Wire行くの忘れたショックがおもく・・・
先週の火曜日、いろいろがまんできなくなり午後休んでさぼる。
まず新宿に出て『プッチーニの愛人』見ました。
インターナショナルタイトルは"Puccini and the Girl"、イタリア映画祭の2009のときには『プッチーニと娘』のタイトルだった。
オペラ作品の『西部の娘』- "La Fanciulla del West" - とも(たぶん)重ねてあるので、「娘」のがよいとおもう。
まず冒頭で、日本語字幕で(日本語版のみ?)コトの経緯が説明されていて、かつこれはプッチーニを聴くひとの間ではふつうに知られた事件のようなので、御丁寧に、としか言いようがないのだが、以降、殆ど台詞のない、押し殺したように静かな世界 - 世の中の大概の修羅場がそうであるような - が展開していく。
『西部の娘』を制作しながら、同時にいろんな女の人に手を出しつづけるプッチーニ、夫の挙動に目を光らせつついらいらしっぱなしのエルヴィーラとその側近、両者の間で押し殺されるようにきゅうっと絞められ、光と行き場を失っていくかわいそうなドーリア。
3人の暮らしている世界は、それぞれぜんぜん別のもので、でもそこにあるのは同じ建物、湖畔、風の音、鳥の声 - 美しいトスカーナの光景はひとつで、その3人の世界がひとつの風景の上でじんわりと撚り合わされて膨らんでいく様がスリリングで、言ってはいけないのかもしれないが美しくて。
そうしてこうして、ドーリア・マンフレーディ事件はおこった、と。
『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』とおなじく、これも前世紀の初め、歴史のなかで埋もれ、忘れられようとしていたイタリアの女性(達)のお話しなのだが、前者の地の果てめがけて大砲をぶっぱなすかのような怒号のけたたましさ、何があっても生き延びようとした強さとは対照的に、ドーリアはひとりしくしく泣いて、ぷつりといなくなってしまう。
償われるべきなにか(誰によって?)、として再構成される歴史のなかのイタリア女性。
同じシアターでやってるし、2本続けて見てもよいかも。
ぜんぜん違う映画、でもどっちもスケールはすごい。
プッチーニ役のおじさんのピアノがなんかうまい(+とてもよい音)ので、なんだろと思ったら、もともと音楽家のひとだったのね。
で、映画がおわって新宿の下界に降りたったらうだるような熱でしにそうになって、這うように吉祥寺のほうへ向かう。
7.05.2011
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