新しめのばかりを書いている気がするが、古いのも好きなので地道に見ている。BFI Southbankの4月のもうひとつの特集がGene Tierneyの – “Out of the Shadows: The Films of Gene Tierney”で、見たことある作品も多いのだがやっぱり何度でも見たくて、月初にNYに行ったりして見逃してしまったのもあり、全11本のうち6本しか見れなかった。くやしい。
Laura (1944)
4月13日、土曜日の午後に見ました。
Otto Premingerによる問答無用のノワールの傑作と言われている。不可解な死をとげたLauraの聞きこみ捜査をしていくNY市警の刑事が彼女の見える顔見えない顔、その謎の部分に引き込まれて狂っているのか狂っていないのか、手もとでスマホのゲーム(今ならそう)をやっているうちに自分でもわからない穴にゆっくりと嵌っていく。夜の街で、明らかに狂ったなにかを追っていくうち、気がつけば狂っていたのは自分(たち)だった、という転換 - ノワールの黄金律みたいのがたっぷり詰まっていて、何回見てもおいしい。
Leave Her to Heaven (1945)
4月14日、日曜日の午後に見ました。監督はJohn M. Stahl。邦題は『哀愁の湖』、だって。
小説家のRichardと運命の出会いをした(と思いこんでしまった)Ellenがいて、亡父を盲目的に愛していた彼女は同じようにRichardも愛するのだが、つい愛しすぎて彼を独占したくて邪魔で気にくわない親族や自分の子まで端から消していって何が悪いのよ、って最後に自分まで消してしまうの。
どろどろの毒婦/愛憎劇にしようと思えばできたであろうに、そうはせず、ぜんぜん報われない愛を求めて止まない彼女のふるまいを綺麗なテクニカラーのなか壮麗に描いていて、かっこよく見えたりもする。最後の裁判シーンで露わとなるぼんくらまみれの男たちに囲われてしまったのが悲劇のー。
終わって拍手がわいた。
Night and the City (1950)
4月20日、土曜日の午後に見ました。邦題は『街の野獣』。
赤狩りでフランスに逃れる手前の監督 - Jules Dassinが”The Naked City”(1948)でのなんでもロケ主義をNYからLondonに持っていって、とにかく金を稼いで名をあげたい、ってイキるちんぴらをRichard Widmark が演じて、とにかくこいつがひとりで一晩中ずーっと走り回っているので、こんなのが近くに寄ってきたら誰でも消えてくれ、ってなるのではないか。Gene Tierneyはなんでこんなのを信じて一緒にいようと思うのか謎(そっちの方の謎)の役で、全体に熱すぎてノワールぼくないかも。
スケールがでかいのかせこいのかよくわかんないまま闇雲に裏道抜け道を転がっていく話で、そんなありようはなんとなくLondonぽいかも、と思った。
今なら親子プロレスラーもの”Bear Hug”としてリバイバルか、リメイクできるかも。
Whirlpool (1950)
4月21日、日曜日の晩に見ました。
監督はOtto Preminger、脚本にはBen Hechtの名も。邦題は『疑惑の渦巻』。
Gene Tierneyは高名な医師と結婚して幸せなはずなのにデパートで万引きをして捕まって、でもその場にいた催眠術師のJosé Ferrer に助けられ、これで彼女の弱みを握った彼は彼女に催眠術をかけて殺人容疑者の肩替わりとか証拠隠滅とか悪いことをさせたりするのだがー。
まず夫も医者なら気付けよ、って思って、でもそうはならないところがなるほどー、とか、でもやっぱり、そんな回りくどいことしないで最初から殺したかった相手に強引に催眠術かけて言うこと聞かせればよかったのでは、とか。
ここでのGene Tierneyは一貫して男たちの被害者でありながら、本当にそうなのか? 彼女は催眠状態ではなくすべてをわかってやっていたのではないか? という別の渦の方に見ているものを誘う。渦を作っていたのは誰か? とか。
The Ghost and Mrs. Muir (1947)
4月23日、火曜日の晩に見ました。
監督はJoseph L. Mankiewicz。邦題は『幽霊と未亡人』 - ちゃんと”Mrs. Muir”って名前で呼べ。
夫を亡くしたGene Tierneyがうざい姑たちから逃れるべく、一人娘(成長するとNatalie Wood)と家政婦を連れて海辺の一軒家に引越したら、格安だったそこは船長だったRex Harrisonの幽霊のいる訳あり物件だった。
が、なんとなく幽霊と話していて仲良くなってしまった彼女は船長の経験をもとに本を書いて出版社に持ち込んで、そしたらこれおもしろいって出版することになって、そこで知り合ったGeorge Sandersと婚約するとこまでいくのだが…
ふたつの世界を行き来する恋物語、というより息の長い、スケール大きめの話で、でもラストは爽やかに泣かせてくれて、こないだの”All of Us Strangers”(2023)もこれくらい攻めてほしかったかも。
海の描写がすごくよくて見ているだけで気持ちよくて、それだけで名作。
Where the Sidewalk Ends (1950)
4月27日、土曜日の午後に見ました。
監督はOtto Preminger、この脚本にもBen Hechtの名が。邦題は『歩道の終わる所』 - は車道? 獣道?
暴力的な捜査や尋問で上からうるさく言われているNYの刑事 - Dana Andrewsがいて、ギャングの賭博のいざこざに絡んだ殺人事件の捜査で、容疑者のやくざのとこに行ってそいつを殴ったらあっさり死んじゃって、隠蔽工作などをしてみるのだが、殺したやくざの妻だったGene Tierneyと会ったり彼女の父のタクシー運転手が逮捕されたのを見ていくうちに…
Dana Andrewsの同期で先に出世した奴のねちっこくやらしい推理が夜の終わらないかんじとうまくリンクしてて、こんなんじゃみんな荒れてぶん殴ってしまうかも、とか。
ぶん殴るとこがそんなに痛そうに見えなくてちょっとお上品かも、って思った。Raoul WalshとかJohn Hustonのぶん殴り方と比べてしまうと特に。
Gene Tierney、いまの女優でいうと誰かしら? ってずっと転がしてて、Léa Seydouxあたりかも、と思った。 一見愛想のよいただの美人さんのようで、実はとんでもない強さとか影 (Shadow) を抱えてて、相手を - 時には自分も含めて - 軽く道連れに、共犯者にしてしまう、そんなしなやかな強さがあって、横に並ぶ男たちを一瞬でただの愚鈍のぼんくらに見せてしまうとこ、とか。
4.29.2024
[film] Out of the Shadows: The Films of Gene Tierney
4.27.2024
[film] Sometimes I Think about Dying (2023)
4月19日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。上映後に監督のRachel Lambertと主演のDaisy RidleyのQ&Aつき。
オレゴンの小さな町の小さな会社 – なにをやっている会社なのかはわからず – で事務をしているFran (Daisy Ridley)がいて、出社するとすぐ机に座ってPCをONにして仕事にかかる。同僚への朝の挨拶もしているかしていないかくらい小さくて、職場でドーナツが出ても手をつけず、世間話にも興味がなくて、髪も適当のほぼすっぴんでPCに向かっているだけ。
という典型的に地味で最近の「ワークスペース」なんて呼び方とは程遠い殺伐としたアメリカの職場の描写が続いて、それだけでなんか嬉しくなってしまったので、以降、レビューとしてあんまちゃんとしたものになっていないかも。
パーティションが切ってあって、見たくない話したくないときは逃げることができて、窓から見える風景もどうでもよい殺風景なもので、少しケミカルの匂いがしてて、給茶コーナーではいつも誰かだらだらしていて、文具コーナーはいつも出しっぱなしで殺伐としてて、要は朝来て仕事をして夕方になったらばらばらと帰る、それだけの場所でしかなく、孤立しているというより別に誰とも仲良くなりたいと思わないしこのままずっと仲良くなくて構わないと思っているFranは”Sometimes I Think about Dying”で、窓から見えるクレーンで首を吊られたり、自動車事故にあったり、蛇に襲われたり、森のなかで横たわったまま虫にたかられていたり、といったことを夢想してうっとりする。自殺したい、というのとはまた別で(わかんないけどたぶん)、自分が打ち棄てられてそのまま朽ちていく - それが持続している状態でありたくて、それを別の自分が見つめて夢想する - 心理学的に説明できるなにかはあるのかもしれないが、その状態の解析や分解に向かうことはなく、Franの職場でのそういう状態 - 仕事というよりはSpreadsheetが好き、って言ってしまうとか、独り暮らしのアパートでレンジご飯を食べたらTVも見ずに22時には寝るとか - のそういう無風で無表情な状態と自分の死んだ姿が対置されていく。 自分も職場ではそういう妄想を30年以上続けているので賛同しかない(のでレビューとしては…)。
ある日、彼女の職場にRobert (Dave Merheje)というハゲの中年男が中途で入ってきて、人柄は悪くなさそうで危険なかんじもしない、彼がFranにチャットで事務のことなどを聞いてきたことをきっかけに少しFranの方から近寄ってみて、仕事の後に映画を見て食事をして、というのをやってみる。でも映画オタクっぽい彼とは何一つ嚙みあわず気まずいままで転がっていくだけで、翌日の彼は前より素っ気なくなっていて、でもここで引き下がったらこれまでと同じになってしまう、と思ったのかどうなのか、飛び降りるかんじで彼の家でのパーティに参加してみるのだが、でもやっぱり…(以降、既視感たっぷりというか、いたたまれないあのかんじの繰り返し)。
という、ふつうのラブストーリーのようなところに落ちる要素がまったくない地味な映画で、最後のほうでしょんぼりしたFranが退職したばかりの女性 - 職場の同僚だった頃は特に親しくもなく、彼女への寄せ書きを書くのも困ったくらい – と偶然再会して少し話してほんの少しだけ何かが… というお話し。
それだけで、映画としてはあまりにも地味すぎてなんもなくて - 厚めの音楽とタイトルの書体とかはちょっとゴージャスかも - こういう不愛想でどん詰まった主人公を描くのであれば同じくオレゴンを舞台にするKelly Reichardtみたいなやり方もあるのに、とか思わないでもない。のだが、Daisy Ridleyの演じるFranはSWのReyの1/10000も動いていないけど、たったひとりだけど、間違いなく一貫した像をつくってそこにいる。そこはよいと思った。
上映後のQ&Aはそんなにおもしろい話はなかったのだが、Franの死体にたかっていた虫たちは本物だったんだって。
4.25.2024
[film] L'ombre de Goya par Jean-Claude Carrière (2022)
4月16日、火曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
英語題は”Goya, Carrière and the Ghost of Buñuel”。監督はBoschのドキュメンタリー”El Bosco. El jardín de lossueños” (2016)などを手掛けたJosé Luis López-Linares。
Jean-Claude Carrière (1931-2021)がスペインのGoyaの生家やゆかりの地を訪ねたり、プラド美術館の前で個々の作品の前に立ったりしながら、自分の作品に決定的な影響を与えた - のはもちろんだがそれ以上に幽霊として取り憑いて離れないGoyaの世界について語っていく。彼にはMilos Forman監督によるフィクション – “Goya's Ghosts” (2006)があったりするのだが、そこには触れずに初めて絵の前に立ったときの驚きと共にひとつひとつ。 最初の方で出てくるのがプラド美術館にある“The Threshing Ground or Summer” (1786) -『脱穀場』で、ここにどれだけ多様で雑多なものが描かれているか、いかに構図としてすばらしいものか、描かれている人たちが、その階級も含めてそこで生々しく生きているのか、向こう側の世界、過去に向けた親密な目とともに語って、その目線が表面から想像の世界にまで降りてくると、少しづつLuis Buñuelが顔を出すようになる。このドキュメンタリーにCarrière自身がWriterとして関わっているのでこの辺の組み立ては十分に狙ったものなのだろう。彼の他にCarlos SauraやJulian Schnabelもコメントしたりするが、彼らは別になくてもよいかんじ。
Goyaの個々の作品と掘ればいくらでも出てくるその深さ – 映画のポスターになっている肖像画“The Black Duchess” (1797)から展開していく「指」のおもしろいこと – などについて語りながら、実は自分自身(の作品)について語ってしまっている – 相手がGoyaのような巨匠に対してそれが許されるのは限られた人だと思うのだが、ここではすべての語りが単なる絵画の解説の域を越えて、すんなりとこちらに入ってくる。まるでGoya自身が何かを言わんとしているかのように。
Carrièreはこれを撮りながらおそらく自身の死を十分に意識していて、でも、だからこそ作品やその土地を前にして自分の言葉でGoyaが見ていた何かを語りたかったのだと思う。その相手、向かう対象が一緒に仕事をしていったBuñuelではなくGoyaだった、というのは、それ自体がCarrière/Buñuel ぽいというか。
今度マドリッドに行ったらあの教会には行かねば。
John Singer Sargent: Fashion & Swagger (2024)
4月16日、火曜日の晩、↑のの前にCurzon Bloomsburyで見ました。最初にGoyaのチケットを取って、その前になんかやっていないか見たらこれがあったので、この晩は美術のお勉強映画2本立てで。
日本でも見られるのどうかは不明だが、Exhibition On Screen (EOS)というシリーズがあって、話題の展覧会とか画家とかテーマを取りあげて、英国だと配信で£4.99とかで見ることができる(映画館だと£6.99だったか)。そのシリーズの1本で、ここでも感想を書いたTate Britainでやっている展覧会 – “Sargent and Fashion” – 昨年ボストン美術館では”Fashioned by Sargent”のタイトルで開催された - を取りあげたもの。Tateのはすごくよい展示だったのでまた行きたいと思っている。
内容としてはキュレーターやいろんな専門家が展示の内容に沿ってJohn Singer Sargentの足取りを説明していくもので、日曜美術館あたりとはやはりレベルがぜんぜん。
Sargantの絵に出てくる実在の人物 - 多くはスポンサーのお金持ちやセレブ – Swagger – こちらに向かって見得を切ってくる人々のポーズや表情、目線や指先の仕草の独特さ、ジェンダー(クイアー)アイデンティティ、そんな彼らひとりひとりの身体を覆う、その上に被さったり覆ったりする布や衣服の、ブラッシュ・ストロークの調味料の怪しさと不思議なかんじ – それがどんなふうにその人物の威厳や特別さ、ずっと残るその人の像を引きだすことに成功しているか、について、例えば写真家のTim Walkerが熱く語って、彼がTilda Swintonをモデルに撮ったポートレートなども参照される。
そして絵画の横に彼らが纏っていた衣装(のほんもの、それに近いもの)が並べられることで、その魔法の効力と不思議さを改めて思い知ることになるの。画家以前のスタイリングやコーディネーションのようなところで、既にとんでもなく見る、というより引き出す力があったのではないか、と。
制作当時にしては規格外でスキャンダラスに見えるものもあったみたいだけど、今見ると割とふつうに入ってきて、かっこよいったらないしー。
今週末はTate Modernで始まった”EXPRESSIONISTS KANDINSKY, MÜNTER AND THE BLUE RIDER”にいくんだー。
4.24.2024
[film] El sol del membrillo (1992)
4月17日、水曜日の晩、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。
これはまだ見たことがなかった。英語題は”The Quince Tree Sun”、米国でのタイトルは”Dream of Light”、邦題は『マルメロの陽光』。1992年のカンヌで審査員賞と国際映画批評家連盟(FIPRESCI)賞を受賞している。
どうでもいいけど、QuinceはQuinceってかんじで、「マルメロ」ってなんか違う気がするんだけど(ポルトガル語由来か)。「かりん」の方はなんかわかる。
Ericeが”El sur” (1983)に続けて撮った3本目の長編作で、138分のドキュメンタリー。
マドリッドの画家Antonio López García (1936-)が改築中(?)の自宅に入って木枠からカンバスを作り、一本のQuinceの木の前にイーゼルとカンバスを据えて、自分の足の置き位置にも釘でマークをして、重しを吊るして中心線を決めて、Quinceの実にも縦横の白い線を引いて、自分がこれから描く、描こうとする世界を固定 – することはできないので、基準線を沢山引いて、時間の経過と共に変わっていく世界 - 果実は熟して重くなって下方におりてくるし、差し込む陽の角度は冬に向かって傾いていく – に備えている。雨が降り出すと木の周りにビニールの囲いを作ってその中で作業をするが、激しい雨風にはどうすることもできない。
ものすごく厳格な料理人のような、修行僧のようなきっちりタフな作業をしていくのかというと、そんなでもなくて、ラジカセから音楽を流したり、友達ととりとめないことを話したりしながら描いていく。家の改装で壁を壊したりしている3人の大工さん達と同じような緩さと風通しで日々の時間が流れていく - 日付やその経過は字幕で表示される。
こんなふうに創作の過程を追っていくことで、Antonio López Garcíaの絵画観や創作の秘密を明らかにする、というよりは”The Spirit of the Beehive” (1973)の父親がやっていた養蜂や、”El sur”の父親がやっていたに水当て、のような仕事との相似を描いているような。 相対するのは自然物で、その背後にはよくわからない法則や原理がありそうだが、とにかく変わりやすく絶えず動いていくので思うようにはならなくて、その断面を捕まえるしかない。絵は途中まで油彩で、途中からデッサンに変わって細密で正確であろうとすることに変わりないものの、写真ともハイパーリアリズムのそれとも異なる、「絵」としか言いようのない表象が現れる - でも完成形がこれ、というのは示されない。 そこでは目を見開いて捉える、と同時に「目を閉じる」ことも必要で – 目を閉じることについては”The Spirit of the Beehive”にも”El sur”にも言及があって、Ericeの最新長編作ではタイトルにまでなってしまった。- 目を閉じてみること。
職人的な技巧や時間をかけなければ到達できない境地 や成果 – Ericeの映画もそのひとつかも - についての映画ではなくて、目を開いて見つめること – 目を閉じること、その間に現れる世界のありようを捕まえる、その作法についての映画なのではないか。彼の最初のふたつの長編ではそれを担っていたのは「父親」だったわけだが…
彼の作業と並行して同じく画家である妻のMaría Morenoの作業 - ベッドに横たわるAntonio Lópezをモデルとした絵が描かれているところ、とか彼の家の周囲、マドリッドの住宅街の夜景 – TV画面がぼんやり光っていたり – が映しだされて、どれもシンプルに美しい。いろんな人が出てきていろんなことを喋ったりで楽しくて、138分あっという間なのだが、全体に漂うぽつん、とひとりであるかんじ、はなんなのだろう? ってずっと思っている。
3月の頭にマドリッドに行った時にMuseo Nacional Thyssen-Bornemiszaで見たIsabel Quintanillaの回顧展(すばらしかった。まだやっているので近くの人はぜひ)では、彼女の夫の彫刻家Francisco Lópezの作品の他に、この映画に出てきたMaría Morenoの絵も、モデルとしてポーズをとるAntonio Lópezの(Isabel Quintanillaによる)絵もあったりしたのだが、彼らに共通していると思われる対象 - 静物、家具、壁、家の周り、景色とそれを絵のなかに置く置き方、などがどういう背景(土地、はあるの?)や意識のなかで生まれてきたのか – そこでしばしば対照されるVilhelm Hammershøiの絵画とか。スペイン内戦(の記憶)、はそこにどんなふうに絡まっているのかいないのか、など。
日本は湿気があるので難しいのだが、果物がゆっくりと朽ちて黒ずんで形が壊れていくさまって、こちらではよく目にして、それが妙に美しかったりするので困ったもんよね。(だからといって食べ物は粗末にしないように)
[theatre] Opening Night
4月15日、月曜日の晩、Gielgud Theatreで見ました。
原作はJohn Cassavetesの同名映画(1977)、演出はIvo van Hove、ミュージカルの楽曲はRufus Wainwright、と自分の好きなのが三つ揃いだったのでこれは行かねば、と楽しみにしていたら予定より早く打ち切りの話が出てきたので、やや慌ててチケット取った。
映画の”Opening Night”は大好きで(でも”Love Streams”(1984)のがもっと好き)、昨年7月のイメージ・フォーラムの特集でも見ているのだが、結論からいうと、映画とは別ものとして見た方がよいのかも、とふつうに思った。映画版のどっちに転ぶのか、何がどこでどう破綻してしまうのかの緊張感、そのこんがらがった組まれよう– Opening Nightに向かって冷たく固化していくかのようなそれが、映画と舞台とでは、さらに舞台劇でもミュージカルとなると、薄まるとこ濃くみえるとこ、違ってくるのは当然だと思うし。
映画版でGena Rowlandsの演じた、疲れていろんな妄想や過去のあれこれに怯えて頑迷に閉じこもりシャッターを下ろそうとする、自分の役柄にどうしてもコネクトできない主演女優Myrtleの存在感、その輪郭の強さは圧倒的で、彼女は演技だろうがなんだろうが… って居直るかのようにくっきりとそこにいたのだが、そういう状態にある人がミュージカルで歌って - ミュージカル的な輪を作ってそこに入ろう、入ってもらおうと思うだろうか? (”A Woman Under the Influence” (1974) -『こわれゆく女』で彼女が歌うシーンはあったけど、あんなふうに凍りつくかんじになっちゃうのではないか)
舞台は左手にフルバンド(9人くらい?)がいて、真ん中にあるのは枠の外れたリハーサルルームで、カメラを抱えた撮影クルーが俳優たちの動きを追って、その様子がリアルタイムで正面のプロジェクターに映しだされる(劇場の外に出たり、頭上からのアングルのもたまに入ってきて、これらは録画かも)、といういつものIvo van Hove仕様 – すべては地続きで逃げ場なんてどこにもないのだ、という。
舞台版のMyrtle (Sheridan Smith)は、外見は – その笑顔も含めてなんかかわいらしいかんじで、Gena Rowlandsの超然とした大女優のオーラと磁場はなく、どちらかというといろいろ気をまわし過ぎて疲れて壊れちゃったのかな、という程度で、彼女に憑りつく亡霊のNancy (Shira Haas)も演出家のManny (Hadley Fraser)もプロデューサーのDavid (John Marquez)もMyrtleの元カレで共演男優Maurice (Benjamin Walker)も、全員が爬虫類か化石のように冷たく頑固でとんちきだった映画版に比べるとまだリテラシーがあるというか、彼女なら立ち直ってくれるのでは、というやや暖かめでポジティブな空気のなかにいる。
公演初日に向けたリハーサルとその苦難の旅を秒読みで追っていく舞台、というとこないだ見た舞台 - ”The Motive and The Cue”が思い浮かんで、これは演出家と主演男優のふたりが演劇とは?演技とは?という根源的な問いのまわりをぐるぐる掘っていこうとするものだったが、こっちにはそういうのがなく、鍵となるMyrtleの苦悩や挙動についても、そもそもなんで? が十分に描かれていないので、あーやっちゃったよ… と だいじょうぶ、やれるはず! の間のどたばたとその繰り返しで終わってしまう。それはそれでスリリングだからよい、という見方もあるのだろうが。
で、でも、それを救うというか補うのがRufusの音楽で、バンドサウンドだからか、”Want One” (2003)~ ”Want Two”(2004)の頃のファットで暖かめの音と歌 – これの次の“Release the Stars” (2007)ほどぎらぎらしない - が見事に鳴る。基本のストーリーラインはどん底からの復活、だと思うのだがそこに感動的にはまってしまうよい曲ばかりで – “Opening Night”ってそういうドラマだったっけ? はあるとしても。
帰り、劇場の通路から出口に向かうところにRufusがいたの。最初は人違いじゃないかと思ったけど、何度も彼のライブは見ているし、他の人もあっ、て言ったりしていたので彼だと思う。とっととそのうさんくさい髭を剃って、今回の曲も含めたバンドでのライブをやってほしい。
そういえばRufusがカバーした”Perfect Days”、すごくよかったよねー。
4.22.2024
[film] Eno (2024)
4月20日、土曜日の晩、Barbican Centreで見ました。
この日はRecord Store Day 2024だったので朝早く起きようと思っていたのに起きて立ちあがったらよろけてクローゼットの扉に激突して流血はしなかったもののでっかいたんこぶを作り、半分やるきを失って、Rough Trade Eastに8:30に着いたらとんでもない行列だったので1時間並んで諦めて(昔は6:00に来ていたことを思いだした)、他にもついてないことまみれのしょんぼりだったのだが、晩のこれで救われた。
Brian EnoのドキュメンタリーのUKプレミアで、上映後にEnoと映画関係者とのQ&Aがある。
Barbicanに着いたところで会場に入るEnoさんを見たり(偶然)、有名な人もいっぱい来ていたようで確認できたところだと斜め後ろにPeter Gabriel氏がいて、だれにでもすぐわかる(キリンみたいだから)Thurston Mooreとかも。
監督はGary Hustwit – Dieter Ramsのドキュメンタリー”Rams” (2017)の音楽をEnoが担当してからの付きあいだそう。
上映前のイントロで、上映時間は約1時間半だが、これはGenerative Art作品なので今後同じバージョンのものが上映されることはない、と言われる。?? になるのだが100時間以上のEno自身の発言や関連するインタビューやライブやイベントのフッテージ映像、彼の作品をAIに読みこませてあって、それらをAIがランダム(ではないことが後でわかる)にジェネレートして見せてくれる、と。
で、このアーキテクチャを構築したBrendan Dawesと監督がスクリーンの前にあるなんかの機械(上映後のトークによると、ストックホルムの若者に作ってもらったそう、Sandanceでの上映時にはまだラップトップだったって)の起動ボタンを押して映画がはじまる。
というわけなので、このバージョンについて感想を書いても、これと同じバージョンのものが上映される可能性がそんなにないのだとしたら、どうしたものかー になる。(一般公開時にどうするか/どうやるかについてはまだ検討中、とのこと)
こうして、池や川のある自宅近くを散策しながら寛いでいろんなことを話すEno、アートスクールの頃からRoxyに入って音楽活動を始めた頃から、Bowieとの共作のこと、80年代に過ごしたNYでのこと、Omnichord1台で作ったApolloの音楽のこと、などのクリップなんかが出てきて、場面が切り替わる時にはスクリプト画面が出てうにゃうにゃやっているので、なんかをGenerativeしているのだわ、というのはわかる。
上映後のトークで、クロノロジカルに纏められたドキュメンタリーは嫌いだしそういうのは作るつもりもなかった、そうで、時代は昔にいったり現代に来たりを散漫に(でもないのだが)繰り返していく。映像の中にも出てくるEnoとPeter Schmidtが1975年に作ったカード作品”Oblique Strategies” - カードを一枚ひくとインストラクションが出る – と同じように何が出てくるかはその時にならないとわからない。 今回の上映会の様子もどこかのタイミングでマテリアルとして加えられ、いつか上映されるかもしれない、など。
個々の中味についてあれこれ言ってもしょうがないのかも知れないが、ひとつだけ、”Discreet Music” (1975) の話から入って、EnoがBowie(の声)について語り、BowieがEnoについて語るところ – Enoってなにをやっているのかよくわからないんだ..とか - のところはなるほどなー、ってものすごく腑に落ちた。あと、客観的に見て- というのが「ない」ことは承知の上で、やはりRoxy MusicとFripp & EnoとCluster & Enoのところ、彼がプロデュースしたいろんなバンドたちについては余りに触れられていなさすぎではなかろうか、とか。あと、先のBowieのコメントの他ではEnoの活動について第三者が何かを述べたり位置づけしたり、ということはしていない。あくまでEnoによるEnoの総括が主 - “Taking Tiger Mountain (By Strategy)”のジャケットみたいな。
あと、あのラスト(だけ?)は決めてあったのではないか、と。
これを従来のドキュメンタリー映画作品と同列に並べて見てよいものか、については議論があるところだろうし、すべきだと思うけど、アート作品(or アートについてのアート作品)として、おもしろいことは確か。対象がEnoだから、というのはあるのだろうが。どうせだから見る側で上映時間の長さまで指定できればよいのに。3時間版とか。- できるはず。
上映後のQ&Aというよりトークがものすごくおもしろかった。
Eno自身からGenerative Artをつくっていく4つのステップが紹介され、これは技術的なるところも含めてこういうものであるとして、それでは従来の映画のEditorはいったい何をすることになるのか? - トークに参加していたEditorの人によると、コントロールフリークであるべき編集の仕事からするとものすごく難しく大変な作業だった、と。作業の流れとしては素材をある塊りで編集して、それをカテゴライズして食べさせて、ロードマップとかストーリーラインのようなものを作って食べさせて、AIとの間でそのやりとりや調整を何度も繰り返し、それでもアウトプットがどうなるのかの予測はつかない、と。
Enoが強調していたのは、すべてをAIのアルゴリズムに委ねてしまうことの脅威と危険性で、なぜならいまの世に出ているアルゴリズムの殆どはMuskとかZuckerbergのようなお金を儲けたい白人男性のために作られている - ソーシャルメディア上のComplexityは分断を作りやすく、分断(差別化)はお金を生むから。そうではなく、ComplexityからSimplicityの方に向かうストーリーを考えていかなければいけないのだ、と。(個人的にはSimplicityにもいろいろあるし、軽く潰されやすいので注意が必要だとは思うけど) ここは本当にそう - 勝手に埋め込まれているAIの怖さ - なんだよ、旧Twitterのいまの気持ちわるさを見てみ。
(アルゴリズムの白人男性優先バイアスについてはドキュメンタリー “Coded Bias” (2020)がわかりやすい)
2018年にBritish Libraryで行われた彼のレクチャー”Music for Installations”の時のメモを見ると、この時点で彼はすでにSimplicityとComplexityの話をしているのね。今回のドキュメンタリー用のネタでもなんでもなく。その時にも思ったけど、この人の自分でおもしろがって多少わからなくてもまず始めてしまうところも含めて、アーティストとしても教育者としても本当に理想の動きのできるひとだなあ、って。
この映画と一緒にツアーしてくれないかしらん。
[film] El espíritu de la colmena (1973)
4月13日、土曜日の夕方、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。
BFI Southbankの一番大きいシアター、NFT1が改修工事でしばらくクローズになっいて、4つあるシアターが3つになり、その影響なのか4月からの特集プログラムが取りにくくて困る。これも直前までSold out印がついていた。
英語題は”The Spirit of the Beehive”、邦題は『ミツバチのささやき』。 日本の公開時にシネ・ヴィヴァンで見て、最初にDVD化された時にもすぐ買って、でもなんかもったいなくて開封してない。
Víctor Ericeのデビュー作で、これはものすごい1本で、どうものすごいかと言うと、デビュー作にその作家のすべてが込められているというのが本当だとしたら、ここには彼が映画を通して語ろうと思った何かが、子供が目の前に広がる世界まるごとを - その誤解も妄信も畏れも込みで - 飲みこもうとするかのようにぜんぶフィルムの上に広げられているから。ミツバチの群れが女王蜂のためだろうがなんだろうが、とにかく花に押し寄せて輝ける花粉の粒をかっさらってくる勢いで箱の中を蜜の光で満たそうとしているかのようで、実際にそうなっていると思うから。
学校に通うまだ小さな姉妹がいて、養蜂をしている父と母と古い家に住んでいて、村に巡回の映画がやってきて、それはフランケンシュタインの映画で、平原が広がって遠くには打ち捨てられた小屋があって、線路があって列車が走っていて、手紙のやりとりがあって、まだ内戦は続いているらしく、大人の世界は子供にはわからないことばかりできょとんとしている。
姉妹ふたりにとっての世界の謎が解きほぐされるわけではなく、そういうものだから、と放置されてしまうわけでもなく、どこからか現れるフランケンシュタイン - まだ恐怖の対象とはなっていない - のような、精霊のようななにかはいるのだ、と目を閉じてごらん、と父は言う。あれだけ果てしない原っぱや、伸びていく線路や、世界の広がりを見せておいて…
El sur (1983)
4月14日、日曜日の晩、BFI Southbankの同じVíctor Erice特集で見ました。原作はスペインのAdelaida García Moralesの短編小説。
↑のデビュー作から10年後に発表された長編2作目。 10年かけるのかー という驚きと、これなら10年かかるかも、という納得がぐるぐる果てのない追いかけっこをして、それはリリースから40年経ったいまでも変わらず。
今回、暗がりを抜けようとしている淡い光のなかに浮かびあがる娘はひとり、前作より少し大きくなり初聖体拝領式のお祝いを前にして、そのために南の方から祖母と父の乳母がやってくる。前作で姉妹たちの目の前に映し出されていたいろんな世界とその謎は、少女の父の - 自分の生まれる前も含めた父のよくわからない過去や水源を見つけだす不思議な能力にも向けられ、その多様なカケラたちと現在を結ぼうとする。
“El sur” - 南 - というのがその方角で、そこにも世界の中心はあり、冒頭で少女Estrellaが父の失踪を知る際も、父が頑なに語ろうとしない過去のその根っこにあるのも、祖母たちがやってくるのも「南」で、そこに行けば過去も含めてすべての謎は解かれて明らかになるのか、そうはならないだろうと思いつつも、自分の知らない土地とそこに(そこでも)流れていた時間に思いは飛んでいって止まらない。自分の大好きな人たちが過ごした土地で、かつて何があったのか? それを知ったら自分には何が起こるのか - 父を嫌いになったり、父は自分を嫌ったりするのだろうか?
どこにでもありそうな家族の、父と娘の柔らかなありようを追いながら、歴史やしきたりのようなものが彼らにしたこと、するであろうことを我々の家族や土地の物語に敷衍できそうなところまで広げてみせる。魔法でもお伽噺でもなく、そうやって動いて、たまにダンスしたりしつつ生きられてきた近代の家族の物語として。
前作に続いてここでも映画は小さくない役割をして、フランケンシュタインが、アナの目の前に現れてみせたように、今度は父親が、スクリーンに現れる女優 - Irene Rios(Aurore Clément)の方に向かって - 映画の世界に消えていってしまうかのような動きを見せる、というのと成長したEstrellaと父との再会に繋ぐことで時間を飛びこえる装置としても機能しているようで、だからこんなふうに。
だからこんなふうに映画はあるし、世界もまた、と。
Víctor Ericeが地面を歩いて水のありかを教えてくれるのを驚嘆の目で見つめるしかないのだった。
4.19.2024
[film] Back to Black (2024)
4月13日、土曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。
Amy Winehouseの評伝ドラマで、彼女については既にドキュメンタリーの”Amy” (2015)とBBCが制作したドキュメンタリー”Amy Winehouse: Back to Black” (2018)もある – どちらも未見 - のだが、こちらはSam Taylor-Johnsonの監督によるドラマ。音楽はNick CaveとWarren Ellis。
冒頭、Amy Winehouse (Marisa Abela)が懸命に走っている姿を少し上から捉えて併走していくショットがあって、最後の方でも反復されるこのがむしゃらで懸命な姿がずっと残る。
Amy Winehouse (1983-2011)については一般の人と同じ程度にしか知らない。彼女が登場した00年代の、特に後半の方は自分が英国音楽から一番遠ざかっていた頃かも。そういう人でも十分にわかる – 楽しめる内容になっている。映画は一部で酷評もあるみたいだけど、地元Camdenの住民からも当時の雰囲気はちゃんと出ている、の声はある、とGuardian紙は。
最初にユダヤ人の家族にいるAmyと彼女が大好きだった祖母のNan (Lesley Manville)と、やはり音楽が好きなタクシー運転手の父Mitch (Eddie Marsan)との関係が描かれて(母との関係は薄い)、歌手としてのデビューはあっさりさくさく進んで、成功もすぐそこにやってきて簡単なのだが、そんなことよりCamdenのパブでBlake Fielder-Civil (Jack O’Connell)と運命の出会いをする。ビリヤードをしていたBlakeがジュークボックスでShangri-Lasの”Leader of the Pack”をかけて口パクと振りでAmyを完全に虜にしてしまうシーン、その瞬間のすばらしいこと。
こうして怒涛の恋におちた二人だったが、Blakeには抜けられないexがいたし彼自身が薬中のちんぴらでいいかげんだし、Amyはそれに負けないアル中の暴れん坊の寂しがりだし、くっついては喧嘩して離れてまた… の繰り返しで、ようやくマイアミで結婚して間もなく彼はあっさり逮捕されて刑務所に入り、彼を信じて面会に通う彼女に離婚したい、と告げる。他にも祖母の死による悲しみが彼女を襲ったり、辛いことばかりが彼女を追いたてていくように見える。
Amyが音楽の世界でいかに、どうやって自分の世界をつくりあげ、その息づかいでのしあがっていったのか、その反対側で酒やドラッグがどれだけ危うい状態を掘り進めていってしまったのか、これらの陽と陰のコントラストのなかに浮かびあがらせる、というより父と祖母とBlakeのそれぞれの関係のなかでキスしてハグしてうんざりして喧嘩して、そういうのの繰り返しの背景というか、その状態のなかで呼吸するように、走り抜けるように彼女は曲を作って歌っていったのだ、という構成。
最期の一番辛そうなところ - 誰も見たくなさそうなところ - は描かれなくて、それでよいのだと思った。最近見た映画で思い浮かべたのは”Priscilla”(2023)で、ここでの歌手でアイコンは男性の方だったが、一途にひとりの男を思って家族をぶっちぎって走っていくその姿はなんだか似ていて、ところどころそっくりの画面もあったようなー。おばあちゃんがよい役割をするところとかも。音楽映画というよりは女性が走り抜ける恋愛映画、として見るのが正しいのかも。
誰がやったって似てない、って文句言われたり嫌われたりしておかしくない役柄をMarisa Abelaはとてもよくこなしていると思った。彼女の柔らかさとJack O’Connellの愚直な筋肉バカっぽい硬さと。 あとはNanaを演じたLesley Manvilleの見事なこと。彼女の役柄でそのまま1本映画を撮れそうなくらい。
挿入されるAmyの歌以外のスコアはNick CaveとWarren Ellisのふたりが楽器演奏も含めて全て自分たちで作っていて(プロデュースはGiles Martin)、エンディングで流れるNick Caveの新曲- "Song for Amy"はとんでもなく沁みてくる名曲 – Nick Caveってこういうのをやらせるとほんと天才 - なので、これを聴くためだけにシアターに行ってもよいの。
ところで明日はRecord Store Day 2024なのだが、どうしたものか、まだ悩んでいる。レコード買っても、まだ聴けないしなー。
[film] Monkey Man (2024)
4月12日、金曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。邦題は『猿男』になるの?
主演のDev Patelの監督デビューで、ストーリーを書いて共同脚本、制作にも関わっていて、制作には
Jordan Peeleの名前もある。B級アクションとして2時間を超えるのはちょっとしんどいのだが、テンションが途切れることはない。
舞台は現代インドのYanataという架空の都市で、村に暮らす子が母に半猿の神Hanuman - 孫悟空のモデルといわれる - の話を何度も聞かされたり読んだり幸せな日々を送っていたのに土地を手に入れようとする町の教祖的な指導者Baba Shakti (Makarand Deshpande)とその手下の腹黒警察署長Rana (Sikandar Kher)に村を焼き討ちされ、母は子供を匿ってRanaに殺され、子供の掌には母を救おうとした時に負った火傷の跡が残っている。
成長した子(Dev Patel) - Kidsって呼ばれてる - は、闇のファイトクラブで、猿のお面を被ったファイターとして生計を立てていて、でもそんなに強くはなくてぼこぼこにされたりしている。
そういうことをしながら、Ranaへの復讐の機会を探るべく彼が出入りする高級売春宿にバーテンダーとして雇われて中に入り、そこで働くギャングの下っぱを味方にしたりしながら階段、ではなくエレベーターを上っていって、ついに対決することになって。
でもそこからtuk-tukで逃げる時に瀕死の重傷を負った彼はヒジュラのコミュニティに助けられて匿われて、そこでよくわかんない薬を嗅いで謎の特訓を受けるととてつもなく強くなって、かつてのファイトクラブでは無敵で、とうとう頂上に立つBabaと対決する、という復讐までの道のりの一段一段と、そこには常に子供の頃の母との思い出と守護神であるHanumanが傍にいるのだった、と。
昔からありそうな敵討ちのお話しが軸で、でも舞台は新興めざましく発展途上で、新しいの旧いのがだんだらごちゃごちゃのインドの都市で、でもカーストや差別のありようは変わっていなくて、ここにこうして伝説の猿の神も絡みヒジュラの人達の蜂起もあって、でも主人公はスリムなスーツに猿の覆面 - 要は聖と俗と新と旧を入り混じらせたなんでもありで、カンフーでもタイの格闘技でも武器の方もなんでもありで – ただ銃器はあまり使わない – 同じ復讐ものでもJohn Wickみたいにスタイリッシュなのにはどうあがいてもなれず、結果“The Raid” (2011)のような泥臭くねちっこい肉弾戦に向かわざるを得ないのだった… というか。
Dev Patel自身のキャリアが”Slumdog Millionaire” (2008)から”The Best Exotic Marigold Hotel” (2011)から“The Personal History of David Copperfield” (2019) - のDavid Copperfield から”The Green Knight” (2021) - のGawain から、なんかめちゃくちゃ雑多で多様で、この流れに猿のお面を被った復讐鬼、を置いてもなんの違和感もなくて、次は虎でも象でもなんでもよいのでは、になる。いや、なんでもよいというよりは、一匹の細い猿が傷だらけになって生きていく様を描くのに(かつてどこかで見た気がする辺りも含めて)ものすごくよい絵になっている、とは思った。そういうところで生きたいか(生き残りたいと思うか)どうかは別として。
最初から無敵ではなくて、何度もやられては立ちあがり、最後に謎の同胞や謎の薬、という辺りもわかりやすいのかも。ただ痛そうなところはどこをどう見たって痛そうなので、痛いの(痛めつけられるの)がだめで嫌な人にはきついかも - 最近そういうのがしんどくなってきた。 修行(なんの?)だと思えばよいのかなあ。
続編はないかもだけどシリーズにして、いろんな動物の神を揃えてAvengersか、彼をモダン版の孫悟空にして西遊記みたいのをやるか、RRRみたいな大風呂敷路線に向かうか。それか『燃え上がる女性記者たち』(2021)の新聞社に彼が入社するとか…
最後にStonesの”Monkey Man”が流れてくれたらなー、と思ったけどやはりそれはなかった。
4.17.2024
[film] Civil War (2024)
4月9日、火曜日の晩、BFI IMAXで見ました。週末の本公開に向けた20:45からのPreview。
予告では日本の『SPY FAMILYなんとか』、の予告もがんがんに掛かっていた。
あと、これの前、18時過ぎには『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985) – こちらでのタイトルは” Bumpkin Soup”の上映がBFI Southbankであって(実験映画枠)、そちらを見てから(もう何度も見ているのでこの感想はいいかー)。 『ドレミファ娘…』は、NYのJapan Societyでも上映があるようで、グローバルでなんかの陰謀でも動いているの?
英国のAlex Garlandがアメリカ合衆国の内戦を描く、A24で過去最大規模の予算を投入したパニック映画、というより戦争映画、というよりジャーナリストが見た紛争映画。戦争映画に必要な善悪や大義の軸 – どっちがどうだからこう動く - の話はない。
冒頭、国民向けのTV演説の準備をする合衆国大統領 (Nick Offerman)も、まずは自分がどう見えるか、映るかを気にして、説得力をもって蜂起した反乱軍を抑えこむのだ、自分にはそのパワーがあるのだ - というのを伝えることに注力していて、カリフォルニアとテキサスを中心とした反乱勢力が何を訴えていて、合衆国側はこういう立場なのでこういう対応をとる、という説明は一切ない。大統領が赤い方か青い方かによって「反乱」のトーンも変わってくるはずなのだが、それがない。
主人公は報道写真家のLee Smith (Kirsten Dunst)で、長年世界の紛争の前線で写真を撮ってその世界では有名な人で、彼女がクイーンズかブルックリンの方でのデモ(なんのデモかはわからず)~自爆テロ発生 を取材している時に暴行を受けた駆け出しの写真家Jessie (CaileeSpaeny)の面倒をみたら彼女がついてきて、ワシントンDCの大統領にインタビューすべく、同僚の記者Joel (Wagner Moura)とNY Timesのベテラン記者Sammy (Stephen McKinley Henderson)の4人で車に乗って大陸を旅していく、その過程で遭遇するあれこれ。 すこし『地獄の黙示録』(1980)ふうで、実際に前線でどんぱちしている兵士に聞いてもどっちがどっちだかわからんし知らんしどうでもいいし、という返事が返る。車で旅をしながらそういう戦争だか内戦だかのありようを追っていく。
旅の途中でJesse Plemonsの率いる不気味な小隊に捕まって、Joelが「誤解しないでくれ、ぼくらはアメリカ人だ」と言った後にJesse Plemonsが(あの目と言葉で)静かに返す“What kind of American are you?” にどう答えればよいのか、正解があったりするのかの冷や汗、というか、殺されたら終わり、のじゃんけんみたいなゲームでしかないの。 このシーンでもうひとつ衝撃だったのはちゃんと英語で答えを返せないと…)
そういう状態で、冷徹な行動原理で前線の混乱状態をクールに捌いて動いて、すぐに怯えて泣きだすJessieをお母さんのように指導して引っ張ってきたLeeが少しづつおかしくなっていく。ここは自分が相対してきた戦場の現場とは違う、そこで通用しなかった何かが支配している – そしてその反対側でJessieは何に目覚めたのか止まらなくなっていって。
終盤、DCに着いてみれば、過去にいくつかあったホワイトハウス襲撃パニック - 絶体絶命の大統領府を過去に傷があったりするヒーローがダイ・ハード風になんとかする、のおめでたさは微塵もなく、正義とは、倫理とはいったいなんなのか、の問いかけも意味を持たず、その基準線がない状態で報道写真家 – ジャーナリスト、ジャーナリズムは何を伝えるのか、どうあるべきか – それはそのままこれを受けとる我々の方に降りかかってくるだろう。AIの作ったフェイクも含めて大量の暴力的な映像が溢れかえり、「リテラシー」なんて通用しない野蛮な世界で、なにをどうできるというのか? やっちまっていいんじゃないのか? というのが2021年1月に起こったあれで世界に堂々と曝されてしまった。そして、ガザであれだけの殺戮が起こっているのにどうすることもできていない。 その状態に対する極めて冷めたひとつの見解だと思った。それをどう見るか、はあるだろうけど。でもふつう、民間人がひとりでも殺されたらそれは非常事態、だよね。
あの終わり方には賛否あるのかも知れないが、オールド・ジャーナリズムの終わり、ということにしてよいのかしら。『地獄の黙示録』の(35mm版の)終わりみたいにホワイトハウスを焼き払ってもよかったかも。
音楽は”Ex Machina” (2014)の頃からのBen Salisbury & Geoff Barrow。全体としては鳥の囀る静かなところに突然暴れまわる何かがやってくるかんじ - ディストピアの荒んだ光景に見事にはまっていて、とにかく音だけはでっかい方が気持ちよい(たまにびっくりするけど。あとに何も来ないけど)。
政治的なのが嫌な最近の子たちは見ないんだよね?
4.16.2024
[log] New York April 2024
こないだのNYの続きの残りの。
今回の旅の目的は音楽ライブ3つだったので、美術館などは行けたら程度だったのだが、書いていなかったのを少しだけ。
行きの機内で見た映画は2本。
Freud's Last Session (2023)
Mark St. Germainによる同名戯曲を映画化したもの。
第二次大戦が始まった直後のロンドン、闘病中のいろんな苦痛に苦しむSigmund Freud (Anthony Hopkins)のところにC. S. Lewis(Matthew Goode)が訪ねて来て神や神話について議論を重ねる、というところにオーストリアへのナチス侵攻に関わるFreudの回想、Lewisの第一次大戦時のトラウマや、レスビアンであるFreudの娘の話が絡んでいくお話しで、FreudとLewisのふたりが直接会った記録はない(推測)らしく、会ったらこんな対話をしたのでは、というところがちょっと弱くて、これなら本で読みたいかなー、くらい。最近のAnthony Hopkinsって死にかけのおじいちゃん役ばかりよね。
Miller's Girl (2024)
機内のガイドには”comedy”ってあったのにほぼホラーみたいなこわいやつだった。血はとばないけど。
Jenna Ortegaがテネシーの豪邸で独り暮らしをする家の娘で文学に浸かっている高校3年生で、Martin Freemanは本を出版したこともあるクリエイティブ・ライティングの教師で、彼女の文学の才能に驚いてYaleに入学するためのエッセイ執筆に向けて仲良くなっていくのだが、彼女が友人にそそのかれてエロ小説を書いて彼に送ったことからいろいろ巻きこんだ騒動になっていく話で、そんなのJenna Ortegaが勝つに決まっているので、なんかMartinがかわいそうになってしまうのだった。文学の先生ならナボコフ読んでいれば防げたかもしれないのにね。
今回の旅は後から追加で1泊入れたりしたので最初はブルックリンの宿で、次の2泊でマンハッタンに移動して、ちょっとばたばたであまり回れなかった。以下、見た順で。
ICP at 50From the Collection, 1845–2019
1974年に設立されたICP (International Center of Photography)の50周年記念展示。
David Seidner Fragments, 1977–99
同じくICPで、70~80年代のファッション写真のかっこよさ。Tina Chowの肖像とか素敵ったら。
ICPの後、金曜の午後にはPark Avenue Armoryでやっていた
64th Annual New York ABAA International Antiquarian Book Fair
ロンドンでも行ったことあるBook Fairだったが、並んでいる古書の価格が最低でも$1000くらいから、店先に並んでいる安めのでも$600とか、べつにお買い物に来たわけではないのでいろいろ見て回るだけ。ウィトゲンシュタインが1911年に取得した特許「航空機に適用されるプロペラの改良」の原本などが$25000とか。
ロンドンで入ったことのある古本屋もいくつか出店していたが、ここにも買える値段のものはなくてとんでもないわーと思っていたら肩を叩かれて、振り返るとThe Second ShelfのAllisonさんだった。 ロンドンに戻った、というと、じゃあまたね! って。あなたから買った沢山の本たちはつい先週、船便で戻ってきたところですよ。
Giants: Art from the Dean Collection of Swizz Beatz and Alicia Keys
6日の土曜日の午前、桜がきれいだったBrooklyn Museumで。
コレクターとしてのSwizz Beatz and Alicia Keys夫妻がそのコレクションと、これもコレクションなのかBang & Olufsenのすごくよい音のオーディオ。コレクションは素朴系からバスキアからでっかいオブジェからいろいろ、やはりGordon Parksの写真たちのなんともいえない桑原甲子雄のかんじとか。
土曜日の午後は地下鉄で上にいってNeue Galerie NYから。
Klimt Landscapes
Klimtの風景画を集めた展示。実物ではなく複製のも結構あった。
緑の点々が敷きつめられたものが多く、美しいし見ていて飽きないのだが、やっぱり変態がやることっぽいよね、と。 カタログは想定以上にでっかく重かったので次回にする。
そこからMetropolitan Museum of Artに。これまでいろんな人がパニックになっていた入口の券売機はなくなって窓口かモバイルかになっていた。入場料、$30ですってよ。
The Art of the Literary Poster: Works from the Leonard A. Lauder Collection
1890年代のアメリカに登場した、本を読みましょう、みたいなカラーのポスターいろいろ。猫と女性の揃いが絵になるって発見されたのはこの頃からなのかしら?
Indian Skies: The Howard Hodgkin Collection of Indian Court Painting
Howard Hodgkin (1932–2017)の抽象画は大好きなのだが、この人がこんなコレクションをしていたとは。いろんな象さんを描いた絵が沢山あってたまらず、Hodgkinの抽象にある輪郭などを思った。
The Harlem Renaissance and Transatlantic Modernism
1920年代から40年代にかけてのGreat MigrationによりNYのハーレムではどんな形で文化やコミュニティがつくられ、形となっていったのか、を当時の絵画、彫刻、写真などから多角的に追う。プライベートなのからダイナミックなのから、ものすごくよい絵がいっぱいある、見応えのある展示だった。半日いてよいくらい。
アフリカン・アメリカンの側だけでなく、ヨーロピアンであるマティスやピカソやムンクの絵も並置されて、そのインパクトを示していた。
Hidden Faces: Covered Portraits of the Renaissance
ルネサンスの肖像画で、側面とか蝶番とか箱の中とか、いろんな仕掛けによって隠された「肖像」のありかを追う。解説見ないとぜったいわからない。 こないだプラド美術館で見た”Reversos”の展示にも似ているが、あれよりも巧妙かつ陰険な香りがたまんない。画家はHans MemlingとかLucas Cranachとか、いかにもーな奴ら。
お食事系はかつてのPruneのような「いつもの」がなくなってしまった悲しみはまだ続いている(ほんとにかなしい)のだが、Roman’sとか、Estelaとか、朝ごはんでBakeriとか。Korean Townの賑わいにはびっくりだった。
今回、始めのほうがWilliamsburgだったので久々にあの辺を散策したのだが、もう随分変わってしまってびっくりだった(遊んでいたのって10年以上前だしな..)。90年代の終わり、SOHOにフェラガモやシャネルが出来てみるみるつまんなくなっていったのと同じ道をすでに辿っているなー。でもどこかの誰かにとってはすばらしい町になっているのだろう(か)。
かつて猫がいた本屋のSpoonbill & Sugartown Booksはまだがんばっていたので何冊か買った。
本は、以前ほどでっかいのは買わなくなったかも。英国にもある/ありそうだから、で選別したり(よいこ)。
そして、土曜日の夕方18:30にJFKを発って、朝の6:30にヒースローに着いて、地下鉄でお家に戻って、荷物置いて着替えて会社行った。この時間帯のにはもう二度と乗らない。
4.15.2024
[film] Mothers' Instinct (2024)
4月2日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
監督はフランスのBenoît Delhomme、Barbara Abelの同名小説 (2012)をベルギーのOlivier Masset-Depasseが映画化した”Duelle” (2018)のリメイクだそう。でもこれはアメリカ映画。
60年代アメリカの郊外の閑静な住宅地 - ぜんぶ一軒家 - で隣り合っている家の主婦Celine (Anne Hathaway)とAlice (Jessica Chastain)は歳も近いしそれぞれの男の子の歳も近いので、学校への行き来も出迎えも、子供らがずっと一緒に遊んでいる時間も一緒で家族ぐるみで付きあっていて親友のように仲がよい。
Celineの誕生日のサプライズ・パーティーも少しだけ波風がたったりしたが楽しい会となり、でもその翌日、Celineの息子Maxが具合を悪くして学校を休んで、母が一瞬目を離した時、Aliceが直前に気づいて知らせようと騒いだもののMaxはベランダの高いところから転落して亡くなってしまう。いつも一緒だった親友のMaxが亡くなって混乱するAliceの息子のTheo。
悲嘆にくれるCelineはAliceと距離を置くようになり、抱えられるようにどこかに連れられていなくなって暫くして戻ってきて、なんとか昔のように仲直りしたかに見えたのだが、前よりもTheoのことを気にかけてずっと傍らにいるようになったり、Aliceの家に同居していた義母が心臓の病で亡くなったり、定期的に薬を飲んでいた彼女の死を不審に思ったAliceはCelineの挙動に疑いをもって追い始めたり、Celineの家でTheoがピーナツアレルギーで倒れて病院に運び込まれたり、これもCelineがわざとやったのではないか、と思うようになったり、だんだん視野が狭まっていく。
とても愛していた一人息子を失った喪失感が母たちの思いや振るまいをどんなふうに狂わせていくのかを追っていく、というよりはCelineが悲しんでいるのはわかるし、友人としてなんとかしてあげたいけどどうすることもできないAliceの目で見て、ふたりの間に起こっていく不審な出来事や、Theoに彼女が何かしたりしないか・企んでいないか、という懸念などが具体的な恐怖としてどう立ちあがっていくのか、を中心に描くサスペンス(少しホラー)になっている。のと、反対側に立つAliceのTheoに対するやや過剰ともとれる防御姿勢もどこかで一線を越えたりしないか、というスリルもあり、後半は証拠を探してAliceがCelineの家に忍びこんだり、互いに猜疑心の塊りになって動けなくなっていく金縛りの、エモのジェットコースターのこわさ。(引っ越すか旅行に出るかしようよー、ってずっと)
そして、これはわざとなのだろうが、彼女たちと比べて父親たちの影の薄く頼りないこと – ほぼなにもしないで、自分の都合と機嫌でぶちきれて感情的に突っかかる程度で、真面目なよい人たちぽいけど、それだけ - になっちゃうか、あのふたりの前では。母たちの方がよほど理知的に全体を見ようとしているというー。
Anne HathawayもJessica Chastainも、過去作のなかではおとなしく耐えたり従ったり、というのとはぜんぜんちがう、ざけんじゃねえよ、って一度キレたらものすごく怖くて行くところまで行く(行ける)女性たちを演じてきたと思うのだが、その二人が正面からぶつかって大喧嘩したら.. というところまでは行っていなくて、え、そんな程度で終わっちゃうの? になったのは残念だったかも。飛び道具とかワイヤーアクションまでは求めないけど、向かい合って会話するだけであれだけのテンションをあげられるふたりなんだから、なんかもったいないー。
Theoがどんな大人に成長するのかが楽しみだわ..
あんま関係ないけど、ふたりのお洋服の配色とかセンスはさすがとしか言う他なく、これもMother’s Instinct的ななにかなのか、とか。
少し前に回転ガラス扉に激突して目の上を流血したのに続き、歩道の手前で躓いて転んで膝小僧をきった。もうどうしようもなくダメな老人になってしまった。 次はきっと階段から落ちるか、車にぶつかるかだと思うんー
4.14.2024
[theatre] Plaza Suite
4月1日、月曜日の晩、連休の最後にSavoy theatreで見ました。
この日は、パンダ → 怪獣 → Sarah Jessicaという流れ。
わたしは『フェリスはある朝突然に』を1987年の封切初日に(たしかシネセゾン渋谷で)見て、あまりに楽しかったのでそのまま2回続けて見た(昔はそういうことができた)ものであるし、1998年、”Sex and the City”がHBOでエアされた時にも見て、これはすごいのが始まったわ、ってなったし、Matthew BroderickとSarah Jessica Parkerのふたりが結婚したときもそれはそうでしょうとも! だったし、ある世代の人々にとっては彼らの共演舞台は夢のようなもので、どれだけ酷評されていたって、チケット代が高くたって(高いわ)行くしかないやつだったの。
Matthew Broderickは2019年、Kenneth Lonerganの”The Starry Messenger”の舞台とBFIでの “You Can Count on Me” (2000)の上映があった際のトークでお姿を見たことはあったのだが、Sarah Jessica Parkerははじめて、彼女にとっては初めてのWest Endの舞台となるそう。
原作は1968年に書かれたNeil Simonの戯曲 - ブロードウェイの初演時、演出Mike Nichols, 主演はGeorge C. ScottとMaureen Stapletonだったって。演出はJohn Benjamin Hickeyによる3幕もの。
どの幕も1968年から69年にかけてのNew YorkのThe Plaza Hotel、少しづつ季節が異なる719号室に滞在する目的とどこから来たのか、がそれぞれ異なる1組のカップルのやりとりが中心で、彼ら意外の登場人物はホテルマンなどの3人だけ、ほんの少し。
1幕目が“Visitor from Mamaroneck” - 冬の午後。最初にSarah Jessicaが現れて(それだけで客席がわぁーってなる)、ホテルマンとのやりとりで、ここは本当に719号室? って何度も確認して、20年前に結婚式をあげたこの日、その晩にここに泊まったのよ! ってはしゃぎまくって嬉しそうで(彼女が足をばたばたさせるだけでたまんなくなるのはなぜ?)、でもやがて入ってきたややかっちり堅物ふうの夫のMatthew Broderickは仕事のことで頭がいっぱいらしく彼女の相手も適当に流してばかり、仕事のやり残しがあるのでオフィスに行かねば、とか手続きで秘書を部屋に呼びつけたりで、やがてSarah Jessicaは水面下の夫の浮気に勘づいて…
アニバーサリーの華やぎが会話の進行やちゃんと聞いていなかったりのすれ違いと共にじわじわ萎れて失望に変わっていく悲劇 - とまでは行かない暗い雲のうねりがうまく表現されていて、地味だけど3つの中では一番おもしろかったかも。
2幕目は“Visitor from Hollywood” - 春の午後、ハリウッドの有名プロデューサーをしているMatthewの滞在する719号室に同窓生だったSarah Jessicaが訪ねてくる、という設定で、今度は先に部屋にいるMatthew がぎんぎらセレブの格好と挙動で彼女を迎え、彼女は彼女で、こんな有名な彼と今晩この先ひょっとしちゃったりしたらどうしましょう! って舞いあがってくるくるおかしくなっていくのだが、Matthewの腰の動き(&メガネ)って誰がどうみてもAustin Powersのそれで、怪しすぎて変すぎて話に集中できなくなってしまう。これさえなければあの後どうなったのか、もう少し考える雰囲気になったかも。
3幕目は“Visitor from Forest Hills” - 初夏の午後、ひとり娘の結婚式当日、新郎やゲストを階下に待たせ、ドレスを着た状態で719号室のトイレに鍵をかけて籠城してしまった娘を親であるふたりが互いにあんたのせいよ、って罵って、娘をなだめたりあやしたり、いろんな汗まみれになりながら出ておいでー、ってやるのだが、娘からは何の反応も返ってこないので、つまりこういうことに違いない、ってそれぞれが勝手に憶測の翼を広げて、結果的にふたりの結婚観、夫婦観(の違い)を露わにしていくの。ピンポンのようなやりとりはおもしろいけど結末はだいたい見えているこてこての喜劇なので… まあしょうがないか。
クラシックなホテルを舞台にしたNeil Simonの60’sクラシックだからとは言え、新しい要素などはカケラもなく、これでいいの? にはちょっとなるかも。 Ivo van Hoveにでも演出させてみればよかったのに(やらないか..)。
ふたりが演じた良くも悪くも凝り固まってがちがちの男女をFerris BuellerやCarrie Bradshawだったらどんなふうに見たり評したりしたかしら? など考えてしまう or ということを思い起こさせるために仕掛けた、とか?
帰り、出入口のようなところに人々が溜まっていたので少し待ってみることにした。15分くらいして現れたふたりは疲れも見せずに丁寧にサインしたり話したりしてて、あああのふたりだわ、って改めて噛みしめて帰ったの(サインはまた次回に)。
4.13.2024
[film] Godzilla x Kong: The New Empire (2024)
4月1日の月曜日、Easterの四連休の最後の日のごご、BFI IMAXで見ました。
3Dと2Dの2種類が上映回によって分かれているのだが2Dの方でいいや、にした。3Dでも天地がころころひっくり返ったりおもしろいかも。
お話し、設定は”Godzilla vs Kong” (2021)から繋がっているが人間の登場人物たちは繋がっていない。どんな怪獣が出てきてどんなことをするのかなど、知りたくない人はここから先は読まない方がー。
たぶんもういろんな人が指摘していることだとは思うけど、タイトルの怪獣の間にあった”vs”が”x”になっていて、メインのビジュアルはゴジラとコングが並んでこちらに向かって走ってくる、そういう絵になっていて、これでいいのか? と。怪獣たちが、①向かい合って取っ組み合うのではなく、手は繋いでいないけど一緒にこちらを向いて、②走ってくる。かつてあったゾンビが走るのはありなのか、の議論と同じく、これで、こういうことでよいのか? という原理原則的な問いがまずはくる。
昭和の東宝ゴジラが怪獣同士で手を組んで共通の敵を一緒にやっつける、ということをやりだした途端 - ゴジラがみんなのヒーローみたいになった途端につまんなくなってしまった過去をありありと思い起こさせる。これがなんでつまんなくなるかというと、制御・予測不能であるはずのモンスター(だからモンスター)が人類の味方であるかのような動きをする、それに対して識者(だいたい政府系の御用学者)がその理由 - 宇宙からやってきた外敵から守るという本能だ、など - をもっともらしく説明してきたり、こうしてモンスターはモンスターでもなんでもない、無害なでっかい着ぐるみを被ったキャラ、でしかなくなってしまうからなの。我々の想定通りに動いて火を噴いたりしてくれる怪獣、そんなのを見て何が楽しいのだろう? 特撮? 確かに今回のはピンク色などが多用されててカラフルで楽しいかも。
なので、今回のゴジラはローマのコロッセオを巣にして寝転がったり、コングは地底のホロウアースで虫歯に悩んで人間界で治療してもらったり寂しそうにうろうろしていると、ホロウアースの奥地で、見るからに悪そうなやくざ大猿に支配されている大猿の国を見つけて、その猿帝国が魔法の石を巡って盛りあがって蜂起するのと、そこには人類もすこしだけいてその末裔の少女が地上界にいる… などなど。(大猿の国の野蛮さときたら昔の東映映画なみの)
人間側は怪獣を研究している理知的な科学者のRebecca Hallと彼女が養子にしている孤独な少女(もちろん彼女が救世の鍵となる)と、かっこつけてて無鉄砲で何でも調達屋のDan Stevensと、笑わせ担当お調子者のブロガーBrian Tyree Henryと、もう絵に描いたようにかつてどっかで見た怪獣ものの定型類型をなぞっていて、これこそが僕らの! って喜ぶ人たちもいるのだろう... かね。
ゴジラはGuardian of natureでキング・コングはProtector of humanityという説明があって、まあ仮にそうだとしても巨大な連中が好き放題に暴れまくるおかげでおそらく沢山の人々が亡くなっていて、そこはnatureだのhumanityの名において許しておけ、って。結局”New Empire”なんて言っても強くてでっかいのがのさばって民は潰される – ロクなもんじゃないのね、と。
あと、どうでもいいかもしれないけど、怪獣のデザインがあんましよくない。ぜんぜん恐くないし残らない。あれじゃJurassic Park(まあそうなのだろう。環境的にも)だし、あのモスラはあまりに蟲すぎるし(モスラって妖精じゃないの?)。
Kung Fu Panda 4 (2024)
4月1日、月曜日の昼間、ゴジラの前にCurzon Aldgateで見ました。
前日の晩にマルセイユから帰ってきて、連休の最後の日、目を覚ますのによさそうなやつを、って。
パンダは好きだけど、このアニメーションは何がおもしろいんだろ? と昔は思っていて、でも2とか3を飛行機で見たら結構おもしろかった記憶があり、これが興行収入で”Dune: Part Two”を抜いたのってなんか痛快じゃない? どっちもいろんな生物とか魔法が出てくる弱肉強食の世界だし。
今回、Po (Jack Black)は相変わらずなのだが、老師からDragon Warriorはもう卒業して次の位に昇るべし、って言われて、えー、ってなり、すばしこいキツネのZhen (Awkwafina)と出会い、悪い魔術師のChameleon (Viola Davis)が現れてPoの過去の宿敵(?)たちを呼びよせてそのエネルギーを吸い取って世界を支配しようとする、っていうお話し。
カンフー映画なんだから(ちがうの?)、魔術師なんか出しちゃったらだめでしょ – ていうかカメレオンなら素で十分カンフーできるし、おもしろくなるのに - と思ったが師弟のありようとか償いとか、そのあたりの倫理系はわかりやすく筋が通っていてよいと思った。
しかしこのシリーズ、このままでいくとPoの一生を描くだけになりそうなのが少し心配になった。カンフーは強いけど、それだけでずっと独りぽっちで老師みたいになって消えるのか。歳を重ねてもあの調子で子供っぽく無邪気でうるさいばかりなのか。 それかすべては動物園で飼われていたパンダの夢でした、になるとか。
エンドロールでTenacious Dによる"...Baby One More Time"が大音量でがんがん流れて、これは気持ちよかった。
4.12.2024
[film] Kim’s Video (2023)
4月7日、日曜日の昼、夕方のロンドンに戻る便に乗る前に、Quad Cinemaで見ました。
監督はDavid RedmonとAshley Sabinのふたりで、David Redmonがカメラを抱えてナレーションもしていくドキュメンタリー。
90年代にNYのイーストヴィレッジにできて、ビデオのレンタルと小売り、あとレコードやCDも売っていて、2014年に閉店したカルト/マニア向けのお店で、St Marks pl.の本店の他にBleecker stにも”Kim's Underground”ていうのがあって、”Underground”の方はレコード等を買いによく通った。底なしの穴倉のように暗くてごちゃごちゃ怪しく、なにもかも見つけにくいのだが、実験音楽やプログレも含めて英国盤や欧州盤を入手できるレコ屋は珍しくて - 価格は決して安くない - で、The Magnetic Fieldsなんかも確かここで出会ったのではなかったか。映画のVHSなどは、90年代はそんなに映画を追っていたわけではなかったし、レンタルしたのって返しにいくのが面倒だし、『神の道化師、フランチェスコ』のブートレッグみたいなVHSを買ったくらい(まだ自宅にあるはず)。
で、ドキュメンタリー映画になった”Other Music” (2019)のあのお店もKim’sにいた店員らが立ちあげた、と聞いたので、Kim’sはその親玉みたいなもの – だからそのドキュメンタリーはあのお店がどんなふうにできあがって、あのコレクションとか品揃えは誰がどこからどう持ってきたのかとか、或いは”Other Music”のようにあの場所に入り浸っていた人たちにとって、どんな意味のあるお店だったのかを聞いたり語ったりしていくようなやつだと思っていた。 ら、ぜーんぜん、ものすごくちがった。階段を6段くらい踏み外したかんじ。
まずは街角のひとにKim’s Videoを知っているか? って認知度を聞いたりしてどんなお店だったのか、の簡単な概要を説明してから、閉店した後に店にあったビデオたちがどうなったのか? を追って話は突然イタリアのSalemiに飛ぶ。現地を襲った震災からの復興を目的とした観光資源のひとつとすべくお店のコレクションを町に寄贈したのだ、って。
で、カメラを抱えて現地に飛んでみると、ビデオたちは段ボールに入れられ積まれたまま倉庫で雨ざらしのひどい状態になっていて、その場の誰に聞いても責任者がわからないので、警察とか市長にまで話がとんで、追求があまりにしつこいのでやばい人たちも出てきそうになって、最終的にはビデオたちを救え! って深夜の強盗に近いようなところまで転がっていく。監督本人が楽しそうにナレーションしているので、どこまで本当なのか、仕込みじゃないのか、みたいな気がしてくる。
Kim’sが特徴的にコレクションしていたカルトで変てこな犯罪映画みたいなノリの話が寂れた裏町で – というより陽が降り注ぐ言葉も通じないイタリアの田舎町で起こる - 店の名前は”Kim’s Upland”だし。本当のところは… なんて大多数の人にはどうでもよい話なので、まあどうでもいいか、になっちゃうところも含めてー。
途中で今は普通のビジネスマンになっている(たぶん)Kim氏本人も登場するのだが、これだってひょっとしたら… かも知れず、他方でKim’s Videoは通い詰める、というほどではなかったにせよ、間違いなく存在したので、そういう謎と真実の間のどこかに大量のVHS – 必要としている人はそんなにはいない - が積まれていて、発見されるのを待っている、のだろうか…? 相当いろんなものが「プラットフォーム」上にあると思われる今、VHSでしか見れない(ので救われなければならぬ)ものって、どれくらいあるのだろう? フィルムを残そう! はなんとなくわかるのだけど。
最後、米国に戻ってきたコレクションはAlamo Drafthouseにまるごと買い取られた、と。この映画のDistributorがDrafthouseなので更に怪しいかんじがめらめら湧きあがってくるのだが、こういうのは破棄されるよりは残された方がよいに決まっている派、なのでとりあえずはよかった、にしておく。ぜんぶ冗談でしたー、でも怒らない。
映画の後はUnion Squareの辺りを少し歩いた。みんなどこかで配られたチューリップを抱えていて羨ましかった。
NYでの残りのは、このあとだらだら書いていきます。
4.11.2024
[film] The Greatest Hits (2024)
4月6日、土曜日の晩、Times Squareのシネコン – AMC25で見ました。
The Magnetic Fieldsのライブが終わったのが22:22くらいで、映画の開始は22:30で、映画館は歩いて5分くらいのところなのでぜんぜん余裕。土曜日晩のTimes Squareのど真ん中、久々に歩いたけどぎんぎらすごいねえ。
少しライブの余韻などに浸ったほうが… というのはもっともなのだが、そもそもそんな時間があったらなあ、だし最後の晩だし、見れるものを見れるときに見ていくしかないの。
作・監督は”The Disappearance of Eleanor Rigby” (2014)のNed Benson、先月のSXSWでプレミアされて、12日からHuluで配信される前の先行上映。Rom-comではないようだったが音楽(SF?)映画みたいだから、くらい。
アメリカのシネコンの、うざいCMなしで予告だけをがんがん流していくの、いいよねえ。
近しい人を亡くした人たちのセラピーセッションに出てもぼーっとしてしまうHarriet (Lucy Boynton)は恋人のMax (David Corenswet)を同乗していた車の事故で失って、いまだにその喪失感から立ち直れない状態なのだが、自宅に戻るとレコードをかけて、実験のようなことをしている。
ある曲(or レコード)をプレイヤーでかけてヘッドフォンで没入すると、その曲をMaxと一緒に聞いていた幸せだった場所と時間にスリップして、その時の自分に乗りうつれることを発見して、片っ端からレコード棚のレコードをかけて聴いて、「テスト済」とか「失敗」とかせっせと仕分けをしている。
それで何をしたいかというと、Maxと出会ったところ – 野外のフェスで踊っている時にMaxが寄ってきて誘われた - まで時を遡って、彼と会わなかったし誘いにものらなかったことにすれば、彼は事故で死ななくてもすむはずだから、というもの。
曲が体に入ってくると自動で過去にスリップしてしまうので、外出先ではヘッドフォンをして外の音を聞かないようにするし、勤め先は静かな図書館にしているし、彼女があまりにそれに真剣に没入してばかりなので友人たちは心配し始めている。
そんな時、セラピーセッションの場でDavid (Justin H. Min)と出会って、彼女も少しづつ変わり始めるのだが…
えーと(いろいろ言いたいことはある)。
音楽と記憶はものすごくきっちり絡みあうもので、ここにあるようにある曲がどこか別の場所に連れていってくれる、というのはよくわかる。だから音楽をいつでもどこでもずっと聴いてきたのだし、でもだからといって音楽をそのための乗り物みたいな道具にしちゃうのはどうか、っていつも思うのよ。はっぱ吸ってトリップしている人とか見ても。音楽にはそういうパワーがある、というのとそれを使ってなんか別の(例えば)快楽にひたる、は別にしたいな、って。 (注:政治的なメッセージや抗議に使うのはよいの。音楽、というより、アートはそもそもそういうものだから)
あと、HarrietがなんでそんなにMaxに死んでほしくないのか、Maxのどこがそんなに魅力的なのか、思い出の中でもう少しきちんと描かれていたら、そうだねえ、って泣きたくなるのに。それに彼が本当に素敵な人だったら自分と一緒にいた記憶をずっと抱きしめていたい、とも思うのではないかしら? でもHarrietは自分と会わなかったことにしたい – そこから始まる彼との思い出も(彼が連れてきたであろう友人らとの出会いも)全て無くなっちゃって、無かったことにしてよい、と。ここから、ひょっとしたらMaxは優しいときは最高だけどDVの傾向もあってHarrietは嫌になりかけていたのではないか、とか思ってしまったり。
新しく登場したDavidにしても、どうして彼ならよいと言えるのか、また同じことになってしまうのでは? – など、考えてもしょうがないことだとは言え。
”The Disappearance of Eleanor Rigby”でも”Her”, “Him”, “They”の3つのバージョンを用意して、はじめから整合しているとは思えない「ラブストーリー」(のようなもの)を作っていたので、この監督のひねくれた志向なのかもしれない。この設定だけ使って、どたばたコメディにしてしまった方がおもしろくなったのでは、とか。
音楽はいろんなのが流れるのだが、そんなに”The Greatest Hits”ぽいゴージャスなかんじがしないのは残念かも – これも狙ったのか? 最後の方で唐突にでてくるRoxy Musicのライブ、あれは一体なんなのか。
Lucy Boyntonはもちろんよいのだが、David役のJustin H. Minの透明なかんじがまた素敵で、彼、”After Yang”(2021)のYangだったのね - Davidって、その中身はYangだったのでは..?
映画が終わったら0時を回っていて、地下鉄のホームに人がぐっちゃりいて、ぜんぜん電車こなくて、ああこのかんじ.. ロンドンのとはまた違って懐かしいったら。そしてホテルに着いたら丁度SNLが終わるところで、これもまた既視感たっぷりので、あーあ、って…
4.09.2024
[music] The Magnetic Fields
4月5日の金曜日と6日の土曜日の二日間の晩、Town Hallで見ました。これのために大西洋を渡った。
BAMと同様、Town Hallも懐かしい場所。最後にここに来たのは2013年のLiza MinneliとAlan Cummingのショーだったかも。
前世紀末のマスターピース(感はゼロだけど)“69 Love Songs” (1999)の全曲披露公演、Day1で35曲めまでを、Day2で残りの34曲を順番通りに演奏していく(だけ)。前座はなし、途中20分の休憩が入り、アンコールもなし、だいたい22:30少し前に終わる。
このサイトにきて日本語でこういうのを読むひとのなかに”69 Love Songs”が熱狂的に好きでそのために飛行機に乗るようなばかはそんなにいないと思うので、少しだけいうと、ここには幸せに浸れるような愛とか希望の歌は殆どなくて、だいたいがバーで酔っぱらった負け男がひとりぶつぶつぐちぐち吐き続ける失望とか呪いとか恨みとか卑下とかそんなのをCharles IvesとかStephen Sondheimとかが書いてきたようなアメリカのしなびたメロディー艶歌・哀歌に乗っけておもしろおかしく歌うだけ、ほんとにただそれだけなので今の若者がこれらを聞いても「きもい」で終わりだと思うのだが、こっちはこっちで、ほっとけ、って飛行機にのる - 例えばこんなすれ違いにもならないようなしみったれた境遇についての歌とか、とにかく健康的でなく生産的でもないやつはぜーんぶここの虫かご(or 箱)に入っている、はず。
そしてこんな曲たちにとって、25年とは一体どんな時間であり歳月でありえたのか? - 若返るわけがないので全員が等しく老いてボケて、もちろん、バカは死ななきゃ でも 死んでも でも、どっちにしても客たちにしてみればこの場所にたどり着ける程度には生き延びることができてよかったね、くらいしか出てこないし言ってくれないし。 ところでリリース時に生まれていなかったやつは?(ってClaudiaが客席に聞いてた)
わたしが最初に彼らのライブを見たのは”i” (2004)のとき、カーネギーホール内の小さいとこで、その時はClaudia GonsonとStephin Merrittの掛け合いが最高におもしろくて、その後の彼らのライブにClaudiaは出てこなくなったので、今回の再登場はとてもうれしい。漫談コーナーはあまりなかったけど。
ステージ上にいるのは7名 - レコーディングに参加したSam DavolもJohn WooもShirley Simmsもいて、袖にはDudley Kludtがいて、曲によって歩いてきてマイクを握る。
Stephin Merrittはステージの右端で、高い椅子に座って楽器も持たずにお腹を突きだして朗々と吠えるように歌うだけ - 二日目、一瞬だけハシゴに登ってClaudiaと掛け合いで歌ったり。
多くのひとがそうであるよね? と思うのだが3枚通してずっと聴く、というよりどちらかというと最初の方を聴きこんでばかり、そのうち別の用事が入ったりで時間がなくなって最後までたどり着けない、というのが多い気がして、だから客席のノリとしては初日の方が圧倒的によかったような。個人的にも最初のほうの”I Don't Want to Get Over You”から”The Book of Love”あたりまでの流れは本当に至福で、このパートだけでも十分に名盤入りだと思った。「レコードに入っている以上、やらないわけにはいかないのだ」と暗く不吉な表情でStephinが言った”Punk Love”もなんとかやっつけていた。
全体として25周年の祝祭感は微塵もなく、どちらかというと25年も経ってしまってどうするんだよ? ねえ? の徒労感や後悔や自嘲に溢れていて、これだよなー、しかない。他方でドラムマシーンやエレクトロを少しだけ、でも効果的に盛りこんだアンサンブルの繊細さ緻密さは揺るがず、ダメな人たち(曲の世界で、だよ)のシュールなミュージカル・レヴューとしてはすばらしい出来だったのではないか。何度もよく見る夢のなかをだらだら彷徨って抜けられなくなっていく感覚、というか。このままずるずる40年でも50年でもいったれ。
物販は入ったとき(開始30分前)にすさまじい行列ができててこりゃだめかー、と諦めたのだが、休憩時間にダメもとでいいや、って並んだらサイン入りのポスター2枚(Day1とDay2で別)をどうにか買うことができて、丸めたのを無傷で英国に持ちこむことに成功した。問題はこの丸まったのを額装できるかどうか、だな -(日本にはまだ丸まったままのいろんなのが20-30枚くらいある)。
4月9日(今日、今晩)、NYのFilm Forumではこの25周年を記念して彼らのドキュメンタリーフィルム” Strange Powers: Stephin Merritt and The Magnetic Fields” (2010)が上映されて、StephinとClaudiaがトークのゲストとして登場する。一回だけ。見にいける人いいなー。
次はロンドンだ。それまで生きていられますようにー。
4.08.2024
[music] Caetano Veloso
Easterの連休があけて、2日しか経っていないのに3泊(+機中1泊)でNew Yorkに行ってきて、朝に戻ってきた。
そもそもは、The Magnetic Fieldsの”69 Love Songs”(1999)の25周年記念の全曲通し公演が2日間にわけてある、という話から。そもそも、2002年のAlice Tully Hallで全曲を通してやったときの公演を逃したのをいまだに(20年以上経っているのにね)強くねちねちネに持って抱えていて、これは行かねば、と。告知があってチケットが出たのが昨年の7月頃、その時に英国に行くことはもう決まっていたと思うのだが、うるせー(距離的に近いじゃないか)、って取った。(で、こっちに来てから、同じのがツアーで英国にも来ることを聞いて泣いた – さらに近くなったよ)
で、ライブが金土だったので、金曜日だけ会社を休んで月曜の朝に戻ってくることにして、NYの宿も取って飛行機も取ってから暫くたってから、4月4日の木曜の晩にBrooklyn Academy of MusicでCaetanoの公演がある – しかも最後のUSツアーになるかも、とかいうのでばたばたとチケットを取り、ホテルを足して飛行機も変えた。英国に来て3ヶ月がんばっ(てないけど)た、記念でいいや、と。
こういうのについては、「しょうがない」ばっかり言っていて、見逃すのだって「しょうがない」カテゴリーに入るわけだが、きつくても見れる状態がそこにあるのであれば、そっちを取りにいくようにしよう、と思うことにしたの。こういうバカなことをできるのは体が動ける今のうちだけだしー。(今とは)
Caetano Velosoは1990年の初来日 - ”Estrangeiro” (1989)のツアーのときに地の果てにぶっ飛ばされて以降、ブラジル音楽を追うようになり、サンパウロの中古レコード屋の床を這ったりカーニバルの時期のリオにもバイーアにも行ったり、そういうことをさせやがった人で、ライブはNYにいた頃にソロもGilberto Gilと一緒のも、David Byrneと一緒のも、Tom Jobim追悼でJoão Gilbertoと並んでいるのも、いっぱい見てきたし、これが本当に最後になってしまうのであれば(あまり信じていないけど)、やはり見に行かねばならぬ、と。
しかも場所がBAMときたもんだ。年一回のNext Wave Festivalの拠点としてPina BauschからRobert WilsonからComédie-FrançaiseからLou Reedまで、知ってたのも知らないの(が圧倒的に多かった)も相当見て、チケットを買う都度、請われるままに寄付をしていたので、90年代のどこかの1年間、BAMのプログラムの終わりに自分の名前が載るところまでいった。あの頃はまだ治安がよくなくて地下鉄には乗れずにBAMbusっていうバスでマンハッタンとの間を往復して通っていた(片道$5)。マンハッタンへの帰路、このバスが橋を渡るときに見えるツインタワーの姿が大好きで.. など思いだしただけで泣きたくなるの。
というわけで久々のBAMの大きなホール、トイレからなにから、なんも変わっていなかった。
さてCaetano Veloso、3/3〜4の二日間公演の後半。前座も休憩もなしの1時間半。
新譜の”Meu Coco”のリリースにあわせたもので、バンドはステージ左手にギター、ベース、キーボードの3人、プラスチック板で仕切られた右手にパーカッション3人。Caetanoはギターを抱えたり、直立不動だったり、軽くサンバのステップを踏んだり。こないだのRoger Daltreyより2つも若い81歳なので、それはそれは安定している(誰比?)。
とにかく、あの声 – 震えるぎりぎり手前で内と外との境い目を維持しながら冷たい水の重さと孤独を湛えてそこにあり、ハーモニーをつくらない、いらない。その声が伸びていくところにできる空気のうねりと震えが世界のぜんぶ、それだけで音楽なので、バックはシンプルな太鼓でもギター1本でも十分だし、なくてもよいし、めちゃくちゃやかましいアバンギャルドでも負けずに賄えてしまう - という発見と探求を続けた60年近くだったのだな、というのがよくわかる舞台だった。(これと同じことをやっているのがBjörkだとおもう)
ステージ左手のちょっとウェットで、よくしなる弦たちが彼の単一の声に絡まったり絡まなかったりしたかと思うと、そのツタのうねうねを時として工事現場の喧騒 - と言ったら失礼か、めちゃくちゃかっこよい - を叩きだすパーカッションが粉々に粉砕したり押しつぶしたり、それでも最後に残って光を放つのは彼の声、でしかないというマジックの見納めになってしまうのか。
後半は過去作から満遍なく選ばれたベストで、”Trilhos urbanos”もやるし”O leãozinho”(小ライオンさん)はもちろんだし、最後は”Odara” 〜 ”A luz de tieta”であがりまくり、客席の方はわーわーそれぞれの声で気持ちよさげに歌っていて、それでもやかましく歌を邪魔するものにはちっともならない不思議。
イタリア映画が本当に好きで好きで、と言ってから始めた“Michelangelo Antonioni”。映画にマトを絞ったインタビューとか、あるのかしら? あったら読みたい。
他のも忘れないうちに早めに書かないとー。
4.03.2024
[film] Baltimore (2023)
3月23日、土曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。
タイトルのBaltimoreはアメリカのではなく、アイルランドの南、コークにある村の名前。アメリカでの公開タイトルは”Rose's War”だったそう。
監督はJoe LawlorとChristine Molloyの共同で、1974年に実際に起こった絵画の盗難事件とその中心にいたRose Dugdale (1941-2024 – ついこの間、3/18に亡くなっている)の姿を描いている。90分と長くないのだが、すばらしく濃く詰められた時間がある。
冒頭、Rose Dugdale (Imogen Poots)はお屋敷の床に倒れていて、布を巻いた手は血まみれで、でも立ちあがって屋敷にいた仲間と思われる男たちと共に絵画を運び出そうとする。
でっかいお屋敷 - Russborough Houseに押し入ってそこにいた家族を縛ったり殴ったりして、仲間に運び出す絵画の指示をして、という荒れた犯行の現場と並行して、お嬢様だった頃の家族でのキツネ狩りの記憶、オックスフォードで学生運動に参加しながら英国の貴族のお嬢様としてデビュタントへの参加も求められたりしつつ、学生運動の方はやがてIRAの闘争に繋がって今はそこに彼もいるらしい。
襲撃事件にありがちな自分の身元がばれそうになった時、そこにいた人~人質とか隠れ家の宿の主人とか、痕跡を覚られたり騒がれたりした時にその相手を殺すべきかどうか、Roseにそれをやる覚悟と度胸があるのか、が常に問われて、その都度クローズアップになったり振り返ってこちらを見つめるRoseの表情にはキツネ狩りで傷ついたキツネや他の子よりは大切に育てられてきたであろう過去が浮かんで、でもその反対側で組織と使命と革命にはコミットして燃えているので、やっちゃえ.. でもどうする.. ってこんがらがっていく複雑さがすばらしい。タイトルの”Baltimore”は、彼女が他のIRAメンバーと落ち合うことになっているアイルランドの約束の地、なの。
押し入ったお屋敷で主人とその妻は縛られて転がされ、Roseは怯えている小学生くらいの坊やの相手をしつつ、でも騒いだら殺せ、と言われているので自分はこんな子供を殺せるのか、というのと、仲間からはびびっているように見えないか、の方も彼女をひきつらせて凍らせる。
お屋敷を出て車で行った先の小さなコテージでは、盗ってきた絵画19点が並べられ、そのなかにはルーベンスやゴヤやフェルメールの「手紙を書く婦人と召使」(1670-1671)があったりして、絵画の来歴や価値についてすらすら語るRoseはお嬢さまだねえ、なのだが、その知識をもって電話がある村の雑貨屋にいってアイルランドのNational Galleryに対して絵画の身代金の交渉にはいる。その会話でちょっとしたフランス語アクセントに気づかれてしまったり、目の不自由な宿屋の主人を殺して掘った穴に埋めて出ていくことはできるのかとか、犯罪の成り行きや成否よりも、彼女のなかの何が踏みとどまらせたり、悩ませたり、前に進めたりするのか、が時間の経過と共に、映しだされる過去の思い出のなかに現れては消えていく、そのとても犯罪映画とは思えない静けさと、フェルメールの絵画が置かれた室内で、フェルメールのと同じ構図で人が動いていたり、おもしろい。その静けさのなかで被害者ではなく、加害者側にいる女性がずっと悲鳴をあげている、と。
貴族のお嬢様が過激派テロリストに! というコメディになってもおかしくない設定をImogen Pootsは極めて真面目に真摯に - 本当に起こったこと(本当に起こったし)として演じていて、彼女のずっと見開かれた目を見るだけでも、の必見のやつ。
Easterの四連休が終わったばかりなのだが、明日からまた別の四連休にはいります。 昨年、まだ日本にいた時に取っちゃったやつなので、しょうがない(しょうがなくない)。
4.02.2024
[film] Radical Wolfe (2023)
3月23日、土曜日の夕方、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
ニュー・ジャーナリズムの旗手として知られるTom Wolfe (1930-2018)の評伝ドキュメンタリー。
映画化された“Moneyball” (2003)や”The Big Short” (2010)の作者としても知られるMichael Lewisが2015年にVanity Fair誌に発表した記事”How Tom Wolfe Became … Tom Wolfe”(Webで読める)をベースにMichael Lewis本人やTom Wolfeの家族(娘さん)も登場して、WolfeがどうやってWolfeになっていったのか、どんな人だったのか、等について主要著作 – 主に初期のドキュメンタリータッチのもの、後期の小説は軽めに – を紹介しつつ追っていく。Tom Wolfe自身の声はJon Hammがあてている(すごく巧い)。
全体としておしゃれでかっこいい(かっこよかった、誰もがかっこいいと言う)Tom Wolfe – Michael Lewisももろにそういうかんじだし - を肯定的に捉えて、彼のファッションも含めたああいう語り口が当時の言論やジャーナリズムにどんな影響を与えて、それはいまのとどんな形で遺ったりしているのか、というところまで行けばよかったのだが、そこまでは広がらず、あくまでTom Wolfeの主要著作の紹介(とその同時代への影響を少し)に留まってしまったのは少し残念だったかも。彼のなにがどうして”Radical”だったのか、最後まであんまわからなかったような。
大学に通いながらマサチューセッツの新聞社に勤めて、その後Washington Post等にも記事を書いたりしながら、新聞社がストをやっていた時に取材した西海岸のホットロッド、カスタムカーの人と文化についての記事 - "There Goes (Varoom! Varoom!) That Kandy-KoloredTangerine-Flake Streamline Baby" (1963)をEsquire誌に発表して、これが当たって評判になって、ライターとしていろいろ書いていくことになる。
ニュー・ジャーナリズムという切り口だとTom Wolfeといろいろ対照的なHunter S. Thompsonとの違いについてはあれこれ言及されたり、Gay Taleseがコメントしたりする程度、Joan Didionも申し訳程度しか出てこないのはなんかー。
誰もが知っている気がする題材を取りあげて、掘りさげる角度や深度が新しげなので読み物としてまずおもしろくてへーってなり、ちょっとだけセンセーショナルなネタもあって、読後はなんだかためになって自分が賢くなった気がする、というのが自分にとってのニュー・ジャーナリズム(読み物)で、それならその分野の研究書とか難しめの小説とか読んだ方が、だった。いやいやそうじゃない、ここのところが当時としては画期的だったのだ – なぜかというとー、というのがあったら学びたかったのだけどー。
いまはそこ(方法論的な正しさ)に行く手前で、逆張りだの揚げ足取りだのいちゃもんがいくらでもあって触るとノイズにまみれてしまうし、ジャーナリズム自体がろくでもないとこに堕ちてしまっているので、そうじゃないやつ、となった時にあの時代のこれらはかえってストレートで新鮮でおもしろく読めるのかも、というのは少しだけ。読まないよりは読んだほうがいいのは言うまでもなくー。
あと、彼のファッション的なところも含めたテキストのありようって、はっきりと彼を推してくれる白人の共和党支持層のウケを狙ったもので、そういうのをやってそれなりに成功したケースとして珍重された、というのはあるんだろうなー。この辺を暴露、じゃなくて事実を並べて淡々と描いてくれてもおもしろくなっただろうにー。
あとね、監督もMichael Lewisも、Wolfeを今でいうインフルエンサーのようにしか見ていないところがある気がして、もっとWolfeの語り口とか展開のおもしろさそのものに着目して、だからこんなにもWolfeは! みんなWolfeを読もう! っいう方に向かわせてもよかったのでは、とか。 見たあとで特に読みたい! ってならなかったのはどうなのかー。
[film] The Persian Version (2023)
3月23日、土曜日の午後、CurzonのAldgateで見ました。 日本でももうじき公開される。 昨年のサンダンスで観客賞などを獲って、同年の東京国際映画祭でも上映された作品。
作・監督のMaryam Keshavarzが自分と自身の家族を題材にしたアメリカ映画で、冒頭に、”TRUE STORY - A Sort Of …” って出る。
イランから移民してきた家族の一員で、NYでインディペンデントで映画を撮っているLeila (Layla Mohammadi) はハロウィンパーティーの一夜のどんちゃん騒ぎでHedwigの舞台に出ていたアメリカ人の男優 (Tom Byrne)と寝ちゃって妊娠してしまう。それまで彼女には同性のパートナーがいて別れたばかりの不安定で自分でも何やってるの? のぐちゃぐちゃで、更には彼女の父のAli (Bijan Daneshmand) は心臓の病で倒れ、心臓移植のドナーが現れないと助かりそうになくて、親戚兄弟(8人兄妹におばあちゃん)が病院に一堂に集まってきてそんな騒がしい状態のなか、そういう状態だからこそか、自身の幼かった頃の記憶も絡めて、なんで一家がアメリカに来てこんなことになっているのか、母Shireen (Niousha Noor)やおばあちゃんに聞いてみる、と…
若い頃、将来を約束され希望に燃える若い医師だったAli (Shervin Alenabi) と、親の決めてきた結婚で一緒になったShireen (Kamand Shafieisabet) は、医師のいない砂漠地帯の開業医として赴任して慌しい日々を送り、じきに男の子が生まれ、次の子も身篭って、その間Aliはずっと忙しいまま家にいなくて … という話と、一家がNYに来たばかりの頃、お金がぜんぜんないし英語もわかんないしでShireenは不動産屋になるべく家事の傍ら猛勉強を始めて事業を成功させていく話があり、いまのLeilaにはもちろん自分のお腹のなかの子をどうするのか、どうしていくのか問題もあり、あれやこれや山積みの問題をせわしなく言いあったり怒鳴りあったり積みあげたりしながらどうにか渡っていく - これがペルシアン・バージョン - うちらのやり方で他にどんなバージョンがあるのか知らんが、ようく見とけ、って。
ずっと過去と現在の、父母と自分に起こったことをランダムに行ったり戻ったり繋いだり忙しなくて、これ、どこに持っていってどう決着つけるのだろう? … と思い始めた頃、最後の数分で唐突に天空から落っことしてくれて、ぶわっと一瞬で泣かされて、これかー、って。 あんなのずるいわ。
過去から続いているイランとアメリカの関係の難しさ、そこに起因した生き難さとか面倒さ、更にはイラン(だけではないが)でずっと続いている男系社会の理不尽が背後にあるのかも知れない、いや間違いなくあるのだが、それでも、そんなでもこんなふうにやれるんだ、やってます、という力強い花火になっていると思った。 Leilaもママもおばあちゃんも、みんな本当に素敵だ。(パパは割とどうでもよいらしく、心臓の件もどこに行ったんだか忘れられてしまう)
最初と最後に老若男女が勢揃いして盆踊りするCyndi Lauperの”Girls Just Want To Have Fun" (1983)の「これでいいのだ」満載の泣きたくなるようなすばらしさ。この曲を聞くたびCyndi Lauperにはノーベル平和賞をあげるべきだ、って強く思う。
このお話、これはこれでよいけど、でもやっぱり差別とかはだめだから。あたりまえに。いうまでもなく。
[log] Easter 2024
3月の最後の週末から4月頭にかけて4連休がある - そういえば - となったのは2月の頭くらいで、このままロンドンにいても映画見たりするだけでムダになくなってしまうだけなので、どこかに行こうと思った。
マドリードは日帰りしたばかりだしもうじきバルセロナもあるし、ならフランスかアイルランドかポルトガルか、となり、そういえば(.. ばっかし)、セザンヌのアトリエにいく、というBucket Listのがまだあった - と見てみるとこの週末の後は修繕のため長期間閉めます、とあって、土曜日のチケットはもうなくて、金曜日のをとりあえず1枚取ってしばらく置いておき、飛行機はマルセイユ往復になるので一泊をエクス・アン・プロヴァンス、一泊をマルセイユにして、それで満足してしまう(← タイプ、よくない)。
おうち/仕事場を訪ねる旅、結構好きでVirginia Woolf、Vanessa Bell、Wittgensteinなどがよかった。Derek Jarmanのにも行かねば。
29日、金曜日の朝7:10の便でヒースローを発って10時くらいにマルセイユに着いて、バスを乗り継いでエクス・アン・プロヴァンスのだいたい真ん中あたりに着いて、その古い町並とか建物の並びをぐるぐるしてわーとか楽しんでいるうちに予約していた15時に近づいたので歩いて向かった。緩やかながら割と陰険に攻めてくる上り坂で、ホテルの人がバスで行った方がいいよ、と言っていたのを思いだしたが既におそし。
ところでアトリエの前の通りの名前は、Avenue Paul Cézanne となってて、住所がそれってかっこいいなー。
アトリエの閲覧時間は一回30分で区切られていて、チケットはガイド付きのとそうでないのがあり、ガイド付きでない方にしたのだが、そんなに広くない同じひとつの部屋で時間帯も同じだと、ほぼガイド付きの状態となり、でもガイドと言ってもアトリエの中のものを端から全部説明するわけではなく、だいたい厚紙の説明書きにあるからそれ読んで好きに見て眺めて聞きたいことがあったら言って、で10分間もかからずに終わる。
でっかい窓があり、こないだThe Courtauld Galleryにあった古典 - “Still life with Plaster Cupid” (1895) - のキューピッド像のもとのとか、彼のいろんな絵画に出てきた気がする陶器に骸骨に… でもセザンヌにとってのこれら、はただそこにいるだけのモノたちでしかなく、その、そこにいる/あるだけの状態とはどういうものか、を光と一緒に考えたり問いかけたりするかのように彼は画布に向かっていたはずだ、というのを確かめるべく、そこから歩いて(上って)15分くらいのSainte-Victoireの山が見える場所 - 彼がその山を描きに通っていたもうひとつの部屋 - を目指して、ふだん体を一切動かしたりしていないのでへろへろになったのだが、上り坂のとこをいきなり左に折れてまたしばらく上って振り返ると、かの山は銭湯の絵みたいにでーんとあるのだった。
曇って雨が降ったりやんだり、という視野のどんよりもあったのかもしれないが丘の上と同じ目の高さ - の何キロ先かは知らんが - にあるそれは聳えたりそそり立ったりしているわけもなく、ただの岩の塊のようにしてそこにあり、それがまるでセザンヌの絵そのものみたいにそこにいたので「わぁ.. .. ..」というかんじだった。(海外の人がはじめて富士山をみたらあんななのかしらん?) あの山があんなふうにある/見えるのだとしたら、そりゃ何枚も描きたくなるだろうな、すごく不思議なかんじ、よく中国の古い絵にある岩山の、どこまで行っても辿り着けない異界のアウラがあるのだった。
帰りはバスで戻って近くのMusée Granet などを見てから部屋に戻って意識を失うかんじで寝てからご飯に行った。
以上がほぼメインのとこで、翌日は小さめの美術館をいくつか - いっぱいある - 見てからバスでマルセイユに移動した。マルセイユのメインはブイヤベースと(わたしはどちらかというと海の人なので)海を見ることで、ブイヤベースの前、波がたまにかかるくらいの岩場に座って日の入り迄の2時間くらい、ずっと海と雲をみていた。そうやって体が冷えた状態で戴いたブイヤベースはそれはそれはおいしくて、ブイヨンを3回おかわりしたらお腹がぱんぱんになり、帰りのバスはやばかった。
ブイヤベースは具のお魚(この日は5種類、ホウボウがいた)とお芋が別皿で出てきて、かりかりのにルイユとアリオリの塗りもの、これらをブイヨン(とお店の人は呼んでいた)の海に好きなように浮かべたり浸して戴くのだが、ブイヨンだけだとコンソメのように割とあっさりめなのに、浸す具材とその時間、時間によるブイヨンの温度変化などで絶妙にその風味を変えていくので終わりがない。おでんに近いのか、お茶漬けの主従を転倒させた版というか、潮汁のもったいぶった版というか、なんでこれをここにこう漬けるとこうなるのか? おもしろいったらなくて - だからぱんぱんになったのね。
それにしても、エクス・アン・プロヴァンスで見た土曜日のマーケット、いいなー しかなかった。葉っぱも魚もぴかぴかで、生活が豊かであるって、こういうのをいうんだよ。
マルセイユにきたらもうひとつ、生牡蠣も食べないとよね、だったのでお昼に1ダース戴いた。ムール貝も半ダース。牡蠣、あと20個はいけたかも。
あとは、エクス・アン・プロヴァンスのチーズ屋の上で戴いたTartiflette - チーズグラタン? も、とってもよかった。
マルセイユの街のかんじ、なんとなくリオのようだった。建物の光と影とか、ちょっと危なそう、やばそうなかんじとかー。
日曜の晩に戻ってきて、連休最後の一日は、映画2本みて、演劇1本みておわった。
4.01.2024
[theatre] The Motive and The Cue
3月21日、木曜日の晩、Noël Coward Theatreで見ました。24日で終わり、と聞いて駆け込みでチケット取った。
原作はJack Thorne、演出はSam Mendes。元は2023年の4月にNational Theatreで上演されて好評だった作品がWest Endにきたもの。
1964年、John GielgudがブロードウェイでRichard Burtonを主演にシェイクスピアの”Hamlet”のモダン版を演出しようとした際のリハーサル現場のごたごたはらはらの緊張にまみれたありさまをRichard L. Sterne(当時それを横で見ていた俳優)の手記 - “John Gielgud Directs Richard Burton”などを参考にして書かれたドラマ。
1964年、名声は十分だが俳優としてのピークを過ぎた - ので演出家の方に向かおうとしているJohn Gielgud (Mark Gatiss)が俳優としてのりのりでElizabeth Taylor (Tuppence Middleton)と結婚したばかり、いろいろ脂ぎって燃えたぎるRichard Burton (Johnny Flynn)主演の”Hamlet”を演出する。
俳優としてシェイクスピア劇もHamletも散々演じてきて、世界の誰より隅々まで「向こう側」を知り尽くしているであろうGielgudは、当然のように「普通」の演出なんかしたくないし世の期待もそっちだと思っているし、Burtonの方は、このライブの舞台こそ俳優としての自分の真価を世に知らしめる格好の機会なので、このHamletを変に凝ったり捻ったりした珍妙な作劇のなかで見せたくない、と思っている。でも俳優として先達であるGielgudには敬意を払うべきだろうし、かといってウェールズの田舎者が調子に乗るんじゃねーぞ、みたいに舐められたくもないし.. など、真ん中にいる2人の意地とプライドをかけた第三者からすれば滑稽な闘鶏みたいな張り合いがある。
全員が集まる顔合わせの初日から、日を追ってリハーサルや中心のふたりのご機嫌、キャスト・スタッフ全員の雰囲気まで、時にElizabeth TaylorのいるBurton邸でのやりとり - どちらも正気の状態はあまりなく、Burtonはほぼずっとべろべろに酔っ払っている - も挟んで追っていくのだが、人間関係はぐじゃぐじゃの雪だるま式に酷くなっていって、見ている分にはおもしろいのだがどう収束するのだろう? と思っているとー。
ここでのElizabeth Taylorの絡み方がどうにも微妙で、この暫く後に出るBurtonとTaylorの映画 - ”Who's Afraid of Virginia Woolf?” (1966)を意識しているのか、ってどこかにあったけど、そうかもしれない。彼女を背後に隠して、えんえん主演のふたりに喧嘩させていた方が、おもしろくなったのでは。
そして最後の方では、芝居の演出とは、舞台における演出家とは? 演技とは? のようなところまで行って - タイトルはここに絡まる - だから演劇はすばらしいのだ! 演劇ばんざい! みたいなところにまで到達してしまうの。あれだけ罵り合ったり引っ叩いたりやり合って嫌いあっていたのに。まるでハラスメントまみれで問題だらけのプロジェクトが本番開始日になったら何事もなかったかのように互いを称えあったり涙したり、あれってなんだったの? … しらーってなるあのかんじというか。(そういう世界があることはあるので、別にいいけど)
史実として本公演は無事に行われて当時のブロードウェイの興行記録もつくって、双方のキャリアに見事な足跡を遺しているようなので間違いなくめでたしめでたしなんだろうけど、なんかなー そういうもんなのかなー。 あと、あのラストの場面は余計だと思った。
真ん中のふたり - Johnny FlynnとMark Gatissの互いに一歩も譲らない押したり引いたりのやり合いがすばらしいことは確かで、それだけでも見る価値はあると思うのだが、少しだけー。
National Theatre Liveでもやると思うのでぜひ。
[film] Love Lies Bleeding (2024)
3月24日、日曜日の昼にBFI Southbankで見ました。この前日にクロージングのあったBFI Flareで見た最後の1本。この作品、Flareで3回上映があったのだがどの回もぱんぱんにSold Outしていて、普通だとSold Outした回でも当日の昼くらいに何枚かリリースされたりするのだが、この作品だけはまったくそれがなくて、しょうがないので当日に窓口のキャンセル待ちに並んだ。それくらいの人気だったと。
監督Rose Glassの長編2作目。デビュー作の“Saint Maud” (2019) - 日本では配信のみみたい-はすばらしく極上のホラーで、この監督すごい! と思っていたら2作目は(やっぱり)A24だよ。これがまた、すばらしくよかったの。ホラーというより、ロマンティック・アクション・クライム・スリラー、みたいな。音楽はClint Mansell。
1989年、ニューメキシコで場末のジムのマネージャーをしているLou (Kristen Stewart)がいて、ひとりでやりくり - 便器に手をつっこむトイレ掃除までしていて大変そうなのだが、そこにボディビルをやっていてもうじきベガスの大会に出るというJackie(Katy O'Brian)が流れてくる。Jackieの笑顔とぴきぴきの筋肉にやられてしまったLouはうちに泊まっていいからここにいて、って闇で流れてくる筋肉増強剤とかをあげたりしてふたりは親密になっていく。ずっとLouの世話になるのも悪いから、とJackieが近所の射撃場にバイトの口を探しに行くと、そのオーナーLou Sr. (Ed Harris)はLouの父で、Louは彼を毛嫌いしているのであいつのところには近寄るな、と強く言ったりする。
ここでのEd Harrisの極悪っぽいメイクと喋り方がすごくて、ハゲ頭の脇後ろだけ長髪のしわしわで、どういうかんじかというとJohn Carpenterの“Big Trouble in Little China”(1980)に出てくる妖怪Lo Pan(の変身前)だ、ってようやく思いだした。
Louの姉のBeth (Jena Malone)の夫のJJ (Dave Franco)が酷い恒常的DV野郎で、ある晩にBethが病院送りになるくらいひどい怪我をして、いい加減にしろよあのくそったれ、ってLouが怒り悲しんでいるのを見たJackieは、ひとりでJJのとこに向かって素手で簡単に殴り殺してしまう。まさかJackieがそこまでやるとは思わなかったLouは、JJの死体をカーペットに丸めて車に入れて町はずれの崖の上まで運んで火をつけて落っことす。ここの崖の下にはLou Sr.にとって都合の悪いいろんなのが…
そのうち警察の手は近くに迫ってきて、通常であれば軽く警察に手を回せるLou Sr.がなんとかするから取引しよう、とか、他方でLouに憧れる町娘があたしなんか見ちゃった… って寄ってきたりとか、そういのをめぐってLouとJackieの間に亀裂も走って、Jackieのボディビル大会の本番もうまくいかなくて追いこまれていって、どうなる…? って最後まで目が離せない。
監督の前作 - “Saint Maud”でも宗教・信仰を起源とする肉体の変容表現がおもしろかったが、ここでは愛や怒りが絶頂に達するのにあわせて筋肉を膨張・爆発させるさまがとても巧みかつ自然に描かれていて、それがスーパーヒーローものでもなんでもない文脈で唐突にまき起こるのになんの違和感も感じさせないのがすごい。
これ、男女間のノワールのような形式であればいくらでも転がっていそうなネタだが、女性同士 – しかも周囲にいるのがジャンクとしか言いようのないクズ男ばかり、という設定にしているところがよいのかも。その状態でどん底に置かれた彼女たちが立ちあがる、というよりも火をつけて焼き払って知るか、という。最後のところは評価が分かれるかも知れないが、荒唐無稽のなんだこれ?になるぎりぎり手前でふたりの愛の物語 - “Love Lies Bleeding” - 血のようにほとばしる愛 - になっていると思った。
場内はずっと拍手と爆笑の嵐で、やはりKristen Stewartの超絶としか言いようのないクールネスとかっこよさ、があるから、としか言いようがない。最初から最後まであんなに汚物とゲロと血と煙まみれなのになんであんなふうな笑みを浮かべて爽やかに立っていられるのだろう? って。
とにかく、そんな彼女たちがEd HarrisとかDave Francoとか、いかにもな「男」たちをぼこぼこにするのがたまんないの。