この一週間、落ち着いて感想とか書いていられる状態ではなかったのだが、これがまだまだぜんぜん終るもんではないことを踏みしめた上で、7月10日から国会前に通いだしたSlow Learnerの区切りとして、なんか書いておきたい。
前にも書いたかもしれないが、もともとこの国なんてこれっぽっちも愛していない、国籍破棄したいくらいに思っていたし、78年にパンクに出会ってからずっと”NO FUTURE”だったし、意味レス根拠レス逃走が自慢の80年代の子供だったので、この態度の延長・帰結として、そんなことしたって意味ないじゃん、という大多数の「大人」とおなじような態度であってもおかしくなかったはずなの。
でもやはり、ここ数年、日本がどう、というより世界まるごとがダンゴでひどくなっている、悪いほうに向かっているという確信を背景に、パンクとその思想を継承したポストパンクがその起点に抱えていた「音楽は、アートは、世界をどう変えることができるのか」という問いが改めてぶり返してなんか引っ掛かってくるのだった。非暴力は当然としてもその根底にあるべき正義や善て、人があれこれ勝手に語る価値観とは別に、運動として刺さってこないといけないよね。でもいまの世界で全部にいっぺんに通用する正義ってありうるのか、とか。
そういったもしゃもしゃした数年来の思いが、デモに行ってコールして、SEALDsとかの若者達の言葉を聞いているうちになんか軽くなっていったのだった。 デモは腐った政権を倒したりクソ法案をぶっ潰すためというより、なによりもまず参加者ひとりひとりの覚醒を促しもたらすものとして、本当に多くの学びや気づきをもたらすものとして「機能」していたの。 若者だったから、と人は言うかもしれないが、それこそなめんじゃねえ、なんだよ。 ひとりひとりが当然のように勝手に動いて勝手にコールして勝手に帰っていって、とにかく軽いしシンプルだし。
まずは自分が学べ、と。
SEALDsやT-ns SOWLは間違いなくなにかを変えたんだ。 誰がなにをどう言おうと。 よくも悪くも.. でいうと、悪いとはぜったいに、だれにも言えまい。 邪悪ななにかに取り憑かれているのはあいつらのほう。
919 - この3桁はこれからの日本で、米国での911とおなじような意味を持つだろう。 絶対に忘れてはならない一日として。
安倍とその取り巻きが数年かけて周到にメディアを押さえ、財界を押さえ、党内を縛り、労使や福祉を骨抜きにして、戦後日本の見えない拠り所、コアとして聳えていた憲法に対してクーデターを起こした。周囲や管制官(法学者)の言うことを一切聞かずに、病的なまでの妄信と暴走と共にそこにあったものを改竄しようとしている(おかしなことにそれを彼らは「取り戻す」という)。
911とはっきり異なるのは、まだ人は死んでいないこと、そして敵がはっきりしていることだ。
敵や憎悪を生み出すことこそダークサイドの、敵の思う壷なのだ、と言うことは十分わかったうえで、この数ヶ月でずいぶん敵と味方がはっきりしたと思う(敵の囲い込みがあまりに露骨で下品だったから、ていうのもある)。 そして今はもう昔の平和なにっぽんではなく明らかに非常事態なのだから、敵のほうは相手にしないし関わらないことにしよう。連中の話は一切聞くに値しない。 相手にしている時間はない。 まず自分が勉強していろんな想像力を働かせられるように。
とにかくもう、次にいくの。 ぶっといキックの鳴りと共に光より速く動いていこう。
そしていつものように、よい音楽、よい映画、よい本を。
9.19.2015
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