24日、金曜日の晩、ICA (Institute of Contemporary Arts)で見ました。ここに来るのは久しぶり。前回来たのは2011年で”The Women” (1939)を見たのだった。 独立系を中心とした映画上映があってギャラリーがあってアート系のZineがいっぱい置いてあるとこ。
2月末までの短期上映の初日で、自分が見たひとつ前の回にはJosef KoudelkaとのQ&Aがあってそのチケットは気付いたときには売り切れてて、その次の回のKoudelka氏による挨拶(だけ)のはまだ少しだけあったのでそれを取って行った。なにしろ68年のプラハの春を、あの”Exiles”を撮ったひとであるから、写真集を抱えた熱いかんじのファンがいっぱいいた。
Koudelka氏と監督による挨拶はほんとに一言だけで「こんなふうです、生きてます、ありがと」くらい。 でも来年80歳になるとは思えない若々しさがあった。
彼がイスラエルやパレスチナを訪れて頻繁に撮影しているのは昨年の3月にBrooklyn Museumで見た(アメリカの行楽地の典型であるConey Islandの展示の次で少しくらくらしたが)”This Place”という企画展で知っていて、そこで展示されていた写真にこめられた目線の深さ、矢印の強さに感嘆したことを思い出す。 映画はタイトルそのまま、彼が「聖なる地」を撮影する姿を追うだけ。 出演はKoudelkaひとり、撮影も監督ひとりだけ(のようだ)。
冒頭、路地の奥に向かってカメラを構えるKoudelkaの背中をとらえていて、前に行って後ろに下がって立って座ってじりじりと微細な調整を繰り返し、延々位置を決めようとしていて、それがようやく決まってシャッターを押す、その直後に撮影するカメラの方を向いて極上の笑顔で微笑んでくれるので、それで館内がどっと湧いて、ああそういう映画なんだー、と少しなごんで、でもそうやって撮られた写真の画像が映しだされるとみんな言葉を失う。この圧倒感、凄まじい強さはなんなのか、と。
彼は「壁を撮る、撮っていると自分がカゴのなかにいるようなかんじになる」ということを繰り返し言って、それは68年のプラハにもあった感覚である、と、彼が語るのはそれくらいと「ネクタリンがすごくうまい」とかの雑談、撮影の周りに集まってきた子供との会話くらいで、あとは彼が「壁」や風景を冒頭と同様の挙動で撮影していく姿 - なんかよたよた不器用なかんじでいちいちおかしい、と言ったら失礼だがよいの - とその結果を無音で映し出す。 彼の写真が映しだされるまでの暗転の間が、なかなか絶妙。
こんな不条理があってよいのか、とか正義とか倫理とか寛容とか、言葉ではいくらでも、バカな大統領ですら壁についてはわーわー言う/言うことができる。 でもそれが現実にどんなふうに見えるのか、視界に現れる/視界を遮るのか、それが我々の認識や思考にどういったことをもたらす/伝えるのか、を明確に示すことは難しい。 壁はそんなふうに言葉や思考や想像力をも遮断して無力化してしまう、ということがこの映画を通してわかるわけではないが、でも彼が撮ろうとしているのはそういう非自然の、変にいびつで凝り固まったなんかだ、ということはわかる。 そしてそれが我々にもわかる、ということはつまり、我々もそういう壁的などんづまりのなにかに十分さらされたり、或いは実際にそれを見たり壁の「壁」感を感じたりしているからだよね、と(彼がそう語るわけではない、彼の写真がいう)。 ...「バカの壁」ていうのもあったか。
押し潰そうとする権力に武力に暴力に抗う、これはそうしながら生き延びたり抵抗したりするひとつのやり方、ではある、ていうのともうひとつは、これが「聖なる地」と呼ばれる - そうかこれもまた壁なのか - ていう歴史的な皮肉と。 Koudelkaの写真を見るときに感じるいろんなことがここでも渦をまくのだった。
そういえば日本にも"100% Under Control"であるといわれた同じような、近寄ってはいけない場所があるよね?
もうひとり、すばらしい壁の写真を撮る映画作家/写真家がいて、Abbas Kiarostami ていうのだが、彼が壁を撮る姿をもう見ることはできない。とても残念。
2.27.2017
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