連休のまんなかの日曜日、9日。
まったく起きあがれず、午後遅くに出て1本だけ。 もう終っちゃうし。
自分の仕事に虚しさをかんじはじめた写真家 - デジタル修正をばりばりかける「クリエーター」寄りの - がふいに死の淵、のようなものを覗いてしまい、同時にそれに惹かれるようにしてパレルモに向かう。 筋としてはそれだけ。
写真に写りこむのは生きているものなのだが、生を生(ポジ)たらしてめているのは影(ネガ)としてある死なので、生の写像を追及していくと死に辿りつくのは必然でもあるのだが、そこに求められるべきリアルさ、がデジタル技術だのなんだのによって最近なんだか揺らいでいるように思える、と。
で、パレルモに行って、あーそんなかんじかも、と思っていたら突然死神に矢を放たれてびっくり、目が醒めたわ、と。
死神との対話のとこは、ポジとネガであるところの生と死を巡るだけでなく、写真論であり、最終的には映画論、のようなところにも向かっていく。
生きるか死ぬかの戦いを繰り広げる、というよりは生と死の中間地帯のようなところ(図書館...アナログの巣窟)で、坊さん相手(ここでのDennis Hopperは「地獄の黙示録」のカーツのようにも見える)のような問答をするだけ、なのだが、その内容がものすごくおもしろいの。 たぶん、Wenders自身がずっと自身に問い続けてきたような内容なのだとおもう。
そしてそれらの言葉が、アメリカの友人であるところの、そして既に十分に死を意識していたであろうDennis Hopperを介して語られることで、「おまえは死ぬんだよ」とか静かに宣告されることで、パレルモを起点とした世界がぐるーっとひっくり返っていくのを感じる。
そして、死神の語ることのあまりの正しさに戦慄する。 死神ばんざい。
なぜ最近の「コンテンツ」は一見しただけでつまらないものになってしまっているのか、なぜどこにも「死」の影のない薄いかんじがするのか? それは単にデジタルになったから? というような問いも含めて、Wendersはこの問題を映像作家である自分自身の問題として正面から考え、答えを探そうとしている。
個人的にはこれは、"Until the End of the World"(1991)から20年を経た続きで、あそこで人々の目を盲いでいった「夢」の映像を追っていく旅、旅の続きだったのではないかと。 あそこで人々が没入していった映像は、間違いなく「リアル」なデジタルの3Dのはずで、そんな世界に対抗するためにも彼はデジタルと、この次には3Dに向かわざるを得なかったのではないか。
そんな彼の蒼い決意が全面に出ていて、だから音楽はほんとにすばらしい。
Grindermanから、Velvets、Bonnie Prince Billy、Calexico、Iron & Wine、Portishead、Beirut、あと、うれしかったのはThe Long Wintersの"(It's A) Departure" でしたわ。
Lou Reedは、やはり変だった。
このひとの容貌て、はっきりと映画にはむかないのだと思う。あれだけ幽霊みたいにぼかしても変て、ある意味すごい。
そして、Giovanna Mezzogiornoさんは、最強すぎて、すばらしすぎて。
オーディトリウムで、たぶんもういっかい見る、見ようとおもった。
16日の日曜日に閉幕した49回目のNew York Film Festival。
今年は企画もセレクションもものすごく力の入ったフェスだった気がしたが、その理由が最終日にわかった。
Chairmanで、Program DirectorのRichard Peñaさんが退任することを表明したの。
彼はNYFFの顔、というかLincoln CenterのFilm Societyの顔で、NYFFの期間中はいつでも、どこにでもいた。(NYFFには12歳のときからずーっと参加していたのだという)
でっかい体とでっかい笑顔で映画の紹介のときは本当にわかりやすくなめらかに、でも怒涛の勢いでしゃべりまくるのだった。 そして、彼が前説に登場する特集上映や特別上映は、ぜったい、はずれることがなかった。
イベントや宣伝のために出てきてしゃべるのではなくて、映画のために、それを見ようとどきどきしている我々のためにしゃべってくれるのだった。
こういうひとがいたんだよ、ということをここに記して、彼のすばらしかった笑顔に心から感謝したい。
またどこかで会えるよね。
10.18.2011
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