2.28.2017

[film] Moonlight (2016)

25日の土曜日の夕方、SOHOのCurzonでみました。
なんとなくこれがオスカー獲りそうな予感がいっぱいあって、獲ったら混むだろうから見ておこう、と。
日曜日には"The Salesman"の無料野外上映というのもあったが、週末は気圧の動きがしょうもなくて(→偏頭痛)、小雨も降ってきたし後でシアターでちゃんと見よう、と諦めた。

結果はほうらやっぱり。 日曜日の晩は午前1時まで起きてみたのだが今の仮住まいのとこで契約しているチャンネルでは放映してくれないようなので - でも"Badlands” (1973) なんかやってた -  諦めて寝て、起きたらTwitterが通常の3倍くらいに膨れていたのでなにかあったのかしら、と思ったらなんかあったみたいね。

それはそれは言いたいことはいっぱいあるよ。 監督賞はKenneth Lonerganだろ、とか、主演女優賞は問答無用でElle(Isabelleさま)以外にありえないのだがここではEmmaにあげておかないと、だったのだろうとか、助演男優賞のMahershala Ali、よかったよねー”Hidden Figures"でもかっこよかったし(ついでに言うと彼女のTeresaも”Hidden Figures”に)、とか。
でも、"La La Land”だって別にいいじゃん、て思うの。 おいらはへなちょこなロックも三文パンクもだいすきなんだよ、悪いか。
ていうか他にけなべきなの山ほどいるだろ。いじめやすいのをいじめてんじゃねえよ。

さて"Moonlight"。 
筋をぜんぜん頭に入れてなくて、アフリカとかの大地とか大海で起こる月夜のファンタジーSFみたいなのかと思っていた。
ぜんぜんちがった。 あやまる。

60-70年代(?)のアメリカの、西か南かの郊外、白人のぜんぜんいない荒れた地域でサバイブするChironを3つの時代に区切って描く。 元は原作者の半自伝的な戯曲ということで3幕もの。
最初のパートが小学生の頃の"Little"、次のパートが中高校生くらいの"Chiron"、最後が大人になってからの"Black"。 "Boyhood"のようにひとりの男子の俳優をずっと使って追っかけるのではなく、3人の俳優さんがそれぞれのパートを演じる。 これも"Boyhood"のお話ではあるが、こっちのは家族からも友人からも切り離されていてだいたいひとりで、そのひとりの、無頼の野良猫の眼差しがどこまでもきつい。

最初は母親からも同級生からも虐められて行き場のなかったChironを近所のヤクの売人(Mahershala Ali)が拾いあげて自分ちに呼んで、彼女のTeresa(Janelle Monáe)といっしょに世話をして話をしてあげるの。ちっちゃなLittleにChironのコアができるところで、お話としては人情世話もののような、まだあったかくてよいかんじ。
次が、学校での虐めがひどくなっていくのと、幼馴染のKevinとの絆と、いろんな目覚めとか覚醒とか。
ChironがChironになって屹立する瞬間が鮮やかに切り取られる。
最後が、ストリートでのしあがってでっかくなった彼の、母との和解とKevinとの再会と。
エモのうねりと鼓動は後半になればなるほど高まっていく。 それと共に言葉数はへっていく。

怒涛の展開や苦難や困難や裏切りにまみれた情念のドラマがあるわけではなくて、もちろんきつい場面はいろいろあるけど、遠い国、どこか別の世界の話ではなくて、Chironの成長とか年齢を重ねることとは別に、一途な思いっていうのはこういうふうに - 月の光のようにずっとその生を(青く蒼く)照らしていくのだねえ、てしみじみした。
(テーマとして月の光で狂っていく、取り返しのつかないところまでいく、ていう線もありえたはずで、そこは敢えてやらなかったのだと思う)

とてもパーソナルなところにやさしく触れてくる(であろう)作品で、こういうのが評価されたのはふつうにうれしい。
かんじとしては"Carol"の赤、"Moonlight"の青、とか。
あのエンディングはどこまでも美しくて、客席から拍手も出ていた。

撮影は危なっかしいかんじがよい味で、撮影のひとは”The Myth of the American Sleepover” (2010)も撮っている。 うつろう夜の風と光と水 - “… American Sleepover”でも水が象徴的に使われていたが、今回もそうで、撮影者自身がゆらゆらしながらその生々しさになんとか触れよう、そこに届こうとしている。 青春を撮るというのは例えばこういうこと。

音楽をはめるとしたら自分のなかではThe Smithsの"There is a light that never goes out"しかありえないのだが、あの絵枠だとそういうわけにもいかないか。
あと、ChironがKevinの住むアトランタに向かうドライブに被さってくるCaetano Velosoの”Cucurrucucú Paloma”(これ、”Tallk to Her” (2002)でも使われてた)。あそこだけでじゅうぶん泣きそうだった。あの場面にCaetanoの、あの声をもってくるかと。

そしてこれは - どーでもいいけど - トランプのくそ野郎には400%理解できないおはなしだろうな、というところもなんか痛快。

いまTVで”Easy A” (2010)やってた。 いいよねー。

2.27.2017

[film] Koudelka Shooting Holy Land (2015)

24日、金曜日の晩、ICA (Institute of Contemporary Arts)で見ました。ここに来るのは久しぶり。前回来たのは2011年で”The Women” (1939)を見たのだった。 独立系を中心とした映画上映があってギャラリーがあってアート系のZineがいっぱい置いてあるとこ。

2月末までの短期上映の初日で、自分が見たひとつ前の回にはJosef KoudelkaとのQ&Aがあってそのチケットは気付いたときには売り切れてて、その次の回のKoudelka氏による挨拶(だけ)のはまだ少しだけあったのでそれを取って行った。なにしろ68年のプラハの春を、あの”Exiles”を撮ったひとであるから、写真集を抱えた熱いかんじのファンがいっぱいいた。

Koudelka氏と監督による挨拶はほんとに一言だけで「こんなふうです、生きてます、ありがと」くらい。 でも来年80歳になるとは思えない若々しさがあった。
彼がイスラエルやパレスチナを訪れて頻繁に撮影しているのは昨年の3月にBrooklyn Museumで見た(アメリカの行楽地の典型であるConey Islandの展示の次で少しくらくらしたが)”This Place”という企画展で知っていて、そこで展示されていた写真にこめられた目線の深さ、矢印の強さに感嘆したことを思い出す。 映画はタイトルそのまま、彼が「聖なる地」を撮影する姿を追うだけ。 出演はKoudelkaひとり、撮影も監督ひとりだけ(のようだ)。

冒頭、路地の奥に向かってカメラを構えるKoudelkaの背中をとらえていて、前に行って後ろに下がって立って座ってじりじりと微細な調整を繰り返し、延々位置を決めようとしていて、それがようやく決まってシャッターを押す、その直後に撮影するカメラの方を向いて極上の笑顔で微笑んでくれるので、それで館内がどっと湧いて、ああそういう映画なんだー、と少しなごんで、でもそうやって撮られた写真の画像が映しだされるとみんな言葉を失う。この圧倒感、凄まじい強さはなんなのか、と。

彼は「壁を撮る、撮っていると自分がカゴのなかにいるようなかんじになる」ということを繰り返し言って、それは68年のプラハにもあった感覚である、と、彼が語るのはそれくらいと「ネクタリンがすごくうまい」とかの雑談、撮影の周りに集まってきた子供との会話くらいで、あとは彼が「壁」や風景を冒頭と同様の挙動で撮影していく姿 - なんかよたよた不器用なかんじでいちいちおかしい、と言ったら失礼だがよいの - とその結果を無音で映し出す。 彼の写真が映しだされるまでの暗転の間が、なかなか絶妙。

こんな不条理があってよいのか、とか正義とか倫理とか寛容とか、言葉ではいくらでも、バカな大統領ですら壁についてはわーわー言う/言うことができる。 でもそれが現実にどんなふうに見えるのか、視界に現れる/視界を遮るのか、それが我々の認識や思考にどういったことをもたらす/伝えるのか、を明確に示すことは難しい。 壁はそんなふうに言葉や思考や想像力をも遮断して無力化してしまう、ということがこの映画を通してわかるわけではないが、でも彼が撮ろうとしているのはそういう非自然の、変にいびつで凝り固まったなんかだ、ということはわかる。 そしてそれが我々にもわかる、ということはつまり、我々もそういう壁的などんづまりのなにかに十分さらされたり、或いは実際にそれを見たり壁の「壁」感を感じたりしているからだよね、と(彼がそう語るわけではない、彼の写真がいう)。 ...「バカの壁」ていうのもあったか。

押し潰そうとする権力に武力に暴力に抗う、これはそうしながら生き延びたり抵抗したりするひとつのやり方、ではある、ていうのともうひとつは、これが「聖なる地」と呼ばれる - そうかこれもまた壁なのか - ていう歴史的な皮肉と。 Koudelkaの写真を見るときに感じるいろんなことがここでも渦をまくのだった。
そういえば日本にも"100% Under Control"であるといわれた同じような、近寄ってはいけない場所があるよね?

もうひとり、すばらしい壁の写真を撮る映画作家/写真家がいて、Abbas Kiarostami ていうのだが、彼が壁を撮る姿をもう見ることはできない。とても残念。

2.25.2017

[film] Do You Own the Dançefloor? (2015)

23日の晩、SohoのCurzonで見ました。 これも一回きり上映で、理由はよくわからず。

82年にFactoryのオーナー Tony WilsonがFactory製品番号51として、シチュアシオニストのIvan Chtcheglovの文章 "The Hacienda Must Be Built”より名付けられたマンチェスターのクラブ、踊り場 - The Haçienda。 NYのStudio 54と並んで20世紀の伝説、象徴的なダンス遺産をめぐるドキュメンタリー なのかな、と。 上映後のQ&Aに設計者であるBen KellyとレジデントDJだったDave Haslamが来るというしさ。

自分が踊るの特に好きというわけでもないし、レイブカルチャーに特別な思いや関心があるわけでもないのだが、New OrderがThe SmithsがThe FallがStone RosesがHappy Mondaysがライブをしたこの小屋は、80年代に洋楽を聴いていた子羊にとっては神が舞い降りる - "24 Hour Party People"にあったように - 場所としか思えなくて、いつか行ってみたいなー、だったのだが97年になくなって、Tony Wilsonもなくなって、あそこにはもうなんもないよね、たぶん。

ドキュメンタリー目線で当時の建物や集まってきた人たちをかき集めて当時の熱狂や栄枯盛衰を総括する - のではぜんぜんなかった。

もちろん始めのほうはどういう建物で、どんなエントランスで中に入るとどんなだったかが当時の証言や記録映像をもとに綴られていくのだが、メインはその後のほう。建物が解体された際のパーツ - ひとによってはゴミ - をオークションとかで買って集めて自分のものにしている人たちのお話になって、なかなかびっくりした。 タイトルはそういうことなのか、と。

アートコレクターなんてそういうもんだろうし、いろんな部品とか廃品を集める鉄道とか乗り物好きもそういうようなもんだろうし、この人たちを特別変だとは思わないのだが、連中はレンガとか、フロアの床板の欠片とか、杭とか、DJブース(でっかいただの木箱)とか、洗面台とか、みんなそういうのを嬉々としてオークションで競り落として、おうちの神棚(みたいなとこ)に飾ったり、立てかけたり庭や壁に埋め込んで大喜びしている。ほんとに極上の笑顔で。
というような、変な方にいっちゃった人たちを映画は次々と追って繋いでいくのだが、なんかどいつもこいつもめちゃくちゃおかしいの。 後半、場内はずっと爆笑の渦で、あの英語(マンチェスターの英語)がもう少しわかったら更におかしいんだろうなーと思いつつ、それでも十分変だし、おかしいよ君たち。 彼らにとって、Haçiendaは本当に大切な生を生きることができたかけがえのない場所だった、とみんな同様に語っていて、それはわかるんだけど、でもそれがレンガにいくの? 板切れなの? って。

でもこれが造園を愛する国のイギリス人なんだよね、て思えてしまう愛に溢れた映画で、なんかよかったかも。
Q&Aコーナーはぜんぜん質問になってない、なんとしても当時の熱狂を語りたがる酔っ払いみたいな連中がわーわー言ってるばかりでこちらもしょうもないのだった。

音楽は権利関係が面倒だったのかお金がなかったのか、Haçiendaでかかっていたような音は一切かからない。New Orderくらい使わせてあげればよかったのに。

それにしてもPeter Hookってほんとしょうもない詐欺師やろうだよね。(褒めてるの)
あ、3月1日にCurzonの別の場所で上映会とQ&Aがあって、ここのQ&AにはPeter HookとClint Boon (Inspiral Carpetsの)が登場します。売り切れてるけど。

2.24.2017

[film] Lost in France (2016)

21日、水曜日の晩、いつもいくSOHOのCurzonではない、Aldgateていう住宅地のなか(かなあ..)にあるCurzonで見ました。
Curzonのチェーンの映画館内にあるバーとかカフェってほんとうにおしゃれで素敵で、こんなとこでだらだらしながらいちんち映画見ていられたらなー、ていう理想の映画館候補がここに。

このドキュメンタリーは、26日まで遠くで開催中のGlasgow Film Festivalに連動して上映されるやつで、現地ではフィルム上映後にそのまま登場したミュージシャン達によるライブがあって、ライブの模様はそのまま全英各地のシアターにも同時中継されます、と。
ロンドンではこのシアターの、この時間(上映開始が20:15)の一回のみ。 客席はかなしーことにがらがら、年寄りだらけ。

GlasgowのIndependentシーン、というと年寄りにとっては80年代初のPostcard Records周辺だったりするのだが(映画のなかの会話では昔ああいうのもあったけどあれは別よね、とあっさり過去バケツに.. )、この映画のは90年代後半にThe Delgadosが立ちあげたChemikal Undergroundの周辺、ミュージシャンでいうと、Tha Delgados, Mogwai, Arab Strap, bis, とか レーベルは違うけどFranz Ferdinandとか。  あのへん。 ああー。

同レーベルのミュージシャンたちが97年、フランスのMauronていう村(?のように見える)にツアーに行って暖かくしてもらったので、そこから18年後に再びその地を訪れていろいろ当時の思い出を語ったり里帰りみたいなライブをする模様を通して、90年代末のGlasgowシーンを振り返ってみるよ、ていうもの。
こういうのって、それを見るひとが登場する音楽やミュージシャンにどれくらい思い入れがあるかによるのだろうが、この頃(90年代後半)の自分はまだ米国に片足つっこんでいて米国音楽のおもしろさにびっくりしていた頃だったので、(また)あの辺からあういうのが出てきたのね、くらいでしかなかった。当時は。

でもたぶん、18年ていう歳月・距離の置き方取り方が丁度よかったのかも - 10年だとまだ生々しいし20年だと彼方すぎる - 掘り起こして見つめ直すには、互いに寂れたり疲れたり萎れたりいろいろあったよね、って許せたりしみじみできたりの18年くらいが適切、なのかも。
なぜChemikal Undergroundだけが? という描き方はしていなくて、当時あの近辺にはそこらじゅうにVenueがあってそこらじゅうでライブばかりしていた、Franz FerdinandのAlexもそういうクラブを運営してたと言ってて、そんななかで絶えず、わんわん鳴っていたのが例えば彼らの音たちだったのだろうなー。

なのでたぶん、たとえMogwaiであってもパブの雑踏のなかで聴かれていたんだねえ、というふうに思えて、そうなるとギターの音でもなんでもとっても艶よく快調に聴こえてくるのだった。 もっとちゃんと聴いておけばよかったわ(殴)みたいな。
タイトルの"Lost in France"はThe Jazz ButcherもカバーしていたBonnie Tylerの名曲よね、と思っていたらそうだった。(練習しているシーンがでてくる)

でもだいたい約20年の総括に100分はちょっとのんびりしすぎかも。 80分くらいで締めてほしかったかも。

映画のエンドクレジットが終わるか終わらないかくらいで画面がGlasgowのライブ会場に切り替わった。
メンバーはAlex Kapranos (Franz Ferdinand), Stuart Braithwaite (Mogwai), RM Hubbert, Emma Pollock & Paul Savage (The Delgados) ていう映画のなかでも演奏していた「スーパーグループ」 - The Maurons で、演奏したのはJMCの"Just Like Honey"- vo.はStuart  〜  The Pastelsの"Nothing to Be Done" (わーい) 〜  Franz Ferdinandの"Jacqueline" - 久々に聴いた。間奏で炸裂するMogwaiギターがかっこいい 〜 最後に映画のなかでもやってたTroutの”Owl in the Tree” - これ名曲よ -と。
 
ライブは短かったけど素敵で、現地ではさらにDJが入ってずっとやっていたもよう。いいなー。

[art] Wolfgang Tillmans: 2017

キューが溜まりすぎてきゅうきゅうお手あげの美術館関係。 見た順で。

Australia's Impressionists
12日の朝、National Galleryでみました。「オーストラリアの印象派作家たち」
オーストリアならわからないでもないが、オーストラリア? で、印象派?  砂漠と岩と海しかないじゃん、ひといないじゃん、とか思ったのだが、割とちゃんとしていて、確かにふつうの風景画よりは印象派ぽい意匠がないこともないかも。
展示そのものは小規模で、4人の作家 - 一部は英国からの移住組で、なんで印象派か、というとヌーヴェルヴァーグがカメラを路上に持ち出したのと同様、カンバスを屋外の光の下に持っていったから、ていうあたりの同時代性とかそのへん、らしい。 あと、オーストラリアで創作したあとでヨーロッパに渡って印象派の画家たちと交流した、とかそういうのも含めて。

Jane Austen  Among Family and Friends
19日の朝、Plum + Spilt Milkていう素敵な(名前がさいこうね)レストランで朝食をたべて、そのあとでBritish Libraryに行って見ました。
オープンが11時で、15分前に着いたら開館待ちのものすごい行列があったのでびっくりして、あーさすがだねえ、て納得して。
ここにはTreasures of The British Libraryていう無料のお宝展示コーナーがあって、そこの一角(全長4mくらい)でこの日まで特別展示をしていたのがこれ。
Jane Austenの最初期の創作ノート - "Volume" - の3冊実物とか、父の死を知らせる手紙とか、彼女が病死する6日前の手紙とか が並んでいて、本物だわ、ていうただそれだけなのだが、本物を見るのはだいじなのよ。彼女のような作家がほんとうに実在して、どんな部屋でどんな光のもとでどんな顔をしてこれらの紙に向かってペンを走らせていたのだろうね、って浮かんでくるようだから。

Robert Rauschenberg
19日の日曜日の午後、Tate Modernで見ました。 RauschenbergはNYにいるとWarholとおなじくらい犬・歩・棒の状態で、企画展にグループ展に常設展示に、どこにだって家具のように置かれているし、記憶に新しいとこだと97-98年にGuggenheim Museumで回顧展があったし、05-06年にMetropolitanで大きめの展示があったし、ここのはそれらに次ぐ規模の、というかGuggenheimのよかきちんと網羅されている気がした。 最初期のわけわかんない実験くんから、組み合せ、とか、メディウムとか材料とか、そういうのを意識しつつだんだんに面倒だったり収拾つけられなくなったりのほうに肥大して(中心が空洞化して)いくところは今から見れば60年代抽象芸術の典型、かもしれないけどよくやっちゃったもんだねえ、とか。 いっこいっこじっと見るタイプのものではなくて、ぱらぱら漫画みたいにして見るくらいで丁度よいのでは、とか失礼なことを。

彼らって絵画芸術そのもの、というより絵画を鑑賞するそのやり方・意識も含めて変えようとしたのだから、それらをびっちり凝縮させたこういう展示では、こっちもふつうの絵画を見るような見方じゃいけないと思うのよね。 せめて走る、とか、逆立ちする、とか。

Wolfgang Tillmans: 2017

RauschenbergとTate Modernの同じフロアの反対側。 こちらはタイトル通り、2017年時点の、現在進行形のTillmans、といったようなざっくりした展開で、いま手元にあるものをざーっと端から並べてみました、いいから見ろ寄ってこいていう焦燥感というかひりひりした切迫感がある。 こないだの国立国際美術館での”Your Body is Yours”の方がテーマも含めてずいぶん暖かかったかんじはして、どちらがこの作家の本質かというと間違いなくこっちではないか。

ものすごい高解像度の工芸品(made in Germany)みたいな大判の作品、あるいは詳細なデータでもログでも、記録として残されることを期待されたぺらぺらのモノや表象たちが孕む危険性 - 取っておくことの危険性、消されてしまうことの危険性、でも結果的にどこかに(必ずどこかに)残ってしまう危険性 - 写真(的にドキュメントされるなにか)としてある、というのはこのゴミのトライアングルのやばさのなかに身をおくことで、ねえ、わかってる? て醒めた目で聞いてくるかのようで、そのへんの冷たさが抜きん出ているところが他の作家とちがうところなのかも。 (例えばRyan McGinleyのどこまでも無邪気なことったら)

彼、3月あたまにパフォーマンスなんかもやるみたいなので注視しておきたい。

2.23.2017

[film] Arrival (2016)

19日の日曜日の昼、Leicester Squareでみました。
もうロンドンでは一館だけ、一日一回のみの上映となっていたので少し慌てて。

もう何回も言っているし、何を言っても変わらないだろうけど、日本の洋画の公開タイミングのどうしようもない遅さはなんとかならないものか。
提灯評論家向けの試写内覧とかくだんない業界内のプロモだのコラボだのノベルティだの、何十年昔のビジネスモデルでいつまで続けていくつもりなのか、公開されるのを口を開けて待つしかない一般市民としてはこんなの虐め以外のなにものでもない。 "Trainwreck”(これ2015年の映画だよ)を今頃公開したり、"20th Century Women"が6月だったり、ふざけんなだわ。(と言ってみたところでだーれも動かないだろう。 だーれも切実に思っていないのだろう。 今の配給会社と業界の関係って、今の政権とメディアの関係とおんなじようだ。 「お互いにとっての利益」(のみ)がベースの気持ち悪い馴れ合いしかない)

さて"Arrival"。
始めにLouise (Amy Adams)の一人称で娘 Hannahの誕生から病気による死までが短い映像と共に綴られ、「これは始まりだったのか終わりだったのか」と。
言語学者の彼女が大学に講義にいってみるとニュースで大騒ぎになっていて、宇宙船みたいな縦長の岩みたいなでっかいのが世界のあちこちに現れて宙に浮かんでいる。

そこから彼女は軍に呼び出されて物理学者のIan (Jeremy Renner)含むチームに入って「彼ら」とのコミュニケーションを試みろ、と言われる。 彼らがなにを求めて、なにを狙ってやってきたのかを探れ、と。  
厳重な装備で膨れあがった状態ででっかいうんこ岩のお尻から上方に登ってみると重力は関係なくなって、向こう側にイカみたいなタコみたいのがぼんやり現れてぶおーって言ったり墨みたいのを散らしてくる。
そんなセッションを何度か繰り返し、それらを解析していくなかで、頻繁にフラッシュバックされるようになる娘の記憶と、他の国との解析競争の果てに中国が出したやばい結論と、で、結局のとこあの連中はなんだったのか、なにをしたかったのか。 タコなのかイカなのか。

宇宙のどこかから見たことのないものがやってきた、ていうとき、戦争になったりパニックになったりホラーになったりコメディになったりいろいろあるわけだが、それ以前にいろいろ考えたりするよね当然、というのはもっともなのだが、いつタコの回し蹴りが飛んでくるかわくわくしていた人たちにはちょっと不満かもしれない。

記憶とは、物語とはなにをもってひとつのかたちに完結したり収束したりするのか、完結しなきゃいけないのか、それはなんでなのか、それはひとの生とか自我に、ひととひとの生(複数)にどう関わりを持つのか、ていうような極上の大風呂敷を広げてくれてなかなか気持ちよいの。 ありがとうタコ(or イカ)。

これを見てしまうと『未知との遭遇』での接近遭遇はなんとシンプルでわかりやすかったことか。
軍の関係者にまずあれ(5音階)をやってみないか、て言いだす人はいなかったのかしら。

エンドクレジットで原作がテッド・チャンの『あなたの人生の物語』であることを知って、いろいろびっくりした。読んでたのになんでひとかけらも思いつかなかったのか、そしてそれでもなお、ひと筋のかけらも思い出すことができないのか。 どんなお話だったんだっけ... ?  - 記憶の非対称性よね、とかほんのり甘いことを思ったりして(殴)。

誰もが指摘するであろうが、ところどころTerrence Malickの風と光が吹いてきて、それはある意味納得がいくことでもあるの。
彼もまた 「あなた」 - 決定的だったのにどっかにいってしまった「あなた」の人生をたらたら追いまわして噛み続けている - なぜならそこにしか自分の生きている価値も意味もないから -  へんてこな作家であるってこと。

あと、連中になんにもしないで放置、ていう策をやってみよう、ていう国はいなかったのかしら。

2.22.2017

[music] Shirley Collins

20日の晩、Parliament Square(国会前ね)でTrump渡英断固阻止集会 - Stop Trump があって、Billy Braggさんから「ぼくは行けないけどみんな行ってくれ」と言われたので帰宅の途中だし行ってみた。 地下鉄のWestminsterの駅を出てすぐのとこで、Big Benの時計台をあんなに間近で見たのは初めてだったのでわーってびっくりしつつ、いろんな人たちが棒のついたプラカードを持ってけ、ていうかんじで配っていて(ゴミになるので受け取らず)、とにかくいろんな人のいろんな声を聞いた。 他国の大統領の話だし、一時滞在している他国のことではあるのだが、自分も広義の移民だと思うし、差別も壁も、あんなやりかたも断固容認することはできないので声はあげる。日本の首相もあの腐れブタも身の毛がよだつくらいだいっきらいだ、と何度でもいう。 集会の雰囲気は日本の国会前とおなじように暖かいし笑いもいっぱいあって、いろんな立場の人が次々といろんなスピーチをしてて、Trumpの(立場にいる奴らが)しでかしたことの重さ、愚かさを、彼らの怒りがどれだけ切実なものかを改めて身にしみて感じた。 あと、ちゃんと発言の場所が確保されていることの余裕とか、警察の対応はこっちのが100000倍ましでしたわ。

で、そのBilly Braggさんの名曲"Greetings to the New Brunette"でも歌われているShirleyさん(別人よ。こっちは81歳よ)のライブに、17日の晩、行った。

場所はBarbicanで、時間は19:30とあって、"Fifty Shades Darker"のあとShake Shackでバーガーを食べてから地下鉄で向かって、19:35くらいに着いたら始まっていたので天を仰いだ。 始まっていたといっても、前座というか、ステージ前方の講義台に大学教授みたいな威厳たっぷりのおじいさんがいて、彼の紹介でいろんなミュージシャン - 彼女のバッキングをする人たちを含め - がソロかデュオで歌と演奏の腕前を順番に披露していくのだった。 このへん- アイリッシュ・ブリティッシュフォークの人たちの楽器の技量ってふつーにすごいのだけど、それ以上にすごいのはみんなまず歌う、歌があることなの。大きな声で朗々と歌って、声が届いてなんぼみたいな。何人か出てきた女性はとくに声がすばらしくきれいに響いてうっとりするしかない。

だいたい各自2曲くらいで次に替わっていくのだが、最後にでてきたのがGraham Coxonさんで、万年浪人みたいなぼさぼさしょぼしょぼの恰好だったがギターも歌もちゃんとしていて、見直した。 1曲目、ギターがアンプに通ってなかったのは愛嬌だったけど。

20分の休憩のあとで本編、彼女が昨年38年ぶりにDominoからリリースした"Lodestar"の演奏。ステージ後方に横並びで8人、Shirley Collinsさんもその真ん中にちょこんと紛れている。
"Lodestar"は彼女がその長いキャリアのなかで収集した英国や米国のフォークソング - 古いのは16世紀のも - を彼女の自宅で録音しつつ歌いこんだもので、ステージ前方の壇上でさっきのおじいさんが曲の内容や成り立ちや説明して、曲が始まると自分も演奏の列に加わる。 背後のスクリーンにはそこで歌われている土地や風土や伝承を記録した映像やスライドが流れていく。

"Lodestar"は一聴するととっても地味な民謡みたいに聴こえるかもしれないが、聴けば聴くほどじわじわ沁みて、ここ一か月くらい離れられない謎の盤で、一曲目の"Awake Awake..."の最初の弦の一音から魔法としか言いようのない時間が現れては消えていって、でも彼女の声はずっとそこにあるような。すごい声とか歌唱とか、そういうのではなく、でもずっとそこに漂う。 曲によっては彼女自身がその曲を収集したときのエピソードを語ってくれて、そうやって継がれてきた歌の運命とか不思議さを思うと目がまわる。 38年ぶりの録音で400年ぶりくらいに蘇るフォークソングって。 その間、そこで歌われていた精霊だの魂だのは、いったいどこにいたのだろうか。 彼女、Alan Lomaxと一緒にアメリカで音の収集もしていたんだねえ。
曲によってはステージ前方でMorris Danceのひとたちが入って舞って、あーこれがMorris Danceなのかー、て初めてライブでみて思った。 日本だと盆踊りとか獅子舞みたいなものかしらん。 あの衣装、一回くらい着てみたいかも。

それにしても、柳田國男や宮本常一にはちっとも来ないのにこっちのケルトのとかウェールズのとかにやられてしまうのはどうしてなのか、それを言うなら洋楽も洋画も海外文学もそうなのだが。

それにしても、今年に入ってからのライブって、toddle → PJ Harvey → Alessandra Ferri → Dagmar Krause → Sacred Paws → Shirley Collins とずうっと女性にぼこぼこにされていて、べつにそれでぜんぜんよいの。

2.21.2017

[film] Fifty Shades Darker (2017) 

18日の夕方、いくつかのアパートを下見したあと、Leicester Squareでみました。
ここの一番でっかいシアターで上映してて、とてもでっかい看板が広場ぜんたいを見下ろしていて、そんなにすごいのかしら … と。

でも一作目って、アナスタシア、ていう名前と、シアトルが舞台だった、ていう以外はあまり印象に残っていないかも。
英国では18禁で、前作よかやらしいシーンはあった気がする。 まあそんなの、人によって違うのだろうが。

Anastasia (Dakota Johnson) はGrey (Jamie Dornan)と別れて前とは別の出版社でアシスタントとして働いているのだが、Greyはいまだに贈りものをしてきたりAnaがモデルになった写真展示のギャラリーに現れたり彼女の会社を買収したり(ひー)、ねちねち攻めてきて、結局彼女は折れてディナー「だけ」、一緒にしようとするのだが、そんなんですむわけなくて結局よりは戻ってしまい、でも彼女は彼の過去の女性関係とか昔の写真とかが気になって気になってしょうがなくて、彼の昔の女と思われる影(複数) - Kim Basingerとか - も現れるし、ちゃんと明らかにしてくれないんだったらやだからね、とか拗ねては仲直りを繰り返しており、彼女のほうにも仕事場の上司が寄ってきたり、要するにふたりの仲の真剣さが問われるのだが、たとえ多少やばくなったってそれらも広義のSMとして見てしまいさえすればなんとかなってしまうの。

これ、どこまでまじめに筋を追ったりふたりの逡巡や眉間につきあってあげればよいのか、あるいはぜんたいを軽い昼メロ - 見たことないけど - みたいにけらけら笑ってみておけばいいのか - 場内にはいちいちきゃーきゃー大騒ぎする女子の一団がいた - よくわかんないのだが、中間くらい - 知り合いの与太話くらいに見ておけばいいのかしら。 ちなみに、SMのいろんな小道具とかにどきどきはらはらする段階はとうに卒業して、ふつうに阿吽でさくさく使いこなすようになっているので、そういうのを期待する人たちには不満かもしれない。 よくわかんないけど。

大枠のはなしをすると前作が「契約」をめぐるおはなしだったとすれば、今度のは「ロードマップ」についての、あるいは「ロードマップ」をつくるおはなしである、と。 
つまりはそういうところまでいくの。 "Darker"ていうのはそういうことなのかしら。 たぶん。

でもわざととしか思えないくらいに関係の糸をこじらせてこんがらかせて「本性」とか「絆」のようなDarksideに迫ったり落としたりしたがる作品 - 具体的には思い浮かばないけど - よりは軽くて漫画みたいで楽しいかも。 どっちがよりDarkか、ていうのは議論あるとおもうが。

あるいは、結局金とセックスなんだろ、ていうところからどこまで離れてほんもんの愛を追い求めることができるのか - もう少しいうと、Greyから金とセックスといろんな道具コレクションを抜いてしまったとき、あいつになにが残っているのか、ていうのはみんなが考えるべきことだとおもうの。(Darker..)

そしてさらにいろんな試練が、ということでまだ続いていく(そう、続くのよ)のは、なんかよいかも。

主役のふたりが変わらず大根では、という疑念がひとによって湧くのかもしれない。けど、Dakota Johnsonさんに関してはだんじてそんなことはない、と言っておこう。彼女がいなかったらこの映画はリアル大惨事になっていた可能性がとってもある。
(”How to Be Single”が公開されない理由がまったくわかんないわ)

2.20.2017

[art] Flaming June: The Making of an Icon

こっちに来て3度目の週末が来て、そろそろ住むところを探し始めないといけなくて、ぷらぷら遊んでばかりいるわけには、なのだが、見たり聴いたり食べたりしなければいけないものもいっぱいあって、果たしてどっちがだいじなのか? どっちもだよ。

展覧会やシアターの情報をどうやって仕入れるのがいちばんよいのか、実はまだよくわかっていなくて、もっともかんたんで確実なのが地下鉄のエスカレーターの両脇の壁に上から下まで貼ってあるチラシ群で、通勤や移動途中の昇ったり降りたりする都度にあれらを目皿にして追っかける。 動体視力(ていうの?)はよくなった、のかもしれない。

これもそういうふうに見つけたやつで、燃えあがるだいだい色で、あ、”Flaming June”だ! けど、あれってたしかプエルトリコにいるはずだったよね、と思って調べてみたら里帰りしているのだと。 里帰りどころか作者Frederic Lord Leightonのおうち - Leighton House Museum - つまり実家に戻っているのだと。
Leighton House Museumはどうせ行く予定だったし見てこようか、と。

18日の土曜日、朝食を食べたあとでバスでNotting Hill Gate まで行って、そこから狭い小道を延々抜けてHolland Park(ぜんぜん知らなかったわこんなの)から住宅街に入ったところにLeighton卿のおうちはあって、外観はふつうの高級住宅街にある重そうなお屋敷なのだが、邸内の黒光りする落ち着いてひっそりと狂っているかんじはおおヴィクトリア朝! としか言いようのないものだった。 ぎんぎらでもないし凝ってデザインしたかんじもない。 Arab Hallの研ぎ澄まされた落ち着き具合なんて、もとから根が生えてなにかが育ってしまった、そもそも水は始めからそこに湧いていたかのような、何かの胞子が繁殖して戻れなくなってしまったかのような、そんな揺るぎなさ。佇まいとしては邸宅、というより寺院のそれに近いかも。 椅子とかソファのうえにいちいち松ぼっくりがひとつ置かれているのがおかしかった。 あと寝室だけしょぼすぎるところもなんかかっこいい。

ほんとうはこういうのの裏でこれらを隠れて死守している怪しい一族でもいてくれたら最高なのだが、いや、これ、いちおう美術館だから。

フロアをあがって展覧会のパート。 1895年のLeighton のアトリエを撮影した割と有名な写真があるのだが、そこには”Flaming June”を含めた6点の絵画が写っていて、今回はそのうち、北欧で行方不明になっている「習作」を除く5点がリユニオンしている - 3点は個人蔵、1点はメトロポリタン美術館から、1点はプエルトリコから - というのだから、こんなの必見に決まっている。
5点は、"Candida" (1894-5)、"Lachrymae" (1894-5)、"The Maid with the Golden Hair" (1894-5)、 "‘Twixt Hope and Fear" (1895)、"Flaming June" (1894-5)で、どの女性たちもすばらしくかっこいいのと、METの"Lachrymae"と"Flaming June"は対になっている女性像なのね、というのがようくわかった。 あと本を読む女性 - "The Maid with the Golden Hair"のモデルはLeightonのミューズDorothyの妹なのね。

そして"Flaming June"の本物は冗談みたいに輝いていた。 服のひだひだと足のつっぱり、腕のむっちりと、耳の先と頬のピンクと、これが寝姿である、というところに透ける橙色が炎のように - でも激しく、ではなくふんわりと覆いかぶさって全体が柔らかくまどろみながら、でも燃えたっている、ていうところがよいのね。

60年代、こいつをたったの£2000で売っぱらった責任者、でてこい、だわ。

これに邸内にある遺作の"Clytie" (1896)を加えると彼の描いた女性像はほぼ網羅されるかんじで、だいたい神話のなかに住んでいるような(住んでいてほしい?)人たちだったんだねえ、と。

2.19.2017

[music] Sacred Paws

5日にRough Trade Eastを再訪して、これからは毎週来れるし来るんだからよろしくね、をしたとき、店内でかかっているのを聴いて、これってThe Raincoatsの未発表音源かなんかがでたのかしら? て見てみたらそれがこの人たちのデビューLPで、17日にIslingtonでライブがあるから来てね、て張り紙がしてあったので行ってみることにした。調べてみるとふたり組の女の子バンドのようで、なんといっても名前がすばらしいわ - 「聖なる肉球」よ。
Londonのどこにどんなライブハウスがあるのか、これから地味に開拓していかなきゃいけないしね。

ライブはSpinning Coinていうバンドとのカップリングで、前日にWebで予約したら手数料いれても£6.6だった。
飲み物代で別に500円徴収、とかバカな風習(Japan Only)も勿論なしよ。

これも時間は7:30と書かれているだけで、それが”Door”なのか”Start”なのかわかんなかったのだが、前のSlapp Happyのときのを踏まえるとたぶん”Door”なのだな、とふんで会社が終わっていってみたら確かにそのようだった。会場はバーの横についてるようなとこでとっても狭い。 O-nestのはんぶんくらいかしら。

最初にLife Drawingていう地元の前座バンドが少しやって、その後でSpinning Coin。Stephen Pastel 氏に見出されたグラスゴーのバンド、ていうだけで音はじゅうぶん想像がついて、まさにその通り、グラスゴー・スクールどまんなかの音。 35年くらい前にスコットランドのこんなような場所で鳴り始めた音 - というのを思い浮かべたりしつつ聴いて、どこがいけないのかちっともわからない。 こういうの、不滅、でいいよねもう。

Sacred Pawsはひとりグラスゴー、ひとりロンドンの女の子 - ボーダーシャツのふつうぽいドラムス & 爆裂アフロ/ドレッドだんだら/アロハシャツのギター、ヴォーカルはふたりの掛けあい、のデュオで、音はwebに出ているのを聴いてほしいのだが、すっとこドラムスにぴらぴらギターが軽快に横走りしていくやつで、ふたりだけで出している音とは思えないくらいに密に編みこんであって、とにかく楽しいったらない。 特にギターの彼女(ふたりの名前はわかるのだがどっちがどっちかわからず)の髪の毛が扇風機で吹きあげられてものすごく不思議でおもしろく(ごめん昨晩髪洗ってないのよねー、だって)、でもずっと笑いながら走り回ってて、ぶっとび&あんぐりのかんじとしてはAlabama ShakesのBrittanyさんのようで、でももちろん比べる必要なんてないの。

途中で女の子ベース(ベレー帽にメガネ、この娘もまた… )とおじさんギターがサポートで入って4人になるのだが、サポートが入っても音が厚くなったかんじがまったくしないのもすごかった。

終わりのほうではフロアの熱も相当にあがって、はじっこのほうで特定年代の中年男どもが狂ったようにタコ踊りをしてて、うんうんそうしたくなるのようわかるわ … と、つまりはそういう音なんです。

アンコールしろでフロアがうるさいのに物販のとこにふたりで座っていた彼女たちのアナログ買ってかえった。まだプレーヤーもなんもないけど。

こんなふうによいライブにいっぱい出会えるとよいねえ、としみじみしながら帰った晩でしたわ。

[film] The Breaking Point (1950)

15日の水曜日の夕方、クリーニングを取りにいって、過去2回うまくいかなかったお洗濯(機械の使い方がようわからん)に改めて臨んで、こんどのは1時間でうまくいったようだったのでとっても気分がよくなったので、BFIに行って、見ました。 20:50の回。この特集ではあともう一回かかるだけ。 UCLA Film & Television Archiveの35mmプリント。 邦題は『破局』。

ここ(BFI)の上映でよいのは、作品ごとにA4一枚のプログラムノートが配布されて、これがとっても勉強になるの。今回のだとこの作品の評価を決定づけた(と思われる - Wikiにも引用されているし)NY Timesの1950年の論評記事がまるごと載っている。 こういうことをやってくれるのはこことNYのMuseum of Moving Imageくらいかしら。

ここで特集が進行中のMartin Scorseseのキュレーションによる1本。 ホークスの『脱出』 (1944) と原作はおなじヘミングウェイの"To Have and Have Not"だというが、ふたつの映画の印象はぜんぜんちがうかんじで、こっちのほうがとっても暗くてつらい。(原作は未読)

チャーター釣り船の船頭をしているHarry Morgan (John Garfield)は妻と娘ふたりと幸せに暮らしているのだが、お金がなくて生活がきつくて、メキシコまでの客を乗っけたらふんだくられて、その損を埋めようと怪しげな中国の客を乗っけたらトラブル倍で散々な目にあい、戻ってみると事件のことを知られていて船は没収、ローンもすぐ払えとか言われて、妻には辛い思いさせるし、お先真っ暗で家族も生活もどうしよう... でいよいよどうしようもなくなって最後に。

ついてないことが重なって否応なしに辛くて痛い世界に引き摺りこまれてしまうのはノワールの展開そのものなのだが、それが酒場とか博打場とか建物の奥ではなく大きな海に浮かぶ船の上という余り起こりそうにないようなところで起こってしまうが故に、取り返しのつかない、引き返せないところに来てしまった/行ってしまった感が更につのってとってもかわいそうでならないの。

最後の船の上の銃撃戦の痛そうでどこまでもねちっこいかんじは”Taxi Driver”のそれ - もう何年も見てないけど - に似てるかも。
そして、ほんとに哀切でかわいそうなのはラストシーンでぽつりと残されてしまうあの子なの。

John Garfieldって、すばらしいねえ。

2.16.2017

[film] Dirty Dancing (1987)

14日の晩、Leicester Squareでみました。

こっちのTV、チャンネルもよくわかんないのでだいたいBBCとかつけているのだが、ひとつ、"Film4"ていう制作会社がやっている映画チャンネルみたいのがあってたまに流している。 13日の晩に帰宅してつけたら"Never Been Kissed” (1999) の最後の10分くらいをやっていて、もう何度も何度も見てるのに固唾をのんで見守ってしまい、わーよかったねえ、てさすがにびーびーは泣かないけど軽くべそかいて、そうか14日はValentine's Dayか、ということでどれ見るか悩んだけっか、これにした。

他の候補にあったのはSouthbankでの"Brief Encounter" (1945) -「逢びき」のフルオーケストラ付き上映とか。

映画館に向かうとき、夕刻の闇のなか背広姿の男共の影が教会の前の空き地にわらわら群れているのでなにかと思ったらみんな花束を買っているのだった。チョコ屋も男だらけだし、やっぱしこうあるべきよね。

で、20時の1回きりの、30周年記念上映ということで、シアターの前には風船がいっぱい飾ってあって、あの恰好をした男女(顔はぜんぜん似てない)によるくじ引きコーナーがあったり完全にカップル向けのイベントになっていて帰ろうかとおもった。 のだが、とにかくみる。

これの公開当時、映画館では見ていなくて、だいぶ後になってTVでつまんで見た程度だったの。

だって、”Ghost” (1990) 前のPatrick Swayzeなんてただの馬の骨以外のなにものでもなかったし、Jennifer Greyはただのフェリスの妹でしかなかったし、我々(ってだれ?)のいろんな軸足の8割はまだ英国のほうを向いていて、アメリカの「きったないダンス」なんてそもそもがまんならなかったのよね、当時の感覚からすると。 だがしかし、その後もこの映画はある種の強迫観念のようなかたちで特定の世代の脳に巣食って虜にしつづけている(ように見える)し、最近の映画だと"Heartbreaker" (2010)とかもろだったし。

63年の夏 - えええこれ63年のお話だったの? - NYの北、Catskillの山荘にきたお金持ち一家の娘,
ベイビーとそこの裏方でみんなを楽しませるダンスのトレーナーをやっている貧しい男ジョニーが出会ってダンスを教えたりするようになって、それぞれに困難とか面倒な事情があったりするのだが、最後の最後はしゃんしゃんになる。それだけなの。

なにがすばらしいって主演のふたりのまっすぐの真剣さと適度にぎらぎらしたとこだよね。 あとJennifer Greyのふわふわの髪と裏になんもなさそうなさらさらーの笑顔と。
まだBeatlesが少女たちを解き放つ前、ダンスっていうのは男性がリードして適度な距離とスペースを保って、という「社交」のためのものであった頃の、ああでもなんか我慢できないの、ていうぎらぎらがストレートに出ていて、だから展開に多少の無理があっても全く気にはならない。 いけ! くっつけ! やったれ! と拳を握りしめて見守るしかなくて、彼らはそれに見事に応えて宙を舞う。 そういうのをみんなでいろいろ確かめあって見つめあう映画で、それだけだけど、それで十分ではないか。

来年公開が正式にアナウンスされた(て前口上で言ってた)Kenny Ortegaによる新”Dirty Dancing"、Jennifer Lawrenceと Bradley Cooperのあれでいいじゃん、とか思っているのだが、どうなるのかしらねー。

で、帰宅してTVつけたらFilm4チャンネルで”Ghost”が始まったところだったのでひえーかんべん、と思って、BBC Oneにしたらこんどは”Pretty Woman” (1990) やってた(... そのまま見ちゃったけど)。  (どっちも1990年の映画なんだね)
それにしてもなんなのこの国。

[film] Hidden Figures (2016)

12日の日曜日の朝、観光みたいなかんじでThe WolseleyていうとこのArnold Bennettオムレツ(鱈の白身と卵の組み合せ、驚異的)ていうのを食べて、National Galleryをうろついて、Leicester Squareで見ました。

米国の師匠からも見たほうがいいよ、て言われていて、確かにおもしろいったら。

61-62年の米国、NASAはソビエトに一歩先を越された宇宙開発にやっきになっていて、特に有人の宇宙飛行(飛びあがって、戻ってくる)をなんとしても実現したくて、それをやるには軌道だの推力だの重力だのやったことのないような複雑な計算をする必要があって、それを裏で支えた数学が得意なAfrican-Americanの女性たちのお話。 実話ベースだという、知らないことばかりよね。

メインの3人はKatherine (Taraji P. Henson)とDorothy (Octavia Spencer)とMary (Janelle Monáe)で、特にKatherineは数学の腕を買われてエリートだらけの部屋に配属されるのだが、そこは白人の男性ばっかり、"Colored"が明確に区分けされていた時代なので、彼女は職場でまったく相手にされないし、コーヒーのポットも別にされるし、"Colored"のトイレに行くには半マイル遠くの別キャンパスに走っていくしかない。 Dorothyは自分が仕切っている女性チームのSupervisorになりたいしなれると思っているのだが、上司(Kirsten Dunst)がいじわるでしょっちゅうぶつかるし、Maryもいっこ上のキャリアを目指したいのだがそれには特定の学校の履修が条件で、なのにそこに”Colored”の入学は許可されていなかったり。

そこには職場の男女差別どころか人種差別の壁までもはっきりとあって、時代はキング牧師が登場して公民権運動が盛んになっていく頃、そして宇宙開発も含めて「敵」としてのソビエト連邦が明確になってきた頃、そういう内も外もダイナミックな時代の波の突端で、でもぜんぜんめげずに自分たちの実力を認めさせていく彼女たちのかっこいいこと。

Katherineの上にいるのがKevin Costnerで、なんでそんなに席を外すのか?て問い詰められてとうとう爆発した彼女の怒りに応えて、"Colored"と書かれたトイレのプレートを思いっきり叩き壊す- Kevin Costnerてこういう役やらすとほんとかっこいい - とことか、解析計算用にIBMの最新メインフレームを入れたのにIBMは線を繋いだあとちゃんと動かすことができなくて(ありがち)、図書館でFORTRAN(てしってる?)の本を借りてこっそり勉強していたDorothyが一発で動かしちゃうとことか、入学資格を求めて訴訟を起こしたMaryが法廷で判事に面と向かってかけあうとことか、痛快なシーンがいっぱいあるの。

同じ宇宙の、“Interstellar” (2014)に出てきた数式はとっても怪しいかんじがしたものだが、ここでKatherineが叩きつける数式はとっても切なく、切実なものに見えたりする。

クライマックスはもちろん、宇宙飛行士のJohn Glennを乗っけて宇宙に飛びあがったときの世紀の一大勝負で、発射直前まで検算が必要でばたばたで、戻るときもシールドが剥がれちゃったけどどうする、とか、そのへん、結果はわかっているにしても手に汗握るねえ。

音楽はPharrell Williams (& Hans Zimmer) 、爽快にかっとばすかんじがすんばらしいったら。

邦題は頼むから「xxxの方程式」みたいのやめてね。あと、プロモーションで「リケジョ」とか使ったらほんとに、まじで怒るからね。
これは男女差別と人種差別に果敢に立ち向かって戦った、われわれとおなじような職場で働く人たちのお話なんだから。 なんでもカテゴライズして蓋するんじゃねえよ。

2.15.2017

[art] David Hockney

美術関係をいくつか。

10日の金曜日のごご、バスでTate Britainに行った。前日にメンバーになっておいたので簡単に入れた。
オープンした翌日だったせいか平日なのになかなかごった返していた。

この7月で80歳になるHockneyの、画業60年を記念して開催された回顧展。 こんなの必見にきまっている。

"A Bigger Splash" (1967)は2012年から13年にかけてTate Modernで行われた特集展示で見ているのだが、その他の、特に60年代末から70年代にかけてのランドスケープ(or 室内)と肖像を組み合わせたシリーズ(シリーズではないのだが)を纏めて見ることができて、これらがすばらしかった。(たぶん誰もがどっかの雑誌とかで目にしたことはあるはず)

明るい屋外、あるいは室内でひとり横を向いた男がつっ立っていたりするだけなのだが、その立ち姿の微妙で微細な捩れたかんじ - 中心 - 背筋がどこにあるのだか見えないというか、なんでその男がその位置でそんな姿勢になっているのかの謎も含めたそのほんの少しの不自然さ、袖の線の弛みとか皺とか、どこかが引っかかるへんな違和感故に何か忘れがたい印象と像を残して、そこから絵画で描かれる男の立像の原型みたいなところに到達してしまっているのではないか。 Francis Baconの絵にでてくる男の姿とどこかで繋がっている、と言われても驚かなくて、そしてこれもBaconと同じく、いくら見ていても、まったく飽きが来ないふしぎと。

このあたりをピークとして、写真を複眼的にコラージュしたやつとかアメリカのランドスケープとかオペラ関係とか - 自分にとってのHockneyは少し向こうのほうに行ってしまうのだが、ぜんぜん見ていなかった00年代以降の作品を見ると改めてすごいかも。 同じ風景動画を4面にプロジェクションしただけの「四季」とか植木をモノクロでドローイングのとかiPadを使ったのとか、もういっこの波が来ているのかもしれない。

Hockneyに最初に深入りしたのは美術手帖のたしか創刊500号で、そこではまだとっても若かった大竹伸朗がとっても熱くHockneyを語っていたのをおもいだした。

会期中にたぶんあと2回くらいは来たいところ。 TASCHENのSUMO(あのばかでかい本)からサイン本が出ている - £1750だって。どうする? (でもTASCHENの本は買わない主義)
 
そしてもういっこの有料展示もみる。

Paul Nash   (1889 - 1946)

英国の第一次大戦の戦争画と後年のシュールレアリスムの画家、くらいの知識しかなかったが、初期の暗い樹木や森を描いた地味な作品群がよくて、そのイメージ - 例えばじっとりと朽ちていく樹/しぶとく根をはって伸びていく樹/そのまま空に広がっていく樹 -  そこから後々の荒涼とした土色灰色の戦争や廃墟の光景に繋がっていく気がして、それは例えばキリコが描く道や路地の不在 → 不安のかんじとは少し違っている。  後年のほうのは少し散漫に見えてしまうのだが、やはり戦争の影響ってどこまでも強く残るんだねえ、と思ってしまうのだった。

久々に来たので常設展もゆっくり見る。
ちょうど館内ツアーが”Ophelia”の絵の前で説明をしていて、学芸員のおじさん(たぶん)がこの絵のOpheliaがいかに不自然な格好で流れていこうとしているかを子供たち相手に力説していて聞き入ってしまった。そうか、言われてみればそうだねえ、と。


Alex Israel / Bret Easton Ellis

Gagosian Galleryでやっていたやつ。10日の夕方に。
写真家と文筆家によるLos Angelesをテーマにしたでっかい写真にBret Easton Ellisの文章(詩?)が書いてあるのが路面にふたつ、でーんと貼ってあるだけだった。 カタログも面白かったのだがこの暗くて凍える陽気のなかでLAというのは、なんかぜんぜん別の世界で、これはなんでしょうね? になってしまうのだった。

Erotic: Passion & Desire

Sotheby'sでのオークション前の展示。 12日の午後に。
エロ(ティック)をテーマに、Webにはのっけらんないようないろんなの - 古今東西の写真に彫刻に家具に絵画に - がびろんびろんに並べられていて大変お勉強になった。あんなの、どこのどんなお金持ちが買うんだろうなー。 どこにどんなふうに置くんだろうなー、とか。

それにしても、美術館はあまりにいっぱいありすぎて、どうしようもねえ。
殺す気か。

2.13.2017

[film] Elle (2016)

11日の土曜日の昼、映画館の近所のレストラン - Quo Vadis で子ヤギのロースト(ごめんね)を食べてから見ました。
まだ封切り前で、上映後にQ&Aつき。当然のようにフルハウス。

冒頭、青灰色の猫のアップで、猫が見ているのは暴漢に襲われているElle (Isabelle Huppert)であることが、格闘の音や呻き声、そこから出ていく黒覆面の男の姿でわかる。
襲われた彼女は放心状態になりつつもふつうに病院行ったり会社行ったりして、また周囲にもレイプされたことをさらっと言ったりするものの警察には届けない。

Elle - Michèle Leblanc はアダルト・バイオレンス系のゲームソフト制作会社を経営していて、夫とは離婚して一軒家にさっきの猫と暮らしていて、息子はファストフード店でバイトしたりしているがだめだめで、そこらの性悪ビッチにつかまってできちゃった婚をさせられそうになっていて、老いた母親は若い筋肉バカと一緒になろうとしていて、幼時の彼女に決定的な傷を残した父親は刑務所にいて顔も見たくなくて、会社の同僚の友人の夫とたまに寝たりしていて、要するにいろんな顔とか面とかがいっぱいあって、映画は彼女を襲ったやつはどこのどいつなのか - 彼女のそばで彼女を執拗に見てつけ狙っているらしいそいつは、彼女を憎んでいる会社の若いプログラマーのだれかなのか、隣人や知り合いのだれかなのか、そいつを見つけて捕まえたらどうしてくれよう、という彼女と犯人の追って追われて襲われてのサスペンス(含.妄想)と、それらと彼女の半径数10メートルの家族や知り合いとのやりとりを通してElleというひとりの女性(像)を浮かびあがらせる。

上映後のQ&AでIsabelleさんも言っていたように、女性はものすごく強かったり脆弱だったり勇敢だったり臆病だったり淫らだったり澄ましていたり熱かったり冷たかったり、そういうのがひとりの人格のなかに普通に共存しているのだと、それはたぶんもっともなのかもしれないが、それをひとりの女性を主人公とした一本の映画のなかで、その限られた時間のなかでいったい、どんなふうにいっこの塊として示すことができるのか。 それを可能としてしまうのが例えばIsabelle Huppertさんのこんな映画で、これは監督の映画というよりは、圧倒的に彼女の、Elleの映画なんだよね。

この映画のなかの彼女が演じる女性は彼女が過去に演じてきた女性たちをところどころ思い起こさせる - レイプシーンでは”Heaven's Gate” (1980)を、自動車事故のシーンでは最近の”Louder Than Bombs” (2015)を - そして、そして、だから? それがどうしたってのよ? 警察でも呼ぶか? 幸せでも呼ぶか? て彼女はいつものように腕を組んで、口をひん曲げてしらっと言うにちがいなくて、それを半口あけて眺める我々は、ああなんてかっこいいのかしら、といつもの凡庸な感想しか出てこないの。

シリアスなサスペンスのようだがこれは間違いなくコメディでもあって、ところどころで笑いの渦が起こっては消えて、と思うと突然びっくりしてシートの背に叩きつけられて、とにかくおもしろいってことなの。 彼女に会ってごらんなさい。人生変わるわよ。

上映後のQ&Aで言っていたのは、まずPhilippe Djian - “Betty Blue”を書いた人なのね - の原作が好きで、彼と映画化の交渉をして、監督がPaul Verhoevenに決まったのは最後のほうで、もちろん好きな監督だったので問題なかった、と。 あと、スクリプトが英語だったので言葉のニュアンス確認も含めて読み合わせに気を使っただけで、リハーサルはだいたい一回で済んじゃって、撮影は12週間でおわった、とか。 とにかく、ため息がでるくらいクール、としか言いようなかったの。

音楽は、”Lust For Life”が流れてきたりして、この使い方は正しいとしか言いようがないの。

あと、同じ原作をArnaud Desplechinが撮ったらどんなふうになったかしら、て少しおもった。

[music] Slapp Happy + Faust

とにかく渡英して1週間以上が過ぎて、風邪ひいたり口内炎が3つできたりたまんなく寒かったり(いや久々よあんなの)いろいろあったけど、このライブに行けたのであとはもう帰されちゃってもいいや、になった。
まだ英国行きになる確率が半々くらいだった11月末にチケットは取っていて、それくらい真剣だったものだから、それが終わったいま頭のなかは真っ白の大仕事をやり遂げたかんじで、月曜日から会社だなんてありえないどうしよう、くらいになっていた。 

取ったのは11日の土曜日の晩ので、土曜日は朝から雪が舞っていてこたつで丸まって寝ていたいくらいの陽気だったのだが、昼にはSOHOで生Isabelle HuppertさんのQ&Aがあって、晩はDagmar Krauseさんの歌があって、とにかくものすごく濃い大変ないちにちになりました。

のだが、場所は当然のことながら初めて行くとこで、これまで地下鉄のZone1の外に出たことなんてないし、かんじとしてはマンハッタンの島を出てブルックリンの奥に行くとかNJのHobokenに行くとか、みたいなもんで、アプリを頼りに7時くらいには小屋に着くようにやってみたのだが、地下鉄から地上鉄に乗り換えるところで見事に間違えてここはどこ? みたいなどこかの駅で20分くらいロスして、なんとかようやくたどり着いて、入り口で手の甲にスタンプ押してもらった(ああ、手の甲にスタンプ押してもらうライブなんて何年ぶりかしら)ときには前方の椅子席はぜんぶ埋まっていた。

サイトには19:30て書いてあったのだが、その時間に始まる気配はこれぽっちもなくて、会場を埋めている大量のおじいさんおばあさんたちが同窓会みたいなノリで互いにスマホをかざして孫の写真を見せあったりしていて、とにかく老人は声がでっかいのでものすごくうるさいの。

場所はカフェなので段差のあるステージがあるわけではなく、楽器が置いてある真ん中奥にメンバーが集合したのが20:40くらい、さあいよいよ、となったとこでAnthony Moore爺がピアノの音がでない、とか言いだしてそこから更に10分、そういう芸なのだろうか、モニターが聞こえない、カズーがどこかにいった、どこかでハウリングしている(アンプをひっぱたくと直る)、ずうっと音が聞こえない/聞こえすぎてうるさい、などの文句を言い続けていて、それに応えるPeter Blegvadさんとのじじい同士のやりとりはほとんどコントのようだった。 このように奏者側ではいろいろあったらしいのだが、我々の耳に届いてきたのは大きすぎず小さすぎずの、すばらしくよい音で、トラブルでAnthonyがぶつぶつ言うたびに客席から「だいじょうぶよ、すごくいい音よ」て声が飛ぶ。

そうしてとにかく1曲目は”A Little Something”で、それはその歌の通りに「ほうらここにLittle Somethingがね.. 」ていう紹介にちょうどよい曲なのだがアンサンブルも歌もびっくりするくらいガタガタで大丈夫かしらこの老人たち、て呆然として、でもそれに続く”Me and Parvati” 〜 “Michelangelo”あたりからSlapp Happyとしか言いようのないスウィングやツイストが(Peter Blegvadの合いの手と共に)宙を漂いはじめるのが確認されて、それはもう、ずうっとほんものを見て聴くことを夢見てきたDagmar Krauseさんの「あの声」として、小柄でぼうぼう白髪にメガネの老婆の喉から鳥が鳴くように(開演前はずっと鳥の声がちゅんちゅんずっと流れていた)溢れてきているのだった。

Faustのふたり - ベースのJean-Hervé PéronさんとドラムスのWerner "Zappi" Diermaierさんのバッキングは素晴らしくて、彼らのトコトコしてて、時に現れるへんてこなうねりがSlapp Happyトリオのどこに行っちゃうんだかわからない、でもブリリアントな鼻歌をちゃんとつなぎとめたり支えたり蓋 - いろんな蓋 - をしたりしていた。 いっぱい練習したかんじもあまりなくて、45年前に一緒にレコーディングした仲、のすばらしさというかおそろしさというか。 このアンサンブルのばらけたかんじを今の子供たちが聴いたら”Lo-fi”とか呼んでしまうのかもしれないが、この5人の音の鳴らす音をそんなふうにいうことはできない。枯れたふうに見えるし枯れているのかもだけど、芯はものすごくぶっとい老巨木のほんの一部の、森のざわめきとして聴こえてくる。

Dagmarさんが70年代初のFactoryの話を始めて、Andy WarholやVelvet Undergroundとはベルリンで交流もあって(ああ、その"Factory"の話か、とPeter)、そのころの出会いにインスパイアされてできた曲です、てはじまったのが"Blue Flower"で、Anthony Mooreがテレキャスターをがじゃがじゃ刻んで、レコードよりもテンポ早めのそれは、確かに初期Velvetsとしか言いようがないヴァイブを湛えて転がっていく。
で、これに続けて"Casablanca Moon"があって、"Charlie 'n Charlie"があって、ぜんたいが程よく酩酊してきたころに、10分間休憩するのでみなさんバーに行って飲み物でもどうぞ、と。

"Just a Conversation"から始まった後半、これに続く"Slow Moon's Rose"からのスローな数曲はよすぎて泣きそうで、こんなに甘くやさしくしみてくる歌声があってよいのか、とべそをかいていると、"King of Straw"では今の合衆国大統領をめぐる政局にはまりすぎていて驚くよね、なんてしらっと真顔で言ったりしている。

ギター x 2の構成で華々しく豪快に鳴った(気がした)"Dawn"のあとで、あ、言うの忘れたけどこれアンコールの1曲目だからね、と言って、続けてさらにかっこよくロックしている(そんな形容が許されてよいのかどうか)ふうに聴こえる"The Drum"で幕は(ないけど)降りた。 それは前半1時間と後半1時間をかけた、約40年間の欧州全域をめぐる旅でもあったの。

80年代初、代々木のEastern Worksとかに通って暗黒面におちていた自分に2017年、冬の英国でSlapp HappyとFaustのライブを見ることになるんだよ、と言ったらそいつはどんな顔をしたのだろうかー。

帰り、体はぼろぼろだったがすんなり帰れた。

2.11.2017

[film] 20th Century Women (2016)

10日の金曜日の夕方、Curzon Soho - Curzonていうのは独立系のシアターチェーンで、メンバーになった - でついに、ようやく見ました。 限定公開の初日で、先週一回あったプレビューの際にはAnnette BeningさんのQ&Aがあったのだが、さすがに動けなかった。

いやーそれにしても。すばらしかった。多分世代的なものもあるのだが、それにしても。
Mike Mills作品って、”Beginners” (2010)はあんまよくわかんなかったのだが、これはすごい。
これから何度か繰り返し見ることになるであろう。

79年、カリフォルニアのSanta Barbaraでママ(Annette Bening)と一人息子のJamie (Lucas Jade Zumann)15歳が暮らしてて、その大きな家には他にアーティスト風 - 「すべてのもの」を写真に撮る、という - のAbbie (Greta Gerwig)と元自動車整備工でヒッピーで流れてきたWilliam (Billy Crudup)が下宿していて、あとはJamieの幼馴染で二つ年上のJulie (Elle Fanning)がいて、この娘は夜になると外壁を伝ってJamieの傍に眠りにくるのだが、Jamieがセックスしたいといってもあんたは友達だからだめ、ていう(..地獄)。

特に大きなストーリーがあるわけではなくて、Jamieが見たママを含むこれらの人(主に大人)たちのスケッチと、なんか変てこな音楽ばかり聴いてふらふらしててちゃんとした大人になれるとは思えないJamieのことを心配したママが住人の彼らに彼を見守って育ててほしい、てお願いしたもんだからだんだん変なふうになっていくの。 簡単にいうと、「20世紀の女たち」がよってたかって15歳男子をまっとうなやろうに叩きあげようとするお話しで、それに対して子供はパンクとスケボーで対抗する、そのぜんぜん噛みあわないへなちょこな攻防のあれこれ。

特にAbbieは見守るどころかやばい方に火をつけて、LAのライブハウスに連れて行って踊らせたり(いいなー)、“Our Bodies, Ourselves”とか”Sisterhood is Powerful”とか”The Politics of Orgasm”といったフェミニズムの教典(どまんなか)を与えたり、そういうのを読み込んだJamieは更にやばいほうへ。

Greta Gerwig演じるAbbieはとにかく最強で最高で、彼女のおなじみ変てこダンスが始めからずっと炸裂しててたまんないし、部屋で変な音楽が鳴っているのでママがそれなに? ていうと「レインコーツよ」 - "Fairytale in the Supermarket" (1979) が堂々と鳴っていたり。

JamieとJulieのエピソードも素敵でさあー。ふたりとも岡崎京子の漫画の顔なんだよね。
ふたりが逃げるように海辺の道を走っていくところ。

Jamieは64年生まれ、79年に15歳、というのは自分と全くおなじで、米国西海岸との違いは当然あるにしても聴いていた音楽は同じようなもんで、それにしても、母親とのやりとりは頭を抱えてしまうくらい同じかんじになってしまうのはなんでだろうか?  「ふつう」の、自分のときより幸せな大人になってほしいだけだとママは確信して寄ってくるのだが、そんなにふらふら危なっかしく見えていたのだろうか、と改めて考えてしまった  - だからと言ってもはやどうすることもできないわけだが。

というわけで、流れている音楽はすごいよう。 Talking HeadsのTシャツを着ていたJamieが絡まれて車に”ART FAG”って(その反対側に”BLACK FLAG”て)落書きされるとか、いかにもあったんだろうなー。
音楽に関していえば、Linklaterのよかこっちかも。 それくらいいちいちどまんなかにくる。

とにかくなんと言っても、Annette Bening、Greta Gerwig、Elle Fanningという「三人の女」の、最強のトライアングル。 コスチュームもなにからなにまで、Tシャツですらすばらしい。

あと、すてきな黒白猫さんが出てくる。
Special ThanksにはSpike JonzeとMiranda Julyの名前が。他にもあったかもだけど。

「バッド・フェミニスト」が売れて(るんだよね?)、そういう機運になっているのであればとっとと公開されてほしい。ただし、変な邦題つけたら今度こそぶんなぐるから。

[film] Snowden (2016)

10日の金曜日、航空貨物の受け取りでアパートで待機してて、ついでにお洗濯もしているのだがあんますることもない - 嘘つけ、お片づけしておかないと後でひどいことになってもしんないから - ので、日本で見ていたやつを書いておく。

1月29日の午後、六本木でみました。
Snowdenものは、ドキュメンタリーの”Citizenfour” (2014)で本物の本人が十分に語っているし、ホテルからの脱出の緊迫感もそれなりのものだったので、それでもこういうのは必要だったのかしら、と。

“Citizenfour”でも中心にいたドキュメンタリー作家のLaura (Melissa Leo)とGuardian誌の記者(Zachary Quinto)が、香港のホテルのロビーで初めてSnowden (Joseph Gordon-Levitt)と会って彼の部屋に行って撮影とインタビューを開始するところから始まる。 ドキュメンタリーが彼の衝撃の告発(当時)の中味に重きを置いていたのに対し、こっちのほうは彼がどういう過去と経緯を経て、それなりのリスクを背負ってこういうことをぶちまける決意をしたのか、しなければならなかったのか、を中心に描いている。

911を機にアメリカをなんとかしたい、と特殊工作部隊を志願して、でも訓練の途中で疲労骨折して諦めて、でもプログラミングの方で認められてNSAやCIAで働くようになって、という経歴だけを見ればなかなか、なのだが、国に向かってやっていることと自分の周りでやっていることのギャップがなかなかあって - 彼女 (Shailene Woodley)はネットで見つけて知り合うのがやっとだし、とってもいじいじねちねちしたそこらのプログラマーにしか見えなくて、多分それはそうなのだろうが、どうなのかしら。

国(と企業群)がネット上のすべてのトラフィックを国民に無断で監視している - それはあってはならないことなので告発する、ていうのと、彼女がなんか他の男と浮気しているかもしれなくて、それもあってはならないことなので自分のプログラムを使って覗いてみる、ていう挙動が彼のなかで大した温度差なく並存していて、国家のセキュリティなんておおよそはこんな意識のレベルで守られたり攻められたりしているの。 それを嘆かわしいと思うかあまりにバカっぽくて痛快ととるかは人によるのだろうが、もうそういう時代であり国のありようなのだ、といまの米国大統領みてると思うでしょ? 権力に群がるバカ、大量データに群がるバカ、そいつらをいかに遠ざけておくかだよね、と自らが遠ざかってしまったSnowden氏は涼しい顔で語る(いや、そこまでは言わない)わけだが、それもまたそういうもの、ということで。 

で、この問題の厄介なことは、明確な証拠があるわけではないので誰もがこういう態度を取らざるを得ない、ていうことなのよね。(既に大抵のものは曝されちゃっているんだから)

Joseph Gordon-Levittさんはとってもがんばっていてよいのだが、どうせ暇なんだろうから本人に演らせてもよかったのではないか、とか。

政権が変わってだいじょうぶかしら.. と思っていたら案の定。どうか無事でありますように。

雪が舞ってる……

2.07.2017

[film] An American in Paris (1951)

5日の日曜日はお洗濯とかお片付けとか新聞買いにいったりとか、基本のとこでしないとあかんこといろいろあるやろ、それに少し寝たりおとなしくしとかんとやばいやろ、ということで、動きまわるのはお休みにしたかったのだが、British Film Institute (BFI)とRough Tradeくらいはお参りしておかないとバチが、ということで14:30のこのチケット買った。 『巴里のアメリカ人』。

今のBFIでメインでやっている特集はMartin Scorsese監督のと彼がキュレーションした古今東西ので、この作品はそれとは別、Valentine's Day 向けの特集の一本で、14日の当日にこれの他にどういうのをやるかというと、ヴィスコンティの「夏の嵐」(1954)に、"The Age of Innocence" (1993)に、別のスクリーンで女の子同士向けに"Blue Is the Warmest Colour"(2013)をやって、さらに別のスクリーンで男の子同士向けに”Happy Together" - 『ブエノスアイレス』(1997)をやるの。

これがNYになるとMetrographでは"The Lady Eve" (1941)やって、2階のダイニングでお食事して、そのあとで"In The Realm of Senses" - 『愛のコリーダ』 (1976)やるんだよ。 どっちもいいよなー(.. 以下略)。

チケット買うまえにBFIもメンバーになって、いつも通っていた売店をのぞいてみると本のコーナーが減ってDVDショップみたいになってたので少し残念で、カフェでコーヒーでもと思って並んでいたら、うしろにいた男女がなんかあなたたち...  え!  … それはEverything But The GirlのTraceyとBenだった。 Traceyの持っていたチケットでふたりも同じのを見にいくことがわかってさらに嬉しくてどきどきして、わたし"Night and Day" (1983)の12inchからずうっと聴いているんです、なんてもちろん言えなくて、天気はよくないけど日曜の午後、EBTGのふたりと『巴里のアメリカ人』を見ることができたのでそれだけでロンドンに来てよかったとおもいました。 

映画は別にいいよね。 デジタルだったのが残念だったけど音も色味も申し分ない。
パリに暮らすアメリカ人の貧乏画家のJerry (Gene Kelly) がいて、お金持ちのおばさんが寄ってくるのだが小娘のLise (Leslie Caron)の虜になって、でも彼女にもいろいろあって、でも最後は。 
ひねりもなんもない他愛もないお話だし、Leslie Caronだったら”Gigi” (1958)に決まってるのだが、歌も踊りも素敵だからぜんぜんいいの。

劇中で歌われる”Our Love is Here to Stay"は、EBTGの"Love is Here Where I Live"につながるねえ、とかおもった。

終わって、そのままおうちに戻って夕暮れを迎えるのはもったいない、とRough Trade Eastのほうに行った。
いつもは時間切れになって泣きながら外にでるのだが、こんどからはいくらでもいれるんだわ、と思いっきりだらだら見てまわって、気づいたら7時の閉店になってた。

今の状態で買うのはあかん、だったのだがParekh & Singhの7inch(4枚)のジャケットが可愛すぎてほしくてたまんなくなって、かった。
あと、The FallのBrix Smith Startのメモワール(サイン本)かった。

そして、いつものようにPoppie'sで鱈たべて帰った。

[dance] Woolf Works

4日の晩、Royal Opera Houseでみました。 The Royal Balletの公演。
渡る前、ロンドンなんだから一回くらいはCovent Garden行きたいよねえ、と思ってサイトみていたらこれを見つけて、更にそこにAlessandra Ferriの名前があったりしたのでおろおろ動転して即座にクリックしてしまった。

長くなるのであんま書きませんが、90年代〜00年代、Metropolitan Opera HouseでのAmerican Ballet Theater (ABT)にはまっていた時期があって、なかでも特にAlessandra FerriとJulio Boccaによる"Giselle”(5〜6回は見たとおもう)はわたしのバレエ観に結構おおきな影響を与えたのだったが、でも日本戻ったらバレエなんて見る時間もお金もヒマもぜんぜんないまま、熱は冷めてしまっていたの。

それが理由はよくわからんがFerriさまが復活している、とばたばた調べてみると、演目自体は2015年にやったものの再演で、Ferriさまの参加もそれに続けて、のものであると。
内容はヴァージニア・ウルフの作品を題材にした三部構成で、第一部が『ダロウェイ夫人』(1925)から(35分)、第二部が、『オーランドー』(1928)から (35分)、第三部が『波』(1931)から(25分)。

冒頭、ウルフがラジオ放送に出て発した言葉 - “Words, English words, are full of echoes, memories, associations - naturally …”  - が前方に投影されて、その点滅する言葉が分解されて集約されて粉々に散って、彼女の小説の言葉がそうであるように、さまざまな意識、交錯する過去と現在と未来、他者の声、雑踏のノイズ、これらが欲望や情動として体の表面に出る出ないを統御するいろんな境界とか制約とか分岐とか、あーウルフの小説の言葉って音楽のように流れて寄って遷ろっていくし、それはそのままダンスとして組織できるような、言葉たちがダンスをしていくように動いていくものだねえ、と思ったときには舞台に没入している。

そして自分がダンスを見る、求める理由はここにあったんだわ、って。

FerriとBonelliがメインで踊る第一部 "I now, I then"がすばらしくよくて、切れ切れに投影される昔のロンドンの雑踏風景、更に田園風景、ゆったりと回転していく3つの大きな四角形の枠、その周囲で性急ではなく、でも狂おしく絡みあって舞う3組の男女。 ダンスの様式としてはモダンというよりクラシックに近くて、それがまた見事にはまっている。

第二部の"Becomings"は、性の転移、ジェンダーを扱った近未来もの(だったっけ? オーランドー)で、衣装も金ラメ、動きもプレ=モダンの舞踏っぽく、電子音響ばりばりでレーザー光線まで飛んでくる。

第三部の"Tuesday"は、波のざぶざぶざーがずっと鳴っているなか、男女と子供たちが群れて遊ぶように集まったり離れたりを繰り返していって、誰かの何かがどこかに干渉して、揺らぎを作って、それら全体が動きとしての波を作って、それだけだけど、そんなある一日、火曜日の海の様相。

これと同じような意識で汎ヨーロッパの視線をもってダンスを脱構築してみせたのがPina Bauschだった、のかもしれない。振り付けのWayne McGregorはウルフの作品の底に潜って、これだけのものを炙り出してみせた。

Ferriさんはまったく、なんの問題もなくて、かつてと同じようなしなやかさで動いていた。 その時間の超え方ときたらヴァージニア・ウルフ並み、とでもいおうか。

Max Richterの音楽がすばらしくよかったのでお土産屋さんでCD買った。ついでに有料のプログラム(£7)も買った - 挟みこまれているウルフ年表がなかなか素敵。それからアイスクリーム(4種類ある。ひとつ£3)の生姜風味も買った。

初めてのRoyal Opera Houseは、METよかこじんまりしていたけど、威厳と風格たっぷりだった。
3幕の間の2度の休憩がそれぞれ30分づつ。 みんなその時間にボトル抱えて飲んだり優雅に食事したりしていて、さすがなかんじ。休憩時間は混雑するのでアプリで事前に予約を、って。 奥のほうにいくとメンバー専用のさらにおそろしい秘密の間とかあるんだろうな。

つぎはオペラで来てみよう。

2.06.2017

[art] The Vulgar : Fashion Redefined

4日に見た美術館関係のをまとめて。 だらだら書いていくといつまでも終わらないので適当に端折りつつ。

朝ご飯を食べて(→ http://www.bernerstavern.com  なかなか。)、そこからまずV&Aに向かって、いくつか。

まずは面倒なのでメンバーシップを取る。 どうせいっぱい来るんだし、いちいち並ばなくてすむんだし。

You Say You Want a Revolution? Records and Rebels 1966 - 1970
Bowie展のときと同じエリア、同じ規模で、同じようにSennheiserのヘッドホンとコントローラーを受け取って中にはいる。
タイトルはもちろんBeatlesのあの曲なので、文化やファッションの角度から当時の「革命思想」みたいのがどういうところから出てきてどう伝搬していったのか、どこにどんな影響を与えて今に至るのか、を網羅的に - 当時のTV映像、新聞記事、書簡に書籍、レコード、ファッション(アイテムにアイコン)、風俗、家具に家電などなど - を並べる。 時代的には60年代まんなかから全てがバーストしたWoodstockまで。Punk, Hip-Hopの登場までは行かない。 この線引きが割と絶妙で重要で、つまり欧米の当時の若者たちにとって「革命」を夢見て語ることが可能であった幸せな時代をうまくパッケージ化している - パッケージ化できるくらいにその言説が流通し、流行し、(正しい正しくないは別として)機能していた、ということをそれを見るわれわれは知ることができる。

例えば、Punk以降の時代でこういったことは可能になっただろうか、というとちょっと難しい気がする。

あと、欧と米の視座の違い、というのはある気がしていて、たぶん米国で同じ展示を計画してみたとしたら、もっととっちらかった散漫なものになったのではないか、とか。
会場の至るところに並べてあるレコードジャケットもアメリカだと相当違ったのではないかしら。 The Incredible String Band とかの位置づけとか。 たとえば。

展示の最後のほうは、Bowie展とおなじように3面のばかでかいスクリーンでウッドストックのライブ映像と当時の証言をがんがん流してて、みんな床に寝転がってみていた。
ジミヘンのアメリカ国歌のとか、フルで初めて見た気がした。 いまさら。


Undressed: A Brief History of Underwear
V&Aのファッション部門でやっていた有料展示。
下着はだいじよね、と軽くてきとーに入ったら9割くらい女性でびっちりで間に割り込んで見れる空気ではなかったのだが、おもしろかった。
昔は葉っぱ程度だったやつが、隠すとか包むとか覆うとか広げる縮めるとか矯正するとか見せるとか誘うとか装飾するとか、とにかく時代によってものすごくいろんな機能を期待されて男性のも女性のもがんばってきたんだねえ、というのを一覧できるのだった。

これまでのファッション系の展示とはちがって、これってどんなふうなのかしら、とかいちばん試したい欲求が高まりそうなやつだったかも。
あと、欧米じゃないアジアとか日本のってどうだったのかねえ、とか。


The Vulgar : Fashion Redefined
V&Aから滞在中のとこにいったん戻って(歩ける距離)、それから夕方だったけどbarbicanに移動して、見ました。
ここでも最初にメンバーシップを取る。 アートだけじゃなくて映画もライブも割引になるし、会社の帰りに寄れるとこだし。

この展示のタイトルだけみて「悪趣味」特集かあ、とか思って寄っていくと結構めんくらうかもしれない。

会場の説明文言で"Vulgar"の定義とは... "Common" 云々とかあって、中世くらいにまで遡っているのでなんか面倒ぽい。 一筋縄ではいかないかんじで、とりあえず、と展示ブツを追っていくと、べつにふつうにかっこいいものもあったり、悪趣味... かもしれないけどぜんぜんいけるしかっこいいよね、とかそんなのだらけで - ブランドでいうと、それこそLVからVivienne WestwoodからChristian LacroixからComme des GarçonsからMartin Margielaからたいていのものはあって -  Vulgarていう単語の解釈(後付け)によって展示される内容もいろいろ動いていって、つまりそれが”Redefine"、ていうことなのだろうが、つまるとこ、「わーかっこいいー」とか言ってどーっとそっちのほうに行ってみんなで寄ってたかって群れて真似する、ファッションの本質でもある気もしてきて、じゃあVulgarじゃないのって、例えばどういうのよ、とか更に横滑りして、ひとつ前にみた"undressed"の即物的な力強さとは180度異なる観念の空中戦みたいなところがスリリングで、つまりは「かっこ悪いことはなんてかっこいいんだろう」みたいなところに集約されてしまう、とでもいおうか。 結局そういうのを判定するのは誰なのか? ファッションメディアなのか大衆メディアなのかあるいは「消費者」なのか、とか。

久々に風通しがよくて変てこでおもしろい展示だった。 企画したひとえらかったかも。


さっきBBCにDavid Hockney - もうじきTateで大回顧展がある - が出ていて、あまりにおじいさんになっていたのでショックだった。でももう80なんだよねえ。

[film] T2 Trainspotting (2017)

3日の金曜日の晩、奇跡的にぽっかり空いたのでLeicester Squareに行って見ました。
眠くてどうしようもなかったが、この映画、言葉は半分くらいなに言ってるかわかんないだろうし、どかどかぎゃあぎゃあ騒いでいるだけだろうし、英国に来ていっぱつ目に見る映画としてはちょうどよいのではなかろうか、と。

1作目の"Trainspotting" (1996)は、映画館では見ていなくてどこかに出張に行っていたときにたまたまTVでやっていたのを見たのだったとおもう。
当時のぶりぶりBoldで野蛮な - 野蛮であることをかっこいいふうに言うような - 英国ははっきりと好きになれなかったし、Iggy Popの"Lust for Life"があんなふうに使われてそれをどいつもこいつも引用しまくるのもいやだったし、見たいと思う要素がひとつとしてなかった。

映画館はEmpireていうカジノの横にあるとこの、上映していたスクリーンは"IMPACT"ていういちばんでっかくてやかましいやつ - 前回確かここで"Pride" (2014) を見た - で、開始は18:20、シアターに着いたのが18:40くらい、Ben & Jerry'sのアイスクリーム(なんで食べたいとおもったのか謎)を買って中に入ってもまだ予告の半分くらい、ぜんぜん余裕なのでさすがー、でしたわ。 客の入りはぜんぜんだったので予約席だったけど、空いてるとこに適当に座る。

映画は見なくても誰もが想像つくし、期待しているであろうような、バカは死ななきゃ直らない、死ななくても直らない系のやつで、改めて惚れ惚れ感心した。
(ごろつき共のリユニオンだからといって”The World's End” (2013)みたいになるわけもないし)
タイトルの"T2"も、あまりの進歩のなさに投げやりでつけたとしか思えない。
(それか”Terminator”に引っかけたか)

センターの4人がとにかくすごい形相で怒ったり怒鳴ったり叫んだり白目むいたり逃げたり追いかけられたり、前のから20年経ってもそんなことばかりやってて、合間合間にこれは今に始まったことじゃないのよ、みたいに前作のとか子供の頃の映像とかもこまこま挿入されて、全体としては全速力のすごい速度でこいつらが1ミリも変わっていないことを示しつつそのまま壁とか床にがーんてぶつかってバウンドして果てる、みたいのを延々やっていて、それでもぜんぜん飽きがこないのは過去も含めた映像の見せ方とか音楽のぶちこみ方がちゃんとしているからだとおもう。 痛いのをものすごく痛そうに見せる - 今度のは老いてしょぼくなることの痛さとか辛さも加わる - こと、クソ汚れたきったないものをそれなりの「美しさ」でもって見せてしまうことに関して、 Danny Boyleは見事で、というよりイギリス人は昔から秀でているような気がしていて、今度ものその線上の、つまりある意味とってもまっとうなイギリス映画、と言ってよいのではないだろうか。

あと音楽、いろんなところでそこはかとなくBowieとかWham!とかQueenとかの追悼を入れてて、よかった。
オリジナルの"Lust for Life"は、レコード針を落として最初の一瞬のみだったり。
これらの懐メロと最近のと思われる(ぜんぜんわかんね)ぶっといエレクトロが入り乱れていて、そのギャップと落差に呆れる、ていうのもあるかも。

言葉 - 彼らの英語 - はやっぱし、笑っちゃうくらいわかんない。 みんながげらげら笑うところで笑うしかない。 でもあれで通じるんだからねえ。 英語っておくぶかいねえ。

[log] February 02 2017

1日、水曜日の15時過ぎ、予定通りにヒースローに着いた。
雨が降っていなかったのはよかったもののそれだけ、としか言いようのない半端に暗い陽気で、車でとりあえず3ヶ月間滞在するアパートメントホテルみたいなところに向かって、荷物をひーこらいいながら6階までひっぱりあげて、3ヶ月分の荷物を解いて広げて外に出てみるともう日が落ちてて、当面のシリアルとかミルクとか石鹸とかキッチンペーパーとか買いにでて、駅までの道を確認して、5年前に作ったOyster(PASMOみたいなやつね)がまだ使えることを確認して、やっぱしなんか食べておかないと、と近所にあったBritish Foodと書いてあるパブみたいなとこに入ってソーセージたべた。

このへん、つい比べてしまうのはやはりNYで、あそこで長期滞在のときも着いたときにやる動きはおなじようなものなのだが、いろいろ違うもんだねえ、と改めて思った。 町と町を比べるなんてできないし、意味ないものだとわかっているのだが、あそこで3ヶ月過ごすための必需品を備えるとなればそこらのDuane Readeでも入ればあっという間なのに、こっちのファーマシーのなんかしょぼいことときたら、Seventh Generationのいろんなのが恋しいよう。 といったところでしょうがないので、たんたんと暮らすしかない。世界のどこでもこんなもんよ。
おなじなのはあれ、歩行者が信号気にしないとことか。

2日からはお仕事で、久々の通勤地下鉄で穴のなかをするする抜けて乗り換えて、会社に着けば連れまわされて紹介されて紹介していろんな説明をきいていろんなのにサインして、お仕事っていうのはそういうもんよね、の外側をよくわかんないなりに一通りやってみて、午後は銀行に口座つくりにいって、ものすごいがっちりした迫力まんてんの担当おねえさんにあらあらあなたの誕生日はあたしのママと生年も含めてぜんぶおなじだわと言われて衝撃で口をきけなくなって(「でもだいじょうぶよあんた若くみえるわよ」)、そのあとで郵便局に滞在許可のカードを取りにいって、20分くらいかけて歩いて戻ったら別の会社に連れていかれてそのまま飲み会で、とにかく寝たい眠い早く終わって、しかないのだった。

ふつか目もだいたい同じでこんなふうに3ヶ月くらいあっというまに過ぎてしまうにきまってる。

来るときに機内で見た映画。
出張だとこれは帰りの便で、とか割り振ることができるのだが、今回それはできないのでがんばって3本みた。
ほーんとにさあ、日本の公開タイミングが遅すぎるせいで見れなくなりそうなのがいっぱいだわ。
「ペレグリン」なんて、こっちではもうDVDの宣伝やってるのに。

A Hologram for the King (2016)

「王様のためのホログラム」
冒頭でいきなりTalking Headsの”Once In A Lifetime”をTom Hanksがすべるように滑らかに歌ってて、あまりにはまりすぎ。彼の家庭はぶっこわれてて、仕事 - 3Dの会議システムの営業 - では上から突きあげられて追いたてられるように中東に出張に来て、王様の前でプレゼンしようとするのだが全てがどん詰まりでうまく行かなくて、王様がどこにいるのかすらわからないありさまで、誰かを捕まえようとしても見つからなくて、カフカのようにそれが毎日反復されて、そのうち、背中にできた瘤を取ってもらった女医さんと仲良くなって。

うまくいかないものはどこまでもうまくいかない、しかも/さらにどこにも行きようがない時、どうしたらよいのかしら、ていう問いに答える、といよりも例えばこんなふうにしたらこんなふうになったりして、というのを軽く差しだしてみせる。 Tom Hanksはこういうじたばたをやらせると本当にすごいねえ。

かんじとしては”The Terminal” (2004)に近いけど、あれよか好きかも。

原作はDave Eggersなんだねえ。 なるほどー。

Miss Peregrine's Home for Peculiar Children (2016)

『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』
フロリダの内気で変わった男の子Jake (Asa Butterfield)が奇妙な死に方をした祖父の遺言に沿って島に行ったら森の奥の崩れたお屋敷で変な暮らしをしている変な人たちと会うの。
単なるAdams Familyみたいなファンタジーかと思ったらぜんぜん違って、流れていく時間から自分たちを守ろうとするMiss Peregrine (Eva Green)と彼らを狙う悪い化け物たちがいるのと、1943年のナチスの脅威と、JakeとEmma (Ella Purnell )の恋と、彼の成長と、いろんなのが入り混じったてんこ盛りの作品だった。

流れていく時間に抗う恋、ていうのがひとつ、それを壊して別の永遠を手に入れようとする悪 = 全体主義(ナチズム)ていうのと、最後はそれでも恋は、ていうところに落ちるの。
そしてあたりまえだけど、恋は時間だけでなく正常とか異常とか、そういうのも超える。
悪い連中が永遠を手にするために目玉を抜き取る、ていうのとか、いろいろ象徴的なの。

Eva Green、いつもながらかっこいいねえ。
そして”Hugo”のAsa Butterfieldくんも。

最後のいろんな旅をするとこ、昔の大島弓子の漫画にああいうのあったよね。

Remember (2015)

邦題「手紙は憶えている」 - わけわかんないけど。
Zev (Christopher Plummer)が目覚めると老人ホームで、妻は亡くなったばかりで、同じとこに住むMax (Martin Landau) から俺たちにはやらなければならないことがある、と手紙を渡されそこに書いてある通りに行動するように言われる。
ふたりはアウシュヴィッツの生き残りで、70年前に家族を殺したナチスの生き残り - アメリカに渡って名前を変え、調べたところその名前の老人は4名いるはず - を探し出して殺せ、復習しろ、と。

そうだその使命があった、とZevは手紙を手にひとり旅に出るのだが、寝て起きると記憶がリセットされて妻がいないことに狼狽えてしまうので別の時間との戦いで、家族は当然要介護老人の失踪として追いかけてくるし、大変なの。

テーマ的には「ペレグリン」と繋がっていた。時間のループの外で(或いは中で)生きようとする者のあがきとそこに関わってくる戦争の記憶と。

衝撃の結末、ということなのだが、途中でなんとなくひょっとしたら.. になってきて、あたった。

“50 First Dates” (2004)の老人/極北版、かも。

ああ週末が行ってしまうようー。

2.01.2017

[log] February 01 2017

そんなことより昨晩のPJ Harveyである。 出発の前日にライブがあるのを先週チケットを取りにいって知って(← バカ)愕然としたわけだが、問答無用だった。 これから彼女の君臨する国で、あの音が轟いて鳴る国でしばらく暮らすことになるんだわ。

とにかくこうして、ここ一週間は倒れるわけにいかないのでくしゃみをすれば葛根湯、悪寒がすれば葛根湯、の粉まみれ生活で乗りきって、なんとか体ひとつだけは羽田のラウンジに持ってくることができたわけだが、ぜったい取り返しのつかないなにかを忘れている、ぜったい。という疑念が渦まいているのと、いつもの出張のように帰国してからのことを気にしなくていい清々したかんじが入り交じって、でもぜんたいとしては、とにかくそこらの棺桶に入って穏やかに落ちたい。

過去の海外転勤で同様のじたばたは二回やっているはずなのだが、その記憶はごっそり抜けていてどこを掘っても出てこないので、よっぽど思い出したくないなんかだったのだろう、と今回のお片付けをしながら改めておもった。 本もレコードも映画のチラシですら、それがその時のあの場所にいた自分の生に関わったなにかであったものだからそう簡単に置いていくことなんてできないの。 よくインテリア系の雑誌に出ているできるだけモノを持たずに暮らしたいのです、みたいな人っているのかよほんとに、てそっちのほうに噛みついてみたり。

で、結局ある容量とかサイズ - 段ボール4箱分とか - なんとなく - で切ってしまうしかなくて、そこで増やしたり減らしたり寄せたり、そういうとこにいちばん時間を取られて、あとは万が一のときの保険のために数を数えたり、何を持っていくのかは割と簡単に決まるけど、どう持っていくのかが面倒なのね。 これとあとは慈悲もくそもなく流れていって止まらない時間の時間ぎれで、蓋は閉じるし扉は閉まるし。 どこかに天国の門はあるのか。

本でいうと大型の画集とか写真集のずっと手元に置いているやつと、単行本だとずっとだらだら読めるように分厚いやつ - 映画のだとルビッチのとキューカーのと溝口のとメカスのとワイズマンのと、絵画のだとサイモン・シャーマとアガンベンと、水先案内本としてレイモンド・ウイリアムズとテリー・イーグルトンと、文庫本は英国関係 - シェイクスピアごっそりと小説ばかり(「カンタベリー物語」はどこいった?)、漫画は散々悩んで諦めて、こないだ買ったばかりで読んでいない谷崎万華鏡と夢十夜だけ入れた。 CDはほんと少なくて、最近リマスターされたスタンダードな名盤みたいのとベスト盤と。 12inchは7箱、7inchは2.5箱、そのうちどーしてもやっぱりあれが、が出てきたら戻ってきて掘り返せばいいか、と。

気分を盛りあげるために荷物つめの間にかけていたのはこんなの;

- Kirsty MacColl  “New England”
- XTC “English Settlement”  の最初のほう
- David Bowie “Low”のA面、その他いろいろ
- Elvis Costello “London's Brilliant Parade”
- The Smiths  “Panic” その他いろいろ
- The Clash  “(White Man) In Hammersmith Palais”
- The Jam  “In the City”
- The Kinks “Lola Versus Powerman and the Moneygoround, Part One” その他いろいろ
- The Fall  -  なんでも。

“London Calling”とか”Anarchy in the UK”はやっぱりちょっとはずかしすぎる。

ところで、そういえば、”The Fragile: Deviations 1” は結局間に合わなかった。

べつにひとところにずうっといたって揺れるし漂うし動くし鼓笛隊は進んで旅は続くんだねえ、と昨晩のライブを見てて思って、でもちょっとした場所の違い、席の横移動はあって、今度のもそういうのだから楽しんできましょう、ておもった。 し、ここ数週間のごたごたを見てて「国」って(どこであろうが)もう相当どうしようもないとこまで来ているんだなあ、ておもった。し。

ではまた。