12.31.2015

[log] 年のおわりに

いよいよ12月も31日まで来てしまったわけだが、まだ感想を書いていない映画が18本くらいあるのでどうしようか、になっていて、ところでそんなことよりもあれはどうした、ほれあの、お片づけってやつは? となって穴を掘って逃げたくなって、でも穴なんてどこに掘るのか、どこまで掘れるのか、それに掘ったからって逃げらんないだろ、と。

昨年の終りほうのInstagramでお片づけ途中の様子を得意気にのっけて、”Intermediate”とかやっているのだが、じつはあのあと、”Intermediate”状態のままで凍結されてさっさか年を越してて、あの状態のうえに今年いろんなとこで買って運んできたやつらがそのままピュアに積みあがってしまったので、ほら今年って羊年じゃん、伸び放題ってやつよ - ほんとうにまじでゴミ屋敷、屋敷じゃないからただのゴミ部屋 - ゴミ置き場.. ゴミ - じゃあんましだから大量の紙束のあいだで寝ている、状態になっている。すでに。

本だけじゃなくてレコードも棚に入らなくなっているのでどうしているのかというと、スライド本棚のスライドのレールのとこにでっかいのとかは突っこんでいる。 スライドしなってよいのか?   はい。 スライドする状態のところに体をもっていけなくなっているのですかわいそうに。

本とか紙とかが好きだからそういうのも好きでやっているんだろ、と言われたらそれはそうで、ならいいじゃん、なのかもしれないが、この状態を放置しておくとたぶん2016年の4~5月あたりでいきなり床が抜けて大量の紙束の塊が落下して(たぶん)あんま罪のない階下のひと(だれか住んでいる。たぶん)がびっくりしたり怒ったり怪我したり訴えたり、そういうことになってもおかしくない気がして、つまり危機的な状態だと思うので、やはりなんらかの手をうっておかねばなるまい。 被告はそうなることがわかっていましたね、ね? とか問われたときに、わかっていましたけどなにもしていませんでした、て応えるのと、わかっていましたのでがんばってなんとかしようとしました、ええ(なにが「ええ」だか)て応えるのとではずいぶん違う気がする。 気がするだけだが。

上記の事情をかんがみるにー、とにかく今年のお休み、短すぎるよね、て言っておけば許される許されないの枠を超えてなんかやっておかないといけない気がするので、やるんだけどさ、まずはこんなの書いて遊んでないでとっととやれ、よね。

「人生で大切なのは何を得るかではなく何を捨てるかだ」とか言いながら化石のような紙の山に埋もれて、いちおう整理みたいなことをしているふうだが結局なんも片付かないままで終る老写真家のドキュメンタリーを火曜日に見たのだが、だからああいうのを規範にしてはいけない、いまのあんたに必要なのはSaul Leiterではなく、近藤なんとかさんのおかたづけ術(なのか?)なのだ、たぶん。

でももう大晦日で、ほんとにあと残り数時間しかなくなったとこでさっきまで「神様なんかくそくらえ」なんて映画を見てしまったものだからほんとにくそくらえで(でもこんなのがグランプリとったんだ - くそくらえだねえ)、だからとにかくきっと年を越してからも続けてやるんだよね、ね、年の初めにやっておくといいことあるにちがいないからさ。

こうしてさっきから突然始めてみたのだが、場所と時間がないとやっぱし無理だとおもいました。
あーこんなの買ってたんだ、の発掘の場になってまったく先にすすまない。

来年はこんなふうになりませんようにー。

みなさんもよいお年をお迎えください。

12.30.2015

[film] Happy Hour (2015)

27日の日曜日の午後、イメージフォーラムで見ました。 「ハッピーアワー」。
これと「アルカディア」だけは、なんとしても今年中に見たくて見たくて。

3部構成で、5時間17分。 あっというま。 めちゃくちゃおもしろいのだが、このおもしろさをどう説明できるのだろうか、てちょっと考えてしまう。 過去の映画との対比で、あれと似ているこれと似ている、とかあまり言えないような。 たしかにJohn Cassavetesの"Husbands" (1970)の男女反転版、であって、俳優の生々しいエモが芝居の枠を超えて滲んでくるようなところは近いのかもしれないけど、なんかCassavetesの映画にある魅力粘力とはちがう気もして。 おもしろさの質感として一番ちかいのはFrederick Wisemanあたりかもしれない、とか。 ワークショップとか裁判とかが出てくるから、でもなくて。

神戸が舞台で、37歳の仲良し女性4人組のおはなし。 ふたり(桜子と芙美)は結婚していて、うちひとり(桜子)は子供がいて姑も同居していて、うちひとり(芙美)は夫婦でばりばり働いていて、ひとり(あかり)はバツいちで、ひとり(純)は離婚裁判中で、夫と別れたがっている。
あかりは看護師で、芙美はアート関係のイベントプランナーで、桜子は専業主婦で、純は家を出てコロッケ屋でパートをしていて、4人はなんでも話せる間柄で揃ってピクニックに行ったり、芙美の企画したワークショップに参加したり、温泉に行ったり、(裁判に行ったり…)。

4人の紹介とともに4人ひとりひとりの事情や状況に分け入っていって、先が不安じゃないひと、問題を抱えていないひと、関係がうまくいっているひと、なんていないのよね、に至るまでの過程 — つまり4人が映画を見ている我々にとってとても近しく親密な人たちになっていくまで(あまり見ていたくない嫌な奴らだったらどうしよう - ああそうじゃなくてよかったねえ - になるまで)が、とても素敵な時間(Happy Hour)で、第一部の終りまでにそのじゅうぶんな感触が得られたところで、ああこれはとんでもない、かけがえのない傑作になるかも、ていう予感でぞくぞくしてくる。

第一部のほとんどをしめる「重心」をめぐる怪しいワークショップとその後の打ち上げのやりとりを通して、頭で考えることとやってみること、その結果と結果の受けとめ方は各自ばらばらなんだねえ、などということがわかり、第二部の冒頭、純の裁判で結婚生活における条理不条理寛容不寛容などなど、が思いっきり可視化されて、それはやがて純のエモと純のことを思う各自と純のケースを通して自分たちの置かれた位置を考えるところに重心が移動して、第三部では芙美(と旦那)の企画した朗読会でいろんなことが脱臼したり滑落したりぐじゃぐじゃになって、でも構うもんか、つい拳を握って俺たちはなあ … はてなんで自分は俺たちなんて言っているんだ? みたいなことになっていく。 あーわかんない、こんなの文章で説明できるおもしろさじゃない。

いっそのこと関西の世話好きなおばちゃん(あるいはその予備軍)ムービー、みたいな括りかたをしてしまってもよいのかもしれないが、そういう単純下世話なおもしろさだけではない、親密になる親身になるとはどういうこと・状態をいうのか、そこにおいて当事者とはどういう人のことをいうのか、蚊帳の外にいるのはだれか、それはなんでなのか、などなどを「自分のこととして」考えること、考える方向に誘導するかのように彼女たちの言葉はこちらに届いてくる。  Wisemanに近いかも、と思ったのはこの辺りかもしれない。
(普段そういうことを考えたりそういう渦中に叩きこまれたことのない幸せなひとは見なくてよいかも)

例えば家庭や仕事、人間関係や将来への不安をめぐる共感やその和解/決着にフォーカスしたドラマだったらこんなおもしろいものになっただろうか?  どこにも決着点なんてない/ありえない、少なくともそれ(解消)に対する目線やアプローチはひとりひとりで(あたりまえのように)異なるのだ、という地点から始まっているが故のスリルはあるかも。 どうあがいてもだめかも無理かも、というところから湧いてくる祈りとか僅かな期待とか、それ故のものすごい安堵とか底なし不安とかのアップダウンと。 こういうのが全部ひととひとの会話と睨み合いの中のみで転がっていく。

濱口竜介監督の作品はそんなに多く見れていないのだが、例えば「なみのおと」 (2011)での切り返しや語りの転がしかたとこの作品のそれは地続きだったりするのだろうか。

本格営業が始まる前の、割とどうでもよくて安価で気楽にわーわーできる時間 - Happy Hour。
でも前だろうが後だろうが、アルコールでひとは酔うし揺れるし幸せになれるし、時間がきたら追い出されちゃうのかもしれないけど、でもいいじゃん、ていう。 どっちみち溝や穴や闇はあるにせよ、ていうかそんなのどうせあるんだからさ ー。

こんなふうに見た人それぞれに際限なしにいろんなことを考えたり語りたくなって止まらなくなる作品で、それを可能にしているのは脚本もあるのだろうが、行き着くところは主演の4人のすばらしさではないか。 特に純役の川村さんとか、成瀬のメロドラマに出ているのを見たくなるくらいすごいと思った。

ものすごくおかしいシーンもいっぱいあって、おばあちゃんの拳固とか、クラブでのキスのとことか、桜子が電車で去ってしまうとことか。 あと、男性共は基本どいつもこいつも愚かで気持ちわるくてクズなのもたまんない。 特にあの生命物理学者のあいつとか。

[film] Trois souvenirs de ma jeunesse : nos arcadies (2015)

23日の昼、渋谷で見ました。公開されてすぐにでも見たかった。
「あの頃エッフェル塔の下で」 or 「僕の青春の三つの思い出 - 僕らのアルカディア」。
英語題は"My Golden Days"。

王道の青春恋愛ドラマ、として見ることもできるけど、それだけではない、ものすごい裾野ひろがりをもったでっかい作品。
今年はシルス・マリアといいこれ(アルカディア=理想郷)といい、スケールのでっかい仏映画がいっぱい。

もう潮時だからさ、と駐在していた異国からフランスに帰国しようとしたPaul Dédalus (Mathieu Amalric)は、出国時に同じパスポート、IDを持った別人がいる、と止められて、その取り調べのなかで彼はいろんなこと - 青春の三つの思い出 - を語り始める。

家族 - 特に母親との葛藤や違和 - 彼女の自殺のエピソードがあり、やがて家を出て国外を旅するようになって国や民族の違いによる隔たりを強く感じる局面が多々出てきて、その流れでウクライナのユダヤ人青年の亡命を助けるために自分のパスポートを差し出すエピソードがあり - ここまでで彼の身元は自分ではなく誰のものでもない、アイデンティティ不詳の孤児になっている - 最後のエピソードでEsther (Lou Roy-Lecollinet)との身を焦がすような激しい恋があって、ここで彼はいったん、完璧に死ぬ - 『そして僕は恋をする』 にあったように - 別の位相のはなしだけど。

Arnaud Desplechinの前作 "Jimmy P." (2013) - 『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』 - でもMathieu Amalricは人類学者(民族精神医学者、だっけ?)の役で、今回も人類学者であることはおそらく偶然ではなくて、人類学ていうのは、人類(あるいはある民族)にとっての普遍性や理想郷(あるいは地獄、あるいは死)のイメージは、どこから、どのように形成され頭のなかで構造化されているのかを探っていく学問でもある。
それって「心に茨を持つ少年」だった彼(当局から尋問を受ける彼は患者のようでもある)が必然的に向かう魂のサバイバルの旅、だったように思える。 (少なくとも探偵のイメージとはちがう、よね)

そして映画の大部を占めるEstherとの出会いと恋愛 - 時代は80年代初 - 世界は丸ごと俺らのものであり、同時にこんな世界なくなっちまえ、と誰もが思っていて、100%の女の子の出現を頑なに信じているやつらがいて、とうぜんのように構造人類学だってポストうんたらだって、十分に流行っていて、それらの学問はそういう浮ついた世界の海図としてしっかり機能していた。 

Marine Girls の“He got the girl”があって、Specialsの"I can’t stand it”があって (RIP John Bradbury..)、The Jamの”Carnation”(”The Gift”のジャケットが一瞬映った?)があって、The Beatの"Save it for later"があって、Special AKA “What I like most about you is your girlfriend”があって、そういう時代よ。 半端な語りかたをするくらいなら、頼むからなにも言わんで引っ込んでてほしい、そういう時代の。
(そういえば『そして僕は恋をする』の音楽はリアル90年代だったねえ。P.J. Harveyとか)

で、そういう時代の中長距離の恋愛 - 完璧なかたちで成り立たないのであればそんなもんは壊してしまえ - のなか、やり取りされていく夥しい量の手紙(チャットもSNSもないからね)、その手紙の紙の肌理、インクのしみ、なにもかも愛おしくて紙を抱いて死にたくなって、実際になんどでも死んでほんとに前に進まない、そういう世界。 それはそのときの、当事者ふたりだけの世界のことで、それを綴ることができるのは、彼がしんでいる or 生と死の緩衝地帯にいるからで、でもとにかくそんなことよりも、このときのPaulとEsterを演じるふたりの、恋愛の渦中にあるふたりの(Quentin DolmaireとLou Roy-Lecollinetのふたりの)すばらしさを見てほしい。 恋愛のこと以外いっさい考えていないふたりってこんなふうになるんだって、言葉を失って気を失って目覚めたくなくなるくらいすごいから。

Desplechinて、こんなふうな熱病状態 - 前作でいうと「魂をケガしている」ひとを描くのがほんとうにうまい。
熱病状態で走りまわっている状態がふつうで、熱病状態にあるひとのむき出しの強さと弱さを表象する人物像(の集成)がPaul Dédalusで、それを理想的なかたちで体現できるのがMathieu Amalricさんなんだろうな。

あと3回くらい見たい。 彼らの恋 - 熱病は確実に伝染する。

12.29.2015

[log] NYそのた2 -- December 2015

NYの食べものとか。 2.5日のたった5食ぶん。

17日の晩、Star Wars待ちの時にTake OutしていったのがPorsenaのSara Jenkinsさんのサンドイッチ屋 - PorchettaのPorchetta Cubano - 外側は石みたいな塊なのに、なにこれ? なおいしさ。

18日の昼、クリスマスだし小雨だしおいしいチキンが食べたいなー、とRotisserie Georgetteてとこで。
http://www.rotisserieg.com/

Hot Chicken Pie、あったかくておいしかった。
それにしても日本のローストチキンはなーんであんなに高いのでしょう。なんで醤油を塗って和風とか言わないと気が済まないのでしょう。

18日の晩は、Pruneにふたたび。

Parmesan Brothの、Egg DropとかChicken Noodle soupを遥か彼方に蹴っとばす雲のほんわか。
前回も頼んだ胸腺のフライの柔らかさに切り込むケイパーの酸味。
メインのOxtailの、スペアリブとは全然ちがうはじっこの旨味の凝縮感。とかとか。
隣で酒を浴びるように飲んでいた女子ふたり組みがとった鶏のまる焼きに今度は挑戦したい。

19日の昼は、NolitaのTartineryでバーガー。
http://www.tartinery.com/
パテの上に緩めの目玉焼きが乗っていて、あとはBlue Cheeseのソースだけ。タマネギもピクルスもない。 びっくら。 あとフライもすんごくおいしい。

19日の晩は、ついに、ようやく、Brooklynに渡ってBattersby。
http://www.battersbybrooklyn.com/
ここがまだ予約を取っていなかった時代 - 何年前からだろ - 何回トライして諦めたことか - 諦めてもなんとかなっちゃうご近所(にいくらでも素敵なレストランあり〼)問題、というのもあったのだが、とにかく、諦めているうちにこの店の評判はどんどん膨れあがってより上のランクのDoverていうお店もできたりして、そっちも考えたのだがやっぱりまずはこっちから、と。

店そのものが小さくて、いちばん奥に町の中華料理屋の台所(これをオープンキッチンとか呼んだら怒られる)みたいにちっちゃい3坪くらいのスペースで3人の調理人が窮屈そうに料理を作っていて、それにしてはものすごいのを作っているの。(LAのPetit Troisもそんなかんじ)


5品のコースにして、出てくるやつぜんぶ外れない。
Tuna Tartareのリンゴの使い方とか、Pollock(鱈ね)のカニとイカの使い方とか、まったく奇をてらっていなくて、まあそりゃおいしいだろうよ、て納得できるその枠をまたぎ超えてしみじみ滲みてくるの。おいしい肉がおいしくなるのは子供でもふつうにわかるけど、ここのお皿のおいしさがこの素材とあの台所から出てくる理由はよくわかんなくて、お料理における単純さと複雑さについてなんか考えさせてくれるの。よい意味で。

Pruneのもここのおいしさも、日本にはなんかないかんじがするのはなんでだろう。

この晩の地下鉄のF Lineはかつてないほどにスムーズに動いていてなんかの奇跡が起こっていた気がした。

20日の朝は、お腹へってなかったし、パッキングもあったし、ロックフェラーのツリーを見ていなかったので慌てて見にいったりして時間がなかったの。

来年はMission ChineseのDim Sum & Bagel Brunchにトライしたい。
あと、今回は行けなかったけど、Bisgelもな。

まだなんかあった気が。

[log] NYそのた1 -- December 2015

NYの旅、行き帰りの飛行機で見た映画とか。

12月の国際線は3回目なのでもうあんまり見たいのが残っていないの。

The Man from U.N.C.L.E. (2015)
60年代初、当時犬猿だったCIAとKGBがイタリアの富豪による核兵器の脅威を打ち砕くべく手を組むことになって、CIA側はNapoleon Solo、KGB側はIllya Kuryakinていうそれぞれ優秀だけどどこかしら壊れて腐れた奴らを持ってきて、ふたりは張り合いつつも手を組んで、そこになんでかMI6まで入ってきて、というどたばたコメディアクション、かなあ。

こないだのシャーロック・ホームズのもそうだけど、わたしはGuy Ritchieの作品をただの漫画みたいなもん(後になんも残んない)だと思っているので、漫画は漫画として楽しめたかも。
このノリで「エロイカより愛をこめて」とかやってくれないかなあ。

あと、”Ricki and the Flash”をもう一回みた。 それにしてもこれの邦題、ひどすぎるよね。
邦題に「幸せ」とか「希望」とか「愛しき」とか「絆」とか、そういうの使うの禁止にしたい。
虚偽広告の一種だとおもうし、思考停止以外のなにものでもないし。


帰りの便では、”She's Funny That Way” (2014) をもう一回見てから、これ見ました。

Im Labyrinth des Schweigens (2014)
「顔のないヒトラーたち」。 英語題は”Labyrinth of Lies”

1958年のフランクフルト、アウシュビッツで親衛隊をやっていた男が教師をやっている、という通報を受けて若い検察官ヨハンが調査を始める、のだが、当時戦後復興で夢中だったドイツではアウシュビッツの存在を知らない人も多く、そんなの調べてどうする、親衛隊は8000人いたんだぞ、しかも彼らは軍の指揮下で動いていただけだろ、になる。 でもヨハンは主席検事やジャーナリストや生存者の協力を取りつけて、気が遠くなるような膨大なナチスの資料(これが原題の「嘘の迷宮」)のなかから証拠・証言を拾って固めて裁判(これが63年のアウシュビッツ裁判)に持ちこむの。

国が自国の過去を裁くことの難しさ + 家人隣人を疑うことのきつさ - ものすごくあたりまえに大変だとは思うものの、その厚い壁に正義と倫理のハサミで切りこんでいったごく少数の人々。
偉いなー。 そこいくとこの国はほんとなにやってんだろうねー。

本とか

18日、Metropolitan Museumの後にバスで5thを下ってBergdorf Goodmanに行って、クリスマス・ウィンドウを見てうっとりして気がついたら7階のクリスマス・オーナメント売り場(この季節だけよ、もちろん)に行っていた。ここで売ってるのはほんとにすごいんだよ。(服だけじゃなくて)
ここの本売り場も隅の隅のほうにまだ僅かだけ残されていて、ぱらぱら見ていたらなんかたまんなくなって古本 - ていうかここのはヴィンテージてかんじ - を2冊だけ。
Snowdon卿の”Sittings 1979-1983”ていうのと、“Vogue's Gallery of 50 Famous Authors and Artists”ていう1962年に英国で編纂されたVogue掲載の文章とかポートレイトのアンソロジー。

Rizzoli Bookstoreでは弁当箱みたいに分厚いBarbara Stanwyckの評伝 - ”A Life of Barbara Stanwyck: Steel-True 1907-1940”。 - 読んでる時間なんて絶対ないのに…

わんわんの絵本:Maira Kalmanの”Beloved Dog”  - サイン本
www.mairakalman.com/books/adult/beloved-dog/

19日、NOHOで1日だけHarper’s BooksとかKarmaとかPrinted Matterとかが集まってBook Marketをやってて、ちょっとだけ覗いてみたらありえない値札のばっかしで鼻血吹きそうで、でも40% offだったAlbert Yorkの図録だけ買った。
http://www.matthewmarks.com/new-york/exhibitions/2014-11-08_albert-york/

今回入手したサイン本はJames FrancoさんのとDrew Barrymoreさんの。

Mast Booksも行った。 今回、ここではがまんの子。

レコードとか

新譜は、Beat Happeningのウサギの選集と、その隣に並んでいたSwansのウサギの - “White Light from the Mouth of Infinity”(1991)を。 あとはCoilの“Backwards”とか、いろいろ。
関係ないけど、最近の輸入盤アナログの値段て高くない? 為替なんだろうけどさ。 

今回はようやく、久々にBrooklynに行けた。でも時間なかったのでRough Tradeまでは行けず..
Oak stのAcademyに行ったあとで、おお急ぎでManhattan戻って”Sisters”やってるシネコンに駆け込んだのに見れなくて、こんなだったらRough Trade行けたのになー。

他にもなんかあった、はずだ。

12.27.2015

[film] Pierrot le Fou (1965)

19日の土曜日の午後、Film Forumで見ました。
「気狂いピエロ」 の50th Anniversary Restoration。 2008年にCriterionがBlu-ray化したときの版との違いがちょっとだけ気になるが、でっかい画面で見たほうがよいに決まっているの。

Film Forumでは2010年の5月に”À bout de souffle” -「勝手にしやがれ」- の50th Anniversary版を見ているので、これもなんとしても見ておきたくて。

予告編はここで見れます。
http://blogs.indiewire.com/theplaylist/exclusive-trailer-for-50th-anniversary-restoration-of-jean-luc-godards-pierrot-le-fou-20151127

この作品を最後に映画館で見たのは自由が丘だったか。今の子供たちには想像もつかないかもしれんが、昔は自由が丘にも名画座(名画座っていうのは古い映画をかける映画館ね)があったんだよ。

ストーリーはどうでもいいの。
不幸な結婚で半分しんでるFerdinand (Jean-Paul Belmondo)がいて、パーティでMarianne Renoir (Anna Karina)と出会って、なにもかもぶん投げて二人で地の果てまで逃げていくんだけどMarianneはギャングに追われてて、最後は地中海でダイナマイトでこっぱみじんになる。

画面の色調はどこまでもソリッドでカラフルでかっこよすぎて見とれるばかり、台詞は古今のいろんな引用に溢れまくっているので英語字幕なんていらない(参考書でもリンクでもいっぱいあるからあとで調べろ)。 ふたりの動き、そのスピード、カット割り、カラー、サウンド、誰かしらのかっこいい言葉と引用、これらがすべてで、あとは何もいらない。 なんも考えずに見てもそれらすべてがストレートに脳細胞の粒粒を直撃する。

唖然とするかっこよさ。 こんなふうに恋をして、こんなふうにぜんぶちゃらにして、あっという間に生きて、とっとと死にたい。消えたい。

TenderでCruel, RealでSurreal, ShockingでMocking。 ポップアートていうのは例えばこういうのをいう、ものすごい早口で、生きろ! 死ね! を繰り返して、その差異と反復をふたたび生きて、死ぬ。 意味なんかないんだから、あっという間なんだから、わかんなくてもよいの。 サブカルなんてくそくらえだわ。

色も音(MONOでリマスターしたという)もヴィヴィッドに生きて跳ねていて素晴らしい。これが50年前なんだよ。
(「勝手にしやがれ」のリストア版は全てがとても痛切で切実でぎりぎりなかんじで、これも素敵で)

2月(?)のサミュエル・フラー特集で上映してほしい。 (フラー自伝の販促としても最適だよ)

Film Forumではこれの後、25日からぴかぴかの35mmプリントで“Ball of Fire” (1941) - 「教授と美女」がかかっているの。 これも最高のラブコメなんだよう。 むかし1万円以上したVHSを買ったなー。

この日の夕方、食事の前に”Sisters”を見にいったらまさかのSold Outだったので、NYで見た映画はこれが最後となった(泣)。 晩にSNLでふたりの勇姿を見てがまんした。

12.26.2015

[art] Fashion and Virtue, and others

美術館関係は18日の午前中に固めて行った。けどそんなにはなくてのう。

どこも10時オープンなのでそこ目掛けてUpper Eastに向かう。
これを9時オープンにしてくれたらどんなに素敵なことでしょう、とこういう時だけ都合よく思う。

今回行ったのは次の3軒のいくつかの展示だけ。 MOMAもWhitneyも今回はあきらめる。

How Posters Work : Cooper Hewitt, Smithsonian Design Museum
この展示が見たかったから、というより2014年にリニューアルされてから(名前も少しだけ変わった)行っていなかったので久々に訪れる。 チケット買うとデバイスみたいなペンを渡されて、これで個々の展示品の横にある+マークを読みこんで、後からチケットにタイプされたコードをWebで入れると見たやつの履歴と詳細をPCで見ることができます、なので気に入ったやつがあったらマークしてね、と言われて、あともういっこインタラクティブみたいな機能を教わって、そういうのはちょっと苦手だしITきらいなのでどうしよう、ておろおろした。

一応昨日の晩、チケットのコード入れてやってみましたら、ちゃんと出てくる(そらそうね)。
確かにマークした時間とか解説はちゃんと見れるのだが、他のやつの記憶は一切落ちちゃうのね。
やっぱし紙の束がいいなー。

展示はタイトル通り、古今東西いろんなポスターがいっぱい。
Fritz Fischerによる“Die Zärtlichkeit der Wölfe” (1973) - プロデュースはR.W. Fassbinder - のポスターとか、かっこいいったら。

http://cprhw.tt/o/2E9aR/

庭園にも出てみたのだが小雨がぱらぱら来たのでなんてこった、と次に向かった。


Alberto Burri: The Trauma of Painting ;  Guggenheim Museum
イタリアの抽象画家Alberto Burri (1915–1995)の米国初となる回顧展。
前回来たときは、これかNeue Galerieの”Berlin Metropolis: 1918-1933”のどっちにするか悩んで、Berlinのほうに行ったのだった。

ぐるぐる階段に彼の絵がひとつひとつ、間隔を置いてぐるーっと展示してある。

例えば米国の抽象表現主義のようななにかを壊したりバラしたり外したりしていくようなかんじ - それに伴う感覚的・生理的ななんかを想起させるものもない。
Kurt Schwittersみたいになにかをなにかに向かって構築・構成していくようなかんじもない - ひょっとしたらあってそれを見せないようにしているのかもしれないが、ここにあるのはタイトルの”The Trauma of Painting”にもあるような四角四面の絵画の枠の上下まんなか、隅と中心、絵具の置き方、その色、その練りこまれた肌理、それらが織りなす境界とか、布と画布と表面のゲシュタルトとか、そういうのをものすごく拘って考えて考えてこわごわ作って、でも生乾きみたいな、いろんな窓のような。

その裏にありそうな情念が醸しだした絵画、というよりイタリアの職人的な意匠を感じさせる固い絵画たちだった。

そこから更にThe Metropolitan Museum of Artに走って展示をみっつだけ。
ここは入場料を自分で決められるのだが(Suggested Priceは$25)、今回は$20にした。

Fashion and Virtue : Textile Patterns and the Print Revolution, 1520–1620
布に描かれるパターンの起源となったプリントイメージのおおもとを辿っていくとルネサンスあたりまで行くそうで、小さな冊子に描かれたパターンやドローイング(のコピー)がどんなふうに布上に展開されていったのか、をプリントの木版やエッチングなども含めて展示している。

印刷物好き、インク好き、布繊維好きにとっては自身の嗜好の根源をくすぐられるような内容で、ずっと浸っていたかったけど時間がないので薄いカタログだけ買って出た。


Jacqueline de Ribes : The Art of Style
Costume Instituteの展示。 フランスお貴族でファッションアイコンのJacqueline de Ribesのクローゼット(アーカイブ、と書いてあったが)お蔵出し。 Saint LaurentもDiorもいくつかあるのだが、本人のデザインによるオートクチュールが圧倒的によいしすごいし、とにかくブレがないというか、一体しかないマネキンの凄み、というか。
"The Art of Style" -  貴族ってこういうもんよね、だった。

http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2015/jacqueline-de-ribes/gallery-views

ヴィスコンティの監督で実現しなかった『失われた時を求めて』のゲルマント公爵夫人役、見たかったなあ。 この人がやったら凄かっただろうなー。


Christmas Tree and Neapolitan Baroque Crèche
毎年の恒例の、定番のやつ。 絶対行く、というわけではないがなんかずーっと見ている。
大抵はある展示から次の展示に走りぬける合間にぺこり、なのだが、たまには立ち止まったりもするの。
ロックフェラーのツリーだと見上げておおおー、で終りなのだが、ここのはサイズ的になんか微妙で、たまに跪いているおばあさんとかいるのだが、どうやって相対してよいものか悩んだりする。
なので、両手あわせてぺこり、来年もよいことありますように(← ちがうだろそれ)、とか。
でも本当に素敵なツリーだとおもうの。

http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2015/christmas-tree

美術関係はいじょう。

行きたくなったけど、時間がなくてだめだったのは、地下鉄の広告で見かけたこれ。
http://www.museumofsex.com/portfolio_page/exhibition-hardcore/

Hardcoreとは何か、それはどこから来たものなのか。おもしろそうでしょ。

12.24.2015

[film] The Night Before (2015)

18日金曜日の夕方、まだSWFAでざわざわしているUnion Square Regalで見ました。
もう公開後日が経っているので空いていると思ったら、結構入っていてびっくり。
これを見ないで清く正しいクリスマスを迎えられるとは思えない。

Ethan (Joseph Gordon-Levitt)は子供の頃のクリスマスに両親を事故で亡くして、それ以降のクリスマスには彼が辛いをしないように親友でJewishのIsaac (Seth Rogen)とアスリートのChris (Anthony Mackie)がずっと一緒に傍にいて、毎年過ごすようにしてきたの。

数年前、3人はNYのどこかで開かれるという伝説のクリスマスパーティ - Nutcracker Ball - の存在を聞いてずっとそのチケットを探し求めてきたのだが、今年ついにEthanはバイト先のパーティ会場でそのチケット3枚を盗むことができて、みんなで舞いあがって、奥さんが妊娠しているIssacは奥さんからドラッグとか葉っぱ一式の箱を貰って「楽しんでらっしゃい」て送り出されて、こうして3人のパーティ会場に向かうまでのどたばたと、パーティに着いてからのどたばたと、それぞれのいろんな彼とか彼女とかのあれこれがクリスマスのその日に向かっていろいろ炸裂して大騒ぎになる。

いわゆる家庭人としての、大人の、ふつーの厳かなクリスマスを過ごすようになる直前前夜の、ガキ共の、ダチ同士の最後のあがきとしてのクリスマス - 神様もきっと許してくれるよね - というと“A Very Harold & Kumar 3D Christmas” (2011) という名作が既にあって(ちなみに、ぼくは人間じゃないからよくわかんないけど、神様もきっと許してくれるよね、と言いながら最後にでっかい花火があがる名作 - もうクラシックの風格 - が “Elf” (2003) だよ)、これもそういう系統の、とにかくなにしたって神様許してくれるよね - ていう甘ったれたいいかげんな野郎ムーヴィーなの。

あと、監督は”50/50” (2011)のJonathan Levineで、あの映画がそうだったようにSeth RogenはJGLがかわいくてかわいくて、守ってあげたくてしょうがないらしく、それともうひとりの偏愛の対象であるJames Francoも出てきて(こいつとMindy Kalingのスマホのやりとりがめちゃくちゃおかしい)、”This Is the End” (2013) が一族郎党ひきつれて破滅に向かってまっしぐら、だったのと同じように、みんなそろってクリスマスの夢と至福を、てお祈りする。
こんなの、叶わないわけがあろうか。

怪しげな浮浪者で葉っぱ売りのMichael Shannonとか、思わず惚れてしまいそうになる(ていうか、はじめてみたわ)Miley Cyrusとか、脇もなかなか楽しいんだよ。


今年のクリスマスソングは、NYから買って帰ったVince Guaraldi TrioによるCharlie Brown Christmas(緑盤!)とPhoenix / Bill Murray /Jason Schwartzman/ Paul Shafferによる7inch - “Alone on Christmas Day”、くらいでした。

みなさまもよいクリスマスをお過ごしください。
わたしのクリスマスはNYでぜんぶおわってしまっているかんじなの --

12.23.2015

[film] Mustang (2015)

18日金曜日の午後、IFCで見ました。
平日の午後で、客はほぼ若い女性、初老の女性ばかりだった。
“Suffragette”と並ぶ強度をもつ今年最強の女子映画。 すばらしいったら。

IFCではスタジオジブリの全作品上映をやっているらしく、結構長いその予告が流れて、ぜんぶ繋げてみるとなんかすごいなあ、て思った。(火垂るの墓、とかもやるの)

監督はこれが長編デビュー作となるDeniz Gamze Ergüvenさんで、この作品はGolden Globesの外国語映画部門にフランス代表でノミネートされている。

トルコの黒海に面した小さな村に暮らす5人姉妹 - Sonay,  Selma, Ece, Nur, Laleがいて、学期の終りに男の子達と海辺で一緒になってはしゃいでいるのを隣人のおばさんに見られた、というだけで祖母に咎められる。 彼女たちに両親はなくて、彼女たちの面倒を見ているのは祖母と伯父で、どちらも(そして周囲の村人たちも)がちがちに嫁入り前の女子はかくあるべし、を当然のように思って強いていて、姉妹は当然のように反発し、監視の網をくぐって好き勝手にやろうとして、結果電話もPCも全部線を抜かれて取りあげられて、部屋には鍵をかけられて最後は鉄格子まで行って、それでも彼女たちは、という攻防が最初のほう。

やがて長女が結婚して出て行って(初夜のシーツに血痕がないというだけで病院に連行されて検査される、という世界)、次女もいなくなり、悲しいことも起こって、やがて四女のNurに初潮がくるとではさっそく結婚相手を(... )、という話になって、相手が迎えに来たところで、これまで全てを見てきた末娘のLaleとNurはぜったいいやだ、と家に立てこもって最後の抵抗と脱出作戦を試みる。 

美しくて仲良しの姉妹が周囲の理解を得られないまま、ある決意をもって消えてしまう『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』- “The Virgin Suicides” - を誰もが思い浮かべるのかもしれないが、あれとは違って、末っ子のLaleのまっすぐな目とその強さに行け! 突っ走れ! と思わず拳を握ってしまうのがこっち。

映画で描かれたような男尊男根社会がいまもトルコにあんなふうに残っているのかはわからないのだが、それらを告発するようなトーンはあまりなくて(いや、もちろんとっても憎くなるけど)(日本だってまだ同じようなかんじは残っているよね)、いかに姉妹は精一杯戦ったのか、彼女たちがみんな一緒に遊んでいるときの笑顔とかぜったい挫けない力強さとかがずっと残る。

5人姉妹のみんなは全員素人さんだというのもすごーい。

日本でもぜったい公開してほしい。

ちなみにJames FrancoさんのFavoriteでもある、と。

http://www.indiewire.com/article/james-francos-movie-column-why-mustang-is-the-best-film-of-the-year-20151119

12.22.2015

[film] Star Wars: The Force Awakens (2015)

戻ってきてしまいました。

JFKに着地したのは木曜日の18時くらい、そこから夕方&小雨のひどい渋滞を乗りこえてホテルに入ったのが19時半過ぎ、荷物置いてPorchettaでサンドイッチとかを買ってそろそろ並ぶか、と映画館の外に出来ている行列を目がけて行ったら館内に既にじゅうぶんな列はあって、みんなカーペットに座ってだらだら過ごしているのだった。 ここの行列はThe Twilight Sagaの時にも経験していて、ここだけじゃなくてアメリカのってだいたいそんなもんなのだが、いったん門が開くと順番なんて関係なくみんなてきとーになだれ込んでぐじゃぐじゃ、というのが毎度のパターンで、今回も誰になんと言われようと横は見ないで前方目がけて突進して、とりあえず席はとる。

Ep1のときよか、コスプレのひとはあんまいなかったかも。年寄りも多いが子供もそれなりにいる。 ディズニー映画だしね。

予告で”Independence Day: Resurgence”がかかって、Jeff Goldblumが出てきたところで大歓声があがる。
そうじゃろうそうじゃろう。

見ました。 ネタバレするしないとか、そう気になるとも思えないような内容で、プロットとか登場人物の配置についてはほぼぜんぶ想定していた通りで、それはEp1がでた時にこんなに狭いスコープとか血縁の枠でこのサーガは展開するんだー、と軽く失望したのの続きなので、あんま驚かない。それはディズニーランドの新しいアトラクションが、すごいこんなの経験したことない! という感嘆と、ああこれこそがディズニーなんだわ! という安心感を同時に与えるのと同じようなもので、フランチャイズかくあるべし、ていうことなのだと思う。 ごめんなルーカス。

というわけで、前の"Star Trek Into Darkness"で、多くのファンに「こういうStar Trekを見たかったんだ!」と言わしめた(ということになっている)JJAが監督に入った今作も見事にそういう出来になっていて、どこかで見たような惑星の風景、どこかで聞いたような台詞、どこかにあった宿命の出会いとか父殺しとか、などなどがこれでもかこれでもかと 、Ep4からEp6を正しく継承するのはこれだ、と言わんばかりにいろんなものが、反復される。 既視感とかじゃない、正確になぞられている。
(R2-D2が黙っちゃったのはもういーかげんにしろ、ってあきれたんだと思う)

見事な代理店仕事。 JJAってオタクのココロをもったクリエイター/プロデューサーと言われているが、基本はそういうのをぜんぶひっくるめて引き受ける有能な代理店さんなんだと思う。だからメディアは彼と彼の作品を絶賛するし、彼のきりっとしたポートレイトと一緒に彼を持ちあげておけば大抵の紹介記事はできあがってしまう。 オタクだって文句いいようがないらしいよ、とか。

こういうオタクのツボもきちんと押さえた盤石のメディアミックスが経済的な成功を導くのは見えていて、だから誰もかれもがヒステリックに熱狂してこれに乗らないのはバカだ、くらいになって、じっさいにどっかのバカがNYに飛んだりしている、と。
もちろんそれだってすごい才能に違いないだろうからいいんだけどさ、なんかもうちょっとびっくり箱があってもよかったのでは、とか、映画としての座りの悪さ、みたいのはあるよね。

Ep4が最初に出てきたときの、ぽんこつがらくたSFにクラシックのドラマツルギーのミックス、あそこにあった新鮮な驚きが蘇るかなあ、と最初の予告が出たときに期待したものじゃったが…
悪くはないと思うよ。CGのクオリティは当然のようにすごいし、みんな一生懸命走り回っているし、中途半端なキャラ(じゃーじゃー... )はいないふうだし、はらはらどきどきも少しはあるし。 でもなあ、あのチャンバラはない - ライトセーバーの達人がいない世界なのはわかるけど、あの撮り方はないんじゃないか、とか、全部の戦いを終えてレジスタンスが戻ってきた場所って、千葉とか埼玉の河原の土手みたいにしょぼい風景じゃないか、とか、あのラストショットって、TVドラマの終わり方だよねえ、とか、いろいろある。

Ep4から6までのストーリーが、シーケンシャルに流れていったので割と自由だった分、Ep1から3というのはEp4から6に至るまでの経緯や謎を明らかにせねばならない使命を負っていて、その縛りがなかなか面倒だった気がするのだが、今度のも同じような謎謎をいっぱい背負い込んでいて(例. Hello Gigglesの77 Questions参照)、Ep6からEp7までの間には相当いろんなことがあったらしい。 その謎解き - なぜEp7はEp4ときれいな相似形を描くのか - ひょっとして円環の時間か? - なんてのも含めてほしいものだ - と覚醒したForceの行方が交錯/並走するであろうEp8は相当に面倒くさいことになりそうで、どうしようか、と今からなんか不安だ。 メディアはこれらの謎をダシに煽りまくるのだろうなー。

Adam Driverはとってもよかった。 ReyのDaisy Ridleyさんも悪くないけど、ちょっと泣きすぎ。砂漠であんなに泣いたら水分がもったいないよね。 John Boyegaさんは”Attack the Block” (2011)そのままのかんじだったけど、いいの。

うん、でも楽しい冬のお祭りだったよ。

12.20.2015

[log] December 20 2015

なんとか帰りのJFKまできました。

こんなに天気がよくて乾いている日曜の朝なのに、これから帰らなければいけない。 つまんない。

それにしても、2.5日は圧倒的に短すぎた。 やるべきことよりも2時間後くらいに諦めることのほうに頭がいきすぎてしまうので、なんかよくない。 そしてずーっと走り回っているうちに、なにをやっているのだかわからなくなってくる。

今回、映画は4 - 1本だけ、まさかのSold Outをくらってしまったので、歯をくいしばって次に行った。美術館は3、本屋もレコ屋も前回よりも行けたことは行けた、けどなー、あとちょっとなー。あと1日あったらぜんぜん違ったのになー。 で、あと1日増やしても、あともう1日になるに決まっている。おそるべき街 NY - いや、まずおかしいのはあんたの欲望だわ。

でもそれでも、行かないよりはぜんぜんよかった。 食べるものも食べたし、この時期のNew Yorkはやはり特別なんだよね。

荷物はやっぱし尋常じゃなく重くなった。 預けたかばんはまた、絶対開けられて調べられちゃうんだろうな。

ではまた。 ものすごくねむいし。

12.17.2015

[log] December 17 2015

こうして、あいも変わらずばたばたで落ちつきも締まりもなくうんざりぐったりの状態で、またNEXが止まっていたらどうしよ、とおろおろしつつ、まだTylor Swift版までたどり着けていない"Welcome to New York"を聴いたりしながら、なんとか成田まできました。

さて。

これからNYに飛んで、向こうの日曜の昼まで滞在する。 こんどのは仕事ではなくて、お遊びで休暇で(ご褒美とはいうまい、いえまい... )、2.5日で走りまわってEat - Play - Loveをやって、これでぱっとしなかった2015年とクリスマスと暮れと正月は終わりで総ざらえで店じまい(しまんないけどな)で、けっか冬の朝East Riverにぷかり、になったって構うもんか、なの。

季節が季節なので飛行機が取れなくてどうしよ、だったのだがなんとかなった。帰りはエコノミーしか取れていないけど、どうせ灰になってゴミになって寝るだけだからいいんだ。

もちろんメインはあの映画を見ることで、Ep1公開のときにも出張ねじこんで行ったのだったが、とにかく現地で見る。 こんどのは同時公開じゃん、てひとは言うかもしれんが、日本のゴミ以下の宣伝に乗っかるかたちでなんか見たくない。

わたしは78年の夏、千葉の京成ローザでEp4(とも”New Hope”とも当時は言わなかったけどね)を繰り返し繰り返し、一日じゅう、それを何日間も、ひと夏で40回くらい見た思い出があって、なんでそういうことになったかというと、本国での公開後、日本での公開までにさんざん、えんえん待たされてじらされて、頭がおかしくなってしまったからで、日本の映画配給会社への不信というか恨みというか、こいつらおかしいんじゃないか、はこの頃からずっとある。ぜったい許さない。

今回のも、確実な集客が見込めるからふんだくってガバガバ儲けたいのだ、とは言わず『過去の事例を参考に作品的な価値を踏まえて一般料金を特別価格に設定させていただく』なんて嘗めくさったことをぬかすふざけた連中にお金を払いたくない。 しかも上映前には例によって吐気がするようなくだんないアニメだのCMだのの糞流に曝されて映画泥棒よばわりされる。

ライブに行って、前座にぜんぜん関係ない音楽流されたらふつう怒るよね? 映画館によっては本編で上映する映画に応じて予告編の中味も変えるよね。 なんで日本のシネコンではガキ向けの乱痴気騒ぎを強制されねばならんのか、そんなことが平気で許されてしまうのか、本当にわからない。 映画の興行って、配給会社だか運営会社だかがそんな好き勝手にしてよいものなの?
(してよいものなんだろうな、でもふつーはしない。なぜなら映画を愛する興行主であれば暗闇のなかで映画に、映画のなかで繰り広げられる世界に浸って集中してほしいとふつーに思うであろうから)

つい熱くなってしまったが、連中は今の政府与党と同じでごくふつーの理屈が通じる方々ではなさそうだから、まあ変わんないよね。 でも文句は言うから。ずっと。

これ以外にも見るべき重要な映画はいっぱい、いくらでもあって、あげていったら両手の指ぜんぶでも足らなくなったのでさすがに削る。ライブはなんとも微妙でさあー。

Difford & Tilbrookのアコースティックとか、BoweryでのSan Ferminとか、(le) poisson rougeでは、”A Tribute to PJ Harvey: 15th Anniversary of "Stories From the City, Stories From the Sea””なんてのもある(15年かよ …)

あとはお買いものだよね。 今年最後の。 本とかレコードとか(他にあるなら言ってみろ)

では、楽しんできま。
まずは17日 22:15のRegal Union Squareに。

[log] December 15 2015

上海から戻ってきています。 にーはお。

近いよね。外国なのに。と思って、でもそんなこと言われても外国だって困るよね。

行きの飛行機で見たのは1本だけ。 3本は見れないねえ。

The Rewrite (2014)
Hugh Grantがハリウッドで一回だけオスカーを獲ったことのある脚本家で、でもそれ以降はあんましぱっとしなくて、職がないので大学で教えてみないか、と誘われるままになんとなく行ってみる。そこはNY州の北の奥のBinghamtonてとこで、天気はどんよりだけど人々はとってもフレンドリーで着いた途端に女子学生と寝ちゃったりできるのだが、脚本の授業のほうは全くやるきでなくて、ていうのも脚本は勉強するもんじゃないと思いこんでいるからで、でもしぶしぶ授業をしながらいろんなひとにいろんなこと言われたりしているうちに、なんか気づきはじめて、つまりそれが人生のリライトっていうことだったのか、と。

洒落としてもそんなにおもしろくないし、脚本の課題でこんなの提出されたらたぶん却下だと思うが、出てくる登場人物たちがなかなかおもしろい - やたら陽気で人懐こいシングルマザーで学生のMarisa Tomeiとか、家族の話をさせると自動でべそをかく学長のJ.K. Simmonsとか、Jane Austen専攻でJane Austenのキャラで染めぬかれてどこにも行けなくなった教授 - なんかいそうだね - Allison Janneyとか - ので、井戸端人情系のロマコメとしてそんなわるくなかったかも。

せっかくおもしろいんだからタイトルをもうちょっとなんとか、と思ったら邦題は更にどーしようもないやつであきれた。

帰りの機内は仕事しているうちに、ていうか仕事おわらないうちに羽田に着いてしまったのであきれた。
一応MI5を流しながらやってて、Ethanこっちも助けてよう、だった。

上海のその他は、見事になんもない。

PMなんとかはいっぱい飛んでいるふうでずっと視界が薄黄色にぼやんとしていた。
すぐに目が痛くなったり喉がいがいがして咳がでたり、というのではなく、じっとりと喉の繊毛の間に入りこんでいつのまにか身動き取れなくしてしまう、そんな不穏な静けさがあるかんじ。 でそれを察知した頭の裏にいる頭痛虫がうずうず始めて、あー頭痛くるかも、くるねえ、だった。

火曜日の朝はPMの数値が300超えた、とかでみんな騒いでいたが、北京のひどいときは700超えまで行ったりしていたらしく、それはしんどいよねえ、だった。

お食事は当然中華で、あたりまえのように普通においしくて、こんなふうにふつうにおいしい中華って(和食もそうかもだけど)あんまきちんと語る言葉がないなあ(なんでだろ?)、て思った。 2日目の晩は湖南料理で、スペアリブに辛い粒とか葉とか粉とかをまぶしこんで焼いてるやつとか、なんか出てくるお皿が次々にびりびりするのでびっくらした。あんな辛いものを必要とする土地とか気候のところがあるのねえ。

そんなに寒くなくて、空気が澄んでて、仕事があんなじゃなかったら、どこまでも歩いていきたくなるような路地があって建物があるところで、なんかそういう映画あったかしら、と浸る時間すらなかったのは残念なことでした。

そして、いま、ばっかみたいに慌ただしい。

12.13.2015

[log] December 13 2015

これからタクシーとバスを乗り継いで羽田に向かう。羽田から先は上海で、今回は近所だしすぐ帰ってくるし、遊び用の個人PCを持っていかない(ほれ、あそこはいろいろあるからさ)ので、でもいちおう書き置きして出ていくの。

現地2泊で戻ってくるのは火曜日の夕方。 最近こんなのばっかり、パスポートでスタンプラリーしているみたいで、仕事なんてぜんぜん落ちつかなくて(あ、自分のパートがね)こんなんでいいのか、なんだけどー。

中国は昨年4月の大連以来で、結構いろんなひとに「カニでしょー」とか言われたけど、もうシーズン終わってるし、あのカニそんな好きってもんでもないし。
それよか喘息もちでアレルギー性気管支炎で子供の頃しにそうになったので、PMなんとかのほうがやや心配。 なのであれこれいっぱいガードしてくれそうなマスクを昼用夜用いっぱい買いこんでいる。
喉はいっつも必ずやられて、一回やられると長びくからねえ。この、いろいろある季節にさあー。

上海というと、”O Estado do Mundo” (2007) - 「世界の現状」 - のChantal Akermanさんのパート、”Tombée de nuit sur Shanghai" - 「上海の夜は落ちて」を思いだす。 せめてあそこで描かれたような夜(があったら... )を見つめて追悼したいと思う。 なんか今、とっても寒そうなんですけど。

それにしても、あの頃と比べて「世界の現状」はどうなっているとおもう?  
相当にさあー。

上海では本屋もレコ屋も映画も無理だろうなー。

では、いってきますわ。

[film] Apple (1980)

21日の夕方、”The Intern”のあと、新宿でみました。
ちゃんと前日から予約していきましたよ。 ぜんぜん心配いらなかったけど。

結局、「メナヘム・ゴーラン映画祭」はぜんぜん行けなかった。
せめて追悼の思いをこめて『キャノンフィルムズ爆走風雲録』だけでも見なければ、と思っていたのに行けなかった。 おじいちゃんごめんよ。

でもこの”Apple”だけは見なければ、だったの。
なぜならわたしはBIMのシールを持っている(いいから持ってろ、て持たされた)BIMの信者だから、まさかの日本公開にあたっては当然の義務だったの。

前に見たときのログはこちら。(もう5年前かよ… )
http://talkingunsound.blogspot.jp/2010/11/film-apple-1980.html

ついでに同じ特集上映での「暴走機関車」のときのがこれ。
http://talkingunsound.blogspot.jp/2010/11/film-runaway-train-1985.html

あんまり書き足すこともないか。 相変わらずおもしろかったわ。

例えば、”Mad Max: Fury Road”とはどう違うのだろうか、描かれた世界の過剰にぶっ壊れたようなとこは案外遠くないと思うのだが、Mad Maxほどの熱狂を呼ばなかったのはなんでなのか。
失敗作を失敗作足らしめるものっていったい何なのだろう、とか思う。
みんな笑うのは簡単だけど、ゴーランさんはこの映画への客の反応見て死にたくなったというのだから。

失敗に学べ、とかそういうことではなくて、映画って生もの・ライブだよねえ、と昨日入手した鈍器のような「サミュエル・フラー自伝」をぱらぱらしながら思う。 ゴーランにしてもフラーにしても、別に今蘇ったわけではなくて、ずっとそこにいたわけだし。でもそれがここにこうして現れる、現れるべくして、みたいなふうに。

こういうのはとにかく見ることだ。損得じゃないの。

12.12.2015

[film] The Intern (2015)

もうぜんぜん時間がない。倒立しても時間どろぼうしてもない。
しかも冗談みたいに際限なく眠いし。

21日の土曜日の昼、新宿で見ました。
すんごくふつう、戸惑ってしまうくらいふつうのやつだった。

ネットでアパレル会社を起業したJules (Anne Hathaway)は会社も順調に急激にでっかくなって仕事のことも家庭のこともいろんなとこに目が届かなくなって疲れ始めていて、会社のイメージ戦略でシニアインターンの募集をかけたこともあまり覚えていない。

Ben (Robert De Niro)はリタイア後にそれ見てがんばって応募して、張りきって身支度して出社したら、カジュアルな会社のなかでは浮きまくり、Julesの身の回り世話係みたいなどうでもいい役をあてられて、でも嫌な顔しないでがんばっていると若者たちみんなにいろいろ頼られるようになっていくの。
会社に疲れたOLにも、お先のなくなった老人にも、双方にとってよい話なの。

Julesのイクメンの旦那が育児の合間に浮気してるのを見てしまった時とか、社外CEOの候補が実はすごく嫌なやつだった時とかに手袋したDe Niroが顎を引き攣らせて裏でしばくとか、"Meet the Parents"みたいにとってもキナ臭いじじいであることを期待してしまったのだが、そっちのほうには頑として振れず、社員の活用とは、職場とは、みたいなところで理想的な関係とか環境を保つことに注力しているようだった。 

「あんなのあるわけないじゃん」ていう世界を作り出す、というのもラブコメのだいじな機能ではあるので、これはこれでよいのかしら。でもRene Russoのマッサージ師はいくらなんでもやりすぎ、老人を優遇しすぎではないか。こないだの”It's Complicated” (2009)もそんなふうだったけど。

あと、あれじゃ、インターンていうよりただの執事だよ。
インターン、ていったらやっぱし” The Internship” (2013)のほうだよねえ。

12.11.2015

[log] December 08 2015

シドニーから戻ってきています。 帰りの空港あたりからなんかばたばたで眠いはだるいはあれこれ降ってくるはどうしようもない。

行きの飛行機で見たもう1本。

Mr. Holmes (2015)

1947年のSherlock Holmes (Ian McKellen)は田舎で引退してやかましい家政婦のLaura Linneyとその息子と一緒に養蜂とかをして暮らしているのだが、記憶障害に煩わしされるようになっていて、ローヤルゼリーが効かないから日本に行ってそういうのに効くという山椒の苗とかを持ってきたりしている。 (山椒をどろどろにしたのって、ボケに効くの? その山椒って広島の爆心地に生えているの? 真田広之はそのガイドのためだけに出てきたの?)

お話しは、Holmesが引退する直前、彼が手掛けた最後の事件を改めて追う - 助手は家政婦の息子 - ていうのを中心に、Holmes自身の老いとか養蜂の話とか、いろいろ。 まず、事件が謎なのは背後に周到なトリックがあるからなのかHolmesがボケちゃってわからなくなっているからなのか、そこら辺に辛抱強く付きあっていかないといけないところがHolmes好きじゃないひとにはきついかも。 さらに肝心の謎がそんなでもないとこもちょっとさみしいかも。 そりゃHolmesだってふつうに歳はとるしいつかは死んじゃうんだろうけど、そんなの誰が見たいのか、なのよね。

わたしはIan McKellenというおじいさんが好きだし、眉をひそめるLaura Linneyさんも好きなのでふつうに楽しめたけど、全員スズメバチにやられて一気に暗転、とかしてもおもしろかったかも。

帰りの夜便はQantasで、修学旅行帰りみたいなガキ共がうじゃうじゃいてげんなりだったが、機材が懐かしや2階建ての747で(2階がよかったのにな)、さすがにクラシックなかんじだったが、もうどうせ寝るだけじゃろ、でもな、と映画のリストを見たらひとつあったのでこれみた。

Paper Towns (2015)

Quentin - Q (Nat Wolff)は子供のころ、隣に越してきたMargo (Cara Delevingne)を見て運命のひとだと確信し、ただMargoはちょっと独特の変わった娘で、適度に距離を置きつつ高校のシニアになったある日、MargoはQに自分の親友と浮気しているボーイフレンドをとっちめる、とQを誘いだして夜中の冒険に繰り出して、それはとってもミステリアスな夢のような夜になるのだが、その後で彼女は姿を消してしまう(村上春樹的な失踪 .. てきとー)。 彼女の部屋に残された手がかりを元に彼女が行きそうな場所をつきとめて、プロム前なのに、と渋る仲間たちと一緒にNYのAgloe - コピーライト保護のために地図上に記載されているだけの実在しない町 - Paper townに向かって突っ走る。

デザインはあるけどぱっとしない未来。夢の少女。彼女の失踪。追跡。幼年期の終わり。
原作はJohn Greenで、"The Fault in Our Stars"がただの難病モノではなかったのと同様、これもただの青春ドラマではなくて、ではどう異なるのか、というのはひとりひとりがこれをどう読むかにかかっている。そういう間口をもったやつ。
それはかつてのJohn Hughesの映画のありようともなんか似ていて、彼の映画も一見ちゃらちゃらした学園青春ドラマのようで、実は見たひとにものすごく大きな根を長い期間かけて張りめぐらせていく。 ていうことにたまに気づいたりするこのごろ。

なんかね、”Ferris”を思いだしたりもした。 QはFerrisに出てきたCameron - 達観しているようでいろんなことを恐れている - で、FerrisはMargoなの、かもしれない。そしてQにとって決定的だったあの晩、仲間たちとの旅、そういうのは彼らにとっても、見ている我々にとっても残るんだよね。 ずうっと。

あとは、なんでこんなにちゃんとしたふつうの映画が公開されないのか、ってことなのよ。 
いつものことながら。 これはバカな大人の責任。

到着前、朝の4時頃、ぼーっとした頭で機内のオーディオに入っていたKendrick Lamar、はじめてきいた。 おもしろいねえ。


シドニーのその他はあまり印象ないの。
ホテルの近所にThe Museum of Contemporary Art Australiaがあって、5時半くらいに駈け込んでみたのだが、5時に閉まっているのだった。 5時に美術館が閉まってしまう町...
Grayson Perryの展示が12/10から始まっているのね。

食べ物はオペラハウスが見える水辺の、典型的なところでSydney Rock OysterとBarramundiていうお魚をたべた。 繊細な魚なんだから、と言われてみると確かにそうかも、スズキとサワラをあわせたような。(スズキの仲間なのね)

火曜の昼は魚市場で飲茶をたべた。豆腐花があったのは嬉しかったけど、粽のお米がもち米じゃなかったのがちょっと衝撃だった。

せめて本屋くらいー、Frankieくらいは買ってかえるかー、だったのにQantasのラウンジではほとんど仕事しなきゃならなくて、しんでた。

“Home Alone”はやっぱりおもしろいよねえ。

12.07.2015

[film] Ricki and the Flash (2015)

Sydneyに着いています。 けど明日にはもう帰るのでつまんない。 とにかくねむいし。

行きの飛行機で見た1本。  Jonathan Demmeの。 すごくよいのになんでこれ、公開しないの?

Ricki and the Flashていうのはバンド名で、Ricki (Meryl Streep)がVo.とg. 、The FlashはgがGreg (Rick Springfield) でKeyがBernie Worrellで、メンバーは地味にすごい人たちなのだが、SF郊外のパブのハウスバンドで、オリジナルよりは酔っ払い向けのカバー曲が中心で、冒頭からTom Pettyの”American Girl” (1977)をがんがんにとばしてかっこよいのだが、77年のこの曲を演奏するのはGirlでもなんでもないケバいおばさんというのがなかなかきつくて、彼女、昼間はTotal Foodsていう食料品スーパー(Whole Foodsへの強烈な嫌味)でバイトをしてて、要するにバンドは道楽なんかじゃなくて、自己破産とかもしているから楽じゃない。 

ある日、携帯に電話が掛かってきて、出てみるとインディアナポリスに住むEx夫のPete (Kevin Kline)で、娘のJulie (Mamie Gummer - Meryl Streepのほんとの娘)の夫が別の女に走って精神的にやばくなっているので助けに来てくれないか、という。 あんたの現妻に頼めばいいじゃん、ていうと、彼女は自分の父親の介護でシアトルに行っているので困っている、ていう。

しょうがないので荷物をまとめて行ってみるのだが、そもそもロックの道を選んで家族を放り捨てた - Julieの結婚式にも出なかったRickiに対して他の二人の息子も含めてみんな冷たくて、彼女もそんなことはわかっているけどうるせえ呼ばれたから来ただけだよ、て返すしかない。 失うもんないし、帰ろうにも交通費もないし。 少しだけ打ち解けてよいかんじになってきたと思ったら、Peteの現妻が戻ってきて、もうだいじょうぶだから、て帰されて、結局もとのバンド生活に戻るのだが、Rickiは自己嫌悪も含めてぼろぼろでGregともうまくいかなくなりそうで、そしたら、現妻からのごめんねの手紙と一緒に息子の結婚式の招待状が送られてくる。

でももうすっからかんだし服もないし、というところから先が泣けて、クライマックスは当然結婚式で、めちゃくちゃハイソなお式に呼ばれたRickiとGregは浮きまくるのだが、こうなったらウェディングバンドとして出てぶっとばすしかないでしょ。

家族からはみ出てしまった娘が姉の結婚式で…  というのが2008年の“Rachel Getting Married”でこれもすごくおもしろかったが、娘に加えて妻まではみ出してしまったこっちは更に修復不能でどうしようもないところまで転がっていく、家族ってそういうもんよね、ロックなんか聴きはじめたら崩壊するに決まってるのよね、とか思った。

Jonathan Demmeでライブシーンいっぱい、しかもこういうバンドのライブなんだから音楽映画として見たっていいの。 新郎のママが結婚式であんな曲ぶちかますなんてかっこよすぎる。
ロックがぶっこわしてしまった家族をロックがなんとか繋いでしまう、そこで見えてくるのは音楽の(あるいは家族の)崇高さとか素晴らしさとかではなくて、ほんと適当ないいかげんさ胡散くささ、なの。 そんなもんよ、と。

Meryl Streepさんは、元々歌は唄えるので問題ないし、バンドメンバーとして - そのおばさん的なぎこちなさいたたまれなさも体現していて見事、ではあるの。

それにしても、2015年にMeryl StreepとRick Springfieldが冴えないバンドの映画で共演することになるなんて、81年の自分に言ったらどんな顔をしただろうか。

そういえば、Rick SpringfieldさんはSydneyの出身なのだった。

12.06.2015

[log] December 06 2015

1206銀座大行進も参加できず、アンスティチュの「のらくら兵」も見れなくて、なにもかもぜんぜんだめだめ状態でNEXに乗るべく渋谷に来てみたら、まあああたNEXが止まっていて、慌てて山手線で日暮里まで出て京成に乗り換えてなんとか成田までやってきたとこ。

自分の乗るときにそうなってしまうだけのことかも知れんが(ええ、そういう子だったんです昔から)、この故障率の高さってNYのFとかL並みではないか。 渋谷から日暮里まで荷物抱えて移動して失われる体力となんとか前向きに保とうとしていたのにどっかに消えてしまった情熱のカケラを弁償してほしい。

これから夜行で向かうのは南半球のシドニーで、メルボルンは行ったことあるけど、シドニーは通過で泊まったことがある程度。 このあと現地に朝の7時に着いて、そのまま会議に突入してホテルに泊まるのは一泊だけ、火曜日も朝からまるまる会議して、その夜の便で日本戻って羽田に着くのが水曜日朝の5時、もちろんそのまま会社なのよ。
やんなっちゃうことおびただしいの。 師走ってこういうこと?

向こうは初夏でとっても暖かそうで、だから行きは夏の格好をしてて、だから日暮里までの移動も寒くて、日暮里からの特急(なのになんであんなに停車するの?)も寒くて、空港に向かうBGMもふだんならTot Taylorの"Australia"とかにするとこなのにあああったまきたのでBirthday Partyのライブとかを聴いていた。(でもあまりに殺伐として人に噛みつきたくなってきたので途中でSplit Enzにかえて、更にGo-Betweensにした)

と、いうわけなので今回の最優先事項は体調こわさないように風邪ひかないようにしよう、くらい。 レコード袋なんてもちろん荷物に入れてないよ。隅っこの方にしか。

ああこのあとの会議とか平穏無事にいきますように。
せめておいしい食べものくらいにはあたりますように。

ではまた。

[film] Maze Runner: The Scorch Trials (2015)

14日の晩、”Altman”のあと、そのまま新宿でみました。

なにがなんでも、ていうよりは、見とかないと、つきあっておかないと、程度で。
こういうのもまた群像劇だと思うのだが、Altman先生が見たらなんていうだろうかしら。

前作で迷路を抜けだして生き残ったThomasとMinhoとTeresaとそのた一行はWICKEDていう組織の施設に保護されてなかなか手厚いケアを受けて、そこには同じように他の迷路をサバイブしてきたらしい若者たちがいっぱいいて、彼らはリスト上で名前を呼ばれて順番にどこかに連れていかれる。
その様子が怪しくて、更に施設内で変なものを見てしまったThomasは、そこを抜け出すことにして、みんなでえい! って施設の外に出てみるとそこは砂漠とか都市の残骸とか廃墟とか、さらにそこにはかつて人間だったらしいゾンビみたいなのがうようよいて、襲ってくるのではらはらどきどきで、唯一の希望はWICKEDでもなく化け物でもなく、彼らと同じ意思や希望をもって戦っている人類なの。

前作には明示的な、誰が見たって迷路があったわけだが、こっちのは柵や囲いがないだけの、誰が、なにが敵か味方かもわからない迷路迷宮であることは変わりなくて、人生とは現実とはそういうものなのだよがんばりたまえ(ひとごと)、なかんじが全体に漂う。

Thomasとかの幼少期の記憶は断片的で、だからあるべき状態、還るべきスイートホームなホームがない状態がその迷路感、錯綜感を加速して、これじゃあんまかわいそうとか言えないよね、というあたりが賛否の別れるところかも。  走って逃げて戦って少し恋もしそうで友情もあるし、めいっぱい青春してるんだからそれでいいんじゃないの(ひとごと)、とか。

今作はどことなく「帝国の逆襲」的な終り方をしてて、まだ続きがあるようなのであんま書けないけど、ここまで巨大グモ → ゾンビときたので次はなにかしら? 熊、じゃないよね。 まさか。

でも次も見るから。

12.05.2015

[film] Altman (2014)

14日の土曜日のごご、新宿で見ました。これは見とかないとね、と。

アーカイブ映像や関係者インタビューから成る映画監督Robert Altmanの人と作品を追ったドキュメンタリー。

Altmanは、2002年の暮れにFilm Forumで”Altman's 70s”ていう特集があって、そこで集中的に見て、はまったの。

映画の中味がおもしろくて(勿論おもしろいんだけどね)感動して夢中になった、というより、映画に出てくるひとも出来事も全員変でまともじゃないし、不気味だし理不尽だし、楽しいことはあまり起こらないくて、それなのに何故かあの世界に引きこまれる。あまりに異様なので変態なので引きこまれる、というより、あの世界とこちらは何かがどこかで繋がっている、それはいったい何なのか、どこなのか? と考えはじめて止まらなくなる、というかんじ。
少しだけ特異で変な時代、場所、状況でちょっと変なひと(たち)が変なひと(たち)と関わって重なってつるんで、なにかが動いたり起こったりして、ものすごく弾けたりハッピーになったりすることもないまま、「… ということでした」みたいにぽつりと終ってしまう。

群像劇、と呼んでしまえば簡単なのだが、もう少しいうと、ひとりひとりが自分は王様だ主人公だとふつうに思っていて、そう思っている連中が互いに互いを理解しないまま、理解できるなんて思っていない(なんでそうする必要がある?)まま、まるで勝手に自動に動いていくゾンビみたいに、うらうらぞろぞろ進んでいって、結果なにひとつ収束しないし解消しない。 
これでいいのだ、てバカボンのパパはいう。 ほれ、こんなだ、ていう。
その無責任な男性中心主義は、狙ったもの、というより現世がこんなふうだから、ていう程度のこと。
神の目は存在しない。 あるいは、存在しない、というかたちである、かもしれない神のなにかを描く。

そして、こんなふうな類型や説明からも自由勝手にはみ出してくるひとつひとつのドラマ。
見てみるのが一番で、個々の映画が紹介されていくにつれて、とにかく見たくて見たくてたまらなくなる。

2010年の9月、Lincoln CenterのWalter Readeで、"FASTEN YOUR SEATBELTS! : 75 Years of 20th Century Fox”ていう特集があって、そこで"M*A*S*H" (1970)の40周年記念のNew Printが焼かれて、Elliott GouldとTom Skerrittがゲストで出てきてトークした。
そこでのQ&Aで「70年代はAltmanの映画に限らず、アメリカ映画全体がすばらしかったと思うが、それ以降の映画では、一体何が変わって何が違ってしまったのでしょうか?」という質問がでた。

それについてElliott Gouldはこんなことを言っていた。
「それは映画ビジネスの話にすぎない。映画作りは、つまるところタイムマネジメントとリソースの手配の問題で、そのやり方が変わったんだとおもう。でもアルトマンに関して言えば、彼の映画は時代に制約されない。彼の映画は常に現代のことを描いているんだ。今観た"M*A*S*H"は、現代のことを扱っているんだよ」
そして、Elliott GouldもTom Skerrittもあの映画からそのまま出てきたような佇まいだったの。

2004年に”Secret Honor” (1984) のリバイバルがあったとき、92yでQ&A with Robert Altmanがあって、そこで生Altmanを見たのだったが、そのときの映像が使われている気がした(黄色いジャケット)のだが、違うかしら。
そこでAltman先生が嘆いていた「最近はカメラがあればドキュメンタリーを撮れると思っている輩が大勢いる」 のケースにこのドキュメンタリーははまっているのかどうか。

でも映画は見たいなあ。 今ってどちらかというとファスビンダーやフラーの時代なのかもしれないけど、Altmanもおもしろいんだからー。

12.03.2015

[film] Les Tontons flingueurs (1963)

13日の晩、アンスティチュのフレンチ・コメディ特集、『イタリアのある城で』のあとに見ました。
『ハジキを持ったおじさんたち』。 英語題は、“Monsieur Gangster”。
びっくりするくらいおもしろかったの。 フレンチタッチとしか言いようがない。

元やくざで今はかたぎのFernand (Lino Ventura)が幼馴染でまぶだちの”The Mexican”が国に戻ってきて、でも死の床にあると聞いて病院に行ってみるとほんとうにそのようで、彼のやばい闇ビジネスと勉強しないで遊び呆けている娘の面倒を見てくれと言われる。 いやいやもうその世界から足洗ったし、て帰ろうとするのだが、瀕死の”The Mexican”の周りに寄ってきた怪しげな連中を見たらこれはなんとかしないと、になって会計士と執事と娘Patriciaのいる彼の家に行ってみたら早速向こうは刺客を送りこんでくる。

Fernandのがっちりドスの効いた顔だち体つきからすると、友との約束を守ろうとする旧勢力やくざ vs 元気で容赦ない新勢力やくざの血みどろの抗争、になってもおかしくないのだが、ぜんぜんそっちの方には行かない。 留守を預かる会計士も執事も相当変な傷物おじさん達で、銃器マニアの若い鉄砲玉ふたりも助っ人に入るのだが、なんといっても激甘娘Patriciaとその彼 - 自称作曲家のナードみたいなの - のカップルが家のセンターで、わたしたち悪くないよね? て無邪気かつ堂々居座ってるもんだからシリアスな世界はがたがたとドミノで崩れていって、そうは言っても刺客は懲りずにわらわらやってくるので「ハジキを持ったおじさんたち」はうるせえんだよ蠅ども、て立ちあがらざるを得ないの。

Patriciaが勝手に開いたパーティで全員めちゃくちゃ強いお酒を飲んでぐでんぐでんになっていくとことか、楽しいったら。 臭みだらけで灰汁たっぷりのおじさんたちが、旧友との約束とか娘を守るためとかとう大義とは関係ないところで、たまんねえなこのかんじ、みたいに嬉々としてどんぱちをおっぱじめるの。

善玉でも悪玉でもない、むっつり揺るがないでっかいハムみたいな肩肉とか胸板とか、Lino Venturaの風貌と佇まいがとにかく圧倒的で、ドアの扉が開いた瞬間に相手を思いっきりぶんなぐるとことか、すごいったらない。
“The Army of Shadows” (1969) を見たくてたまらなくなった。

明日のアンスティチュのJudd Apatowのドキュメンタリー、行けなくなっちゃったのでものすごく頭きてダークになっている。 インフルエンザにでも罹ったろか。

12.01.2015

[film] Un Château en Italie (2013)

13日、金曜日のごご、春画のあと、目白から飯田橋に移動してアンスティチュでみました。
「フレンチタッチ・コメディ!」の特集、もちろん全部見たいのだけど。

『イタリアのある城で』。 英語題は”A Castle in Italy”。

この日の2本目の上映で、チケット買うときに上映予定だったものが変わりましたと言われたのだが、ここのは何見たっておもしろいに決まっているのでそれでいいです、という。 チケットはなんでかタダのをくれた。 うれしかった。

季節は冬、40過ぎのLouise (Valeria Bruni Tedeschi)はイタリアへの里帰りのあと、ぐったり帰ろうとしていたところで、映画撮影中だった俳優のNathan (Louis Garrel)  - ちなみに劇中の映画監督は彼の父親という設定 - と森のなかで出会う。 彼は若い頃女優をしていたLouiseの作品のあるシーンを憶えていて、ちょっとだけあらまあ、とときめくのだが、あんたみたいな小僧に言われてもねえ、とその場は別れるの。

やがて二人はパリで再会して、少し戸惑いながらも仲良くなって、やがて同棲を始める。
Louiseには亡父がイタリアに遺した古いお城とかブリューゲルの絵(窓ケツ脱糞のあれ...) があって、兄は重い病気でふらふら(でも口は達者)で、母はこれからの生活のためにお城か絵を売ることを考え始めていて、LouiseはNathanとの子供がどうしても欲しくなって、兄の病状は回復しなくて、Nathanは売れないので役者をやめて、Louiseのex恋人がお金をせびりにやってきて、などなど、ゆったりとした季節の巡りと共に出口のあまり見えない彼らのじたばたが描かれる。

本当であれば、時代が時代であれば、イタリアにお城を持っている彼らの日々は貴族みたいにゆったり落ち着いたものであったに違いないのだが、現実には病気、年齢、経済、家族、などなどが問題として嫌味のように次々現れるのでエモはぼろぼろであっぷあっぷで、ドラマとかロマンスどころではなくて、みっともなく修道院の床にひれ伏すしかない。 いやいやだからこそ、と思い切って踏み出してみれば余計に泥沼、もう若くないし、でもなんか大人じゃないし、みたいな。

こういうのをフレンチタッチのコメディと呼んでよいのかどうか、チェーホフみたいだけど、でもこれはコメディで、コメディなんだから、と、そういう方向に断固ガイドしようとする主演兼監督のValeria Bruni Tedeschiさんはすばらしいし、共同脚本は『カミーユ、恋はふたたび』のNoémie Lvovskyさんで、このふたつ、このふたりを並べてみると、なんて力強くて素敵なことでしょう、と。 まじで。

あと、この並びにVincent Macaigneあたりが加わると膠着感に更に艶と磨きがかかって、どうしようもないぐだぐだになるんだけど、とか思った。

[art] SHUNGA 春画展

13日のごご、仕事とかぜんぶ嫌になったので半休して行った。

そんなにまでして見たいか、というとそんなでもなくて、ただとっても混雑しているらしいというのを聞いて、土日は更にひどくなるにちがいない、しかも場所はああいう美術館というよりでっかい家屋みたいなとこだし、そういう場所に、陳列物で鼻息が荒くなってしまうかもしれないお年寄り連中と一緒にパックされて並んでみるのはあんまし気持ちよくないよね、ということで平日の午後にしてみたのだが、結果的にはじゅうぶんに混雑していてあーあ、なのだった。

それにしても、整列する必要はありません、て連呼しているのになんで列を作って並びたがるかね、あの人たちは。

春画と呼ばれるジャンルについても、その時代背景についても描かれる対象についても行為についてもすごく詳しいわけではないのだが、これを見に来るひとは性の不思議(性を求めてしまう不思議)とか、当時の性風俗とか、形象・形態面のあれこれとか、あるいはそれら全部とかを見たくて、やってくるのだろうな。 あるいは、なんでこんなのが大英博物館で? とか。

個人的には、日本画で動植物のフォルムを見たときの驚き - これがこんなふうになるのか-、ていう感嘆に変わる具象・抽象の変換のありようが新鮮で、ふーん、とか、ふむふむ、になる、それと同質の変換が起こって思わず「すごーい」とか言ってしまったりするのではないかしら、と。

日本画で描かれた動植物を認識するとき、その形や色や質感がシンプルな太線曲線でアイコンのようにくるくるっと描画されていると「かわいー」と思わず声に出てしまうが、春画の場合の認識プロセスも同様に「やらしー」という感嘆や共感のようなかたちで伝播していく気がして。 
「かわいー」と「やらしー」の国にっぽん。 ちっともCoolだとは思わない。

それにしても。 それにしても、だよねえ。
♂と♀の対、腕が2本づつ、脚も2本づつ(タコ、っていうのもたまにあったりするが)、頭(顔)はひとつづつ、ほぼ真ん中に棒みたいなのと穴みたいなの、その接合とか結節とか、その上下左右、着衣に脱衣、可変項目はこんなもんだろうに、その組み合わせのバリエーションたるや無限大のようで、世紀を跨いでメディアを超えて、えんえん拡がって伝播し続けている。 進化? …わからない。 やたら壮大なかんじがしないでもないが、つまるところは生殖行為にくっついてくる欲望が表に出てきた程度のもん、便所の壁の落書き、とまでは言わないけど。

ていうのもあるし、この描線は「わかっているくせに」ていうのと「いやいやそんなことまでは」の間、リアルと妄想の境界や隙間を実にいやらしく突っついたりほじくりかえしたりする。 そういう止まらない線のユニバーサルなかんじはあるかも。 変てこで変態であることはじゅうぶん踏まえた上で。

あと、日本画、の特性もあるのだろうか、画面がぺったんこで乾いている、というとこは大きいかも。 乾いた画面の上で踊る線、としてあることで、笑えるところも含めて軽く、さくさくぱらぱら見れる、ていうのはあるか。 そんな、レンブラントやカラヴァッジオを見るみたいに見つめても、なんも出てこないよ。  視線はある特異点を求めて彷徨うのかもしれんが、そこに救いがあるわけでも啓示があるわけでもない、線として見ればただの錯綜したぐじゃぐじゃでしかない。その横や端でひらひらと踊っている文字群も含めてね。

というようなことを思いながら見ていて、なんかつかれた。
嫌いじゃないんだけど。ぜんぜん。