10日、日曜日の昼にBloomsburyのCurzonで見ました。
Lucrecia Martel監督作品は、これの公開を機にNYのLincoln Centerでは特集が組まれて、ロンドンでもICAとBFIで小規模ながら過去作品の上映と本人のQ&Aとかもあったのだが、ぜーんぜん行く余裕なかった(のはなぜ ?)。
Antonio Di Benedetto の同名の原作小説(1956)は、翻訳はされていないようだがラテンアメリカ文学の世界では結構知られた古典であるそうな。
Don Diego de Zamaは17世紀のアスンシオン - パラグアイ - に官吏として駐留してて、その地のインディオとかを管理管轄する立場にあるのだが、そんなの限界あるに決まってるしつまんないし、ずっと本国とかもっとよい地域への異動を希望して便りを出し続けているのに聞き入れられなくて、そうするとモチベーションは下がる一方で、そういう状態に置かれたZamaの苛立ちと焦りと自棄で孤立していく日々と、ここから移れるのであればと、どんなことにでもに手を出すようになってやがてじわじわと自滅していく。
背景のひとつとして南米の未開の地があり、半泥のでっかい河と湿地帯とジャングルがあり、相対している現地のインディオは言葉もあまり通じないし半裸でなに考えてるかわかんなくてそこらをうろつくアルパカなんかとかと変わらなくて、こんな場所でなにかすごいことができるわけないのは明らかなのだからつまりこれは塩漬けで、だから早く戻してほしいお願いだから、と。
もうひとつは、地元の神出鬼没の賊 - Vicuña Portoとやらで、こいつを捕まえることができればその手柄で帰れると言われるのだが、あそこに出たとか捕まったとか野生動物のような未確認情報ばかりで、そのまわりでなにやら止まってしまったり。
大きな野望とかやらねばならぬことを前にして、茫洋とした浅瀬というか中間地帯のようなものが広がってしまい、特に立ち止まりたくもないのにその状態での停止・静止を余儀なくされて、憤懣やるかたないのだがどうしようもないんだよ(怒)みたいな古典劇、というと、こないだのAlbert Serra の”La mort de Louis XIV” (2016)とか、2月にベルリンで見た彼の演劇 – “Liberté”も、さらにその前の『騎士の名誉』 (2006)とか『鳥の歌』(2009) とかにも、そういうかんじはあった。
むかしむかしこんなところで、こんなふうに時間が止まってしまったことがあって、それはこんなかんじだったのだが、今だったらどうなるのかしら? 今も割とこんなふうに竦んでいたりするようね、ていうような。
あるいは、そんなに古い話ではないけど、未開の地への志向、というところではMiguel Gomesの”Tabu” (2012)の熱風に煽られて溺れてどうしようもなくなっていくかんじとか、あるいは、James Grayの”The Lost City of Z” (2016) – これは逃れようとする話ではなく、めろめろになって突っこんでいく話だけど、未開の地に入って触れていくことで開かれたり変異したり壊れたりしていく(西欧的)自我、の症例(?)のようなものとして見ることもできるような。
これらをものすごく落ち着いた動きと微細な陰影のなかで捕えていて、虫の音鳥の声にまみれながらいくらでも見ていることができて、特にZamaを演じたDaniel Giménez Cachoの容貌のHolbein the Youngerの肖像画みたいな貌とか、でもそういうのよか、平気な顔して映り込んでくるアルパカとか馬の目線とか、そっちのほうもすごくて、熱帯のなにかに触れて感覚が麻痺していくってこういうことなのか、ていうのがわかって、それで十分なのかも。
アスンシオンて、90年代に一度仕事で行ったことがある。 内陸のほうなのに建物もあるのに、なんか地の果てのかんじが濃くてすごかった記憶があるの。
6.18.2018
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