9.30.2018

[film] The Predator (2018)

さっきSoft Cellの最後のライブを見て帰ってきて、まだじーんとしているのだが、前に書いたやつだから。


21日、金曜日の晩、BFIのIMAXで見ました。へろへろで眠くてだるくて、でっかい画面のどんぱちもんで目を覚ましたかったの。(ふつうに帰って寝れば..)

1987年、1990年、2010年のに続くシリーズの4つめだという(”Alien vs. Predator”は勘定しないらしい)。 最初のふたつは見ていなくて、要はArnold Schwarzeneggerとか軍隊が出てくるのがあんまり好きじゃないのね。 2010年のは、出張でLondonにいたときに暇つぶしで見た。あの程度の殺陣でやられちゃうのなら、Predatorってそんなに強くないんだ、って思った。
つまり、このシリーズに思い入れみたいのはぜんぜんないの。 あのドレッドみたいなやつは髪の毛なのか触角なのか、ナマハゲの仲間なのか、その程度。

最初に宇宙船が追いかけっこしてて、追われている方が地球のほうに逃げ切って不時着する。 そこでたまたま誘拐捜査の待ち伏せをしていた軍の狙撃手Quinn McKenna (Boyd Holbrook)たちと船から出てきたPredator一匹がぶつかって、なんだありゃ、とか言いつつなんとかやっつけて、そいつが腕にはめてたのとか兜とかを持ち帰って、駐屯していたメキシコから自宅に送って、それを受け取った彼の息子Rory(発達障害がある)がそれをつけてハロウィンに行ったりする。

あとはPredatorを追っている政府のエージェントと、政府に呼ばれた進化生物学者(Olivia Munn)と、最初の件で政府に目をつけられて捕まって軍の囚人たちと護送車に乗せられたQuinnが、収容されていた軍の施設を破壊して逃げ出したPredatorとそいつを追うでっかいPredatorと土佐犬みたいなPredatorとの間で、戦わざるを得なくなって、謎解きと追っかけっことRoryを救えと地球を救えとがだんごになって展開される。

謎解きのは、なんでPredatorは何年かに渡って繰り返し地球にやってくるのか、とかなんででっかいのと小さいのと犬みたいのがいるのか、とか、そこに彼らの鎧とか武器のテクノロジーはどう関わっているのか、とかそういうので、ここでもまた急激に進化するDNAの件が出てきて、なんかさー、DNAは利己的なものである、とか誰かが(得意満面で)言ってくれたおかげで、ここんとこ地球を侵略しにくるやつらはぜんぶ高機能なこいつを持っているみたいだけど、その辺の社会心理的な事情あれこれのほうが怖い気がするわ。

先に書いたように内容的にはいろいろ詰まっているのだが、結局いちばん見たいのは進化の止まった腐れたDNAの元軍人愚連隊がどうやって宇宙からの先端の脅威と渡りあうのか、っていうとこだけで、そこについてはひとりひとりの描きわけもなんとかできてて、突出して強いのがいるわけでもなくて、そんなに悪くなかったかも。
子供とか別れた妻とかの事情をあんま入れなかったらもっと派手にできたかも、ていうのはあるけど。 あと戦いかたはもうちょっと丁寧におもしろくできたかも。結局刺し違えで、ごめん、ありがと、みたいになるのは最近のトレンドなのかしら。

そうそう、デバイスを装着するとすごく強くなる宇宙人の元祖って、ウルトラセブンだからね、間違えないようにね。

あと、動かなくなった宇宙人を縛りつけておいても、目覚めたらぜったい暴れて手をつけられなくなって皆殺しで施設壊滅、って何百回学習してもわかんないのね。科学者ってバカなの?

Olivia Munnさんは走り回ってがんばっていたが、運動神経がすごく悪そうなふうだったのでとってもはらはらした。

あと、こういうのって一番Guardians of Galaxyに片付けてほしい案件なんですけど。 森だし相性いいはず。

9.29.2018

[film] I Saw What You Did (1965)

20日、木曜日の晩、BFIのJoan Crawford特集でみました。
監督は、かの”The Tingler” (1959)のWilliam Castleなので、なかなかの珍味だったかも。

田舎の仲よしティーンLibby (Andi Garrett)とKit (Sara Lane)がいて、Libbyの両親がつきあいの夕食会で泊まり外出するというので、KitがLibbyのうちに夜やってきて、Libbyの妹Tess (Sharyl Locke)と3人で遊びはじめて、なにして遊ぶかと思ったら電話帳を適当に開いて、指がささったところの番号に電話をかけて、向こうが電話に出たら低く湿った声で"I saw what you did, and I know who you are" て言って相手の反応を見てけらけら笑って楽しむ、っていうやつ。

(若い人達への注:昔は電話に加入すると電話帳っていう紙の冊子が配られて、そこには地域の人の個人名と住所と電話番号がぜんぶ載っていた。あとになって電話帳に掲載するかどうかを各自に確認するようになったけど、最初の頃はぜんぶ勝手に掲載されていた気がする。個人情報なんてなかった時代)

これって、ドアベルを押してダッシュして逃げるのと同じ、割とふつうのガキの遊びだったかも。(今だと、SNSでひどいコメントして逃げるってやつ? いい歳した大人が)

で、その何度目かにSteve Marak (John Ireland)てとこに電話したら妻と思われる女性が電話に出て、彼シャワー浴びてるみたいだから待って、といって彼女がSteveを呼びにいくと彼は虫の居所が悪かったのか、いきなり彼女をめった刺しにして殺しちゃって(あらら)、その後に電話に出たらいきなり"I saw what you did, and I know who you are"て言われたので、「な、なんでそんなことを...」ってうろたえてきょろきょろして、それをドアの後ろから見てて突然登場するのが隣人のAmy (Joan Crawford)で、あなたにはあんなガキの妻は無理だったのよ、ここにあたしがいるじゃないの、とか誘い始めて、なんだなんだこれは.. の展開になってくる。

更に、よせばいいのに子供らが、直接会って顔を見たいなとか言って彼の家(電話帳に住所があるから)まで車を走らせて、彼の家の前につくと、いきなり背後から鬼婆のようにAmy – Joanが現れて「おまえらかぁー」とかやるので子供たちはパニックになり、他方で錯乱して殺人鬼になってしまったSteveはAmyに刃をつきたてて、もう怖いものがなにもなくなったのか、最後の証拠隠滅のために子供たちをどこまでも追っかけてくるの。

メインは悪戯した悪い子を狂った男が懲らしめる系のスリラー、ホラーだと思うのだが、間に横恋慕してくるJoan、という別の狂気を挟みこんでしまったために、ものすごくとっちらかったあんま怖くない変態バトルみたいなのになってしまったかも。 ひょっとして” I Saw What You Did”ていうのは一段上の崇高な神の目線でわれわれになにかを訴えようとしているなんか、なのかもしれない、とか。

終わりに流れる音楽も、子供番組のそれみたいな明るく楽しく弾むようなやつで、さすがになんじゃこれは系の笑いが客席からも溢れてしまうのだった。

Joanというよりも明らかにJohn Irelandの映画で、彼、ほんと迫真の演技でおっかないのに、ガキの思いつきにやられちゃったかんじでそこも哀れでならないの。

9.28.2018

[film] Harriet Craig (1950)

16日、日曜日の晩、BFIのJoan Crawford特集で見ました。
この日は”Blighty”みて、”Sudden Fear”みて、これが3本めだった。ぜんぶモノクロ映画の日。

1925年のGeorge Kellyの劇 - ”Craig's Wife”が原作で、映画化は28年にサイレント(監督William C. DeMille)のがあり、36年にRosalind Russell主演のがあり、これが3つめ。みんな(たぶん男ども)このネタが大好きである、と。

Harriet Craig (Crawford)が、自分の邸宅からいとこのClare (K. T. Stevens)と郷里の病院で寝たきりの母のお見舞いに出かけようとしているところが冒頭で、旅支度の際のClareやメイドに対するてきぱきした指示の出しかた、余計な口を挟ませない口調の強さから彼女がこの家のボスだということが即座にわかる。

でも彼女が母を見舞ってもなんかすっきりせず、遠回しにそんな無理して来なくてもいいよ、みたいなことを言われ、あまり喜ばれていないことがわかって、他方で夜に自宅に電話をしてもそこにいるはずの夫Walter (Wendell Corey)が出ないので別の心配が膨らんで、予定を切り上げて夜行列車で戻ってみると、居間には吸い殻とか服とかが散乱していて、夫はベッドで酔いつぶれたようにぐっすり寝てて、要は鬼の居ぬ間に.. だったことがわかる。

その後も、自宅でパーティ開く件のゲストの選択でHarrietは会社の偉い人を呼ぼうとしたり、Walterの同僚とのつきあいにぶつぶつ言ってきたり、同じく同僚とClareの付き合いに首突っ込んできたり、メイドの粗相を絶対赦さなかったり、なんでも自分でコントロールしてきちんとしないと我慢できなくて、そうすることが自分たち夫婦にとっては最善なのだ、と確信していて揺るがない。
何を言ってもやっても、ほうらあたしの言ったとおりでしょ御覧なさいな、になってしまう。

自宅のパーティでWalterの人柄に触れた偉い人(の奥さん)が昇進のために彼を東京に長期派遣する話を持ってきても、心配で我慢できなくなったHarrietが偉い人のオフィスに直談判しに行って(ひー)、結果この話はなかったことにされて、Walterは意気消沈して、そのうちそれら(これ以外にもいろいろいっぱい)がすべてHarrietの思惑とか圧で潰されたり操られたりしていることがわかって、あきれたWalterを含む一同はやってらんないわ、って彼女が家宝にしている14世紀の明朝の壺を割って(えー)家から出て行っちゃうの。

Harrietのサディスティックで神経症的なコントロールぶりについて、映画のなかの被害者たちと一緒になってひどいー、って言うのは簡単なのだが、彼女にとってこの振る舞いは、幼い頃に父親に捨てられ、母と一緒に男社会のなかで生き残るために懸命になって勝ち取ってきた防衛機構のようなもので、今の自分もここにこうしてあるのだから彼女を突然現れたモンスターのように言うのはおかしいのではないか、と明確には語られないのだが、Joanの演技のちょっとした眉のゆがみとか肩の落としかたからそういうのは見えてきて、そういうとこまでをぜんぜんぶれずに演技のなかで語ってしまうJoanはほんとすごいな、って。

当時の観客は彼女の実際の前夫だったDouglas Fairbanks Jr. やFranchot Toneとの間にこういうことがあったんだろうなー、と重ねて見ていたのかも、とプログラムノートにはある。 こういうことがあったからって、それで結婚何回したって、べつにいいじゃん。

9.27.2018

[film] Skate Kitchen (2018)

18日、火曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。 Previewで、上映後に監督と映画に登場する4名とのQ&Aつき。

NYの街中でスケートボードをしている女の子たち – べつにプロでもなんでもない – を捕えたドキュメンタリーのようなフィクション。

メガネの、外見はぜんぜんそんなふうに見えないCamille (Rachelle Vinberg)はスケートボードが大好きで、夕暮れ時までずっと遊んでいて転んで怪我して股間から流血したりしているのでシングルマザーの母からはもうやっちゃだめ、と言われていて、でも止められなくて地下鉄でマンハッタンに出ていって(ロングアイランドに住んでいるらしい)、そこでスケートボードをやっている女の子たちと出会って、だんだん打ち解けるようになって、つるんで町中を滑っていくようになる。

ここまでで、炸裂するJunior Seniorの”Move Your Feet”(なつかしー)にのって彼女たちが笑いながら道路を滑って颯爽と抜けていくとこだけで、この映画いいなー! になってしまった。

筋のほうは不愛想で人づきあいの苦手なCamilleの目線で、ノラ猫みたいな女の子たちが集まってスケートして、たまにボーイズと小競り合いしたり、パーティに出かけてもノリについていけなくて出ちゃったり、母親と更に不仲になって家出したり、怪我して滑れなくなった子がむくれたり、その子の彼(Jaden Smith)と少し仲良くなって写真撮られたりしたら絶交されてホームレスになっちゃったり、割とドライなスケッチとして切り取っている。
スケートボードしてて怪我したら痛いのと、友達や親との間のあれこれで痛い思いするのもたいして変わんない、でもやっぱりスケート好きだからさ、ってひとりでも滑りに出ていく。 でもラストはとっても素敵だから。

彼女たちはマンハッタンのいろんなとこで滑っていて、LESはもちろん、Union SquareでもMidtownでもUpper Westでも、スケートボードに乗ってみるとNYの道路はこんなふうに見えるんだなあ、ていうのがわかって(カメラがそういう動きをする)、ほんとそこだけずっと流していてもよいくらいなの。

これまでのスケートボード映画って割と求道的でかっこいいノリのが多かった気がするけど、これはぜんぜんそういうのではないのと、あと、地下鉄で出かけていってさーっと滑って日が暮れたら地下鉄で帰る、公園も歩道も車道もビルの隙間でも、どこでも滑ることができる、そういう街 - NYの映画にもなっていると思う。

監督はあのドキュメンタリー”The Wolfpack” (2015) を撮ったCrystal Moselleさんで、後のQ&Aによると、BrooklynでG line(しぶい)に乗っていた時、スケートボードを抱えてでっかい声で喋っている女の子集団がいて、おもしろそうだったから声かけてコーヒーおごっていろいろ喋ったりしたのが最初、だそうで(たしか”The Wolfpack”の時も同じようなことを言っていたような - 変な子たちを見つけたから … って)、実際に彼女らの中に入って、試しの短編一本 - “That One Day” (2016) - を撮って、そこから拡げてみたのが今作、と。

Q&Aに並んだ女の子たち(Camille役の子はいなかった)のトークも俳優ぽさなんてカケラもない、そこらのガキがそのまま言われたのでくっついて来ました、みたいなノリで、そういえば監督は、女の子たちが部屋に集まったときにするような会話とか挙動をそのまま撮ろうと思ったそうで、それが予告にもある「タンポンしたら死ぬってほんと?」とかそういうやつ。

音楽もできるだけ彼女たちが普段聴いているようなやつを入れるようにしたそうで、だからみんなでPrincess Nokia に手紙書いて「使わせて〜」、とかやったんだって。

運動なんかしなくなって30年いじょう経っているのだが、唯一やってみたいのがスケートボード(とできればサーフィン)だったりするので、なんとなくめらめらしてくるのだった。
(でも今始めたら間違いなく骨折して病院おくり - でも集中して本読めるからいいかも、とか)

彼女たち、BFIの横のスケボー場でも滑っていったのかしら?

9.26.2018

[film] Les Demoiselles de Rochefort (1967)

19日、水曜日の晩、BFIのBig Screen Classicsていう企画 - クラシックを大画面で見よう、ていうだけなの – で見ました。
『ロシュフォールの恋人たち』ね。もちろん。

少し前の12日の晩、ここの同じ企画で“French Cancan“ (1955)を見て、あーやっぱりいいなあフランスのこういう… って思って、さらに「こういう」ってなんだろと思って、ただぴらぴら女性の動きが圧倒的にきれいな「だけ」のやつかな ..  ていう思いつきを抱えた状態で見た。

上映前にこの企画のプログラマーのGeoff Andrewさん(よいひと)がイントロで出てきて、プログラムノート(BFIで上映前に配られる一枚紙)のなかでJonathan Rosenbaum氏が自分のFavourite Musicalであると断言していて(98年のChicago Readerより)、先日英国フランス大使のところを訪問した折にAgnès Varda女史と会話したら彼女もこれがベストだって言っていて、自分もずっとそう思っていて、この3人が揃って言うのだからこのミュージカルはやはり世界一と呼んでよいのではないか、と。

ただこのミュージカルが参照したりリスペクトしたりしているアメリカ産のミュージカルと比べたとき、どこかぎこちなかったり人工的だったりするところがあることは確かで、それはミュージカルについてのミュージカルでもあるから、というのと、なんでミュージカルが必要なのかというとひとは恋に落ちたら歌ったり踊ったりしたくなるからで、つまりこれは恋に落ちることについての映画でもあって、その恋は叶ったり叶わなかったりするものだが - 初めて見るひともいるだろうからこれ以上は言わないけど – たとえばFrançoise DorléacとGene Kellyが出会って、恋に落ちる一瞬を、そのとんでもなさを見てほしい、というようなことをものすごい勢いでがーっと喋って消えた。(ぱちぱちぱち)

ストーリーはいいよね。 ロシュフォールの街の金曜日から翌月曜日にかけてのお話しで、週末に向かって大量のアメリカ兵(など)が大量の恋の予感とかフェロモン(など)を運びこんできていて、迎え撃つ側にはDelphine (Catherine Deneuve)とSolange (Françoise Dorléac)の姉妹がいて、ママはYvonne (Danielle Darrieux)で、みんな宿命ど真ん中の、100%の恋人とか離れ離れになってしまった恋人とかを胸に秘めてやたら燃えていて、部屋とか店とか道路とかで歌って踊って手を伸ばしてキスを誘うの。 そのハーモニーは途切れずに天に昇るのもあれば、そのままでフェードアウトするのもあるけど、パリを目指したり次の週末を目指したり渡り鳥となってどこまでも飛んでいく。 要するに、恋愛ばんざい! ていうことを言うため(だけ)に台詞、歌、振付、色彩、音楽、映画を構成する要素ぜんぶが奉仕していてクレーンで宙に持ちあげられる。こんな渾身の、でも天使みたいな力技見たことないし、なんでこんなことができたのかというと、Jacques Demyそのひとが常にその只中にあって、それに溺れたり浮かんだりしながら映画や歌やダンスを求め続けたひとだったからではないか。

それにしても改めてMichel Legrandの音楽は、音楽がもたらす怒涛のような恋への予感と恋が始まってからの洗濯機の渦と洗濯ものが干されて風に吹かれて飛んでいくまでを微細にキャッチ―に描きこんでいてものすごい。 そしてそこに乗っかるJacques Demyの歌詞もまた、恋愛に完全に酔っぱらって叩きのめされているジャンキーのそれで、こういうのを書けるのはBryan FerryとかSerge Gainsbourgとか、そういう特殊なおじさんたちだけ。 どこから聴いてもどこまで聴いても終わることも飽きることもなくオートリバース(って最近の子は知ってるのか?)し続けるMix Tapeみたいなの。

(関係ないけど、こないだ”French Cancan”見たとき、これスラッシュメタルみたいかも、って思った。死ぬまでがんがんバンギングしていそうな歓喜と気迫、それのみなの。理由はないの)

ロシュフォール、いつか行ってみたいな。 ナントの方が先かな。

9.25.2018

[film] Blighty (1927)

恒例の日曜日午後のサイレントで、これも”World War One: Regenerations”の特集からの1本。
このシリーズ、他にはルノワールの『大いなる幻影』 (1937)とかも上映する。(おそらく、ドイツ、英国、フランス、と三ヶ国の映画を1本ずつ取りあげているのか)

英国製の、戦闘シーンが出てこない第一次大戦もので、製作はサイレント時代のAlfred Hitchcockの作品を作っていたGainsborough Pictures、これもこの時期のHitchcock作品を多く手がけたEliot StannardとIvor Montagu(Hitchcockの”The Lodger: A Story of the London Fog”がスタジオからの注文で潰されそうになったのを救ったひと – これもおなじ1927年か)がシナリオを書いている、ということで、おもしろいかも、と。  うん、おもしろかった。

ロンドンに邸宅を構える貴族のSir Francis(Annesley Healey)とLady Villiers (Ellaline Terriss)と娘のAnn (Lillian Hall-Davis)がいて、息子のRobin (Godfrey Winn)はハイデルベルクの大学に留学しているのだが、サラエボ事件が起こって戦争が始まり、彼にも召集令状が来て、明るく行くよ! って言うので家族は心配するのだが、クリスマス迄には終わるかしら、とか言っている。

Robinは出征して、何度か英国には戻ってきてその度に順調に出世していくのだが、いつも立ち寄っている食堂の女性(Nadia Sibirskaïa)と恋に落ちて、だんだんに帰宅する頻度が減っていって、彼は一度一緒に帰ろうと誘うのだが、彼女はこんな自分は移民として見られてしまうに決まっているので、と乗ってこない。

もうひとり、家族の運転手のMarshallも同様に出征していて、彼も何度か戻ってきてRobinのことを伝えたりしているのだが、負傷したりしているうちにAnnと恋に落ちて、国を越えた戦争が、階級や民族を越えた恋愛とかを連鎖して引き起こしていく。ここは特に強く語られているわけではないけど、そういうドラマがある、と。

で、戦局が厳しくなってきた頃、手紙が届いて、Robinが亡くなったと。悲しみに暮れる家族のもとにMarshallの手引きで赤ん坊を抱いた彼女が現れる。戦争の終わりを受けて歓喜に溢れた群衆がトラファルガー広場を埋めつくす絵と、新たな家族を静かに迎い入れる一家の像の対比がずっと残るの。 どちらも立て直さなきゃいけないにしても、この犠牲ってなんなのだろう?

これはやはり戦争 – おそらくは第二次大戦というよりは第一次大戦のほう - が起こらなければあり得なかったお話しで、それもただならぬ大事、というよりは誰の身や家族にも起こり得たようなことを繋いで、離れ離れになってしまった者 - その片方は戦争ていういつ亡くなっても文句をいえない状況に突っ込まれている - 同士の、ずっと一緒にいたいのになんで、とか、こんなに想っているのになんで、というこみあげてくるものをめいっぱい切なく見せてくる。

食堂の彼女がもうじき戦地に向かおうとしているRobinのヘルメットに手をあてて、これが彼の頭を守っているんだ、これだけなんだ、ってしみじみ見つめてきゅう、ってなるところとか、すごくよいの。 彼女の縮れた髪の毛と黒い瞳と。

イントロで触れられていたが、Robin役のGodfrey Winnさんはこのあと俳優だけでなくジャーナリストとして活躍してラジオショーもやって、W. Somerset Maughamの友人として彼の作品(後で調べたら” Strictly Personal” - 1941 だった)にもモデルとして出てくる、英国では有名なひとになったのだそう。

[film] Westfront 1918 (1930)

今朝からコート着た。

14日の金曜日にBFIで見ました。”World War One: Regenerations”という小特集からの1本。
こないだ見た”The Guardians”もこの特集も、第一次大戦の終結から100年経った、というのもあるのだろうか。 
邦題は『西部戦線一九一八年』。

BFIのコピーには“The film that Hitler didn’t want his citizens to see”とあって、実際に公開から3年後に上映禁止処分をくらっている。たしかに戦意喪失映画、としか言いようがない。

“Pandora's Box” (1929) - 『パンドラの箱』のG.W.Pabstのトーキー第一作で、ドイツでのリリースは30年の5月、同じ戦争を描いた作品として同年の12月にリリースされたラマルク原作の”All Quiet on the Western Front” (1930) - 『西部戦線異状なし』– これは見ていない – と比べると知名度は低い(こちらの原作はErnst Johannsen)ようだが、これだってじゅうぶんにすごいし怖いと思った。

終戦間際の最終局面の西部戦線(向こう側にはフランス)に駐屯した4人の歩兵 - the Bavarian、Karl、the Lieutenant、the studentのそれぞれの運命を描く – どれもとっても悲惨なのだが。BavarianとKarlとLieutenantの3人が爆撃されて埋まっちゃったところをStudentに救われたり、Student(よいこ)は泥沼のなかでフランス兵とえんえん取っ組み合いしたり、Karlは帰還命令が出たので家に戻ると妻が肉屋といちゃついていたので、絶望して再び前線に戻ったり、戻ると泥水のなかからStudentの腕が出ていたり、Lieutenantはついに発狂しちゃったり、最後は轟音とうめき声が響く薄暗い病棟のどん詰まりで、敵も味方もなくみんなゾンビみたいに呻くばかりで誰にもどうすることもできない。

戦場 - 前線の描写はずっと機械とか戦車とかの低音や砲声が耳鳴りのようにわんわん鳴ってて不快なばかりで、画面は奥のほうの前線 – ただの殺風景な地平線とか煙とかが定点固定で映っているだけの見晴らしはほぼゼロで、でもカメラが動かず、動けないことの不便さ不快さがそのまま前線に置かれているかのような感覚を引き起こして、その灰色の視野の奥から虫のように敵兵とか戦車が湧いて出てきて、気持ちわるいったらないの。

最近の戦争映画の、特殊撮影を駆使して戦争の迫真の「リアルさ」を見せる- 四方八方からあらゆるものが飛んできて、当たれば即死で逃げても即死で、こんなに酷いことになっていてどこにも動きようがない状態 - を緻密に360度の視界と圧縮された時間感覚で見せる - のとは全く異なる、実際に穴に埋まって動けなくなってそのまま埋まって死に向かうしかないひとりの人間の視野・感覚野に同期しようとしていて、どちらかというと後者の方が怖い、というより嫌で、最近これとおなじかんじで厭戦観をたっぷり煽ってくれたのが「野火」(2014) だったかも。

でも、それでもナチスは台頭して二次大戦は起こって、その後もずっと戦争だの紛争だのは続いているので、そんなに泥に埋もれて豚みたいに死んじゃうのがいいのか、て改めて思うのだが、戦争をやりたがるひとが見る映画、作りたがる映画は決してこういうのじゃないんだろうな、って。
でも、反対側の、痛みに対する想像力を持てないひとが創作に関わっちゃだめよね。

終わりの字幕は ”END?” って。終わらないものになることはわかっていた、と。

9.23.2018

[film] A Simple Favor (2018)

17日月曜日の晩、BFIで見ました。

UK PremireでPreviewで、上映前にPaul Feig, Anna Kendrick, Blake Livelyによるイントロ付き。
チケットはあっという間に売り切れていたのを当日なんとか釣りあげた。

BFIにしては珍しく各席にボトルのお水なんか配られていてイベントっぽい。慣れないことやったからか開始が30分遅れてんの。 イントロの舞台挨拶はぴっかぴかの3人なのでぱーっと派手に明るくて、監督はへらへらおちゃらけつつも、最近いっぱいあるリアルで底の深いスリラー("Gone Girl”みたいな)ではなくて、昔ヒッチコックがやっていたようなびっくりどきどき多めの軽めのサスペンスを目指した、って。 でもあんま期待しないで(Low expectationで)見てねー!って。 (監督が一番目立っててはしゃいでいる、という珍しいケース)

シングルマザーのStephanie (Anna Kendrick)は自分で撮って流している主婦向けのVlogで、いつものように明るく画面の向こうから挨拶した後で、親友のEmily (Blake Lively)がいなくなっちゃってもう5日になるの… てべそをかくのが冒頭で、そこから少し遡って、幼稚園の出迎えでEmily (Blake Lively)と知り合って、彼女と夫のSean (Henry Golding)と息子のNickyの暮らすかっこいい屋敷に出入りするようになるまでが始まり。 EmilyはNYのファッションブランドのPRディレクターで、Seanは小説を1本書いてからは大学で英語を教えてて、Stephanieからするとなにもかもハイソでクールな別世界なのだが、Emilyとはマティーニ飲みながらいろんなことを話すようになる。でも、彼女の写真を撮ったらすぐ消せってえらく怒られるし、あんたを友達とは思ってないから、とか軽く言われたりする。

ある日、Emilyからちょっとしたお願い(A Simple Favor)がある、用事ができたのでNickyを幼稚園に迎えにいってしばらく預かってくれない、と言われて軽くOKしたら、冒頭の状態になって、警察には届けたもののどうしたものか、どこにいっちゃったのか。

やがてミシガンの方でEmilyの目撃情報と車と、やがて湖からは水死体が出てきたのでお葬式して、落ちこんだSeanに誘われるままに(ついでに寝ちゃった)Stephanieは彼の家に引っ越すのだが、Nickyはママを見たよとか言うし、Emily失踪前に保険が掛けられていたとか、いろいろ変なことがわかったり起こったり始めたので、Stephanieは家のなかに遺されたものからEmilyの仕事場に行ったり彼女の生い立ちとかを調べ始める。誰も頼んでないけど。 ここから先は書かないほうがよいかも。

監督がイントロで言っていたようにEmilyの恐るべき魂の闇とか呪われた血筋とかを暴いていく、方には向かわずに、Stephanie = Anna Kendrickが彼女特有の軽いノリで、わぉ! とか きゃー とか言いながらフットワーク軽く動いていって(Vlogで捜査の経過をお知らせしたりとか)、彼女と共にびっくりしたりはらはらしたりしながらそういうことなのかー、って進行していく。
サスペンスとしても謎解きとしても破綻なくさくっと纏まっていて、えーそっちに行くのか、みたいにまとわりついてくるどろどろもなくて、仄かにずっこけた風味もスパイスとして効いている。 Paul Feigなので笑えるとこもいっぱいあって、とにかく楽しいったら。

Anna Kendrickさんは初めて適役らしい適役に当たったのではないかしら、というくらい活き活きしていて、彼女と対照的なBlake Livelyもクールでゴージャスで実は、ってわかりやすいし、Henry Goldingの得体の知れない妙な暗さ("Crazy Rich Asians”でもそこが効いてた)も活きている。
あとはみんなお洒落でさー。 おせっかいママさん探偵ものとは思えないくらい素敵。

とにかく見た後味がなんか爽やかで、その理由は書きませんけど、この風味ってPaul Feigの他のコメディにもあるやつだよね、って。

StephanieがあのときA Simple Favorを断っていたらどう展開していたか、ていうのがDVD化のときの特典映像になるの。 たぶん。

9.21.2018

[film] Sudden Fear (1952)

16日の日曜日の午後、BFIのJoan Crawford特集で見ました。
これはねえ、めちゃくちゃおもしろかった。これまでの彼女の特集でも一番だったかも。

“Possessed” (1947) に続いてオスカーの主演女優賞にノミネートされている。 邦題は『突然の恐怖』。

Myra (Crawford)はBroadwayで成功している劇作家で、舞台のリハーサルに立ち会って、あの男優はちょっと違うと思うから替えて、て言うとそう言われた男優 - Lester Blaine (Jack Palance)がなんでだよ、って突っかかってくる、というのが冒頭。

後日自宅のあるSan Franciscoに向かう電車でLesterと偶然(...)再会したMyraはこないだのお詫びもあるし、と食事したりいろいろ話したりしているうちに仲良くなって、そのまま一緒にSFに行って、そのままふたりは結婚してしまう。

しばらくはSFの瀟洒な邸宅 - 書斎には備え付けのレコーダーがあって部屋で思いついて喋ったことをすぐに録音できるの、とか - での甘い生活が綴られるのだが、弁護士との会話から彼女が死後は財産一式をすべて団体に寄付しようとしていることをたまたま知ったLesterがぴきってなって、やがて彼の傍にIrene (Gloria Grahame) が現れて極めて怪しいかんじになる。

IreneはLesterの元カノで、Myraが財産供与の書類にサインするまえにバラしちまおうぜ、ていう計画をMayaのいない時、よりによってあの書斎で密談したもんだから、しかも部屋の録音スイッチをオフにしていなかったもんだから、後でその内容を聞いてしまったMyraは幸福の絶頂から絶望の沼底に叩き落されてわなわなしつつ逆襲のプロットを考え始めて、Ireneの部屋の合鍵を作って出入りしたり、ふたりの字体を真似て嘘の手渡しメモを用意したり、できるだけLesterとは会わないようにしたり、タイムテーブル作って暗唱したり、とかスリル満点で、いよいよ実行の時が..

この特集でこないだ見た”Mannequin” (1937)では、逆の立場 - Spencer Tracyの金持ちからむしりとる側の若い娘で、でも途中で好きになっちゃってどうしよう、だったのに、今度のは若いツバメからむしられる側で、しかもあんなに好きだったのに、もう若くないからこれが最後の愛だと思ってたのにばかばかばか(含.自分)、って。

彼らの計画を知ったときにボロボロ泣いて悲しんで悔しがる姿、Ireneの部屋で計画の実行中、鏡に映った自分の姿にあたしなにやってんだろ、とうろたえる姿などから全開になるJoan Crawfordの無防備なエモと、それでも断固許さないんだから、とあくまで計画を遂行していく強さと、実行中にやってくるはらはらどきどき - 誰も助けてくれねえぜこんちくしょう - が過不足なく三つ巴になってて、最後は握り拳つくってMayaがんばれ逃げろ負けるな、って応援してしまう – そんなふうに入り混じった彼女の像はこれまであまりなかったかも。

Jack Palanceも登場したときからひと目で怪しいってわかる結婚詐欺タイプだし、Annette Beningが”Film Stars Don't Die in Liverpool” (2017)で演じたGloria Grahameのぺらい小悪党ぶりもたまんなくて、三者のアンサンブルもよくて、ノワールとしては明るすぎる(悪い方にあまりのめりこめない)のがちょっと違うかもだけど、お話しの転がりっぷり(SFの坂を転げ落ちるみたい)の気持ちよいことときたら。

で、あのあと、Myraはこれをネタに劇ひとつ書いて当てたのだと思うな。

9.20.2018

[film] Daisy Kanyon (1947)

10日の月曜日の晩、BFIのJoan Crawford特集で見ました。邦題は『哀しみの恋』。
監督は”Laura” (1944)のOtto Preminger。

Daisy Kenyon (Joan Crawford)はマンハッタンのヴィレッジのアパートにひとりで住んでデザイン関係の仕事をして、女友達とはふつうに夜遊びにも出たりしているのだが、そこには頻繁に弁護士のDan (Dana Andrews)が訪ねてくる。Danは成功している弁護士で、妻とふたりの娘がいて裕福で幸せそうで、でもDaisyはずっとこういう関係を続けていてもしょうがないと(明確には言わないけど)、元軍人で妻を亡くしているPeter (Henry Fonda)とデートをするようになって、そのうちDanにはPeterと結婚するかも、だからもう来ないで、という(たぶん駆け引きはんぶん)。

他方でDanの家ではDaisyとのことがばれて、彼の妻は訴訟起こす、って彼の同僚に弁護を頼んで、娘たちは(ママのとこには行きたくないようって)泣いて騒いで大変で、DanはこれでぜんぶおじゃんなのだからDaisyには改めて一緒になろうそれが一番いいだろ、って迫ってくる。

でも裁判に巻き込まれてまるで罪人みたいに見られるわDanはしつこいわPeterは暗いわ、なにもかもうんざりしたDaisyは湖のほうに車を走らせて.. 

ものすごい悪女ふうできんきんのFemme fataleなDaisyがNoirふうに男共を絡めとって家庭込みで潰しにかかる、そういうお話しではなく、むしろ逆で、Daisyはごくふつうに落ち着いた大人の恋をして、できれば結婚できないかしら、程度なのになんでこんなにこじれてくるのかなあ、なんで?  でも男たちはDaisyのことを解っていて幸せにできるのは自分しかいないのだから(その自信はなに?)、会いたいときにはアパートにいてくれなきゃやだ、みたいに攻めてきて、それがトライアングルになると更にひどくなって、なんであんなのがいいんだ? の突っ込みと共にぐじゃぐじゃになって、Daisyかわいそうとしか言いようがないの。

“Laura”でもうまく描かれていたドアとか電話の使い方が見事で、なんでそのドアを開ける? とか、なんでその受話器をとる? とか終始はらはらしっぱなしで、ドアを開けるごとに、電話に出るたびに新たな厄介事がのしかかってくる、そんなプチホラーのように見ることもできるかも。(Noirの映画見てるといっつも思うけど、なんでみんな電話にでるのだろう? 無視できないのかしら)

最後のほうで、横並びしてDaisyに電話をかけまくるDanとPeterをみて、なんなのこのバカ男共は、って思った(客席からも嘲笑が)。 こういうろくでなし男ばかりに引っかかる女性にも問題があるのでは、とかいう話題は昔からあるけど、問題なのはこんなふうに女性を電柱かなんかだと思っているイヌ以下のてめーらのほうだからね。

いきりたったDanがDaisyの部屋にばんって入ってくるなり牛乳瓶からミルクを飲むシーンがおかしくて、他にもこういう変なのは一杯ある。不可思議だからおかしい、というより説得力ありすぎる状況で更に渾身の力を込めてなんかやっちゃうのがおかしいの。  恋愛ってそういうもの?

恋に惑って揺れるDaisyを演じたJoanは”Possessed”のように取り憑かれて凍ってしまった人格ではなく、年齢もあるし相手と時と場合の間で揺れてぶれまくる柔いひと - でも最後の最後にかろうじて自分を掴んで抱きしめる、そういう変遷まで含めて繊細に演じきっていていつものようにすごい。
最後の決断には少しえー、だったけど。

あと、Henry Fondaって、こういう恋愛ドラマ、なんか向いてない気がしてならない。暗くない?

9.19.2018

[film] Crazy Rich Asians (2018)

15日土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。 公開直後だったのでなかなか盛況だった。
邦題はー… 邦題から”Asians”を外した件について、いろいろ言いたいことはあるけど、とりあえずはそれを決めた奴にShame On You . って言ってやる。こんなおもしろいのにさ。

Kevin Kwanの2013年のベストセラー小説をAll AsianのCastで映画化した「アメリカ映画」。
冒頭、95年のロンドンで、暴風雨の晩にホテルにチェックインしようとしたアジア人家族がホテル側
から差別目線たっぷり慇懃に追い払われそうになったところで、実は... というのが序章。そこから20数年を経たいま。

NYUで経済を教えているRachel (Constance Wu)が、ポーカーの必勝手(心理学的なほう)について講義したりしていて(これが後で効くの)、BFのNick Young (Henry Golding)から幼馴染のColin (Chris Pang)が結婚することになって自分はそこでBest Manをやるので一緒にシンガポールに行かないか - 家族にも紹介するよ、と誘われて、アジア行ったことなかったし、いいよ、って軽く返す。

出発の日、JFKに着いたら車から降りた途端に人が迎えに現れて、なんかの間違いよあたしらエコノミーなんだから、って言うと実はファーストで、ひょっとしてあんたのうちってお金持ちなの? て聞くとNickは微笑んで”We are comfortable”とか言ってて(一度言ってみたいもんだわ)、着いてみたらやっぱり.. で、いちおう結婚を考えている相手として紹介されるのだが、to-be舅のママはEleanor(Michelle Yeoh) で、おっかなそうったらなくて、やばいやられた..  って。

その後もいちいちYoung家のCrazy Richぶりにあきれるばかりで、大学時代の友人Awkwafinaのうちに行ったらえええあのYoung一族か、って驚愕されるし、そこらじゅうから値踏みされる目で見られるし、Bachelorette partyでは嫌な思いさせられるし、Nickといる時以外は恐怖・戦慄体験ばかりで、そうかと思えばおばあちゃんも入れてみんなでテーブル囲んで餃子作ったりのほっこりもあったり、これって昔からある結婚してみたら向こうの家は..(ガチの農家だった、ガチのやくざだった、等々)ホラー寄りの異文化衝突ロマコメに見えるのだが、ここでのポイントは、彼らのCrazy Richぶりというのは(単なる職業とか属性の話ではなく)彼ら一族(華僑)がみんなで戦いながら勝ち取って歩んできた歴史と不可分であるということと、他方でRachelは同じアジア系でもアメリカで生まれて育った根っからのアメリカ人で、後からEleanorによって暴かれてしまう出生からして決定的なギャップが横たわっていて、これってやっぱり乗り越えられないやつなんじゃないか?  将来どう考えてもNickは実家に戻るしかないみたいだし… って、RachelはAwkwafinaの家に籠って丸まってしまう。

こんなふうに普遍性のある背景・事情をきっちり押さえているから偉いのか、ロマコメの土俵でこれを堂々とやったから偉いのか、その両方なのか、どちらにしても終盤、Michelle Yeohが見せる藤純子 - 緋牡丹博徒 - ばりにしなるテンションがこのコメディの瞬発力を尋常ならざるなにかにしていて、すごいったらない。 し、機内プロポーズのカタルシスときたら”The Wedding Singer” (1998) 以来のすばらしさ、と言ってよいのではないか。(あの瞬間、後ろのほうから、まじで「はっ」て息を呑む音が複数聞こえた)

ていうシリアスな(ロマコメとしての、よ)お話しの背景に、Crazy Richなアジア民総出のバカ騒ぎぶりを – 安っぽく見える画面作りもわざと計算して – 置いて盛りあげまくるところと、サイドエピソードとして置かれるNickのいとこのAstrid (Gemma Chan)夫婦のお話し – いくらお金があっても幸せにはなれないって – もスパイスが効いててよいの。

あと、なぜここに偉そうな父親や長老翁が出てこないのか、(そういうのがぜったい渦の真ん中から湧いて出る)日本の家父長制との違いで考えてみるのもおもしろいかも。

原作のほうは3部構成になっているそうなので次も楽しみ。

Awkwafinaの一家って、まるで天才バカボンのうちみたいでおかしくて、彼らも含めて俳優さんは誰もみんなすごくうまいねえ。

でもさあ、NYからシンガポールに引っ越したら古本屋もレコ屋もないし、きっとつまんなくなるからやめたほうがいいよ。

あと、おいしい餃子が食べたくなるねえ。

[film] Educating Rita (1983)

9日、日曜日の午後、BFIで見ました。

“Working Class Heroes”ていう小特集からの1本で、この特集、結構知らない作品が並んでいてそりゃそうかもな、とも思う。”Distant Voices, Still Lives”もそうだけど”Working Class”というのが、壁や格差も含めてこの国にはずっとあって、それをテーマにした作品も日本で見るよりも相当に多いことがわかった。(いまの日本はそっちに向かいつつあるのかな?)

もともとは1980年の舞台劇で、舞台版でも主演はJulie Waltersで、原作を書いたWilly Russellが映画の脚本もやっている。
邦題は『リタと大学教授』。

20台後半でヘアドレッサーをやっているRita (Julie Walters) - 髪型も原色中心のファッションももろアーリー80’s  - が大学のOpen Universityの文学の講座に応募してきて、受け持つことになったのが半分アル中でよたっているFrank (Michael Caine)で、Ritaは熱意はあるけど基礎教養も含めてゼロ、Frankは教授だから教養はあるみたいだけど熱意はゼロ、まずは手始めに彼女に”Howard’s End”を読ませてみても、こんなのどこがおもしろいの? とか言われてしまう。

Ritaは結婚していて家もあるのだが、夫からも親からも早く子供を、とか言われてうんざりしていて、子供を持つのはいいけど、今のままで育児に忙殺されて歳をとってしまうのは嫌だ、なにか打ちこめる世界が欲しいんだ、って切実で、そんな彼女に押される形で渋々相手をしていたFrankがこいつおもしろいかも、ってだんだん仲良くなっていく過程と、それに対する周囲からの反動や圧力はRitaの側にもFrankの方にもゆっくりやってくる、ていうのと。

RitaがFrankのうちのDinner Partyに招かれて、自分なりにおしゃれして向かうのだが、通りから覗いたパーティのハイソな様子を見て、こりゃお呼びじゃないな、って引き返し、パブでやっていた家族の飲み会に合流するのだが、こっちの飲めや歌えのどんちゃんにもついていけなくて、あたしの居場所はどこにも..  って天を仰ぐシーンとかすごくわかる。
(歳とるとどっちもどうでもよくなって蓋して行かなくなるので割と安定する - 自分の場合)

で、結局Ritaは旦那と別れて職も替えて友達と共同アパートに住んで、ひとりでどんどん走り始めてFrankの方がびっくりしてついていくようになるの。Summer Schoolから戻ってきたRitaがBlakeの詩をすらすら暗唱するシーンとかも、いいの。

George Bernard Shawの"Pygmalion"(→マイ・フェア・レディ)的な教える側と教わる側の調教のどたばた、というより、どちらもがたがたのぼろぼろで、でも/だからいろんなこと – "Assonance"とか - を学ぶのってやっぱりおもしろいよね、というのに気付く、という柱があって、ラストのふっきれたかんじもとても素敵。 客席はわーわー笑いながら見ていて終わったら拍手、だった。みんなに愛されている映画なんだね。

映画とは関係ないけど、勉強しとけばよかったな、ってことが死ぬほど出てくるから勉強できるひとは本当にしておいたほうがいいよ。 自分もなんか学びたいなー、って改めて強く思った。本屋いくと知らない本とか作家だらけなのよね。

2002年に Halle BerryとDenzel Washingtonでリメイクの話しがあったらしいけど、今やったらおもしろいのができるよ。 家庭の方はDVとか各種抑圧でぱんぱんに膨れてて、大学はPCとかコンプラでがちがちで、更に政治の方からは予算削減とかきたりして。
これじゃただのディストピアすぎて笑えるのにはならないかもね。 タイトルは”Surviving Rita”とか。

[film] Distant Voices, Still Lives (1988)

5日、水曜の晩、BFIで見ました。

Terence Davies - 最近だとEmily Dickinsonの評伝映画”A Quiet Passion” (2016)  - のデビュー作(監督、脚本)が公開30周年を記念して4Kリストアされてリバイバル公開されたもの(これと”Heathers”が同い年、ていうのはなんかおかしいな)。 英国映画オールタイムベスト、のような企画には必ずリストされてくる作品で、ある時代のイギリスの魂を描いたようなものとして受けとめられている、ような。最初にこれの予告が流れたときも高齢の御婦人数名が”Aw..”って息を呑んで見入っている様子が感じられた。

85分しかない作品で、第一部が” Distant Voices”、第二部が”Still Lives”。

Liverpoolのworking-classの一家の1940年代から50年代初 - 戦中から戦後を描いていて、第一部で戦中、厳格でDVな父と優しい母の元で育っていく子供たちの姿を、第二部でその子供たちが大きくなって結婚したりするようになるまでを。

登場する人物や家族の個々の人格や性格について(関係や名前すらも)説明されたり立ち入られたりすることはなく、はっきりしたストーリーラインや結末があるわけでもなく、あのときあんなことあったよね、のような笑ったり泣いたり歌ったりのエピソードをファミリーアルバムをめくっていくように並べていく。その抽象度の高さを補ったり繋いだりしていくのが当時の流行歌とか歌声で、家族や親族や友人たちは集まるとお酒を呑んで目配せして、歌をみんなで歌ったり踊ったりする。

言葉は訛りがすごくて半分くらいしか何言ってるかわかんなくて、音楽も知っているのは殆どなくて、それでもおもしろいのか、というと、おもしろいの。 これってなんなのだろうか。

馬の手入れをしているときは優しい顔なのに、母や子供たちにはすぐ手をあげる父(Pete Postlethwaite)、いつも微笑みながら家事をしている母 (Freda Dowie)、家の軒先や部屋の隅から固まってふたりを見あげる子供たち - 「なんでパパと結婚したのさ?」「ダンスがうまかったのよ」とか、二階の窓から不安定に身を乗り出して窓掃除をする母とか、玄関口で緩やかに手を振って見送ってくれる母とか、古い家の階段とか壁の模様、そこの記憶にこびりついた彼らの癇癪、嗚咽、不安、そして歌声。

映像は固定だったりスローだったり、それは自分の記憶を辿っていくときに脳内に映し出されるパタパタしたなにかに似ていて、似ているからどうということではないのだが、自分がその家、その家族に含まれている(他に行きようがない)ということを発見する瞬間、あるいは自分がそこから出て行くこと、離れることを自覚する瞬間はこんなふうだったのではないか、と思い起こさせるなにかがあって、それが感じ取れるだけですごいと思った。 それがDistant VoicesでありStill Livesなんだな、と。

あと、ここには歌と踊りが必要で、どっちが先だかわからないがお酒も必要で、ここからしばらく経つとお茶の間のTVなんかが入ってくるのだろうか。

これらの記憶とそのありようが普遍的ななにかだとは思わないし思えないし、戦中~戦後の英国のある時代のあるクラスに横たわっていた何か、であるのかも知れないわけだが、こういうどこからかの「声」がこんな形で表象されて再認知される、こういうことって今の時代でもこれからも、起こりうることなのか、起こりうるとしたらそれはどんな景色になるのか、は興味あるかも。

こういう映画は35mmで見たほうがよいのかもしれないけど、このリストアは全体の色調が堅め抑えめに仕上げてあってとてもよいかんじだった。

日本だとこういうの、成瀬とか川島雄三とかになるのかなあ。  三丁目のなんとか? ふん。

9.18.2018

[film] Possessed (1947)

3日の月曜日の晩、BFIのJoan Crawford特集で見ました。

“Possessed”って、彼女の評伝本(by Donald Spoto, 2011)のタイトルにもなっていて、31年にもClark Gableと共演した同名の映画(内容は全く別もの)があるのだが、31年の方はタイミングが合わなくて見逃してしまった。邦題は『失われた心』。

そしてこれもすごかった。それにしてもこの時期の彼女って、“Mildred Pierce” (1945) – “Humoresque” (1946) - “Possessed” (1947) - “Daisy Kenyon” (1947) と主演していて、どれ見てもとんでもないの。この作品もアカデミーの主演女優賞にノミネートされている。

ロスの路上を焦燥しきって真っ青な女性が彷徨っていて、うなされるように”David.. David…”て呟いていて、そのまま倒れて救急車で病院に運ばれる。(ここまででもう十分にこわい。彼女をなんとかしてあげて、って)

担当の精神科医が見たところではスキゾフレニー(統合失調症)による心身喪失状態にあるようだ、と。
やがて意識を取り戻した彼女は少しづつ過去を語り始める。

Louise (Joan Crawford)は、Washington, D.Cのお金持ちのDean (Raymond Massey)の家で住み込みの看護婦 - ほぼ寝たきりのDeanの妻のPaulineの世話をしていて、それとは別に池向こうの近所に住むエンジニアのDavid (Van Heflin)にべったり一途に惚れてて、一緒になりましょう、と誘うのだが遊び人ぽいDavidはつれなくて、まともに相手をしてくれない。

そんなある日Paulineが家の前の池に入ったのだか落ちたのだか亡くなってしまい、Louiseは自分がしっかり見ていなかったからではないか、と苛まれるのだが、他方でDeanからは突然結婚してほしい、と言われて驚愕し、このタイミングで? あたしはDavidが好きなのに? とか、でもここで断ったらここを辞めるしかなくて、他に行き手があるわけでもなし、とか悩んで、Deanの娘Carol (Geraldine Brooks)からは財産目当てで父さんを取るのね、とか言われるし、大変なの。
結婚したらしたでDeanの会社に雇われたDavid(なんで雇うのよ!)が頻繁に自宅に訪ねてくるようになり、そうしているうちにDavidとCarolがみるみる仲良くなって婚約までしそうになっているのを見ているうちに...

筋だけ追っていくとなんか突拍子もない、変な展開の連続なのだが、真面目なLouiseの目で見てみればひとつひとつの出来事がいちいちトンカチの一撃でダメージがでっかすぎて、だんだんに自分の内面の声が他人の声として聞こえてきたりその逆が起こったり、Paulineは実は自分が殺したのではないかとか、Carolを階段から突き落とす妄想に飛び起きたりとか、そんなふうに現実との境界がだんだんに薄れていく(+それが実感として掴めない)様がリアルすぎて怖いったらない。
(この辺の描写は従来のハリウッドのそれというよりヨーロッパ - ドイツの表現主義映画のよう。そのままサイレントにできる)

それはもちろん、Louiseが悪いわけではなくて、誰も悪いことなんてないのだが、自分の愛を受けとめて貰えないことから始まったこんな自分も世界もなくなっちゃえの妄想ループに絡まってしまうとあとは転がり落ちるだけ。 抜け出すことは難しい。

スキゾフレニーの患者の演技をするためにJoanは関連する本を読み、医師にインタビューして病院にも6週間通ったそうで、それなら当然かも、の凄まじさだし、女性のメンタルイルネスを扱った映画として米国だけではなくヨーロッパのアートハウス系のシアターでも受け容れられたのだと。

それにしてもDavidの股間を撃ち抜いた直後に少しだけ歪む彼女の口元、夢に出そう。

[music] Garbage

15日、土曜日の晩、O2 Academy Brixtonで見ました。
なんかライブやってないかなー、と思って探していたら見つけて、2階の椅子席が空いていたので当日の昼に取った。その前の週もここでAFROPUNKのライブがあって、行こうと思ったけどチケットが高かったのでやめたの。(替わりにCafé OTOでのMarisa Andersonに行った)

“Version 2.0” のリリース20周年記念ツアー”20 Years Paranoid”、Londonでの2daysの2日目。

前座はDream Wifeっていう4人組で、ドラムス以外のフロント3人は女の子で、ギターはStuart Adamsonみたいな音を出してて、みんな元気いっぱいですてきだったのだが、最近これとか、Soccer Mommyとか、Younghusbandとか、Young Fathersとか、バンド名が家族志向になっているの?

どうでもいいけど、Garbageってずっとアメリカのバンドかと思っていたらこっちでは英国のバンドに分類されているの。
Shirley MansonがScottishていうのはこないだエジンバラに行って知ったのだが、へー、だった。そう言われてみれば地元バンドみたいな熱狂ぶりの人々。

彼らが“Garbage” (1995)でデビューした頃は米国にいて、MTVのpushがすごくて"Only Happy When It Rains"なんか毎日のように流れてて、聴いてた。当時の見立ては、Butch Vigを始めとしたスタジオ籠りの音楽ヲタのおっさん達が好きなように作りこんだトラックにビッチに弾けまくる女の子ヴォーカルを乗っけたかったのだろうな、というもので、実際にTVでやっていたライブはきちんと作りこんであるところと野放図にビッチに歌いまくるところのバランスがよくて、嫌いではなかった。

Shirleyさんはオレンジラメのドレスに、実験で誤爆されたような同じ色の髪の毛で登場して、弾けまくるというかんじではなかったけど、余裕で動いて暴れて、でもお喋りになるとチャーミングで - 20年前もここでライブしたこと憶えてる - 今日はあたしのBabyも家族もみんな来ているのよ! - とか、なんか憎めないのよね。

曲の途中にいろんなのを挟んできて、Depeche Modeの"Personal Jesus"は出るわ、The Kinksの"Tired Of Waiting"は出るわ、真ん中くらいにBig Starの”Thirteen”のカバーをやって、Alex Chiltonからはうちのカバーが一番好きだって言われたの、とっても嬉しかった、て言ってから彼もカバーしている”Can't Seem to Make You Mine”をやって、ラストのピアノのとこなんかAlex Chiltonオマージュとしか言いようがなくて、よかった。パンクでもメタルでもグランジでもパワーポップでもない、オルタナと呼ばれて出て来たけどそこも違うと思っていて、でもそういうところに彼らの音は確かにあって、それって自分にとってはFoo Fightersの位置に近くて、それでよいの。

終盤はイアモニターから音が聞こえないらしくやり直したりぶちきれたりしていたが、そういうのもうまく取りこんで渦を作るのに成功していた。
本編90分きっかり、アンコールは1回3曲。最後はどっちを聴きたいか聞くよ、って、Bowieの”Starman”か”Cherry Lips (Go Baby Go!)”か? で後者が勝った。 えー、”Starman”のほうを聴きたかったのにな。


このライブの前にRough Trade Eastに行ったらTGの”Heathen Earth” (1980)のreissueが出ていた。限定の青盤だというのでどんな青か見てみたくてつい買ってしまった。(素敵な青だった)
高校の文化祭でお化け屋敷みたいなやつをやったとき音楽を好きにしていいと言われたのでこいつを爆音でずっと流していたらあんたあたまおかしいんじゃないの、と真顔で言われた青春の一枚。
久々に聴いてみたらいろいろ蘇ってきてプルースト状態だったわ。 こんなのを毎日篭って聴いてたのね (かわいそうに..)。

9.17.2018

[film] Visages villages (2017)

13日、木曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。公開1週間前のPreviewで、上映前にAgnès VardaとJRによるイントロと、上映後にふたりとのQ&Aがある。”Faces Places” - 『顔たち、ところどころ』。

Mayfairのこの映画館は結構古くてスクリーンもでっかいのが一個しかなくて、普段はご近所に住む老人たちばかりが来るところだからか昇降機があって、それに乗っかってふたりが下から昇ってくる。田舎の結婚式場のあれみたい。外面だけだとやんちゃな孫と祖母、でもとても仲がよいことはすぐにわかる。

写真家のJRとの共同作品で、でもJRのことは殆ど知らなかった。顔とかを撮る写真家? くらい。
日本でもちょうど公開されたようなので、細かいのはいいよね。 すばらしい作品なので見てね! しかない。

捨てられているもの、忘れ去られようとしているものや人を拾いあげてほうら、って見せてくれる名人であるAgnèsと、ふだんは気づかないただの「顔」とかをでっかく投影して、見ろ! って見せる名人のJR、それぞれまったく別の道をすたすた歩いていたふたりがある日ばったり出会って、なんかやってみようか、と旅に出る。

JRのプリンター付の車(なんとなく”Dumb and Dumber”のあれみたい)に一緒に乗りこんで、農村とか住民がほぼいなくなってしまった炭鉱労働者の集合住宅とか、ニュータウンとして開発された途中で棄てられて廃墟になっているところとか、工場とか浜辺とかに出かけていって(尚、場所の選定についてAgnèsは相当にうるさかったのだそう)、そこにいる人達の写真を撮って、そのでっかいモノクロのプリントを建物の壁とかに貼りつけて、それを撮られた人達が見る。その写真が貼られることでその場所の光景が変わる、というのと、そのでっかくなった被写体が貼られた場所から風景を見渡す(ことを想像する)、そうすることでそこに暮らしてきた人々の風景に対する接し方、そこまで流れてきた歴史や時間に対する接し方が変わる -  眠りから目覚めた巨人が見てみたら..  のような目線で自分の今生きている場所を眺めてみる。

これが(この作品の中でも言及されている)”Cléo de 5 à 7” (1962)でも”Le bonheur” -『幸福』(1965)でも、ひとの眼差しのありように幻惑されて、その視線の先にあるものを追い続けてきたAgnès Vardaと、彼女に導かれるようにして眼差しの不思議な力やその効果を追及してきたJRのひとつの成果で、でもそのコンセプトのよいわるいとかよりも、ここにあるのはまず彼ら- 撮る側と撮られる側の出会いと、その出会いが導く新たな空間に対するイメージで、それこそがAgnès Vardaが映像を通して追い続けてきた/いる生々しい「美」のありようなのだと思った。

炭鉱労働者住宅長屋で、たった一人、最後の住人として住んでいるJeannineの身に起こることを見てほしい。 出会いを求める/感動強要系のうさんくさいアートとはぜんぜん違うから。
(Jeannineとの出会いには奇跡としか思えない偶然があった、と後のQ&Aで)

おもしろいのは、目線だなんだっていうのにAgnèsは目が悪いしJRはサングラスだし、決して素で見れてはいないってこと。

上映後のQ&Aは婆孫漫才みたいでおもしろかったが、いくつか。

Jean-Luc Godardのおうちに行くエピソードは、当然事前にちゃんとアシスタントを通して調整した上で行ったのにあんなことをされて、というのを映画の中と同じように泣きそうになりながらAgnèsは語って、でもあれが彼のやりかたなの、冷たいようだけど、でも彼はぜんぶ、隅から隅まで憶えていてくれて、あんなふうに差し出してくるの憎たらしい、と。 あの後のラストシーンを撮った場所で同行していた息子のMathieuにパパ(Jacques Demy)とJLGとみんなでピクニックした思い出を話した、って。

編集について。編集はAgnèsの専管事項で、とにかく深夜まで編集室に籠ってずっと編集している、と。初めはJRも一緒にやろうとがんばったのだが何言っても何も聞いてくれないので諦めて、週一回顔を出すくらいになった、と。 それを受けたAgnèsは、編集がとにかく好きで編集が全てだと思っているから(そんなの当然よ)、と。
で、その編集がFacesとPlacesを、顔たちをところどころで、繋いだってことね。

弦をうまく使ったMatthieu Chedidの音楽がすばらしい(予告で流れているので聴いて)のだが、製作の過程ではAgnèsから相当なダメが入って、彼もキャリアを積んできているひとなので結構へこんでいた、と。でも結果はよいものになったのでよかった。

なんでヤギなんですか?  については、山羊のチーズおいしいんだもの、って…
うん、おいしいよね。異議なし。

あと、ここに出てくる猫もかわいい。 ComputerとCameraとCatがあれば生きていけるって言ってたけど、彼女の猫みるとほんとうにそうだと思うわ。触りたいなあ。

あと、失礼なことを言うつもりはまったくなくて自分としては最大限の賛辞のつもりなんだけど、この週の彼女の装いってどっかで見たよな、ってずっと転がしてて、あ、水木しげるの漫画かも、って。

[film] Agnès Varda in Short(s) and in Surprises

この7月くらいから新作 “Visages villages” – 英語題“Faces Places” – 邦題『顔たち、ところどころ』の上映に向けたAgnès Vardaの地味な特集とか”Vagabond” -『冬の旅』(1985) のリバイバルとかがBFIとCurzonで始まっていて、Curzonでは、”Agnès Varda: Gleaning Truths”ていうデジタルリストアされた9本の回顧上映をしていて、ぽつぽつと見ていて、どれもものすごくおもしろいのだがどう書いたらよいのか考えているうちに”Faces Places”の英国公開が来て、プロモーションでやってきたAgnès Varda自身の声を聞いて、途中でもいいからなんか書いてみようか、と。

まずは、11日の晩にアンスティチュのCiné LumièreでAgnès Vardaさんを招いて行われた彼女のアート・インスタレーション(3本)と短編(3本)の上映会から。

上映前にAgnèsが壇上で上映される作品の解説をしてから上映に入るのだが、後半の短編の解説は指摘されるまでずっとフランス語で喋ってしまっていて、戻るの面倒だったのか「まあわかるわよね.. 」って(..わかんないって)流されてしまったので大事なことを聞き逃しているかもしれない。

ただ全体として、これらのインスタレーションや短編 – “Portrait of vision of Life”を撮る、という言い方をしていた - が彼女の創作にとっていかに大切なことかは何度も強調していたし、それは”Faces Places”を見てもわかるし、映像やイメージの「落穂拾い」のような意味を持っていることもわかる。

インスタレーションの3本:

Patatutopia (2003)   4 mins 34 sec

“The Gleaners & I” (2000) - 『落穂拾い』の時の映像を再利用しながら、ハート型のじゃがいも拾いと収集に夢中になってそれに囲まれてご満悦のAgnès。タイトルそのまま。でもそんな好きだと料理できないんじゃないか..

Le Tombeau de Zgougou (2006)  2 mins 18 sec

長年連れ添って亡くなった愛猫Zgougouの映像お墓をつくるお話。 彼女の猫映像ってなんであんなに素敵なの?

Les Veuves de Noirmoutier (2005)  2 mins 33 sec

彼女がよく訪れるNoirmoutierの島には未亡人が多くて、その理由は男たちはみんな海で亡くなってしまうから。真ん中にEric Gautierが35mmで撮影した大きな画面の映像を置いて、その周りを14の小スクリーン(14人の未亡人によって死んでしまったそれぞれの夫の思い出が語られる)が囲んでいて、それを見るひとは各小スクリーンと個別に繋がった椅子にあるイアホンを通じてそれぞれの思い出に耳を傾けて、そうやって海に消えた死者と繋がる。

短編の3本;

7 P., Cuis. S. de b… (à saisir) (1984)   27 mins

売りに出ているバス・キッチン付き7部屋の家族向け物件に纏わるイメージを通して、ある家の記憶って何から、どんなふうに構成されているものか、古い家に宿るものってなんなのか、等をスケッチしたもの。 こういうの、日本の家屋だと暗めのホラーな方に向かいがちだが、ほのぼのとおかしくて、こういうのあるなー、って。 オムレツを作るところとか笑った。(あれ、食べたのかしら?)

Ulysse (1982)    22 mins

“Faces Places”でも取り上げられていた、彼女が54年 - まだ映画作家になる前 - に撮影した1枚の写真 - フランスの浜辺で、手前にヤギが死んでて、それを少し離れて座って見ている裸の少年がいて、その横にやはり裸で突っ立って海を眺めている男がいる。 この写真に映っている男と少年のところに行って話を聞くの。男はElleの編集者になっていて、少年はもう大人だけど写真を撮ったことは憶えていない、でも当時彼が患っていた病のことは憶えている、と。

なぜヤギなのか、どうしてヤギは死んでいるのか、なぜふたりの男は裸で浜辺にいるのか、ふたりの関係は、などなどの問いが簡単に浮かんできて、これらを文脈のなかに置いて物語る手法として彼女の前に映画は現れた、ということと約30年後の再訪を通して、改めて描き直されるものもある、ということ。 そしてさらにこの旅はここから35年を経て再び”Faces Places”で問い直される - なーんでヤギなのか? と。

Uncle Yanco (1967)    22 mins

やんこおじさん。 彼女のギリシャ系移民の親戚で、カリフォルニアのSausalitoのボートハウスで気楽な暮らしをしているおじさんを訪ねたときの記録。 外見だけだとなんか(ギリシャのひとによくある)ホラ吹きぽいかんじの人なのだが、この時代の西海岸、というのがその怪しさを加速させている。彼の家族との出会いを通して自分の血、みたいのを彼女は確認したのかどうか。 血族とかルーツとか、それが国を渡るとかってどういうことなのだろう、と自分に問いかけているように見える。
Sausalitoって、90年代に行ったことがあるけど、その時には既に地元の金持ちのヨットハーバーでぴかぴかで、でも昔はあんなだったんだねえ。

上映後のQ&Aはなかったのだが、アート・インスタレーションと呼ばれるものと短篇との間に作品上の大きな段差みたいのはないように思われて、そこは聞いてみたかったかも。単に上映時間の長い短いとか美術団体に委託されたからとか、その程度ではないかしら。そしてそれは”Faces Places”のような長編作品でもそのまま。 常に人とか場所の出会いの不思議さに魅かれて、どこまでもそれを追いかけていく。その旅が長いか短いかだけのような。

ここで一旦切ります。

9.15.2018

[film] The Seagull (2018)

8日土曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。

邦題はしらないけど、まさかまさか「かもめ」じゃなくなるなんてことないよね?  原作はチェーホフのあれよ。

役者のIrina (Annette Bening)が劇場にいるところに兄のSorin (Brian Dennehy)が危篤だという報を受けて湖畔の家に一族が会して、彼女の息子のKonstantin (Billy Howle)もそこにいて、すると窓の向こうの闇の奥から亡霊のようにNina (Saoirse Ronan)が現れる -  ていうのが導入で、そこから話しは過去に遡る。

KonstantinとNinaは初々しい恋人同士で、湖畔のパーティの席で自分達で作った劇を上演したら失敗して気まずくなって、でもそこにいたIrinaの愛人で人気作家のBoris (Corey Stoll)はNinaに声をかけて、メイドのMashais (Elisabeth Moss)は執拗にKonstantinを追っかけて、いろんな恋のごたごたが勃発して大変で、最後にもういっかい冒頭の場面に戻る。詳細は原作を読んでね。

原作にはあった(気がする、読んだのだいぶ前だけど)芸術(論)とか演劇(論)とか名声とか「かもめ」とか、そういう難しめなところに関する論点とか視点とか問題設定がかなり抜け落ちているので、単なる好きになった- よろこんだ – ふられた – 泣いた - 自殺未遂 – みたいな幅やや広め人数多めの恋愛ドラマとか、お屋敷を舞台にしたサイコホラーみたいの(全体にゴスっぽいキャストからするとこっちに倒した方がよかったかも)にしか見えなくて、だから例えばNinaがKonstantinじゃなくてあんな中年のハゲBorisの方を選んだのかとか、腑に落ちないとこもあったりするのだが、恋とはそういうもの、当事者にしかわかんないんだから、みたいなとこも含めて俳優たちの説得力満載の演技がそこをカバーしてくれる。

特に、“20th Century Women” (2016)で20世紀のアメリカを代表するお母さんを演じてしまったAnnette Beningと“Lady Bird” (2017) – これも鳥だねそういえば - で一世一代の撥ねっかえり娘を演じてしまったSaoirse Ronanの(母娘ではないけど)激突とか、偶然だろうが、ついこないだの“On Chesil Beach” (2017) – ええと『追憶』だっけ? - 文芸ドラマで、破局する – それも自滅っぽいかたちでぶっ潰れるカップルを演じたSaoirse RonanとBilly Howleがまたしても、笑っちゃいけないけど、ぶつかって、今回の勝負もおろおろ錯乱したBilly Howleが勝手に暴走して哀れ.. とか、笑っちゃってほんと申し訳ないけど、それなりに見応えはあるの。

それにしてもまあ、Borisへの恋に目覚めて、自分は女優になるんだと決意するときのSaoirse Ronanの輝きのとんでもなさときたら、どんな少女漫画でも - バカにしてるわけじゃないのよ – あそこまでのものは描けないよね、というくらいすさまじい。 あれがあるのでかもめとか結末の残酷さ – ああなんてかわいそうなKonstantin - が際立ってしょうがないし、あれがあるからこの娘はきっとだいじょうぶよね、とも思うし。

あとは彼女と同様に恋と焦燥に燃えあがるAnnette Beningのすばらしいこと。”Film Stars Don't Die in Liverpool” (2017)(って日本で公開されないの? すごくよいのに)でも女優という役柄を通して(であるが故の?)外面と内面のせめぎ合いを、その堤防が決壊する瞬間のドラマを見せつけてくれてひれ伏すしかなかったのだが、この作品でも顔の向こう側からのエモの放出っぷりがものすごい。

Mashais役のElisabeth Mossもよいし、女性映画として素敵だと思った。

続編のかもめ2は、息子の仇としてNinaを追うIrina(+ 隠密忍者にMashais)がたどり着いた地の果てにはBorisが建立した快楽の館があって、ふたりはそこで奴隷となっているNinaを見つける…
ってかんじのがいいな。

9.14.2018

[film] The King (2017)

2日、日曜日の夕方、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。

監督のEugene Jareckiがどこから調達してきたのかElvis Presley – “The King” - が所有して乗っていた馬車 - 1963年製のRolls-Royceにカメラクルーと乗りこんで、王の生誕の地MississippiのTupeloから彼の遠征とその時代を追う形で旅をしていって、その土地土地で後部座席にはそこのミュージシャンとかいろんな人が乗りこんで王のことについて語ったり演奏したり。彼らの語りや演奏を通してアメリカにとって、アメリカの50-60年代にとってElvis Presleyとは何だったのかを浮き彫りにしてみよう、という企画。

車の旅はTupeloからMemphis – Nashville - New Yorkまで行って、そこからHollywood - Las Vegasに行って最後には王墓のあるGracelandで終わる。前半の東に向かう旅はブルーズやソウルが白人のロックンロール〜ポップスとして大衆化していく過程を追い、後半の西に向かう旅はそこで描かれたアメリカの夢が映画を含むマスなカルチャーとして産業化していく過程を追う。

これ、ものすごくおもしろくて、誰もが知っているElvisをそれぞれの立場、職業、人種、ジェンダー、地域、時代などなどで切って繋いでいくと、あの時代の成長とか夢とかその破綻とか挫折とか、そういうのをぜんぶひっくるめた「アメリカ」の像みたいのがぼんやりと見えてきて、それはへーこんなのあるんだ、と誰もが眺めていう63年のRolls-Royceの恰好をしているの。そいつはまだなんとか動くけど、ちょこちょこ故障して動かなくなって手間がかかったりする。

たぶんその感じ方もひとそれぞれ、コンプリート・ベストみたいなところとは距離を置いてそれぞれにとってのElvisのベスト盤を編んでいくような、そんな趣きがある。こんなことができるのはElvisだけで、たぶんDylanだとちょっと違う。 Warholが彼のポップアートで目指したのはこういうのだったのかもしれない。

ポピュラー音楽は勿論、公民権運動以降のアメリカ文化全般(その伝搬のしかたとかショービジネスの拡がりとか)に興味があったり齧ってみたいひとには最良の映像と語りの資料だと思う。 Elvisってそんなに興味もなかったのだが、旅が進むにつれて、あーそうなんだねえ … そうなのかー … そうかー …そうだねえ… のように自分の反応も変わっていった。

いろんな人が出てきていろんなことを言うのだが、例えばChuck DはBlack MusicやレイシズムとElvisの関係について、Greil Marcusは、ポピュラー音楽に”Happy”という概念を持ちこんだのはElvisだったとか、 John Hiatt - 車に乗りこむなり泣きだしてしまうとか、 みすず書房の名著『エルヴィス伝』の著者Peter Guralnickも出てくるし、撮影時、大統領選が間近だったNYで乗り込んだAlec Baldwinは真顔で「トランプは負けるから」と言っているし、Emmylou Harrisはクイーンのようだし、Lana Del Reyはプリンセスのようだし、でも最後まで一番べらべら喋り続けていったのはEthan Hawkeだったり。

たぶん、旅の途中でトランプが勝って大統領になったことで映画のトーンとか語りの熱が若干変わったのではないかしら。 誰もがElvisがアメリカの文化に対してやったことを讃えつつも、それを神格化する方向には注意深くなり、なぜElvisを中心としてああいったことが起こり得たのかを各自が考えつつ語っているかのような。

あと、映像で出てくる68年のComeback Specialって死ぬほどかっこいいのでなんなのあれ、と。
ちょうど本 - “The Comeback: Elvis and the Story of the 68 Special” by Simon Goddard - も出るみたいなので読んでみようかしら。

9.12.2018

[film] Les Gardiennes (2017)

8月30日、木曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。英語題は”The Guardians”。原題だと女性のGuardianたち、ということ。
監督がXavier Beauvois、主演がNathalie Baye、撮影がCaroline Champetier、音楽がMichel Legrand、原作はErnest Pérochonが1924年に書いた同名小説、というぱりぱりのフランス映画。 アライグマが出てくるSFとは関係ない。

第一次大戦の1914年から18年頃のフランスの田舎で、息子たちはみんなドイツの方に戦争に出てしまっていて、Hortense (Nathalie Baye)は娘のSolange (Laura Smet - 実の娘ね)と家族の農場を切り盛りしていて、でも年齢もあるしきつくなってきたので、町に相談にいってメイドのFrancine (Iris Bry)を雇うことにする。両親のないFrancineは真面目に黙々と働いてくれるのでHortenseは気に入って、彼女との契約を延長して農作業は捗るようになる。

という大変だけどあまり波の立たない農作業と前線からたまに汽車で帰ってくる男たちがいて、Solange の夫のClovis (Olivier Rabourdin)とかHortenseのお気に入りの息子Georges (Cyril Descours)とか、彼らはそれぞれに戦場での自分たちの行為やその記憶に苦しんだりしていて、だからといって女たちにはどうすることもできない。 教会で報告される戦死者の名を聞いて慟哭したりするくらい。

やがてGeorgesがFrancineと仲良くなって、手紙をやりとりしたり村の外れで密会 – とっても素敵なシーン - したりするようになって、でも彼には元々家族公認の許嫁のような村娘がいたのでそれがHortenseの気に障って、あと村に来ていたアメリカ人兵とFrancineが話しているところを誤解され、Francineは一方的に解雇されて、でもでも彼女のお腹には..  

四季を通してゆったりと時に厳しく描かれる農村の風景 - 手作業から機械とかトラクターが入ってだんだんに近代化していく – と、それに寄り添って汗かいて働く女たちの間に割りこんでくるこんなメロドラマ - これも男たち抜きでもなんとか回せている畑仕事とおなじように、なんとかなってしまう – そういう大らかなうねり、その中にあって、それを揺るがずじっと見つめる女性たち - Les gardiennes - を描いた作品で、なかなかよいの。

男たちは前線で命をかけて戦い、女たちは懸命にそれを支えた、みたいに熱くねちっこくドラマチックなやつじゃなくて、てめーらが勝手に起こした戦争だろてめーらで始末つけろ、こちとら畑とか牛とか手一杯で構ってるヒマねえんじゃぼけ、みたいなかんじ。 直接そんなことは言わないけど、運命を受け容れるでも抗うでもなく、ひたすら耕して蒔いて刈っていく、彼女たちの仏頂面のなかに刻まれているそういう過ぎていくものとか時間に対する態度、かっこいいったら。 かっこいいというか、それまでの戦争でも彼女たちはずーっとそうだったのだろうな、ていう。

その辺のゆったりした、どちらかというと冷たく突き放したような労働と人々の描き方が素敵で。

あと、ここに出てくる男たちはどこまでもしょうもなくて、しょうもないっていうのは暴力を振るうとか卑劣とかそういうのではなくて、農作業観点ではほぼなんもしてない。 ここに居場所がないから戦争に行ったのか、戦争行ったらバカになっちゃったのか、やれやれ、って思った。こういう「戦争」映画はいいなー。

第一次大戦下のフランスを描いた映画、というとSerge Bozonの“La France” (2007) って大好きなのだが、あれも女性が男装して戦場の夫に会いにいこうとする勇ましくてかっこいいやつだった。 あの戦争、そういう(ってどういう..)ものだったのかしらん?

[film] Mildred Pierce (1945)

8月25日の土曜日、BFIのJoan Crawford特集で見ました。 この日は午後に”The Women” (1939)見て、続けて夕方にこれ見て、Joan Crawford漬けの一日で、この特集で昨日までで10本くらい彼女を見ているのだが、見れば見るほどJoanすごい、としか言いようがないの。

夜中、海辺の邸宅でMonte Beragon (Zachary Scott)が撃たれて、そこから真っ青な顔でよろよろ出てきたMildred Pierce (Joan Crawford)は橋から身を投げて死のうとしているようだができなくて、やがて警察に呼ばれると、Monteを殺したのは彼女の前夫のBert Pierce (Bruce Bennett)で、本人もそれを認めているという。それを聞いたMildredは、いえ彼はそんなことをする人ではありません、と身の上と真相を語り始める。

主婦だったMildredはふたりの娘を育てるのに手一杯で夫の愛人問題とかも出てきたのでBertとは離婚して、娘たちを育てるためにパイ屋でウェイトレスして懸命に働いてお金を貯めて、やがて自分でお店を開こうと借りた物件のオーナーだったMonteとも仲良くなって、開業したお店は繁盛して2号店3号店もできて順調にのし上がっていくのだが、他方で下の娘を肺炎で失ったり、手をかけていた上の娘のVeda (Ann Blyth)はいつの間にか身勝手な娘に育ってしまっていてMonteと付きあい始めるわ、そのMonteは実は一文無しで裏でMildredのお金を食いつぶしていたり、更にひどいことにVedaに手を出していたりあんまりなこともたくさん起こって可哀想になる。下衆の間で崇高さを失わずに歯を食いしばるMildredに救いは訪れるのか? 事件の真相は? 

ストーリー展開や個々のエピソードだけなら昼メロとかソープオペラみたいなのだが、それだけではない、例えば戦後の復興から繁栄に向かって誰もががむしゃらにがんばっていた時代の熱とか、そのなかで自分の家族だけはどこに出しても恥ずかしくないようにせねば、ていう熱い思いとか、かといってなにもかも犠牲にするわけにはいかないこれはわたしの人生、ていう意地とか根性とか、そういうのが全てMildred Pierceの眼前でスパークしてあの晩に起こってしまった犯罪との間に強烈なコントラストをつくる。それらが全てMildredの一晩の告白に凝縮されて、ラストの朝の光のなかに静かに散って溶けていく。

クラシックの名曲のようにいくつもの小竜巻を巻きこみながら怒涛と倦怠のクライマックスになだれ込む構成のすばらしさもあるし、もういっこはそれを見るすべてのひとにMildredはわたしだ、と確信させてしまうような強さと弱さが違和なく彼女のなかに保たれていて、つい自分で拳を握って上を見あげてしまう、そういう力があって、それはおそらく女優Joan Crawfordの持つそれなんだろうな、とか。

HBOで2011年に放映されたTVシリーズの”Mildred Pierce”は、(こちらの方が原作に忠実だというのは聞いているけど)見ていなくて、Kake WinsletのMildredはどうなのかしら - 今演じることができるのって誰かしら、とは少し。 Julianne Moore ?  うーん。

あと、例えばJoan Crawfordが”Jeanne Dielman”を演じたら、ていうのは少し夢想してみる。

The Women (1939)

これはもう何度も見ていて、でも今回BFIの一番でっかいスクリーンで見たらどんなだろうか、と。
女性(老いも若いも)が圧倒的に多い客席はほぼ埋まっている、すごいよねえ。

感想はもう書いているのであんま書かないけど、133分、いろんな女性たちのちゃきちゃきの喋りだけで初めから終わりまで釘付けにしてきゃあきゃあ笑わせて、それが大きいスクリーンだとアクション映画の怒涛の迫力で迫ってくる。 冒頭の人物紹介に出てくる動物たちが実物大でわらわら現れるかんじ。

Joanの特集だし、目がJoanに浸かってきたので、この映画の主役は悲劇に見舞われるMary (Norma Shearer)ではなく、Womenを思うままに引っ掻き回して最後に -

“There's a name for you ladies, but it isn't used in high society... outside of a kennel. So long, ladies!”

ていう捨て台詞を残して颯爽と去っていくCrystal Allen (Joan Crawford)のほうだよね、と思えてしまうのだった。

終わったら大拍手だった。 なんか気持ちよい。(のはなぜ?)

9.11.2018

[music] Luna

6日、木曜日の晩、IshlingtonのO2 Academyていう、たまにいくシネコンが入っているショッピングセンターのなかにあるライブハウスで見ました。 なんとなく新代田Feverみたいなかんじの小屋。

Lunaが英国をツアーをしているのを知ったのは最近で、チケットを取ったのもつい1週間くらい前だった。2005年の2月、Bowery Ballroomで1週間くらい続いた解散ライブは2日くらい通って、それはそれはすばらしいフィナーレで、メンバー全員のサイン入りポスターも買って、ちゃんとカタをつけたつもりだったのになんだよ、なんて子供みたいなことは言わない。戻ってきたなら喜んで何度でも聴いてあげたい。アナログのBoxもこっちまで運んできてるし、Lunaみたいなバンドならなおのこと。

仕事の飲み会を抜けておうちに帰って着替えて(ほんとしんどいのでいいかげんにしたい)、21時少し前に会場に着いたら入口にDean Warehamさんがいた。(頭の中で、わー、程度)

前座のFear of Men – MeltdownのDeath Cabのときに見た - の途中で、Lunaが登場したのは21:30過ぎ。 結構空いていたので余裕で前のほうに行けた。

Deanさんは開口一番、”RIP  - Burt Reynolds” -  うんうん。ほんとにねえ…
メンバーは4人、2005年の時点でBrittaはまだ正式メンバーではなかった気がするが、今はもう堂々としたもので、あとはサイドのギターにはSean Edenがいる。

エレクトリックギター2台のバンドのアンサンブルが持つ無限の可能性について、かつてどこかでLou Reed師が語っていた気がするが、それを自分にとってもっとも理想的なかたちで聴かせてくれるのがこのバンドのそれで、Seanの空気感たっぷりのJazzmasterにランダムに刻みを入れてくるDeanのギターの気持ちよいことったらないの。

DeanもSeanも曲間によく喋って冗談をいっぱい言う。 2005年のBoweryではぜんぜんなかったこういうの、あそこでのあのテンションはやはり解散前のなにかだったのだねえ、と思う。

同様に自分達のオリジナルへの縛りも更に希薄になっている気がした。もともといろんなカバーをやるバンドなのだが、この晩だけでもThe Cureの”Fire in Cairo”をやって、Yesの ”Sweetness”をやって、アンコールではGalaxie 500の ”Flowers”に”Strange”までやる。でもそれらは端から端までLunaのアンサンブルに絡めとられてLunaの音として鳴らしてしまう。そりゃそうだろう、かもしれないけど、このバンドの放つ月明かりの絶妙の淡さ、月の重力の緩さに触れてしまうとそこから動けなくなる猫になるかも。 眠くはならないし醒めもしないのだが。

本編ラストの”Moon Palace” ~ “Indian Summer” -これもBeat Happeningのカバーであるが、自分のなかでは完全にLunaの曲になっている - の流れは今更ながらに黄金で、前にもどこかで書いたかもだけど、仕事でもなんでもほんとうにお手上げになると”Moon Palace”の”But it's nothing at all 〜 No it's nothing at all”が頭の中で再生されて、にゃーにゃーにゃーにゃー♪ をゆっくり繰り返すと少しだけ楽になる。 どっちにいってもどうしようもないような時は特に。この曲がライブで蘇ってくれたことの意義がどれだけでっかいか、それすらも”Nothing at all” にしてしまうような無限の消尽ループにひとを誘う。 それをお月様のなんか、とかいうのは野暮ってもんよね。

とにかくまた聴くことができてとっても嬉しかったの。

[film] Finding a Space for Wendy Toye

8月23日、木曜日の晩、BFIで見ました。映画上映というよりWendy Toyeという英国の振付家、ダンサー、舞台演出家、映画作家、等々の顔をもつ女性を紹介をする会。不勉強でこの方のことは存じておりませんでした。

1917年、Maya Derenの3日後に生まれたWendy Toyeは10歳でLondon Palladiumの舞台で最初の振付をして以降、13歳でOld Vicでの”Midsummer Night's Dream”に出るなど、舞台関係の仕事を続けて、52年に監督した短篇 – “The Stranger Left No Card” (1952)が、翌年のカンヌの最優秀短篇(フィクション)を受賞して、これをJean Cocteauが激賞して知り合って更にいろいろ広がっていった、と。Wikiを見るだけでも相当いろんなことをやっていて、すごいとしか言いようがない。なにかと神格化されがちなMaya Derenと比べて知名度は低いのかもしれないが、こんな女性もいたんだねえ。

The Stranger Left No Card (1952)    23 min.

彼女の映画監督としてのデビュー作で、3週間で£3500を使って撮られたもの。
地方のある駅に髭にでっかい帽子、大袈裟な動作をする道化師みたいな男 – Stranger (Alan Badel) が降りたって、おどけた仕草で手品をして子供たちを喜ばせて、滞在するホテルへの記帳名はナポレオンで、みんなはあれ誰? っていうのだが誰も知らなくて、でも愉快なひとだからいいじゃん、てみんなに好かれていくのだが…  なんの予備知識もなしに見ると最後に結構びっくりする。 最後、突然サイコホラーみたいのにざらっと変貌する手口が滑らかで鮮やかでこわくて、子供がみたらトラウマになるよ、くらいの。

The King’s Breakfast (1963)    28 min.

A.A. Milne(Winnie-the-Poohのひとね。ねんのため)の詩が原作で、ある朝、王様が朝食の席で"Could we have some butter for The Royal slice of bread?" て聞いたことから始まる王宮内の騒動 - 女王からメイドから牛まで - を切れ目のないダンスとマイムと音楽とで不思議の国のアリス風に、カラフルに賑やかに繋いでいって楽しいったらない。
朝ごはん、こんなふうだったら毎朝楽しいのになー(殴)。

これ、普通にバレエ作品としても成立しそうだけど、調度や仕掛けや配色を考えていったら必然的に映画になっていったのかもしれない。それくらい映像作品としての完成度は高くて、今のWes Andersonがやっていることを先取りしている感すらある。


他には、同様に振付家でダンサーで映画も撮っているSally PotterとWendy Toyeの84年にTV放映された対話の抜粋(25 min.)とか。互いに師匠でも弟子でもないふたり、なぜ振付をするのか、なぜ映画を撮るのか、それぞれが自分の中で解と道を見つけて活動をしてきた/いるもの同士の気持ちよいくらいにぱきぱきした対話。

この後はBFIのキュレーターの2名による解説・紹介があって、Q&Aでは実際に生前のWendy Toyeと仕事をしたことがあるという客席の女性たちからのコメントがあって、とにかく前日に研修で入ったような人の名前まで即座に憶えて指示を出したり、こわいくらいに頭のきれるひとでした、と。

まだまだ知らないことだらけだねえ、勉強しないとねえ、と改めて。 このへん底なしだよね。

英国は9月11日になりました。 あの日も火曜日だった。

9.10.2018

[film] Humoresque (1946)

8月26日の夕方、BFIのJoan Crawford特集で見ました。
“The Spy Who Dumped Me”を見た後で、放出されるエモのあまりの違い、その落差に目をまわした。

NYのコンサートホールで、ヴァイオリン奏者のPaul Boray (John Garfield)のソロ公演が突然キャンセルされてしまうのが冒頭で、彼はすべてを失って意気消沈しているふうで、そこから遡ってなにがあったのか、を追っていく。

Paulの子供の頃、食料品店を営むパパが彼を連れて誕生日プレゼントを買いにいくと、そこにあったヴァイオリンが欲しくてたまらなくなってしまい、パパはふざけんなもっと男の子らしいのにしろ、とその要望を蹴るのだが優しいママが後で買ってくれて、彼はそれを手放さずにずっと練習し続けて上手くなって、大恐慌でお店の経営が苦しくなって家族からぶーを浴びても練習を続けて、やがてピアノのSid (Oscar Levant)と組んでドサ回りをして少しは稼げるようになっていく。

ある晩、バイトで呼ばれたお金持ちのパーティでそのホストのHelen (Joan Crawford)と出会って、Paulは初めつんけん相手にしなくて、その後寄ったり離れたりを繰り返すのだが、3度の結婚を通してずっと愛に恵まれてこなかったHelenと、学校の頃からの友達Ginaとかママとか優しく温かい女性ばかりに守られてきたうぶなPaulの間のいろんな壁を乗り越えて、というか壁故にというか、マンハッタンのバーとかロングアイランド(Hampton?)の海辺にあるHelenaの別宅とかを舞台に緩やかにふたりの絆は深まっていって、Helenaはちゃんとしたマネージャーを付けてPaulの全米ツアーをバックアップして成功して、でもそのうちPaulが結婚しよう、と言い出すといろんな困難が再びおもてに湧いてくる。

目の圧だけで軽々とNYの社交界の陰も陽も操ってしまう凄腕マダムのJoan Crawfordと、一途さ一生懸命さのみで貧しさの底からのし上がって来たJohn Garfield、みんなに畏れられるボスと、みんなに愛されて弄られる坊ちゃんのそれぞれの容貌とか態度の違いがこのこてこてクラシックなメロドラマに見事にはまっていて、どっちも境遇が違いすぎてあんまもらい泣きとかはできないけど、それでもクライマックスの夜の浜辺のシーンの情感、盛りあげっぷりはすばらしいとおもった。あと脇からPaulをじっと見つめるGinaとか、最後に正面衝突するママとHelenの女の闘いもなかなかすごい。みんながPaulを熱烈に欲しがるの。

これらを盛りあげるのがタイトルにもなっている”Humoresque”を始めとした(曲名わかんなくても)誰もが聴いたことあるようなクラシックの名曲たちで、たぶんそれぞれの曲の背景とか知っていたらもっと楽しめるんだろうなー、というくらいこってりした音楽映画でもある。 Paulのヴァイオリンは実際にはIssac Sternさん(このときまだ26歳くらい!)が弾いていて、ピアノのOscar Levantは当然自分でそのままばりばり弾いている。

日本だとこれが三味線とかになるのかしら。すでにどこかにありそうな気がする。

9.06.2018

[film] Cold War (2018)

2日の日曜日の午後、CurzonのSOHOでみました。
”Ida” (2013)のPaweł Pawlikowskiの新作。 原題は”Zimna wojna”。”Ida”と同じくコントラスト強めのモノクロ。

監督を招いたQ&Aとかライブとか公開前に何度かあったのだがいろいろあって行けず、見てからあー行けばよかったかも、って後悔した。”Ida”でも音楽– Jazzが重要なkeyになっていたが、これもすばらしい音楽映画。そして政治と。

40年代後半のPolandの田舎で音楽家のWiktor (Tomasz Kot)と放送局のクルーがテープレコーダーに農民たちが歌うその土地の民謡(これがすばらし)を録音したりしているのが冒頭。次は学校のようなところで若者たちの生歌やダンスのオーディションをしていて、選ぶ側のWiktorはそこですごく巧いわけではなくて癖があるけど活きのいい銀髪のZula (Joanna Kulig)から目を離せなくなる。

やがて音楽学校でのレッスンを経て若者たち(含. Zula)はWarsawに連れていかれてポーランド音楽の饗宴 - 要はソヴィエト= スターリン様へのプロパガンダとして利用されるのだが、その頃には音楽監督WiktorとZulaは恋に落ちて親密になっていて、巡業先の東ベルリンでふたりで落ち合って逃げる算段をするのだが、約束の場所と時間にZulaは現れなかった。

50年代前半、(おそらく東ベルリン経由で国境を越えた)WiktorはパリでJazzバンドのピアニストをして暮らしていて、そこに少しやつれたZulaが現れて、消えて、現れて、結局ふたりは互いに吸い込まれるように一緒に暮らし始めるのだがごたごたが絶えなくなり、そのうちWiktorにもZulaにも本国からの追っ手が。

お国のための音楽活動、という事情で出会ったふたりとその愛がお国を越えて生き延びようとしたらそう簡単にはいかなくて試練がたっぷり、のような単純なお話しではなくて、男女の愛の難儀なことといったら国家間の冷戦みたいに裏ではぼこぼこに殴りあってぼろぼろになっていいことなんてひとつもないんだから、と。 もちろん「みたいに」ではなく当時のほんものの冷戦に起因する国家間の裏取引のなかでほいほい洗濯機にかけられて雑巾みたいになっていくの。

いろんな見方ができると思うしまずはふたりの恋愛の物語には違いないと思うのだが、例えば田舎の、その土地のフォークソングが国際的なところに出て行って最初は売れるんだけど漂白されて使い回されて戻ってきて再び地元で弱々しく地声を獲得する、そんな物語を夢想することもできる。

そういう真面目なのもあるのだろうが、とにかく再会する度により激しく引っ掻きあって求めあって傷だらけになって、それでもなんだか寄り添おうとする2匹のノラ猫がたまんなくよいの。好きで、好きだからやってるんでしょ、なのだろうし、それにしてもこのふたりは50年代の雑然としたパリ、殺伐としたWarsawのモノクロの絵のなかですばらしいシルエットを描く。

特にZulaを演じたJoanna Kuligさんのざらっとした銀のノラ感と、どれだけ引っ掻かれて振り回されても黙ってピアノを叩くことしかしないWiktorのDuoって、たまんないひとにはたまんないと思う。

音楽映画として見てもいろんな種類の音楽の作りだす渦と都市の陰影との交錯がよくて、この辺どうやってリサーチして落としていったのか、興味あるかも。でっかい音、よい音のシアターで見て浸って(できればふたりで)踊ってほしい。サントラぜったいほしい。

予告でも聴くことのできる主題歌みたいな ♪おぃよぃょぉー♪ の歌(聴けばわかる)、耳から離れなくて、空耳アワーに応募するなら早いもの勝ち、かもしれないよ。

50年代のパリ、著名な女性詩人役でJeanne Balibarが、映画監督役でCédric Kahnが出てくる。ちょっとはまりすぎ。


今日はLFFのメンバー先行予約の日だったのだが、1時間遅れて入ったらもうぜんぜんだめだった。
もうちょっと偉いレベルのメンバーにならないとだめか…  BFIであんなに見てあげてるのにさ。

9.05.2018

[music] St Vincent

4日火曜日の晩、普段小規模クラシックやジャズをやっているCadogan Hallっていうとこで見ました。 先週くらいに突然発表されて、あっというまにSold Outしていて、ライブ前日に恨めしくじーっとのぞいて糸垂らしていたら1枚だけ取れた。
Edinburghで見てから10日ぶりくらい。

“An Intimate Performance”と出ていて、ピアノのThomas Bartlett(Doveman)氏とのDuoであると。
前座はEclair Fifiっていう(よい名前)DJのひとで、アブストラクトにいろいろミックスしてて楽しかった。日本語の歌(だれのだろ?)もあったし、Robert Wyattの”At Last I am Free”なんかが聴こえてきたり。

20:30過ぎ、ステージ上にはグランドピアノとマイクスタンドと飲み物を置いた小さなテーブルがあるだけ。
ステージの奥手からふたりが手をつないで前の方に出てくる。 どちらも質素でシックな黒服で、にこにこ仲良く笑っていて、昔のTVの歌謡ショーみたいなかんじ。

これまでのライブとは違うセット、とあったように電飾ないし派手な衣装ないしデジタルないし。 彼女の歌と彼のピアノだけ、レパートリーも今のツアーのとは順番も含めて結構変えてある。

Edinburghの感想にも書いたけど、この生身の、むき出しの声だよねえ。これがあるからこの上にどんなコスプレしようが被り物しようがエフェクトかけようがさまになるのねえ、と再再再認識した。 テクニカルにものすごく歌がうまいとか声量がすごいとか(いや、じゅうぶんにうまいのよ)思わないけど、声の肌理とか絞りかたとか息の止めかたとか、ソウルフルって形容はこういう場合に使うのではないか、て思ったりもする。

彼女とは何度もセッションしたことあるというThomas Bartlettさんの添いっぷりもすごくて、譜面なんか全く見ずに(というか譜面なし?)時に繊細にたまに大胆に、ピアノに腕つっこんでミュートしたり足で床叩いてリズム取ったり、曲間の喋りではやりたい放題彼女にいじられたり(ほぼSMショー)、リハーサルとかどこでどれくらいしたのよ、というくらい馴染んだふたりなのだった。

彼女はギタリストなのかシンガーなのか両方なのか、ぜんぶよ、って言うのだろうけど、この晩のこれを聴いてしまうと、歌うたいだよな、ってふつうに思ってしまう、それくらいの密度と強度で迫ってくる歌たち。聴いていくにつれてだんだん(こっちが)感極まってきて、終盤の”Young Lover”以降はなにが来ても泣きそうになって困った。

“Happy Birthday, Johnny”って、ほんとによい曲だなあって痺れて、それに続けてJoni Mitchellの”Court and Spark”をやって、ああこの人の歌い方ってJoni Michell入ってるかも、て思って(← 遅い)、続くラストの”Slow Disco”なんて、もう最初からこのバージョンだったとしか思えない。

アンコールは1曲だけ、”New York”で、これまでギター1本のは聴いたことあったけど、ピアノだけで突っ立って、所在なげにふらふらしながら歌うの。”Where you're the only motherfucker in the city - who can handle me” 辺りからみんな一緒に歌って、こんなのもう泣いちゃうしかないし。

I have lost a hero
I have lost a friend
But for you, darling
I'd do it all again              って。

(昨日の、もうYouTubeにあがってるのね)

このふたりのこのセットでツアーしてくれないかしら。 ほんとすさまじくよかったの。
RufusとSufjanとAmandaとこのひとが自分のなかでなんか繋がって、改めてみんなかけがえのない人たちになった。

[film] In the Cut (2003)

8月22日水曜日の晩、BFIで見ました。 邦題はそのまま、だって。

上映前にBFIのプログラマーのAnna Bogutskayaさん – ホラー(+Feminism)映画上映集団 - The Final Girlsのひとだった - のイントロがあった。

いろんな意味で”misplaced”な映画で、それまでRom-comの女王だったMeg Ryanにこれまでと全く異なる暗い役を与え(本当はNicole Kidmanがやる予定だったが降りて、でもProducerとして参加している)、監督のJane Campionにとってもサスペンスに近いところは初めてだったし、90年代に流行った猟奇系ホラーサスペンス – “The Silence of the Lambs” (1991)とか”Se7en” (1995) -  から見ても中途半端だし、それでも十分見る価値のある映画だと思う、と。 うん、とてもいい映画だった。たまに覗いてみるAllcinemaに付いてる男共のクズみたいなコメントにはうんざりさせられるけど、映画はすばらしかったと思う。ミステリーとしてはどうってことないのだが、そのmisplaceで座りのよくないところも含めて。

 NYのダウンタウンの方でどんより暮らしている英語教師のFrannie (Meg Ryan)と姉のPauline (Jennifer Jason Leigh)がいて、ある日Frannieが生徒と一緒にプールバーに行ったら、そこのトイレで男女がオーラルセックスしていてその光景が目に焼きついてしまうのだが、そこにいた女性がばらばらにされて殺されたと刑事のMalloy (Mark Ruffalo)とRodriguez (Nick Damici)が現れ、あの日、Frannieが被害者と同じバーにいたことはわかっているなにか心当たりはないか、と詰め寄ってくる。そのうちずるずるMalloyと寝てしまい、彼とはなんとなく付きあっていくことになるのだが、バーでのあの光景で見た気がする小さなタトゥーから実は彼が犯人なのではないか、という疑念がFrannieからは消えず、やがて第2、第3のバラバラが見つかって… 

これの他にFrannieの両親のこと、彼女に付きまとってくる得体の知れない元彼Kevin Baconとか、彼女の荒んだ生活に荒れた部屋、あたしゃ疲れたもうどうでもいい、なかんじが漂ってきて、バラバラにされたのは自分だったかもしれない/次は自分かもしれない、の予感がそれを加速する。 Rom-comとは真逆の後ろ向きベクトルに漲っていて、Jane Campionは”The Piano” (1993)や” The Portrait of a Lady” (1996)のように女性のマゾヒズム - フィジカルなではなくエモーショナルなマゾヒズムを追及したのだとインタビューで語っているが、そういう点では確かに。

というのと、もう一点特筆すべきは、そういう女性がうろうろする危うい闇に満ちた都市 - ストリップ小屋の上にPaulineの部屋があったり - としてのNYの描写で、これより少し前、ほぼ同時期にTVから現れた”Sex and The City”で描かれた饒舌でゴージャスなA面とは違って、これはこれで十分ありなB面のかんじ。少なくとも西海岸にはない暗さがあって。

もういっこ、Frannieが学校で教えるVirginia Woolfの“To the Lighthouse” - 「灯台へ」がじんわりと効いていて、セクシャルな意味も含めていろんな灯台がでてくる灯台映画でもあるの。

あと、地下鉄に貼ってある”Poetry in Motion”、なつかしいな。車内であれを見るとつい追って考えたりタイトルをメモしたりしてた。 日本の詩(和歌)もあったあった。

音楽は“Que Sera Sera (Whatever Will Be Well Be)”とか”Just My Imagination (Running Away With Me)”とか”The Look of Love” (Dusty Springfield)とか、クールでゆったりめのスタンダードが気だるさとかさぶたに柔らかく触れてきて気持ちよい。

あと、まだぎらぎらして得体の知れないかんじのMark Ruffaloも、いかにもあの辺にいそうな。

9.04.2018

[film] Apostasy (2017)

8月5日、日曜日の昼にCurzonのBloomsburyで見ました。

原作 - 監督のDaniel Kokotajloの長編デビュー作。”Apostasy”ていうのは「背教」のこと。

Manchesterの北の方にあるOldhamていう町にあるJehovah's Witnesses = エホバの証人の教団コミュニティとその信者である家族 - 母Ivanna (Siobhan Finneran)と娘2人 - 姉Luisa (Sacha Parkinson)、妹Alex (Molly Wright)の3人 - のお話。 3人はずっと教団の敬虔な信者で、街角でパンフを配ったり家を個別訪問して布教したりしているのだが、Luisaが大学でクラスメートとの間に子供ができたら穢れることじゃ、と教会への出入りを禁止され、生来血液の病気を抱えているAlexは医者の前で輸血は受けないから、と言って映画の真ん中くらいで突然亡くなってしまう。

教会側はAlexの死を悼んで讃えるし、Ivannaは信者であることをやめないのだが、お腹が大きくなっていくLuisaの状態を見たり世話をしたりしながらIvannaは本当にこれでよいのか、これら全てが神の意思だとするなら自分の信仰は本当にここに、この教団と共にあってよいのか、と自問するようになっていく。

95分の短い、低予算の映画なのでほんとうにこれだけで、最後までIvannaやLuisaが極端な行動に出ることはないのだが、その空虚さと静けさの中、数少ない登場人物たちの間で進行する対話で示される彼女たちの裏側の葛藤や煩悶、その緊張の糸の強さときたらとてつもない。 監督は実際に教団の中で育ってその教えに浸かってそこを抜けた人だそうで、ここに誇張や虚構はあまりない - それくらいにそれぞれの会話やショットは削ぎ落とされていて無駄がない。

であるからといって、エホバの証人をカルトである、邪教である、と糾弾するような内容のものにはなっていない。どちらかというと現代の全ての信仰 - 本来は人を苦しみから救って幸福に導くはずの教えや集団が、結果的に特定の人々を抑圧したり疎外したりしてしまう -  例えばこないだ見た”The Miseducation of Cameron Post” (2018) – UKは今週公開 - にもあった - その状況を通して現代における信仰のありようを問い直しているように思える。 これって昔からあったことなのだろうか?

それは何を、誰を信じるのか、という信仰の問題だけではなく、それよりもう少し広い、特定のソーシャルな何かに依拠したり準拠したりしなければ生きていけない(と刷り込まれている)社会意識のようなところにも突っこんできているように思える。
本当にひとはひとりじゃ生きていけないものなの? どんな人種、階層、性別、職業のひとでも最低限ひとりでも生きていけることを保証したり支えたりしてくれる社会でなきゃいけないんじゃないの? 最近表にでてきた(気がする)これら極めてまっとうな意識とか感覚に対する「社会」の側からの反動的な抑圧(どっちが先、というのはあるか)、のようなのが象徴的に描かれている気がした。

ハラスメントする側のやらしい物言いとか、やたら恫喝したり説教したがる男共とか、最近目につき鼻につくこいつらって、どこから湧いてきたのだろう。新種の虫かよ、とか。

その辺から現代のカルトのありようを考えてみるのにもよい材料だと思うので見てみて。
でも地味すぎて日本公開は無理だろうな。カルトだらけの国なのにね。

[film] The MEG (2018)

8月21日の火曜日の晩、休みぼけで頭が動かないのと、休み行かないで、ていうのと、ついでに夏もいかないで、ていうののmixで、でもつまるところかったるいだけで、West Endのシネコンで見ました。こういうでっかい系のは3D IMAXのがいいのかもしれないが、そこまでお金かけることもないか、とふつうの2Dにした。

Jonas Taylor (Jason Statham)が潜水艦に閉じ込められた人々を救うミッションをやっていて、でもなんかでっかいのにぶつけられて救えなかった残念、ていうのが冒頭で、それから数年後、ビリオネアの作ったマリアナ海溝を探査する海中の近代施設でやはりなんかのアタックがあって、これはあれかも、と海の仕事から足を洗っていたJonasを呼び寄せて、調べた結果、数億年前に滅びたはずの鮫 メガロドン – これが”MEG” – であることがわかる。

わかったからどうなるもんでもなくて、あとはひたすら襲われて、何人か食べられて、くそう.. てやっつけて、やっつけたと思ったら更にでっかいのがきて、また食べられて、更に範囲は広がって …  みたいのが繰り返されて、最後は竿いっぽんのJonasと巨大鮫の一騎打ちになるの。

ここんとこよくある怪獣パニック映画のフォーミュラ - 過去のトラウマを引きずる主人公、でも助けを求めてくるので断れずに現場に出て、とりあえずなんとかしたと思ったらそれはほんの序章で …  - をううんとB級に落としてみた、ただそれだけみたいで、それもB級として独特の臭いを発しているというよりはごめんお金かけられなかった、って言うぺらぺらのB級感いっぱいで、あんなハゲにあんな槍でやられちゃうなんて、せっかくあそこまででっかく育ったのにかわいそう、って思った。 どうせならSharknadoのシリーズ – こないだFinalの”6”が出たのね - に被せてメガドロンを原発に落っことすとか、”Fast & Furious”のあいつらにぶつけてみるとか、それくらいやっちゃえばいいのに、とか。

なんでいっつも鮫ってあんなに軽く、本能だけでなんも考えてないただのでくのぼうに見られちゃうんだろう、あと、こないだのKongのもそうだったけど、なんで大タコとか大イカって、前座みたいな出方ばかりになるんだろうとか、貴重な標本なのになんでそのままそこらの鮫に食べさせておくんだとか、いろいろ鮫のことを思って胸が痛んで、他方でJason Stathamにはなんの思いもないし、鮫相手に取っ組み合いできるわけでもないんだから食べられちゃえ、って見ていた。

メガドロンの空っぽさ、って中国とかビリオネアにとっての「白鯨」なのかも、とか。(そこまで深かねえよ)

続編作るんだとしたらは今回の件で逃げたビリオネアに中国資本が復讐する「メカ・メガドロンの逆襲」にしてほしい。(それってただの潜水艦でよいのでは)

[film] Maurice (1987)

8月15日水曜日、NYに発つ前の日の晩にBFIで見ました。

昨年の”Howards End” (1992)に続く、E. M. Forster(原作)- James Ivory(監督)作品の4K リストア版で、30周年ということもあって結構な規模でリバイバル公開され、昨年の”Call Me By Your Name”熱もあってか、これの予告編にはSufjanぽい曲が使われたりしてて、でも全く違和感なくはまっていて、わあー、だった。”Call Me By Your Name”、ケーブルTVでもう流れているので何回か見ているけど、何度見ても爽やかでよいねえ。(こないだサントラの桃の色と香り付盤かった。桃の香りについては微妙かも)

少し世代ぽい話しになるけど、”A Room with a View” (1985) - “Maurice” (1987) - “Howards End” (1992)、この3つが自分のなかではいろんなシーンも含めてごっちゃになっていて、それが昨年と今年のこれで結構クリアになってきたので、あとは”A Room with a View”だけ再見できれば。
どうでもいいけど、若い頃にこれら(とか初期のThe Style Councilのイメージ)に触れてしまったので自身の以降のファッション道はもうどうでもよくなってしまった(かなうわきゃないし)、というところも含めて、いろいろ罪深い映画たちではある。(かといってUNIQLOとかMUJIもいやなんだよね、しょうもないよね)

Mauriceが11歳のころ、遠足に行った浜辺で学校の先生から性の不思議について不思議なことを言われてきょとんとする、というのが冒頭。

1909年、第一次大戦の前、大きくなったMaurice (James Wilby)はCambridgeに入ってClive (Hugh Grant)と出会い仲良くなり、更には互いに戸惑ったりびっくりしたりしながらも友情を越えて愛を確かめあうようになり、でもCliveは家族や将来のことを考えて次第にその熱から冷めてやがて良家のAnne (Phoebe Nicholls)と結婚し、Mauriceは逆に自問や嫌悪も含めて熱にうなされるようになって、そんな中で出会った猟場番のAlec (Rupert Graves)と会うようになって..

まだOscar Wildeの裁判(1895)の余波も生々しく、ホモセクシュアルが犯罪とされていた時代、一時の熱から距離を置いて社会での自分の場所を確保しようとするのも、熱を抱えたまま彷徨っていくのもどちらもありで、でもそこでのふたりの葛藤や決断を(主にMauriceの眼差しから)繊細に捕えているので単なる「あの時代」「あの階層」のことに留まらない普遍的な青春のドラマになっていて、彼ら – Maurice, Clive, Alecがそれぞれ内側に抱えていた心のありようは”Call Me By Your Name”のOliverとElioのそれにまっすぐ繋がっていく。間にギリシャ彫刻や美しい自然のあれこれを介すまでもなく- それはぜんぜんクイアーななんかではない、古代から続いているただの神秘で、その理由はわかんないけど美しくて、そこに身を置いて浸るのはちっとも悪いことではない、そういうなんかがある。 30年前の自分はそこまで見れていたのかどうか。

英国の文化あれこれ、Cambridgeの当時からの校風、そういったのを知っていてもいなくても、彼らの数年間に渡る想いの交錯や断絶は、メロドラマとしての純度が高くて、撮影のPierre Lhommeの、青みがかった朝靄や水面の美しさがそれを更に際立たせていて、クラシックの名画なのよね。
“Howards End”もこれも、なんで日本では公開しないのかしら? ほんとに美しい名品なのに。いまの若い人達が見るべき映画なのに。

この頃のHugh Grantはほんとうに瑞々しくて、まさに今のTimothée Chalametだと思うのだが、Timothéeくんが30年後に熊の映画とかに出て半端な悪漢をやったりする可能性もないとはいえないことは覚悟しておこう。(だいじょうぶ、それまでにはしんでる)

9.02.2018

[film] The Spy Who Dumped Me (2018)

8月24日の金曜日のごご、West Endのシネコンで見ました。 たるかったので会社やすんだ。
見たくてたまらなかった待望のスパイコメディ。公開2日後くらい。

冒頭がヨーロッパのどこかの建物の中外で銃撃戦をしているとこで、追われているのがDrew (Justin Theroux)で、その彼女がロスにいるAudrey (Mila Kunis)で、その親友がMorgan (Kate McKinnon)で、Audreyの誕生日なのにDrewは来てくれないのでむくれているのだが、彼から必ず戻るから彼のモノはしばらく捨てないでほしい、とtextがくる。

そのうちSebastian (Sam Heughan)ていう男がAudreyのとこに現れてDrewはCIAのスパイで行方不明になっているのだと告げ、AudreyはありえないーってそれをすぐにMorganに伝えて、そうしているとDrewからは彼の持ち物のトロフィーを持ってウィーンに来てほしいと言われ、そのタイミングで彼女たちも武装した連中に襲われたのでやっぱしこれ本当なのかもやばいかもどうする、になって、やはりウィーンに行った方がいいな、とふたりはウィーンに飛び立つ。

そうするとそこにやっぱりSebastianは現れるし、味方だと思っていたのが実は、だったりいろんな狂った刺客や追っ手がやってきたりして、プラハに行ってパリに行って、誰がどっちが敵なのか味方なのかわからないままにMorganはこの嵌められたんだか巻き込まれたんだかのスパイゲームに狂喜乱舞し始めて、矢でも鉄砲でも持ってこい、って収拾がつかなくなっていくの。

コメディエンヌによるスパイもの、というと最近だとMelissa McCarthyの”Spy” (2015)がおもしろかったけど、あれはだめなただのおばさんがスパイになっていくお話で、こっちはただの仲良し凸凹コンビがスパイ騒動に巻き込まれて右往左往しているうちにスイッチが入ってスパイみたいに動き始めるお話、そしてそれに加えて突然スパイであるらしい彼に去られてこれからどうしよう(あたしより仕事をとった..)、ていうのと、スパイだという彼のどこまでを(彼とSebastianのどっちを)信じればよいのか信じてよいのか、自分はそもそも彼をほんとうに愛しているのかいないのか、みたいなところまで行く。 でもとにかく、彼は嘘ついているかもしれないけど、一緒に走って逃げてくれる親友はいるよ、と。

相棒MorganにUnstoppableの火薬庫Kate McKinnonを持ってきたのが大正解で、Mila Kunisもそれに引っ張られるかたちでなかなかがんばっているのだが、まあとにかく空中ブランコからEdward Snowdenまで、縦横無尽な暴れ太鼓のKate McKinnonを見ているだけで気持ちよくなってくる。
Melissa McCarthyの狂いっぷりは伝統的なお笑い芸の枠でじゅうぶんに機能するそれなのだが、Kate McKinnonさんのアナーキーな挙動とあの狂った(どこを狙っているのか推測不能な)目はこちらの想像を超えたなにかを(相手の返しを待たないスピードで容赦なく)叩きこんでくるのでいちいち仰け反るしかない。

音楽では、こないだの”Tag”に続いてCrash Test Dummiesの”Mmm Mmm Mmm Mmm”がくる。
なんなんだよこれ、という他ない。 極めてどうでもよいことだけど。

ノンストップだけど117分はちょっと長いかな。 縮めて90分くらいにして(やるんだったら)続編はおねがい。

[log] Edinburghそのた -- August 2018

日曜の朝8:40くらいにロンドンのKing’s Cross駅を出て、13時過ぎにエジンバラに着いた。4時間半くらい。日本でいうと東京からどの辺りまでにあたるのかしら? - (日本の地理がよくわからないのでここで停止)
窓の向こうには牛がいて馬がいて羊がいてみんなびゅんびゅん流れていって、これは英国の電車に乗るとどこでも同じなのであまり喜ばなくなったが、今度のは途中から海が出てきたので少し嬉しくなった。日本海みたいだ、と思ったところで自分は果たして日本海を見たことがあったのか、自信なくなってきたのでここでも考えるのやめた。

着いたら雨が降っていて、最初は当然Google地図を見ながら往ったり来たりになり、しかも坂とか抜け道みたいのが多いので閉口した。そうか城下町なのか、と気づいて、そんなのも知らんで来たのかよ、とあきれる。
坂のぼりの大変さでいうと、San Francisco < Edinburgh < Lisbon かなあ。

そういう町並みなので歩くのはめんどいけど車もそんなに多くなくて、Festivalに合わせてなのか大道芸をあちこちでやってて、演劇とかパフォーマンスのチラシ・ポスターがそこらじゅうに貼ってあって、こんなの全部追っていったらしぬよな、て思った。
以下、展覧会とか食べ物とか少しだけ。

Rembrandt | Britain's Discovery of the Master @ Scottish National Gallery

英国はいかにしてレンブラントを発見したのか、をロンドンのNational Galleryのも含めた所蔵品と同時代~現代の英国画家の作品 - Glenn Brownとか - や文献資料と並べて展示してある。 我々英国が発見したのだ、と言われればああそうですか、としか言いようがなくて、でもそれを本気で検証したいならもうちょっと分厚い構成にしたほうが、とは思った。 例えば英国人のレンブラントへの執拗な愛とこだわりは、あの分厚いサイモン・シャーマの『レンブラントの目』を読んでもわかるのだが、こういうのって展示で並べるより本とかで読んだほうがわかるのかもしれない、けど要するに全体として自意識過剰なくせにどこか控えめで所在なさげで、理想を掲げつつも堕落も包んで対象を愛してしまうようなところが英国人を引き寄せるんだろうな、と今更なことを思ったり、ルーベンスが受けるのはやっぱり大陸の方なのかしら、とか。ターナーとレンブラントのもやもやって..  とか。

この展示以外の常設展示は、ふつうによかった。John Duncanの波乗りアザラシとか、Sargentの”Lady Agnew of Lochnaw”とかでっかい鹿とか。 Modernの方も行けばよかったかな。

27日の月曜日、午前にScottish National Portrait Galleryに行った。ロンドンのPortrait Galleryも面白くて好きなのだが、ここのもなかなか。

Victoria Crowe | Beyond Likeness

肖像画家Victoria Croweの回顧展。彼女の描いたR.D.レインの肖像は有名だし見たことあったが、それ以外だと癌で亡くなった彼女の息子の肖像が温かくてとてもよいの – タイトルは彼がよく聴いていたというBeach Boysの曲 “Heroes and Villains”。編み物を編みこんでいくかのように彼の輪郭や影を丹精に刻んでいく手つきが見えてくるようだった。

Planes, Trains and Automobiles | Transportation Photographs from the National Galleries of Scotland

昔の写真から飛行機や電車や車の登場が、その写真の見せる新しいランドスケープが、いかに我々の近代のイメージを作ってそれを更に加速させる原動力になっていったかを見せる。 要は幼いガキが電車や飛行機に夢中になる原点のダマシはこんなかんじであったのか、と。
と思えば、そういうのに対するVirginia Woolfさんのアフォリズム(かなあ?)が貼ってあったり。
いまはドローン(が撮ってくる映像)がこれをやろうとしているのかしら。

常設展示にはDuncan GrantのSelf-portraitがあったり、Alan CummingやTilda Swintonさんもいてたいへん充実していた。

本屋さんは、古本でArmchair Booksとか、新刊本でGolden Hare Booksとか(すてきな名前)、レコ屋だとUnknown Pleasures (これも名前が)、ていう中古盤屋とか。どこも大きすぎなくて、疲れたりパニックしたりしないで落ち着いて見れる広さ。 こないだのNYで結構いっぱい買ってしまったし、ぜんぶ担いで歩きまわるのはしんどかったのでほんの少しだけ。
(結局町歩きではバスもトラムも一切使わなかった)

Edinburgh Larder

26日の晩ご飯は地元のバーガー屋で食べて、27日の朝はホテルをチェックアウトしてからそこの近所にあったここで食べた。地元の食材だけでやっているというカフェで、始めは普通の朝食にしようと思ったのだが、向かいに座ったおにいさんが食べていたパンケーキを見てこれひょっとして… と、パンケーキとベーコン頼んだらこれが当たった。

パンケーキとベーコンの組み合わせについて、ひとによっては酢豚におけるパイナップル問題と同じことを言ってくるのかもしれないが、あんな単純なものではなくて、すべては粉と焼き面積と焼け具合とベーコンの脂と蜂蜜の量とその組み合わせに掛かっているの。 この点でここのは考え抜かれていてすばらしかった。 ベーコンはアイリッシュ系ので、予め小ぶりなパンケーキの間に挟んであって、蜂蜜も自分でかけるのではなく、適量がかけられた状態で出てきて、足すものも引くものもなにもいらない。
粉と肉とがこんなふうに洗練されたかたちで挟みあっている/挟みあえることに今更ながらびっくりした。
おろおろ慌てたついでにスコーンも頼んでしまい、ああ朝からこんなに粉ばかり頬張ってどうするのだ、になった。

遅めの昼も面倒だったのでここにした。またきたの? って言われたけど、だっておいしいんだもの。
Puy LentilとLeekとThymeのスープとハーフのBLT、隣のひとが食べているのを見てがまんできなくなってCarrot Cakeも頼んでしまった。  Pork Pieが売り切れていたのは残念だったわ。

あと、おなじ英国なので、食べ物屋さんとかのチェーンはロンドンのとふつうに同じなのはよいかんじがした。 ByronもPeriPeriもPretsもいくらでもそこらじゅうにあるの。

それにしても、町のサイズのせいなのか建物なのか、ロンドンよかこっちのほうがより英国ぽいかんじがしたのは気のせいかしら。

帰りも4時間かけて電車で帰るのはだるかったので、飛行機にした、けどあっという間に着いてしまうのでじゅうぶん寝れなかったのは誤算だったわ。

あと、エジンバラ城に入るの忘れたので(←わざと)、再訪しないとな。

9.01.2018

[music] St Vincent

26日、日曜日の晩、Edinburgh Playhouseで見ました。

今回Edinburghに行った理由のひとつが”Rip It Up: The Story of Scottish Pop”の展示で、もうひとつはEdinburgh International Festivalのなんかの演目を見るためだった。 このフェスは演劇とかダンスで結構おもしろいのが出る、という印象が強くて、音楽も過去何度かぐううううってなった(なった割りにはなんだったか思いだせないや)ことがあって、どんなものか生で触れておきたかった。 ただ開催中の真ん中にNYに行ったりしていて、気付いたら終わりかけで、でも最終日の手前でこれがあった、と。

着いてから日暮れまでは美術館とかを回っていて、20時少し前に着いた。ホテルから歩いて20分くらい。

St.Vincentさんについてはいいよね。 

2015年のHollywood BowlでErykah Baduの前座として見たのが最後(たぶん)で、その前はNYのBeacon TheatreでDavid Byrneと一緒のも見たし、渋谷Duoでの初来日公演も見たし、彼女が初監督したホラー短篇映画だって劇場で見ているし、彼女のお姉さんがやっているダラスのタコス屋だって食べに行ったし、彼女が表紙になったBAの機内誌だって持ってるし。(なんかストーカーみたいだ。でもまだ新譜買ってないや)

会場はPlayhouse、というところなので普段は演劇をやるところなのだろう、大きさはBAMの Howard Gilman Opera Houseくらいで、適度に枯れてて、きれいに埋まっていた。音はいかった。

前座はなし。 ライブ自体はライティングやメンバーの装いも含めてだんだんにデジタル化/サイボーグ化が進行している最近の傾向から更に踏みこんだもので、音のエッジと背後の電飾、増殖が止まらない自我が現れては消えていく背後の映像も含めて聖性と俗性の境界をデジタルがどう渡ったり操ったり崩したりしていくのか、そこに彼女のリアルな肉声やエロスはどう関わっていくのかを真摯に探究して展開していく、ようなかんじ。 そこでギターの音、弦は彼女をがちがちに縛るSMの紐であり、同時にそれを切り裂いて解き放つワイヤー鞭でもある、という、その両義性 – 刺し合いのなかで彼女の声と息遣いだけが最後にむき出しで残る。

構成だと中盤の”Cheerleader”以降の展開は問答無用の金縛りで、アンコールはひとりで出てきてアカペラと弾き語りでしっとりと3曲、この押しと引きの駆け引きが絶妙で、でも少しだけ欲をいえば、これが止まらずに一連の流れとしてでっかいドラマを作ってくれたらすごくなるんだけどなー、と勝手なことも思った。

ていうのもあるし、このままDJでも映画監督でもモデルでもギター芸でもなんでもやってDavid Byrne的な大風呂敷渡り大道芸人としてでっかくなっていってほしい、ていうのも思う。
まだ世界制覇の途上なんだろうな、って。


あんま関係ないけど、さっき今シーズンのBBC Prom - 66で、Berliner Philharmoniker聴いてきた。
3演目のうち、真ん中のProkofievのPiano Concerto No.3のピアノは Yuja Wangさんで、久々に鳥肌の立つかっこよさだった。 真ん中なのにアンコール2曲やってくれる。 こういうかっこいい女性がいっぱい増えてくれればなー。