7.11.2018

[film] Vagabond (1985)

7月9日の夕方に仕事でポーランドのクラクフに飛んで(ポーランドはじめて)、11日の21:15発の便で戻ってきた。11日は現地の20:00からWorld Cupの準決勝でクロアチア – 英国戦があったものだから、ラウンジ(BAの)に入ってもみんなでTV画面を囲んでわーわーやっててぜんぜんラウンジになっていなくて、離陸するときもみんなスマホでゲーム見てて「このままでは離陸できないのでいいかげんスマホを切れ」てアナウンスが入り、それに対して「30分くらい離陸が遅れても構わないけど」-「おれも」-「おれも」と返す客…

試合のUpdateが入ると機内アナウンスしてくれて、乗り込んだときはまだ1-0でお祭りモードだったのに、途中から墜落することが決まったみたいなお葬式モードになってしまったの。

さて、7月2日、月曜日の晩、BFIで見ました。原題は”Sans toit ni loi”、邦題は『冬の旅』。

BFIでは7〜8月にAgnès Vardaの特集をやっていて、館内の至る所に猫を肩に乗っけたおばさんの切り抜き看板が立ってて楽しくて、10日には御本人が登場してIn Personのイベントもあるのだが、この出張のせいでぱあになった。で、この作品は特集の目玉のような形で2012年のリストアされた版を2 週間くらいリバイバル上映している。
(もういっこ、BFIで進行中の特集がMarco Bellocchio、こちらは壊滅的に見れていない)

冒頭、冬の畑の端っこで女性の遺体が見つかって、ただの行き倒れで凍死しただけみたいなのだが、静かに眠るように死んでいた彼女になにが起こったのか、を淡々と辿っていく。

Mona (Sandrine Bonnaire)は毛布とか荷物一式担いでヒッチハイクとかしたり宿借りたり簡単なバイトしたり野宿したりしながら旅をしていて、いろんな人たちと知り合って話したり寝たり喧嘩したり追われたり逃げたり、死んでしまったMonaに出会った人々の視線で語られる個々のエピソードはおもしろかったりするのだが、でも彼女の旅の目的地とか目標とか事情とかきっかけとかは何もわからない。ただただ移動してて、止まらない = 安住定住しないことが目的になっているような気がするが、それすらも憶測で、ただそこにはひとはなぜ生きるのか? なぜ生まれてきたのか? のような根源的な問いがあるかんじは、する。 もちろん、毎日同じところを行ったり来たりして、毎度毎度あんま変わり映えしない仕事を続けてはいるものの二度と同じ時間を生きることのない我々の日々の生活と何がどう違うのか? という問いもあって、でもそれに違わない、と答えても、違う、と答えても回っているところはおんなじではないか、とか。

つまりMonaがそうしているように、自分で見つけようとしないことには見つからない類いのものではないか、っていうのと、そんなような問いの周辺でうずくまってしまうことこそ彼女の生のありようから遠いなにかなのではないか、と。うだうだ言ってんじゃねえよ – “I don’t care. I move on”  - って彼女は言うよね。

これの前日に見た”Leave No Trace” - これも世界から遠ざかろうとする話 - との関係でなにか言えることはあるのだろうか?  “Leave No Trace” にはTraceしようとする側が明確にあって、そういう勢力というか態度の人達から逃げていく話だったけど、Monaのはそういうのなんてどうでもよくて無頼で、彼女を見た人々の間に強烈な印象を残していて、Traceできるもんならしてみ、どうせ明日にはもういないからさ、って言うの。かっこいいったら。

気のせいかもだけど、”Leave No Trace” のThomasin  McKenzieさんとこの映画のSandrine Bonnaireさんは同じ目をしている。わたしはわたしを見るあなたが何を考えているかわかるよこのクソ野郎、って言ってる。

この映画がリリースされた85年、という年を気にしておく必要はあるだろうか? ニューウェーブもポストパンクもひと段落して、ニューロマが居直りのような形で出てきて、英国音楽への夢と希望は断たれて音楽から離れる人もいて、それらの反動のような形で小汚いグランジが地下でうごめきはじめていた頃。 80年代の無責任無鉄砲さと90年代の切実さの両方を併せもつ、そういう見方もできるかも。 なんであれ、彼女を見よ、ってことよ。

生前の彼女を見たよ、と語る人々がいたように、こんな映画を見たよ、と我々が語り継いでいくような、そんなふうにして残っていく映画ではないか、と思った。

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