7月8日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。
映画のなかに出てくるMary ShellyがShelleyと一時期暮らしていた近所にあるシアター。
(彼女が亡くなるまで過ごしたSloane Squareのアパートはこないだ見っけた)
監督は“Wadjda” (2012) -『少女は自転車にのって』- のHaifaa al-Mansourさん。
本屋を営む著名な父William Godwin (Stephen Dillane)と暮らすMary Shelley (Elle Fanning)が継母とぶつかったりしながら新進気鋭の詩人Shelley (Douglas Booth)と出会ってときめいて恋におちるのだが、彼には既に妻子があってなんだよ、って裏切られたり父にも反対されたり生まれた子供も亡くしたり苦難の波が続いて、そうやって彼女の内側でぐらぐら溜まっていったいろいろと見世物小屋で見た驚異の電気実験とか自分でもなんか書きたいな欲求などなどが嵐で閉じ込められたLord Byron (Tom Sturridge)の別邸でめりめりとスパークして有名な化け物譚 - ”Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)として誕生するまで。の実話。
そうして誕生したこの子 – お話しはその内容の異様さ故に彼女自身の名を付して出版されるまでにも困難続きでかわいそうでふざけてんじゃねーよ、ったらないの。
このメンツであれば(まだみんな若いんだから)例えばShelleyとの出会いとその後もずっと続いていく彼との愛を軸にドラマチックに構成することもできたであろうに、そうはしなくて、Maryが直面したいろんな不条理や不満がいかに彼女を悲しませ、絶望させ、そしてあの怪物を生みだすまでに至ったのか、なにが彼女をそこまで苦しめたのか、そして彼女はとうとうその怪物の母となって、周囲にざまーみろ、ってやったのか、を重層的に描いていてとてもよいと思った。苦しんで耐えて忍んで最後に光が、というより終始物語の底で渦を巻いているのは彼女の満たされない怒りとか不満とかで、それが閉じ込められた空間とByron卿の不遜さでぶちきれて着火して燃え広がって、いったん生を受けて立ちあがった怪物は誰にも止めることはできない。彼女はなんで あんな血も骨も凍るようなお話しを書いたのか、書けたのか。
ホラー映画だったら間違いなくどこかの時点で阿鼻叫喚の殺戮地獄に変貌してもおかしくないようなテンション。 “The Beguiled” (2017)に続いてElle Fanningさんの内面の渦と炎が表面に噴出するぎりぎり手前で彼女をどこかに引き留めている何かがあって、それって何だと思う?ってこちらを真っ直ぐに見つめてくる。
彼女がものすごい怪物的な衝動や妄想を育てて溜めこんでいた、それをホラーストーリーとしてぶちまけた訳ではなく、ただ書かれるべきものとしてそこにあって、だから彼女はひたすら書いた。アプローチとしては彼女の朽ちていく内面と分断された屍体の接合〜怪物としての復活をサイコドラマとして交錯させるというのもあったと思うのだが、そうはしなかった。そこを自分はかっこいいと思って、だから出版時に彼女の名前が伏せられてしまった時、彼女の怒りが爆発したのはよくわかるし、監督が拘ったところ、議論を呼びそうなところもこの辺りではないかしらん。
いっこあるとしたら、Shelleyがぜんぜん魅力的に見えないとこかなあ。
あと、同じ嵐の晩に同じおうちで生まれた"The Vampyre" (1819) by John William Polidori (Ben Hardy)のエピソードも少しだけ出てきて、いいの。 つくづく変態だったByron卿のやらしさも込みで。
7.18.2018
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