1日の晩、Tate Modernで開催中のJoan Jonasの展の関連企画として彼女のトークがあったので行ってみた。 売り切れていて、客層はやはり圧倒的に女性多し。男性は老人ばかりなり。
展示そのものは5月の始めに見ていて、彼女の50年以上に渡る – 60年代初からの – パフォーマンスの記録を当時の映像やそこで使われた作品や道具、衣装、仮面、オブジェ(動物のかわいい)等々と共に並べてあって、それはパフォーマンス・アートそのものの限界でもあるのだろうが、発表時のコンテキストや空気から切り離されて置かれているとふうん、で終わってしまうものが多かった。つまり、当時は斬新でびっくりだったものかもしれないけど、現在の視点で見ればちょっと古く感じたりあんま響かなかったり、それは彼女の作品が、ということでは決してないと思って、その辺のパフォーマンスに対する考え方のようなところは現在の彼女の発言を聞いたほうがよいに決まっているし。
聞き手・進行はMarina Warnerさんで、存じていなかったのだが、この方自身の人文領域での経歴も結構すごくて、質問の仕方や捌き方はすばらしく的確で素敵だった。
まず、彼女が50年でやってきたことはとんでもなく膨大で簡単にカバーしきれるものではないわけだが、それでも基本的なところから入ると、我々はどうやってものを見る(Look)のか(or 見ないのか) 見るという経験を構成するのはどういうものなのか、辺りが起点になる。そうやって知覚されたものはどうやってイメージとなって我々の経験のなかに根付いて、別のイメージを作り出したり、別の認知によって変えられたりしていくのか。といったそこから派生した問いに常に立ち返りながら、彼女の作品を構成する背景やモチーフ - ランドスケープ、シースケープ、動物たち(犬だの蛸だの魚だの樹木だの)、子供たち、鏡、魔女、旅、ストーリー、詩、などなどについて、実際の作品をスライドで映し出しながら解説とか昔話しをしていく。 で、その語り自身が単なる解説というよりは旧作に新たな物語が加わって再び動きだすような、そんなかんじ。
シンプルといえばシンプルで、普段我々が見ている風景とか形とか記憶とか、これって何でこんなんなっているのかなあ? の素朴な問いから入って、そのイメージが広げたり繋いだりするなにかをJoan Jonasのパフォーマンスが(Joan Jonasというメディアが)更に広げたりでっかくしたり壊したりする。そこにおいて導入されるのがストーリーとか詩というやつで、なぜ人はストーリーを求めるのか、必要とするのか? というと、昨年4月にこの場所であったDonna Harawayの映画 - “Story Telling for Earthly Survival” (2016) - 上映とトークのことを思いだし、更にオバマのドキュメンタリー”The Final Year” (2017) にあった「人はお金とか権力とかばかりに惹かれるわけではない。ストーリーにも惹かれるのだ」ていう言葉も思いだし、これってなんなのだろう、と。
今や誰もがストーリーに惹かれるし憧れるし、他方で後から辛い思いにさせるフェイクも溢れかえっている。ストーリーがサバイバルのためのおいしい食べ物のようなものだとしたら、できればおいしいほんものだけを食べて生きていきたい。 それってどうやったらできるのだろうか? というようなのを考え始めると止まらなくなって、お話しに集中できなくなるのだったが、Joan Jonasのアートを見る、接するっていうのは、そういうストーリーを見出したり出会ったりするための旅で、彼女自身がそういう道行きのなかで発見してきたものなんだろうな、というのはなんとなくわかった。
ふと思ったのはJoseph Beuysのことで、彼のパフォーマンス・アートって彼女と同じようなモノやテーマ- 獣とか自然とかゴミとか- への変てこな執着を扱いながらも、断固アンチ・ストーリーみたいなところに留まり続けた気がしていて、それってやはり戦争ってやつのせいだろうか。とか。
あと、彼女が70年代に滞在した日本での歌舞伎とか能の話をされると恥ずかしくなってしまうのは、なんとかしたい。これは100%自分のせいだけど。
6.09.2018
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