9.30.2020

[film] La femme de l'aviateur (1981)

27日、日曜日の昼、MetrographのVirtualで見ました。

ここではÉric Rohmerの『友だちの恋人』(1987) - 『レネットとミラベル/四つの冒険』(1987) - 『飛行士の妻』の3本を束ねて上映していて – なんでこの3本なのか? - これだけまだ見ていなかった。喜劇と箴言シリーズの最初の作品。 
英語題は"The Aviator's Wife"。   あきれるくらいにおもしろいよ。

ここで参照される箴言は、"On ne saurait penser à rien" - "It is impossible to think about nothing".

郵便局で夜勤をしながら法律を勉強しているFrançois (Philippe Marlaud)が夜勤明けに元なのかまだ続いているのか続いていてほしいと思っているのかの恋人Ann (Marie Rivière)のアパートに立ち寄って、彼女が探していた排水管工のことで伝えたいことがあるからとメモを置きにいく。

しばらくすると今度はそこにぱりっとした恰好のChristian (Mathieu Carrière)が現れ、すぐに帰ろうとするのを寝ていたAnnが引き留めて、でもChristianがしたのはもうしばらくここには来れないという別れ話で、いやいやそんな… とかいいつつふたりでアパートを出るところをFrançoisが目撃してがーん、となったそのしばらく後にカフェでChristianと女性が一緒にいるのを見て、眠くてしょうがないけどバスに乗ったふたりを追いかけることにする。

そしたらバスに乗っていた学生のLucie (Anne-Laure Meury)に絡まれ、なんとなくふたりでふたりを尾行することになり、暇なふたりがChristianと一緒の女性は誰なのか? ~ 飛行士の妻じゃないのか? ~ なにしようとしているのか? ~ 離婚手続きじゃないの? ~ そんなのふたりで一緒にやらんだろ? ~  なんて謎解きごっこをしていくのと、Lucieは用事があるから抜けるけど、この先のこと教えてね、ってFrançoisに自分の住所を記したポストカードを渡す。

ここまででFrançois はへろへろになって、でもああいうのを見てしまった以上Annとは改めてケリをつけねばって彼女の部屋に向かって関係修復に向けた議論に挑むのだがかすりもしないで轟沈して、しょんぼりしてLucieに報告しようとしたら..

ひとにはそれぞれの生活があって愛に対する考えも態度も違って、それでも気になる相手の見かけの動きとか誰と一緒にいるかとか(を見る見ない)によって、ものすごく影響を受けて右往左往したり泣いたりあたしなにやってんだろ..  になってしまう。これをもっとシンプルな関係性のなかでオープンにしたのが『友だちの恋人』で、こういう傾向に対してNon ! って踏んばろうとしているのがレネットとミラベルの「冒険」なのではないか。というところでこの3本は繋げられるのかしら。
このへんやはり『緑の光線』や『満月の夜』とはちょっと違うかんじがするよね。

François役のPhilippe Marlaud って、Maurice Pialatの"Passe ton bac d'abord..."  (1979)  - “Graduate First” に出ていた人なのね。これもすごく好きな作品なんだけど、ぐだぐだなキャラクターがはまるところはあんま変わらないねえ。

あと、Annの複雑で一見わかりにくい性格を見事に体現したMarie Rivièreさんもすごいとしか言いようがない。


Quatre aventures de Reinette et Mirabelle (1987)

12日、土曜日の晩に見ました。英語題は”Four Adventures of Reinette and Mirabelle" -  『レネットとミラベル/四つの冒険』。

これはとにかくとっても大好きなやつで、公開されてすぐに見て、LDも買って、何年か前にBAMのCinematekでNew Printによるリバイバルがあったときも行った。まず、冒頭のチープなCGとピコピコ音楽(by Jean-Louis Valéro)がすばらしいの。いまどきあんなのやるのホン・サンスくらいしかいない。 

4つのエピソードがあって、その最初が"L'Heure Bleue / The Blue Hour"。
このエピソードで田舎に暮らすReinette (Joëlle Miquel)とパリジャンのMirabelle (Jessica Forde)が田舎道のまんなかで出会って、ReinetteはMirabelleに夜明けの、夜が朝に切り替わるとき、虫も鳥も鳴くのを止める15秒くらいの一瞬があってそれを”Blue Hour”っていうのだと教えて、ふたりで夜明けに起きて最初の日は失敗するけど二日目に体験することができるの。このエピソードで、ぼんやりとしてみえる薄青い時間でも実は境界を跨ぐ時間というのがあって、虫も鳥も尊重するのか畏れるのか息と動きをとめる - 世界にはそういう時間と場所がある、ということをふたりは知る。

こういったことを踏まえて、意地悪なカフェのギャルソンに、物乞いを装った詐欺師 (Marie Rivière)に、いいかげんな画商にふたりがぶつかっていく冒険、というか闘いが描かれる。なめてんじゃねえぞ、って。

ここには田舎(的ななにか)と都会(的ななにか)の衝突、というのもあって、その観点からすると『飛行士の妻』は間違いなく都会の話で、『友だちの恋人』は都会から少し離れた郊外の話、と見ることもできる。

これを見てから、Blue Hourの探求というのは個人的なテーマになっていて、眠れなくて変な時間に起きてしまって、外で鳥が鳴いている(なかなかやかましい)時には耳をすまして、今のそう?ちがう?とか頭の中でやっている。寝ぼけているだけ疑惑も多少はあるかもだけど、あれってあるのよ。

もう9月が行ってしまうねえー。

[film] Correspondências (2016)

 12日、土曜日の昼、MUBIで見ました。Rita Azevedo Gomes監督によるフィルムエッセイ。英語題は”Correspondences”。

彼女の”Fragil como o mundo” (2002) – “Fragile as the World”でも引用されていたポルトガルの女性詩人Sophia de Mello Breyner Andresen (1919–2004)と、ポルトガルの独裁政権時代に国外追放された詩人・エッセイストJorge de Sena (1919-1978)との間で1959年から1978年 - Jorge de Sena が亡くなる迄 – にやりとりされた書簡の束を元にしている。

映画(ビデオ)の往復書簡というと”Correspondencia Jonas Mekas - J.L. Guerin” (2011)が思い浮かんで、移民として米国に暮らすMekasと映画祭等で異国を彷徨うGuerinとの映像を通したやりとりは国境や放浪について考えさせてくれる優れたエッセイだった。

こちらの往復書簡は、どちらも既にこの世にいない人たちのもので、やりとりは手紙 - 何か月も過ぎてから届いたり - ひとりはポルトガルに留まり(パリに出かけたりはしているが)、もうひとりはブラジル~アメリカ(ウィスコンシン)へと、帰国を許されず放浪を強いられた。手紙の内容は、互いの近況を伝えつつも会いたい、戻りたいという切実な思いとその地点から詩や詩作について自身に問い返しているようなものもある。 彼らの往復書簡集は本にもなっているのだが英訳はされていないみたい。残念。

往復書簡は20年に渡るものなので映像はいろんな時代、粒度、サイズ、ビデオだったり16mmだったりのアーカイブ映像のようなものから、屋内や庭にセットを作って、そこで俳優が演技をするものまでいろいろ、手紙の朗読もこれらの映像にヴォイスオーバーされたり、俳優が読みあげるものもある。映しだされる土地はポルトガルは勿論、ブラジル、パリ、ギリシャ等 - 同郷だったり異郷だったりの昔と今と。

書簡がそれぞれの相手やその居場所に向けられた思いを綴り、Rita Azevedo Gomesはそのやり取りの上に彼女の失われてしまったもの、壊れてしまったものへの愛を絡めて織物を編んでいく。“Fragile as the World”ではやり取りされていた杭の下に埋める恋人たちの手紙、ずっと一緒にいたいという恋人への思い、それがやがては失われ崩れていくことへの畏怖を紡いでいた。
最初の方で詩とは相反するふたつのこと- 結合への強い思いと沈黙/白紙のページ – を問うものだ、というテキスト(誰のだろ?)が出てくるが 、その定義の元で言葉とイメージが鮮やかに切り返されたりしていく。

もういっこ、Manoel de Oliveiraの映画でもPedro Costaの映画でも、彼らの「家」 - Casaに対する強い思いを感じることがあるのだが、猫が寝転び、みんなも寛いで、ピアノが響き、キッチンでスズキ(かな? でっかい魚)を捌いたり、土地というよりもそういうことを柔らかく包んでくれる場所としてのCasaへの強い希求が基調音としてあるような。誰のものでもなく誰のものでもある、そういう家に手紙は届き、返され、ぱりぱりしたパイ皮のようになる。

彼らがどんな詩や文章を書いたのか知らないとなー、とまずはSophia de Mello Breyner Andresenさんの詩集を探してしばらく本屋を彷徨っていたのだが、ロンドンにはどこにもないようなのでAmazonで頼んだ。ポルトガル語/英語併記の”The Perfect Hour”という薄いペーパーバックがあって。とてもシンプルな言葉を使って海や庭や夜や星について、それらに触れる孤独 - ひとりであることについて綴っている。 あー、これらの言葉をJorge de Senaさんは求めたのだ、自分の家から遠く離れて、と思った。

滲んだり掠れたりした夢のなかのような映像がどれもたまんないのだが、音もまたすばらしくて、特に部屋で鳴るピアノの音とか、泣きたくなるくらいよいの。どうやったらあんな音を録れるのだろうか。

9.28.2020

[film] Bill & Ted Face the Music (2020)

25日、金曜日の晩、Curzon Victoria - 映画館で見ました。
こういうのってやっぱり映画館でないと、って行ってみたけどいつも3人くらいしかいないのよね。

“Bill & Ted's Excellent Adventure” (1989) 『ビルとテッドの大冒険』- “Bill & Ted's Bogus Journey” (1991) 『ビルとテッドの地獄旅行』から約30年の時を経て放たれた待望の第三弾、こういうのが好きな(かつての)ガキ共は震えて喜ぶようなやつだと思うのだが、わたしは前二作を見ていない(ええー)ので、そういう楽しみも喜びもなくて、その状態で見たらどんなかしら、というのを確かめてみたい、というのは(割とどんな映画でも)楽しみとして、ある。こういうバカなのが大好きなはずなのになんで見ていないのか、については言い訳も含めていろいろ書きたいところだけど、まあいいや。

見ていなくても十分におもしろい。 時間を置いて作られた続編というと、”Dumb and Dumber” (1994)から”Dumb and Dumber To” (2014)までの20年、というのが記憶に新しいが、あれがバカは死ななきゃ.. というふたりの変わらなさを全面に押し出して、良くも悪くも、だったのに対して、こっちの29年もそれはあるけど、それだけじゃなくて世界も相当しょうもなく酷くなっててさ… という状況認識がまず正しい、としか言いようがない - 要は好きなようにやっていてこれでいいのだ(バカボン)、というだけなんだけど。

前作までで、音楽の世界でバンドが大成功したらしいBill (Alex Winter)とTed (Keanu Reeves)のふたりにはそれぞれ娘がいて大きくなってて、妻たちとも仲がよさそうなのだが、見るからに落ち目になってて、でも世界をひとつにする曲を書いてリリースしないと世界は - そして妻たちも ..  っていうお題が未来から降ってきて、曲なんて書けねえよ、って、でも時間を遡れば見つかるかもしれないな、って時間旅行をしてその時代時代のどうしようもなく変貌している自分たちの姿に遭遇していくのと、あいつらを始末しろ、っていう指令を受けた間抜けなロボットが追いかけるのと、パパたちの危機を察した彼らをそのままコピーしたような娘たち – Billie (Brigette Lundy-Paine)とThea (Samara Weaving)が同様に時間を遡って凄腕ミュージシャンたち - Jimi HendrixとかLouis ArmstrongとかMozartとか - をリクルートしていく旅が絡まって、横並びで激しく上昇下降を繰り返すふたつのエレベーターから見えるぐちゃぐちゃに膨張して誰も手がつけられないし手をつけようともしない世界は果たしてこんなふうだった、と。

そもそもが約30年の時を経ていきなり湧いて出た、この映画自体が時間旅行からずり落ちてきたような代物なので、なにが起こっても誰もなんも期待していないし驚かないし、しかも音楽は世界を崩壊から救うことができるのか、っていう今や誰も相手にしないテーマに正面から取り組む – しかもそれを自分たちの娘の代にてきとーになすりつけたりしている。捨て身でもないし保身でもない、彼らと彼らの娘たちのスカスカの頭をひたすら「世界を救う」音楽が吹いていく気持ちよさ。物語としてはAdventure → Journey → Odyssey くらいのスケールになっていると思うのだが、そこに”Face the Music”と大書きしてしまうバカの潔さ。ノスタルジックなところに落ちる/留まることをどこまでも拒否、というか知らんぷりして音楽に向かってふんふん首を振っているだけなの。

誰もが思ったかもしれないけど、この後の世界はBillie & Theaに任せてほしいし、Matrix 4もどうせ同じような「世界」を扱っているのだろうから、このノリで攻めてほしい。そしてJohn Wick 4(だっけ?)は既にこの「世界」に足を突っこんでいる気がしてきた。

あと、せっかく音楽を扱っているのに、音楽そのものにこれぽっちも感動しないしたいしたことない、あとになんも残らないのもよいかも。せっかくDave Grohlだって出てくるのになんもしないし。
そこはひとりひとりが自分のを見つけてあてはめとけばいいんだ、っていうことなんだと思う。

できれば、Monty Pythonみたいによぼよぼになるまで続けていってほしい。世界観的にも案外近い気がするし。

[film] India Song (1975)

21日、月曜日の晩、MUBIで見ました。Michael Lonsdaleの訃報を聞いたので。
Marguerite Durasの作・監督 - 主演のDelphine Seyrigの赤いドレスと赤いポスターも有名で、元は劇作として書かれたものの劇場では上演されていない。

フランス占領下にあった30年代、カルカッタのお屋敷 - 実際に撮影されたのはボローニュだって - にフランス駐在外交官夫人のAnne-Marie Stretter (Delphine Seyrig)がいて、ゴージャスでエレガントで女王のようで、見事なデコールのお屋敷ではいつもいろんなパーティが開かれていて「社交」があるので男たちが周りにやってくるのだが華やかな雰囲気はこれぽっちもなくて、みんな物憂げな顔でゆらゆらと佇んでいるばかり。そんななか思わせぶりな格好で男がひとりふたりさんにん彼女の傍に近寄って、ダンスを舞うようなポーズで寄り添って固まってオフ・スクリーンの声が聞こえてくるばかり、ひたすらそういうのが繰り返される114分で、これが退屈かというとぜんぜんそんなことはない。この世のあらゆるパーティがしぬほど退屈で、人生もまた然り、であるのであれば、これが退屈に見えるわけがない。 むしろこんなにかっこよく美しい立ち姿があるのだろうか、とうっとりしているうちに終わってしまう。

形式としては「インドの歌」なので、ミュージカルとして捉えるのが正しいのかもしれない。主人公が歌わない - 歌うことを禁じられたその歌を聴くかたちで進行していくミュージカル、でも主役は間違いなく彼女で、彼女ぬきには成立しないドラマのなかで、彼女は寄ってくる美しい男たちとゆらゆらして、その罪悪感とゴシップが螺旋を描いてダンスして、周囲に腐臭をまきちらし、彼女はそれを「ハンセン病にかかった魂」と呼ぶが、そういう土地で、伝染病なのでどうすることもできないのよ、と。 そういうドラマをスクリーンのこちら側で見るということ。

いろんな男が寄ってくるけど、いくらがんばっても相手にされず涙目になるラホールから来た副領事(Michael Lonsdale)が発情した猫みたいにえんえん泣き喚くその声がすさまじくて、最後まで残る(これも歌としか言いようがない)。そしてこれも虫の声や鳥や猿の声と同じように、この熱帯の土地の夕暮れに響き渡るなにかなのだろう。

例えば、この状態における彼女の自由、あるいは抑圧、自由がもたらすはずの何かについて考えてみる。それらが広間の鏡に、スクリーンに映りこんでいる。自国から離れた植民地で、奇妙なかたちで囚われた状態にある彼女たちの「社交」 - これらを美しいとか醜いとか言うことにどんな意味があるというのか。

それにしても。同じ年にリリースされている“Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles”との符合や違いについても考えてしまう。双方の映画で殆ど喋らない - けど決して媚びたり屈したりすることのないDelphine Seyrigが女性の行動やその意味について、どれだけ多くの示唆や考察を与えてきたことか。

1月にマドリッドで見た展示 - “Defiant Muses: Delphine Seyrig and the Feminist Video Collectives in France in the 1970s and 1980s” には映画で彼女の着た赤いドレスが置かれていた。これがあれなんだわ、って。

そのうちコロナの - Lock downの時代の魂のありようを描いた”India Song”や“Jeanne Dielman”が作られる日がきてほしい。 SNSで罵りあったりインスタに今日のパーティや今日の料理をあげたりしつつ、けっ、ばーか、とかやるの。



Baxter, Vera Baxter (1977)

10日、木曜日の晩、これもMUBIで見たMarguerite Durasの作・監督作品。
売りに出されているでっかいヴィラをVera Baxter (Claudine Gabay)は買うのかどうするのか、夫とのこととか過去の話をどこからか現れたDelphine Seyrigと対話していく。

身体はがらんとしたヴィラに置きつつも、それはまだ彼女のものではなくて、でも彼女の思考や振り返りはなぜかその空間に囚われたまま逃れることができずにぐるぐる回っていく。 “India Song”にもあった時間や空間への縛りや囚われを人生の終わりを見始めた女性に適用したらこんなドラマになる。彼女の名前が繰り返される。

空間からいなくなる、という表現の一例としてドキュメンタリー - ”Women Make Film” (2019)では、“Leave Out”っていうチャプターでも紹介されていた。


寒くて天気もどんよりで気圧もおかしくて、もう季節は完全に秋冬の方に行ってしまったんだわ、ってがっくりで外に出ないで死んでしまう1日が今年もきた。これが常態化すれば出ていけるようになるんだけど、いつも入り口で固まってしまうんだわ。

9.27.2020

[film] Rocks (2019)

 22日、火曜日の夕方、CurzonのMayfair - 映画館で見ました。 昨年のLondon Film Festival でも上映されて、行こうかどうしようか悩んでいた目の前で売り切れてしまったのを憶えている。

監督は”Suffragette” (2015)のSarah Gavronさんで、監督以下のStaffもみんな女性で、上映前に彼女たちが登場する5分くらいのイントロ/インタビュー映像が流れた。 出演する子供達とワークショップを重ねながら如何にauthenticity - 真実味 - を失わないように配慮してみんなと一緒に作っていったか、とか。

みんなから”Rocks”って呼ばれる15歳のChola (Bukky Bakray)がいて、東ロンドンの方の学校で仲間たちとつるんでメイクアップごっことか歌ったり踊ったり楽しく過ごしていて、家ではまだ幼い弟のEmmanuel (D'angelou Osei Kissiedu)とママの3人で団地に暮らしている。 ある日家に帰ると - 前日にそれらしい兆候があったのだが - なにかにケリをつけたいごめんなさいの置き手紙と少しの現金をのこしてママがいなくなっていて、帰ってこないし何度電話をしても留守電しかでないし、ナイジェリアのおばあちゃんのところに電話しても特になんの連絡もないと。

大人の世話にはなりたくないし、姉としてちゃんと弟の面倒をみれるし、友人仲間から変に見られたくないし同情なんてまっぴら - のRocksは普段の生活を続けようとするもののやがて食べ物もお金も底をつき、アパートの電気も止められてしまったので、怪訝な顔をするEmmanuelを連れてふたりで親友のSumaya (Kosar Ali)のところに泊めてもらったり、仲良くなった転校生のRoshé (Shaneigha-Monik Greyson)のリュックからお金をくすねて安ホテルに泊まったりの放浪生活を続けるのだが、結果的には友達との仲を壊して彼らから孤立して、ホテルからも追い出されてどうしよう… になったところで保護されて、特にEmmanuelは施設に連れていかれてしまう。

ふつうの大人ならなんですぐ警察に言わないのか? になるところだろうが、なぜRocksにはそれができなかったのか、を普段の学校での暮らしや仲間達との振る舞いのなかから丁寧に説明しようとしていて、それは彼女の辛さ切なさも含めてとても説得力があるものになっている。そこを経由して最後、施設に行ってしまったEmmanuelの誕生日にみんなで一緒に電車に乗って遠出して彼に会いに行こうとするところは素敵ったらない。 この先にどんな辛いことが待っているにせよ。

彼女たち6人くらいが横並びになって屋上からの景色を眺めたり、みんなで楽しく踊ったりはしゃいだり、授業中にめちゃくちゃやったりの場面がすばらしくて、それってガールフッド/シスターフッドの物語、というのは簡単だけどひとりひとりの背後には家庭の事情も含めてほんとにいろんなことがあって、それでもそれなのにこういうことが成立してしまう奇跡.. みたいなところまできちんと拾って押さえているの。 彼女たちみんなで”Rocks”ってバンドだか、そういう曲だかになっているような。

母親が失踪してしまうお話、というと”Enola Holmes”と同じで、国もおなじなのにどこまでも違うもんだねえ、とか。
日本にも親がいなくなっちゃう映画って少し昔にあった(見てない)けど、あれよか”Skate Kitchen” (2018)とか”Girlhood” (2014) とかに近い - と思う。

おそらく彼女たちが日々聴いているであろう音楽がいっぱい流れるのだがなにひとつとしてわかんないったら。


今日はRSDのSeptemberの日で、先月は出遅れて失敗したので今回は6:20分くらいに現地に行った。ら、前回より点数も少ないし寒かった(コートの下に3枚とマフラー)せいか列もそんなでもなくて、ほしいのは楽勝で買えた。The Replacementsの3枚組ライブは、昨年でたBoxに入っていたのと同じみたいだけどCDじゃないから。
でもほんとうに寒かったので来月のは行かないかも。たぶん。

9.26.2020

[film] Enola Holmes (2020)

 23日、水曜日の晩、Netflixで見ました。  今週月曜日の朝のBBCニュースで水曜日はこれが公開されるよ!ってメインのMillie Bobby BrownとHelena Bonham Carterをリモートで繋いでインタビューしたりのお祭りになってて、それに乗っかって、公開日に。

原作はシリーズになっているYA小説で、予告の段階からとっても楽しそうで楽しみだった。

ヴィクトリア朝の頃の英国で、16歳のEnola Holmes (Millie Bobby Brown)はHolmes家の末娘で、”Enola”はひっくり返すと”Alone” - かっこいい - で、父は生まれた時にはいなくて、ふたりの兄 - Mycroft (Sam Claflin)とSherlock (Henry Cavill)もものごころついた時はいなくて、母Eudoria (Helena Bonham Carter)の手ひとつで勉強から武術柔術からなんでも一通り教わってきて、仲よく暮らしていたのにある朝母が忽然と消えてしまう。

それを聞いた兄ふたりも戻ってきて、後見人になるMycroftは意地悪でEnolaを厳格な寄宿学校に入れるべし、というのだが、そんなのまっぴらだし、あの母が手掛かりを残さずに消えるわけがないし、と探したり調べたりするとそれらしいのが出てきたのでロンドンを目指して家出して列車に飛び乗る。そしたら車中で同様に家出してきたViscount Lord Tewksbury, Marquess of Basilwether (Louis Partridge)とぶつかって、彼を狙っているらしい刺客とのごたごたに巻き込まれて.. こんなのに構っている場合じゃないんだけど、とか言いながら..

こんなふうに行く先々でいろんな人々と出会ってはよくわかんないままいろんな危機に巻き込まれ、知恵 – 暗号解読が得意 - と勇気と度胸と腕っぷしで乗り越えたり走ったり隠れたりの活躍と殴ったり殴られたりのアップダウンたっぷりに描いて、やがて明らかになる母の失踪の謎と消息と背後に蠢く陰謀と.. みたいな話を節目節目でEnolaがこっちを向いて、ほらね!とか、見てて!とか言って向こうに走っていっちゃうのがいいの。 次の”Godzilla vs. Kong” (2021) もこの調子でやってほしい。

謎解きミステリーの要素はそんなにないし、捕り物としてのスリルもあんまだし、やられっこないのもわかっているのだが、めげずに突き進むEnolaの冒険譚がたっぷりで、母と娘の物語としても湿度が素敵なのと、母が関わっていたサフラジェットの件 - Helena Bonham Carterふたたび - も含めて転換期にあった英国の話まで出てきて、それって間違いなく今の時代の英国のことだし、とか頷くしかない。 The Viscount Tewkesbury, Marquess of Basilwetherとのことも通りすがりの.. 程度の軽さで吹っ切れていて気持ちいい。 威勢のいい女の子映画としては、こないだの”Emma.” (2020)以来だろうか。

Sherlockの出番は本家の界隈からいちゃもんが付いたりしたからかあんまないのだが、こないだの”The Personal History of David Copperfield” (2019)にもあったみたいに、もっといろんなのを自由に出してどんどん遊んでいいと思う。Mary Shelleyだって出てきていいし。シリーズにして、次はモリアティの娘だろうがワトソンの恋人だろうが現れてつるんでほしい。

でもSherlockに関しては、よい兄っぽすぎてちょっと違うかも。コカインとかやってるふうには見えないし。でも、Irene Adlerを除けばミソジニーぷんぷんだったあの世界に女性たちを連れてきたのはよいことかも。

見てから、あーやっぱりこういうの、映画館で見て、終わってからみんなであれこれわーわー言い合ったりしたいもんだねえ(実はあんまやったことないけど)、って久々に思った。家族 - 父親ぬきの - で見たってよいし。


気がつけばお彼岸を過ぎて、朝晩は暖房がないときつい日々になっているのだが、明日の朝は9月の終わりのRSD Dropなのでどうしたものか、になっている。

9.24.2020

[film] I'm Thinking of Ending Things (2020)

 20日、日曜日の晩、Netflixで見ました。原作はIain Reidの同名小説(未読)- 邦題は『もう終わりにしよう。』..

原作がどう、というのもあるのだろうが、監督はCharlie Kaufmanで、つまり“Being John Malkovich”(1999)の “Adaptation“ (2002)の”Eternal Sunshine of the Spotless Mind” (2004)の(以上脚本)”Synecdoche, New York” (2008)の Charlie Kaufmanで、ひとこと「変なの..」で終わらせてもよくて、すごい傑作!と呼んでいいのかどうかわかんなくてつい周りの顔色を見てしまったり。でもいろいろ考えるネタとしてはおもしろいよ、くらい。

車で彼 - Jake (Jesse Plemons)の両親の家にドライブしようとしている女性(Jessie Buckley)がいて、彼の両親に会いに行くというのは重要なイベントなので彼も彼女もだいじょうぶかな、とかなかなか緊張していて、でも天気はあまりよくなくて雪嵐が来そうで、でもこれは大事なことだから、って決意は確りとあるようで、そういう道行きが彼女のナレーションとふたりの会話と共に描かれていく。時折会話が止まって気まずくなる中、Wordsworthの詩とかミュージカルの”Oklahoma!”が出てきてへー、とか、両親に会いにいくくらいの仲になっているふたりの会話としては互いに知らないこともあるみたいだしなんか変じゃない? になってくる。

彼の実家に着いてからも、吹雪ぼうぼうなのに両親は窓から手を振るばかりでなかなか降りてこなくて、手前の家畜の畜舎のところには凍死した羊が放置してあるし死んじゃった豚の痕が残っているし、具合がよくないと聞いていた母親(Toni Collette)も父親(David Thewlis)も明らかにテンションがおかしいし外見も老いたり若返ったり、最後に母親は亡くなってしまうし。彼女の目からすればそれは恐らく最悪の類の”Meet the Parents”経験か、典型的な巻き込まれ型ホラーみたいで大変だと思うのだが、Jakeの子供時代の部屋に入ってなんかわかったような気がしたり。でもとにかく、明日までに仕上げなければいけないレポートがあるので、絶対今日中には戻らなくては、ということだけははっきりしている。ので雪嵐がひどいけど戻るんだってば。 で、この戻りでもいろいろ出たり湧いたり。 どうやら目的は家に帰ること、というよりもこんなふうな状態を終わらせることにあるらしい。

これらのやりとりを通して彼女の頭のなかに”I'm Thinking of Ending Things”というフレーズが繰り返し浮かんで、彼女の名前は会話の局面ごとに変わってYvonneだったりLucyだったりLouisaだったりLuciaだったり、その声の聞こえ方も微妙にトーンを変える(レコード針を経由の時も)し、車のなかでの映り方も変わるし、仕事もウェイトレスだったり科学者だったりRalph Albert Blakelockそっくりの絵を描く画家だったり、いろいろ。あと彼女のモノローグの途中に年を取った学校の用務員(Guy Boyd)の映像が入りこんできたり、携帯には頻繁にCallが入り、掛かってくるのは女性からなのにvoice mailには野太い男の声が。(彼女はMatrixに囚われている説)

全体の仕掛けはそんなにトリッキーで段差だらけで難しいというわけではなく、行きの途中でわかっちゃうのだが、あとはJakeの「子供時代」の部屋に置いてあった本とかDVDがだいたい説明してくれる。David Foster Wallaceがあり、ゲーテの色彩論があり、Pauline Kaelがあり(彼女の評を経由して“A Woman Under the Influence”が語られ)、Guy Debordの『スペクタクルの社会』があり、Anna Kavanが語られ、”A Beautiful Mind”があり、それらがブランケットとなってJakeを作って暖めてきた、と。

”I'm Thinking of Ending Things”の”I”とは誰なのか、”Things”とはなんなのか、”Ending”は関係の終わりを指すのかなにかをやめたり捨てたりすることなのか - 「死」のことなのか。人間は動物とは違ってやってくるEndingを想うことができる。どんな物事にも終わりはあるし、くるし。そして登場人物の誰もがその終わりに抵抗しようとしていない、というのはどういうことか。

こないだの”She Dies Tomorrow” (2020)でも同じく女性の頭のなかにタイトルのフレーズが反響し、それが周囲に伝染していく様が描かれていたが、こっちが今の生にダイレクトにドスを突き立たててくるかんじだったの対し、”I'm Thinking of Ending Things”は揺り籠というかひとつのドーム、ひとつの部屋のなかでわんわんぐるぐる回っていて、しまいにはふたりでダンスまでやっちゃうの。問いに対しては「うん、そろそろね」って返したがっているような。

Jakeが彼女の実家の方に行くという設定はありえたのか、というと多分なくて、彼はどうしても両親に会って貰って、あの部屋に入って、見て貰いたかったのだと思う。それはなんでか?

Jake役のJesse Plemonsさんは”Game Night” (2018)でも同じような犬と籠りっきりの不気味な元警官を演じていた。でも本当は若いころのPhilip Seymour Hoffmanが演じるのを見たかったなー。

Jessie Buckleyさんにも歌わせてあげればよかったのに。

9.23.2020

[film] The Painted Bird (2019)

 13日、日曜日の昼、CurzonのSOHO - 映画館で見ました。ストリーミングでも見ることができるのだがこういう怖いのを3時間近く集中して見続けられるかどうか自信がなかったので。

ポーランドのJerzy Kosińskiの65年の同名小説をチェコのVáclav Marhoulが脚色して監督したチェコ映画。Kosiński自身が生前は映画化を拒んでいたこと、最初は自身の幼少期の経験をもとにしていたと言っていたのが後からそうではなかった事実が明らかになったり、昨年のヴェネツィア映画祭では退席する人達が続出とか、いろいろある。邦題は『異端の鳥』で、日本でもまもなく公開予定。英国では18禁での公開。

第二次大戦下のポーランドの周囲に人がいない原野にユダヤ人の少年(Petr Kotlár)がおばあさんとふたりで暮らしている - 両親はナチスに連れ去られたらしい - のだが、起きたらおばあさんが亡くなっていて家も燃えちゃったのでひとり外を歩いていると捕まえられて、祈祷師みたいなおばあさんからこの子は吸血鬼じゃ、とか言われて彼女のとこで奴隷奉公をさせられて、そのうち伝染病にかかったらしく首から下を土に埋められて棄てられ、カラスに食べられそうになっているところを別のひとに掘り出されて、また別の家族に拾われて..  こんなふうに家畜みたいに名前も呼ばれぬまま、生かしておいてやるからその替わりに..  と大人たちの間で玉突き散々やりたい放題されて棄てられて、が延々繰り返される地獄巡りの日々。彼を飼う主が変わるたび、その主の名前がチャプターのように表示される。

水車で粉ひきをやっているDV親父にUdo Kier – すごくおっかない - とか、少し情けをくれるナチスの兵士にStellan Skarsgårdとか、助けてくれる司祭にHarvey Keitelとか、そこから彼を引き取って性的虐待をするJulian Sandsとか、ロシアの狙撃兵にBarry Pepperとか、有名な俳優さんもいっぱい出てきて少年の前を通り過ぎていく。勿論彼らもそれなりの運命になぎ倒されていくのだが、少年の目から見れば地震とか大嵐のような災厄でしかないし、そうして目の光がどんどん失われていって。

“The Painted Bird”っていうのは、少年が鳥屋 – 野鳥を捕まえて籠に入れて売っている – の男のところにいた時、捕まえた鳥の羽を白く塗って群れに戻すと群れから寄ってたかって攻撃されて地面に落ちて死んでしまう、そういう事象のことを言っていて、これは少年自身の外見がもたらす境遇とその行く末も暗示するわけだが、他にもこの映画で動物には結構酷いことがされていて(猫だけ例外、人の目玉を貰って遊んでいる)(動物を愛するひとは気を付けた方が..)、つまりここでの少年はそこらの名前もない犬畜生と同じで喋ることも許されず、泣き叫ぶくらいがせいぜいである、と。(だからといって虐待していい、ってことにはならないはずよね)

戦時下の惨状を無垢な子供の目を通して見た映画、というと『ブリキの太鼓』(1979)とかこないだの”Jojo Rabbit” (2019)があって、どちらの側にいる子供か、という違いはあるものの、意図としては透明な子供の目を通して戦争の残酷さをフィルターなしで伝える、というのがあるのだろうが、これってどうなのかしら? ドラマ的には、最後に少年が自分の名前を指でガラスに..  っていうところに向かうのだが、あまりにあまりな加虐と被虐の螺旋階段(下向き)にううむ、ってなった。 実際はこんなもんじゃないもっと陰惨だった、のかもしれないけど、だからといって。パワフルで有無を言わさぬ、なのかもしれないけど、こういうのって ..  ぶつぶつ言いながらぐったり。

例えば、今MUBIで見ることのできる短編 – “Szél” (1996) – “Wind”を見てほしい。1952年に撮られた1枚のモノクロ写真を膨らませたハンガリー映画だが、たった6分間のワンショット、風の音しかしないのにこれだけの恐怖と絶望を喚起することができる。

それかストルガツキー兄弟原作の『神様はつらい』(2013)が描いた虐待地獄の方がまだー。

[log] Venezia

17日の朝に出て19日の晩に帰ってきました。ヴェネツィアの夏休みのことを少しメモしておく。

ヨーロッパのコロナ状勢というと、だんだん厳しくなっていて(UKも今日またきた)、フランスとスペインは結構やばそうで、イタリアはややだいじょうぶみたいで、ここの行ったことがないところだとヴェネツィアとアッシジとシシリーがまずあがって、どこも行きたいのだが優先順位でいうとヴェネツィアかな、くらい。

ヒースローの出国は、日本のパスポートでまず引っ掛かり、いえ英国在住です、ってVISAを見せたらOKで、あとはイタリア側に出す自己申告書みたいのをダウンロードして記入して、でも空港に行ったらフォームが変わったからこっちに書いて、と言われたり。でもそれを機内で渡したらおわり、くらい。

空港からホテルまでは水上タクシーで、それに乗るまで街中に車がないことなんて知らなかった。地図アプリで目的地を入れても歩くのと水上バスとで2~3分程度しか違わないので結局歩いちゃえになって、歩くとやっぱり疲れるので水上バスを– マンハッタン初心者が①と⑥の地下鉄ばかり乗るのと同じように - 使うようになって、①のばかりに乗っていた。例によって美術館と宮殿と聖堂をぐるぐる回り続ける旅だったのでゴンドラにも乗らないし、”Spider-Man: Far From Home” (2019)みたいにどきどきお買い物をするわけでもないの。

もともと運河とか水路とか入り組んでいて抜けられなくなる路地とかが大好きで、だからアムステルダムなんてたまらないのだが、ヴェネツィアはそこに潮風と海のゆらゆらした光が被さって歩いていくと路地ごと浮かびあがって海の上をふんわり歩いているような気分になり、だからいくらでもどこまでも歩いていける– と思うと運河で行き止まりで戻らなきゃになり、でも二度と同じところには戻れなくて、初めは笑っていても夕方には足にくる。 でもここにあんな建物や街を築いたって、溜息しかない。なんて不思議ですごいことをしてくれたのか。

美術館はほぼ再開されていたもののOne-Wayの規制とこれを機に修復とかしているのか、立ち入り禁のエリアも結構あって絵がそこにあるのに悔しいよう、が結構あった。

Gallerie dell'Accademia

アカデミア美術館。 Hieronymus Boschのが3点もあって、Belliniのでっかいのがいっぱいあって、Giorgioneの「老女」があって、Tintorettoの”Miracle of the Slave”と”Creation of the Animals”があって、Tizianoの”Virgin and Child”があって、どれ見てもよくて、フィレンツェやローマの古典系美術館とは少しだけ傾向が違うねえ、と。

Collezione Peggy Guggenheim

NYのGuggenheimにはお世話になったので御礼参りに、くらいで行ったのだがものすごくよかった。ものすごい見もの、必見の一点とかがあるわけではないのだが、抽象アートの誰がどう見たってとっても抽象ぽいところを煮詰めて掬いあげたようなコレクションのばらけ具合と、それが運河に面したモダンに区切られた仕切りのなかに点在しているありよう自体がモダンでかっこいいったらない。出る頃には閉館間際で夕闇が向こうからやって来そうな素敵な時間帯になってて、帰り際、庭にあったPeggyと彼女のわんわん達の暮石に手を合わせる。

Basilica di San Marco - Palazzo Ducale

聖堂の方は修復中で階段を昇った上から眺めるだけ。Palazzo Ducaleは外壁の模様の向こう側で展開されるみっしりとぐろを巻く絵巻たちの濃さがひたすら圧巻で、あの牢獄でもいいので暮らしてみたくなる。ラスキンの『ヴェネツィアの石』、持ってくればよかった..

ほんとはこの広場にある国立マルチャーナ図書館の本が並んでいるとこを見たかったのだが、チケットのある観光客は別の博物館 - Museo Correr から入るように言われてちっとも見れなかったのがかなしかった。

Ca' Pesaro Galleria Internazionale d'Arte Moderna

常設のGustav Klimtの”Judith II Salomè”はもちろん、Sorollaのどまんなかのとか、Antonio Donghiのいくつか、Felice Casoratiの”The Young Maidens”(1912)とか、近代の素敵なのがいっぱい。小特集をしていたUmberto Moggioli (1886-1919)の風景画も。

少ししか見せてくれなかったGalleria Giorgio Franchetti alla Ca' d'Oroも、建物(とそこからの運河のながめ)はすばらしかった。

Cappella degli Scrovegni

帰る日の朝に電車でパドヴァにいって、スクロヴェーニ礼拝堂に入った。ここはなんとしても行っておきたかったの。ミラノの「最後の晩餐」と同じように入る前に別室でビデオを見てから中に入って、Giottoのフレスコ画を浴びる。青い天井だけでも十分なくらい。キリストのお話しを中心によくもあれこれ描きこんだもんだねえ、って。人も地獄もみんないろいろだけど、動物たちがどれもかわいい(そういえば中庭に黒猫が二匹いた)。14世紀(以降)の人たちはこれらのどこを見て、どんなお祈りをしていたのかねえ。

この後に入った併設の美術館 - Musei Civici Eremitani - もなかなかだった。ほんと底なしにいくらでもでてくる。

パドヴァからヴェネツィアに戻ってからまだ時間があったのでGuggenheimの少し先のでっかいBasilica di Santa Maria della Saluteに入った。ローマの大きな聖堂にはどこでもRaffaelloがあったが、ここのにはだいたいTizianoがある - Basilica S.Maria Gloriosa dei Frariの「聖母被昇天」なんてほんとにすごくてびっくらだし。

食べものは - イタリアどこでもぜんぶそうだけど、なに食べてもおいしい。Lock downで外食ずっとしてないというのもあったのだろうが、教会とか見てまわってお祈りする以外は食べてばかりだったかも。宿の近所に市場があって、魚も野菜も果物も肉もすごいのがいっぱい並んでてそこを抜けて船着き場に行くまでがほんと大変で。 自分がすごいお金持ちだったらお抱え天ぷら職人を連れてきて、ここで食材を好きなように買いまくりその端から揚げまくって、みんなにふるまうの。

お買い物はほぼしなかったのだが、紙の箱とかバインダーとかノートを売っているお店 - Legatoria Polliero Venezia – で紙の箱と表紙が素敵なノートを買った。

あと、歩いていて見つけた小さな本屋 – Damocle Edizioni  https://www.edizionidamocle.com/
自分たちで英語 - イタリア語併記の冊子みたいに小さな本をお菓子みたいに壁に貼って売っている。Virginia Woolfの “Street Haunting : A London Adventure”とH.P. Lovecraftの “The City and the Dream”が並べられていたり、アポリネールとかワイルドとかイェイツとか、セレクションがおもしろくて、いくつか買った(本屋で買うのは買い物とはいわない)。

Londonへの戻りはオンライン申告の他に、乗る前に紙でも同じような申告を書かされて、でもそれ以外はふつうにe-Gateをあっさり通れて、こんなのでいいの? だった。 
で、いまはまだひたすら眠い。


で、英国はやっぱし増えてきたのでロックダウンではないけどちょっと締めるって。

9.22.2020

[film] The Roads Not Taken (2020)

12日、土曜日の昼間、Curzon Victoria – 映画館で見ました。公開が始まったばかりなのに客は3人くらい。

Sally Potterの作・監督による新作で、彼女とElle Fanningが組んだ作品としては”Ginger & Rosa” (2012) - なんかなつかし - 以来となる。

窓のすぐ向こうに高架地下鉄(後で見たらN線だった)が走っているNY – Queensのアパートの一室で、昏睡状態のようになってベッドで動けなくなっているLeo (Javier Bardem)がいて、アラームをいくら鳴らしても起きないのでヘルパーの女性と娘のMolly (Elle Fanning)が部屋に駆けつける。認知症であるらしい彼の目はだいたい虚ろで、ほぼ喋ることもできないのだが、この日はMollyが仕事を半休して予約してあった歯医者と目医者に連れていく。

Mollyがどれだけなだめても言い聞かせても鈍い反応をするか大きな牛のように拒否するかしかないLeoだが、現在とは異なる時間と風景がふたつ、並行して出てくる。 ひとつはメキシコの田舎で、Dolores (Salma Hayek) - 後で彼の最初の妻であることがわかる - と一緒に行く行かないでやりあっている場面、もうひとつはギリシャの海辺の食堂で、そこにやってきたアメリカ人観光客と思われる女性ふたり組に構想中のストーリーについてコメントを求める場面(彼は作家らしい)。 彼の頭のなかで進行していくこれらが、過去実際に起こったことなのか、彼の願望を描いているのか、それを彼は後悔しているのかどうしたいと思っているのか一切不明なまま、これらの場面の進行が彼の現在形の病との闘いのなかで度々クローズアップされる – そして勿論、父の頭の中でそんなことが起こっているなんてMollyは知らない、知りようがない。

タクシーでようやく歯医者に連れてきて診察台に乗せてようやく診察して貰ってもLeoは失禁してしまい、仕方ないので替えのズボンを買いにCostcoの倉庫のようなところに連れて行っても店内で騒ぎを起こし、午後から会社に行くといっていたMollyはそれも難しくなって、今度は走行中のタクシーのドアを開けて落っこちて頭を切って..  あまりにでっかいし手に負えないので離婚している妻 – Mollyのママ(Laura Linney)にも来てもらうのだが、当然彼女はなんであたしが、みたいな顔しかしないし。

結局Mollyが担当していた大切な仕事は欠席したせいでロストして散々な一日になり、ようやくLeoを寝かしつけても、彼は深夜に裸足で外に出て行ってしまい..

介護の大変さを訴える、というより(それも勿論あるけど)、患者のなかでは表に出すことのできないなにかが渦を巻いていて、他者が知りようのないいろんな角度からの何重もの苦しみが彼/彼女を縛っている。そういうのをわかってあげて、というのではなく、それって我々の周りにいる「健常者」たちのとそんなに変わらないよね、という温度感と、ひとりひとりの頭の奥に仕舞われているこういうストーリーは共有しようがないものだろうけど、尊重されるべきものだし、内容はともかく少なくともそういうものが皮と骨の向こう側にある、というのを想像することはできるでしょ、と。

本作は同様の病を抱えて2013年に亡くなった監督の弟 - Nic Potter - Van der Graaf Generator/Peter Hammillのベーシスト - に捧げられているの。

Robert Frostの詩と関係あるのかしらと思ったが、あっちは”The Road Not Taken”なのだった。

誰がみたって「よい娘」を演じるElle Fanningは変わらず安定してよいのだが、とにかくJavier Bardemがすばらしくて、あの大きな頭蓋がいつ突然狂った牛のようになってしまうのか気が気ではない緊張がずっとあって、その辺も含めてすごいなー、って。

長さは85分、Sally Potterの前作の”The Party” (2017)も71分の結末が鮮やかな1本だった。


WilliamsburgのEggがクローズだって。焼け野原、本当にきりがない。 

しょんぼりしていつもいくデリに行ったら栗が出ていた。もうそういう季節なんだねえ。

9.21.2020

[film] Les enfants d'Isadora (2019)

少し前、3日の木曜日の晩、MUBIで見ました。英語題は”Isadora's Children”、邦題は『イサドラの子どもたち』で、日本でも間もなく公開される、よね。

関連しているのかしていないのかよくわからない3つのエピソード、4人の人物が出てきて、アメリカ人ダンサー - Isadora Duncan (1877-1927)の創作したピース “Mother”(1921 - 初演1923)を踊ったり見たりする。 Isadoraは1913年にセーヌ川で2人の子供を事故で失って、それからしばらくダンスも創作もできなくなり、この”Mother”で再びダンスをはじめることができた、と最初のエピソードの登場人物であるフランス人ダンサー(Agathe Bonitzer)がIsadoraの自伝を読んで知る。

振り付けをしているらしい彼女はひとりでスタジオに来て、Isadoraの本を読み、彼女の遺した舞踊譜を追って、それがどのような動きを要求するものなのか、自分で身体を動かしつつ確かめていく。(おそらく)まだ若い彼女は、Isadoraが彼女の歳で二人の子供を失うことがどういうことなのか、どうして彼女は踊ることができなくなってしまったのか、なぜそこから再開することができたのか、さらになぜIsadoraが音楽にスクリャービンを選び、そこにどんな振り付けをする必要があったのかを想像したり考えたり - あるいはダンスの動きのなかにその解のようなものは見つかるのかを捕まえようとしているかのよう。

次のエピソードでは、ダンスの発表を控えて練習していくふたりの女性 - 少し年上で舞台監督らしい女性(Marika Rizzi)と少し若くて障害を抱えている女性(Manon Carpentier)が出てきて、発表に向けての思いとか懸念とかを対話して明らかにしていく。 とくに若い女性の方は自分が踊ることでそれが観客にどう受け取られるかどうかを気にしている。

最後のエピソードは、前のエピソードで実現された舞台なのかどうか、客席でダンスの公演をみた高齢の黒人女性(Elsa Wolliaston)が重そうな身体を動かし、食堂で食事をとったりしてゆっくりと帰宅し、静かに物思いに耽る様を描く。最後までほぼ無言なので彼女が何を思ったのか、明確にはされないものの、なにかを受け取ったことは確かのような。(その佇まいは”Vitalina Varela”を - 死者を思う生き残った者の強さ - を思い起こさせる)

エピソードの流れはダンスを作る(再構築する)こと 〜 それを発表すること 〜 それを見ること、から成り立っているのだが、それらを通してIsadoraがこの”Mother”に込めたなにかが明らかになるわけでも、それを掘りおこしてリレーしていく(ように見える)演者や観客がその表象をどう解釈して受けとめたかが明らかになるわけでもない。 Isadora自身の“I didn’t invent my dance; it existed long before me.”という言葉の紹介があり、それを時間や世代を超えて繋ごうとしている人々がいる、そのそれぞれの動きを繊細に掬いあげようとしていて、その演目は”Mother”というタイトルなのだ、と。 誰かには必ず誰かの母がいる。

なぜ人はダンスを舞うのか、それを見ることに美や快楽を感じてしまったりするのか、「普遍性」とか「美」とか「母なるなんとか」のような曖昧なところに着地しようとせず、そういったことを考える筋道とか作法のようなものを示してくれる。 こういうのもダンスを見る楽しみのひとつで、その裾野は広いの。

Vanessa RedgraveがIsadora Duncanを演じた”Isadora” (1968)を見てみたい。


まだ夏休みと呼ぶことが許されるなら、と2泊だけヴェネツィアに行ってきた。 大丈夫だったのか? - はい、映画祭だってやっていたんだからたぶん。(まだわかんないけど)。 お天気もよくて湿気もそんなになくて、映画は見なかったけど絵とか宮殿とか教会とかいっぱい見れたのでよかった。 そのうちなんか書くかも。
唯一がっくりきたのは3日目の朝、起きたらRBGの訃報が来ていたことだけだった。

9.16.2020

[film] La Haine (1995)

11日、金曜日の夕方、BFI Southbank – 映画館で見ました。

BFI再開後の特集 – “Redefining Rebellion”の目玉はこれの4Kリストア版で、今こそ見直されるべき必見の1本、のように紹介されている。確かに”Les Misérables” (2019)を見てこれを見ると、なるほどなー、って。邦題は『憎しみ』。そのまま英訳すると”Hate”だが、こちらでのタイトルはフランス語のまま。

監督のMathieu Kassovitzは同年のカンヌでBest Directorを貰っている。リストアされたモノクロの滲んだような黒がすばらしい。

パリ近郊の低所得者向けの公営団地で警官隊と若者たちの衝突があって、若者Abdelが重傷を負って病院に運ばれ、その際に警官隊の銃が行方不明になった、その翌朝10時過ぎからぐるっとまわって次の朝まで、Abdelの友人3人 – いつもべらべら喋っているSaïd (Saïd Taghmaoui)、いつも寡黙なボクサーのHubert (Hubert Koundé)、お調子ものですぐ沸騰しがちなVinz (Vincent Cassel) - のうろつき、うだうだし、踊り、小競り合いし、やられたらやりかえしの、飢えた野良猫みたいな時間の経過をタイムスタンプ付きで追っていく。Saïdはアラブ人、Hubertは黒人、Vinzはユダヤ人で、どこに行っても誰かは誰かにとってのよそ者、異端者として目につけられて、その度にイキったり抑えたり宥めたりが大変で、ゆっくりTVでも見ていれば、なのだがそんなの耐えられないらしくどうしても街に出ていく。

Abbelが入院している病院にお見舞いに行っても警察が詰めてて入れて貰えず、そのうちAbbelの死亡が報道されると、Vinzが隠し持っていた昨晩の銃がちらちら見え隠れしてくる。

警察との衝突は日常茶飯事で、そこで溜まった鬱憤や怒りは近所でうだうだするくらいでは解消されず、なんかでっかい騒ぎを起こしたれ、って粋がるもののなんとかその手前で踏みとどまっていて、けど基本はなめんなおら、出るとこ出たろか、なの。

前の週に見た”Les Misérables”の方が、コミュニティを警備監視する側の3人(こちらも3人)の住民との衝突あれこれを緊張・摩擦の連鎖と伝播のなかで描いていたのと対照的に、こちらは監視されて囲われて動けなくなっている3人がこじれてこんがらかってうわーっ(怒)て突っ走っていく青春映画の趣が強い。始めの方でVinzが”Taxi Driver”のDe Niroのマネをするシーンがあるのだが、あんなふうになりきれない、まだギャング映画にもノワールにも映ることができないちょっと間の抜けたガキ共を描いたようなところはあるかも。 映画まわりで言うと、彼らの不満鬱憤から警察との緊張を抜いて英国の糞尿まみれの土壌にコメディとして持ちこんでみたのが”Trainspotting” (1996) – のようにも見える。

原理主義的な暴力が世界的な拡がりを見せる前夜の様子はこんなだったのかも、と。「憎しみ」が25年を経て「ああ無情」になるまで。

カメラが”Les Misérables”と同じように、建物のあいだをぐーんと抜けていくシーンがあって、あれってドローン撮影のように見えるんだけど、どうやって撮ったのかしら。

あと、Vincent Casselのちんぴらあんちゃんぶりがたまんない。


Mangrove Nine (1973)  +  The People's Account (1985)

9日、水曜日の晩、BFI Southbankの“Redefining Rebellion”の特集から、ドキュメンタリー中編2つを見た。

“Mangrove Nine”(37分)は、70年頃、Notting HillにあったMangroveっていうレストランがBlack Power activismやドラッグ取引の拠点と言いがかりつけて狙われて何度もガサ入れされて(いつもなにも出てこないのに)、その過程で警察に抵抗した9人が傷害罪で逮捕された。この裁判の過程を追いながら、司法のいろんな前提とか進め方が圧倒的に被告側に不利なシステムになっていたことを明らかにしつつ、彼らがどうやって戦って勝利したのか、を描く。

共同監督のひとりFranco Rossoはこの後に“Babylon” (1980)を撮っているの。

"The People's Account" (50分)は、ロンドンの北のTottenhamで1985年10月6日に起こったBroadwater Farm riotについての記録で、そのきっかけとなった2人の黒人女性の死 – ひとりは警察の自宅捜索中に不審死、もうひとりもその数週間前にBrixtonでの捜索中に撃たれて亡くなっている。 住民へのインタビューで明らかになる恒常的に行われていた警察によるハラスメントと捜査内容の組織的隠蔽と知らんぷりの数々。で、TV用のドキュメンタリーとして制作されたこの作品は放映直前に取りやめにされた、と。

最近のニュースでPolice brutalityとかPolice brutal forceと呼ばれている暴力の行使と社会システムに構造的に組みこまれた差別は米国に限らずずっと昔からこんなふうにあった。 ロンドンのBLMのデモに参加した時も対岸の火事じゃない感がすごくあったし、他の国もそうであろう/あったことはなんとなくわかる。 どれだけ憎悪を抱えて人を殴っても撃っても傷つけてもちっとも罰せられずに許されてしまう公的機関が幅をきかせている、という異常。 そして、でもにっぽんは違うんだもん、って言いたくてたまらない人々の一回転した異常さ。

- Redefining Rebellion. - 我々はいま、誰に何に抗うべきなのか。

9.15.2020

[film] Max Richter's Sleep (2019)

8日、火曜日の夕方、CurzonのBloomsbury – 映画館で見ました。この晩のこれがUKプレミアで、この日の晩はここだけではなくPicturehouseとかでも同様の上映会をやっていた。

Max Richterの8時間半に及ぶ大曲 - ”Sleep”。これの一晩通しのライブ演奏会はこれまで世界中でぽつぽつ行われているのだが、そのうち2018年、LAのGrand Park – 野外 - で行われたライブの模様を中心にこの曲が書かれた背景とかMax Richter自身の話とか聴きにきた観客数名の発言とかいろいろを記録したドキュメンタリー。 Max Richterの音楽入門、のようなかんじもある。

わたしも2017年5月にロンドンのOld Billingsgate(旧魚市場)で行われたこれのライブに行って、その時にも感想書いたけど、これのライブはこれまで行ったいろんなライブ – 結構いろいろ行っているほうだと思う – のなかでもなかなかとんでもない方のやつだった。

基本的にライブというのはライブスペース - 屋外であれ屋内であれ - にそれを聴きにきた人達がそこで演奏される音楽をみんなで一緒に聴いて、踊ったり歌ったり体揺らしたりする、その共時体験が重要 – 大人数であれば一揆みたいにうおおーってなるし少人数であればお茶会のようにうふふってなるし – で、そういうのが必要ないのであれば部屋でひとりで聴いていればいいの。 で、このライブはフロアに簡易ベッドが並んでいて、開場して中にはいるとみんなそれぞれベッドの上で寝支度を始める。パジャマに着替えるひと既に着てきているひと、でっかい枕を抱えたひと、歯を磨くひと髭を剃るひと洗顔するひと、ひとりで寝るひと一緒に寝るひと、ほんといろいろ(失礼かもだけど、おもしろい)。

Max Richterが演奏前に”See you on the other side”と呼びかけるように、これは寝てよいライブ、眠りに入った向こう側で聴くライブなのだが、ここから反応は客によってばらばら、すぐに眠りに入っていびきをかきだす人もいれば上半身を起こして聴いているひともいる。とても気持ちよい音なので聴いていたくてがんばりたかったのだが素直に落っこちた。こんなふうにひとりひとりがそれぞれの状態で聴いていたり聴いていなかったり(聴いていない、と言えるのか?)、こういうのをライブ体験と呼んでよいものかしら、と。 寝ている状態にある耳とか脳の話にいくと面倒(いちおうそこまで配慮して作っているらしい)だけど、単に自分が意識していない時に流れている音楽って、寝ている時の風音や雨音とかとおなじでリスニングという範疇には入ってこないなにかではないのか。

でもあの時の、寝起きするとき、目覚めと共にあたまが起動する/した時の界面をまたぐかんじ – は普段のそれとはやはりぜんぜん違ったので、あそこには音楽がなんらかの形でどこかに作用したのではないか。いや、子供の頃から慢性的な不眠なのでなにやっても効いたように思えてしまうだけなのかしら。

乗り物 – vehicle – としての音楽、というのはMax Richter音楽の重要なキーで、眠りに向かっていくのか目覚めに向かっていくのか、意識と身体がゆっくりと左から右に運ばれていくかんじは確かにあって、あの移動感覚がどういう意図をもって作られたものだったのか、なんとなく理解はできた。この点でアンビエントとはちょっと違う。Kraftwerk ?

我々はなんで眠りを欲するのか? - 眠いから。なんで眠くなるの? - 寝ないで起きていたから。なんで眠りを削って起きたり働いたりするの? - やらなきゃいけないことがいっぱいあるから。なんでやらなきゃいけないことがいっぱいで、そこでまず眠りが犠牲になるの? - そこなら自分でなんとかできると思うから。 でも眠いんでしょ? - うん。だって…  ぐるぐる。

ほんとは、ライブに来て眠りに落ちている観客に音楽を通してなにかを仕込んでいる、戦慄の事実が -  とかだったらおもしろいと思ったのだが、そういうのではないみたい。でもみんなが盛大に寝ているなかで淡々と演奏している絵って、おもしろい。そういえば、彼は眠くならないのか。

既にだれか暇な人がやっているかも知れないけど、目覚ましアラームなしに、この曲で眠りについてこの曲で目覚めるのを一ヶ月くらい繰り返したら脳とか身体がどうなるか、実験してみたい。ある特定の知覚とか能力だけが妙に発達したりー。

日本でこの曲のライブやるのであればFUJIの最後の晩とかがいい。星の下でこれが流れて眠りに落ちたら気持ちいいだろうなー。
 

いちぶオフィスに戻り始めていてぐったり、なのだがまだ在宅の期間もあって、これの何がよいって、朝晩の交通のがないのもあるが、もうひとつは会議の隙間とかの空き時間に横になって寝れることなの。20分でも40分でも。なんであんなにオフィスに戻れ戻れってうるさいのかちっともわかんないわ。 一体感?(げぇー)

政権変わっても(変わったとは思えないけど)あのくそじじい共じゃ絶望しかない。なんであんなのがいいの? ほんとやだ。

[film] De Jueves a Domingo (2012)

7日、月曜日の晩、MUBIで見ました。あと3日で見れなくなるよ、って出ていたので。

チリの女性監督Dominga Sotomayor Castilloさんの監督でデビュー作。昨年BFIで彼女の最新作 – “Tarde para morir joven” (2018) – “Too Late to Die Young”を見て、すばらしい青春映画だと思ったのにこれの後に続いたこの作品上映は疲れてて逃してしてしまったのでその借りを返す。英語題は”Thursday till Sunday”。

まだ外が暗い明け方に、車でどこかに出発しようとしている家族がいて、ママのAna (Paola Giannini)はパパのFernando (Francisco Pérez-Bannen)に「こんな状態で行ってもいいの?」ってちょっと棘のあるかんじで聞いている。家族はこのふたりに小学校高学年くらいのLucía (Santi Ahumada)と低学年で無邪気なManuel (Emiliano Freifeld)の四人で、木曜から日曜まで、サンチャゴの北の方にあるキャンプ場を目指してドライブの休暇に出かけるらしい。

子供達ふたり – 特にManuelの方はまだなんにもわからないのでほぼ動物と同じく好き勝手に放牧されているのだが、Luciaはいろんなことに気づいたり敏感になり始めた年頃で、姉として弟の面倒を見たりしつつ、泣いたり叫んだりして許される年齢ではないことを自覚し始めている。 なので父と母がそれぞれなにを思ってどうしようとしているのか、とりわけふたりの間の見えない空気を読む – なにが起こっているのかを真剣に学習しようとしていて、パパとママの間の仲があまりよくないらしいことについては気になっている。 カメラはその辺のLuciaの表情 – あまり起伏は激しくない、が故に映りこむ – を繊細に捕えようとしていて、ここが単なる家族の休暇を撮ったホームビデオとは異なる。というより微妙な亀裂も含めて木曜日から日曜日までの家族の背景が「楽しい休暇(見込み)」になったとき、そこに何が映りこむのか、という難しいテーマに取り組んでいて、うまくいっているのではないか。

途中で友人たち親子と落ち合った時にそこのパパとAnaが親しげにしているのにFernandoが少しつんけんしていたり、キャンプ場に着いてからもいろいろすれ違ったり、ママがひっそり泣いていたりするのを見たりしたときのLuciaは、どっちにつく以前のところで、みんな一緒に遠出したのにぜんぜん楽しんでいないし自分もあんま楽しくないし、こんなことがあっていいのか? 家族っていったいなんなんだ? って。

人里離れた田舎にコミューンのようにみんなで寝泊まりしてわいわい共同生活をする場所を作る場面は、“Too Late to Die Young”にも出てきて、監督の幼少期の思い出が反映されていることをBFIでのトークで話していたが、ここで少女は子供たちの立ち入ることができない、思いが通用しない夜のような大人の世界があることを知るの。

Luciaがもう少し年を重ねると“Too Late to Die Young”になることを考えると、それってこの頃のことだったのかしら? って胸が痛くなるけど、そこまで切実でもない – Luciaだったら“Too Early to Die Young”って言いそうな、そんなほっとけなめんな、のぶっきらぼうなかんじも悪くない。
雰囲気としてはスペインの山奥の子供時代を描いた”Summer 1993” (2017)にちょっと近い。 泣いても笑ってもえんえん車で運ばれていってどうにもならないところとか。 でも肝心なのはあの年、ひと夏のお話ではないこと - 木曜日から日曜日までで、またすぐに巡ってやってくる、そういう日々のことなのだと思う。

もちろん、車の上にしがみついたまま走ったり、川遊びをしたり、パパに運転を教えてもらったり、みんなで歌ったり、よい思い出になりそうなところもいっぱいあって、そこはふつうにいいなー、なんだけど。


9.14.2020

[film] The Killers (1946)

 8月26日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。ここでRobert Siodmakの3本、というのをやっていてその中からの1本。原作はヘミングウェイの1927年の短編。Burt Lancasterのデビュー作でもある。邦題は『殺人者』。

NJのBrentonの小さなダイナーに夜、殺し屋にしか見えない男ふたりが現れて、客 とか従業員を脅してSwede (Burt Lancaster)の居場所を聞き出すと、そのまま出て行って、アパートにいたSwedeを銃殺する。ここまでの流れがすごく見事で、ダイナーの客にはNick Adamsまでいるし(Nick Adamsとしか言いようのない風情で)。

保険の調査員Jim Reardon (Edmond O'Brien)がSwedeにかけられていた保険金$2,500の調査のために乗り出して、そこに警察からSwedeの友人だったSam (Sam Levene)も加わって、Swedeのやや面倒ぽい過去のあれこれが浮かびあがってくる。

元はボクシングの選手だったSwedeは怪我で試合を続けられなくなって、やくざのBig Jim (Albert Dekker)と関わるようになって、その彼の周囲にいたKitty (Ava Gardner)の窃盗の罪を被って3年間牢屋にはいって、出所してからはBig Jimの企んでいる給与現金強奪に加わって、でもそこに情婦になっていたKittyが絡んで、現金がなくなってしまった – Swedeが殺されたのはこの辺の事情と思われた。で、話は今の時点に戻って、現金の在り処をめぐって当然次に狙われるのはKittyで..

過去(起こったこと)と現在(これから起こること)、現金(消えた)と女(複雑で謎)と男(あっさり殺された)を巡っていろんな思惑が、保険屋(仕事)と警察(仕事もあるけどあまり関わりたくない)の間でなされて、そのミステリーは結果的に落着するのだがその背後は相当こんがらがっていたなー、って。 Big JimやKittyの目線から見たら明らかに違って見えるであろうストーリーがクールに線引きされていて、その容赦ないかんじもよいの。ていうか、最初に出てきたふたりの殺し屋の印象が強すぎて、結局あいつらだろ、になってしまっても構わない、その強いコントラストも素敵。 有無を言わさぬ殺し屋の世界はあるのだ、っていう怖さ。


Criss Cross (1949)


9月6日、日曜日の昼、これもRobert Siodmakの3本、からの1本。邦題は『裏切りの街角』。

LAの駐車場でSteve (Burt Lancaster)がAnna (Yvonne De Carlo)に必ず行くから待っていてくれ、って告げて、そこから回想にはいって、輸送車の会社に勤めるSteveが元妻のAnnaとよりを戻すためにAnnaの夫でやくざのSlim Dundee (Dan Duryea)に現金強奪の話を持ち掛けて - 自分はインサイダーだから - で、強奪のどさくさで怪我をしたSteveは新聞に載るヒーローになり、でも金はどこかに消えちゃって、当然ふざけんな、ってやってきたSlimの追手をなんとかしつつAnnaとの待ち合わせ場所に向かうのだが...

“The Killers”よりも非情で救いようがないのだが、どっちも昔の女への未練を棄てられずに危険な賭けに出て結局破滅しちゃうようなやつなの。 女からすれば「あんたなんかいなくても別にもう」だと思うのだが、そうさせたくない – 今の自分は過去のあいつとは違うんだ、っていう復讐に近い男の情念が物語をドライブする。それはただのナルでまぬけな勘違いだから失敗して自滅するのはいい気味、っていう教訓のお話しとして捉えればよいと思うのだが、こういうジャンルを「ノワール」と呼んだり、相手の女性を”Femme fatale”とか憧れてかっこつけたがるバカがそこらじゅうに湧いてくるところに二重の悲劇があったりしないだろうか。

たんに「だめ男もの」とか呼べばいいのに。

この頃のBurt Lancasterってなんとなく今のZac Efronに似てない? 哀れな迷い犬みたいところとか。


9.13.2020

[film] The New Mutants (2020)

 6日、日曜日の昼、CurzonのVictoria - 映画館で見ました。やっぱり客はじぶんひとりしかいなかった。

これの予告を見たのは随分昔 - 2018年くらいのNY - でずっと塩漬けにされていたよう(時間もカットされているみたい)だし、案の定どこのレビューもぜんぜんぱっとしないのだが、でもいちおうX-Menのシリーズだし、”Emma.”のAnya Taylor-Joyさんが出ているし、監督・脚本は”The Fault in Our Stars” (2013)のJosh Booneだから、見る。 わるくないよ、ぜんぜん。

ティーンのDani (Blu Hunt)が夜寝ようとベッドに入ったら地震だか竜巻だかみたいな揺れと轟音に襲われて、訳がわからないまま父親に連れられて家を飛びだして、大きな樹の穴に隠れるように言われて、父親とはそれきりになり、次に気がつくと隔離病練 - John Carpenterの“The Ward” (2010)みたいな - ところに入れられていて、Dr. Cecilia Reyes (Alice Braga)が診ている。

そこに入れられているのは他にRahne (Maisie Williams)、Illyana (Anya Taylor-Joy)、Sam (Charlie Heaton)、Bobby (Henry Zaga)の4人で、やさしいRahneを除けばみんな拗ねた不良みたいなかんじで、Dr. Reyesは怖くはないのだが冷たくて、逃げたければどうぞ、っていうのだが逃げようとすると電気網みたいのが張ってあって外の世界に出ていくことができない。

そうやって施設のなかで5人で過ごしていくうちにDani以外の4人はみんなミュータントで、それぞれの事情背景や能力が明らかになっていって、ふん、だからなんだってのさ、なのだがDaniだけはなんでここに入れられているのか解らなくて、Dr.がいろんな検査を続けても解らなくて、でも計器類は変な兆候や危険域にあることを示したりするので、面倒だから処分しなさい、って(Essex Corp.から)指令がくだって..

Josh BooneがJohn Hughesの崇拝者であることからも、これはやっぱり”The Breakfast Club” (1985)のミュータント版として見てあげるのが正しくて、同じようなテーマの”X-Men: First Class” (2011)と比べると、あっちがミュータントとしての自身の能力を発見する・目覚める、というところがメインだったのに対し、こっちは互いに認めあって連帯する・力を合わせる、という方がやや強調されている気がする。男女比がこちらでは少し変わっているのと、恋の要素もほんの少ししかなくてLGBTQが挟まったりするのは今ふう、だったりする?  (欲を言えばAnthony Michael Hall ポジションの誰かがほしかった)(もういっこ言うと、父親というテーマもちゃんと入っている)

それぞれに逸れ者で問題を抱えている5人が休日に学校に連れてこられて隔離監禁されて、という”The Breakfast Club”のシチュエーションは、ミュータントもののテーマにもきれいにハマることを見つけたのはよい、のだけど監視勢力と戦ったり敵をやっつけたりする方がちょっと弱くなっちゃったかも。あれだけの施設を見ているのがDr. Reyesひとり、っておかしいし。

それぞれがどんな能力なのかは、あんま書かないほうがいいかも知れない(オリジナルのコミックにはあるんでしょ?)けど、Illyanaのはこれまでになかったタイプの気がするし、最後に正体を現すDaniのやつはぜったい画期的ですごくてJean Greyのより強いと思うしもっと見たいし。 だからこれで終わりにしないで次も作ってほしい。それかせめて”Deadpool”の方で.. (こないだのはもう既にその路線かしら)。

ほんとうはこうやってミュータントが確認されても企業が囲ったり国が騒いだりすることなく、彼らがバンドやったりスポーツしたり恋をしたり、たまにピエロと戦うくらいの青春ドラマがもっとふつうにあってもよいのではないかしら。 それか『高慢と偏見とミュータント』みたいなやつとか。


どうでもよいことなのだが、さっきBBCのTop of The Popsの80’sベストみたいなのをぼーっと眺めていたらJona Lewieの“You'll Always Find Me In The Kitchen At Parties”の背後で歌って踊るKirsty MacCollさんを見つけて嬉しかった。


9.12.2020

[film] Obit (2016)

 5日、土曜日の晩、MUBIで見ました。ドキュメンタリー。とってもおもしろかった。

自分が歳をとったからだと思うのだが、ここ数年、え?こんな人が亡くなっちゃったの? って愕然とすることが多くなって、なんで愕然とするかというと、まずは自分のなかで彼/彼女はとても身近に生きて本棚とか積まれた床とかレコード棚とかにいる人だと思っていたから、それに続いて、そうは言ってももう彼も彼女も(自分も)いつそうなってもおかしくない年齢になっているのだ、ということに気づかされるから。もちろん本人も予測していなかったであろう突然の、というのもあるけど。

で、そういう愕然とした状態を反芻して、しばらく気にしないでいたかも、というしょんぼりも含めて反省したい時に見るのがThe New York TimesのObituaries – 訃報 欄で、亡くなった人はどんなふうに亡くなったのか、彼/彼女の代表作として紹介されているのはどういう作品で、彼/彼女の死を通して彼/彼女の一生がアメリカではどう紹介されているのか、を読む。もういっこ、暇なときには、ぜんぜん存じていない方だけれどこんなおもしろい人・すごい人が亡くなっていたのね、というのを発見する、というのもある。歴史は自動に勝手に動いていくわけではなく、事件でも現象でも必ずその起点や背後にはひとりの人がいる、というのがここに来るとわかるの。

このドキュメンタリーはNew York TimesでObituaries – Obit 欄を担当するセクションの男女数名に密着して、亡くなった人の記事を書くためにどういう取材や裏取りをしてどういうことに着目したり気を付けたりしながら記事にしていくのか、を担当者たちへのインタビューといくつかの例を並べつつ、訃報を書く、という仕事ってどういうものなのか、を紹介していく。

例えば出てくるのは、著述家David Foster Wallace、NASAのJack Kinzler、タイプライターのリペアマンManson Whitlock、エノラ・ゲイから原爆を落とした操縦士Colonel Ferebee、Alka-Seltzer を始め60年代にTV CMのベースを作った宣伝マンDick Rich、1960年の大統領選のTV debateでJFKの選対をして劣勢を覆したWilliam P. Wilson、などなどの死と彼らの生涯を訃報に纏めたときの発見とか再定義とか。

この人たちは教科書に載るほどすごいことを成し遂げたわけではないけど、間違いなく今の我々の生活のどこかになんらかの形で関与したり影響を与えたりしている。そういう糸を表に出して確認するというのと、家族や知り合いにとっては彼/彼女を悼むのは勿論、その記事を通して彼/彼女の人生と再会する・その生涯を再訪する - そしてもちろん忘れないよ - という意味もあるのだ、と。

このサイトにも自分にとって大切だったミュージシャンが亡くなったりしたときに文章を載せたりしているが、最初にその人の死の報に触れてなにを感じたのか、なぜそう感じるのか、について書き始めると、どうしてもその人の作品とその軌跡とかライブパフォーマンスについて、更には生い立ちや交流関係にまで入っていってしまうことがあって、それを通して彼らへの愛を再確認する - Obit担当の人達はきっとそれを日々多かれ少なかれ何人もの人達と向き合ってやっている – しかも決められた字数と形式のなかで - の偉いなすごいなって。

あと、おもしろかったのは”The Morgue”と呼ばれる社の資料保管庫で、ここにインデックス毎にいろんな写真や記事がぜんぶ保管してあるのだが、切って貼っても含めすべて人手の管理が積み重ねられてきたのでどこになにがあるのか素人が触るとやばい海のようになっているらしく、なんかすごい。かつてここに隠されたある情報を巡って死体が.. みたいな迷宮推理小説が書けそう。 デジタル化しないでね。

そしてここに保管されているAdvanced Orbit – 予め用意されている有名人の訃報 - 真っ先に名前を挙げられてしまうStephen Sondheimとか、1931年に用意されたけどその後80年間使われることのなかった女性飛行士のElinor Smithさんのとか。

人の死って、新聞に載るような出来事であるのと同時に、それ以前にその人と一緒に生きてきた時間が閉じる、閉じたことを確認するひとりひとりの行為に繋がる、とてもパーソナルなもの – 死ぬときはひとりなんだから基本はパーソナルなものなんだよね、って。

今日は911から19年目で、毎年我々は「犠牲者」を悼むのではなくて、あそこで呼ばれるひとりひとりの名前とその家族のあの日に起こったいろんなことを思ってお祈りする。どっかの国のバカが戦死者を「英霊」とか一括りにするのってほんとに無礼失礼極まりないなとか、そういうところまで思いを巡らすことができるよいドキュメンタリーだった。


9.11.2020

[film] L'ami de mon amie (1987)

 4日、金曜日の晩、より正確には5日土曜日の朝、MetrographのVirtualで見ました。

“Les Misérables”をみてへろへろぐったりになって帰ってきて少し寝て、起きたら深夜で、米国東海岸20:00から上映されるこれはロンドンでは1:00からで、どうしようって思ったのだが、眠くなったら寝ちゃえばいいか何度も見てるし、って結局最後まで見てしまった。Rohmerすごい。

10分前からPre-Showということで入ってみるとRohmerと誰か(あれ誰だろ?よく見るひと)が対話している映像で、Rohmerが50 - 60年代からつけているという制作ノートについて語っていて、その時点から「喜劇と格言劇」シリーズの断片は書き留めていたって。

そして(これがあるから夜更けに入った)Noah Baumbachによるイントロ。本人が出てきたものの「この作品について語りたいことが沢山あるので資料をいっぱい作ってメールしたらエラーで返ってきた。なので喋ることはできないけど映画はすばらしいから楽しんでってね」って、おい…

英語題は”Boyfriends and Girlfriends”、邦題は『友だちの恋人』。これと『レネットとミラベル 四つの冒険』 - これは明日Metrographでかかる - あたりが自分がRohmerにはまった最初のピーク - 『海辺のポーリーヌ』あたりから追ってはいたけど - で、なーんでこんなにおもしろいのこれ? って痺れまくって、これも当然初日にシネセゾンに見に行った。いまだになんでこんなにおもしろいのかをきちんと説明できる自信がない。

パリ郊外のセルジー・ポントワーズの市役所に勤めるLea (Sophie Renoir)と学生のBlanche (Emmanuelle Chaulet)が出会って友だちになって、Blancheは一緒に暮らしている恋人のFabien (Eric Viellard)を紹介してくれて、LeaはFabienの友人のAlexandre (François-Eric Gendron)をいいなー、と思うのだが自分からは言いだせなくて、そうしているうちにFabienのことが気になってきて.. あと登場するのはAlexandreの恋人のAdrienne (Anne-Laure Meury)くらいで、この5人が夏のバカンス - 恋の季節を前にどうする?どうする?どうしたい? ってやりあっていくの。

Blancheはすらっとした自信家さんで、自分のことは他人にとやかく言われる筋合いないわって誰と住むのかどこに旅行するのかも自分で決めて走っていっちゃうタイプで、Leaはその逆で、まだあまり人が入っていない新築ニュータウンみたいなところにひとりで暮らして、なんであんなことしちゃったんだろ言っちゃったんだろあたしの人生って.. とか振り返ってはめそめそ泣いてばかりで、そのうちBlancheがFabienを置いて休暇に行っちゃったときFabienと寝ちゃっても彼は「友だちの恋人」だし、でもそれを言うならAlexandreだってそうかもだし、こんなことで悩んでいたらBlancheは呆れて離れていっちゃうだろうし..

ふつうのrom-comだともうちょっと周囲のおせっかいとか「あんた誰?」的な人物が余計な災いとか厄介事を呼びこんできたりして、それらのノイズが引っ掻き回した果てに一件落着、になったりすると思うのだが、Rohmerコメディの主人公の周りには見事になにも起こらず、周囲の人物はそれぞれの世界観と行動原理のなかで普段通りの暮らしや動きをしていく中、風が吹いたり雨が降ったりするように起こるべくして起こった早とちりや誤解や思い込みが主人公たちを動かして、でも結果的にはしかるべきところに落着してしまったりする。

だから「コメディと格言」で、格言の通りにほら、こんなふうになっちゃったでしょ、っていうのと、こんなふうになっちゃったけど、そういえばこんな格言があるよ、っていうのと、どちらにしてもコメディとはこういうもので、それは我々の生活とこんなにも近しいところにあるのだ、と。もちろん、悲劇についても同様のことが言えるのかもしれないけど、それは雨に降られてびしょ濡れになったとか蜂にさされた、なんかと同じようにやりすごして忘れちゃえばいいだけのことだから(もちろん、掘りたいひとは掘れば)。

これって書いてみればそんなものかなー、だけど、よく考えてみればすごく驚異的な、奇跡のようなことではないかという気もして、Rohmerの映画に深入りしたくなるのはそういうところなのだと思う。ここにこそ人生の、世界の謎と秘密があって、彼の映画の格言(Proverbes)ってその謎を解き明かすための補助線で、でもいくらそうやって解に近づいていったとしても最後までやっぱしわかんないや、になるのは - 人はなんで恋に落ちてしまうのか、そこだよね。

そしてもちろん、すばらしい小説や絵画にもそういうところがある。世界が柔らかな頬の輪郭からできていることを示したAuguste Renoirのひ孫がLea役のSophie Renoirさんである、というのは別の角度から現れた謎のひとつではないか。

のと、この不可解なまでに災厄の多い年には、Éric Rohmerのコメディがぜったい必要なんだわ、って。

911だねえ。

9.09.2020

[film] Les Misérables (2019)

 4日、金曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。わたしにとってはホームグラウンドというか学校というか塾というか、そういう場所なので嬉しいな、しかない。

入り口はシアターに直結した搬入口みたいなところから係員のひとに名前告げて入れて貰って、食べもの飲みものもOKだけど、買ってくるにはぐるっと回る必要があって相当不便で、上映中も基本はマスク着用で、いろいろやりにくいけど、嫌なら来なきゃよいだけ。あと椅子は並んだふたつ分を潰しているので相当ゆったり見やすくなっていて、そこはとてもよい。

この日が英国の公開初日で、あさってから4Kリストアでリバイバル公開される”La Haine” (1995)を中心とした“Redefining Rebellion”という特集のなかに置かれた1本でもある。 2019年のカンヌで審査員賞を、セザールでも作品賞他いろいろ獲っていて、こういう時節にはタイムリーな1本。

冒頭、2018年のワールドカップで「フランス」の勝利に湧きあがるパリの街が活写されて - 最初はこのスチールを見て暴動なのかと思った – この沸騰した情景を念頭に舞台はパリ郊外のMontfermeilに移る。低所得者層が暮らす団地が並ぶ一帯の警備ユニットにStéphane (Damien Bonnard)が配属されてくる。新人ではなく妻の仕事の事情でここに来た彼は、Chris (Alexis Manenti)とGwada (Djibril Zonga)と一緒に組んでこの一帯を車で回りながら、主に白人のChris の言葉 - 相当差別的でヘイトに満ちた - で一帯の勢力関係や人種、宗教の構成や札付きや重要人物を教わり、バス停の女子学生達にいちゃもんつけたり、見るからに荒れて廃れている、というよりも警察も含めた力による緊張関係がかろうじてそのバランスを保っているコミュニティのありようをStéphaneの目を通して我々も見ていく。

やがてサーカスのライオンの子(かわいい。ほしい)が盗まれたことからふたつの勢力が一触即発状態になり、ChrisがこういうのはそのうちInstagramに出てくるはず、と掘っているとやはり出てきて、その写真をあげていた子供- Issaを捕まえようとしたら一帯にいたガキ共と小競り合いになり、その混乱の中、Gwadaは誤ってIssaの顔を撃ってしまう。更に悪いことにそれが上空からドローンで撮影されていることがわかり、この様子が公開されたら俺たちは終わりだからドローンの持ち主を探せ、ってChrisは顔色を変えて、でもStéphaneはそんなことよりIssaの手当ての方が先だろ、ってチームの二人と対立して。

この後に一連の出来事を収束させる - 暴動に発展させない、変な方に飛び火しないようにする - ためにいろんな「関係者」と話したり脅したり駆け引きしたりの息を呑むぎりぎりのやりとりがあって、でもみんなChrisのやり方には頭きているし「ここでは俺が法だ」というChrisはぜったい謝らないし、Issaは傷ついて、ここで生まれ育ったGwadaもぐったりして泣いちゃって、あーあ、の一日が終わる。

で、ここで終わると思ったらそうではなくて、翌日パトロールの途中で待ち伏せしていたガキ共(含. Issa)が… ここは2008年に起こった実際の事件をベースにしているそうなのだが、ものすごく怖い。暴力がエスカレートして歯止めが効かなくなって無闇矢鱈に目の前にいる奴に襲いかかるをだけになっていく、煙の中でその視野が失われていくかんじが。

終盤の緩急のつけかたと途切れない緊張の糸が幾重にも巻かれていく様は確かにすごいかも。終わってややぐったりした。

で、最後にVictor Hugoの"Les Misérables"からの一節 - "Remember this, my friends: there are no  such things as badplants or bad men. There are only bad cultivators."が字幕で出る。のだがここは賛否あるかも。だって、bad cultivatorsがなんなのか、それがどこから来ているのか今はみんな知っているのだからそこを突くべきだし、ここの、あの場面に19世紀の小説の言葉を持ってくることで、これって大昔からそういうもんなのよね、って受容されてしまうだけだし。(おそらく冒頭のフランス国旗の場面との対照なのだろうが)

そして同様に、たぶん誰もがBLMを例に出して、警察起因の暴力はこんなふうな事態を招いてしまうから(→ BLMこわい)、と印象レベルでわーわー言うことだろう(特に日本の嫌BLMの人々 – あの人たちなんなの?)。BLMは原理原則の話だから間違えないでね。暴力はなんであれ誰のであれ、絶対だめなのよ。

ところでフランスの団地が出てくる映画って怖いのが多い気がする。 "De bruit et de fureur" (1988)   - Sound and Fury とか、怖い映画ではないけど "Girlhood" (2014)とかの殺伐としたかんじとか。日本の団地だって怖くて映画を知らないだけなのだろうけど、今回のは怖かった。

ドローンで撮った映像がいくつか効果的に使われていて、これってこれまでの空撮とクレーンによる撮影の中間くらい - 神の目鳥の目よりもう少しローで、でも高解像度のいろんな目を提供してくれて、犯罪パニック映画とかで使いようはいっぱいありそう。

(今は無理だけど)観光でやってきた人に「レ・ミゼラブル」を見せてあげる、ってこの映画に連れてきたら怒るかなあ、やっぱり…
 

9.08.2020

[film] Un divan à New York (1996)

8月28日、金曜日の晩、MUBIで見ました。Chantal Akerman監督・作のrom-comなのだが、”Perfect Failures”のタグが付いている。失礼しちゃうわ。じゅうぶんおもしろいのにさ。

英語題は”A Couch in New York”。日本でも96年に公開されているようなのだがこの頃自分は米国にいた。

精神科医のHenry (William Hurt)はNYの高級アパート(5thの80th辺り?)に暮らしているのだが自分のちょっと困った患者たちから頻繁に電話がかかってくるのに疲れて新聞に広告を出してアパート交換をやってみることにする。これに乗ったのがパリのおんぼろアパートに暮らすBéatrice (Juliette Binoche)で、とりあえずってかんじで全くお片付けしない、下着とか脱ぎ捨てたままでNYに飛んじゃって、そこに入れ替わりでやってきたHenryはその散らかりように呆れて数日間がんばっているうち彼女宛のBFからの手紙を見たり部屋に訪ねてきたBFとかにぶつかったりして彼女って... になる。

他方でBéatriceはドアマン付きで、わんわんまでいるアパートの調度とかビューとかにすげーってなりつつも友達を呼んで楽しんでいたらベルが鳴ってHenryの患者 - Richard Jenkinsとかいろいろ - がいつものセラピーを受けに現れてカウチに横になるので、どうすることもできずにとりあえずふんふんて話を聞いてあげたら、それだけでありがとうって感謝されて次の予約を入れていく。

自分の患者たちが変わらずアパートに出入りしていることを不審に思ったHenryはNYに戻ることにして、でも直接戻るのではなく、まずはBrooklynの弟のところに滞在して、Johnていう偽名でセラピーの予約を入れて様子を見ることにする。

で、自分のアパートに行ってみれば、犬は名前まで変えられてとてもよいこになっているし、部屋は居心地よくなっていて、患者受付も友達が窓口になって完璧で、実際に受けてみた彼女のセラピーセッションもすばらしくてどうも勝手が違う。更にはぎこちなく互いを好きになってしまったようで、正体を明かすべきかどうか、彼女はじきに戻らなければならないしどうする…

これ、40-50年代のハリウッドのプロダクションで作ったらぜったい傑作rom-comになったであろうに(主演のふたりを誰にするか?)、この時代設定だときついかなあ。95年くらいだとインターネットもまだまだ – “Captain Marvel“に出てきたようなあれ – だし、同様のおうちとっかえrom-com – “The Holiday“ (2006) - ですらあんなふう、ということをわかっておかないと?? だらけになってしまうかも。(ところで、"The Holiday"、久々にTVで見たらすごくおもしろかったの)

あと、Chantalのドキュメンタリーフィルム – “I Don'tBelong Anywhere: Le cinéma de Chantal Akerman“ (2015)にあったけど、彼女の演出が厳格で、William Hurtのアドリブとかを一切許さなかったと。この辺で演技のやるきを削がれてしまったのか、明らかに熱がないのが残念かも。

ラストは、パリの彼女のアパートで再会して終わりじゃなくて、ふたりであっ.. てなったところに彼女の元カレ達が殺気立って襲いかかってくるのでふたりしてまた慌ててNYに戻って、そこでようやく..  っていうのが正しい終わりかたではなかろうか。(いちどぜんぶちゃらになるモーメントがほしいし、NYの映画なんだからNYで..)

それにしてもJuliette Binocheって、“Copie conforme“ (2010) - 『トスカーナの贋作』にしても、“Doubles vies“ (2018) – “Non-Fiction“にしても、こないだの“Celle que vous croyez“ (2019) - “Who You Think I Am“にしても、表裏たっぷりにしれっとしたなりすましとか偽装とかの役柄をさせると後ろめたさと天然のmix具合が絶妙だなー、って(ほめてるの)。

あのわんわん、5th Ave. を本当に走っていったのかしら?  あのまま本当にJFKまで行ってしまいそうな(実際にくるんだけど)すばらしい走りだったねえ。
 
 
London Film Festival 2020のラインナップが発表になった。小規模になっちゃうのはしょうがないかー。メインの会場はBFIの3つ(他にCurzonとかも)で、“Ammonite“、“Kajillionaire“、“American Utopia“、“Nomadland“ あたりは見たいけど、オンラインで見るかシアターで見るか、オンラインのみのも結構あるのね。ううー。

 

[film] Duelle (Une quarantaine) (1976)

8月31日、三連休月曜日の昼間、米国のMUBIで見ました。

ずうっと前の8月15日に米国MUBI Libraryの“1970s Masterpieces”ていうカテゴリーの中に“Noroît” (1976)が有料 - $2.99 - であるのを見つけて見て、これが”Duelle”も入れた四部作の一部であることを知ってそっちも見たいなーと思ったらこっちもやはり米国MUBIのなかにあった。なんで英国MUBIにはないのかは不明。 Rivetteが”Out 1, noli me tangere” (1971)の後にどんなものを撮ったのかを知りたくて。

Jacques Rivetteがネルヴァルの『火の娘たち』から構想した四部作 - ラブストーリー/ファンタジー/西部劇/ミュージカル – のうち、実現した第二部が”Duelle”、第三部が”Noroît”。

冒頭、パリの夜、Lucie (Hermine Karagheuz)が兄のPierrot (Jean Babilée)とサーカスの玉乗りで遊んでいて(ここに全てが)、その後、ホテルに勤めるLucieのところに謎めいたLeni (Juliet Berto)が訪ねてきてMax Christieという男を探してほしい、と依頼する。戸惑いながらも探し始めたLucieの先で殺しが起こり、Max Christieも死んでて、依頼人が探しているのはこれも怪しげな石 – “Fairy Godmother”で、同様にそれを探しているViva (Bulle Ogier)がどこからか現れて、Leniは月の精で、Vivaは太陽の精で、“Fairy Godmother”があるとより長く地球に滞在できるから決闘する運命にあるのだと。

謎の石がどちらか一方の手に渡ってしまうと世界が破滅する.. がんばれLucie!というAvengersみたいなでっかい話ではなく - 月がどーんと出たりするけど - どちらの精も自分たちがより長く滞在したいからというちんぴらヤクザみたいな動機から夜のパリに出没して人を殺したり追っかけたり睨み合ったりしている。なんで警察や私立探偵がちっとも出てこないのか。ノワールじゃないのか。

これをファンタジーにしているのは太古からあった(と思われる)昼と夜のせめぎ合いの謎の物語を夜のパリのダンスホールとかメトロとか公園とかの自分たちの領土を駆け抜けながら解きほぐしていって、最後にその物語が前面に出てくる – そしてここで閉じて終わるものではない – そういう物語のありようで、この点は”Out 1”でColinが”The 13”の謎を追っかけながらも最後までその正体(顔)が明らかにならなかったのとは対照的かも。そして街は神話だろうが秘密結社だろうが、喜劇だろうが悲劇だろうが、そんなふうに見えるもの見えないもののせめぎ合いの中で明らかにされることを常に待っているのだ – というようなことが”Jacques Rivette - Le veilleur” (1994)では語られていたような。

夜のパリにそれぞれぎんぎんの恰好で現れて向き合うLeniとViva、それだけでかっこよくてわーってなる、その前段にはダンスホールがあって、世界の大抵のことはこのフロアの上のダンスと音楽と一緒に起こって、そこでは常にJean Weinerが弾きまくるピアノががんがんに鳴っている。

これと従姉妹のようになっている映画だと思ったのがÉric Rohmerの”Les nuits de la pleine lune” (1984) - 『満月の夜』で、Vivaの娘 - Pascale Ogier - が満月に借りを返しにやってくるの。


Noroît (Une vengeance) (1976)

元の四部作構想からすると三つめの「西部劇」にあたるのだが、フランスには荒野もないしインディアンもいないので海と海賊のお話しになった(のかしら?)。

こちらは緩めの原作があって17世紀の英国の劇作家Thomas Middletonの ”The Revenger's Tragedy”(未読) – この作品、Alex Coxが2002年に同タイトルで映画化しているのね(未見)。

タイトルは風が吹いてくる方角 - nord-ouest - north-westだという。西部劇 – Western よりやや北の方に傾く。

冒頭、海辺でMorag (Geraldine Chaplin)が弟の亡骸を傍らに泣いていて、海賊の首領のGiulia (Bernadette Lafont) に復讐すべく、側近のErika (Kika Markham)をGiuliaの元に送りこんで暗殺の機会を探る。  財宝の話も少しは出てくるけど、ここの中心テーマは復讐で、最終的に組織の天辺をやっつけるために手元で殺った殺られたを繰り返し、目の前に広がるのは海ばかりだというのに、捜索や追跡といった威勢のよい冒険とかJohnny Deppとかはぜんぜんなくて、海を背にして孤立したふたつの勢力がじりじりと策謀と騙しの室内劇を繰り広げていく。それもあって時折映しだされるばーんとした海の描写がかっこいい。

ここでは稽古場のような場所でのやりとりが - 特に終盤は - 中心になって、器楽アンサンブルが延々と演奏していくなか、緊迫した会話と仮面舞踏会での型にはまったようなアクションが続くところは”Out 1”でのリハーサル風景を思わせる。更にクライマックスのところではフィルムの粒度とトーンが変わって(16mm ? 赤白)途端に実験映画ぽくなって、はったりめいた雰囲気も含めたそのアブストラクトなかんじは悪くない。いろんな念で膨れあがったエモの反対側で、でも結局はみんな風に吹かれて海の藻屑、みたいに儚いありようがよく出ていて、ここは ”Duelle”のファンタジーの永続性とはきれいな対照関係にあるかのよう。

ここで描かれた彼らの砦は時間を経て”Out 1”の海辺のあの家に繋がっていくのかどうか。こんなふうにとめどなく連想が繋がっていくとても風通しのよい映画だった。

 

9.07.2020

[film] Build the Wall (2020)

 8月31日、月曜日の晩、YouTubeで見ました。タダで簡単に観れたのだが、それでいいのかしら?
“Drinking Buddies” (2013)とか、”Happy Christmas” (2014)のJoe Swanbergの新作。57分くらいの、ちょっと短い作品だけど相変わらずどこか抜けてておかしい。

トランプがメキシコの国境に作っている壁を巡って驚愕の事実が明らかになるドキュメンタリー、ではぜんぜんないの。

ヴァーモントの山の奥にひとりで暮らすKev (Kevin Bewersdorf)の家の前にある日トラックで石塊の山が運ばれてきて、なんだこれ? と思っていると友人のKent (Kent Osborne)からで、電話によるとこないだ一緒に呑んだ時に壁作ってあげるって言ったじゃん、50歳の誕生日だって言うし一式築いちゃうよおれ、って向こうはやる気まんまんで、そんな約束をした覚えもなかったのだがだからと言って断るほどのものでもないか、って思って、でもひとつ引っかかったのはその時にまだ直接会ったことのない女友達のSarah (Jane Adams)が訪ねてくることで、彼女は週末の誕生日まで数日間自分の家に滞在するので、そのときに庭先でずっと作業されているのはやだな、って。

壁作りにやってきたKentにそのことを話すと、いやいや大丈夫、車の中で寝泊まりするし食事も自分でやるし一切迷惑はかけない。おれこの壁作るためだけに来たんだから、他でもこれまでにいっぱい作ってるからさ、と - この時点でものすごく真剣なのが死ぬほどおかしい。 

他方でやってきたSarahを空港に迎えにいって、ぎこちなくハグして、どちらも無口でシャイで人づきあいが苦手な方なのか何を言ってもやっても譲り合ってぎこちなくぶつかってが微笑ましくて、でもだんだん馴染んできて、それでもKevがキスをしようとするとSarahは柔らかく拒んで、ま、べつにいいか、くらい。そんなふたりが熱中するのが遠くから斧をくるくる投げて木の幹に突き立てるやつで、なかなかうまくいかないけど、だからこそそこに集中して時間を潰しているかんじ。 SarahはKentの壁作りにも当然興味を示して、Kentは得意になって道具とか石の積みかたとかを教えてくれる - なんかおもしろそうかも - のだが、Kevにはそれがちょっと面白くない。

ここまでで、Kevのよく言えばとても細やかに気を使ってくれる、わるく言えば放っておけなくて先回りするおせっかいなところがいろいろ見えてきて、少し時間が経ったのでSarahも打ち解けてきて一緒に寝ようかになるのだが、そのよくないとこが出てなんか気まずくなって、でもふたりとも基本はよい人だし大人なので、ま、そんなもんかな、って。

Kentの壁作りは佳境に入ったようで、気がつけば弟子みたいな若い女の子がひとり作業に加わっていて、それもKevには気になっておいおいどうすんだよ、って言うのだがKentは、事前に言っとかなかったのはわるかったけど、でも誕生日に間に合わせたいし迷惑かけないしいいだろ、って。こうして誕生日がやってくるとKentの仲間たちがぞろぞろやってきてバーベキュー大会みたいになってて、本当ならSarahとふたりでしんみりお祝いしてお別れしたかったのになんだこれ.. 。

“Drinking Buddies”も確かこんなふうに当初の狙いとか計画からじりじりずれて気がついたらこんなのでいいのか、になってしまう悲喜劇、とも言えないくらい微妙な肌表面の捩れを描いていたがこれもそうで、KevもKentもSarahも、ほんとうに(自分も含めて)身近なところにいるよき隣人たちで、みんな好き嫌い以前のところでそこらで草を食んでいる - 別に酒とかドラッグやっているわけではない - ものだから拒めやしない。こんなふうに入りこんできてそこらにいる人たちの存在感。

で結局、壁っておもしろそうだけど、なんのために作ったの? なんになるの? っていう疑問がぽつんと…      (ガキが基地とか作るのと一緒か?)


もう”Love Actually” (2003)をTVでやってる。 これから年末にかけてあと何回やるつもりなのか、そして自分はあと何回見るつもりなのか。結局好きなのかしらこれ?

9.06.2020

[film] La Truite (1982)

 8月30日、土曜日の晩、MUBIで見ました。英語題は“The Trout”。
MUBIでこれから始まる特集” - Isabelle Huppert: The Incontestable Queen”の最初の1本。

原作はRoger Vaillandの64年の同名小説で、監督はJoseph Losey、撮影はHenri Alekan、プロダクション・デザインはAlexandre Trauner。Castにも結構有名なひとがいて、半分くらい日本が舞台で日本の人も出ているのに、日本での公開は映画祭とかのみ、ずっと後になってから、2012年にWOWOWで放映された(邦題は『鱒』)らしい。 IMDbによるとオリジナルのフランス版は116分あって、US版は105分(or 103分?)、MUBIのは99分。よくわからない。

フランスの田舎の町でFrédérique (Isabelle Huppert)が鱒の養殖場で働いていて、地元のボウリング場でそこに来ていた実業家Rambert (Jean-Pierre Cassel)とその妻Lou (Jeanne Moreau)と知り合って、賭けボウルをして勝ったりして、Rambertと部下のSaint-Genis (Daniel Olbrychski)は彼女の堂々としたさまを気に入って、日本での商談に一緒に来ないか、って誘うのだが、彼女はGaluchat (Jacques Spiesser)と結婚しているのでだめ、と返して、でも結局Saint-Genisの商談に付き合うことにして飛行機に乗ってしまう。

こうして80年代初の東京にやってきたFrédériqueが不思議の国ニッポンで見たり知ったりするいろんなこととか人 - 日本側の実業家で山形勲とか - と、なんとか関係をつくって彼女を飼いたいSaint-Genisとの間でごたごたするのとか。 結構重くて暗い内容なのかしら、と構えていたのだが、寧ろ逆で、プラスティックでぺらぺらの都会を舞台に描かれるビジネスもセックスも権力もトラウマも偉そうなやつらが偉そうにしているばかりのひたすら空虚な水槽のなか、つーんとして泳ぐ非養殖系のFrédériqueがひたすら生々しい、とっても80年代ぽいやつだった。

日本側のコーディネーションを誰がやったのか知らないが、Joseph LoseyもHenri AlekanもAlexandre Traunerも、日本の特徴的な建築とか意匠の美だの意味だの歴史だのなんだのをきちんと捕まえて物語に活かそうとするつもりなんてこれっぽっちもなかったようで、結果不思議な書割の前で不思議な顔をして突ったつばかりのIsabelle Huppertの容姿のみが浮きあがっていてすばらしい。彼女のロング - ミドル - ショートのヘア三態を見ることができるし。

これならここから20年後の東京を舞台にした”Lost in Translation” (2003)の方がまだ当時の東京の都市のありようが異邦人(の恋)にどう作用したのかをきちんと捉えていたような気がする。もういっこ、Joseph Loseyの過去の作品だと”Eva” (1962)があって、これも異国(イタリア)を舞台に素性不明のEvaにぺらい男がきりきり舞いさせられるやつで、そういえばここでEvaを演じていたのはJeanne Moreauだった。 この『鱒』でも唯一落ち着いてFrédériqueのことを、その行く末を語っていたのは彼女だったような。

たぶん今の若者が見たらなんじゃこりゃ? なのかも知れないが、80年代頭の新宿のディスコとかはだいたいあんなかんじだったとおもう。大屋政子は見たことなかったけど。 なんかどれもこれもみんな失われてしまったねえ(そして失われ続けている)。 戦争があったわけでもないのに。ずーっとこの調子で来ているけど、本当にいいの?  いまの東京とか、ほんとうに薄っぺらで世界一貧乏くさくてつまんないと思う(とか言うのは老人だけだから)。

9.04.2020

[film] Away (2019)

 8月30日の昼、Curzon Victoria – 映画館で見ました。映画館で見たいやつもさすがに減ってきたかも。そんなに新作が出ているわけでもないし、ストリーミングで見たいのもいっぱいあるし。

ラトビアのGints Zilbalodisさんがひとりで作りあげたような台詞のない75分のアニメーション。

アニメを見るのは久々で、ロンドンだとジブリ系は映画館復活後も割とかかっていて安定の人気だし、「君の名は。」(だっけ?)とかの新しめのも入ってくるしレビューも悪くないのだが、日本のアニメのあの絵柄が表象する(そして刷り込もうとする)日本人の気持ち悪いあれこれが耐えられなくなっているので見ない。いや、個々の作品を見ましょうよ、て言うのかも知れないけどそれなら他に見たい個々は山ほどあるので間にあっている。

男の子(中高生くらい)がひとり岩に引っ掛かってぶら下がっていて、そこに首なしの巨人が現れて彼を飲みこんで、彼はそこから懸命に逃げ出して、そこからChapter 1の”Forbidden Oasis”になる。ここは楽園のような場所なのだが、バイクがあってリュックがあって、リュックの中には水筒とか地図が入っていて、地図上にある町のようなところまで行った方がよいのかどうか。振り返ると元きた入り口のところに巨人がいて空っぽの目でこちらを見ているので、バイクに乗って傍らにいた飛べない小鳥をお供に旅にでる。先の方には半円型のゲートのようなのが一定間隔で連なっているので、そこを抜けていけば道になっていくらしい。  

絵は最近の3Dアニメーションの目くるめく経験と比べるととっても素朴な、切り絵のような、悪く言えば初期のCGゲームのような味と色味があって、でも背景の回りこみとかどこまでも果てのないかんじとかで見せて、Chapter 2の“Mirror Lake”の美しさはなかなか素敵な。 

少年ひとりの旅、冒険なので乗り越えねばならぬ局面とか危機一髪みたいなところがあり、それらを通して決断のシーンがあり、その脇で飛べなかった小鳥が飛べるようになったりとか、いろんな動物が出てきたりとか、エコな世界への目配せもあるし、独りよがりな若者の旅、というかんじではない。彼は喋らないし、ほぼ笑わないし泣かないし叫ばないし。

こうして最後の危機を乗り超えて巨人を振りきるのが最後のChapterの”Cloud Harbour”で、全体がゲームの場面場面をクリアしていくような構成で、その纏まり具合はきれいだし眠くなることもなかったし文句ない。

けど、なんかラカン臭いというか、”Away” – 遠ざかるというよりも社会の真ん中に飛びこんで同化するプロセスそのものを描いているようで、これってそういうことでいいの? 別にOasisにずっといればいいのに。巨人なんて放っておけばいいのに、小鳥と一緒に遊んでいればいいのにな、って。

この後の流れとしては、向こうから現れた町の人々がみんな顔なしがゾンビか、っていうやつか。

あと、主人公が女の子だったらどう描いただろうか、って。(同じだよ、って言える?)


ついにBFI Southbankに行った。 まだ売店もコーヒースタンドもみんなが待つ場所もなくて、紙のチケットもないしレジュメペーパーもないし、シアターに直結している出入り口から入って出るだけだったけど、でもすごーく嬉しかった。最後にここに来たのは3月16日だった… 

9.03.2020

[film] She Dies Tomorrow (2020)

 8月29日、土曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。RSD2020で朝からぐったりの状態で見るにはなかなかのやつだった。

新しい家を買って越してきたばかりのAmy (Kate Lyn Sheil)は突然「自分は明日死ぬ」、という考えに取りつかれてしまう。なぜ?も、明日のいつ?も、どうやって?もない。自殺なのか殺されるのか病気になるのかわからないけど、死ぬんだわ、って。 考え出すとこびりついて止まらなくなって床に転がったりオンラインで骨壺を眺めたり変なことを始めて、そこに友人のアーティストの Jame (Jane Adams)が来て、どうしたの? って心配するのだが、その「自分は明日死ぬ」は彼女にも伝染して、それがやがて彼女の家族にも伝染していって..   画面の上では人物の背後で青と赤の光が点滅するとそういうことになるみたいなのだが、それが仮に伝染病のようなものだとして、そのウィルスがどこから来て何をもたらしてパンデミックになるのを防ぐにはどうすればー、みたいな方向には行かない。明日死ぬのは社会ではなく自分なので、それが全てでそこで閉じていいし社会なんて心配している暇ないし。そんなふうに閉じた、明日死ぬことになってしまった人から見た半径30mくらいの世界のありようを描く。ホラー? とはちょっと違うかも。

人それぞれに抱えている闇も地獄も個別だしわかりようがないし、その内面や事情をくどくど並べるようなことはしない - 過去のフラッシュバックのようなものが示されるのみ – なのだが、そういう観念が地面に根を張って身動きがとれなくなってしまう感じ、その金縛り感 – 金縛りになっていない人にはわからないし伝えようがない遠さ – は怖いくらいわかる。 ただの鬱なんじゃないの、って言うひとは言うのだろうが違うの。そう言って解決することなら簡単なの鬱じゃなくて死ぬんだから、って。 誰のせいであろうがひとはいつか死ぬ、これは本当のことで避けようがなくて、そこに「明日」が入ることになっただけ、でこれだけの段差ができて風景が違ってみえる。

突然やってくる奇行や死、というと”Melancholia” (2011)があるし、もう少し事件の方に寄っていくと”CURE” (1997)があるけど、これは現代のソーシャルなあれこれを丸ごと頭のなかに抱えこんでしまった果てに現れた最新版で、その乾いたような湿ったような質感も含めてAmyのお話しであり我々のお話しにもなっている(うつるし)ところがすごいと思った。

そして、これが”I Die”ではなく”She Dies”の三人称になっているということ。

映画作家のJames Benning(電車映画のひと)が出ているのね。


Sun Don't Shine (2012)

1日、火曜日の晩、MUBIで見ました。↑の”She Dies Tomorrow”のAmy Seimetz監督(原作も)の長編デビュー作。 こちらもすばらしい。彼女、”Pet Sematary” (2019)とかに出ている女優さんなんだけど。2012年のSXSW Film FestivalでChicken & Egg Emergent Narrative Woman Director Awardていうのを受賞している。

車の脇でCrystal (Kate Lyn Sheil)とLeo (Kentucker Audley)が車に乗れよ乗らないわで接近戦の喧嘩をしていて、ふたりがどういう人でどういう関係にあるのか、なにが起こってここまで来て喧嘩しているのかは全くわからない。ただ状況は切迫していてどうしてもその車に乗って向かわなければいけないところがあるとLeoは苛立って焦っていて、Crystalはあれこれ納得していない。

そうやってフロリダの方にぐさぐさロードムービーをしていく様子 - トランクの荷物があるので警察とかにマークされたらやばい - と、目的地に着いてからもその荷物とLeoが頼っていった人を巡って懲りずに続くすったもんだと、そうやって明らかになっていく顛末のおおよそ。でもなんでそうなっちゃったのかとか、他にやりようはなかったのかとか、それが正しい方向なのか、等については言及しない。 CrystalがLeoに、更にその向こう側の世界に向ける眼差し - 怒り、失望、絶望、諦念、空っぽさ、少しだけ希望、幼い頃の記憶、それらが彼女の中にどう滞留して流れて溢れてぐるぐる堂々巡りしていくのかを刻々と追っていく。彼女をこの状態になるまで運んできたすべてのことに対する言いようのない眼差しを。

この点で状況は全く異なっているとは言え、Crystalが「自分は明日死ぬ」と言い出してしまうことにそんな違和感はなくて、そういう状態に囚われてしまった女性の宇宙を正面から描く、という点ではAmy Seimetzの視点は一貫している。
この状態を夫婦とか家族という地点から刻々と追っていったのが”A Woman Under the Influence” (1974) とは言えないだろうか。いまもう一度見直してみたい作品。

“She Dies Tomorrow”のAmyもこの作品のCrystalも演じているのはKate Lyn Sheilさんで、彼女もすごいったらない。Leo役のKentucker Audleyさんも“She Dies Tomorrow”に少し出てくるの。


ここのところどんよりの重い(低いというより重い)気圧の日々が続いていて、そんななか、こないだのRSDで買ってきた“The Kink Kronikles” (1972)がよすぎて泣いている。The Kinksってこの気圧のなかでずっと聴かれてきたんだな、って。 ものすごくよいのだが、なんかおかしいと思ったら、こいつら、1枚目にSide1と4が、2枚目にSide2と3が入っている。これってわざとなのかしら?

もういっこ、RSDで売り切れ、ってあっさり言われてショックだったKirsty MacCollの”B-Sides 1988-1989”、初日の晩にオンラインでなんとかGetして今日やっと届いた。ぜんぶ聴いたことあるやつだったけど、通して聴くとどこがB面やねん、のすばらしさ。

[film] Who's Afraid of Virginia Woolf? (1966)

8月24日、月曜日の晩、Criterion Channelで見ました。8/31で見れなくなるよのリストから。

『バージニア・ウルフなんかこわくない』として劇作、映画共に有名なやつだけど、なんかサイコドラマみたいで怖そうだし見たことなかった。「バージニア・ウルフなんかこわくない」なんかこわくない、って自分に暗示かけて見る。

Edward Albeeの62年の同名劇をErnest Lehmanが脚色して、Mike Nicholsはこれで監督デビューして、いきなりオスカーの監督賞を獲っている。(『卒業』はこの翌年)

ニューイングランドの小さな大学で歴史の先生をしているGeorge (Richard Burton)と彼の妻のMartha (Elizabeth Taylor)がパーティの帰り、ふたりとも楽しく酔っ払って自宅に戻ってくるとMarthaがこれからゲストが来るよという。夜中の2:30なのに? ってGeorgeは聞き返すのだが、来るよって。そうしてやってきたのが若い夫婦のNick (George Segal)とHoney (Sandy Dennis)で、Nickは生物学の先生で、まだ結婚して間もないらしい。

もちろんお酒飲むよね、飲まなきゃねって、4人で飲んでいくうちにGeorgeとMarthaはぎすぎす辛辣に – まずはふたりの間で、NickとHoneyふたりに対しても - なっていって、NickとHoneyは来なきゃよかったかも早く帰った方がいいかも、になるのだがタイミングを逸してまあまあまあ、とかが続いてずるずるになっていく。この辺、誰でも覚えあるかも。こういうのって日本の酒席の「みんないるんだしそんなこと言わずに」も嫌だけど欧米もふつうのマナーに近いところで勝手にいなくなるのって却って面倒で、防衛機構も作動したのか女性同士、男性同士で固まって暫くしたらHoneyが、明日は息子さんの16歳の誕生日って聞いたけど? っていうとGeorgeの顔色声色が変わって…   ここから先は書かない方がよいか。

この家の外にはほぼ出ることのない室内劇で、キャンプとかホテルとかではない、GeorgeとMarthaという学内の地位も安定したエスタブリッシュメントの家に若い夫婦が夜更けに乗り込む。GeorgeとMarthaは酔っ払ってタガが外れているもののやらしい酔っ払いの聴覚嗅覚は研ぎ澄まされていて、そういうほぼ地雷原のようになっている一軒家に若くてこれからというひよこの夫婦がぴよぴよ入っていったらどんなことが起こるのか。(設定だけだとほぼホラーと同じよね)

GeorgeもMarthaも最初から酔っ払っていて、それでもふたりは飲むことを止めない、酔っ払うにつれてGeorgeは攻撃的で怒りっぽくなって、Marthaは感情的で泣き叫ぶようになって、それぞれに自分がそうなる理由は十分にわかっていて、互いをなんとか屈服させるための戦略でもあるかのようにその態度をでっかく引き延ばしておらおらってアピールする。そこに酔ってはいるもののまだ理知的で多少の理想も抱えたNickと無垢で弱さむき出しのHoneyが挟まったとき、誰が誰をどんなふうに操って何をなし遂げようとするのか、何を隠したり晒したりしようとするのか、これは酔っ払って楽しく語らいましょうの会ではなくて、誰かが誰かをやりこめて自分の配下に置きたいという欲望の元に行われる政治的なゲームで、酔っ払うこと/酔っ払わせることも含めてコントロールされた「劇」である、と – この辺、演劇と映画でどこがどれくらい異なるのかはいつか劇の方を見て確かめてみたい。

このやらしいゲームを執り仕切って場の生態系の頂点に立とうと苛立っているGeorge(なんとかその方向に持っていきたがっているのが彼だというのはOK?)からすると、ほぼ唯一不可視でなにが出てくるかわからなくて、「こわくない」って奮い立たせないとだめなふうなのが「Virginia Woolf的ななにか」として括られた女性のナラティヴで、それがどういうものなのか最後まで語られないまま夜は明ける。まったく失礼しちゃうわよね、っていう話かも。

この辺、ざっと50年前の当時と比べてVirginia Woolfって未だにわけわかんない・こわいものとして片づけられてしまうのかしら? っていうのはちょっと気になる。どうせ酒の席のことなんだから気にしなくても、とか言われてもあたしお酒飲めないからー。 たぶんいまだと「xxxなんてこわくない」に該当するアイテムがポリコレとかコンプラななにかも含めてありすぎて、やけくそになった男たちはしょうがないので酒でもドラッグでも..  になってしまったのが今、なのかもしれない。怖がるフリも被害者ヅラもいいかげんにしろ。

これを今の俳優たちでリメイクするとしたら誰 … は考えていくと止まらなくなるかも。
 

9.02.2020

[film] Fragil como o mundo (2002)

 8月22日、土曜日の晩、MUBIで見ました。
英語題は”Fragile as the World”。ポルトガルのRita Azevedo Gomes監督の作品。すばらしく濃厚な90分の詩だと思った。サイレント映画のような、どこをどう切っても絵画になって、とても21世紀に撮られた映画とは思えない。

冒頭とところどころ、森とか廃墟の爛れた色味のカラーがでてくる。それ以外はほぼモノクロと、カラーを脱色したようなモノクロと、画布が使い分けられているかんじ。

Vera (Maria Gonçalves)とJoão (Bruno Terra)の恋に落ちてしまったふたりのティーンがいて、道端の杭のところに手紙を埋めて交換しあって、Veraは”My João ~ João Me!!”って世界に向かって叫んだりしている。

冒頭にはVeraの母とのやりとりで、母は箱に入った若い頃の写真を見せたり、手袋の付け方を教えたりしている。そういう経験って何になるのか? Veraが歩いていくと奥から霧が湧いてきて、彼女の祖父は霧が好きだという。最初の雨がきたりとか北からの風がきた時とか、忘れていた大切なことを思い起こさせてくれるから、と。

でも恋が目の前で生起しつつあるVeraにとって、霧は視界を遮る何かでしかない。同様にうさぎを抱えたJoãoは祖母に、すばらしい瞬間がずっと続かないことがおそろしくないか、起こったことが二度と起こってくれないことがこわくないか、と問う。

不安定なVeraの状態について、彼女の両親はそんなに心配しなくてもよいのではないかと言う。教育すればなんとかなるし、結婚も教育のうち、誰もがやっている - 軍隊に入るようなものではないかと。それに対して母は、失われることを恐れていないのだとしたらそれは恋ではないのだ、という。

Veraは祖父に、ひとは愛のために死ぬことができるかと問い、祖父はムーア人の姫の叶わなかった恋の伝説について語り、伝説は恐怖(Fear)が作りだすもの - この時間が途切れてしまうこと、永遠が永遠にならないことへの恐怖 - が起源なのだという。

こんなふうにふたりには彼らのことを心配してくれるよい家族がいて、どれも間違ってはいないのだろうが、彼らの恐怖や不安 - ふたりでいる時間がずっと続いていかないこと、こうして起こったことがそれきりになってしまうこと - を解決するなにかにはなってくれない。 一度離れたらふたりは二度と元に戻れなくなってしまうのではないか、と。

ここまできたらこのふたりはふたりでずっと一緒にいるしかなくなる。終盤は学校の遠足から抜けだしたふたりが廃墟の奥で永遠の時間を見つけるまで - でもそれは歓喜に満ちた輝かしい何かというよりも朽ちていく壊れた世界の時間に身を横たえることで、うさぎと一緒に谷に落ちた幼いVeraは花の咲く原っぱや森で幽霊のような影を幻視する。 Veraを抱えたJoãoが霧の向こうに抜けていく。

ずっと海を見たいと言っていたVeraが海を見たらなにを思っただろうか。救われたかしら?

最後はポルトガルの詩人、Sophia de Mello Breyner Andresen (1919-2004)の詩句でおわる。
(この一節は途中にも出てくる)

“Fear of loving you in a place as fragile as the world”  

詩人Sophia de Mello Breyner Andresenについては、João César Monteiroによる16分強の短編ドキュメンタリー - “Sophia de Mello Breyner Andresen” (1969)があって、YouTubeにあったので見てみた。Carl Theodor Dreyerとの思い出に捧げられていて、詩を読んだり書いたりの彼女の姿に加えて、こちらは圧倒的に海の映画 - 岩の間を抜けるとその向こうには海が広がっているのだった。

詩の引用は他にもリルケとかがあるようで、ぜんぶ知りたい。

Rita Azevedo Gomes監督の作品だと、MUBIで”A Vingança de Uma Mulher” (2012) - A Woman's Revenge も見ていて、これもスペインの絵画みたいに強烈な印象があって、どう書いたらよいのかしら、とか思いつつそのままになっている。


9月になると、陽の沈む位置がどんどん左のほうに寄ってきていて時間も短くなっていて、かなしいねえ。

9.01.2020

[film] Les parfums (2019)

 もう9月かあー。 8月23日の晩、Cursor Home Cinemaで見ました。
英語題は”Perfumes”。 邦題はきっと「幸せの香りを求めて」みたいなやつになるんだよ。けっ。
Emmanuelle Devosさんがだいすきなので、久々に見たいな、って。

パリでリムジンの運転手をしているGuillaume (Grégory Montel)は、中年で離婚していて、ティーンの娘がいるのだが、いま住んでいるアパートがしょぼくて娘を週末に呼んだりすることができないので、いっぱい仕事してお金を貯めてもっと広いアパートに引っ越す必要がある。 でもスピード違反のチケットを結構切られていて会社からはいい加減にしないと.. って言われている。

ある日、運転の依頼がきたクライアントがAnne Walberg (Emmanuelle Devos)で、ものすごくつーんとしてて偉そうで、有無を言わさぬ荷物運びから着いたホテルの部屋のシーツを替えさせられたり(ホテルのメイドが使う匂いが我慢できない、って)、更には彼女が洞窟で仕事をしている時に口述筆記をさせられる - 彼女の仕事がなんなのか知らないのでわけわからない。で、仕事が終わったときには一応ひととおり嫌味と文句を言って別れる。

そしたらなんでか彼女から再び依頼がきて、本当だったら断りたいのに上の事情があるので断れなくて、つんけんしながら対応していく、その辺りのやりとりはちっとも新しいところのないフレンチのコメディの定石なのだが、相手がなにを言っても「それがどうした」「そんなのぜんぜんおもしろくないわ」って顔したEmmanuelle DevosさんなのでそういうSM寄りのが好きなひとにはたまんなくて、そうやって少しづつ近寄っていくふたりで、でも決して恋愛関係にはなるようなそれではないかんじ。

その関係のなかで明らかにされた彼女の仕事は香水のデザイナーで、でも今はエージェントの持ってくる洞窟の香りの調合 - 元の洞窟が痛んできたので別の場所にフェイクのをつくる - とか、工場の悪臭をなんとかするとか、そういうのばかりをやっている。かつてはDiorのJ’adoreのデザインをしたのも彼女である(もちろん、ほんとうはCalice Beckerさんね)ことが明かされ、そんな彼女がエージェントの言いなりで半端な仕事ばかりをやっている事情も明らかになって、でも元々鼻が効くらしいGuillaumeといろいろやりあったり助けられたりしてくうちに…

Emmanuelle DevosさんとGrégory Montelさんのコンビがとてもよくて、できればこのふたりで裏社会任侠モノを見たいかも。監督はJacques Audiardあたりで。 Emmanuelle Devosさんは近い将来、いまCatherine Deneuveさんが担っている揺るがない女家長の座 - ”Queen”を継ぐにちがいない。

わたしは元々鼻がよくない(目も耳も舌もよいとこひとつもない)ので、彼女のしているような仕事には尊敬しかなくて、すごいなー、って。彼女が小さい頃に出会った香りとして学校のレモン石鹸のことを言っているところとか、なんかよいの。

鼻はだめなのだが、もう20年以上Jo Maloneを使っていて、せっかくロンドンにいるので新しいのとか限定のが出るとくんくん嗅ぎにいって、ううむ、とかやっている。これだけじゃないけど、日本にいくとなんであんな高価になっちゃうのか。


まだレコ屋を彷徨ったりしているRSD2020。 全部聴けていないけどよかったやついくつか;

“JAZZ ON FILM...Michel Legrand - The New Wave era best of Michel Legrand”
“Cleo de 5 a 7”とか”Eva”とか”La Baie de Anges”とか、初期の珠玉のサントラたちが一枚に。

“The Pogues - At The BBC 1984”
まだCaitがいて、Terry WoodsもPhilip Chevronもいなかった(Philip Chevron加入直後のは数曲入っている)頃、いちばん聴きたかった時期のThe Poguesの音。

“Edith Sitwell/William Walton - FaCade”
10 inchで、ジャケットのイラストがとってもかわいい。 Edith Sitwellさんが自分の詩を読んでいるの。