12.01.2015

[art] SHUNGA 春画展

13日のごご、仕事とかぜんぶ嫌になったので半休して行った。

そんなにまでして見たいか、というとそんなでもなくて、ただとっても混雑しているらしいというのを聞いて、土日は更にひどくなるにちがいない、しかも場所はああいう美術館というよりでっかい家屋みたいなとこだし、そういう場所に、陳列物で鼻息が荒くなってしまうかもしれないお年寄り連中と一緒にパックされて並んでみるのはあんまし気持ちよくないよね、ということで平日の午後にしてみたのだが、結果的にはじゅうぶんに混雑していてあーあ、なのだった。

それにしても、整列する必要はありません、て連呼しているのになんで列を作って並びたがるかね、あの人たちは。

春画と呼ばれるジャンルについても、その時代背景についても描かれる対象についても行為についてもすごく詳しいわけではないのだが、これを見に来るひとは性の不思議(性を求めてしまう不思議)とか、当時の性風俗とか、形象・形態面のあれこれとか、あるいはそれら全部とかを見たくて、やってくるのだろうな。 あるいは、なんでこんなのが大英博物館で? とか。

個人的には、日本画で動植物のフォルムを見たときの驚き - これがこんなふうになるのか-、ていう感嘆に変わる具象・抽象の変換のありようが新鮮で、ふーん、とか、ふむふむ、になる、それと同質の変換が起こって思わず「すごーい」とか言ってしまったりするのではないかしら、と。

日本画で描かれた動植物を認識するとき、その形や色や質感がシンプルな太線曲線でアイコンのようにくるくるっと描画されていると「かわいー」と思わず声に出てしまうが、春画の場合の認識プロセスも同様に「やらしー」という感嘆や共感のようなかたちで伝播していく気がして。 
「かわいー」と「やらしー」の国にっぽん。 ちっともCoolだとは思わない。

それにしても。 それにしても、だよねえ。
♂と♀の対、腕が2本づつ、脚も2本づつ(タコ、っていうのもたまにあったりするが)、頭(顔)はひとつづつ、ほぼ真ん中に棒みたいなのと穴みたいなの、その接合とか結節とか、その上下左右、着衣に脱衣、可変項目はこんなもんだろうに、その組み合わせのバリエーションたるや無限大のようで、世紀を跨いでメディアを超えて、えんえん拡がって伝播し続けている。 進化? …わからない。 やたら壮大なかんじがしないでもないが、つまるところは生殖行為にくっついてくる欲望が表に出てきた程度のもん、便所の壁の落書き、とまでは言わないけど。

ていうのもあるし、この描線は「わかっているくせに」ていうのと「いやいやそんなことまでは」の間、リアルと妄想の境界や隙間を実にいやらしく突っついたりほじくりかえしたりする。 そういう止まらない線のユニバーサルなかんじはあるかも。 変てこで変態であることはじゅうぶん踏まえた上で。

あと、日本画、の特性もあるのだろうか、画面がぺったんこで乾いている、というとこは大きいかも。 乾いた画面の上で踊る線、としてあることで、笑えるところも含めて軽く、さくさくぱらぱら見れる、ていうのはあるか。 そんな、レンブラントやカラヴァッジオを見るみたいに見つめても、なんも出てこないよ。  視線はある特異点を求めて彷徨うのかもしれんが、そこに救いがあるわけでも啓示があるわけでもない、線として見ればただの錯綜したぐじゃぐじゃでしかない。その横や端でひらひらと踊っている文字群も含めてね。

というようなことを思いながら見ていて、なんかつかれた。
嫌いじゃないんだけど。ぜんぜん。

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