6月17日、日曜日の夕方、BFIのIda Lupino特集で見ました。
原作は Maritta Wolffの小説”Night Shift”、当初のタイトルは”Why Was I Born?”で、途中から劇中で歌われる1924年の哀歌がタイトルになった。 監督はRaoul Walshで、日本ではどうも公開されていない模様。
NYのナイトクラブの歌手Petey Brown (Ida Lupino)がいて、クリスマスの頃、事情は語らないがそこに居たくなくなったらしく、しばらくの間、西海岸ロングビーチの姉妹と弟がいるところに身を寄せることにする。
姉のSally (Andrea King)はやくざのNicky Toresca (Robert Alda)が経営するクラブでウェイトレスをしていて、小さな男の子がいるのに彼女の夫は復員後の後遺症で神経を病んで病院から出られる状態ではなくて、まだ若い弟のJoeyはTorescaのところで働こうとしていて、アパートの隣人で赤ん坊がいるJohnnyとGloriaのカップルは夢はあるのだがGloriaもTorescaに囲われているパーティガールなのでなんだかざわざわしている。こんなふうに家族や隣人がみんな夜の商売に片足突っこんでいて、喧嘩したり泣いたり笑ったり落ち着きなくてやばそうなので、Peteyはしばらく一緒に暮らすことにして、彼女自身もクラブで歌い始めるのだが、やはりTorescaが寄ってきたり、ややくたびれた船乗りだけど元JazzピアニストのSan Thomas (Bruce Bennett) のことが気になってきたり、いろいろある。 結末はハッピーエンドではなくて、かといってものすごく悪くもないのだが、でも生きていくしかない、流れていくしかない、それが人知れずの小さな決意、覚悟としてそっと差し出される、そんなメロドラマなの。
こんな小さな世界の片隅(アパートとか共同でいろんな人が固まって住んでいるとこ)に吹き溜まったいろんな形のエモとか思いを「綺麗に」散らして共に暮らす者たちのアンサンブルをつくる名手というとまず思い浮かべてしまうのは成瀬巳喜男で、これを見ててなんとなく『流れる』(1956) とか『夜の流れ』(1960)とかを思いだしてしまったのだが、こういう映画ってありそうでないかも。
(そういえばこないだ、Prince Charles Cinemaで『女が階段を上る時』(1960)を35mmで上映してた)
そうすると更にそこからIda Lupinoの佇まいが杉村春子とか越路 吹雪とかに見えてきてしまったりして、彼女たちの顔って、見ているだけできゅうって切なくなるのってなんでだろう、とか。
あと、これらの夜の社会をテーマにしたドラマって、ノワールと同じように都市化・近代化の流れとかコミュニティの分断の痛みと切り離すことができなくて、この時代に特有の – こういう形でしか現れようがなかったものなのだろうか、とか(小説だと割といくらでもありそうだけど)。
Raoul Walshってこんなメロドラマも撮れるんだねえ、いやでも『いちごブロンド』(1941) みたいなRom-Comも撮ったりしているから万能だよねえ。ぶん殴るシーンの暴発感というか、かっこよさはまさにRaoul Walshだったけど。 セットのなかでは父と娘のようだったというRaoul WalshとIda Lupino、どんな話をしたのだろうねえ?
7.03.2018
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