11.30.2014

[music] Pauline Murray And The Invisible Girls (1980)

たまにはライブ以外の音盤の紹介とかもしてみる。
再興されたLes Disques du Crépusculeから10月に再発されたこれ。

http://www.lesdisquesducrepuscule.com/pauline_murray_and_the_invisible_girls_twi016.html

大学の頃に国内盤のアナログを買って何度も何度も聴いていたので、うわぁーって最初にアナログ2枚組のを買ったら、ライブ音源が入っていなかったのでCDのほうも買った。 CDだと一度93年に再発されていたらしいのだがそっちは知らなかった。

The Invisible GirlsはJohn Cooper ClarkeのバックとしてMartin HannettとSteve Hopkinsを中心に編成されたマンチェスターの不定形バンドで、この盤ではそこに元PenetrationのRobert BlamireやThe Durutti ColumnのVini Reillyがギターで参加していて、わたしにとってMartin Hannettの最高傑作はこれとThe Durutti Columnの”LC”、なの。

ちなみにThe Invisible GirlsはNicoの12inch single - ”Procession" / "All Tomorrow's Parties" (1982)でもバッキングをしている。(これもすばらしいので探して聴いてみてね)

音はMartin Hannett特有の固いパーカッションの上を浮遊するシンセとViniのギターが光となって乱反射して、その上をPauline Murrayさんの甲高いヴォーカルが走っていく。曲名にもある”Dream Sequence”としか言いようのないポップでドリーミーな音で、でも、弾けて跳ねまわりながらも確信に溢れたパンクでもあるという。

たとえばこの数年後、The Sugarcubes - Björk が出てきたときも、自分はPauline Murrayの流れに置いて聴いていた。

今回追加されたライブ音源のほうも興味深い。特に数回出てくる”Time Slipping”から”Dream Sequence”の流れ、歌が奔放に飛びまわってすばらしいこと。 Vini Reillyがバックに入った音源もあるのだが、ギターの音だけ妙に浮いてて、やはりバンドにはあまり向いていないことがわかる。

あと、音楽とは関係ないけど、わたしにとってショートカットの女の子って、音楽だとこの時期のPauline Murrayさんで、映画だと”Some Kind of Wonderful” (1987) のMary Stuart Mastersonさんなのです。


ところで、28日のBlack Fridayは、約31年ぶりにMillennium Falconが正しい姿で(ああ、あの中にいるのが魚星人でありませんように)飛翔した(鳥肌ぶるぶるの)日として歴史に刻まれることになるのであろうが、RSDのBlack Fridayでもあって、一日遅れの土曜日に買いに走った。

今回のリリース分は、なんのチェックもマークもしていなかった(除 - The Afghan Whigsの”Gentlemen at 21”) のだが、行くとやっぱしいろいろあるのだった。
Game Theoryのデモ音源が10inchで2枚も出ているし、Sneakersのデビュー盤もなんでか10inchで出ている。 今の日本でこんなのを買うひとがいるとは思えないので拾ってあげる。

(Game Theoryのは、やっぱしGame Theoryで、実に才気に溢れていて惜しかったなあ、て改めて思った)

他にもLizzy Mercier Desclouxの7inchとかFaith No Moreの18年ぶりの新作7inchとか、くすぐったいのがいっぱいあって、結局散財する。 今年最後の。 たぶん。

“Guardians of the Galaxy”の、あのカセットは、未だに悩みちゅう。
あと、Fantomasの箱はもう売り切れちゃったのかなあ。

[music] Ben Watt - Nov.27 2014

27日の晩、渋谷のクアトロで見ました。

もうぜんぜんライブに行けない体になってしまい、でも行きたくてしょうがなくて、たまたま空いた日があったので当日券で入る。 Napalm Deathは行きたかったけど、行ったらたぶんしんじゃう、あとでこの日、Fennesz - O’Rourkeがあったのを知ってちょっと悔しかったが、でもいい。

7:30きっかりに客電が落ちたのでわーい、と思ったら前座だった。 確認しなかったこっちも悪いけどさ、チケットに書いておいてほしい。 時間削って体力も削られて死にそうで這うようにして来てるんだから。

Ben Wattを見るのは97年頃(たぶん) - “Walking Wounded”時のEBTGのライブ - チェルシーの西のはじっこにあったクラブ(たしか)- 以来か。
今年の春、”North Marine Drive”以来30年ぶりとなるソロ -”Hendra”でギターを、しかもエレクトリックギターを抱えて戻ってきてくれたのは本当に嬉しかった。
聴いたらものすごく腰の据わった落ちついた男っぽい音でなんというか、いろいろ考えてしまったのだが、そのはなしはあとで。

メンバーは3人、ベースレスで、力強くうねるギターのリードはBernard Butlerさんでアンサンブルとしては申し分ない。 ギターの他に、Ben自身によるWurlitzerのエレピも美しい。 “Hendra”から始まって3曲目で”North Marine Drive”から”Some Things Don't Matter”を。 Everlasting Loveを求めてひとり外界を眺めていた“This boy”の30年後、その声のトーン、その声の落ち着きはどうだろうか。

Ben Wattさんは一曲一曲丁寧に、その曲の成り立ちや背景を説明してくれて、こうして我々は”North Marine Drive”がどんな場所にあるのか、EBTGの”The Road”が、”The Levels"が、本編最後に歌われる”The Heart Is A Mirror”がどういう意味やストーリーをもつ歌なのかを知ることができて、それなりに興味深かった(特に80年代のThe Apartments, the Go-Betweensといったオーストラリア勢の関わりとか)のだが、そのしっとり丁寧で、確信に満ちた喋りになんか違和感を覚えてしまったことも確かで、それが”Hendra”を最初に聴いたときに感じたなにかだったのかもしれない。

30年という時間 - 一度ギターから離れて皿回しになり、再びギターを手にする - の帰結としての“This boy”の「成熟」について云々したってしょうがないし、ライブとして、音楽として素晴らしかったことは確かであるので、別にいいんだけどね、自分のこともあわせていろいろ考えてしまったことであるよ。 あの彼(This boy)はどこに行ってしまったのだろう、とかね。

もちろん、そんな無垢な”This boy”幻想なんてこっちが勝手な思い込みでしかないので無視していいんだけど、そういえば”North Marine Drive”が出た当時、洒落た格好してあのレコードを見せびらかしているのにろくな奴いなかったよね、とか。 
わたしはEPの”Summer Into Winter”がいちばん好きです。

で、結局、ひょっとしたら面倒なやつかもしれないBen Wattをここまで見守ってきたTracyえらい! に落ちつくのだった。 アンコールの最後は”25th December”だったが、Tracyの”Tinsel and Lights”もそろそろ引っぱりだす季節になりましたね。

11.28.2014

[film] Tonnerre (2013)

23日、日曜日の昼間に渋谷で見ました。

待望の、という割にはなかなか見にいけなかったGuillaume Bracの長編第一作。「やさしい人」

原題は、舞台となるフランスの田舎のトネールのこと。
パリで音楽をやっていて、なんか疲れて父の住むトネールの実家に戻ってきたMaxime (Vincent Macaigne) は、宅録みたいなことをしながらぼんやり過ごしていて、ある日地元紙の取材にきたMélodie (Solène Rigot)と知り合って仲良くなって、家に泊まったり、スキーに行ったり、恋人同士になる。

Mélodieには地元サッカーチームの元カレがいて、ちょっと未練あるふうな彼女がなんか変かも、と思ったら連絡が取れなくなって、しつこく電話していたらよりを戻したらしい元カレから「引っこめ、ロリコン野郎!」とかメッセージが来たりして、だんだん冷静じゃなくなっていく。 知り合いが持っていた拳銃を手にした彼はふたりを待ち伏せして駐車場で。

中年にさしかかったどんより冴えない男が久々の恋に目覚めて正気を失っていく - というと、たんなるロリコン野郎のストーカー話、に見えてしまうのかもしれないが、そういうのではないの。ぜんぜん。
(ネタバレかもだけど)暗くやりきれない話ではない。ひとは死なないし、血がでるのはほんのちょっとだけだから。

凍てつく田舎町で、唇以外はまっしろでふるふるしている男(ちょっとRobert Smithぽい)と女が出会って、会話と逢瀬とキスを重ねて恋仲になっていくやわらかく暖かい過程と、それが突然途絶えてしまったときの困惑と混乱と絶望、刻々と過ぎ去り失われていく、ほんとうはそこになければならなかった時間と瞬間をカメラはMaximeに親密に寄りそって生々しく拾いあげていく。 恋愛に落ちたときのとりかえしのつかない、でもそこにしかない麻薬が運んできたかのような時間がここにはある、それだけでなんかたまんなくて、だからMaximeが意を決してそれを取り戻そうとするのはちっとも病んだ行為には見えない。

そのMaximeのきまじめな追いつめられっぷりを「やさしい人」と呼ぶのに違和感はなくて、でも驚くべきなのはその彼の突撃にやんわり同調しちゃうMélodieで、彼女もまたしょうもなく「やさしい人」なのだった。 それをいうならパパもそう。 わんわんも。 みんなやさしいんだよ。
或いは、その手ぶらで無防備なさまを子供、と呼んでしまうこともできるだろう。

やさしい人と大人になりきれない子供たちが巻き起こす騒動を描く、というとやっぱしJudd Apatowの世界に近いんだねえ、とか。(Maximeは”Superbad”のTシャツ着てるし)
ちなみにGuillaume Bracが影響を受けた5人* -  Maurice Pialat, Eric Rohmer, James Gray, Judd Apatow, Jacques Rozier、ってなんかわかりやすいねえ。  *Libérationのインタビューより

しかしVincent Macaigne、『ソルフェリーノの戦い』(2013)でも中編の”Kingston Avenue” (2013)でもそうだったけど、恋に狂ってなりふり構わず突進していく薄気味悪いやつ、のイメージが定着しちゃうのかしら。 このひとはPSHみたいにもSeth Rogenみたいにもなれるすごい可能性を持っていると思うんだけどなー。

11.27.2014

[film] Nymphomaniac: Vol. II (2013)

少し戻って、16日の日曜日の午後、新宿で見ました。

前作、Vol. Iのラストでなにをどうやっても感じない身体になってしまい、Nymphomaniacとして絶対絶命の岐路に立たされてしまったJoe (Charlotte Gainsbourg)のそのごを描く。

少年漫画の定番でいくと、Joeは山に籠って血の滲むような修行して覚醒し、ニンフォパワーで悪いやつらをばさばさやっつける、ことになっているはずなのだが、そこまで単純ではなくて、かといってものすごく深いなにかを示してくれるわけでもなかった。 むしろ表層で変態していくNymphomaniacの横滑りを黙って見て聞いているSeligman (Stellan Skarsgård)のもこもこした不審な挙動が際立つ、程度の。 

Joeがなんでそこまで性を求めて止まんないのか、感覚を取り戻したいのか、はなんで彼女がNymphomaniacになったのか、ていう問いと同様、よくわかんなくて、いや正確にいうと、そもそも彼女がNymphomaniacになったのは純粋にやりたくてたまらなかったからで、その感覚が消失した、ということは無理に求める必要がなくなったということなのだから、単にやめればいいだけじゃん? と思うのだがどうもそうではないらしい。 そこらにたむろしていた言葉の通じない連中を呼びこんでやってみる、とか、乳呑み児を置いて夜中にどS屋のところに通うとか、これはおそらく彼女の存在の根底にあるなにかに関わることにちがいない(幼少の頃の絶頂体験の項参照)、とか思って、だからどS屋稼業のJamie Bell(すごくよい)にがんばれ、もっとひっぱたけ! と声援を送ったりもするのだが、結局それが火をつけたのは彼女の母性とか自立する力とか、そういったものであったらしく、その落着っぷりがなんか食いたりなくてつまんなくて、だから冒頭、ボロ雑巾のように道端に打ち捨てられていたのはバチみたいなもんなのだ。 たぶん。

若いころに燃えあがって、歳とったら枯れる、ってごくふつうじゃん。
歳とってサトゥルヌスみたいに若いのを食いまくる図、ていうのを想像していたのにー。
と、思ったあたりで突如Seligmanが ...  そうかそっちに転移するのかー、とか。
でもやっぱし”Antichrist”とか”Melancholia”みたいなごりごりの奈落の底に突き落としてほしかったかも。

音楽はTalking Headsの"Burning Down the House”がタイトルそのままに気持ちよく鳴るのと、エンディングでCharlotte Gainsbourgさんによる”Hey Joe” (produced by Beck)が。 Patti Smith版でもよかったのに。

11.26.2014

[film] Sharing (2014)

24日は朝からずっと仕事で缶詰めの箱詰めでしんでいたのだが、夕方になんとか終わって、Filmexに開場ぎりぎりで駆けこんだら当日券があったので、みました。

いまの政権下でTV CMをやっているような邦画は見ないことにしているし、首相がやってくるようなTIFFなんてだーれが行くもんか、だったのだが、「あれから」の監督の次回作であるのであれば、更に公開が決まっていないということであれば、なにがなんでも見ねばなるまい。

「あれから」は震災後、神経を病んでしまった恋人の元に主人公が走っていくお話しだった。
この映画は震災後、いろんなのがこちら側にやってくるお話し。
「あれから」とは登場人物の一部が重なっていて、つまりおなじ世界で、それは今、この、腐れた世界とも当然のように繋がっている。

冒頭の女学生との対話のなかで、「こちら側」が明らかになる。
こちら側、というのは、未だに収束しないような大事故を起こした「東京電力福島第一原子力発電所」に怒りつつものほほんと日々を過ごしてしまっている我々のほうのことで、その女学生はあの辺に特に身内や親戚がいるわけでもないのになんか苦しくて、311より前に原発が爆発する夢を見たのだという。

その女学生と対話して予知夢の情報採取をしていたのが瑛子(山田キヌヲ)で、映画の主な舞台となる学校で社会心理学を教えていて、彼女は311の際、たまたま現地に行っていた彼を失って、それ以来彼の幻影とか変な夢を頻繁に見るようになって苦しんでいる。

もうひとり、自身の卒業公演で311をテーマとした演劇を上演しようとしている薫(樋井明日香)がいて、彼女も芝居に取り組むようになってから、津波にあって子供を失い、板に乗って漂流している女性のヴィジョンを見るようになる。 冒頭の女学生と同様、現地に親戚もだれもいないのに、それを頻繁に見るようになって、だから苦しい、というのではないし、芝居をやめるつもりもない、寧ろその像に取りつかれていって、共演者はついていけなくなって離脱していく。

なぜ彼が逝かなければいけなかったのか、という問いが瑛子を予知夢の研究に向かわせ、なぜその像が私に現れるのか、という問いが薫を芝居に向かわせる。 そして両者は共に嘆き苦しんでいて、互いにその苦しみを共有し、癒すことができるとは思っていない。

その二人が正面からぶつかりあうシーンは息を呑むくらいすさまじいのだが、心理的な衝突や葛藤がドライブするドラマ、ではない、という点でこれは心理劇ではない。むしろ彼女たちの心はほんとうにまっすぐで、自身の目に入ってくる像(夢だろうが幽霊だろうが)にできるだけ寄り添おうとする。

・自分はこうなることを、これが起こることを知っていたはずだ。(でも、なんにもしなかった)
・満開の桜を、満天の星空を一緒に見たかったのにー。(また会いたいよう)

このふたつの思い(だけ)が貫いていて、揺るぎなくて、だからせつない。

予知夢、ていうのはそれが現実に起こったことがわかった時点で予知夢になる。予知夢が予知夢であることがわかったときには、もう遅くて、なにをどうすることもできない。 予知夢を見るひと、というのはそのどうしようもなく後ろめたい夢の世界を生きるしかない。

自分の辛さ寂しさを誰かと共有したい繋がりたいというのではなく、彼らは自分の頭の奥をずっとひとりで掘って彷徨っているばかりで、繋がりたいと思う相手はこの世にはいない - 死者だけだ。
でも震災後を生きる、というのはそういうことなのではないか、と。(そういう言い方はだいっきらいだけど)

あとは、自身が分裂しながらドフトエフスキーの「分身」と爆弾を抱えて校内をうろついている怪しい学生とかもいる。 わかるなー。

くそったれ選挙の前にぜったい見るべき、再稼働なんて言ってる厚顔のバカ共に向けた最大級のくそったれ映画、でもあるの。
きちんとしたかたちで公開されることを祈りたい。

11.24.2014

[film] The Hundred-Foot Journey (2014)

9日の日曜日の午後、京橋から新宿に移動してみました。 
邦題は、えーと、なんか市販調味料の商品名みたいなやつ。

フレンチ vs インディアンのお料理バトルみたいのを想像していたらぜんぜんちがった。

幼いころからムンバイで、料理人のママの元で舌を鍛えられたハッサンとパパと兄妹たちは、地元の政治暴動で母を失って英国に渡り、その後、オランダ経由でフランスに来る。 車が故障して動かなくなった地点をなにかのご縁に違いないと、そこのボロ家を買い取って自分たちのレストランにする。 が、通りの反対側にはミシュランひとつ星のフレンチがあって、夫の死後、そこをひとりで仕切っているマダム・マロリー(Helen Mirren)がいる。

最初のほうにはお決まりの異文化衝突、お隣家衝突があって、その後に、フレンチを学び始めたハッサンとハッサンのオムレツにやられちゃったマダムの間、あるいは傲慢なパパと頑固なマダムの間でなにかが溶けはじめて、ハッサンはマダムのレストランに雇われて、そこからスターシェフに成りあがっていくの。

お料理の基本はママの味、おいしいお料理は(愛とおなじように)すべてを救う、ていう論調はもういいかげんにして、なのだが、今回のはフランスとインドの間であまりに溝が深すぎる気がして、それでもしぶとく乗り越えるのね、というところに割と感心した。 でも、どうせならえんえん食材合戦、ソース対決みたいのをやってくれたほうがおもしろかったのにな。 最初からフュージョンを謳ったり狙ったりする料理にろくなのないじゃん。

おいしけりゃいいのだ、ていうのもあれで、ハッサンの料理が最初は?ん? だったのにだんだん鍛えられて馴染んでよくなってくる、ていうプロセスがあってもよかったし、フレンチの料理本を読んだだけで基本のソースをマスターできてしまう、ていうのもどうかなあ、だった。

おなじように、恋愛の要素もあんましいらないよね。
ていうか、料理も恋愛もそれなりの時間が必要だったり錯誤がいっぱいあったりするもんなのに、描き方として簡単すぎやしないだろうか。 料理のうまいひとは恋愛も上手に決まっているのだろうか。

最後にハッサンがマルグリットに作る、って言ってた必殺の一皿を明らかにすべきだった(冒頭で大量のウニを投げこんでいたあれだよね)。  

あと、Helen Mirrenさんをフランス人のマダムに仕立てるのは無理だよね。 どっから見たってばりばりの英国女(しかもDame付き)なのにさ。

見終えて、フレンチを食べたくなるかインディアンを食べたくなるかどっちかか、というとどっちもあんま食べたくならなかったの。 あの鴨もったいなかったなあー、くらい。

[film] Panic in the Streets (1950)

9日、日曜日の昼間、京橋で最後のMOMA特集、短編ひとつ、長編ひとつ。

Interior N. Y. Subway, 14th Street to 42nd Street (1905)
「ニューヨークの地下鉄」

4分間の短編だが、個人的にはこっちがメインだった。

1904年に開通したニューヨークの地下鉄の、Union Square (14th)からGrand Central (42nd)までを進んでいくさま - お尻の車両 - を電車の先頭に置いたカメラが追っかける。追う、といっても電車が止まると止まるし、動くと動く、それだけ。 照明は横の同じ速度で隣の線路を並走している地下鉄から貰ったって。
途中で止まる駅があったりするので、④とか⑤のExpressではなくて、いまの⑥と思われるのだが、全ての駅に止まるわけではなくスルーしている駅もあって、よくわからない。同じく、今の⑥と同じ線路の上を走っているのかも、あれこれ調べたり探したりしてみたけどあんまよくわからず。

それにしても、NYの地下鉄って、なんでこんなにも記憶に残って気になるんだろう。

あの轟音と振動、臭気、夏の暑さ、ネズミ、水たまり、物乞い、変な、いろんな乗客たち、さんざんな目にあったことも沢山あるし、使いやすさとか便利具合でいうと日本のほうがだんぜん上だと思うが、日本のなんてなくなろうが変わろうがどうでもいい、けどNYの地下鉄のあの音のトーンがちょっとでも変わったりしたらとてもとても悲しくなるはず。

ていうようなことを今から約110年前の映像を見ながら思ったりした。
110年前の地下鉄のお尻はまったく無言だったけど。

Panic in the Streets (1950)
「暗黒の恐怖」

深夜のニューオリーンズのバーで賭博のテーブルを囲んでいる連中がいて、そのうちのひとりが具合悪いから帰るわ、て言うのだが、勝ち逃げは許さねえ、て揉めて港のあたりで殺されちゃうの。
港で死体が見つかった翌日、検屍をした衛星局のひとはこいつは肺ペストでやばい、て直観して警部と一緒に彼の入国ルートとか接触した連中を片っ端から調べはじめる。 

当局は肺ペストの可能性なんて漏れたらパニックになる、て極秘で捜査を進めようとするのだが、しょっぴかれて調べられる側は、びびりつつ冗談じゃねえ知らねえ、て言い張るし、新聞記者とかはなんかこの動きは怪しいって、探りはじめるし簡単に進まずに、時間が経つにつれて病人がぽつぽつ出はじめる。

昨今のエボラ熱とかの対応と照らし合わせて考えてみるといろいろおもしろい。
この映画だと、肺ペストの危険性とか蔓延の可能性は極秘情報で、状況がひどくなるのと情報が広がっていくのの追いかけっこがテーマで、だからスリリングなのだが、今の世の中だと、やばそうな情報は基本、開示した上で当局はやれることをやって、市民は各自守れるものは守ってもらう、ていうやり方で、でもこれをやったからと言って拡散の抑止力になるかというと、そんなでもない気がする。 いつから、なにをきっかけにこの辺の対策って変わっていったのか、とか。

闇の奥でうごめくペスト菌とか、その更に向こうにいる地元のギャング達、むんむんの密航船の連中とか、これらを白昼の路上に引っ張りだそうとする当局との攻防、そのコントラストがかっこよくて、最後の港湾倉庫での追っかけっこはすばらしかった。 特にちんぴらの親玉のWalter Jack Palanceのきれっぷり悪っぷりときたら、デビュー作だから張り切っているのかもしれんが、なんかすごい。

またきてねMOMA。

11.23.2014

[art] Giorgio de Chirico: De la Metafisica à la Metafisica

展覧会のをふたつ。
さいきん、映画を見るまとまった時間すらないってことなのよ。 かわいそうに。

菱田春草展 (後期)

3日の月曜、展示の最終日に、文句たらたらで「黒き猫」を見にふたたび竹橋にいった。
後記のみ展示のやつも結構あったし。

模本だけど「猫図」があったし、未完の「落葉」には創作途上と思われる薄線が引かれていて、ああこんなふうに導線だか補助線は引かれていたんだねえ、ていうのがわかったりするのでいくら眺めていても飽きない(線、図録ではわからない)。

「黒き猫」は猫絵が並んでいる列から離れたところに置かれていて、やはりなんだか別格。 上のほうの葉っぱのレイアウトもふくめて、あれって猫というより黒いふわふわの毛玉みたいなやつがこっちを見ている、その目力の淡いようで強いかんじと、耳のとんがりと爪の踏みこみ、といったあたりが総合されて、こいつ猫かも、黒いの、て認識されて、にらめっこが終わらないかんじがたまんなくて、更にじーっと見ていると、こいつは黒梟のようにも見えてきたりする。

同じ1910年の「黒猫」は背景のなにもなさと足のつっぱり/ふんばり具合からああネコネコ、と思わず出てしまうし、他の白い斑猫の横目でつーんとしているやつとか、鴉に毛逆立てているやつとか、あいつらは始めから猫としかいいようのないオーラに覆われていて、それらと比べると「黒き猫」のほうの吸引力はすさまじい。

他にも大観との連作にあった「秋草に鶉」とか「月下狐」のススキと狐が描く弧の流れとか、動物ものがほんとにすばらし。 おいしい鶉のローストたべたい。


ジョルジョ・デ・キリコ -変遷と回帰-

13日の閉館直前くらい、汐留ミュージアムで見ました。
キリコをこんなふうに - 特に後期の変てこなやつを纏めて見る機会はあんまない気がしたし。

1910年頃の形而上絵画から古典に回帰していくあたりまでが、おそらく我々の一番よく知るとことのキリコで、渋くて洞察とセンスに溢れてかっこよくて、それが40年代以降、この展示だと「ネオ・バロック時代」として出ているあたりから過剰で饒舌でなんかわかんなくなってくるの。

で、そこから「新形而上絵画」から晩年にかけてはもうほとんど漫画とか落書きみたいで、「ユピテルへの奉納」はメタルのジャケットみたいな雷がびかびか出ているし、「ユピテルの手と9人のミューズたち」のミューズはおばさん達にしか見えないし、妙におかしい。誰も笑わないけど。
たしかに「メタフィジカ」に「ネオ」なんて付いてしまうとそっちに行ってしまうのかも知れんし、老人の晩年の記憶の混濁が「永劫回帰」妄想に向かいがちなのもよくわかるのだが、いや、だからといってつまんないわけではぜんぜんなくて、こういうのも含めてのシュールなキリコなんだなあ、と最初のほうに置いてあった「謎めいた憂愁」の、室内の孤独を振り返りつつ思ったのだった。

キリコって19世紀に生まれて78年まで生きていたんだねえ。
晩年はあれこれめんどくさかったんだろうなあ。

11.21.2014

[film] If I Stay (2014)

6日の晩に新宿でみました。 夏休みのLAでさんざん宣伝しているのを見ていたし。

ポートランドで子供の頃からチェロをやっているMia (Chloë Grace Moretz)は、憧れのジュリアードにいくか、地元でロックバンドをやっているKat (Mireille Enos)のところに残るのかで悩んでいて、そんなある日、家族で車に乗って出かけたところで事故にあう。

その直後、Miaの身体は幽体離脱していて、動かない自分の身体とか一緒に事故にあったパパとママと弟、なかよしの家族のこと、これまでの自分の生涯のいろんなのがまわっていくのを眺めていく。

大好きになったチェロをパパに買ってもらってKatと出会って恋をして将来のことでぶつかって落ちこんで、ていう青春絵巻があって、他方でママもパパも弟も亡くなって、自分の身体だって医者によると自分のがんばり次第だというのだが、こんな状態で生き返ったところでお先真っ暗だし、あんまぱっとしない人生だったし、どうしよう、どうでもいいや、もういいか、になっていくの。

事故にあわなくたって若いころには誰だって考えてぶちあたって思い患うようなことをわかりやすく並べて、そのナイーヴさと凡庸さについてしょうもねえ、ていうのはたやすいのだが、他人から見ればなんでそんなことがとか、異性とのどうでもいいけどきゅんとくるやりとりとかが自分にとってどれほど大切でかけがえのないもの、自分を生かしてくれるものだったか、というのをMiaの動かなくなった身体と空中に浮いた魂は大真面目に切々と訴えていて、その点については全く異議ない。

そういうもどかしさや切なさを表現するときのChloë Grace Moretzの表情と身体はほんとうにすばらしくて、彼女がこれまでの役柄であらゆる血にまみれて戦ってきたのもそういうことなんだな、と改めておもった。 感情移入して泣かせりゃいいってもんじゃないの。

Miaが取り組むのはクラシックだけど、彼女のパパはちょっと名の知れたバンドでドラムスをやってて(Miaのチェロのためにリタイアして自分のドラムキットを売る)、KatのローカルバンドはThe Shinsの前座に呼ばれたり、Merge Recordsからオファーが来たりもする(ふうん、あれで?)。
流れていく音も90年代以降のいろんなの、BeckとかHope SandovalとかThe Long Wintersとかで、ガーデンパーティーではみんなでSmashing Pumpkinsの"Today"を合唱したりする。

80年代の男の子の叫びとしてあった"If You Leave"からまじめな女の子のつぶやきである"If I Stay"へ、或いはみんなの歌としての"Today"へ。  クラシカルな調和や調性のリアルに80年代魂が負けてしまうおはなし、として見てしまうのはだめか?

ラストはやっぱしあれしかないと思うけど、横に弦之丞みたいなのがいてもよかったのになあ。

あと、あの字幕はなに? キム・ヴォーデンてだれ?

11.19.2014

[film] Kentucky Pride (1925)

2日、京橋での3本目。 「譽れの一番乗」の終わり、音楽が終わるか終らないかのうちに突如アイリッシュに豹変した狂乱のじじいどもが次のに並ぶために出口に殺到し、そういうのはほんとに嫌いなので帰ろうと思ったのだが、一応みんな並んでいるしだめでもよいから並んでおこう、て並んでみて、そうしたら最後の最後ほうで座れてしまった。

「香も高きケンタッキー」

「譽れの一番乗」でとってもさわやかに泣いてしまったので、もうこれを上回るもんはそうあるまい、て余裕だったの。 だってさー、解説読むと馬が語り手だとか書いてあるじゃん、サイレントだから馬が語ろうが猫がしゃべろうが勝手だけど、馬の自分語りに泣くほどおひとよしじゃねえよ、とか。 でも、びーびー泣いて、泣かされた。しかも馬なんかに。  ソープオペラじゃなくて、ホースオペラ。

ケンタッキーに、お馬(♀)のVirginia's Futureが生まれてすくすく育って、速かったのに勝利の一歩手前で怪我をしてレースはできなくなって、殺されるはずのところをぎりぎり救われて娘を生んで、更に主人の賭博のカタに売られちゃって、いろんなドラマがあって、その娘のConfederacyがんばれーって、Confederacyはすべてを失ったママやみんなの夢と希望を乗っけて風のように走っていくの。

馬のドラマはさわやかでうつくしいのに、ヒトのほうはどろどろと暗くて陰惨で、馬主の妻は隣人と結託しておうちを乗っ取るし、Virginia's Futureを買い取ったろくでなし3人組はひどくて、でも結局は馬の勝ち負けですべてがひっくり返る。 最初のレースで脚を折ってから転がり落ちていった運命が、最後のレースの大勝利で修復されて戻ってくる。 それはもうほんとうにすべてが許される、で、語り馬であるVirginia's Futureのラストの語りで、みんな大泣きする。 馬なのに、あんた文章うますぎ。

ラストだけじゃなくて、荷物馬に堕ちたVirginia's Futureが同じように落ちぶれたかつての馬主に街角ですれちがう一瞬、あそこも思いだしただけで胸が痛くなる。 あんた馬なのになんて…

当時の伝説の名馬Man o’ Warも実名で登場する。 あんたでっかすぎ。

こんなふうに馬がとんでもないのはしょうがないとして、更にとんでもないのはそんな馬たちを馬として撮りあげてしまったJohn Fordなのよね。

“Babe” (1995)(豚の映画だよ、ねんのため)もさあ、こんなふうなサイレントにすればもっと泣けたかも。


並んで大変だった、とかいう自慢話とは関係なく、この2本のサイレントを見たことは、「映画体験」としか言いようのない類いのもので、約90年前に作られたこいつらを、まだ「知らなかった」ことにびっくりしましたよ。 こんなのふつうに見れないとさあ...(以下同)

[film] The Shamrock Handicap (1926)

2日土曜日の2本目。 今回の京橋MOMA特集で、ここからのJohn Fordの2本が、大騒ぎになっているらしいことはいろんなところからうかがわれたのだが、それが実際どれくらいすごくて画期的で価値のあることなのか、はマニアではないのであんまよくわからず、わからないのでとりあえず見てみるしかない。
John Fordて外れたことがないから、きっと外れないよね、くらいで(強殴)。

「譽れの一番乗」

アイルランドの片田舎で、裕福な農場主と娘がいて、小作人とその息子がいて、息子は馬乗りで、娘さんとは素朴によいかんじで、みんな仲良く平和に暮らしていたのだが、農場主は生活が苦しくなって馬とか売っちゃって、小作人親子はアメリカに渡らざるを得なくなる。 息子はアメリカでジョッキーとしてうまくいけそうだった矢先、怪我をして馬に乗れなくなってしまい暗くなるのだが、やがて農場主もアメリカにやってきて、みんなでアイリッシュ魂でがんばるの。 で、大きなレースがきて、息子は怪我をしているのにいちかばちか、アイルランドから連れてきた必殺の名馬Dark Rosaleenaに跨がって...   彼女の一途な想いとアイリッシュ魂を背負った運命のお馬は走って走って...

ほんとうにわかりやすい、ストレートな感動を呼ぶドラマで、家族愛にじんわりして、アイリッシュ魂に熱くなって、馬レースに手に汗を握って、最後はよかったねえ、て皆で肩を抱きあって涙する。 それ以外の見かた楽しみかたなんていらないの。   
サイレントなのに、馬の蹄の音とかティン・ホイッスルがずっと頭のなかを回っていて、最後に四葉のクローバーが菊の御紋のようにでーんと映し出される(まんなかにDirected by John Ford)と、"The Irish Rover"かなんかが高らかに鳴りだして、くるくる踊りだしたくなる。

白い帽子を被った少女がでっかい馬の隣にいてただ立っているとことか、村の大きな樹の下で少年と少女がお別れをして、戻ってきたあとにふたりで永遠の愛を誓うとことか、唖然とするくらい美しいの。
あと、馬だけじゃなくて鵞鳥だかアヒルだかもいるの。

こんなのがたった2回しか公開されないんだから庶民が殺到するのとうぜんだわ。
こんなのが伝説の名画みたいになっちゃうのって、正真正銘の名画だからしょうがないんだけど、ぜったいおかしい。
永遠の児童文学とか古典みたいに、そこらじゅうの図書館に常備されてしかるべきだとおもった。

11.18.2014

[film] It Should Happen to You (1954)

2日の日曜日、午前から京橋で、この日は3本続けてMOMAのに浸かった。
日仏のジャック・ドゥミ特集は出遅れの連続で入れず、トリュフォー特集(のJ-PL)は最初から諦めで、せめてこれくらいは、とものすごくがんばった。 だれのためだかなんのためだか、しらん。

「有名になる方法教えます」

New Yorkに出てきて2年くらいになるGladys Glover (Judy Holliday)は、ぱっとしない下着モデルで、セントラルパークをうろついていたら、ドキュメンタリー映画を撮っているPete (Jack Lemmon)と出会って仲良くなって、とにかく有名になりたくてしょうがない、コロンバスサークルのあそこの看板に自分の名前を載っけたい、という。 PeteはGladysに一目惚れするのだが、とりあえずそこは別れて、そこからGladysはひとりで代理店に出かけて行って、ほんとに看板を借り切って自分の名前をでかでかと載っけちゃうの。 へんな女。

代理店側は看板貸したあとで、あんないい場所渡すんじゃねえよ、て借り戻しにかかって、その交換条件でいろんな場所に名前の看板出してあげるから、ていう。  Gladysはそれに乗って、そしたらほんとに有名になっていろんな広告とかTVとかから声がかかるようになって、代理店のお金持ち野郎も寄ってきてくれて舞いあがるのだが、Peteのこころはなんとなく離れていって。

有名になってみんなにちやほやされたい、ていうのとあなただけのわたしでありたい/あってほしい、ていうのの間で揺れる恋、ていう今のラブコメでも普遍的なテーマに、映画作家としてまずフレームのなかの彼女に恋をした彼、ていうのを被せるなんて、なんてうまいのかしら。 諦めた彼女に向けてパーソナルなフィルムレターを残すとこなんかも(あれ、映写機ごと持って帰るしかないよね)。  決してお伽噺や夢物語じゃないところ、ひとは輝くから恋するのか恋をするから輝くのか、そのぱたぱたした切り返しのなかにすべてはあるんだ文句あるか、みたいなふうがとってもよいの。

それにしても、George Cukor、この同じ54年にめくるめくお伽噺の大伽藍(極北)、みたいな大作"A Star Is Born"をリリースしているんだからすごいねえ。

Gladysが看板を借りにいく代理店の住所 - 383のMadisonて、いまはJ.P.Morganの悪趣味なビルが建っているところなの。

11.17.2014

[film] A Most Wanted Man (2014)

1日の土曜日の夕方、いちんち京橋でみっつ連続はきつい気がしたので、ちょっと変えてみた。
「誰よりも狙われた男」 京橋から日比谷に歩いていって見ました。

ル・カレの原作は文庫が出たときに買ってすぐ読んだ。いちおう。
彼の小説を読むのはほんとうに久しぶりで、冷戦がとうに終わった911以降の世界と彼が英国情報機関を中心に描いてきた過酷なスパイ戦の世界との間には大きな乖離があって、テーマとしてきついのはわかるけど、やはりストーリー展開は少し散漫な気がした。

ハンブルグに突然現れ、トルコ移民の家に衰弱して保護を求めてきたイッサという若者 - イスラム系、言葉もよく通じない、チェチェンから来たらしい - が何者で、彼の狙いはなんなのか、ロシアからの怪しい金を預かる英国の銀行家、移民や亡命者の支援保護団体の弁護士、そしてドイツ、英国、米国、それぞれの情報機関を巻きこみつつ展開していくイッサを捕捉、もしくは保護しようとする企てのあれこれと最後に持っていっちゃうのはどこのどいつなのか、について。

どこかの町でふつうに暮らしている人のところに奇妙なことが起こって、それがその人、もしくはその人の周辺の集団とか組織とかの記憶とか無意識の底にあった何かを揺らし、その揺れの連鎖がより大きな事件とか行動に繋がって関わった人たち全員に刻印とか影響とか余韻とかを残す。 ひとの動機や決断はそのひとの出自、過去、家族、大文字の歴史、今昔の恋、エモなどなどと複雑に絡みあっていて決してリニアに一筋縄ではいかない、というところと厳格に隔たりと識別を求める国(境)という場所(溝)、もしくはそこでの歴史上の一点、その狭間で、ぐじゃぐじゃに絡み合ったガラス線の上で展開するドラマを微細にやさしく拾いあげる、というル・カレの小説の基調がリニアに流れざるを得ない時間のアートである映画にはそぐわないものであることは、こないだの"Tinker Tailor Soldier Spy" (2011) でもじゅうぶんにわかったの。

であるからして、ル・カレ作品の映画化は俳優のドラマとして追うのが正しい気がして、だから今回見に行ったのもPhilip Seymour Hoffmanがドイツ諜報機関のBachmannを演じていたから、それについてル・カレが書いていたから、なの。

http://www.nytimes.com/2014/07/20/movies/john-le-carre-on-philip-seymour-hoffman.html?_r=0

筋としてはハンブルグという地勢、ロシア、イギリス、アメリカ、それぞれの過去の傷とか負債とか威信とか、そういうのをぐるぐるまわるにしても、イッサという辺境の孤児を扱う物語としても(原作と比べると)中途半端で、監督のAnton Corbijnは、ひとつ前のも含めこういうのをやりたいのかもしれないが、ちょっとむずかしいかも、とか思った。

Philip Seymour Hoffmanについては、申し分なくて、最後にF言葉満載でぶちきれてあたりちらすところなんてたまんないひとにはたまんないの。 ここだけ見とけばよい。

PSH以外のキャストは確認しないで行ったのだが、Rachel McAdamsの弁護士も、Willem Dafoeの銀行家もなんかちがうのよねー。

11.16.2014

[film] Italianamerican (1974)

1日の土曜日、京橋のMOMA特集でのふたつめ。
D.W. Griffithの短編二本と、Martin Scorseseの中編ひとつ。

The Lonedale Operator (1911)
邦題は「女の叫び」。17分。
電信技師の娘さんがどっしりした給料袋を受け取った部屋に強盗二人組が押し入ろうとして、娘は鍵かけて電信で彼にSOSをだして、彼は機関車で駆けつけて強盗を引っ捕らえるの。 か弱い娘のか細い電信が機関車の力強い彼を呼んでくれてよかったね、ていうお話で、彼女が電信を知らなくて、彼が機関車乗りじゃなかったら成立しないねえ、とかおもった。 あと強盗たち余りにも弱すぎ。

Friends (1912)
邦題は「男の友情」。 13分。
西部の金鉱町で、みんなに好かれている孤児の少女(Mary Pickford)はDandy Jackが好きで、でも彼は別の金鉱町を探して出て行っちゃって、入れ替わるように別の男(Lionel Barrymore)がやってきて、彼はJackの親友で、みんなどうする/どうしたい? なの。

どちらの短編も100年以上前に撮られているのに、Home Alone 〜 ぎりぎりの救出劇とか、友情に結ばれた男ふたりと女ひとりの三角関係とか、ごく最近の映画でも繰り返されているテーマはとっくにあったんだねえ、て。

Italianamerican (1974)
続いて「イタリアナメリカン」 48分。

Martin Scorseseが自分の実家で両親にインタビューしたドキュメンタリー映画。
出てくるのは彼のパパとママだけ。  でもホームビデオみたいのとはちがう。 たぶん。

さて、New Yorkにおける映画の語り部といえば、Martin ScorseseさんとPeter Bogdanovichさんのふたりで、昔の名作のリストア上映会とかがあると、この二人は割と頻繁に登場して楽しくおしゃべりをしてくれるの。 Peter氏はこないだのTIFFで来日した際、”It Should Happen to You”の上映時にトークをしてくれたそうで(いいなぁぁ)、彼のトークは彼の周囲にいた映画人のことを喋らせたら絶品(John Cassavetesの思い出とか、おもしろいんだよー)であるのに対し、Martin氏のはひたすらじぶんちの家族話に還っていくという特徴がある。 自分の家では、近所では、パパやママはどうだったのか、とかね。 この映画もその線でまたかよ、みたいなふう、ていうか映画まで撮ってたのね、とか。

この映画におけるMartin氏のほんとうの狙いはママのミートボールとそのトマトソースがなんであんなにおいしいのか、ママじゃないとできないのか、その秘密を聞き出すことにあったと思われるのだが、ぜんぜんうまくいかずに、ママのお喋り(パパは横でほとんどうんうん言うだけ)は脱線に脱線を繰り返してとどまることを知らず、結局引きだすことはできないまま映画は終る。

自分も勝手に脱線させていただくと、わたしにとって生涯のベスト・ミートボール&トマトソースはかつての職場にいたイタリア系のおばさんの家で腰のまがった彼女のママが作ったやつで、あれってもうまじ驚愕のありえないレベルのやつで、帰るまでになんとかレシピを聞きだしたくてがんばったのだが、だらだら昔語りに終始してぜんぜん教えてくれなかった、その記憶が蘇ってしまい、だからMartinがんばれ、と手に汗握っていたのだが、やっぱり失敗したのね。 おそるべしイタリアンばばあ。

しかーし、すばらしいことにエンドクレジットでそのレシピが流れるの。えらいぞMartin!
でも謎は謎なのよね。 「いくつかの豚ソーセージ」と「羊の脛骨」あたりがなんか怪しいのだが、肝心なところの分量も配合も時間もよくわかんなくて、聞いたって、うーんあるものをてきとうに、なんだよね。

というわけで、後半は来るべきレシピがちらついて映画を見ているかんじにはならなかったの。

たぶん、生まれた国を捨てて別の国に渡ってその国の人になる、そこで想像される苦難とか受苦とかあれこれとかも、こんなふうにてんでばらばらで、一筋縄ではいかないなにかがあるんだろうが、それがほんとにどんなもんかは、決して明らかにされないんだ、とか。

[film] Flushing Meadows (1965)

1日の土曜日の昼間、京橋のMOMA特集で見ました。
8分の短編のあとに98分のやつ、2本だて。

箱アーティストとして知られるJoseph Cornellが映像作家Larry Jordanの協力を得て撮影した作品、1995年に発見されて2003年に復元され、当時はGramercy TheatreにあったMOMAの映像部門で上映された。 (これ、ひょっとしたらGramercyで見ていたかも。あの頃なら) 
現時点までに確認されている中ではCornellの最後の映像作品とされる。

クイーンズでウェイトレスをしていた友人Joyce Hunterの死を悼んで撮影した、と解説にはあるが、映像を見ている限りではそれはわからない。 彼女が埋葬されているFlushing Cemetery(Flushing MeadowsのそばにあるMount Hebron Cemeteryの方ではないのね)の、おそらく初秋から初冬の晴れた日の光景がぽつぽつと置かれているだけで、でもバラの花の周りの淡い光とか佇んでいる子供とかを見るとなんとも言えない寂しさが湧きあがってきて、それはCornellの小箱を覗いたときの印象そのものなのだった。

で、これに続けて上映されたのが ー

Sweet Sweetback's Baadasssss Song (1971)
“Flushing Meadows”が白人社会の端っこに遺棄・放擲されたひとりの老人 〜 ひとりの少女の孤独な呟きだとすると、こっちは白人社会にはめられてざけんじゃねえ、と立ちあがったひとりの黒人男の孤独な戦いを描く。 ていう比較もやろうと思えばできないことはないけど、この二本を一緒に見るのは相当に変なかんじ、食べ合わせはあんまし、だったかも。 MOMAは骨董品みたいなアート作品ばっかしを扱うわけではなくて、こういうB級やくざジャンキーなのもやるのよ、ということで。

Melvin Van Peeblesが自己資金とBill Cosbyから借りた5万ドルで書いて監督して製作して編集して音楽も作って主演した、殆どひとりでぜんぶやった世界最初のブラックスプロイテーション映画で、それはそれは強烈に激烈にねちっこく、沸騰する怒りと恨みが渦を巻いて、そのにおいたつ飛沫がこっちに向かってとんでくる、そんなやつ。

Melvin Van PeeblesがSweetbackで、悪い白人警官にはめられて追われて、逃げて、生きる。それだけ。
白人警官がいかに悪くて酷いか、ということよりも、いかに彼は逃げて、戦って、生き延びて、負けなかったか、屈服しなかったか、というその圧倒的な強さ、その粘ってうねる腰と尻の動きのしなやかさ、その歌の力強さに重心は置かれている。それゆえのSweetbackであり、Baadasssss Song、なの。 

それにしても、子供の頃の彼が娼婦から手ほどきを受けてSweetbackとなる冒頭のシーンのボカシのひどさにはあきれた。 国の機関だから? あんたらがいま規制すべきなのはこれじゃないでしょ?

11.11.2014

[film] Love Affair (1939)

31日金曜日の晩、帰国直後であたまも身体も使い物にならないもんだから京橋のMOMA特集でみました。

「邂逅」で(めぐりあい)とよむの。
Leo McCareyで、"An Affair to Remember" (1957)のおおもと(両作とも監督はLeo McCarey)だと聞いたら行かないわけにいかないわ。

ヨーロッパからNew Yorkへ向かう客船に金持ちのプレイボーイのMichel (Charles Boyer)が乗ってて、しかも婚約したばかりだというので大騒ぎで、そこでたまたま出会ったTerry (Irene Dunne)にも婚約者がいて、それで安心したせいか会話はころころ楽しく弾んで、途中で立ち寄ったMichelのおばあちゃんの家でもしんみり楽しく、かけがえのないひとときを過ごしてしまったものだから、とっても別れ難いかんじになってしまい、船を降りるときに6ヶ月後にまだ未練があるんだったらエンパイアステートの天辺で逢いませう、て別れるの。 ほんとに運命とか縁とかがあるんだったらぜったい巡りあうはずよね、て互いの連絡先も告げずに。

6ヶ月後のその日、浮かれてよそ見していたTerryは車に轢かれて病院送りになっちゃって、Michelはずっと屋上で待っていたのに結局彼女と会うことはできなくて、さあふたりはこれきりになってしまうのか? なの。

いっときでも、本当に好きになったひとを諦めることってできるのか、諦めさせないなにかって、なんなのか、とか。 で、だんことして諦めないのは映画を見ている我々のほうなんだよね。

最後のとこ、クリスマスの晩、TerryとMichaelが彼女の部屋で再会してお話しするとこは、最初のたどたどしく、しらじらしいところから頭が爆発しそうになって最後の最後でやっぱし決壊して泣いてしまうの。 おばあちゃんの礼拝堂での本当に美しいお祈りのシーン(あそこ、ほんとにきれいでさあ)が蘇ると、もうだめ。 神様なんてやっぱしいるんじゃねえかなんの魔法だこれ、とか思うの。 

"An Affair to Remember"の時のCary GrantとDeborah Kerrが神々しいくらいに決まっていたので、こっちのふたりはどうかしら、とか始めは思ったし、疲れもあったのかIrene DunneがたまにAmy Poehlerに見えてしまったりもしたのだが、ぜんぜんだいじょうぶだった。 Cary GrantとDeborah Kerrじゃないみんなにだって、クリスマスには起こることが起こるんだよ、て。


あーあ。John Greaves, 行きたかったよう。
“The Song”とか、やったのかなあー。

11.10.2014

[log] New Yorkそのた2 - October 2014

NYでの食べものとか本とかレコードとかばらばら。

25日の土曜日、天気がとっても良かったので、まずGreenpointに行った。(週末、⑦の地下鉄が止まってやがって… ) フィガロのNY特集にも出ていたベーカリー、”Bakeri”。 Greenpoint周辺にはポーランド系のおいしそうなパン屋さんがいっぱいあるのだが、これはこれで。
エントランスから花園状態でそこから繋がる内装もチャーミングで朝の光に満ちていてレジの脇に奥の焼き場からどんどんいろんなパンが並べられていってzineとかもあって、近所にこんなのがあったらぜったい毎日通う、の見本みたいなところなの。 パン焼きの前のカウンターから見ていると、お揃いの作業着のおねえさんたちがパンをがさがさ積みあげたり粉玉を仕込んだり測ったり焼きあがりを突っついていたり、見ているだけでかっこいいの。 サヴォイパイもチーズサンドイッチもチョコクロもどれもシンプルで、力強いこと。

そこから歩いてAcademy Record Annexに行って何枚か。 世界最強の店猫だったTiggerのいなくなったお店。 正午の開店直後に入ったら、Jack Bruceの“Harmony Row”が大音量で流れていてなんでだろ、と思ったらお亡くなりになられたことを知る。
レコードはあんまなかったけど、Mission of Burmaの”Academy Fight Song” (1980)の7inchがあって、帰って聴いてみたら自分が知っているミックスではないかんじがした。

あとはWord BookstoreでRookie Yearbook Threeのサイン本とかTim Kinsellaの小説”Let Go and Go On and On”のサイン本とか。 Tim Kinsellaのは副題に”A Novel Based on the roles of Laurie Bird”とあって、さらに裏表紙には”Two-Lane Blacktop + Cockfighter + Annie Hall + Bad Timing = Let Go and Go On and On”とあって、ああ、しぬほど読みたいのに読む時間なんてあるわけないのに。

Stephin Merrittさんの本、”101 Two-Letter Words”は、あたり前のように買う。

他のレコード屋だとOther MusicとかRough Trade NYCとかいつもの。 Starsの新譜のサインつき色つきとか。 前作はちょっと地味だったけど、今度のはカラフルなジャケットそのままでとってもよいの。

日曜日の夕方に行ったRough Tradeでは奥のライブスペースで晩にライブをやるThurston Mooreのバンドのリハの音ががんがん響いてきて、ああ無理してチケット取っておけばよかったねえ、てがっかりした。

他の本屋だと、イーストヴィレッジのどまんなかから少し東に移転したSt. Mark's Bookshopに行った。
前よか少し小さくなって、棚を伝っていくと気がついたら元の地点にいる、という三角スペースの不思議感は薄まっていたけど、これから馴染んでいくことでしょう。

あとはAvenue Aにできたアート系の古書店、Mast Books - この記事にも出ている。
http://www.vulture.com/2014/10/thurston-moore-on-kim-gordon-split-new-album.html

ここにも出てくる。
http://www.nytimes.com/2014/11/09/fashion/jason-schwartzman-and-his-latest-movie-listen-up-philip.html?_r=0

ここ、価格はやや高めだが、状態がよくておもしろいのが沢山あって、そうとう危険。 こわい。
あとここの隣のマガジンスタンドの雑誌量がはんぱなかった。 あんなにぶっこまなくても。

ダウンタウンの本屋散歩は、McNally Jacksonから始まって、HoustonのUnion Market(本屋じゃないけど)を経由してSt. Mark's ~ Mast Books、最後にTompkins Square Parkでひと息、ていう流れになるのかも。

日曜日のTompkins Square Parkは秋のバラがきれいで気持ちよかった。 ここって冬になったらほんとに過酷なのだが。

本屋だと、Strandのヴァイナルコーナーにも寄った。 まだ2箱くらい。 これからみたい。

雑誌、T Magazineの預かってもらっていた分を受け取った。
10周年記念号の表紙はChanning Tatumのだった。

この雑誌、おもしろかった。インタビュー中心だけど。
https://thegreatdiscontent.com/magazine

食べ物かんけい;

日曜のブランチにめでたく15周年を迎えたPruneに、久々に。
カルボナーラがあったので頼んでみた。 相変わらず器用に、なんでもうまく(おいしく)やるねえ。

あと、Costataに行った。 イタリアンのMichael Whiteによるステーキハウス。
オリーブオイルやハーブを使っているふうなので、噛みついた瞬間にやや軽い、さらりとしたかんじはするものの、結局はお肉の塊、としてお腹に落ちてくるのだった。 後からずぶずぶと。 
隣に牡蠣屋のAqua Grillがあって、この近辺、エリアとしてはものすごく濃いものになるかんじ。

最後の晩はTorrisiのグループがやっているCarboneに行った。 晩の22時に予約が取れたの。
Houstonの上のThompson stで、なんとLupaの反対側にある。
照明はやや薄暗くて、ぜんたいにざわざわがやがや、そのうえに60~70年代ソウルが鳴っていて楽しげで、でもなにかあると奥からじゃらじゃらと黒服の恐いひとたちが現れてどこかに連れ去られてNJの埠頭とかにぷかー、てなる系のとこ。
お料理はべったべたこてこて、底なしに脂っこくて、でも中毒性があって、おいしいとしか言いようがなくて、おいしいって言わないと奥から黒服の...(以下略) 
大皿なので大人数で行って皿数を制覇しないことにはいつまでも満足成仏できなくて、だから次も多分いくことになって、こういう王道の、有無を言わせない系のイタリアンをロケーションとかも含めて戦略的に作った、ていうあたりがえらいのだと思った。

同じイタリアンでもLupaとは大きく異なるタイプ。 Lupaも大好きなんだけど。

27日の夜おそくにRuss & Daughters Cafeに行った。 夜に行ったのははじめて。
ここのボルシェが冷たいやつだったことを忘れていた。 じゅうぶんおいしかったけど。
Holland Herring (オランダ鰊)がなかったのが悲しかった。
あと、サワークリームがおいしすぎておそろしかったこと。

ボルシェのあったかいのは、いつものVeselkaでいただいた。 ほんとにあったまるの。

あとは、Lafayetteとか。 ムール貝とかパテもよいけど、やっぱしデザートなんだねえ、あそこ。

ほかにもなんかあった。 はずだけど。

11.08.2014

[log] New Yorkそのた1 - October 2014

NY間の行き帰りの機内でみた映画とか。

L'Extravagant voyage du jeune et prodigieux T.S. Spivet (2013)

英語題は"The Young and Prodigious T.S. Spivet"、邦題もおんなじようなふう(忘れた)。

T.S.スピヴェット君モノの原作は読んでない。

モンタナの田舎で幸せに暮らしていたスピベット家 - カウボーイの父、昆虫学者の母(Helena Bonham Carter)、カウボーイ子供の弟、科学者子供のT.S. - 殆ど天才バカボン一家なのだが、T.S.の書いた永久機関に関する論文がスミソニアンで表彰されることになり、突然死んでしまった弟のこともあっていろいろ悶々していた彼は家出してワシントンDCに向かう。 その道中のいろんな大人たちとの出会いとか、権威って、とか大人って、とか。

大人からみた不思議子供のT.S.と子供から見た大人の変てこ世界を不可思議に怪しげに描くのはJean-Pierre Jeunetの得意なところなのかも。 だけどもうちょっとおもしろくできたかも。 Wes Andersonがやったら、とか少し思ったけど、やらないだろうな。

Helena Bonham Carterのママがすんごくよかった。

The Lunchbox (2013)

原題は”Dabba”。邦題は「めぐり逢わせのお弁当」...

インドで、朝に各家庭からお弁当をピックアップしてオフィスのひとりひとりにデリバリーして食べ終わったのを回収して戻す、ていう配送サービスがあって、そこでお弁当の誤配が起こって、まだ若い子連れの奥さん(夫は冷たくて相手にしてくれない)のお弁当が、妻を亡くした初老の男のところに届いて、それがきっかけで二人の間でメモのような手紙のやりとりが始まってほんわかするのだが、ぎりぎり恋に発展しそうでしなくて、しんみり終わるの(めぐり逢わないの..)だが、それはそれでよいの。 こういうので「ちぃさな奇蹟が」(キラキラ)みたいのはもううんざりなの。

上の階に住んでてこまこま料理指導をするダミ声のおばさん(決して姿を見せない)とか、会社にいる威勢がよくてうざいばかりの新入りとか、そういうのもなんかいそうでありそうでよい。

その若者が結構混んでいる電車の中で晩御飯の野菜を切りはじめたのにはびっくりして、更にそのまな板が会社の書類だったのが後でわかったところも更にびっくりした。

お弁当のお料理はおいしそうなようで、なかなか微妙なのだった(絶対おなか壊す)。

帰りの便はもう見たいの残っていないし、眠かったのでほとんどねてた。

けど、久々に”Little Miss Sunshine” (2006)とか見ていた。
Steve CarellもPaul Danoもみんな若いー。 そして何度か予告で見た"Foxcatcher"のSteve Carellの不気味さを思い出してふるえあがった。

更に時間があったので「観相師」ていうのを見た。 (ねえねえ、なんで邦画はみないの?)

韓国の時代劇で顔をじっと見る(観相)だけでそのひとの人生とか運命とかを読むことのできる男が朝廷に連れてこられて、王様の下にいたNo.2の虎と狼の覇権争いに巻きこまれて大変なことになるの。

この顔は王となるにふさわしい、とかこいつは逆賊とか、血も涙もないとか、顔じっと見られて、言われるってやなかんじ、なのだが戦の世には必要な技だったのかもしれないねえ。
けど、ひとを見かけで判断しちゃいけませんって義務教育の時代にさんざん言われたしー。

観相師にいまの政権の全員みてもらいたいわ。 どいつもこいつもペテン師のクズ以下、にきまってる。

ここでいったん切りませう。

[film] Whiplash (2014)

NYの最後の晩、28日にUnion SquareのRegalで見ました。

前日の”Low Down”がジャズピアニストのお話しで、こっちはジャズドラマーのお話し。偶然だけど。
前日の主人公は枯れすすきで、こっちのは昇り龍だった。 これも偶然。
どっちも女っ気はまったくなし。 これも偶然。 たぶん。

大学のコンクールで何度も優勝している伝統あるジャズバンドにドラマーとして入ったAndrew (Miles Teller)と名物鬼教官Fletcher (J.K. Simmons) との間のあれこれを描く。

あれこれ、と言っても殆どが練習とかリハーサルでの軍隊か、みたいなすさまじいSMしごきと、手を血だらけにし歯をくいしばりながら必死の形相でついていくAndrewのドラムスにかける青春が殆どで、和解とか勝利とか、ものすごい感動のフィナーレを期待しているとちょっとちがう。

Bret Easton Ellisが「Oliver Stoneがリメイクした"Fame"みたい」、と呟いていたが、まさにそんなかんじよ。

青春なので若干の浮き沈みとか彼女との別れとか落ち込みとか挫折とかは当然あって、とんでもない大事故(あまりにすごいので笑っちゃう)を起こしていったんはぜんぶ諦めて清算してしまうのだが、再びスティックを手にする。  そういったもしゃもしゃまるごと、握りしめたスティックと止まんないストロークにぶちまけるラストは感動、とは違うけどなかなかに盛りあがってすごい。
画面が暗転すると誰もがライブと同じように拍手してしまうの。

全員に絶対の統制と服従を強いてひたすらストイックに練習に没入する、ところなんかを見ると、ジャズってスポーツなのかなあと思うのだが、最後はスポーツから殴り合いの喧嘩みたいのになっていく。 しかもカーネギーホールの大舞台で。 このあたりがたぶん言いたかったところなのかも。

Miles Tellerくんは、こないだの"Divergent"以降、どんなにひどい目にあって痛めつけられてもあんまし可哀そうに見えない系の急先鋒に浮上した。(元祖はJohn Cusakあたりか) 15歳からドラムスをやってて、Jimmy FallonではThe Rootsと競演したところも見たけど、まあまあ、くらい。 でも歯くいしばるのが絵になることはたしか。

あとはちょっとのズレとかブレが全体を台無しにしてしまうジャズとかクラシックの美とかその時間とか(それがぜんぶではないけど構成要素のひとつではある)て、大変なんだねえ、とか。

こういう世界ってほんとうにあるの? とジュリアードの先生に聞いてみた結果がこれ。

http://www.vulture.com/2014/10/ask-an-expert-juilliard-professor-whiplash.html

関係ないけど、上映前に予告宣伝やってたJames FrancoとSeth Rogenの北朝鮮コメディ - "The Interview" - 大看板だしたりしててすごいんだけど、あれ、だいじょうぶだろうか。

11.05.2014

[film] Low Down (2014)

27日月曜日の晩、Sunshine Landmark Theaterでみました。

館内でなんかイベントがあるらしく、入り口にカメラのひとがいっぱい来ていた。
そこらじゅうに角をはやしたDaniel Radcliffeのポスターがいっぱい貼ってあったので、もう少し待っていたらハリー・ポッターに会えたのかしら。
(これね →  http://youtu.be/98hTPftXo6M

60-70年代に実在した米国のジャズピアニスト、Joe Albanyについて、彼の娘Amy Albanyの手記を元に映画化したもので、彼女は映画のExecutive Producerもやっている。(他のExecutive ProdにはAnthony Kiedis、Fleaなど)

始まったところからJoe Albany (John Hawkes)は既によれよれのピアノ弾きで、周辺に出入りしているのは薬売りぽい怪しげな連中とか、壊れたような人たちばかりで、ふらっとヨーロッパに行っちゃって、またふらっと戻ってくる、そんなやくざな父をやさしく見守る愛らしい娘(Elle Fanning)がいて、時間が進むにつれてJoeはどんどんやつれて荒んでいって、全体としては暗くよどんだトーンなのだが、おばあちゃん(Glenn Close)とか娘が出てくるとこだけ、なんかよいの。

RHCPのFleaさんがトランぺッターの役で出ていて、ふたりでセッションしたりするとこもあるのだが、セッションしたりライブしたりの音楽そのものはあんまし出てこなくて、あの時代の音楽を取りまいていたいろんなのをジャズみたいな散文調、いろんな煙のむこう側に浮かびあがらせてみる。 でもそういう光景と埃っぽいバーに打ち捨てられたようなピアノの音が合っていて、すてき。

最後まで悲惨な修羅場がやってくることはなくて、ずっとこのトーンのままでしんみり終るの。

監督のJeff PreissさんはBruce Weberの"Let's Get Lost" (1988)の撮影をしていたひとで、まさにあそこのChet Bakerみたいな、壊れて石のように固化していくミュージシャンの立ち姿を美しくもなく生々しくもないふうに撮っている。

John Hawkesの野良犬のぎすぎすさ加減はいつも通りでよいのだが、Elle Fanningさんのほうは、ろくでなしの父親に振りまわされるかわいそうな娘、の呪縛からいいかげん解放されるべきだと思った。 不憫でならねえ。
彼女とボーイフレンドがじゃれあうとこで流れるボウイの”Golden Years”のとこだけ別世界になったり。

11.03.2014

[film] Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance) (2014)

26日日曜日の晩、Angelikaで見ました。(30分おきに上映してた)
午後に“This Is Our Youth”を結構真剣にみて、割とへろへろになったのでちょっと軽めで笑えるのを、て思った。
けどそんなに軽くも笑えるのでもなかったのだった。 おもしろかったけど。

Riggan (Michael Keaton)はかつて映画でBirdmanていうスーパーヒーローを演じていたものの失敗して転落して、ブロードウェイ演劇で新たなキャリアを築こうとしているもののいろいろ問題が噴出して大変なの。
映画の冒頭、彼は胡座をかいて宙にふんわり浮いていて、つまりは超人的な力を持っているかのような描写があるのだが、それがフィクションの世界でスーパーヒーローだった彼の妄執なのか、ほんとうにそういう力を持っているのかは明らかにされない。

Rigganに見えている世界、彼がコントロールしようとしている世界と周囲とのギャップ、軋轢、場合によっては和解と融解、というのは彼が舞台で演出しようとして難航しまくるレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」(どの短編だったのかしら)の世界にも通じているようで、あらゆる無知(Ignorance)や不寛容が舞台の上でも下でも裏でも、俳優たち(Edward Norton, Naomi Watts)の間にも家族(娘 - Emma Stone)の間にも静かにあたりまえのように拡がっていくばかりで、超人の力くらいでどうすることもできそうにない。 でも彼には。

ていうようなあれこれが、Alejandro González Iñárrituのステージ上からバックステージまで延々のびていく長回し(の多用)と共に描かれて、そこにこれまでのIñárrituの画面作りと同様の小賢しさを感じてうざいと思うかどうかは人それぞれだと思う。

が、今度のに関してはMichael Keatonがあまりにすばらしいので、よいの。 主人公の切羽詰まり具合としては”21 Grams” (2003)のSean Pennあたりに近いのだが、Times Squareをおむつ一丁で走りまわるMichael Keatonのかっこよさのが上をいく。 映画を見る誰もがかつて彼がBatmanだったことを知っている。 迷宮のようにとぐろをまいていくフィクションのなかで銃を手にするMichael Keatonの眼差しと凄みと。  誰かClint Eastwood翁でリメイクして。

Birdmanが悪党を退治するお話ではないにも関わらずそれがタイトルにある、というあたりも含めて、メタフィクションの解りやすく、しかし面倒くさい例示 - “The Unexpected Virtue of Ignorance”というのは果たしてどちら側の ー とか。

そしてEmma Stoneさんもとっても素敵なんだよ。

でも、Bryant Parkをあの角度から見下ろせるところに病院なんてないからね。

11.02.2014

[theater] This Is Our Youth

26日の日曜日のマチネで見ました。 ようやく。 これも日本でチケット買っていった。
場所は48thのCort Theatre。

キャストは3人 - Kieran “Igby” Culkin, Michael “Scott Pilgrim” Cera, Tavi “Rookie Mag” Gevinson, 原作はあのすばらしい“Margaret” (2011) - Kieran Culkinも出ている - を監督したKenneth Lonergan, オリジナル音楽はVampire WeekendのRostam Batmanglij、設定は82年の3月のNY、こんなの絶対見ないわけにはいかん。

でもチケット受け取り窓口で、今日はKieran Culkinお休みごめんー、ていわれて思いっきり凹む。
あーあ、Igby見たかったのによう。(代演はNick Lehane)

1982年の3月、場所は大学シニア(21歳の設定)のDennis Ziegler(Nick Lehane)のUpper Westにあるアパート - 壁にはZappaとRichard Pryorのポスター、レコード棚にもZappaのレコードジャケットが見える - で深夜ひとり床上のTVを見ているところにドアベルが鳴って、後輩(19歳の設定)のWarren(Michael Cera)がスーツケース抱えて家出してくる。彼はもうあんな家耐えらんない、といい父親からガメてきた$15000を使っちまおうぜ、てやけくそになっていう。裏でヤクの取引きとかをしているDennisはバカかおめーは、とか呆れながらもいくつかの電話をかけて深夜の街中に出ていく、ていうのと、Warrenが気になっているFITの学生Jessica(Tavi Gevinson - 設定は19歳)を呼びだしてものにしたい(今夜こそ)、ていうのもあって、そしたら彼女がやってきたので舞いあがって、ふたりでプラザのスイートにでも泊まろうよ、て飛びだしていく。  ここまでが1幕めで、その翌日の昼間、ふたたび同じところに戻ってきた3人は、ていうのが2幕め。

まだネットもスマホも携帯もない時代、若者たちは何に苛立ったり困惑したり焦ったり動かされたりたむろしたりしていたのか、果たしてここにある情動や痙攣を大文字で"THIS IS OUR YOUTH"と呼んでしまってよいものか、議論はあるのかも知れないけど、少なくとも自分にとってはぜんぜん違和感なかった。

遠いようですぐそばにある/あった死(このテーマは“Margaret”でも反復される)、たったひと晩ですべてがひっくり返ってしまう世界、おっかない奴がいて、お調子者がいて、臆病者がいて、そこには守られるべきなにかがあって、決定的に相容れないなにかがあって、でもそれらがなんなのか誰も明言できず、でも肩肘はって見栄はって強がりばかり言ってる。

(ここで岡崎京子の名前を出してしまうのは反則だろうか)

そして3人の俳優たち。 天才としか言いようのない冴え(という形容は果たして妥当なのか)を見せるMichael Ceraのぼんくらの挙動 - Jessicaを前にしたおろおろおたおた、高価なドラッグの粉を床にぶちまけてしまうときの一連の動きのとり返しのつかないかんじ。 
そしてBroadwayデビューとなるTavi Gevinsonの眉間の皺と上目遣い、なにが不安でなににあたまきているのか自分でわかんない不快さを丸飲みにしたような表情、上滑ってつんのめった喋りかた、Zappaの"Mystery Roach"に合わせて弾けたように狂ったように踊りだすそのしなやかなバネ。
この娘はやはりただもんではない。

(ここでMolly Ringwaldの名前を出してしまうのは反則だろうか)

ちなみに96年の初演時、Warrenを演じたのはMark Ruffalo - これも見たかったかも。

映画でも演劇でも、若者をテーマにしたときに必ず議論される「リアルさ」から離れて、それでも若さというリアルに迫ってくるドラマの不思議と、それを可能にしたのが成熟とか到達とかから無縁な(ふりをできる)稀有な俳優達のアンサンブルであったという、そういう点では見事な俳優さんの演劇だったとおもう。 10年後、これをどんな連中が演じることになるのか ー。

11.01.2014

[film] Too Much Johnson [work print] (1938)

25日、”Laggies”を見た後、MOMAの映画部門に移動して見ました。
これだけはチケットを事前に取っておいた。

京橋でもMOMA所蔵の古いのが話題だが(だよね?)、こっちでも毎年恒例の“To Save and Project: The 12th MoMA International Festival of Film Preservation”が24日から始まっていた。
これ、いろんなのが日替りで出てきて本当におもしろいんだよ。

今回、日本映画だと溝口健二の「虞美人草」(1935) - 英語題は”Poppy” - と高島達之助の「お嬢お吉」(1935) - 英語題は”Miss Okichi”とかが上映されるし、京橋でも上映される(今日見てきた)Joseph Cornellの新たに発見されたピース - “Untitled Joseph Cornell Film (The Wool Collage)” - とか、古いのばかりでもなくて、Derek Jarmanの”Caravaggio” (1986) - なつかしー - なんかもやるの。

会場はさすがに結構埋まっていて、かつてFilm ForumとかMuseum of Moving ImageとかFilm SocietyとかMOMAで古い映画がかかるときに何処からか必ず現れる常連の古老たちを久々に見る。まだ生きていたんだねえ、じいちゃんたち。

さて、Orson Wellesがメジャーデビュー作「市民ケーン」に先立つこと3年前に撮っていた”Too Much Johnson”、元々1894年の William Gilletteの戯曲を舞台上演する際の幕間上映用に製作され、これまで存在を確認されていたのは40分版のみ、完成版(といっても劇場で単独公開されることを目的に作られた作品ではない)はWellesのマドリッドの自宅が焼けたときに失われたとされていた。 イタリアの田舎の倉庫で怪しげなフィルム缶が見つかった(なんでそんなとこにこんなものが? - はまったく謎だって)のが70年代、これの復元が始まったのが2005年、これが”Too Much Johnson”の66分版であることが確認されたのが2012年でした、と。

サイレントで、ピアノは名手Donald Sosin先生(00年代、Film Forumとかでサイレントの楽しさを教えてくれたのはこの人の伴奏だった)。 ピアノの他に、復元を担当したGeorge Eastman Houseのおじさんがフィルムの進行にあわせて解説してくれる。

ストーリーは単純で、妻がJohnson(Joseph Cotten - これがデビュー作らしい)と浮気をしているのを見っけた夫が怒り狂ってJohnsonを追っかけまわして、最後は南米の方まで行っちゃう、っていうドタバタで、とにかく延々追っかけていくだけで、めちゃくちゃおかしいの。
音楽で言うとデモ音源みたいなもので、未編集で、同じシーンのリテイクもそのまま繋がっているのだが、元がおかしいので何回やられてもよくて、むしろもっともっと、になる。

男ふたりが追っかけっこをして逃げまわるのはマンハッタンのWest VillageとかMeatpacking Districtの一帯らしく、解説のおじさんが映っている通りの名前や番地から「この建物は現存しています」とか「今はすっかり変わってしまいましたがここはそもそも」とか丁寧に教えてくれる。
で、そんなビルの屋上を忍者みたいに追っかけっこしたり市場の大量の木桶や木箱の間でいないいないばあしたり、抱腹絶倒なんだよ。

しかしここから「市民ケーン」に行くか…

あと、最後におまけ上映として、変てこな葉っぱの冠を付けてこの映画を監督するOrson Wellesの姿をとらえた3分間の映像も流されたの。

このフィルム缶を発見したのは映画研究者でも映画史家でも批評家でもない、ただただ映画を愛していたMario Cattoていう地元の若者で、彼はあの缶には絶対なんかあるから、と言いながらもその中身がOrson Wellesであることを知らないまま、30代で亡くなってしまったという。 この上映会はそんな彼の魂に捧げられて終ったのだった。

しかし、終ったといいながらステージ前方での質疑応答はその後30分以上続いて、横で聞いていたのだが半分以上ちんぷんかんぷんでした。 みんな真剣なのね。