16日、日曜日の夕方、Prince Charlesで見ました。
別に他のところでもよかったのだが、P.T.AndersonによるHAIMの”Valentine” の35mmフィルム上映がおまけ、ってあったので。P.T.A.はRadioheadの"Daydreaming"でも35mm缶を送りつけてたよね。
HAIMのはスタジオでのライブで最初はおおワンカットいっぱつ録りか? と思ったけどそうではなくて4カットくらい、これが最初の曲でその後の2曲(?)もスタジオの閉じた空気感と緊張感と、何より3人の魅力がぷんぷんくる。これで嫌いになれる人いないよね、ていう見本みたいなやつ。Radioheadのよか素敵と思った。
さて、Terrence Malickの"Song to Song”。
ひとつ前の”Voyage of Time”も、更にもうひとつ前の”Knight of Cups”も見ていないのだが、"The Tree of Life"以降の彼の作風について、もはや物語ではなくて詩になってしまって云々とか、言うのは簡単で、でも、そこには詩だから、ってぽいできるほどの奔放さや取りつくシマのなさに溢れているかというとそうでもない気がしていて、そこにはいつも川(大河)とか風とか星とかのゆったりゆっくり移ろいゆく自然のイメージがあり、その反対側でいつも取り返しのつかないところまで、戻りようのない地点まで来てしまった後悔や傷痕に苛まれて輪郭の揺れている人工の社会を生きる人々がいて、彼らは決して幸せになることもどん底に堕ちることも許されないような状態(なんでだろう?)で泣いたり喧嘩したりを繰り返している。 そこには必ず女神のように美しい、でもどこか悲しげな女性が現れるし、魂の苦しみみたいのはあるけど生活の苦しさとかお金ないよう、みたいなのとは無縁で、でもなんか世界の連続性とか継続性みたいのはちゃんと保たれているような。
今度のもMichael Fassbenderがバンドのマネージャーだかプロモーターだかで、Ryan Goslingが彼に育てて貰ったミュージシャンで、世界じゅうのフェスとか街を渡っていくなかでRooney MaraとかNatalie Portmanとかと出会って恋に落ちて、その幸せはやがて壊れて、哀しみにくれる、そのさまが彼らひとりひとりの独白と共に綴られていく。
観客も含めていろんな人々がわらわら交錯して、いろんな音楽が降り注いでお金もじゃぶじゃぶ湧いてくる「楽園」としてのフェスの舞台を中心に、それでもぜんぜん幸せになれずにどんよりしている人達に何を託しているのか、どうなってもらいたいのかあんまよくわかんないので、がんばってね、くらいしか言いようがない。
フェスの楽屋裏だろうか、John Lydon, Patti Smith, Iggy Pop, RHCPといった人達がロックとは、音楽と人生とは、みたいなありがたそうなお言葉を呟いてくれるのだが、それがなんになるのか、少なくとも主人公たちにはぜんぜん効かない - そんな御託聞く暇があったら音楽を聴け、ライブに向かえ、だと思うのだが映画のなかで彼らが音楽に向き合うことは決してなくて黄昏ているばかりなの。 ねえねえ、なんで音楽を志したの? 金になるから?
例えば、ゴミみたいな世界で、きちんと正しい視野や軸をもって生きるとか、そういう意思を撒いたり羅針盤になったりするのが先に書いたようなミュージシャンの人達のやってくれたことだと思っていて、でもそういう音楽の(かつての?)ありようと今のフェス興業のステージを渡り歩いて輪になって盆踊りって相容れないもんだよねえ、いや違うそんなことあらへん、ていうひともいるんだろうけど - なにを言いたいのかというとね、あそこでPatti Smithにあんなこと語らせてどうしたかったんだろうかね、とか。
しきりに出てくる"Life"という言葉、主人公たちの親まで含めた様々な"Life"の断片とLive musicと、それでもしょうもなく流れていく河とか雲とか。 歌から歌へ。歌わば歌え。
まあ、そういうのもあるよね、でいいの?
MFもRGも上手い俳優さんだと思うし嫌いじゃないのだが、こういう緩い設定のドラマのなかだと、MFはAIみたいに見えてしょうがないし、RGは詐欺師みたいに見えてしょうがない、というあたりも残念だったかも。 あと、折角"Carol"のふたりが出ているのになー。
でも画面は例によってきれいだからー。
7.18.2017
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