6月27日、水曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。公開から結構経っているのになぜかお年寄りで満杯だった。
Oscar Wilde (Rupert Everett) の晩年 – ソドミーの罪で投獄された彼が出所してからフランスに渡り、パリで亡くなるまでを輝いていた頃からの回想を挟みつつ描く。
Rupert Everettが演じるOscar Wildeについては、これの前にDavid Hareの演劇 - ”The Judas Kiss”があって、たまたま出張で来ていた2013年にWest Endのシアターで(席はやや遠かったけど)見ることができて、1895年と1897年の投獄ビフォア&アフターを描いたほぼ彼の独り芝居のようなこれを見ると、Oscar Wildeという人物(を演じる、というよりもWildeになること)に向けられた彼の情熱は十分に伝わってきて、おそらくライフワークのような形で演じていくんだろうな、と思ったのだったが、この映画は彼が脚本を書いて監督して、主演もしている。 事実と多少違っていたとしてもそれがなにか、というくらいOscar Wildeという人の最期、その輪郭、ありようがくっきりと浮かびあがってきて圧倒される。
牢獄を出たあと、友人たち - Reggie Turner (Colin Firth)、Robbie Ross (Edwin Thomas)と再会し、彼らの制止も聞かずにパリに渡って、彼の投獄の原因にもなった愛人 - Lord Alfred "Bosie" Douglas (Colin Morgan)のところに会いに行こうとして、実際に会って抱擁して、でも人々に罵倒され唾を吐かれて追い回されたりするその道行きで心身共にぼろぼろになって死んでしまう。
途中で前妻のConstance Lloyd (Emily Watson)や子供たちのことや落ちぶれて泊まった安宿にいた浮浪児兄弟たちのことが彼の家族のようなかたちで触れられて、そこで彼の童話 - ”The Happy Prince” - 『幸福な王子』を読み聞かせるシーンがあり、それは彼が単にそういうことをした/そうしたかった、というよりも、彼の全ての作品のありようとかそれを貫く想いというのはこんなふうに親密に触れてくるもの、(王子がそうしたように)全身全霊を捧げるようなものだったのだな、ということがわかる。
それと、そこから「愛すること」の反対側にあるヘイトがホモフォビアのような形で自分に降りかかってくることへの不条理と絶望、これが彼を苦しめ、ただでさえ自分の身体の金を削り取りながら惜しみなく与えていた彼 = 王子を押し潰してしまうことになる。
で、彼は亡くなるとき幸福な王子だったのかしら? - これは彼の作品を読んだり、これを見たりした我々が自分自身の底に降りて問いかけてみることでしか答えは見つからない気がして、彼はそういう問いをもって作品を創り、届けてくれた世紀の変わり目のアーティストだったのだな、って。 例えば、Bowieみたいな、ね。
(関係ないかもだけど)例えば、LGBTQの人々とそのアートが何故自分にとって大事なのかというと、人とか人生とかを深く愛するていうのはどういうことか、ていう極めて原理的な問いを常に投げてくれたり立ち返らせたりしてくれるからなの。それは普段どれだけジャンクだパンクだってへらへらしてても必ず10年後、20年後にはぶちあたってくる奴(日和らなけりゃな)で、避けて通ることはできない。 政治とか正義とか倫理とかも同じく、ぜったいやってくるから。
というようなことを、80年代の「あの」英国から出てきたRupert Everettがぼろぼろよれよれに落ちぶれて腐ったようになったWildeの姿を借りて切実に真剣に語りかけてくるような気がして、なんかとてもしみた。 とうの昔に亡くなってしまった人から突然届いた手紙、のような映画。
Oscar Wildeの裁判については、昨年BFIで”The Trials of Oscar Wilde” (1960)ていう映画とそれに続く法律関係者のトークを見たことがあって、裁判のシーンばかりだったのと、アイルランド英語と法律英語の嵐で、半分以上理解できなかったのだが、その後のトークで、この時の審議は相当に際どい拮抗した内容のものだったと(だからしぶとく残ったのね)。 ちゃんと字幕が付いた状態でみたい。
関係ないけど、ここで夫婦をやっているRupert EverettとEmily Watsonて、”A Royal Night Out” (2015)ではKingとQueenだったよね。
7.05.2018
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