9.19.2016

[film] High-Rise (2015)

16日の金曜日の晩、渋谷でみました。 最終日だった。

先週みた『アスファルト』がフランスの低所得者層向け集合住宅を舞台にした出会いの物語だったとすれば、これはイギリスの富裕層向け高層住宅を舞台にしたサバイバル階級闘争と瓦解を描いた、というか、そんなの比べてもしょうがないんだけどさ。

冒頭、死体が転がる廃墟と化したマンションのなかでみんな犬のもも肉とか焼いてサバイバル生活していて、さてなにが起こったのでしょうか、と。
医師のRobert Laing (Tom Hiddleston)は、高層マンションの25階に引っ越してきて、鼻歌うたいながらクリーンなモダーン・ライフを楽しもうとしていて、建物のなかにはスーパーマーケットもジムもプールもスパもなんでもあるし、住民同士の交流もハイソで洗練されているみたいだし。

最初に声をかけてきたのは26階に住むCharlotte (Sienna Miller)で、そのとき彼女に絡んでいたのがTV局に勤務するWilder (Luke Evans)で、彼の妻のHelen (Elisabeth Moss)は臨月なのになかなか子供が出てこなくて、やがて最上階 - 庭園があって羊(ヤギ?)とか馬もいる - に住むタワー全体を統治する神である建築家のRoyal (Jeremy Irons)とも知り合ううちに、上層階住人と下層階住人との確執も含めていろんな住人の見栄とか虚栄とか見下しとか妬みとか不満とかがどろどろ渦を巻いていることがわかってきて、繰り返されるいろんなパーティを通してそれらが雪だるま式というかドミノ倒し式というか、メルトダウンとパンデミックをいっぺんに起こして、上から下に重力で落下するかのように、一旦暴発したらそこから不可避的に着火して連鎖して手をつけられなくなっていくの。

で、逃げようにもみんなここに住んでいるもんだから逃げようがないし、実際誰も逃げないし警察なんか呼ばない。 だってこれはふつうに戦争で闘争で、闘って生き残りさえすれば生きられるんだもの、あたりまえだけど。

ねえねえ、みんな社会の上のほうに君臨するエリート、のはずだったんじゃ?  ていうつっこみが。

原作は75年発表のJ.G.バラードのSFで、まだテクノロジーや進歩や高度化、といったことに夢を見ることが許されていた時代、当時それらに対するカウンターとして機能したかもしれない近未来の寓話が、この21世紀、富裕層はじっさい高いところに住んで見下ろしてて明確に可視化された格差が360°問題視されている今、どんなふうに受け止められるのか。 建築家がLaingに説明するようにこの建物は「変化の坩堝」 - “a crucible for change” となるべくデザインされていて、その点では確かにそれは起こった、と威張って言えるのだろうが、坩堝がありえない、想定外の化学変化まで引き起こして、収拾不能になっちゃって。

引き起こされてしまった混乱、暴力と憎悪とその連鎖、映画でそれは描かれているのだが、手がつけられないカオスを描くのは割と簡単で、他方でもういっこ大きなテーマとしてある(はずの) - 快楽とはなにか? てとこまで踏みこめていない気がして、それは難しいのだろうなー。

音楽は痛快としか言いようがなくて、パーティでCANの”Outside My Door”が流れていたりするし、”Spoon”だって流れるし、”PortisheadがあのトーンでABBAの”SOS”歌ったりするし、ラストにはThe Fallの”Industrial Estate”になだれこむ。 これをやりたかったのだとしたら、まあいいか、とか。

でも、かちかちの英国映画のかんじでしたわ。 Jeremy ThomasプロデュースでJeremy Ironsが出演する、それだけでまあいいか、とか。 (こればっか)

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