9月4日、日曜日の昼間、TOP MUSEUMというとてもとても恥ずかしい名前になってしまった(でも売店以外になにが新しくなったんだかぜんぜんわからない)東京都写真美術館でみました。
3階のスペースをぜんぶ使った『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』ていうシリーズ。てっきり写真の展示だと思っていたのでややめんくらう。
ぼろいトタン板などで仕切られた部屋がいっぱいあって、各部屋には紙に手書きされたその部屋の所有者と思われるいろんなひと - 理想主義者、比較宗教学者、養蜂家、古生物研究者、政治家、軍国主義者、安楽死協会会長(渋谷慶一郎)、美術史学者、コンピューター修理会社社長(宮島達男)、国際連合事務総長、隕石蒐集家、ジャーナリスト、耽美主義者、コンテンポラリー・アーティスト(ロバートキャンベル)、解脱者(千宗屋)、ラブドール・アンジェ(芋束)、善人独裁者、漁師、バービーちゃん(朝吹真理子)、遺伝子矯正医(橋本麻里) ー などなど - ぜんぶで33だって - による 『今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない』ではじまるステートメントというか遺言というか、最後っ屁みたいのが貼ってあって、彼らが関わったり使ったりしていたであろうオブジェとか骨董品とか道具とかが置いてあって、たまに動いたり音をたてたりもする。
もう世界は終わっているのだからこれらはオブジェでも骨董品でもなんでもない、ただの無用のゴミでしかない - 終わっていなかったにしてもなんとか主義者とかなんとか研究者のものなんて大多数のひとにとってはどっちみちどうでもいいゴミでしかない - のだから持ち帰ったり触ったり壊したり燃やしたりしてもいいじゃん、とか思わないでもないのだが、いちおう、美術館の展示、ということで監視の目はきびしい。 さーすがTOP。
7月にNYで見たNew Museumの展示 - "The Keeper"は、あれはニンゲンの営みがそれなりに永続することを前提に、残したいものを残さねば、って残そうとする一握りのひとたちの展示だった。
これに対し、ここの世界はもうすっからかんに終わっていて、それを使ったり愛でたりするニンゲンもいないわけだから、ほんとうに単なる、繰り返しになるがただの「ゴミ」でしかない。 じゃあいらねえだろ、ていうのと、「昨日かもしれない」というのだったらおとといだって、一週間前だってよいはずで、つまり、もうとっくの昔に終わっているんじゃないのか。 さらに踏みこんで、そもそもいらねえんじゃねえかこんなの。ていうのと、ヒトはほんとうにこれらのゴミと向き合ってあれこれやってきたんだねえ、ていうか最後に残ったのはゴミばかりなんだから ゴミ > 人間てことよね ... のようなことがぽつぽつと見えてくる。
でもゴミの展示にしては、とてもよい具合に枯れてて萎びてて美しいの。 同様のテーマだったらJim ShawとかMike Kellyとかのほうがゴミ感も臭気も爆裂満載で、やっぱり世界は終わり/終わってるんだよねえ、て思い知らされるのだが、こっちのは捨てがたい - だから骨董として残ってたのか。
で、2階のほうに降りていって、ふたつの2Dの展示 - 『廃墟劇場』と『仏の海』を見てみれば闇と光のコントラストがしみじみと爛れて美しく、彼岸の遥か彼方から「救い」みたいなテーマが蜘蛛の糸のように下がってくるのが見える気もして、ああそういうことなんだねえ、ておもった。
ここにきて時間のアートとしての写真の意義、がくっきりと表れて、それって減衰を示すものなのか光明を示すものなのかどっちなのかしら、というと、3階の展示の始まりと終わりに貼ってあるフラットな海 - 水平線が浮かびあがる。
全体の印象としては、高級なゴミで構成された壮大な曼荼羅。 でもニンゲンいらない、みたいな。
たぶんひとによって受けとめかたはいろいろで、展覧会のサイトにあるように、『人類と文明が遺物となってしまわないために、その行方について、杉本博司の最新作と共に再考する』 ひともいるんだろうなー。 えらいなー(棒読み)。
もういっこやっていた報道写真の展示のほうは見ませんでした。
9.13.2016
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