11月15日、土曜日の晩、Royal Court TheatreのUpstairsで見ました。
シアターのあるSloane Square周辺は始まったばかりのクリスマスマーケットできらきらのぐしゃぐしゃだった。
座席指定ではなく全席自由なのだが、A4サイズバッグより大きい荷物は預けるように、というのと、入る前に入り口に置いてあるソフトカバーで靴を包むように、という指示があって、中に入ると客席が四方を囲む形で全体が乳白色のふかふかので覆われたソファのようになっていて中央は大きな楕円の2段くらいのすり鉢型 - たぶん女性器を模している - に凹んでいる。
タイトルだけでもはっきりと18禁なのだが、ポルノがダイレクトにプレイされるわけではもちろんなくて、いろいろ考えさせてくれるとてもよい内容のものだった。
プレイテキストの最初にはMiltonの引用と、もうひとつ、”All paradises are defined by who is not there, by the people who are not allowed in.”というToni Morrisonの言葉が引いてある。
原作はSophia Chetin-Leuner、演出はJosie Rourke、休憩なしの約75分。冒頭、女性 - イヴ? - が現れて無言のマイムをして誘惑の世界に誘ってくる。
大学の修士を出て講師としてJohn Milton (1608-1674)を教えているAni (Ambika Mod)は学業は優秀で学界で有望な若手と言われいて、彼Liam (Will Close) もいるし、彼との仲がうまくいっていないわけでもないのだが、インターネットポルノに嵌っていて、彼と会った(やった)後の寝る前とかにPCとかスマホを出して(セットのクッションの隙間に挟みこんであってすぐに取り出せるようになっている)サイトにアクセスして、マスタベーションをするのがふつうの癖のようになっていて止められない。Liamもそれを知っているのでやめてくれない? と頼むのだが、Aniはなんで? 浮気しているわけじゃないし、あなたに満足していない、ってことでもないし、酒とかドラッグみたいに習慣化によって体によくないことになるわけでもないし、嫌なのはわかるけど誰にも迷惑かけてもいないし、個人的な愉しみなんだからほっといてほしい、ってつっぱねている。
その習慣はやがて真面目な父にも見つかって器具を取りあげられてしまったり、Liamからも距離を置かれるようになったり、どこかおかしいのかも、って産婦人科に行ってみたりするが、どうにもならない。やめられない。これって悲劇なのか喜劇なのか?
なんでそれをしてはいけないのか、の方よりも、どうしてそれが彼らからよろしくないこととみなされてしまうのか、の方にどちらかと言うと力点が置かれ、それは彼女の研究テーマである『失楽園』の方にも及んでいく。他方で、彼女が見ているサイトの映像は抽象化され(見えた範囲ではりんごみたいのが映っていたり)てて、喘ぎ声とか、音声のみが聞こえてくる。あと、ここで商業コンテンツとして提供されているポルノ業界がその根に孕んでいそうな暴力や虐待についても触れられてはいない。
性の快楽に根差したことは決定的な答え、ありようとして説明しにくい気がするし、逆に汎化しすぎるとわけがわからなくなるだろうし、そのバランスをうまくとって、全体としてはどうしたもんかねえ… みたいな途方に暮れる系の軽めのコメディに仕上がっているような。
あと、こないだの”Every Brilliant Thing”にも出演していたAni役のAmbika Modのさばさばした態度と軽妙な受け応えのトーンが絶妙で、彼女なしには成り立たなかった気がする。
これを見た後で、既に書いた映画 - ”The Choral”を見たのだが、世界があまりに違いすぎて変なかんじになった。
11.23.2025
[theatre] Porn Play
11.22.2025
[film] The Choral (2025)
11月15日、土曜日の晩、Curzon Victoriaで見ました。
監督はNicholas Hytner、脚本はAlan Bennett - このふたりによる新作は”The Lady in the Van” (2015)以来だそう。
1916年、第一次大戦中のヨークシャーの架空の町で、郵便配達の青年が戦死の通知を家族に届けたりして暗くなっているところで、コミュニティのコーラス団が団員を募集しているので行ってみよう、って見に行ったらなんとなくテストを受けさせられて気がつけば団員になっている。そんななか、指揮者が戦争に行ってしまったので新たにリーダー/指揮者として採用されたDr Guthrie (Ralph Fiennes)と寄せ集められた個性的な団員たちとのやり取りとどうなることやら、等を描いていく。
Dr Guthrieは敵国であるドイツに長く暮らし芸術を愛する、という点から始めはバッハの『マタイ受難曲』を採りあげていたのだが反ドイツの声も強くあったのでエルガーの『ジェロンティウスの夢』を歌うことにする。あと掘り下げられることはないが彼はゲイで、つまりあらゆる点で(この時代には)不適格な属性の人なのだが、音楽に対する思いと情熱、指導力は確かなのでみんな彼の言うことを聞いて練習に励んでいく。
団員の方も個性豊かで、元からいたメンバーに加えてDr Guthrieが軍の病院やパン屋からスカウトした面々がいて、団員同士の男女の恋があり、よいかんじになったところで戦地から片腕を失った彼が帰還してきたり、本当にいろいろあって、エピソードが散りすぎていることはしょうがないのか、とりあえずエルガーを歌うクライマックスに向けて… となったところで本番の日に現れたエルガー(Simon Russell Beale)本人は結構嫌な奴だったり。
やがて楽団メンバーにも招集がかかるようになり、戦地に赴く前の晩、ひとりは憧れていた娼婦のところに行って、ひとりは憧れていた彼女のところに行くが無事に戻ってきたらね、ってやんわり拒まれたり。ラストの出征のシーンも、あまり盛りあがるような、感動的な描き方はしていなくて、そこはよいかも。
全体としてものすごくいろんな人、エピソードが散らばっていて朝ドラみたい - 朝ドラほぼ見たことないけど - なのだが、Ralph Fiennesひとりがずっとしかめ面のすごい重力で全体を繋ぎとめるべく指揮棒を振っているのだった。そこはまるでこないだの『教皇選挙』のようだったかも。
Move Ya Body: The Birth of House (2025)
11月6日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
毎年やっている音楽ドキュメンタリーフィルムの祭典 - Doc’n Roll Festivalからの1本で、このフェスはいろんな映画館に散らばってランダムに上映があるので、気付いたら見逃していた、のものも多くて、今年のではButthole SurfersのとCoilのが痛かったよう。
上映前に監督Elegance Brattonの録画されていたイントロが流れて、自身のハウスミュージック体験の初めは90年代初のNYのLimelightっていう元教会の建物だったところだ、って語っていて、おー、あたしはあそこでGang of FourとかGeneを見たよ、ってなった。
70年代後半、ディスコ・ブームが馬鹿な白人たちによって潰されて行き場を失ったシカゴのアンダーグラウンド・シーンで、数キロ先でも聴こえるような強い輪郭と断線されたって途切れることのないぶっとさをもったリズムを生みだすこと。それは当時のシカゴのまるでアパルトヘイトの人種隔離された居住区画と常態化した人種差別からの解放を担う革命の音楽でもあった、と。
当時その突端にいて、とにかくシンセで音を作りたかったVince Lawrenceとその周辺の仲間たちに話しを聞きながら、当時の革命の様子をダイナミックに描いて、それもやがては白人に搾取されてしまうことになるのだが、とてもおもしろかった。ここからどうやってNYやUKに飛び火していったのか、とか。主人公も編集も、そんなにドラマチックに盛りあげる方にいかないところもよくて、この淡々とした静けさが今も続いている大きなジャンルのベースを作ったのだねえ、って。
11.20.2025
[theatre] The Weir
11月13日、木曜日の晩、Harold Pinter theatreで見ました。
事情はよくわかんないけど、チケット代高すぎ。Stallの後ろの方で£200くらい、それでもびっちり埋まっている(ずっと)。
7月にOld Vicで見た”Girl From the North Country”のConor McPhersonが1997年に書いて初演した劇の再演で、アイルランド公演からのツアー。今回も彼自身が演出を手掛けている。休憩なしの1時間40分。
アイルランドの田舎のバーで、時代設定は明示されていないのだが、登場人物が酔っぱらってFairground Attractionの”Perfect”を口ずさんだりするので、80年代末か90年代初ではないか。
オープニング、幕があがると古くて暗いバーで、向かって右側にカウンターがあり、左奥にドアがあって、椅子がいくつか。そこにJack (Brendan Gleeson)が立っていて、ひとりでカウンターの中に入ってコップを出して、何を飲みたいのか蛇口をがちゃがちゃやってうまくいかず、そうやっているところにバーテンダーのBrendan (Owen McDonnell)が入ってきて灯りをつけて、ふたりのやりとりからJackは常連中の常連で、BrendanはJackのすることも求めているものもぜんぶわかっているのでなにも気にしないで放っておいている。
そこから別の常連らしいJim (Sean McGinley)が現れて、彼も自宅の居間にいるかのように自然にそこに溶けこんで、更に男女ふたり – ちょっとお喋りで騒がしいFinbar (Tom Vaughan-Lawlor)と地元民ではなさそうな女性のValerie (Kate Phillips)が現れる。別にバーなんだから誰が来たっておかしくないのだが、ふたりの登場によって少しだけいつもと違う雰囲気になったよう – に見えて、でも誰もそんなこと気に留めず、騒ぎもしないでいつもの会話のトーン、リズム、間合いを維持していく、それを可能にしている仄暗いバーのセット、外で微かに鳴っている風音、なによりも俳優たち、が見事。”Girl From the North Country”の大きな家もそんなかんじで維持しているなにかがあったような。
他所からきたValerieがいたせいもあるのか、それぞれにこの土地に古くから伝わる変な話や怪談をしていって、みんな知っている話のようで、ほぼどれも酔っ払いの独り言戯れ言で、合間合間にFinbarがバカなことを突っこんで、やがてValerieの番になると、彼女の話は幼い娘を失った実話に基づく悲しいそれで、みんながちょっと静まりかえってしまったところで、Jackがある話を始める…
それは喪失のこわさ、哀しさを語るというよりも、その不在がずっと自分の身に纏わりついて、自分自身になって、ずっとそこから逃れられないのだ、という根源的な底についてのもので、それがあの薄暗い穴のような場所で、Brendan Gleesonの口から語られると、この人はもうこの世にいない何者かなのではないか、このバーは向こうの世界との間の堰(Weir)としてあるのか、など。あるいは、こういう人の語りが堰のように別の世界の何かをこの世と繋ぎ留めたりしているのか、とか。
勿論、話はその奥に向かっていくことはなく、みんなはぽつりぽつりと帰り支度をして抜けて行って、最後に冒頭と同じようにJackとBrendanがのこる。それだけなのだが、なんとまあ、しかない。こうやって、こんなふうにアイルランドのいろんなお話し(と歌)はずっと語り継がれてきたのだろうな、と思うし、だからみんなあんなに酔っぱらっちゃうんだな、っていうのも感覚としてわかってしまうような。
1時間40分という時間はたぶん丁度よくて、これ以上続いたら戻って来れなくなる可能性があったかも。
でももう一回見て浸かりたくなる、濃厚な時間だった。Brendan Gleesonの立ち姿がとにかくすごすぎ。
あと、こんなふうに特定の場所の周りに渦のように巻かれて浸かって流れる時間て、映画を見ている時のそれとは明らかに違うと思って、それがなんなのかを掘りたくて演劇に通っているのだわ、って。
Playing Burton
11月16日、日曜日の昼にOld Vicで見ました。
Welsh National Theatreの制作で、ロンドンではこの日の昼と夜の2公演のみ。
作はMark Jenkins、演出はBartlett Sher、Matthew Rhysのひとり芝居で、彼がWales出身の名優Richard Burtonを演じる。 1時間40分くらいだけど1回休憩が入る。
ステージ上には簡素なテーブルと椅子があるだけ。スーツにタイ姿で登場するなりコップに酒をぐいぐい注いでがぶがぶ飲んで、壊れた機械のような勢いでウェールズのPontryhdyfenの炭鉱夫の極貧家庭で生まれた幼少の頃からのことを語っていく。
後半は、まず新聞に載った自分の訃報を読みあげ、ちゃんちゃらおかしいわ、みたいに自身の名声やElizabeth Taylorとのこと、KennedyやChurchillと会った時のこと、要は俳優として頂点にあった自分のキャリアを高いところから喋り倒していく。
Richard Burtonは、12月のBFI Southbankの特集でかかるので、そこで作品を見ながら考えていきたいのだが、あんな高い声でべらべら喋っていく人だったのかしら、というのが少しだけ気になった。
11.19.2025
[film] The Running Man (2025)
11月14日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
監督はEdgar Wright、原作はStephen King(Richard Bachman名義)の近未来SF小説(1982)。1987年にもPaul Michael Glaser監督、Arnold Schwarzenegger主演で映画化がされている(未見)。
Ben Richards (Glen Powell)は病気の子供を抱えた状態で無職になって、妻Sheila (Jayme Lawson) にホステスのようなことをやって貰って暮らすしかなくて、絶望してネットワークTVの人気リアリティ番組 – “The Running Man”に応募してしまう。プロの殺し屋(本当に殺すよ)たちから30日間逃げ続けることができたら10億ドル貰える、というので、サインしたらいろいろ話がちがう、があったりしたものの逃げることができないまま番組が始まって、最初は3人いた候補のうち2人は簡単に消されて、ものすごく悪い奴 - ほぼ凶悪犯 - としてターゲットにされて追われる身となる。
番組のプロデューサーのDan Killian (Josh Brolin)も大人気TVホストのBobby T Thompson (Colman Domingo)もまるで漫画のキャラクターで、ディストピアでのリアリティ・ショウの怖さ、とかよりヤクザに借金をして妻子を人質に取られて逃げ回る構図とそんなに変わらない気もするのだが、ポイントはどこにも逃げようがない状態のなか逃げまわって、本人は必死なのにそれがお茶の間のエンターテインメントになってしまう、という徒労感と辛さだろうか。
変装してNYに行って、そこからボストンに逃げて、追ってきたハンターたちをビルごとぶっ飛ばしたら、彼は多くの警備隊を皆殺しにした極悪テロリストの扱いにされて、いやそうじゃないんだ、というTV局側の手口の非道について収録ビデオで伝えても、TV側が放映時にフェイクの映像に差し替えてしまう。そんなふうにフェイクに置き換えられるんだったら局側はなんだってできちゃうし、賞金渡さずに闇に葬っちゃうとこだってできるだろうし、「リアリティ」もくそもないじゃん、と思うのだが、それこそが監視社会のやること - ストーリー作りなんだろうな、となる。ぜんぶがこの調子の仕込まれたどん詰まり感のなか動いていくのでしんどい – なにがしんどいかって、まさに今の監視社会とメディアがやろうとしている囲い込みのお祭りを直に思い起こさせてくれるから。
というジャンクで重い空気を吹っ切るかのように走り抜けていくGlen Powellのアクション(といかにもEdgar Wrightぽいつんのめって転がっていく勢い)はちょっとじたばたして重いけど、痛快なところもそんなにないけど、悪くはないし、彼を助けたり匿ったりする反体制のグループも出てきたりするのだが、全体としては今あんまり見たくないものを横並びで見せられているかんじがどうしても。もちろん、これはホラーなのだから、って言われたら黙るしかない。
80年代にこれを見ても、近未来は大変そうだなあ、で終わっちゃうのかもだが、いまこれを見ても思い当るところがありすぎて、それがきつい。いまのアメリカや日本の政府(とメディア&マス)が向かっている方向とわかりやす過ぎるくらいに同期している。 だからすごい! と言うひともいるのだろうが、わかっているけどさ… のしんどさが先にくるというか。
昨晩、”One Battle After Another” (2025)の2回目をBFI IMAXで見て、監督のPaul Thomas AndersonとLeonardo DiCaprioのイントロが付いていて、これも体制側に追われて追い詰められていくお話しなんだけど、いま欲しいのはこの、こっちの軽さなんだよねー、と。
[film] Melo-dramarama
11月15日、土曜日の昼から午後にかけて、BFI Southbankでのイベントで見たり聞いたりした。
この月の特集”Too Much: Melodrama on Film”の方も見てきているのだが、この日は目一杯メロに浸かって頂きましょう、という催し。 NFT3という中サイズのシアターでランチやティーブレイクを挟んで夕方まで、トークを中心としたいろんな発表があって、久々にメモを取ったりしながら見てしまった(が、いつものように何が書いてあるのか、きったなすぎてほぼ読めない。いいかげんにしろ)。
時間割りはこんなかんじ –
① 11:00-12:00: The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation
② 12:00-12:50: To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood
③ 13:30-14:15: Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama
④ 14:15-14:50: Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History
⑤ 14:50-15:30: In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama
⑥ 15:40-16:20: Small Screen, Big Emotions: 40 Years of EastEnders and Beyond
⑦ 16:20-17:00: The Future of Melodrama: Tears in the 21st Century
用事もあったので、①から⑤までしかいられなかったのだが、どれもおもしろいったらなかった。
The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation
まず全体の導入のような位置づけで、イギリスにおけるメロドラマへの着目がどこからどう、のような話。
Douglas Sirkの”Sirk on Sirk”が出版されたのが1972年、これをフォローするかたちでエジンバラの映画祭でSirk作品のレトロスペクティブが組まれ、それがロンドンにも来て、まだFilm Studyが学として立ちあがる前くらいのタイミングだったがこの辺りからいろいろ始まったのだ、とLaura Mulvey先生が。
バルザックやヘンリージェイムズの小説の頃からドラマのなかにあったギルティ、イノセント、ヴィランといった角度からの揺さぶりと、19世紀フランスのシアターでのステレオタイプなステージングがドラマチックな音楽と共に映画の方に流れていって、そこではHighly Stylizedなかたちでゴミ(trashes)- マスキュリニティの危機、Fem、自分が何をやっているのか考えようとしない - 等が、過剰に強調されて”motion”が”emotion”へと変容していった、と。他ジャンルからはグランドオペラやバレエのコレオグラフからの影響もあった、と。
こんなふうな汎用化によってぼんやりしてしまう危険もあるのだが、クリップとしては”Written on the Wind” (1956)、“The Bourne Supremacy” (2004), “A Cottage on Dartmoor” (1929)等が参照された。このイベントでは、”Written on the Wind”と”Leave Her to Heaven” (1946)からの引用が圧倒的で説得力あったような。
To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood
まずはHollywoodのクラス表現として、”Working Class Melodrama” – “Middle Class Melodrama” –“Victorian Melodrama” – “Street Melodrama”などの切り口からいくつかの例を示して、そこからドラマとしてクローズアップされがちな階層間の移動(mobility)については、Mobility with Nobility の例として、”Stella Dallas” (1925, 1937)が、Mobility without Nobilityの例として"Mildred Pierce" (1945)が参照される。ここらで使われる階段(階段おち)についても。
Britainのクラス表現は、当然これとはぜんぜん違ってディケンズから入って、邪悪さを象徴する悪い男 – 特に“Man in Grey” (1943)でのJames MasonのプレゼンスとMargaret Lockwoodの話し方(Posh)の違いとか、クラスを抜けて成りあがりを求めていくGainsborough Picturesのヒロインたち。あとはこの特集で80周年を迎える”Brief Encounter” (1945) - 『逢びき』のこと。成り立ちも傾向も異なる相容れないふたつの、ふたりの世界を描きつつ、Unifyさせようとする何かを描いてきた、とか。
Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama
Fatherhoodの不在によって起動されるMotherhoodのありよう – ふつうの家族とは異なる、より複雑な事情が強調したり導いたりする弱さとそれを乗り越えよう(or 抑えよう)とする力とか愛、ここに挟まってくる教会、犠牲を払う、という考え方とか、こうして書いているだけでもいろいろ迫ってくるので、相当に熱い。
この特集ですばらしい音楽と共に再見した”Stella Dallas” (1925)の時にも思ったのだが、時代も境遇もまったく異なって共感なんてできようがないはずのこんなドラマに揺さぶられてみんな揃ってびーびー泣いて(泣かされて)しまう、その動力の根源にあるものってなんなのか、なのよ。
ここで挙げられていたイタリアのメロドラマ –“Maddalena” (1954)は見たい。
現代のドラマとして参照されていたのは”We Need to Talk About Kevin” (2011)、Joan Crawfordが体現していたある時代のアメリカの母親像、あとPre-Code時代のシングルマザー像と、Post-Code時代のそれの違い、変化など。
Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History
ファン・マガジンの存在は、映画の初期から観客と映画会社を結ぶ大きな架け橋となっていて、それがメロドラマの変遷 - 観客は何を求めているのか - にも大きく寄与していったことを資料と共に見せていく。 最初期にはFlorence LawrenceやMary Pickfordといった女性の存在が大きかったと。
いまは「マーケティング」とか「ファンダム」とか素人の手でどうこうできるようなものではなくなっている気がするが、初めの頃はこんなふうにやっていました、と。
In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama
映画の初期から、映画のなかの人々がリアルに生きているものであることを知らしめるべく、コスチューム・ディレクターはプロデューサーや監督とずっと一緒に動いて、色がないモノクロフィルムの頃ですら赤いドレスを赤く感じられるようにするための生地の工夫をしたりしていたのだそう。
カラーの時代に入ってからの具体例としては”Leave Her to Heaven” (1946)でのコスチュームを担当したKay NelsonがGene Tierneyの衣装を場面ごとに、ガウンのイニシャルとか壁紙との調和とかも含めてどう見せようとしていたか、とか。
“All That Heaven Allows” (1955)のヒロインJane Wymanの衣装の色調の変化を彼女のエモーショナル・ジャーニーとして捉えて、最初と最後の場面で同じ衣装を着ていることの意味とか。 “Written on the Wind”でのLauren Bacallの着ていたグレイの意味とか。あたりまえなのだが、ぜんぶに意味があって、それはプロデューサーも含めて作る側はすべて把握して、きちんとコントロールしていた、と。
最近の映画だと”Far From Heaven” (2002)のSandy Powellがやったキャラクタリゼーションと個々の色調を同期させるやり方とか。
斯様にコスチュームの世界は映画のテーマの中心を貫いて緻密な職人芸でデザインされてきたのに、なんでクレジット上では”Gowns by ..”くらいしかないのか。資料がなくて調べるのが大変すぎるんだよ! と発表者は嘆いて終わっていた。 けど、ものすごくおもしろかった。
これらのテーマをクラシックな日本映画にはめて考えてみても、相当におもしろいものができる気がした。
材料も人もありそうだから、誰かやらないかしら。
全体を通して、なぜメロドラマを見るべきなのか、がなんとなくわかった気がした。いま自分がここにこうしてあらされているありよう、ガサツさ無神経さに対する抵抗、ふざけんじゃねえよの裏返しとしてそれは組織されて、風に書かれた暗号として散っていったのだ。なんて。
あと、久々にこういうのに漬かって、ああどうしてこういう道に進まなかったのだろうか、なにがいけなかったのだろうか、ってメロドラマっぽく天を仰いで自分で自分を殴打するのだった。(そういう季節)
11.17.2025
[film] Laura Mulvey
BFI Southbankの11月の特集に”Laura Mulvey: Thinking Through Film”というのがあって、恥ずかしながらこの人のことは知らなかったので、勉強してみようと思って見ている。
彼女の論文 - “Visual Pleasure and Narrative Cinema” - 『視覚的快楽と物語映画』(1975) - 翻訳はフィルムアート社の『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』(1998)所収 - の出版50周年 + これ以降の膨大な著作等、を讃えて彼女にBFI Fellowshipの称号が与えられ、今回の特集では彼女が共同制作した8作品を上映したり、シンポジウムが開かれたり、上映前のトークにも頻繁に顔を出して、12月には彼女がセレクトしたクラシックの特集も組まれている。
Laura Mulvey in Conversation
11月4日、火曜日の晩、BFI Fellowshipの受賞記念を兼ねた彼女の業績紹介と本人によるスピーチがあった。
BFI Fellowshipというのはフィルム・TVの世界で多大な貢献を認められた個人に贈られる最高の位で俳優とか監督とか、彼女の直前にこれを受賞したのはTom Cruiseだったりするので、素朴な「?」が浮かんだりするものの、過去の受賞者のリスト(Wikiにある)を見てもなかなかすごい賞であることはわかる。
スピーチの前に彼女を讃える関係者のビデオが流れたのだが、最初がTodd Haynesだし、Joanna Hoggは客席にいたようだし、以降、日々自分がBFIに通って映画を見ていく時にお世話になっている(とこちらが勝手に思っている)プログラマーやキュレーターの人たちがほぼ全員登場して、彼女の論文や映画の見方にいかに影響を受けたかを感謝をこめて語っていくので、つまり自分が映画を見る際の軸にもたぶん相当影響しているのだろうな、と壇上の小さく丸っこいおばあさんを見て思った。
こんにちの我々がクラシックを含むいろんな映画を見るにあたって、その制作物を構成する視覚的な物語が提供する快楽やカタルシスが主にいかに白人男性(The male gaze)のそれに資するものとなるべくいろんなシステム込みで組みあげられてきたのか、これって今や映画だけではなくてTVでも広告でも、基盤とか常識に近いところで根をはっていることだと思っているのだが、これを50年前に提起したのが先に挙げた彼女の論文であった、と。
映画なんて理屈ぬきでおもしろけりゃいいじゃん、とか、これで泣けないなんて人間じゃない、とかいう宣伝も込みの「理屈」がいかに傲慢な思いあがりに基づく乱暴なものか、はずっと感じていて、それを確かめるため、くらいの意識で見ていくとすんなりはまったり思い当ったりするところがいっぱいあって、この理屈って文化全般に渡って蔓延してきたなにかで、自分がメジャーではないマイナーな何かを追っていくその根にあるものにも繋がるのだが、そういうところを踏みしめながら見ていきたい。
Riddles of the Sphinx (1977)
11月4日の晩、↑のセレモニーが終わったあとに同じ会場(NFT1)で見ました。16ミリフィルムでの上映。
Laura MulveyとPeter Wollenによる2本目の共同監督作品で、実験映画の範疇にカテゴライズされるのだろうが、あまりそういう堅苦しさ、込み入った構築された難解さは感じされなくて、映っているものをするする見れる(その分、あまり残らなかったり..)。
いくつかのパートに別れていて、Laura Mulvey自身がカメラに向かってオイディプスとスフィンクスの神話を語るシーン、主人公の女性が暮らす家庭生活のいろんな局面を映しだしたり。 後者は定点に置かれたカメラがゆっくり回転していったり戻ったり、その動きはChantal Akermanの”La chambre” (1972) のぐるーん、を思い起こさせる。
ずっとぴろぴろ鳴り続けて頭に張りつく電子音楽はSoft MachineのMike Ratledgeによるものだった。
Crystal Gazing (1982)
11月10日、月曜日の晩、”Predator: Badlands” (2025)を見る前に。これも16mmでの上映。
最初と最後に水晶が映し出される。丸くてまっすぐに光と像を通してくれない水晶。
サッチャー政権下(この特集が始まって、彼女のトークを聞いていくと、サッチャー政権下のUKがどれほどひどいダメージを受けて変わったかが何度も語られていて、やはりそうだったのか、になった)のロンドン市民の生活を3人の主人公を中心に描いていくのだが、うちひとりのKimを演じるのがX-Ray Spex~Essential LogicのLora Logicで、映画のタイトルもバンド解散後の彼女のソロ” Pedigree Charm”のなかの曲名から採られている。(レコードは実家にあるので確認しようがないわ)
彼女がライブをしている映像もでてきて、ここでドラムスを叩いているのはCharles Haywardだったり、彼女がレコード屋に入るシーンがあって、そこはやっぱりオリジナルのRough Trade(1982年の!)だったり、いろいろ興味深い(いやそっちじゃないだろ)。
この翌日にかかった短編”AMY!” (1979)でも、主人公の女性がこちらに向かって下地からメイクをしていくシーンで、X-Ray Spexの”Identity” (1978)が轟音でフルで流れていったり、彼女の問題意識に当時のパンク/ポストパンクシーンの女性バンドなどがどんなふうに関わって影響を受けたり受けなかったりしたのかについて – どこかに纏まっているかもだけど - 聞いてみたいと思った。
まだ続いている特集で、これからも見ていくので、振り返りながら書けるものがあったらまた。
[film] Predator: Badlands (2025)
11月10日、月曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
チケットを取った回が3D上映だったので、3Dになった。
Terrence MalickともBruce Springsteenとも関係ないのだった。
監督はDan Trachtenberg。Predatorのシリーズで言うと、Arnold Schwarzeneggerが出ていた頃のは見ていなくて、最近の数本はなんとなく見ているが、積極的に見たくて見るというより、なんなのこいつら? の得体の知れない薄気味悪さに触れて楽しむ、というか。今回のは予告を見たら怪獣映画のようだったのでそれでもいいか、って。
これまで雑に見てきたPredatorの特徴は、とにかく喧嘩と殺し合いが好きで、相手が強かろうが弱かろうがまずやっつけることが第一で、宇宙船とか武闘方面の技術はあって言葉があって会話もできて、種のなかでの序列とか掟とか家族はあって名前もあるって。今回の主人公はDek (Dimitrius Schuster-Koloamatangi)っていうある家族の落ちこぼれで、冒頭の兄との喧嘩に負けて、その流れで兄は強権的な父によって殺されて、父に対して実力を示すためにある星の化け物退治に向かうことになる。
ここまでで、これなら人間のドラマと変わんないじゃん、ていうのと、いま大量に予告が出ててうんざりの”Avatar”のことを思ったりした。あの物語設定にもんのすごい大金をつぎこんで「映画」としてでかでかとリリースすることの意味がずっとわかんなくて、いや映画というのはそもそもなんでもありの雑多なジャンルだから、という括りも可能なのだろうが、そういう設定がルールのような基底前提として存立しうるゲームやアニメの世界ならまだしも、映画として、これまでの映画の世界がもたらしてきたのと同等の「感動」や「共感」を強いてくるのだとしたら、日々の人間関係ですらきちんとできずに苦しみ続けてその解に近いなにかを過去の映画に求めたりしている側としては勘弁しておくれ、になる。なんで別の星に暮らす生物(と呼んでよいかどうかも不明な)連中の挙動や行動の意味や理由を地球人の基準水準から推して把握したり理解したりしなきゃいけないのか。その正しさは誰が決めて汎用化した/されたものなのか。それらは測定不能な未知の脅威・恐怖としてあったからこそ、エイリアンの映画は成立したのではなかったか。
とにかく、その化け物がいる星に飛んで退治して父を見返してやりたいDekはそこに着いてもやっぱりうまくいかずに苦闘していると、上半身だけで転がっていたレプリカント?のThia (Elle Fanning)に愛想よく英語で声をかけられて、教えて貰ったりしながら一緒に戦っていくのとThiaにはコピーだけど気質は真逆で冷酷非道なTessa (Elle Fanning)がいて、彼女と彼女に操作された男の戦闘ロボットみたいのがわんさかやってくる。あと、外見は緑のオランウータンで顔がパグの変な生き物がついてきたり。言葉や意思は互いにふつうに通じていて、襲ってくるかそうじゃないかで敵味方はきれいに分かれて、もろに仲間の獲得と学習〜鍛錬が基本のゲームの世界になってしまう… のってわかりやすいけどつまんないよね。(Wolf .. Pack.. ) とか。ゴジラが仲間と一緒に闘いだした時と同じで。
DekがThia(半分)を背負っているのを見て、子連れ狼にすればいいのに、ってちょっと思ったのだが、あれはもうMandalorianでやっちゃっているのか…
人間が一切でてこないのはよいこと、と思ったが最後に現れるあれが… このシリーズはぜんぶ次があるように見せかけて、中途半端に終わっていくのが恒例なのでこれもそうでありますように。
11.15.2025
[theatre] Romeo a Juliet
11月5日、水曜日の晩、Shakespeare’s Globe内にあるSam Wanamaker Playhouseで見ました。
このシアターの舞台照明は蝋燭で、俳優が演じながら燭台の沢山の蝋燭に火を灯したり消したりして、売店では使い終わったちびた蝋燭をお土産として売っていたり(最初なんだこれ?って思った)。
制作はグローブ座と提携したウェールズのTheatr Cymruで、4日間公演の初日。グローブ座でウェールズ語の芝居がかかるのは初めてだという。原作はWilliam Shakespeare (1597)、翻訳はJ.T. Jonesによるもの(1983年)、演出はSteffan Donnelly。
高さのあるこのシアターで、舞台上の細工は特にしていなくて、楽隊もシンプルに3名。蠟燭の灯り(によって浮かびあがるもの)を際だたせていくクラシックな演出- 悲劇に向かうにつれて明度が落ちていく - がとても素敵。服装は革ジャンを着ていたり現代のそれだが、特に凝ったものではなくて、ごく普通の。
英語とウェールズ語が混じる劇、ということで、事前に英語キャプションを通訳表示するスマホアプリの案内がきて、シアターにもダウンロード用のQRがあって、一応念のためダウンロードはしておいたのだが使わなかった。客席から見ていてもスマホを見ながらの人はそんなにいなくて、やっぱり舞台の上の動きと発声に集中したいし、こういうエモがぶつかりあうような劇であれば尚更かも、って。
Romeo (Steffan Cynnydd)のいるMontaguesは主にウェールズ語を話し、Juliet (Isabella Colby Browne)のいるCapuletsは主に英語を話すのだが、当然両家が会話をする際にふたつの言語は混ざりあい、両家が衝突する場合にはその違いが強く際立って、ふたりが愛を交わす部分では衣服のように取り除ける柔らかい覆いになったりして、なるほどなー、にはなる。他方で、言語の違いによる違和やギャップなんて、ごく普通にそこらにあることでもあり、言語間の差異と分断がこの悲劇に(誰もが期待するであろう)決定的ななにかを持ちこんだりもたらしたりしているか、というと、そこまでではなかったかも。
でもそれは置いて、殺しの場面の凄惨さや、愛を語る場面のとろけるような甘さ、もちろん最後の悲劇は、ストレートに生々しく伝わってきて、センターの、特に際立って強いなにかをぶちまけないRomeoとJulietの柔らかく寄り添う姿が最後まで残る。ふつうにそこらにいそうな素の若者たちで、それがなんかよくて。
日本でも家父長制が強く残っていて互いにぜんぜん通じない方言を使って譲らない両家をモデルにやってみたらおもしろいかも。(まじでどうしようもなく通じないやつ)。もうすでにやっている?
ウェールズ語って、音だけ聞いているとポルトガル語みたいに聞こえるところがあった気がしたが、ぜんぜん関係ないのだった。
Ragdoll
11月3日、月曜日の晩、Jermyn Street Theatreで見ました。
1974年のPatricia Hearst誘拐事件(過激派組織シンバイオニーズ解放軍に誘拐・監禁されたが、その後犯人と行動を共にしていることが明らかとなって大騒ぎになり、やがて有罪判決を受ける)に着想を得て、Katherine Moarが書いた劇が原作。演出はJosh Seymour。 休憩なしの75分。
事件から数十年が過ぎた2017年(には何が起こった年か?)、同事件で「被害者」とされたHolly (Abigail Cruttenden)が、かつて彼女を担当した弁護士Robert (Nathaniel Parker)のオフィスを訪ねてくる。 Robertは彼女の弁護で脚光を浴びてセレブ弁護士となったが今はちょっと疲れた顔で、事務所を畳もうとしているらしい。舞台の真ん中にはものすごく豪華(そう)なソファが置かれていて、彼のかつての栄華を伺わせるが、そもそもなんでHollyは彼のところに現れたのか。
HollyとRobertの間に懐かし気な、親密な雰囲気はなく、かといって刺々しい喧嘩腰でもなく、会話のやりとりを通して皮を剥くように過去の記憶を取り出して転がしていくと、若い頃のふたり – Holly (Katie Matsell)とRobert (Ben Lamb) – が舞台上に現れるようになり、最初のうちは過去のふたりと現在のふたりが交互にスイッチしたりしていたのが、最後のほうでは4人一緒に出ているようになり、この多層化がとてもおもしろい効果を生む。
Hollyは誘拐されて犯人達に脅迫されてレイプされてその後の強盗に失敗して捕まって、Robertが弁護した裁判に負けて収監されて、Robertはセレブ弁護士としてぶいぶいだったのだが… 過去は変えられないけど、過去にあったことはあったことで消えることなんてなく、それは間違いなく現在に繋がっているので現在のことなんだ、逃げられると思うなよカス、というのと、抱かれたらぐんにゃりする猫(ragdoll)だって生きてるんだしなめんな、って掘り返されるべき昔のケースはいっぱいあるんだと思う。 まさに今の合衆国大統領だってな…
11.14.2025
[log] Alhambra - Nov. 7th - 8th
11/7(金)~ 8(土)の一泊でアルハンブラ宮殿に行ってきたので、簡単なメモを。
9月にはイスタンブールで、トプカプ宮殿やアヤソフィアを見たので、その続きの宮殿シリーズ、もあるし、前回UKにいた時も計画していて、でもCovidで頓挫していたやつ。
ロンドンから行くルートはガトウィック空港からマラガに飛んで、そこからバスか電車でグラナダ、になる(探せばもっとよいルートはあるのかも)。
BAの便は朝6:10発で、バスと電車を乗り継いであの空港まで行くには、午前3:00に家を出るしかなくて、空港には4:30くらいに着いたのだがラウンジはまだ開いていないし。
マラガ空港のイミグレーションは朝で到着便が集中していたのか、近年ちょっと見ないぐじゃぐじゃぶりで、抜けるのに1時間強、予約しておいたバスにはどうにか間に合い、乾いた岩山を抜けてグラナダのバスターミナルまで約2時間、更にそこからホテルがある中心部までバスで30分。ホテルに入ったのが15:00少し前だったので、家を出てから12時間かかったことになる。近いようでじゅうぶん遠い。
Catedral de Granada
18世紀初に建てられたこういう聖堂は、とりあえずなんでも入るべし、の原則で入って、当然素敵なのだが、堂内で場所を区切ってやっていたJosé de Moraの彫刻展がすばらしくてずっと見ていた。生々しい、というのとはちょっと違って。濡れたような涙の跡とか顔の歪みとか、信仰が固化しているとしか言いようがない。 売店で結構分厚いカタログを買ってしまった。
そこからDarro川に沿ってアルハンブラの方に歩いていくと下の方、反対側の草の茂っているところににゃんこが気持ちよさそうにごろごろしていて、その近くにもう一匹いて、その生息しているさまはベルンの熊公園を思い起こさせるのだったが、ネコさんがあんなふうにいられるのであれば、この地はよいところに違いないと思った。
川沿いの考古学博物館を見て少し歩いていたらヘネラリフェ庭園への矢印があって、アルハンブラは翌日の昼なのだが、ここだけ先に見ておいてもよいかも、と思ってその方角に行ってみたらものすごい階段と上り坂で死にそうになり、やっと上に着いたら当日チケットは売り切れでどうしようもなかった。態勢を立て直すべくバスでいったんホテルに戻って、アルバイシン(Albaicín)に向かう。
Albaicín
丘陵地帯に白壁と石畳がずっと続く城塞都市としてできあがった住宅地で世界遺産で、さっきと全く同じく一番高そうなところまでへろへろになって登って、だらだら降りて、それだけでも、ただ歩いているだけでじゅうぶん楽しい(坂がなければ)。こういうところで人が暮らしていて(今も)、過去には城塞だったここには籠って戦うために暮らす人たちがいたのだ、そして今はそれが観光名所になっている、といういろんな時間も含めた段差について。
てっぺんの高台にも夕日で有名なサン・ニコラス教会の展望台にも夕日を待つ人たちが溢れていて、サン・ニコラスの方ではサンバみたいな音楽をじゃんじゃか打ち鳴らしていたのだが、ああいうのってほんといらない。
帰りは幸せに路地を歩きまわっていたらなんとなくホテルに着いてしまった。
8日はアルハンブラの日だったのだが、前日の夕方にメールが来て、予定していたガイドが病気で来れなくなったので、ガイド分の金額はあとで返す。チケットはWhatsappを持っているのであれば送るよ、というのだが(... 怪しい)そんなものないよ、って返したらメールでチケットが来た。ガイド付のツアーは12:00開始だったのだが、ナスル宮殿(Palacios Nazaríes)の入場時間が10:30に変わった(ここだけ厳守しろ、と)。
10:30の前にカルロス 5 世宮殿 - Palacio de Carlos Vとか、その上にあるMuseo de Bellas Artes de Granadaとか、並びにあるキリスト教の教会を見る。これらが無料って割とすごい。
Palacios Nazaríes
ここが今回のメイン。
最初の部屋のタイルとか床の紋様、そこに射してくる日の光だけでやられて、天井を仰いでもどの壁に向かってもめちゃくちゃ細かいし目のやり場だらけでお手あげになった。こないだのトプカプ宮殿もよかったのだが、あちらはまだ見せ方並べ方に博物館的な配慮があった気がしたのに対して、こちらは素でイスラム文化と芸術の凄みを鑑賞というより体験として否応なしに叩きつけてくるような、モスクがそっくり裏返って被さってくるような凄みがある。これらをデザインしたり作ったり組みあげたり嵌めこんだり整えたりするのに、どれだけの手数と時間が費やされたのか、そしてそれらが信仰の名のもとに為されただとしたら宗教って… に改めて立ち返る、立ち返らざるを得ない、それもまた狙いのひとつで、そんなのがすべてこんな辺鄙な山のなかに一式揃って遺されていて、なんてすごいことよ、しかなかった。
気づいたら2時間くらい経っていて、結果的にガイド付のにしなくてよかった、って思った。
そこから他の建物 - 要塞 – Alcazabaの上にのぼって、昨日行けなかったヘネラリフェ庭園にも行って、それぞれ眺めとかは当然よかったのだが、Palacios Nazaríesの金縛りに襲われるような妖気はちょっとなかったかも。あと、庭園に向かう途中の野道にも猫がいてよかった。
とにかくこうして数年ごしの野望をどうにかした。
Capilla Real de Granada
前日に行った大聖堂の隣というかその一部の礼拝堂が博物館になっていて、絵とか王家の黄金の宝物などがあって(撮影禁止)、改めてイスラムとの対比でいろいろ思う。こんな違うのが、歴史的な段差はあるにせよ、よく近くに並んでこれたものだなー、というか宗教ってそういうものでもあるのよね。
空港に向かうバスに乗る前に帰り - 19:30発のBA便が遅れて22:30になるかも、ってメッセージが入り、こんなことならもっとゆっくりしたのにー、って嘆いても遅い。この空港にはラウンジもないし、スマホをチャージするとこもないし、ああ3時間あったら映画いっぽん見れたのに。
ガトウィックに着いたのは午前0時半くらい、1時過ぎの電車に乗っておうちには3時くらいに着いた。ちょうど丸二日間の旅になった。
11.11.2025
[film] Palestine 36 (2025)
11月2日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。 東京国際映画祭でも上映されていたやつ。
日曜の11:00始まりで、この時間帯の上映はがらがらであることが多いのだが結構入っていて、今になっても配給もしているCurzonでの上映館数は増え続けている - 多くの人に見られているということで、これはよいこと。
パレスチナ–UK–フランス–デンマークーカタールーサウジーヨルダンの共同制作で、UKはBBCとBFIがお金を出している。このふたつがお金を出している映画にはイギリス人に見てもらいたいものがある、というのが多い。当時のイギリスの曖昧な態度が今のガザの元凶としてある、というのを明確に描いていて、これはイギリス人でなくても見るべき。
作・監督はパレスチナのAnnemarie Jacir。
1936年に始まったアラブ反植民地蜂起を描いているが、冒頭には「あなたが生まれた年」と表示される。あなたがどの年に生まれていようが、1917年にイギリス軍がパレスチナに入り、同年のバルフォア宣言でパレスチナにおけるユダヤ人国家樹立を目指すシオニスト運動への支持を表明してからずーっとこの状態のままできているのだ、と。
いろんな人が出てくる - 政治家の曖昧な態度が人々の生活を動かしたり脅かしていく、それに抵抗して立ちあがる人々が出てくる、そういうドラマだが、難しいものではない、かといって単純なヒーローが現れて民衆が蜂起する、みたいなものでもない。パレスチナはイギリスの植民地としてあり、ついこの間、イギリスはパレスチナを国家として承認した。それまでの間、イギリスはイスラエルが入植して、そこに代々暮らしていたパレスチナ人の土地や仕事や命を奪うのを100年に渡って容認してきた、という異常な、狂った背景がまずある。
イギリスの一番上は高等弁務官のArthur Wauchope(Jeremy Irons)で、なにもしない彼の周辺にはよいイギリス人もいれば悪いイギリス人もいて、特に英国軍の大尉Orde Wingate (Robert Aramayo)は残忍で容赦ないのだが、上がなにもしないし、はっきり言わないので現地に暮らすパレスチナ人は虐待され、追い詰められていく。「なぜ?」に対する明確な答えがない状態、平気でダブルスタンダードをかざす言い逃ればかりで、結果的にパレスチナの住民はされるがままに弾圧され、土地は接収されてユダヤの国ができあがっていく。
この状態をおかしいと思ったジャーナリストのKholoud (Yasmine Al Massri)は、いろいろ書き始めるが、夫のAmir (Dhafer L’Abidine)はシオニスト団体から裏でお金を受けとっていることを知ったり。
パレスチナ側でフロントにくるのはKholoudのところに出入りしていたYusuf (Karim Daoud Anaya)で、彼も最初は穏やかに見ているものの、家族も含めて犠牲があまりに広がっていくし、黙っていれば拘束される、抵抗すればあっさり殺される、のどちらかのなか立ちあがるしかない、という瀬戸際の選択がいろいろな場面で起こるのだが、映画はどちらかというと居場所と家族を次々と失っていく女性や子供たちの姿を際立たせている。堪忍袋で勇ましく立ちあがる男たちの姿ではなく、立ち尽くすしかない彼女たちの姿を – ここははっきりと今と繋がって、お先真っ暗になるというより、なんとかしてあげられないか、になって、だから今見るべきだし、見たら焦点がはっきりと定まる、そういう映画だと思った。
あと、イギリス人のものすごく礼儀正しいし、ちゃんと返答してくれるけど、相手を下と見ると譲らないところは頑として譲らないでのらくらを続ける、あのいやらしい態度のことを思ったりした。
11.10.2025
[theatre] The Assembled Parties
11月1日、土曜日のマチネをHempstead Theatreで見ました。
原作はRichard Greenberg、2013年にBroadwayで初演された舞台が長い時間をかけてようやくロンドンに来た。ものすごくローカルくさい – NYのアッパーウェストに暮らす裕福なユダヤ人家族のお話しがなんで10年以上かけてロンドンの、West Endじゃないところで上演されるのか、わかんないけどおもしろそうだったので。演出はBlanche McIntyre。
舞台上には大きなソファ、背後に大きなクリスマスツリー、大きなダイニングテーブルなど、見ただけで家族親族のクリスマスの集いを待っているセット。ユダヤ人家族だけどクリスマスを祝おうとしている、そういう家庭の。
1980年の暮れ。そこのアパートのJulie (JenniferWestfeldt)が慌しくパーティの準備 - 鵞鳥とか - を進めているところに、みんなの期待の星、長男Scotty (Alexander Marks)のハーバードの友人Jeff (Sam Marks)が現れて、どちらかというと外から来たJeffの目で幸せそうな – でもよく見ていくとやっぱり解れたり壊れたりしている家族の面々とその関係を見ていくことになる。Julieの夫は裕福なBen (Daniel Abelson)で、Benの妹のFaye (Tracy-Ann Oberman)と、彼女の夫Mort (David Kennedy)と不機嫌そうなティーンの娘Shelley (Julia Kass)も現れて騒がしくなっていく。大学を卒業したばかりのScottyは見るからに疲れてあれこれどうでもよいかんじになっていて、小さい弟のTimmyはインフルエンザでみんなのところに行けないのでぐずっている。
ここまでで、不穏な関係とか誰かの邪悪な企てが明らかにされたり、誰かが誰かの追及の的になったり、関係の綻びが前面に出るようなことはなく、会話はどこにでもある普通の家庭の(部屋が多すぎて迷うんだけど、とかは除いて)レーガンの時代の(良くも悪くも)朗らか穏やかな家庭内の会話劇が展開されていって、そこにはなんの違和感もなくて、ふつうに楽しく流れていく。
休憩を挟んだ後半は、2000年、ここから20年後の同じアパートのクリスマスになる。
成功した弁護士になったJeffがやってきて、病気で弱っているJulieとの会話からBenもScottyも亡くなっていて、やがて現れたFayeからはMortも亡くなっていることを知る。 小さかったTimmyはTim(Scottyを演じていたAlexander Marksが二役)になって、大学を中退してレストランで働いていて生活は厳しそう。 時の流れを経て世間的には凋落した、と言うのかも知れないがそういうトーンのお話しではなくて、FayeとJulieの会話は変わらずに(変わっていないことがわかる温度感で)楽しく(伝わっていようがいまいが)転がっていくし、電話を通して意地悪してくるShelleyですらいかにも、だし。
20年間で変わったこと、失われてしまったものにフォーカスするというより、変わらずに or 変わっちゃったけどそこにあるものってなんだろうね? をぶつかったり確かめたりしあいながらassembleしていく、撚りあわせていく、そんなアプローチで、この先どうなっちゃうんだろう?… の閉塞感はあまりなくて、そうだよね、やっぱりそこに行くよね、が待っている。毎年のクリスマスがBing Crosbyの歌と共にそういうとこに落ち着くのと同じように。アンサンブル・ドラマとして、設定も含めてよくできている、というかこれしかないでしょ? みたいな出しかた。でも絆を確かめにいく系のくさいやつでもないの。
20年間の変化を示すのに、例えば長髪だったJeffの髪は短くなっていて、80年代の方のJeffはカツラを被っていたのか - でもあの髪型だと80年代は違和感ないな、って変なとこに感心したり。
あと、アッパーウェストのアパートの、パークアベニュー沿いのそれとはまた異なるクラシックな堅さというかどっしり根を張っているかんじ、がもたらす「ホーム」のありよう。Scottyが出たがっていたのも、Jeffがあんなふうに戻ってきてしまうのもわかるの。
11.09.2025
[film] Office Killer (1997)
10月31日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
特に宣伝していたわけではないが、BFIでは地味にこの日だけのハロウィン特集をやっていて、ここの2本と、BFI IMAXでは23時過ぎから”The Rocky Horror Picture Show” (1975)などを上映していた。ドキュメンタリーも上映されていたし、後楽園シネマ以来見ていないし行こうかな、って少し思ったがひとりで行っても楽しくないのでやめた。
Cindy Shermanの最初の、今のところ唯一の長編映画監督作品で、見たことなかった。よいかんじの35mmフィルムでの上映。
脚本はCindy Shermanを含めて4人、うちひとりはダイアログ監修としてTodd Haynes。音楽はEvan Lurieで、ちょっとつんのめったラテン、タンゴ風味で軽快に(ホラーのサウンドトラックではないかも)。
舞台はアメリカのどこかの都市 - NYではないような - の雑誌の編集部で、Kim (Molly Ringwald)とかNorah (Jeanne Tripplehorn)とかいきのいい若手が火花を散らしているものの売り上げはよくないので、オフィスの隅っこにいて地味でちょっと気味悪がられているDorine (Carol Kane)は総務のようなところに異動+在宅にされて、そんなある晩にPCの修理で電源をいじっていた若者♂がDorineの目の前で感電してコロリと死んじゃって、それを見ていたDorineは彼の死体を自宅に運んで地下に安置して、オフィスの上司名で社員宛に彼は出社していないけど大丈夫だから、とかメールを出す(昔のメールシステムは割とこういうことができたの)。
この件がきっかけになったのか、Dorineの殺人→死体を自宅の地下に運ぶ - は職場の同僚だけでなく頻繁に、しかも自分から積極的に殺しにいくようになっていくのだが、誰にも - 自宅には体の不自由で口うるさい母がいるのだが彼女にも - ばれないし、会社のみんなは突然消えちゃったけどおかしいなー、くらいで、家の猫だけが死体をがりがりしたりしている。
殺しの場面が生々しく描かれず、死体が滑稽な格好をして並べられているだけだし、なによりもDorineがそんなことをする動機がわからないのであまりホラー映画としての怖さは感じられなくて、その表層の晒しの微妙な異様さだけで何かを語らせようとするのは、彼女の写真と同じところを指向しているような印象があったかも。彼女のポートレートはDorineのやっていることと同じようなものだ、とまでは言わないけど。
The Hunger (1983)
↑のに続けてBFI Southbankで見ました。
これは恥ずかしながらこれまで見たことがなくて、この頃のBowieには、こんな映画にでてないで、”Let’s Dance”とか言ってないで、ちゃんとした音楽作って、ってずっと思っていた。ことを思いだした。
最初は兄のRidley Scottのところに話が行って、でも兄は”Blade Runner” (1982)で忙しく、マネジメントが同じでCM業界にいた弟、Tony Scottに振って、これが彼の監督デビュー作となった。原作はWhitley Strieberの同名小説を緩く翻案している。
冒頭、いきなりBauhausの”Bela Lugoshi's Dead”が聴こえてきて(イントロですぐわかる)、あらあら? と思っているとPeter Murphyの顔が大写しになるのでなんだこれは? になった。(エンドクレジットでは、Disco Band … Bauhaus と出るので場内爆笑..)
現代のNYに暮らすMiriam Blaylock (Catherine Deneuve)は古代エジプトの頃からずっと不死でやってきているバンパイヤで、パートナーらしいJohn (David Bowie)と一緒にBauhausが演奏していたクラブで若者を引っかけて、Johnと暮らすタウンハウスに連れこんで吸血してポイ、をしたりしている。
と、Johnが急に老けこんできて、病院に行っても医師のSarah (Susan Sarandon)は忙しくて相手をしてくれなくて、そうしているうちなJohnはどんどんよぼよぼのおじいさんになっていって(ここ、シリアスな描写なのだろうがなんかみんな笑ってしまうのだった)、やがてMiriamはSarahと恋仲になって…
まだとんがったCM表現がハイアートとみなされていた時代のビジュアルは見事なのだが、彼ら全員が美しく磨かれて映しだされればされるほど、なんとなく笑いが滲んできてしまう。この傾向はTwilight Sagaにもある気がするのだが、なんなのだろうねー、って思った。不老不死って、どこか滑稽に見えてしまう要件があるのだろうか。
それだけかー、なのかもしれんがハロウィンなんてこの程度でよいのだ、って夜道を(振り返らずに)小走りで帰った。
11.06.2025
[theatre] Bacchae
10月25日、土曜日のマチネを、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。
この春にNational Theatreの新たな芸術監督に就任したIndhu Rubasinghamによる最初の舞台演出で、ギリシャ悲劇エウリピデスの『バッコスの信女』を俳優でラップアーティストでもあるNima Taleghaniが劇作家デビュー作として翻案したもの。 いろいろ元気があって威勢はよいことはたしか。
Olivier Theatreの楕円形のでっかい照明が月のように威圧的に宙に浮いていて、傾斜のある平な岩がそれに沿うように層をなして積みあがっていて、なかなかアポカリプスなふう。場面によって岩岩がぐぉーってゆっくり回転していったりする。
神デュオニソス (Ukweli Roach)が傲慢な人間の王様ペンテウス (James McArdle)によってバカにされたので頭にきて山中に囲っているバッコスの信女たちを率いて人間の世界に乗りこんでいく。いろいろ姿を変えていくデュオニソスは金ラメの衣装でイキるラッパー(たぶん歯にはダイヤモンド)で、彼に山中に連れてこられた信女たちにはVida (Clare Perkins)っていうリーダーがいて、毛皮や襤褸をまとった裸族のよう(でもメイクとかはして髪の毛もちゃんとしている)で、全員がふた昔くらい前のミュージックビデオに出てくるようなおらおらした威勢のよいヒップホップのナリで、どうせ浮世離れした現実世界の話ではないから好きにやっちゃえ、ということなのだろうが、どうなんだろうか? 預言者テーセウス (Simon Startin)はガンダルフみたいな世捨て人のナリでおろおろしているし、全体に漫画というか、ミュージカルにできそうな、することを狙ったエンタメっぽい雰囲気。9月末にShakespeare’s Globeで見た”Troilus and Cressida”に雰囲気はやや近くて、ふたつの勢力がぶつかり合うために(ちょっと楽しそうに)ぶつかっていくような。
ギリシャ悲劇の現代演劇化、というのが過去からどんな形で変遷してきたのか、今度のこれがどれくらいとんがったものなのか、はわからないのだが、タイトルであるBacchae(信女たち)の偏見込みで人からも神からも虐げられ、男たちの好きにされて岩山に追いやられた女性たちの吹き溜まった怒りが互いにどつきあいながら渦巻いていくかんじはなかなかよくて、それが女装してのこのこやってきたペンテウスを八つ裂きにしてしまうところは楽しめる - 楽しんでしまってよいのか、は少しあるが、でももっといまの世の中の虐待を受けたり疎外されたりしてきた女性たちのふざけんじゃねえよ、の怒りをぶちまけて狼煙をたくようなものにしてもよかったのでは、とか。 同様にアガウエー (Sharon Small)が嬉々としてぶらさげていた首が我が子のペンテウスのものであることを知った時の悲嘆も、そんなに響いてこない気がした。 ドラマチックであり、エモが炸裂するシーンであることはわかるのだが、なにかが薄まってしまっているような。 それが音楽によるものなのか衣装や舞台装置によるものなのかはよくわからなくて、うんとラディカルな、すごいことをやっているかんじが来ない。神々(と人間)の物語に込めるもの、込められていてほしいもの、のギャップだろうか。これだと神も人も、どっちも割としょうもないな - 実際そうであるにしても - で終わってしまうし、Bacchaeもずっと世に放たれずにあの岩山に残されたままなのかな、って。
11.05.2025
[film] The House of Mirth (2000)
10月26日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
ここの11月の特集で、”Love, Sex, Religion, Death: The Complete Films of Terence Davies”というTerence Daviesのレトロスペクティヴが始まっていて、これもMelodrama特集と並んで重いったらないのだが、英国にいるなら見ないと、ということで見始めている。特集の予告にはPet Shop Boysの"Paninaro"が流れたりして、なかなかよいの。
で、これはリリース25年周年を記念してBFIがリマスターしたものを特集と並行してリバイバル公開していて、全体にあまりに美しい絵が続くのでびっくりした。なんでこれが日本で公開されていないの?
原作はEdith Whartonの同名小説(1905)。翻訳のタイトルは『歓楽の家』。映画化されたWharton作品というと”Age of Innocense”(1920) - 映画版は1993 年 - が有名だが、これも負けていなくてすごくよい。監督・脚色はTerence Davies、撮影は”Elizabeth” (1998)のRemi Adefarasin。
UK - Germany - US合作で、20世紀初頭のNew Yorkが舞台だが撮影の殆どはグラスゴーで行われている。つまり、2000年のグラスゴーは100年前のNYであった、と。
20世紀初のNYの社交界で、Lily Bart (Gillian Anderson)は強い財力やバックがいるわけではないのだが、派手で華やかなのでそれなりの人気はあって、いつも話をする弁護士Lawrence (Eric Stoltz)をちょっとよいと思って頻繁に会ってはいるのだが、彼の収入が少ないので結婚相手としては考えていなくて、でもそうすると金融をやっている金持ちのSimon (Anthony LaPaglia)かただの金持ちのPercy (Pearce Quigley)くらいしか現実的な選択肢はなく、でも何度か誘いをすっぽかしたらPercyからは見向きもされなくなり、Simonは見るからにただの金持ちで中味なさそうだし、と、将来がいろいろ不安になってきたので友人の夫でやはりお金持ちのGus (Dan Aykroyd)に相談してみると投資のためのお金を出してくれて、でもその見返りとしてオペラの帰りに屋敷に連れこまれたので拒否したり、Simonからもプロポーズされるのだが、やっぱり嫌なものは嫌で、あれこれもうやだ! になっていたところで、友人のBertha (Laura Linney)夫妻からヨーロッパクルーズに誘われて行ってみるのだが、Berthaの不貞の噂話で疑われて結局孤立してひとり帰らされてしまう。
こんなふうにどこに行っても十分な財力も後ろ盾(男)もいないし、それを求めてもろくな選択肢も見返りもなくしょうもないのに当たったり勘違いされたり裏目に出てばかり、そうしているうちに友人がひとりまたひとりと離れていって結果的に社交界から孤立して脱がされるように借金まみれになり、職にも住む場所にも困るようになっていくさまを絵巻もののように淡々と描いていく。
抜けられない愛憎劇があるわけではないし、運命の急転をドラマチックに怖ろしげに描くものでもないし、そんな社会の非情を訴えるわけでもなく(少しはあるけど)、すべては壁のように動かし難いものとして巌としてあるだけで、カメラはもう少し将来のことを考えて人生設計すればよかったのに自業自得 - と指さされているかもしれないLily = Gillian Andersonの表情を正面からずっと捉えていって、でもそうされてもどれだけ落ちても揺るがずに正面を見据えているLilyがすごいの。最後にひとりめそめそ泣いてしまうのはLawrenceの方だったり。
Gillian Anderson、こんなにすごい人だったんだー、って。こないだ見た”The Salt Path” (2024)で、無一文になっても超然と山歩きと野宿を繰り返していた主人公の姿が重なるし。
11.04.2025
[film] Springsteen: Deliver Me from Nowhere (2025)
10月27日、月曜日の晩、Curzon Bloomsburyでみました。
監督はScott Cooper、脚本は監督とThe Del Fuegosのギタリスト - Warren Zaneの共同、撮影はMasanobu Takayanagi。
“A Complete Unknown”でTimothée Chalametが周囲から眉をひそめられつつエレクトリックに向かうBob Dylanの像を演じたように、Jeremy Allen Whiteが絶頂期に周囲の困惑を振り切ってアコースティックに向かっていくBruce Springsteenを演じている。
“A Complete Unknown”に”Deliver Me from Nowhere”と、どちらのタイトルも謎めいていて本当のところは? みたいにぼかしているものの、本作はBruce本人がNYFFにもLFFにもやってきて直にプロモーションしているので、”Deliver Me from Anywhere”にしたってよいくらいかも。
冒頭はモノクロで描かれるBruceの幼少期の姿で、酒浸りで暴力的な父(Stephen Graham)の下で母(Gaby Hoffmann)と怯えながら固まって暮らしていて、そこから成功した”The River” (1981)のツアーで”Born to Run”を熱唱するBruce Springsteen (Jeremy Allen White)の姿にジャンプして、誰もが金字塔となるであろう次作での大爆発/大儲けを期待するのだが、彼はColts Neckに一軒家を借りて、Flannery O’Connorの本を横に置いたりしつつ、Mike Batlan (Paul Walter Hauser)にマルチトラックのカセットレコーダーを持ってこさせて、アコギ1本で録音を始める。
町をうろついて、シングルマザーでウェイトレスのFaye (Odessa Young)と仲良くなったりするものの、どこに向かっているのかは本人にもわからないまま彷徨っているようで、都度子供の頃の虐待の記憶が蘇ったり、昔の殺人事件のニュースが目に入ってきたり、外から眺めれば成功の後のスランプ… のように見えるのだが、レコード会社の上の連中はそんなの理解できなくて、プロデューサーのJon Landau (Jeremy Strong)だけが静かに彼を見守っている。
やがてBruceはギター一本でカセット録りしたデモの音そのままの状態のをどうしてもリリースしたい、ってゴネて、これがやがて”Nebraska” (1982)になるわけだが、これくらいのことは当時のインタビューでも語られていた気がするし、彼のような音楽をつくる人のドラマとしてそんなにおもしろいものでもないような - 湿った質感の映像はとても素敵なのだが。
むしろ”Nebraska” の後、”Born in the U.S.A.”(1984)の最初のシングルが、ぱりぱりの”Dancing in the Dark”で、アルバム全体もBob Clearmountainミックスのプラスチックな質感になった/してしまったことの事情とかの方を知りたい。時代?
あと、これを音楽映画とするなら、ライブや演奏シーンの映像が圧倒的に少ないのが不満としてはある。アメリカのストーリーテラーとしての彼もあるけど、80年代から3時間超えのライブをずっと続けてきている、そっちの方のパワーの謎と驚異を描くことだってできたのではないか。ドキュメンタリー “Asubury Park: Riot, Redemption, Rock & Roll” (2019)で描かれたあの時代の海辺の町を舞台に。
わたしがはじめて”Born to Run”を聞いたときは既にJohnny Thundersの”Born To Lose”を聞いた後だったのでBruceには乗れず、一番聴いたのは”Darkness on the Edge of Town”だったが、この辺りから、彼の聴き手周辺ってミュージシャンも含めて走るんだぜ、みたいなバカが大量発生して(うんざりするくらいいっぱいいたのよ)ひどかったのでちょっと距離を置いてしまったまま。 みんなまだ走ってるのかな?
ニュージャージー関連でもうひとつ、10月25日の土曜日の昼、Charing Crossの書店Foylesで、”Jon Bon Jovi in Conversation”っていうトークイベントがあった。イベントの2日前くらいに告知がきて、お代は£70(うちサイン本が£60)もしたのだが、なんとなくどんな人なのか見たくて取った。11時開始の先着順の入場で9:30に行ったら既にすごい列だった。
今回リリースされた本”Bon Jovi: Forever”、本として値段は結構高いのだが、80年代からのライブの記録やチケットの半券まで、ものすごい細かさと物量で見てて飽きなくて、ファンの熱がこもるとこういうことになる、よいサンプルだと思った。
トークは、本当に率直に語るよい人で、アスリートかアストロノーツかロックミュージシャンになるしか抜け出すことができないニュージャージーの荒野からどうやって、について、裏か表かわかんないけど、Bruceの話にも繋がるような気がしたのと、闘病の話になったら(ケアしてくれた人への感謝で)声を詰まらせてしまったり。
オーストラリアから来ている人、80年代からずっと追っかけしている人(彼に指さされてた)、よいファンに囲まれてきたんだなー、って。
11.02.2025
[film] Stiller & Meara: Nothing Is Lost (2025)
10月27日、月曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
Ben Stillerの監督によるドキュメンタリー作品で、こないだのNYFFでプレミアされ、Apple TV+でも配信が始まっているので、日本でも見れるのかしら?
Ben Stillerが彼の両親 - Jerry StillerとAnne Meara、60-70年代のTVを中心としたショウビズの世界で花形だった夫婦コンビの足跡を辿っていく。
まず、Benが両親が住んでいた(Anneは2015年に、Jerryは2020年に亡くなっている)NYのアパートに足を踏みいれると、膨大な量のフィルム、写真、手紙、メモラビリア等がぜんぶ遺されていて、TVのThe Ed Sullivan Show等を中心としたフッテージ - ユダヤ人の夫とアイリッシュの妻、とか - の数々、彼ら二人が遺したホームムービーなどから振りかえりつつ、彼らが辿ってきた道と、途中からBenと姉のAmyも生まれて家族ができて、セレブとして多忙だった彼らの家族として過ごすのってどういうことだったのか、等も含めて追って、そこにはBenの妻や子供たちも加わる。
Anneはコメディではなく俳優を志望していて、でもJerryと出会ってコメディの道に入って、漫才コンビとして成功して、生活も安定して、アメリカ中を転々とするような生活になって、幼いAmyやBenからするとそんなに幸せではなかったようなのだが、でも、大量の記録を通して浮かびあがってくるのは、どれだけふたりがずっと愛しあっていて、どれだけ子供たちのことを気にかけていたかで、それはこの、ここで映しだされる分も含めた記録の総量を見ればわかるし、だから”Nothing is Lost”なんだよ。彼らはいなくなってしまったけど。
ということを、Ben Stillerが自分と、自分の今の家族にも言おう、言わなければ、と思って作った作品で、それはJerryとAnneがずっとお互いに見つめ合って言い続けていたこととも重なって、ああ、ってなる。家族ってそういうものだ、って言ってしまうのは簡単だけど、こんなふうに正面きって言う – ずっとぺらぺら冗談ばかり言っていたBen Stillerがふと真顔になるあの瞬間を思いだしたり。
Benが父に今の自分ほど有名じゃなかった、って言うと横にいた母が即座にあなたおねしょしてたでしょ、ってBenを激怒させたりとか、とにかく素敵な家族なの。
Omar and Cedric: If This Ever Gets Weird (2023)
10月18日、土曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
こんなの見にくる人いるのか? と思ったが結構入っていた。でもここの上映のローテーションには入っていないみたい。
Omar Rodríguez-LópezとCedric Bixler-Zavalaの80年代から、特にAt the Drive-InとMars Voltaを中心とした活動の記録。タイトルの”If This Ever Gets Weird”はその後に、すぐにやめような、が来る。
監督はNicolas Jack Daviesで、上映前にシアターに顔を見せて、トークとかできないけど、上映後も上のバーにいるからなんか聞きたいことあったら声かけて、と。
監督はいるのだが、素材の殆どはOmarがずっと撮り続けてきた膨大な量のビデオや写真で、一番古いのは80年代のプエルトリコからやってきた移民としての家族のこと。そこから、テキサスのハードコアシーンでのふたりの出会いから、あきれるくらいにぜんぶ揃っていて、そこにOmarとCedricが交互にナレーションを被せていくので、ドキュメンタリー作品としての強さはあまりなく、ふたりによる活動の回顧-総括みたいなものになっていて、このふたりについてはそれでよいのかも。 上映時間は127分だが200分にしたって見たい人は見るだろう。
At the Drive-Inが爆発して、そのピークに分裂してMars Voltaを作った頃のなぜ?についてもJeremy Wardの死についても、CedricのScientologyの件についても、Teri Gender Benderのことも、彼ら自身の言葉で率直に語られているし、おもしろい、というのとは違うのかもしれないが、バンドの活動を記録する、というのはこういうことだよね、というのがよくわかる内容になっている。 と同時にOmarのばけもののような創造の裾野、その広がりを目の当たりにして、なんてすごい、になる人はなると思う。
Kim Novak's Vertigo (2025)
10月18日、土曜日の午後、LFFをやっているBFI Southbankで見ました。少しだけ書いておく。
監督はAlexandre O Philippeで、監督自身が大ファンであるKim Novakの自宅を訪ねていろいろ昔話を聞いて記録していく。
タイトルから、彼女の名を一躍有名にしたAlfred Hitchcockの”Vertigo” (1958) - 『めまい』の撮影時のことなどが、スキャンダラスなところも含めて赤裸々に語られるのかと思ったのだが、そうではなく、彼女のキャリアを振りかえって、自分がいかに恵まれたスタッフやキャストに囲まれて「女優」として成長できたか、等について感謝を込めて語っていく。クライマックスは、ずっと箱にしまわれていた『めまい』でのグレイのスーツを出して抱きしめるところで、分裂をテーマにしていたあの映画のあれこれが幸せに統合されていくようでよかったねえ、になるのだが、他方で、(犬猿だったと言われる)Hitchcockのことがあまり出てこないのは、ちょっと残念だったかも。
[film] Frankenstein (2025)
10月26日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
LFFでも上映されていた、Guillermo del Toroによるフランケンシュタイン。
原作はMary Shelleyの小説 – “Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)。
人間の欲とか傲慢が生みだした半(反 or 超?)自然が作りあげた「人間」になれない、なりきれない怪物、化け物が必然的に巻きおこしてしまう悲劇を、そのどうすることもできない情動と共にメロドラマとして描く、これを通して「人間」の異様なありようを逆に露わにする、というのがdel Toroが一貫してやってきたことではないか、と思っていて、今度のも怪奇ではあるけどホラーではない。ただそこから宣伝コピーにあるような”Only Monsters Play God”の領域まで行けているのか、については微妙かも。
上映前に録画されたdel Toroの挨拶があって、最初にBoris KarloffのFrankensteinを見たのは父に日曜日の教会に連れていってもらった後で、なので自分にとってのFrankensteinの記憶は、教会と共にある、と語っていた。
二部構成で、最初がVictor Frankenstein (Oscar Isaac) - 造ったひとが語るお話し、後半がFrankenstein (Jacob Elordi) - 造られたモノが語るお話し、で、冒頭、北極海で氷で動けなくなった大きな船にひとりの男と毛皮に包まった大男が現れて船員たちと暴れて騒動を起こして、結果瀕死になった男 - Victorはなんでこんなことになったのかを振り返って語り始める。
厳格かつ傲慢な父 (Charles Dance)のもとで捩れて、でも先鋭的な医学者となったVictorは学校で寄せ集めの器官から永遠の命をもつ人造人間のデモをして顰蹙をかうのだが研究を止めず、そこに叔父の武器商人Harlander (Christoph Waltz)が出資してくれて戦場から適切な屍体を調達して理想のあれを造っていく話しと、そこに優しい弟のWilliam (Felix Kammerer)と彼の婚約者のElizabeth (Mia Goth)が絡むのだが、結局は誰の話しも聞かない妄執に駆られて爆発していくVictorの野望がdel Toro得意の(やりたくてたまらない)でっかい機械装置と共にぶち上がり、その崩壊と共になし崩しで野に放たれる。
後半のFrankenstein - 怪物パートは、凶暴で言葉を持たず愛を知らなかった彼がElizabethや老人との出会いによって少しづつ獣からなにかに…
父親の冷血とネグレクトがVictorを歪な方に導いて、Victorはその最期に怪物を、っていうのは原作もそうだったっけ? というのと、結局これだと神=父、になっちゃうのはやだな、っていうのと、だから素敵なElizabeth = Mia Gothがもっと前面に出てほしかったのになーとか、ものすごいオトコの野蛮さを素直にあっさり垂れ流していて、怪物をあんなきれいな顔のにしたとこも含めてどうなのか。最近のスーパーヒーローものの設定やストーリーラインにきれいに乗っかれそうなところがちょっと嫌かも。
エジンバラの要塞のような施設とか教会とか、美術はお金かけてて荘厳ですごく圧倒的に見えるのだが、闇の深さが足らなくてちょっと軽くて紙のように見えてしまうところもある。
あと思うのだが、怪物に毛皮いらないよね。北極の海に落ちたって死なないんだから。
“Poor Things” (2023)もそうだった気がするが、人間を造る、みたいなことをやると、その監督のすべてが隅々まで出るよね - よくもわるくも。というかすべてを曝け出してわかってもらいたいちゃんがこういう人造人間モノを造るのではないか。