明があったりするのかと思ったのだが、そんなの一切なくて(あったのかな?)、壁とか階段とか扉の裏とかにいろんなのがいたり空中に光って浮かんでいたりするので、わー、っていちいち小さく叫びながら写真撮ったりしているうちに終わってしまった。

炸裂するcutenessの嵐のなか、ミッフィーとはこういうやつ、いつもこんなふう、というのは十分に伝わってきたし、子供たちはみんな楽しそうに遊んでいたので、(これぞエクスペリエンス? で)これでいいのよね、だった。

ユトレヒト、といえば本屋の町、でもあるので古本屋も含めて何軒か回ってみて、何軒か、でこれならば相当やばいな、って小さく呟いて早々に深入りしないようにした。アムステルダムでも、着いた日にオランダニシンの屋台に行ったら広場で古本市をやってて、雨の金曜日なのになんてことだ? って見ないようにしたのだが、あんなふうにいろんな本が目に入るようになっているのって、素敵ではないか。神保町でもないのに。

Metamorphoses

7日の朝、まだ雨がぱらぱら霧がぼうぼうだったが、行ってあたりまえのRijksmuseum Amsterdamに。
“Metamorphoses” – 『変身』をテーマに内外からクラシックを持ってきた企画展。

ギリシャ神話のオウィディウスの『変身物語』 - レダからナルシスから馴染みの変わり身神話を起源とする、それをテーマにしたり着想を得たりした古今の絵画から彫刻から現代の映像作品まで、ワシントンからMETからNational Galleryから幅広く集めていて、底なしに深くておもしろい。変身、移り身への誘惑、というのは定着させたり固着させたりが主、の彫刻や絵画にとって格好、というか基本中の基本、ひょっとしたら唯一のテーマであって、Bernini, Rodin, Brâncușあたりの彫刻作品のいまにも変身/変態を始めそうな生々しく艶かしいツヤときたら。

カタログの英語版が出るのは3月中旬頃、というのでそんなの待てるか、ってオランダ語版を…

常設展示もざーっと見たが、天気のよくない土曜の朝だからか、フェルメールもレンブラントも、あんながらがらだったの初めてだったかも。

Tilda Swinton – Ongoing

2020年初め、コロナ禍で中断してしまったBFIでのTilda Swintonの特集はあれ以降の自分の俳優観/映画観にものすごい影響を及ぼしていて、そんな彼女の「回顧」 –ではない”Ongoing”展であれば見にいかないわけにはいかない。カタログの方はロンドンでサイン入りのを買った(紙質がすてき)。

カタログの表紙は刈りあげた後ろ頭、この展覧会のメインビジュアルはCasper Sejersenによるチョビ髭、青緑のシャドウでぼけぼけの詐欺師ふうの肖像(2023)で、簡単に正体を明かされてたまるか、という点では一貫している。今回の展示もDerek Jarmanに始まり、Joanna Hogg、Jim Jarmusch、Apichatpong Weerasethakul 、Pedro Almodóvar、Luca Guadagnino、Tim Walkerらによる過去の出演作や写真をプロジェクションしているのはもちろん、一番つきあいの古いJoanna Hoggの作品 “Flat 19, 2025”は、半開きに重ねられた扉や部屋の向こうから声が聞こえてくるインスタレーションだったり、一応彼女が過去の出演作で着た衣装なども並べられているのだが、ぜんぜん所謂「女優」の展示になっていないのがおかしい。演じるということ、配役の人生を生きるということ、他者になるということ、それでも自分は自分であること、という循環を体現し、そこを抜けていくスリルと歓びをずーっと自分の身体に問うて実践してきた人の現在形がこれ、という。

この後はここの常設展示(映写機とか映写の原理とか)を少し見て、フェリーで戻ってから古い教会 - Oude kerkとか、考古学のAllard Pierson Museumなどをまわった。

1泊でじたばたするのはもう慣れつつあって、そんななかホテルのロビーにいたにゃんこが異様にかわいくて、別れが惜しまれるのだった。

[theatre] Here There Are Blueberries

2月5日、木曜日の晩、Theatre Royal Stratford Eastで見ました。

開演前の舞台には宣伝なのかなんなのか、カメラのLeicaのロゴが大きく投影されていて、幕が開くと最初に20世紀初のポータブルカメラの発明〜登場は当時の人々の生活を記録するのにいかに革新的なことだったのかが説明される。

2007年、ワシントンのHolocaust Memorial Museumに一冊の古いフォトアルバムが送られてくる。そこにはアウシュビッツを記録した写真が多く収められていたが、これまでにここに送られて確認されてきた写真たちと大きく異なったのは被写体が収容所の収容者 - ユダヤ人たちのそれではなく、Rudolf Höss, Josef Mengele, Richard Baer, といった収容所の設立や運用に大きく関わっていた大物ナチス幹部や医師の写真、彼らが集まって仕事をしている場面が多く含まれていたことだった。写真の調査を進めていく中で、これらはRichard Baer の右腕だったKarl Höckerによって撮られたものであることがわかってきて、舞台はそこから、20世紀でもっとも凄惨な大量虐殺が行われていた「現場」、そこで働くナチスの幹部やその下の党員たちはどんな日々を過ごし「仕事」をしていたのか、と、このアルバムをホロコーストの被害者たちの実態にフォーカスしてきたMuseumの職員たちはどう扱ったのか、更にこのアルバムの存在がMuseumによって世界に晒された後、現代に生きる幹部の子孫たち & 我々はこれらをどう受けとめるべきなのか、について訴える、というより一緒に考えていく。

写真に写っていたのは仕事をしている彼らだけでなく、パーティーをしたり、余暇を楽しんでいたり、現地で働く女性職員たちは野外で楽しそうにブルーベリーを頬張っていたり - 劇のタイトルはここから - 多くの人は映画- “The Zone of Interest” (2023) -『関心領域』のことを思い浮かべると思う(Martin Amisによる映画の原作は2014年)。彼らは囚人たちを日々大量に虐待したり虐殺したりしながら、現代の我々と同じようにそのプロセスの「効率化」とか「改善」とかに取り組み、仕事と家庭と余暇とをはっきり意識して区別して暮らしていたことが見えてくる。このグロテスクさについて今の我々が云々することは簡単だが、もし我々がここに実際にいたとしたらどうなっていただろうか?

原作はMoisés KaufmanとAmanda Gronichの共同で演出はMoisés Kaufman。アルバムの写真を背後に投影しながら男女8人の俳優達が入れ替わり立ち替わりナチスの当事者たち、Museumの職員、写真の被写体だったナチス党員の子孫たち、などを代わる代わる演じていく。休憩なしの1時間30分。

少しづつ真相を明らかにしていく形式のドキュメンタリーフィルムでも実現可能なことのようにも思うかも、だが、舞台上での役柄を都度変えながら演じる、という方式を取ることで、立場役柄が変わった場合、そこにおいて自分に求められた役割を拒否したり立ち止まって考えたりすることは可能だろうか? という異なる角度からの問いを提起しているようで、これって演劇という形式だから持ち込めた何か、でもあるのかも、と思った。

上演後のパネルでもアーレントの「悪の凡庸さ」を緩用しつつ(アーレントのこの発想の汎用的な解釈には要注意と断りつつ)、これと同じ過去を繰り返さないためには、という角度でのトークが行われていたが、自分の知識の及ばないところで社会のどこかで進行している明らかな悪や加害に加担している可能性について考える、ということが今ほど重い意味を持ってきているのってないかも、と思った。 逃れることのできない何かがあることを明確に意識しつつ、他方で中立でいる、政治的でないままでいることなんてありえないのだ、ということを踏まえつつ、どこまで疑義や抵抗や異議申し立てをできるのか、というー。(政治的な何かから遠ざかろうとする態度や挙動を取れば取るほど、その怪しさが露わになる、いまの日本の気持ち悪さなど)。

2.14.2026

[theatre] High Noon

2月4日、水曜日の晩、Noël Coward Theatreで見ました。

1952年の西部劇映画 – 監督Fred Zinnemann, Gary CooperとGrace Kelly主演による『真昼の決闘』の舞台への翻案。 演出はThea Sharrock。脚本を(なんと)Eric Rothが書いている。

舞台は三方が板張りのサルーンのようになっていて、真ん中の上には丸い針時計があって、最初は10:15くらいを指していて、上演時間1時間40分(休憩なし)の間、出来事はリアルタイムのシーケンシャルで進んでいって(たまに早めたりしている気がしたので時計は手動ではないか)終わりのクライマックスの頃に丁度正午(High Noon)を迎える。

冒頭が保安官Will Kane (Billy Crudup)と敬虔なクエーカー教徒のAmy Fowler (Denise Gough)の結婚式で、みんなが祝福してとても盛りあがるしふたりは愛しあっているようだし、Willは保安官のバッジと銃を置いて、ふたりで安泰平和に生きていこうとしている – ところに、昔Willが牢屋送りにした悪党のFrank Miller (James Doherty)が釈放されて正午の列車で町に戻ってくる、という知らせが入る。

これを受けて悩みながらも再び銃を手にするWillと、もうあっちの暴力の世界には戻らないって約束したよね? と彼を引き留めて、でも彼の決意は固いのでこりゃだめだ、と彼の元から離れようとするAmyと、ここに絡んでくる飲んだくれの副保安官Harvey (Billy Howle)とかメキシコ人実業家の女性Helen (Rosa Salazar)とか、ただ誰も正午に向かって流れていく時間を止めることはできないし、Willの責任感とAmyの宗教に根差した決意を変えることはできなさそうだし。

WillにしてみればAmyは自分がこういう男だとわかっていて結婚したんじゃないのか、だしAmyからすれば、結婚というのはそんなことよりまずは相手を尊重するものではないのか、だし、犬も喰わない平行線で、町の衆にとってはそんなふたりの仲よりも自分たちの身の安全なので、こんな身内でがたがたしている保安官に任せられるのか? になっていく。でも結婚式から決裂まで最初の1時間くらいでこれらのことが立て続けに起こるのって列車が来ちゃうからにせよどうしても浅く薄く見えてしまう。

50年代のGary Cooperも今回のWillも、自分の言葉できちんと説明することが苦手なよう(旧型の男設定)なので、黙って行動に移そうとすると、そこで余計にいろいろ疑われて怪しまれて人を遠ざけてしまって、というよくない循環のなか、人はどうやって向こうからやってくる悪に立ち向かうべきなのか? それってなんのために? ということを問いてくる。

50年代の映画版はマッカーシズムの脅威のなかで作られてその評判もmixedだったように、今回の舞台版が突きつけてくるのは今のあの国の迎合主義や排外主義、だろうか。 どちらも根はおなじで、自分(たち)を守ろうとする過剰な要求(or 自分たちは責められているという被害妄想)が他を排除して暴力の連鎖を生んでいって止まらないやつ。

ここで問われるのは「自分たち」とは誰か、というのと、自分たちが守るべき「町」などは何を意味するのか、ということで、そんなときに流れてきたり登場人物たちが歌ったりするのが、Bruce Springsteenの何曲かで、特に”I’m on Fire”は何回も。構図としてはやや図式的すぎてわかりやすすぎて、でもそれは今だから、というのと、でもこれだけやってもまだなの?(あのバカは)、というのが交互にきてどうしても熱くなれない(よくない - 自分が)。

(これ、日本の家父長制がちがちの漁師町とかでやっても… 気持ち悪いだけか)

ステージ上で最後の銃撃戦をどう描くのか、と思ったら割とシンプルで、あんなもんしかないのかなあ。

でもBilly CrudupとDenise Goughの笑顔と抱き合う姿がとても素敵だったのでよいか。でもそんな笑顔に惚れたんだろうに、つまんない喧嘩はやめなよ、ってどうしてもなるわ。

2.12.2026

[film] The Testament of Ann Lee (2025)

2月8日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。
公開前のプレビューで、上映後に監督Mona Fastvoldと主演Amanda Seyfriedのトークつき。

昨年末にBFIでプレビューされた時は70mmフィルムで上映され、アメリカの各地でも70mmで上映されたりしてて、今回のここのは35mmフィルムでの上映。(撮影は35mmフィルムだったそう)。

監督はパートナーのBrady Corbetと共に”The Brutalist” (2024)の脚本とプロデュースを手掛け(本作の脚本も監督と彼との共同)、音楽のDaniel Blumbergも”The Brutalist”とおなじ。 昨年のヴェネツィアでプレミアされている。

18世紀イギリスで原理主義的なシェーカー運動を立ちあげ、アメリカに渡って宗教的迫害に立ち向かったAnn Leeの像を描いた歴史ドラマ。

冒頭、Ann Lee (Amanda Seyfried)を中心とした女性たちが森のなかで歌って踊っている(振付はCelia Rowlson-Hall)。時折引き攣るような震えを見せる舞いと止まらないハミングと彼女たちの固まった表情からカルト集団のそれを思わせるのだが、この場面はこの後も何度も繰り返され、映画はどうして彼女たちがこうして集って舞うようになったのかまでを描いて、やばいカルトでは? という問いからは距離を置いている。

18世紀のマンチェスターで、Ann Leeは弟のWilliamと綿工場で働いていて、ある晩両親の性行為を目撃してからそれを罪であると思うようになり、近所のクエーカー教徒の夫婦を訪ねたりしていくうち、クエーカー教徒のAbraham (Christopher Abbott)と結婚するが、生まれてきた4人の子を次々と失くして性に対する不信とキリストに対する視座をクエーカー教のそれが確たるものにしていく。

やがてシェーカー教の前身の団体に入った彼女は逮捕・投獄された際に、空中浮遊してイエスの幻影を見た、って周囲に伝えると、彼女こそが待望の救世主だ - “Mother Ann”と呼ばれるようになるのだが、迫害も激しくなってきたので、ニューヨークに渡る。

ニューヨークで弟のWilliam (Lewis Pullman) たちはシェーカー教のコミュニティのための土地を探して北に発って、やがて安息の地を見つけるものの逮捕や迫害の手は止まなくて…

ちょっと間違えたら教団の布教ビデオになってもおかしくない開眼~伝道~受難の道のりが歌と踊りを挟みながら綴られていくのだが、内容は結構暗く血みどろの宗教ホラーすれすれのところを行って、イメージとして一番近いのはやはりLars von Trierのどろどろだろうか。ただ出産のシーンにしても監督とAmandaが相当に力を入れたそうで、男性目線のはいった仰々しく目をそむけたくなるようなそれではなく、ふつうにまっすぐに見ることができるのと、なぜAnn Leeがセックスを否定し男女同等であることをあそこまで訴えたのか、はストーリーのなかで納得できるように作られている。

他方、シェーカー教で有名な家具とか質素な生活などについては描写としてはあるものの、全体の流れのなかではやや浮いていて、シェーカー教とは、を伝える映画ではないのでしょうがないのだろうが、ちょっと詰め込みすぎてしまったのかも。バイオレントで血みどろで、でも聖なるかんじは残る、不思議な…

Martin Scorseseの”Silence” (2016) にあったような信仰のありようを示す、というよりひとりの女性がどうやって信仰を自分のものにしていったのか、を描いて、その角度からだとその混乱ぶりもなんとなくわかる気がした。 


The Testament of Ann Lee with Daniel Blumberg & special guests

この日の晩20:00から、BarbicanのMilton Court Concert Hallでコンサートがあった。

“The Testament of Ann Lee”の映画音楽を作曲したDaniel Blumbergと映画でも歌っていたAmanda Seyfriedと6人の楽隊が演奏する。映画内の音楽はフルコーラスのフルオーケストラ仕様だったので、全部ではなく抜粋しての1時間くらいの会だったが、とてもスリリングでおもしろかった。

Amanda Seyfriedさんはこの日、↑のCurzonでのトークの後に、Barbican Cinemaでもトークをしていて、最後にこのライブ、大変だねえ。

バックはパーカッション1名、弦2名と、voice - コーラスではなく、ヴォイスや息を吹きかけたりする男女3名。左端に座ってエレキギターとハーモニカを下げたDaniel Blumbergと、やはり座ってマイクをもったAmanda Seyfried。

そもそもDaniel Blumbergって、ダルストンのCaféOTOの常連で、イメージでいうと吉祥寺のStar Pine's Caféで細々やっていた人がいきなりオスカーを獲ってびっくり、みたいなかんじだったのだが、今回のメンバーで中央に座るMaggie NicolsとPhil MintonもCafé OTO系 - Lindsay Cooperの楽団にいた筋金入りの前衛ジャズシーンの人たちで、そこにAmanda Seyfriedの歌がどんなふうに絡むのか。

AmandaについてはLate Showでダルシマーを弾きながらJoni Mitchelの”California”を歌うビデオが拡散されていたので知っている人も多いと思うが、ものすごく安定していて巧いので心配いらない。

音楽としてはパーカッションのからころちゃかぽこ、にきりきりさーさーした弦が絡み、そこにけったいで素っ頓狂な声とか息とか(巻上さんふう)が振りまかれ – 少しだけ「太陽と戦慄」ふうの土台の上に、Arto Lindsayふうアヒルギターが乗っかって、そこにとても艶のある、アメリカンポップスど真ん中のようなAmandaの歌が。 といういくら聴いても飽きないやつで、映画で流れていたのとはぜんぜん違うのでそれでよいのか、はあるかもだけど、あっという間に終わってしまったのが残念だったねえ。

前世紀だったらスタジオ200でやっていたようなやつ。
Hans Zimmerとかのコンサートよか断然おもしろいと思うよ。

2.11.2026

[film] It's Never Over, Jeff Buckley (2025)

2月2日、月曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。

本公開前のプレビューで、上映後に監督のAmy Bergとのトークがあった。Executive Producerには(またか、の)Brad Pitt。昨年のサンダンスでプレミアされている。

Jeff Buckleyのドキュメンタリーは数年前にも見た気がしていて、もういいんじゃないか、だったのだが – “It’s Never Over” – って10年をかけてバックリー財団(財団なんだ.. )から権利を取得して、そこから5年を制作に費やしたいうので決定版と呼べるもの、なのだろう。

17歳で彼を産んだ母のMary Guibert、彼が生まれて6ヶ月で家を出て行った父Tim Buckleyのことから入ってかつて恋人だったRebecca MooreとJoan Wasserからは、アーティストの彼が恋人としてどんなだったかを聞く。音楽的影響の紹介ではJudy Garland, Led Zeppelin, Nina Simone, Nusrat Fateh Ali Khanなどがあり、ミュージシャンとしてBen Harper, Aimee Mannなどがコメントをして、そして友人でもあったChris Cornellとの交流も。

アーカイブ映像も多くあって、特に彼が初期の活動拠点としていたカフェ - Sin-é時代の様子がどんなだったかがわかるのはうれしい。

彼の音楽、特にあのヴォーカルについては、聴いてふつうに驚嘆するしかなくて、今も何度聴いてもそうなると思うのだが、映画では映像として繋いでいくだけのこれらについて、なぜああいうちょっと歪な楽曲構成と展開になったのか、など解析したり批評したり、はほぼない。彼の声の特殊さ - どこまでも伸びてしなる - が必然としてもたらしたであろう音楽の肌理や特性について成り立ちも含めて知りたいのに。 ここにGary Lucasが出てこない、というのが全てを説明している気がする。

なので、映画は女性 - 母と恋人たちから見たJeff Buckleyがメインで、アーティストとしての彼ってどう? もあくまで彼女たちの目でのそれ、になっている。90年代中期以降、ポストグランジで顕在化したように思える、マッチョではなくフェミニンで、あたしが傍にいないとただのゴミになってしまう(と思いこませる)彼 – の典型を見るようで、これはこれで興味深かった。(ダメンズが汎用的な臭気を放つようになったのってこの頃から?) でもやはり、彼女たちがどれだけ彼を愛していたか、わたしにとってのJeff、を語れば語るほど、ちょっと引いてしまうのだった。彼がすばらしい人であったことは十分わかっているからー。

彼のライブは2回見ていて、初回は”Grace”のツアーの後半、ブルックリンのそんな大きくないライブハウスで、最後にAlex Chiltonの”Kangaroo”とかをやってぐじゃぐじゃのジャンク猿になっていった。2回目がこの映画の中でもPaul McCartneyがバックステージに来た!って紹介されているRoselandでの”Grace” Bandの最後のライブで、でも彼はメインアクトではなくJuliana Hatfieldの前座だった(当時のJulianaHは無敵だったの)。この時、バンドとしてのお別れを告げてから"Hallelujah"をやって、それがそのままThe Smithsの”I Know It’s Over”に繋がれて、みんながぼうぼうに泣いてて、後ろを振り返ったら生のPaul McCartneyが座っていたのでなんだこれ? ってなった。自分はこの時のライブのありえないかんじの衝撃をいまだに引き摺っているのかも。

映画のなかではChris Cornellとの話が興味深かった。競演していたらどんなにかすごい声の連なりを聴けたのだろう。

あと、上映後のトークで出てきたElizabeth Fraserとのデュオ – “All Flowers in Time Bend Towards The Sun” (1995-96) - YouTubeで見れるけど、これはどうしても使用に許可が下りなかったのだそう。

[theatre] Into the Woods

1月29日、木曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。

音楽Stephen Sondheim、脚本James Lapineによるグリム童話のマッシュアップ・ミュージカルで、初演は1986年、2014年にはRob Marshallによって映画化されている(もちろんDisneyで)。

演出はJordan Fein。 ビジュアルはずきんを被った赤ずきんが暗闇のなかに浮かびあがっている像で、これだけだとホラー映画のように見える。

上演前の舞台には黒幕が掛かっていて、それが開くとでっかい木 - 背後は深そうな森の闇、そこに普通の会社員みたいな語り部のおじさん(Michael Gould)が現れて何かを語ろうとするが、次々と現れては消える魔物 – というより変な人たち、そしてどこからか流れてきて全員がそのメロディに飲みこまれてしまう歌に圧倒されて、魅せられているうちに、森の奥に迷いこんでしまう。

パン屋(Jamie Parker)とその妻(Katie Brayben)が父親の罪によって掛けられた呪いを解くためにシンデレラの靴、ラプンツェルの金髪、赤ずきん(Gracie McGonigal)のコート、そして豆の木Jack (Jo Foster)が大切にしていた乳白色の牛 - Milky Whiteなどを集めなければいけないのだが、みんなそれぞれいろいろ抱えて這いずりまわっているので、誰かが何かをしようとすればするほど、いろんなのが出てきて事態は錯綜し、混沌は深まっていく、そんな森のなかへようこそ。

グリム童話の世界の根底を流れている家父長制や伝統的な魔女魔物に対する無意識の恐怖とか放擲とか服従とか敵意とか、最終的には自身の運命を受けいれることを呪いとして表にだして歌にして茶化したり、森の表面(表舞台)の反対側 - 森の奥の暗闇で行われていることを示さずに、そこを抜けてきた連中がどんなやつらか – 現れるのみんなほぼ変態だったり– を示して楽しい。

キャラクターとしてはお馴染みのばかりなので、善いやつ悪いやつくらいはわかるのだが、お伽噺の線が入り混じって錯綜していくなか、単純な善い悪いなんて言えなくなって、Wolf (Oliver Savile)もWitch (Kate Fleetwood)も、誰もがいろんな事情や悩みや呪いを抱えて森を抜けてきていることが見えてくる。なんでこうなっちゃうんだろう、って頭を抱えて考え始めた個が、そうやってばらばらになった”I”が”We”になることに気づいた時、そこには歌があることを知った時、など。

あれだけのキャラクターをわらわら裏に表に出してかき混ぜて、その呟きをSondheimの歌が拾いあげて、ひとつの幹とか森に撚りあげていく、そのプロセスの複雑さを思うと森のなかで方向感覚を失ったようにくらくらするが、楽しい歌と音楽はとにかくそこにあって、重ねられていくことでひとつの森を形成しようとするかのよう。Sondheimの魔法っていうのはこれかー、って初めてわかったような(おそい)。

人を悪い方に変えてしまう象徴的な筺としての森に、存在そのものが象徴として継がれてきた御伽噺の主人公たちをくぐらせてみると、どんな変態が生まれて何を歌い出したりするのか、というびっくり箱の仕掛けというか。

キャストのアンサンブルも見事で、パン屋夫妻はもちろん、Jackを演じたJo Foster (they/them)、赤ずきんのGracie McGonigalの輪郭の強さが印象に残った。あと、Jackが抱えていたMilky Whiteのぬいぐるみが異様にかわいくてとても欲しくなった。なんで売店で売ってくれないのだろう…

映画版も公開時に見たけど、個々のキャラクターとストーリーラインを正直に追っていくので、今回のような森の奥の闇の恐ろしさ、脅威を見せつける、そういう迫力はなかったような。

あと、このシアターはものすごく音がよいのだが、今回は森の奥で響く轟音が雷鳴のようにすさまじく、客席で飛びあがっている人が結構いた。

近い将来、改変版で誰かがトトロを加えたりしないかしら?(ヒトじゃないとだめか..)
でもこの劇の森とトトロの森はちがうよね。

2.10.2026

[theatre] Dublin Gothic

1月31日、土曜日の晩、Abbey Theatreで見ました。

Abbey Theatreは1904年に建てられた(火災で1951に再建)アイルランドの国宝で、William Butler YeatsやSeán O'Caseyが設立に関わってアイルランドの文学復興運動にも貢献した場所、なのだがシアターとしてはものすごくシンプルであっさりしている。バルコニーもドレスサークルもなく、だんだんの傾斜があるだけ。でもおそらくこのサイズでのこの傾斜がものすごく見やすい、没入できる空間を作っているのだと思った。ロンドンのNational Theatreもこのサイズのがあったらなー、とか。

原作はこれが劇作デビューとなるBarbara Berginの同名戯曲(2025)。演出はCaroline Byrne。上演時間は2回の休憩を挟んで3時間半。

舞台は、三階建てのビルの断面のような、朽ちたビルの骨格だけが露わになったような構造になっていて、1830年からの約150年に渡る複数の家族の歴史を描いていくなか、その内装は時代や場面によって変わっていくが、120のキャラクターを次々に演じ分けていく19人の俳優たちは着替えで出たり入ったりする以外は、だいたいこの3層のどこかにいる。上の階での動きは(寝ていたり)少なくて下に行けば行くほど出入りは激しくなる。舞台手前の土があるところ – 地上層には、シャベルが5本くらい無造作に突きたてられている。

時代は1830年から1910年までが第一部、1910年から1950年までの戦争期が第二部、1950年から1980年までが第三部で、そこにおける負けっぱなし(Loser)の家族の歴史が、貧困、地主、階層、移民、宗教、性労働、エイズ、家父長制などの角度からショートコントのように忙しないやり取りで、やられて下に落ちたり転がったり泣いて泣かれてどこかに消えていく様が次から次に世代を伝って連鎖するように繋がれていく。”Loser”の主は、地主から虐げられる小作人からはじまり、弱いものはずっと弱いまま、ストライキや暴動、さらには独立戦争~2つの大戦を経て、その容赦ない虐めの連なりの行きつく先は常に末端の(末端と見られている)力のない女性たちで、そんなことになっても彼らとしては立ちあがって生きていくしかない。たくましい女性たちも当然出てくるが彼女たちもずっといるわけではなく、いつの間にか背後の闇に消えていく。

休憩時間には幕に出てきた家族の家系図が投影されて、最初の休憩では3世代3家族だったのが、次の休憩では確か5世代4家族になっていたり。でもそれでああそうか、ってなるところは少ない。

あまりに登場人物が多すぎて慌しく錯綜しつつ転がっていって、演じる方も大変だろうが見る方もあっぷあっぷで、とにかく各階/層で何かが起こって、誰かが殴られたり泣いたり落ちたり死んだりしていて、それらのシルエットを追っていくのが精一杯で、そこには常に地を這っていくような死や退廃のイメージがあった、という意味での”Gothic”であれば、それはそうなのだろうが、もうちょっと落ち着いて像を焼きつけられるようにしても、とか。

路地を抜けても抜けてもずっと果てなく続いていく出口なしのごじゃごじゃ、という点で、例えばLondon Gothicとはどう違うのか? Londonだと、もっと足元がきつく縛られていて身動きが取れずに埋められていく気がする。Dublinは勝手に動けてしまう分、後からのダメージとか踏み外しとか破滅がよりはっきり出て、でもなんかめげない(気がする)。


そして今はあの国がしみじみ嫌だ。あんなところに戻りたくない。

2.09.2026

[log] Dublin - Jan 31 - Feb 1

1月31日〜2月1日の一泊でアイルランドのダブリンに行ってきたので簡単なメモを。

アイルランドは2度目で、最初に行ったのは90年代の真ん中くらいだったので、ほぼ30年前 … になる。
前回はNYに住んでいた時だったので西のシャノン空港から入ってゴールウェイとかをぐるりと回って、ダブリンは終わりに1泊しただけで、ばたばた走り回って終わって、雨の夜のダブリンの湿ったイメージだけ残っている。

最近はいろいろふてくされていて、寝る前に転がってあーつまんねーなどっか行きたいなー、って演劇のチケットを取ったりする(とてもよくない)のだが、そうしている時にダブリンのAbbey Theatreでの”Dublin Gothic”が目にとまり、でも1/31が最終日だった。 チケットとか取れるのかしら? って見たらちょうどよさそうなところがひとつ空いている。 でもまあ飛行機だって取らないといかんしな、ってBAに行ってみたらぜんぜん高くなかったりして … このところの遠出はすべてがこの調子でなんか仕掛けられているとしか思えない(だとしても引っ掛かる方がバカ)。

もういっこよくないのは帰国まであと2ヶ月のお買い物モードになっていること。こういうときふつうの大人の会社員は靴とかスーツとかを買いに走るようなのだが、そんなの買うかボケ、で本とかの方に向かう。前回の帰国時はコロナ禍だったのでお店はほぼ開いておらずオンラインで買うしかなくて、そうすると古本は遠ざかってしまう(状態とかちゃんと見れないから)のだが、今回はそれがない。ヨーロッパじゅうの古本屋がばさばさ扉をひろげて呼んでいる(バカ)。

National Gallery of Ireland

ホテルに着いたのが8:30くらい、荷物だけ預けて町に出ると小雨がぱらばらだったがこんなのロンドンと変わらないので気にしない。ここは9:30には開いていた。

Picasso: From the Studio

パリのピカソ美術館の貸出が多かったように見えたが、ピカソが世界各地のスタジオで制作した絵画、彫刻、陶器などを時代別、場所別に並べていて、それだけでこれだけ楽しいものができてしまう不思議。外でライブで描いたものとスタジオに篭って描いたもの、という違いでは勿論なく、テーマが静物や子供といったインドアを向いている、というだけで、場所や土地や風土を超越した何かが見えるわけではないので、企画展としてはやや弱いかも。なのだが個々の作品は見ていておもしろいからー。いまTate Modernでやっている”Theatre Picasso”もこれと同じ視座に立ったものかも。

これ以外はNational Galleryなのですべて無料で、数点あったBonnardも1点しかなかったMorisotもよいし、WB. Yeatsの弟のJack B. Yeatsの作品をいくつか見れたのもよかった。

MoLI – Museum of Literature Ireland

アイルランド文学博物館、か。貴重な文献や史料類を網羅する、というより沢山のパネルと文字情報でアイルランドの文学者の像を多角で示す。知らない人も沢山。一番上の階にあった『ユリシーズ 』の初版、Copy No 1の威圧感がすごかった。

文学関係だとOscar Wildeの家と、『ユリシーズ 』に出てくる薬局Sweny's Pharmacy - もはや何を売っている? お店なのかすらわからないごちゃごちゃでカウンターの向こうで店主らしき人がガイドをしていた。

今回の探訪の目的には帰国前お買い物もあったので、古書店を含めて本屋を結構まわった。その中ではUlysses Rare Booksが圧倒的にやばかったかも。ここなら30分で1000万くらいかんたんに使うことができる、というくらいの質と量で、欲しいのありすぎて決められず、1時間くらい悩んでなんとか1冊選んで、日曜日は休みなので夕方にもう一回きた。天気は寒くて降ったり止んだりのぐだぐだで、それ以上に本屋にやられたかも。

この日の昼はThe Winding Stairっていう本屋の2階のレストランでかなりちゃんとしたスコッチエッグとサンドイッチを食べて、お腹がすかない状態でそのまま演劇を見て終わった。

翌2月1日は定番の(前回来た時にも行った)The Book of KellsとLong Library(改装中で半分も埋まっていない)を見て、Christ Church CathedralとSt Patrick's Cathedralを見て終わった。The Book of KellsはThe Book of Kells “Experience”となっていて、最近多い気がする“Experience”系のってどうなのか、って改めて思った。まず“Experience” 「経験」の定義が曖昧でうまく主体のすり替え(ただのコンテンツ消費を自分のかけがえのない「経験」と思いこませる )があり → ぼったくり → 後になんも残らず、なんだろうなー、等。

お昼はやはり『ユリシーズ 』にでてきたパブ - Davy Byrnesで、ゴルゴンゾーラのサンドイッチとブルゴーニュ - じゃないピノ・ノワール(原作ではブルゴーニュ)を戴いて、ワインはグラス半分も無理だったが、こういうのかー、って。

前回のNY → Dublinより、当たり前かもだけど今回のLondon → Dublinの方が、段差がなくてスムーズに見て回れてよくて、よいどころかすごく素敵で改めて好きになって、また来たくなった。初夏のビューティフルな季節に来たらいちころだろうな、とか、テムズ川もリフィー川くらいの幅ならよかったのにな、とか。

2.05.2026

[film] The History of Sound (2025)

1月30日、金曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。

監督は”Living” (2022)のOliver Hermanus、原作はBen Shattuckのふたつの短編を束ねて、彼自身が脚本を書いている。昨年のカンヌでプレミアされた。

ケンタッキーのLionel (Paul Mescal)が子供の頃、森のなかで音楽を色彩や味覚のように捉える能力について語られ、父親の歌うフォークソングに耳を澄ますシーンから入って、1917年、大きくなってニューイングランド音楽院に入った彼は、サロンでピアノをぽろぽろ弾いているDavid (Josh O’Connor)を出会い、自分の知っている曲だったので彼のピアノに合わせて歌うと、ふたりはそのまま恋におちる。

裕福な家に生まれ、でも先行きの不透明さに塞ぎこんでいつも孤独に見えるDavidは第一次大戦に従軍すべく軍服を着て出て行って、戦後、何もなかったようにひょっこり戻ってきて大学に就職すると、Lionelを誘って蝋管の装置一式を担いで、メイン州の田舎を歩き、いろんな階層の家庭で伝わってきた、歌われてきた、フォークソング –“Ballad Line”でも歌い継がれていたような - を録音してまわるようになる。なぜ、どうしてそんなことを始めたのかの説明はないが、歌ったりしている村人の家や軒先に装置をセットして、指示をだして歌ってもらい、終わるとまた野道を歩いて野宿して、星空の下で抱きあう。

やがて大学に戻るDavidとヨーロッパに出たいLionelは再び別の道を歩むことになり、Lionelが何通かDavidに宛てた手紙には返事もなくて、ローマで声楽家として成功したLionelはオックスフォードに渡って、裕福な社交家の娘の家に招かれて結婚手前まで行くのだが、母が病で倒れたことを聞いてアメリカに戻る。

アメリカに戻ってみると母はもう亡くなっていた - 廃墟のようになった実家に佇んでいるうちにDavidにたまらなく会いたくなって、彼の勤めていた大学に行くと、彼は…

第一次大戦前後の、アメリカを含めて世界が大きく変わろうとしていた時に、古くから継がれてきた先祖らの歌、音に向きあったふたりの若者は、その音を通してなのか歴史を通してなのか、どうして、どんなふうに互いを求めあわなければならなかったのか。

蝋管に刻まれた音、そこに封じ込められた歌をふたりがじっと見つめるシーンはあるのだが、彼らにとっての音 – フォークソングがどんな意味や重みをもって、なんで迫ってくるのか、歌うことを仕事にしたLionelにとって、冒頭にあった音と色、模様などのありようとの関わりは? などがほぼ説明されないので、あまり迫ってこなかったかも。

Paul Mescalが”All of Us Strangers” (2023)で見せたAndrew Scottとの間に瞬いていたもの、あるいはJosh O’Connorが”God's Own Country” (2017)で見せたAlec Secăreanuとの間の猛々しい情欲、どちらもイギリスのぱっとしない男の足下で瞬く火花のような恋で、とても納得できる強さと濃さをもったものだったのだが、今作にはそれ – 激しく求めあって狂った犬のようになる – がなくて、とても端正でおとなしくて、ふたりの立ち姿とか画面は美しいのだが、はっきりと弱いかも。狂ったふたりがどんな演技を見せるのか、知っているだけにもったいない、しかない。

誰もが思ったであろうが、次の組合せはJosh O’ConnorとAndrew Scottになる。なってほしい。

しかしPaul Mescal、”Gladiator II” (2024)から”Hamnet”(2025)からこれ、ってもうモダンでノーマルなNormal Peopleには戻れないよね。

[theatre] Ballad Lines

1月26日、月曜日の晩、Southwark Playhouse Elephant (Elephant and Castleにあるから)で見ました。

“A Folk Musical”とあって、コンポーザーはFinn Anderson、演出はTania Azevedo。
タイトルは声に出すと”Blood Line”と読めなくもなくて、ポスターはそれに沿うかのように草や紐やワイヤーをわし摑みする拳で、ちょっと熱い。

7人の女優(シンガー)と1人の男優、バンドは3人(+裏にドラムスがひとり)、全員が手を打ち足を踏み鳴らしたりしながら歌って踊るが、West Endのミュージカルに見られる華々しく弾けて元気いっぱいのショーの要素はそんなにない。微細なハーモニーを重ねて響かせ聴かせるのに注力しているような。

カナダから連なるアパラチア山脈の南側、ウエストバージニア州、バージニア州、ケンタッキー州、テネシー州、ノースカロライナ州に移住してきたスコットランド系アイルランド人(スコッツ=アイリッシュ - アルスター系移民)の間で歌い継がれてきた音楽 – カントリーミュージックの原型になったと言われる – についてのお話し、というかその歌の背後にはどんな(女性たちの)ドラマがあったのか。

現代のNYに住むSarah (Frances McNamee)とAlix(Sydney Sainté)のカップルのところに、死に瀕したSarahの叔母Betty (Rebecca Trehearn) から箱が送られてきて、こんなのいらなんだけどどうしよう、と言いながら箱に入っていたカセットテープをかけてみると、Bettyと一緒に歌っている子供の頃のSarahの声、Bettyを経由して彼女の先祖たちの声が聞こえてくる。

17世紀初のスコットランドで牧師の妻Cait (Kirsty Findlay) は出産を望んでいなくて、そこから5世代を経た18世紀初、アイルランドのアルスターに渡っている15歳のJean (Yma Tresvalles) は子供が欲しくて逃げるようにNYに渡ろうとしている。そしていまの時代の、SarahはAlixとの間の子供が欲しくなって、Alixと一緒に病院に行って検査を受けよう、と誘っている。

いろんな事情だったりやむにやまれぬを抱えて、海を渡って国を越えて生きながらえてきたSarahの先祖 - スコッツ=アイリッシュの民、そのなかで、彼らが海を渡った背景には男女、家族、集落、それぞれの理由や事情があったはずだが、ここでは女性の、おそらく産む(産まない)自由なんて、家を出ていく自由なんてなかった、そんなふうに掟のような何かに縛られなければならなかった彼女たちの声にフォーカスして、それが歌として、複数の声として立ちあがって、最初はひとりぼっちだった鼻歌がみんなの歌に撚りあげられていく様をダイナミックに描く。

なぜ女性なのか - 彼女たちの声が正しくとりあげられ振り返られてきたとは思えないから、だし、それは歴史の捉え方も含めて今も我々の認識の底に無意識にあるように思えるから、だし、でもなにより、彼女たちの歌は美しくて正しいからだ、それなのになんで? という螺旋の問いのなかに閉じこめて、その同じ歌がそれを開け放ってくれたりする。

歌はそんなに(自分のイメージする)フォークのかんじはなくて、ところどころメジャーなスケールで聞こえて声の重なりとか感動をもたらしてくれたりもするのだが、そう来れば来るほど、現代のSarahたちとのギャップがやや気になった。Sarahのような同性婚で精子提供を受けるようなケースがぶち当たる壁、悩みや逡巡と、彼女の先祖たちの受難の話って、同じバラッドのなかで歌ってしまってよいものだろうか - どちらも痛みを伴う選択であるとしても - とか。

今公開中の映画 - “The History of Sound” (2025)も昔の歌に耳を傾ける、というのがテーマになっていたが、これってどういうことか、を少し考える。

2.03.2026

[theatre] Guess How Much I Love You?

1月24日、土曜日のマチネをRoyal Court Theatreで見ました。
同シアターの70周年を迎えるシリーズのオープニングを飾る作品。

インスタで流れてきた予告だと、男女のどたばたコメディのように見えたのだが、とても重いテーマを扱っていることをシアターに入ってから知る。場内にはContent Guidance and Warningsの張り紙がある。 確かに人によっては重いテーマかも。

原作は(俳優でもある)Luke Norris、演出はJeremy Herrin、1時間35分(休憩なし)のShe (Rosie Sheehy)とHe (Robert Aramayo)によるほぼふたり芝居。

最初は妊娠20週目の超音波検査にやってきた夫婦の会話で、ふたりはおそらく日々の会話そのままのノリで、生まれてくる子の名前について、候補を並べつつ冗談を言ったり小突きあったりしながら結果を待っている。彼はおしゃべりで陽気で、放っておくといくらでも喋っているようなタイプで、彼女はそんな彼を巧みに統御しつつ時折感情を爆発させて黙らせる、そういうパワーを持っている。 いつもそうなのであろうふたりの会話のテンポは卓球のように速く緩急自在で、喧嘩のように声を荒げることはあっても、いつもこんなだから、っていう安定感のようなものが軸にある、そんなふたり。

全体は6つのシーンから構成されていて、最初の病室からふたりだけの寝室まで、シーンごとに中の建付けはがらりと変わるが、暗いなか、その暗転と共にふたりの姿だけ、その思いだけがぽつんと浮かびあがるようなデザインになっている。

ネタバレにならざるを得ないが、テーマは若いカップルが経験する彼らの子の(思いもしなかった)死産と、その悲しみ辛さがどんなふうにやってきて、それをふたりは、ふたりでどう乗り越えるのか、等。 まったくの偶然だけど前日の晩が”I Do”という結婚式当日のドラマだったのと、この日の夕方に見た映画 - ”The Chronology of Water”にもそういうシーンが出てきたので、なんなんだこれは… に少しだけなった。

子を失った悲しみ、その表し方は男女それぞれで当然違う。それぞれがあなたには/君にはわからないだろうけど、と言いながら互いと自分の両方に向かって感情を爆発させて、どれだけ爆発させても相手に響くことはない。彼女は、これはわたしの身体のこと、このおなかで起こったことだ、前と後で自分の体は変わってしまったんだわかるか? といい、そんなのわかるわけないけど、こっちだって辛いに決まってるだろ、って命懸けの口喧嘩、みたいになって、どっちも折れない。折れたところでどうなるものでもないし、どう収拾をつけるのか、つくようなものなのかもわからない。けど、それをぶつけることができる相手は目の前の彼と彼女しかいない。

当然ながら、カップルによってその痛みの重さ、受けとめ方から立ち直りまで、それぞれだと思うものの、この舞台で描かれたふたりについては、思ってもいなかった事態に向きあい、押し寄せる怒涛の悲しみと混乱を引き受けつつもふたりの受けた痛みの重さ、その総量をダイレクトにぶつけ合い、ぶつけあうことで互いを確かめていく(しかない)過程がむき出しで生々しく描かれていて、辛いけど目を離せなかった。

どちらが正しいとか、どちらが勝つとか負けるとか、そういう話ではなく、でもぶつかって吐き出さないことには次に進めない、そんな話をシーンごとに少しずつトーンを変えて解していく。

最後、どうやって終わるのだろう、って思ったが、そうかー って。 改めてタイトルを振りかえるの。

[film] H is for Hawk (2025)

1月24日、土曜日の晩、”The Chronology of Water” (2025)を見た後にCurzon Mayfairで見ました(21:00の回、ちょっと疲れた)。

昨年のLFFでも上映されていた一本で、ドキュメンタリーではないが、実話ベースのお話し。
監督はPhilippa Lowthorpe、原作はSamuel Johnson Prize等を受賞したHelen MacDonaldの同名メモワール(2014)、脚本はEmma Donoghueと監督の共同。

”The Chronology of Water”も女性のメモワールが原作だったが、ずいぶんちがう。”The Chronology…”は父親の虐待から始まる話で、こちらは父親の突然の死から始まっている。

冒頭、Hawk(タカ)の全身/部分がクローズアップで映しだされて、そのトトロみたいに丸っこい体とその曲線とか羽根のふわふわとか、なに考えているかわからない目とか、ここだけでいいや、になる。猛禽類好きは必見。(自分はそうでもなかったが、見たら好きになった)

2007年、Helen (Claire Foy)はケンブリッジで科学史を専攻するリサーチ・フェローで、ベルリンでの招聘研究に向けた準備をしようとしていたところで、報道写真家で、大好きだった父Alisdair Macdonald (Brendan Gleeson)を突然失い、喪失状態の中、突然彼女はGoshawk(オオタカ)を飼いたい、と思い立ち、友人をつたって手に入れて、Mabel、と名付けて飼い始める。

もちろん最初はおっかなびっくりで簡単にいかなくて、食事を食べてくれないし、手に乗せてもばたばた羽ばたいて大騒ぎになるし、でも互いにだんだん近付いていって、そうなっていくのに合わせてHelenは外に出なくなり人と会わなくなっていく。それがMabelの世話によるものなのか、父の不在が改めてのしかかってきたのか、明確には語られない。ただMabelの獰猛な – でも繋がれたままの野性がHelenのどんよりとした日々に影響を与えたことはわかる。

MableがふつうにHelenの手からお肉を食べるようになると、HelenはMabelと一緒に外に出て、短い距離を飛ばして戻ってこさせたり、野に放って野ウサギやキジを捕まえたり、をするようになる。そんなふうに野生を取り戻していくMabelと、掃除もしない部屋に籠って居留守をつかうようになっていく - これも野生がもたらすなにか? - Helenのコントラスト。

鷹を抱えてキャンパスを歩くHelenに、それはEagle(ワシ)かHawk(タカ)か? って聞く人がいて、それに対して、ふたつは犬と猫くらいちがうんだよ、って返すシーンがあって、そうか犬と猫なのかー。トラとライオンくらいかと思っていたけど、随分違うのね。でもなんでタカなのか? ワシだとでっかすぎて手に負えないから?

Helenの近くにいる親友のChristina (Denise Gough)も、母(Lindsay Duncan)も籠るようになったHelenを心配して家にやってくるようになるのだが、Helen自身がタカになってしまったかのようにぴりぴりしていて抱きしめてあげることができない。主人公がタカに憑依される話、ではもちろんない(そうしてもおもしろかったかも)。なんでHelenはMabelと一緒にいるうちにああなってしまったのか、結果としてMabelはHelenに癒しを与えることができたのか、Helenはどんなふうに変わって、それはよかったのか悪かったのか、原作にはあるのかもしれないが、映画だとその辺が見えにくかったのがちょっと。動物がなにかどこかを癒してくれました、のような単純な話でないのはよいのだけど。

でもタカを腕に乗っけてちょっと浮かない顔で野道をすたすた歩いていくClaire Foyの姿はそれだけでなんだかよくて、ケンブリッジの曇った空と木と原っぱが不思議と映えているのと、タカはそんなの知ったこっちゃない、みたいな顔でいるのが素敵で。

いま絶賛公開中の”Hamnet”では、Agnes (Jessie Buckley)の飼っていたタカの死が、彼女をより家族のほうに向かわせる、そういう描写があったような。

2.01.2026

[film] The Chronology of Water (2025)

1月24日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。

“Woman with a Movie Camera”というシリーズ企画のなかでのPreviewで、イントロで主演のImogen Pootsさんの挨拶があった。水泳のおかげで腹筋がたっぷりついた、とか。

原作はLidia Yuknavitch (1963- )の同名メモワールをベースとした、Kristen Stewartの初監督作。脚本は原作者と監督の共同。音楽はParis Hurley。

Lidia Yuknavitchは、水泳で奨学金を得てアメリカのオリンピックの代表候補になるほどのところまで行ったのに薬物依存などで道を断たれて、その後大学で勉強し直して作家となった。映画を見ればわかるのだが、幼時から実父による性的なそれを含む虐待に晒されつきまとわれ、妹も同様、母はアル中、という凄惨な家庭で育って、本人も死産を経験したり男を次々に変えたり逃げられたり、どこまでも荒んでいって出口らしきものがない。

しかしこの話は、そうやって人生の危機や困難を乗り越えて二の足で立つ所謂「サバイバー」としての彼女の強さを描くのではなく、タイトルにあるように中心にくるのは「水」 - 変幻自在で一箇所に一形態に留まらず、クロノロジカルな変転や総括を許さないで絶えず流れて移ろっていく水のことを描こうとしている。

歯を食いしばって耐えて泣き叫んで血だらけになったり酒や薬でらりらりになって踏みとどまる主人公の姿も、彼女を虐待したり彼女から遠ざかっていった男達も、その結果として周囲から認知される「サバイバー」の輪郭からも遠ざかるように断続的に現れる「水」のイメージ、クロノロジー。 「水に流す」「お茶を濁す」まで含めて、水と共にあることで彼女はとにかく生きる - 死なずにあることができた、ということについての映画なのだと思った。女性の強さ - 最近言われるレジリエンスや元気を貰える系、の話ではまったくない。

なので時系列もばらばらで泳いでいく、重力や支点を失って浮遊していく主人公のイメージ、血も涙も涎も体液も混ざって薄まったり広がったり澱んだりしていく水として常に溢れては流れて消えて、映画の時間もこれらの水面を眺めているうちに終わってしまうような。

監督のKristen Stewartが描こう、捕えようとしたのがこのような水のイメージなのだとしたら、それははっきりうまくいっているように思えた。2時間を超える、結構しんどいテーマを扱う作品なのに、水と水を透過して流れこむ光の、そこで歪んだり屈折したりする身体や表情の捕まえかたが、アートフィルムのようでもあるがいつまでも見ていられるし、そうあることで安易な結論に落ち着くことを許さない。人の、女の一生を勝手に簡単に総括されてたまるか、という原作者と監督の決意表明のようにも思えたり。

デビュー作でこんなものを出してきたKristen Stewartに新人らしからぬ、とかいうのは失礼も甚だしく、狼男に惚れられて吸血鬼との間に子供を産んだときから、Personal ShopperからDianaまで演じていくなかで既に形成されていった何かだったのではないか。 (だから年代記じゃないって何度言えば)

でももう”Charlie's Angels” (2019) みたいのはやってくれないのかな… (少しだけ)

Kim Gordonが一瞬出てきて、そこにいるだけで電気が流れているようにかっこいい。

最後にPJ Harveyの”Down by the Water”でも流れてくれたら最高なんだけど、と思ったがさすがにそれはなかった。


週末にダブリンに行っていて、さっき帰ってきた。
2日間で9万歩以上歩いていて、こんなの週末じゃない、って自分に文句をいった。