1日、土曜日の晩、代官山でみました。 椅子が入ってた。
何を見たかったのかというとブリクサに決まっていて、横に並ぶブラック・フランシスみたいな太っちょではないの。
どれくらいブリかというと、当時半分人間だった連中の1割くらいは行ったと思われる89年(?..)の浅草以来だったのではないか。
『東京ドイツ文化センターが、ダダ100周年を記念して実施する「DADAHACKEN」プロジェクトの一環として実施』したもんらしく、このハイパーでサイバーな今のじだいに何がダダなんじゃろ? とか思っていると、同センターのサイトには
『メインストリームに逆らう闘争的なパンクの姿勢には、アンチ・アートとしてのダダ的理念が違った形で現れています。』
とか書いてある。なるほどなー。 でも「メインストリーム」て。
弦楽カルテットともうひとりチェロと、バスクラリネット、Teho氏はギターとチャイム4つとそのた電子音とかループとかなんでも。
音のベースはバスクラリネットとチェロのえんえん止まない不穏な音の壁。壁の向こうでもその彼方でもずっと耳鳴りのように鳴り続けている。
そしてブリクサは、かつて若いニワトリみたいだったのに、デニス・ホッパーみたいになっていて驚いた。
イタリア語で、ドイツ語で、英語で、いろんな言葉で歌う。ラジオのノイズの向こうからところどころ判別可能な文字列と声が途切れ途切れに聞こえてくるような、あるいは例えば、唸りとか囁きとかぼそぼそとか、そういう声帯の震えが感じられればそれでよいかんじ。 ハーモニカを取り出して鳴らす場面もあったが、その音も声帯の延伸として同じトーンでふるふると揺れていた。
(あれで”Blue Velvet”の酸素吸入器とか、やってくれたらうけたのに ... )
二人の新譜のテーマが”黒”ということで、明るく跳ねるのもぎざぎざ尖がったのもなく、遮光カーテンが下がっていったりどんよりと波間に沈んでいったり壁の反射音で揺らいだり、みたいな視覚を失っていくような、気配を手探りしていくような音が満ちていく。
そういう中で、声の孤独さが際立つ"Still There?" - “Still Smiling" とか、メイ・ウエストがドアをばんばん叩き続ける "Come up and see me"とかがとてもよかった。
あらゆる金属を打ち鳴らして地面を掘って揺らして、とにかく目をさませ、とか、生きてんのか死んでんのか? とか ここ掘れわんわん とか、執拗に存在の根っこを鷲掴んで揺らし続けたノイバウテンから、あまり変わっていないのかも、とも思った。道具が即物的なやつからより霊的なあれになっただけ、みたいな。 肉に触れる(それも執拗に)、みたいな核心はそのままに。
音全体のトーンはダークで重いのに、でも全く陰々滅々としないところもすごいなー、と。後半になるにつれてもっと聴きたいよう、になっていった。 おいしいけど重めのイタリアンでだんだんお腹いっぱいになって苦しいのにもっと食べたくてたまらなくなるのに似ていたかも。 ちがうか。
果たしてこれをダダの文脈に位置づけてしまってよいのか、ちょっと気にはなったかも。
あれもダダ、これもダダ。
Caroline Crawleyさん(Shelleyan Orphan)のご冥福をお祈りします。 すばらしい歌声をありがとうございました。
10.05.2016
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