9.11.2016

[film] VILLAGE ON THE VILLAGE (2016)

8月12日、金曜日の晩、新宿で見ました。

変な映画だった。もう1カ月前なのでストーリーとか登場人物とか細かいところは全然憶えていなくて、でも描かれていた世界が運んできた空気とか風、温度や湿度はその感触だけいつまでも漂って消えない夢のように残っている。  それが残っている場所っていったい頭のどこにあるの?  そもそもそれってなんなの? 夢はどこにどういう形で残るのか、残されるのか、残すことを許すのはどこのどいつのなんなのか、そういうことをずっと考えたり考えを転がしたりしていた。

日本の、どこかの、どこにでもあるような郊外、少しの住宅地、ひなびたお店、隙間だらけの森があって川があって、これから開発が進むとも思えないまま打ち棄てられて日本てこんなにすごいぞ系のTVにはぜったい出てこない、誰も好き好んでそこに住んでいるわけではないような、そんな場所に車からごろんと放りだされたらしいバンドマン(田中淳一郎)が転がって、ここがどこなのかこれからどうするのかぜんぜん気にしていなそうな(だから棄てられた)彼は拾ってくれたおっさん(鈴木卓爾)のうちの一部屋に住み始めて、酒をのんだりお喋りしたり歌をうたったり、無為な日々を過ごすの。 それだけなの。

おっさんは定期的にどこかに出かけていったりピザを持ち帰ったりなんかやっているようだし、酒場に集まってくる人たちもそれぞれに夢を語ったりなにかをしようとしているようなのだが、本当のところは何も、まったく明らかにされない。 みんな幽霊なのかもしれないし妖怪なのかもしれないし宇宙人なのかもしれない。 それがどうした? だからどうする? としか言いようがない。

いろんな人が指摘しているようにこの世界は『ジョギング渡り鳥』のあの土地、あの人々の風体とどこかで繋がっている(『ジョギング…』の世界で人々はなんかやらなきゃ、みたいな動きを示すのに対して、こっちの人々は見事なまでになーんもしないのだが)。 岡崎京子がここから先はバイバイ、と言っていた気がするリバーの端のその先のランドスケープはおそらくこういうもので、生きているんだか死んでいるんだかわからない得体のしれない何かが極めて中途半端にこちらの可視可聴領域を超えたところで蠢いていて、まったくお手上げで放っておくしかなくて、どうすることもできない。
なので『ジョギング…』では人々はジョギングするしかないのだし、この映画では人々は昼間から飲んだくれてだらだらするしかない。 他になにができるというのか。

自由とか支配とか、あるいは平和とか。  語りたければ語ってみろ。 ふん。

ヴィレッジの上のヴィレッジ。 現実のヴィレッジの上に仮構/仮想のように積みあげられたヴィレッジ - それって屏風や襖の上に描かれた桃源郷みたいな、モダンアートのように抽象化/可視化された世界(のありよう)で、それが「映画」になっているということ、そこに音楽 - 人の声と歌が被さることでなにかが起こる__ のだろうか。 むこう側だけではなくこちら側にも。

『ジョギング渡り鳥』のときにも思ったけど、こういう映画に出てくる男たちはどれもどうしようもないろくでなしのクズばっかしなのに、女たちはどれもみんな凛としていてかっこいいのか。
そういうもんだ、ってさ。


15年前。 あらためて。  祈 

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