この日の4本目。
あんまきつくはないのだが、会社休んでなにやってるんだろ、というかんじにはなるわ。
『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』の爆音を見たら、これも見ないわけにはいかなくなったやつ。 『夜よ、こんにちは』
これも20世紀の史実、赤い旅団によるモロ元首相の誘拐事件を題材にしている。
男女4人のグループが一軒家を借りて、誘拐者の幽閉用にフォームして、コトを起こして、家に首相を連れてきて閉じ込めて、連中は誘拐された側の国や政府と交渉し、誘拐された当人とやりとりし、「実行」のリミットに向けてじりじり動いていく。
連中は何かを変えようと思ってコトを起こしたはずなのだが、すべては「計画」だの「イデオロギー」だのの通りに動かざるを得なくて、コトはあらかじめFixしたなにかのように淡々と進行していくだけで、それはそれでなんの問題もないはずだったのに、そのことに苛立ちはじめる。
誘拐してきたのは権力の象徴でも政治的シンボルでもなんでもなく、たんなる人間だった、静かで聡明なひとりのおじいさんだった、というそれだけのことなのだが、そこから「革命」への道は近いようでとおくて、「人殺し」と「勝利」、「テロ」と「革命」の間で彼らの目が落ちつきなく彷徨いだす。
革命(or テロ)という信念のもと、一定期間、特定の場所に籠って揺れまくりながらも押し切って(押し切られて)しまう本作と、一途な愛をもって、いろんな場所や時間をえんえん引き摺られ、ぐるぐる悶々しながらも最後の最後まで諦めなかった(でもどこかに捨てられ、忘れさられた)『愛の勝利を - 』のIda。
ふたつの映画で描かれた、ふたつの人物(群)像、ふたつの時代の間に横たわるものって、なんなのか。
もちろん、ぜんぜん別のなにか、に決まっているのであるが、でも、ほんの少しの可能性を、堂々巡りのなか、ひょっとしたら変えられたかもしれないなにかを、ぐるぐるから解放される予兆を孕んだブレとか隙間みたいのを指し示す。
これがあるから、どちらもテーマは重くて暗いのに、取り返すことができなかった何かを描いていながらも、苦しくはないの。
爆音はそんな時代の爆音・轟音の隙間に射しこむほんのすこしの静寂をくっきりと浮かびあがらせるの。
それはもちろん、勝ち負けなんかではない、でもはっきりとしたひと握りの拳、ひとすじの涙としてそこにある/あった、ある可能性のことを。
今回の映画に関していうと、過去のテロ映像のバックをつんざいて轟くPink Floydがとんでもなかった。 はじめて『狂気』の狂気を聴いたかんじ。
タイトルの”Good Morning, Night”はEmily Dickinsonの”Good Morning, Midnight”からとられたものだという。
夜さんと昼さんがお互い想いあいっこしながらも、一緒にはなれなくて、ぐるぐるまわっていくしかなくて、なんかせつないわ、ていう詩(たぶん...)なのだが、これとラストの朝の雨の街をてくてく歩いていく首相の姿を重ねると、なんか泣けてしまうのだった。
戻れないことはわかっているのに、朝は夜に向かって「こんにちは」、って挨拶したかったんだよ。
朝が来たのは、朝になれたのは夜があってくれたから、ってわかっているから。
7.06.2011
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