9.15.2016

[film] Je vous souhaite d'être follement aimée (2015)

10日、土曜日の午後、神保町でみました。
『めぐりあう日』。 英語題は"Looking for Her"。

お昼に横浜でメアリー・カサット展を見て、女性 - 主に母親のまあるい背中とか身体とか眼差しの像、イメージが残っていて、そういう状態で見たらとても沁みるものがあった。

理学療法士のエリザ(Céline Sallette)は生みの親を探すためにひとり息子、8歳のノエを連れて港町のダンケルクに滞在していて、夫とは離婚を考えているし、なかなか複雑らしい。 ノエは新しい学校に馴染めなくて、そこで清掃とか給食の配膳をしているアネット(Anne Benoît)がエリザの施術を受けにきて、ふたりが施術を通して少しずつ仲良くなっていく話と、エリザの家庭をめぐるいくつかの決断の話と、自分を産んですぐ養子に出してしまった母親(とその理由)を探す話が、ゆっくりと絡みあいながら、ひとつの物語になっていくさまが、ぜんぜんドラマチックに描かれないところも含めて、なかなかよかった。

実母が見つかる可能性がほとんどないことは冒頭で役所のひとから告げられていて、でもなぜそんなに懸命に探し続けているのか、育ての母にも夫にも息子にもよく見えない、彼女だけがその理由を抱えた惑いと葛藤のなかにいて、見つかりそうにないことは自分がようくわかっているし、見つかったからなにかがどうにかなるわけでもないこともわかっている。

そういうなかで、彼女だけの悲しみ、彼女だけの痛み、共有不可能なそれらが静かに淡々と描かれていって、最後にずっとこびりついていたかさぶたが剥がれるようにいろいろ明らかになって、よかったねえ、なのだが、でもこれはよかったねえ、で終わる話ではなくて、子供を棄ててはいけませんとか母と娘の普遍的なありようを示す、ような話でもなくて、縁とはまこと不思議なものじゃのう、みたいなお話。 だろうか。

撮影のCaroline Champetierのカメラはエリザとアネット、ふたりの細やかな表情の陰影を細かに正確に捕えようとしていて、それとアネットの丸く豊かな身体を滑らかに撫で摩るエリザの手の動きが重なると、ふたりそれぞれの行く末に明るい未来なんてぜんぜん見えないのだが、それだけでなんかよいの。 すばらしい女性映画。

最後に流れるブルトンの『狂気の愛』。
『バナナブレッドのプディング』のエンディングとおなじく。


昨年の11月に”Suffragette”を見て、感想に「頼むからくだんない邦題なしで」と書いた。
公開が軽く一年以上遅れて、それであのクズなタイトルかよ。 ふざけんな、だわ。
この映画そのものが悲惨な怒りの、捨て身の渾身の糞玉だと思うのに、映画を見ていないとしか思えない。
なにが「花束」だよ。
これに限らず邦題全般があったまに来るのばっかりなのでずっと文句や嫌味を言い続けてきたけど、改めて、ちゃんと映画のテーマや本質を見ることができない、その資格のない連中が暇つぶしで映画見るような連中に向けて売ることだけを考えてタイトルをつけているようなやりかたに改めて文句を言いたい。
あんたら、どこまでグロテスクで気持ち悪いのか。
これじゃあ洋画のマーケットなんて衰退するよね、で、「彼ら」は衰退しているからこそ懸命なんです、とか言うのだろうが、そんなこと以前にこのやり方/売り方は真剣に映画を作った人たちに対して失礼だし、この映画に描かれた戦いで亡くなった人たちにも失礼だし、そしてそれはつまるところ女性に対する侮蔑、他者に対する鈍感さ、に他ならないの。
こんなことやってるから、女性に参政権が与えられた国リストに日本は入れてもらえないんだわ。

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