7日の午後、Oneohtrix Point Neverのライブに行く前にCurzonのBloomsburyで見ました。
坂本龍一の音楽活動を追ったドキュメンタリー。
NYのFilm Society of Lincoln Centerでは今も絶賛上映中のようだが、こっちではもうほぼ終わっていて、でも先月、彼のBarbicanでのライブがあった週の上映の際、BFIではQ&Aもあったりした。行けなかったけど。
311の津波で海に浸かった学校のピアノの弦を弾いて鍵盤を叩いて音を出してみるところ、放射能の防護服を来てそこの浜辺を歩くところ、避難所でのコンサートで「戦場のメリークリスマス」を弾くところ、ここまでが冒頭。 本編に入るとまず本人が癌でステージ3の治療中であることが明かされて、そこから新譜を製作していく過程とYMOの頃から映画音楽製作などを含む幅広いキャリアの振り返りが並行して流れていく。
坂本龍一についてはずっとあまりよい聴き手ではなくて、でも自分の高校から大学にかけてはYMOが全盛でどいつもこいつもバカみたいに聴いていたので聴かずに過ごすことなんてできなかった(それでも意地でもレコードは買わなかった。サウンドストリートは聴いてた)ので、それなりに思うところはあって、この映画を見ながら思い出したその辺のところを少し。
坂本龍一はいつも世界との関わりのなかで音を出し、音楽を作ってきたひとだ。音が世界のなかで立ちあがる、あるいは音の立ちあがりと共に世界がうまれる、その音が持続し、減衰し、やがて消滅する、その物理的なありようが世界にどのような響きやうねりをもたらすのか、彼の音楽は常にその成り行きに繊細に耳をすます、自分の音と音楽が伝わっていく世界やプロセスも込みで捕まえる、そんなふうに世界に向き合って「聴く」態度と共にあった。 だからある時のテクノロジー、ある時のダブ、ある時のオーケストレーション、ある時のオペラ、ある時のブラジル音楽、といった様々な領域への傾斜はその文脈のなかで捉えられるべきだし、世界をまるごとひとつを創りだすものが映画なのだとしたら、彼の映画音楽がその立ち上がりの瞬間に、その推移と共にあることは必然、要請に近いものなのだったのだと思う。
そしてこれって、パンクやロックが世界に向かって取ってきた態度とは根っこから相容れないものだった。(とパンクやロックを聴く人たちは勝手に思ったりしていたの)
さて、そんな彼が、音楽も含めた彼の世界が、病によって消滅するかもしれない危機にさらされたとき、あるいは911や311のような外の世界の唐突かつ暴力的な瓦解に直面したとき、彼の音はどんな様相をもって立ち上がろうとするのか、心身の減衰や消滅はどんな音として現れて記録されるのか、という問いによろよろと向き合う姿を記録したのがこの映画で、それはこういう闘病映画の際によく言われる「力強い」とか「精力的」とかいうのとは程遠く、よろよろした初老の男がレコーダーを抱えて野山を歩いたり部屋の隅で変な音を採取するさまが映し出される。 そしてその最後に立ち現れる音楽のなんと儚く、繊細で美しいことだろう。
こういう映画に「奇跡」のような言葉や概念を持ち込むことはあんまよくないと思うのだが、なんかそういうものが見えてしまっている気もするので、見てみてほしい。
Yellow Submarine (1968)
音楽映画をもう一本。 8日、日曜日の11:00にPicturehouse Centralで見ました。
公開50周年で、4Kリマスター版がでっかい画面で帰ってくるよ、ってお祭りのようにずっと宣伝していたので初日に行った。
ストーリーはいいよね。The Beatlesが世界征服を企む悪のBlue Meaniesと愛と音楽の力で戦うの。
最後に註記でアニメーションの仕様上リマスターには限界があって、のようなのが出て、でっかい画面だとやたらチカチカして目がまわるようで(お話とは全く関係ないところで)ちょっときつかったのだが、ドルビーでばかでっかく再生された音はちょっととんでもなかった。 お風呂で遊ぶおもちゃの潜水艦なんかじゃなくて、ほんもんの潜水艦としか言いようがないやつがばおおおーって襲ってくるのだった。
7.22.2018
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