8.30.2020

[film] Proxima (2019)

 21日、土曜日の昼間、がらがらのPicturehouse Central - 映画館で見ました。
作(共同脚本)、監督は”Mustang” (2015)の脚本を書いたAlice Winocourさん。音楽は坂本龍一さん。
Eva GreenとかMatt Dillonとかが出てくるのだがフランス映画で、主人公はフランス語を話して、別居中の元夫との会話はドイツ語で、訓練のシーンはロシア語で、Matt Dillonとのやりとりは英語になる。

ヨーロッパの国際宇宙機関みたいなところに所属するSarah (Eva Green)は、火星行きを目指すための1年間の宇宙ステーションへの滞在をする宇宙飛行士にフランス人女性として選ばれて、それは彼女の長年の夢だったのでとっても嬉しいのだが、気掛かりなのは一人娘で8歳のStella (Zélie Boulant-Lemesle)で、夫のThomas (Lars Eidinger)とは別居しているのでママにべったり、学校でもひとりでいることが多いらしい。

飛行士に選ばれた後にはロシアの施設での打ち上げに向けた長期の訓練に入るので、元夫が暮らすドイツに彼女と猫 - “Laika”っていうの - を送って、モスクワ郊外の訓練施設に旅立つ。 そこで彼女は一緒に宇宙に滞在することになるアメリカ人のMike (Matt Dillon)とロシア人のAnton (Aleksey Fateev)と落ちあって、映画はほぼこの施設での軍隊みたいに厳しい訓練と、その物理的な隔離を通して離れたり近寄ったり危うくなったりするSarahとStellaの母娘関係を中心に描く。

宇宙で滞在するには強靭な肉体と精神とチームワークが求められるので厳しい訓練は当たり前として、いろんなことを学び始めたStellaにとっては、ママとは長い間会えなくなる - ひょっとしたらずっと会えなくなってしまうかも知れない、そういう恐ろしい出来事が目の前にあり、でもこれがママの生涯の夢であることも理解しているので塞ぎこんでしまい、それがSarahにも痛いほどわかるので、頻繁に電話して話をしてケアをして、でもそれが訓練への集中力や結果にも影響するので、Mikeや他の関係者からはなにやってるんだ、になってしまう。

男女の差にあえて踏みこまないようにプログラムされている訓練には当然男性寄りの厳しさがあって、更衣室も一緒だったり、男性からの嫌味や圧 - こういう時のMatt Dillonうまい - も散々浴びせられて、これってふつうにきついそこらの職場と一緒だよな、って思うと、SarahとStellaの関係もそういうものに見えてくる。 もちろん日々の仕事での託児所送りと宇宙行きの使命を一緒にするな、かもしれないけど、子供からすればママがお買い物で出て行ってしまうだけでそのまま事故に遭って会えなくなったらどうしよう、になる不安と心配の深さ重さは変わらないのではないか。

訓練開始から3ヶ月経ったときと、打ち上げ直前にStellaはやってきてママと再会をするのだが、そこでのふたりのやりとり - 特に打ち上げ直前の最後の - がとってもよくて、この辺はこれまでの宇宙飛行士ものとはちょっと違う。これまでのって - ”Ad Astra” (2019)とかもろだけど - どちらかというと父親的な像とそのありようを中心に描いてきた気がする。

もちろん、それならこれ宇宙飛行士モノにする必要なかったんじゃ… かも知れないけど、でも宇宙に行くのってやっぱりすごいことだし、女性にはどんどん行ってもらうべきだと思うし。 なのでエンドロールでこれまでの女性宇宙飛行士全員 - かな? - とその子供達と一緒の写真が並べられていってほんわかする。 

日本で公開されたら、こんなふうになっちゃうから女性の仕事と育児は(溜息).. の議論に寄ってしまうのかもしれないが、そういう無神経で愚鈍なバカをあぶり出して退治するためにも公開されるべき。

彼女たちが宇宙に行ってからの展開は”Gravity” (2013)のパート2として用意されていて、そこでMatt Dillonは宇宙の彼方にふっ飛ばされてしまう … ことを望む。

それにしても、Eva Greenさんのすばらしいこと。これまでも母親的なイメージの役が多かった気がするが、これはもろ全面にあふれかえる。 彼女にやられちゃう人が更に増えますように。絶対増えるから。


日本でも海外でもいろんなことが起こっていて、いろいろ言いたいことはあるのだが、とりあえずRecord Store Day 2020に行った。 今回はコロナの件でDistancingだし、三連休の初日だし、夕方からはオンラインでも販売するようなのでそんなには集まってこないじゃろ、って、だらだら7:30くらいに(開始は8:00)に行ったら甘かった。

こういう状況なので、並んでいるときに今回のリストの紙束と鉛筆が配られて欲しいのにチェックを入れる(並んでるときに退屈しないのはよかった)。店内に入るまでに約2時間、いつもの潮干狩り落穂拾いはなくて店内にも長い列があって、そこでいったんリストは回収されて、カウンターまで来ると名前を呼ばれてリストを見ながら担当の人が一枚一枚持ってきてくれるかたち。 その場で売り切れがわかるのはよいのだが、曲目とかジャケットのかんじとか、持ってこられて初めてわかるのがちょっとねえ(ふたつくらい要りません、て返したり)。

でも予想外のが売り切れてたり、しょうがないので夕方のオンラインに行ってみたらアクセス殺到でサーバーが死んでくれてぜんぜんだめで、でも最終的にはなんとかなったかも。まだ油断ならないが。

次は9月のおわりにまた。これ毎月やられたらいろいろ死ぬよね。

8.29.2020

[film] TENET (2020)

 27日、木曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
本来であれば70mm IMAXで見るべき(Tomが行ったのはBFI IMAXよね)なのだが、予約取れないし、天気悪くて頭いたいし、そんなにノれるかんじでもなかったのでふつうの70mm上映にした。やっぱり70mmだとぜんぜん違うねえ。

コロナ後の映画館再開の目玉というか象徴のように宣伝されていて、Christopher Nolanだし、そりゃそうなんだろうな、と思ったもののなんとなく気が重かった。Lock down中に何度かTVで見た”Dark Knight”のシリーズでも”Dunkirk” (2017)でも、至近距離で炸裂するサスペンスや修羅場はおっかないしすごいと思うし、あるいは”Inception” (2010)の夢の中でも”Interstellar” (2014)のブラックホールでも、人が立ち入ったことがない、見たことがない空間を、見たことがないという地点・前提から入って再構成して見せてしまうエネルギー(作っちゃうんだから)はえらいと思うのだが、そういう画面が彼方から吠えてくるHans Zimmerの「ばおおおぉーん」みたいな威圧的な音塊と共にやってくると、ごめんなさいコタツで寝ていたいですまだ暑いけど、とか言いたくなる。ここんとこ特に。

で、今回は007みたいな現代の活劇 – 第三次世界大戦阻止 – みたいなのだが、予告を見ると手元で撃った銃弾が元のとこに吸い込まれたり、要するに手元の手前の時間が戻ったり - それがテクノロジーなのか装置なのか物質なのか観念なのか肉体に宿るのかわかんないけど – そういうことがフィクションであれ起こりうるということを納得しないと頭はついていけずに気づいたら撃たれてハチの巣、なんだろうな、とか。

結論からいうと、よくわかんなかった。そのうちいろんな記事とか解説が出てきて読めば(たぶん読まない)わかるのかもしれないけど。だからネタバレもくそもないのだが、Christopher Nolanてすごいなーと思うのは、こういうなんかわかんない – きちんと説明されてもわかんない -  けど、画面と音のすごさは、画面だけは子供でもわあーって、なるくらい怒涛の勢いで押し寄せてくるところだと思う。こうして今回は電車とか船とか飛行機とかヘリとか、坊ちゃんも大喜びなのがいっぱいでてくるし、わけわかんなくたって見て損した気にはちっともならない(ここはひとによるか)。

「時間」のテーマが出てくるとやっぱりどうしても難しくなって、それでも”Interstellar”で時間を超えてやってきたMatthew McConaugheyが本棚の本を落としたり、”Avengers: Endgame”でCaptain AmericaがCaptain Americaと組み合って「いいケツだな」っていうようなシンプルなのだったらまだよいと思うのだが、逆行していく時間の流れに沿った動きの中で登場人物たちのアクションだけは順行(はて、この状態ではどちらが順?)するという、これも特撮には違いないけど、見ているこちらの視覚を適応させるのが大変なやつで、潜水作業 – 実際、そういうマスクみたいのをつける - や宇宙空間での作業を見ているかんじに近い。無重力ともちがう別の動きとか力の支配に抗うやつ。しかもそれの揺り戻しも含めて考えないといけない、とかなるともうお手あげ。想像することすらめんどいことが実際に起こってこちらを縛りにくる面倒くささ。(人によっては圧倒される、と)

劇中にも”Multiple Reality”って言葉がでてきたけど、我々は多層の現実世界を生きたことがないので、(多層がありうるとして、その多層性も含め)それがどんなものなのかって知らないわからない。だから如何ようにも旅をして構築したり描いたりすることができる、っていうのがChristopher Nolanが映画のなかでやってきたことで(だから彼の映画には乗り物がいっぱい)、目の前のあれこれで手一杯のひとにとってはそんなのどうでもいいー になりがち。男のファンタジーだろ、って

主人公 - The ProtagonistのJohn David Washingtonはすさまじい運動神経と手捌きで過去に起こったことを回収しつつ次の動きを決めていく(だからこそのThe Protagonist)のだが、ふだんから手際と要領の悪い人があれをやると二次災害三次災害のカオスを巻き起こして、大変なことになってしぬ(ことすらできない)  - という地獄の逆立ちコメディをCharlie Kaufmanあたりに撮ってほしい。

ここまで、ストーリーとかに全く入らずにきてしまったが、これって上から読んでも下から読んでもの回文になってきれいに閉じている、あるいは、ここで起こったことはまだ起こってないことが起こっているのだがそれはまだ起こっていない...  ってぐるぐる自分の尻尾を追って回り続ける、そういう歴史のありようを描いていたものなので、ストーリーは割とどうでもよくて、革命起こしたい人達が見たら憤死しちゃうようなやつなの。

その辺でMichael Caineが”Interstellar”の時みたいに回文形式の詩でも読んでくれたら儚くてばかばかしくなってよかったのに、主人公のスーツを貶しただけでいなくなってしまった。

でも今の我々が見るとやっぱし、彼らが向かう先はウクライナの炭鉱ではなくて最初に肺炎が確認された地点だよな、あーあって。

Aaron Taylor-Johnsonは”Kick-Ass”~“Godzilla”~”Avengers”ときて今回ので、地味だけど着実に強くなっているねえ。

Elizabeth Debickiさんはとっても素敵なんだけど、はやく”Vita & Virginia” (2018)を日本公開しなされ。Virginia WoolfとPrincess Dianaの両方を演じている珍しいひとなんだよ。

この仕掛けを巡ってフェミニスト軍団とマスキュリスト軍団が争奪戦を繰り広げる下ネタ満載rom-comが作られたらぜったい見に行く。汎用性あると思う。作るのは大変そうだけど。

Tomが現れたのは続編をやるんだったら入れて - ”Edge of Tomorrow” (2014)で同じようなのやっているからさ、っていうアピール説。


明日はRSD2020なのだが、リストを見ながら行くか行くまいかまだ悩んでいる。

8.28.2020

[film] Technoboss (2019)

 20日、木曜日の晩、MUBIで見ました。なんとなく。技術系のドキュメンタリーかと思ったら(うそ)、変てこミュージカルだった。ブラジル映画だと思っていたらポルトガル映画だった。おそるべし。

Luís (Miguel Lobo Antunes)は引退を考え始めた初老のエンジニアで、妻とは別れて猫のナポレオンとふたりで暮らしている。彼の会社はオフィスの出入り口のアクセス管理システムの設営とか修理とかをやっていて、社員は5人くらい。ものすごく重要な使命を担う特殊な製品を扱っているわけでも、その仕事の遂行に彼の知見や技量がなくてはならない、というわけでも、彼もその仕事に特別な誇りや特異な情熱を傾けているわけでもなく、生活に困ってどうしてもその仕事にしがみつきたい事情があるわけでもなく、いつ会社がなくなってもそのシステムがなくなっても彼がいなくなっても誰も、そんなに気にしないし困らない。そういう地点から人はどんな物語を作ることができるのだろうか。

会社に行って指示を受けて出先を訪ねて据え付けたり修理したり動作確認したり。うまくいくのもあるけど、うまくいかない方が多い。不平不満はいくらでも受けるしそれも仕事のうちだし、失敗しても怒られても人が死ぬわけじゃない(たぶん)。そんなだから仕事行くのも帰るのもどんよりだし、仕事してても「くそったれー」みたいなのばかりで、「やりがい」なんてどこの星の話か、ってそういう状態で人はなにをするかというとー。

歌うのよね。ただその歌もミュージカルみたいにエモを込めて世界に解き放つのではなく、自分には歌しかないんだって熱唱するのでもなく、車に乗っているときとかに鼻歌よりもやや大きめに、でもそんなに巧くはない。たぶんトラック野郎とかのおじさんとかの方がぜんぜんうまいと思う。 そうやってある時はフォークのように、歌謡曲のように、ブルーズのように、ハードロックのように、歌となって放射されるLuísの声と世界。シチュエーションはいろいろ、車でひとり(車の外はハリボテの景色)だったり、相手がいることもあるし、大勢に囲まれていることもある。ただ歌を歌っている間はミュージカル映画のように世界まるごとその動きが止まって地上から、枕から数センチ浮かびあがっていて、彼の目はこっちを向いてやや真剣になにかを語ろうとしているような。

いちおう、Luísは出先のホテルの受付にいた女性と運命の出会いをしたと思って、彼女との間に歌の魔法が..  みたいな話でもないの。幸せとか将来とか割とどうでもいい、やや温度低めの音楽と共に平熱で生きる。こんな世界はあるし、みんな知っているはず、って。

IMDbになんの情報もない主演のおじさんが何者なのか、すっとぼけた音楽はどこの誰がどんなふうに作ったのか、わかんないことだらけなのだが、おもしろいからいいの。

個人的なことだけど、自分の仕事まわりでLuísみたいなエンジニアには結構会ったことがある。90年代の中頃の中南米で、ああいうアクセス管理の仕組みって盗難が多い南米では普通に必須で、でもドアの鍵の延長みたいなものだから安けりゃいい動けばいいくらいのも相当あって、そういう半端な位置づけのやつだからオフィスの引越しとかがあると必ず問題が出て動かなくなったりして、でも誰も中味とか押さえていないので、エンジニアを呼ぶしかない。そうしてやって来る彼らはだいたい町の電気屋さんと同じふうでITなんか知るかよ、みたいに半端で適当で。映画にあったみたいに閉じ込められてどーしよ、になったことも結構あった。いろいろあったなー(本書けるとおもう)。彼らも変わらず元気でいますように、とか。

どうでもいいけど、Covid-19対応で世界に露わになった日本のITの遅れ(ものすごく。遅れている)って、この世界に近いと思う。こんなのにそんなにお金かける必要ない、とか、費用対効果、とか、中味のわからない/わかりたくないどケチじじい共が念仏のように唱え続けた結果が今の日本のITだよ。デジタルなんてちゃんちゃらおかしいわー。(←いろいろあったらしい)


"TENET"みてきた。 あんな面倒くさくなる世界の終わり、はじめてみた。

8.27.2020

[film] Hope Gap (2019)

 23日、日曜日の昼、Curzon Mayfair - 映画館 - で見ました。メンバー向けのPreviewで客は3人くらい。丁度ひとつ前に書いた”Things to Come”のテーマと近いかんじがしたので、ついでに書いておく。映画としては”Things to Come”の方がだんぜん。

作・脚本・監督は”Gladiator” (2000)の脚本や“Les Misérables” (2012)のアダプテーションをしたWilliam Nicholsonで、自身の舞台作品 - ”The Retreat from Moscow” (1999)を映画用に脚色したもの。

英国のイーストサセックスの海岸沿いの町Seafordの一軒家にGrace (Annette Bening) とEdward (Bill Nighy)の夫婦が暮らしている。結婚して29年で、Graceは詩のアンソロジーを作っていて、Edwardは高校の歴史の先生でWikiの編纂とかもしていて、居間でふたりで仕事をしている時はEdwardがGraceにお茶を淹れてあげたりしている。

ある日、都会に暮らす一人息子のJamie (Josh O'Connor)がやってきて、久々に家族での再会の場になったのだが、そこで突然Edwardが好きな人ができた、別れたいって言う。Grace には寝耳に水のことで、うろたえて泣きだす…  のではなく、29年間ずっと一緒にいて何を言いだすのか、って恫喝調で詰め寄っていくとEdwardは29年間我慢してきたんだ、って返して、それならなんでこれまで何も言わなかった、なぜいま言う? って(GraceがEdwardを)ビンタ、とか(Graceが)でっかいちゃぶ台返しとかの修羅場が展開されて、Edwardはその翌日にひとり静かに出て行ってしまう。

かわいそうなのが間に残された/挟まれたJamieで、自分のことだってあるし、これは夫婦の話だからどちらか一方に味方するのも難しい - ということがわかるくらいには大人なので - 自分のフラットと実家を往復しつつ、孤独から不安定になっていく - 家の近所にはちょうどよい崖がある - 母Graceの文句やグチに付き合って、父Edwardとも会って話を聞いて、を繰り返しつつ自分が子供の頃3人で手を繋いでいた頃のことを思いだして涙ぐんだりしている。

これはもう俳優の映画で、サディスティックにアグレッシブに自分を正しいと信じて疑わない -  “Captain Marvel”のSupreme Intelligenceみたいな - Grace : Annette Beningと、落ち着いていて慎ましく一見おどおどしているものの絶対曲げない曲がらないEdward : Bill Nighyと、やさしいので言われることを全部受けとめつつも何ができるっていうんだよ… って空を見あげるよいこのJamie : Josh O'Connorと、登場人物全員が彼らに期待されている雰囲気や仕草を、素敵な色使いの英国ファッションに包めて全開にしてくれるのでとっても心地よい、見事な室内楽のアンサンブルを見て聴いているかのよう。

Graceにとってこの出来事は、“Things to Come”といえるような来るべきなにか、ではなくて突発した事故のように到底容認できない信じられないそれで、どこまでも怒りが収まらずに犬を飼ってそいつにEdwardという名前を付けてしまったりもするのだが、彼女の怒りもそれに続くGraceとEdwardの攻防についても、最初の方の口喧嘩で示されているようにあまりに唐突すぎて、ちょっと不自然なかんじがする。細かな不満やちくちくが蓄積していった挙句の―、というのがわかるのは冒頭のEdwardがGraceにお茶を淹れてあげるシーンに漂う空気くらいなのだが、あれが夫婦の29年間を突き崩す程のものになるとは思えなくて、そっちよりは噴きあがって止まらないGraceの怒りの方がクローズアップされすぎているような。

舞台版からのアダプテーションと監督を女性がやっていたらおそらく全然違ったトーンのものになったであろうことは容易に想像がついて、やられてばかりでどうみても同情を集めそうなBill Nighyが実は..  にした方が深みもでて絶対おもしろくなったはずなのに。

結末はよくわかんなくて、Graceはもともと詩のアンソロジストなわけで、場面場面で読むべき詩なんていくらでも頭に入っているでしょうに。ここも“Things to Come”と対比してしまうとなんかねえ..

で、この件で落ちこんでしまったJamieを元気づけるために、Edwardが秘伝の時間遡りの術を伝授するのが”About Time” (2013)なのね。 で、これを世界征服に使おうとして大騒ぎになるのが”TENET”なのね。 すべてはAnnette Beningの怒りからはじまっているのね。

邦題を考えるひとは「希望」を使えるって喜んでいるかもだけど、希望も未来も1mmもないやつだから。


LFF2020のClosing Filmが”Ammonite”になったって。 それまではがんばって生きたい。

8.26.2020

[film] L'avenir (2016)

 18日、火曜日の晩、Criterion Channelで見ました。ここで”Three by Mia Hansen-Løve” というのをやってて、その中の1本で見ました。これだけ見ていなかった。彼女の映画を見るのは2015年のフランス映画祭での”Eden” (2014)以来。

原題をふつうに翻訳すると「未来」。英語題は”Things to Come”、邦題は『未来よ こんにちは』。「おはよう」でも「こんばんは」でもなく「こんにちは」って呼びかけてる。

冒頭、家族の休暇でブルターニュの方に行って、ひとり家族から離れて学生のレポートの添削をしているNathalie (Isabelle Huppert)と海に向かって建つシャトーブリアンの墓の前でひとり家族から離れてぽつん、としている夫のHeinz (André Marcon)の姿が描かれる。

そこから数年後、高校の哲学の教師をしているNathalieはストで学生が校内に入れないのに苛立ったり、離れてひとりで暮らす母親 (Edith Scob)が夜中にうなされて電話してくるのに対応したり、ずっと準備を進めてきた哲学の教科書の話も「リ=ブランディング」とか言われて「はぁ?」だったり、まったくもう、なのだが、今度は25年間一緒にいたHeinzが好きな女性ができたのでそっちに行く、といって出ていってしまう。子供達は大人になっているので問題ないのだが、面倒を見ていた母も他界して家には彼女が飼っていた黒猫のPandoraがやってきて、同じく哲学教師をしていた夫は自分の本を持って行ったのでいっぱいだった本棚は歯抜けになっていて、あーあ、になって、なんとなく昔の教え子Fabien (Roman Kolinka)が共同生活をしている山奥の農場に猫を連れて泊まりに行ったりする。

夫との離別があって母との死別があって、仕事をやっていても"The future seems compromised"とか言われてしまう。これらって結構でっかい出来事だと思うのだが、Nathalieはそれらによってめげたり泣いたり騒いだりしなくて、ギアチェンジもしなくて、「あーめんどくさ」くらいはあるけど顔色も画面のトーンもぜんぜん変えずにあれこれ捌いていくのがすごい。 映画でも見るか、って”Certified Copy” (2010) - Juliette Binocheのね - がかかっている映画館に入ってみればなにか勘違いしたおっさんがにじり寄ってきて台無しにしてくれるし - ここ、この映画の筋を知っていると更におかしい。

主人公は最初からIsabelle Huppertさんを想定して書いたそうだが、それがとてもよくわかる。原題の”The Future”もよいけど、英語題の”Things to Come”がとてもはまって、どうせ来るんだから(どうせ流れていくんだし)、くらいなの。嘆いてどうなるというのか。やってくることに対して何事もポジティブに、なんて大きなお世話だわ、という時間の流れに対するしらーっとした態度、のありよう。(成瀬の女性映画のそれに近いと思う。あれよかケセラセラで)

彼女の揺るぎなさを彼女の専攻の哲学に重ねてみるのもおもしろいかも。電車の中でエンツェンスベルガーを読み、授業でルソーについて語り、アドルノについての本を編纂しようとしてて、他にもホルクハイマーやレヴィナスの名前が出てくる。おそらく68年の運動にも参加して政治参加や社会変革について、その思想や倫理(とその限界)について真剣に取り組んできたが故の …  というのはないだろうか。 その反対側で夫の方は同じ哲学でもショーペンハウアー(の本が見つからないので持ってきてくれ、と言われる)というあたりも。 あと、教え子の農場小屋に行ってそこの本棚を眺めて、なんであんたシジェクなんか、ユナボマーの手記なんか読んでんの? ってママみたいに問い詰めるシーンのおもしろいこと。そして彼女のモデルは実際に哲学の教師をしていたMia Hansen-Løveのママだという(なので授業のシーンは実際にチェックして貰ったって)。

そして、とにかく猫が似合う。”Elle” (2016)もそうだったけど猫が傍にいて、猫と会話するのがこんなに様になる女優さんはいないと思う。 そういえば、モデルになったMia Hansen-Løveのママが飼っている猫はDesdemonaといって、この名前を使うことだけは許可しなかったんだって。

音楽は教え子が車の中で流すWoody Guthrieが新鮮で、その時の会話であたし20年くらい同じレコードをかけ続けているのよね、というのが印象に残る。あとはラストでThe Fleetwoodsの”Unchained Melody”がさらさら - 詞の内容とはちがってとてもあっさり流れていってよいの。

Isabelle Huppertさん本人に最初に会ったのは2005年にBAMで”Wanda” (1971)の上映会があったときのイントロで、この映画に惚れてフランスでの上映権を買ってしまったという彼女は熱狂的にこの映画の魅力を語って、この時が”Wanda”を見た最初だったので、自分のなかではWanda = Isabelle Huppertというイメージができあがってしまった。この映画の彼女もその線上にいるねえ。
 

なにやら台風みたいのが来ているらしく、外は風がごうごう渦巻いてて目がまわってしょうもない。

8.25.2020

[film] My Rembrandt (2019)

 17日、月曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』(2008)のOeke Hoogendijkによる美術ドキュメンタリー。UKではDogwoofが配給している。

昨年は生誕350年のRembrandt Yearのお祭りだったので、2年続けて(昨年はほぼこのためだけに)アムステルダムに行って見てきて、今年もAshmoleanで” Young Rembrandt”展が始まったところなので行こうかな、になっていて、たぶん自分はRembrandtが好きなのだと思うのだが、見れば見るほど生涯に渡り節操なく描き散らかしたこのおっさんのどこがよいのかわからなくなってきて、そこら辺を振り返って考えるネタにはなったかも。

スコットランドの地主で公爵のお城にかけてある一枚のRembrandt – “Old Woman Reading” (1655)を愛おしそうに見つめる持ち主の老人とか、アメリカの投資家で既に11枚Rembrandtを所有しているThomas Kaplanとか、アムステルダムのアートディーラーで由緒正しい家柄のJan Sixとか、個人宅に置いていたでっかいRembrandtを税金対策のために売りに出すEric de Rothschildとか、要は西欧社会における貴族(=大金持ち)のひとたちがどんなふうにRembrandtを愛し、彼の絵の「本物」を手元に置きたがっているのか、いろんなケースを追っていく。

スコットランドのはシンプルで、寝室(?)の上の方に掛けてある“Old Woman Reading”をもう少しだけ明るい部屋に移設する、それだけのことなのだが、それにしてもこの絵、世界中にいっぱいある読書する女性を描いた絵のなかでも最高峰のひとつなのではなかろうか。ああ実物を見たい。

Thomas Kaplanはアメリカ人の快活さでRembrandtへの愛を語り、”Study of an Elderly Woman in a White Cap”を落札して手元に来た時、たまらず絵にキスしてしまった、とか言う。げろげろ、なのだが、触れたくなるくらい彼の絵は生々しくこちらに寄ってくる、ということ、なのだろう。

パリのRothschild家がでっかい2枚 - Portret van Marten Soolmans / Portret van Oopjen Coppit (1634)を売る、と公表したらRijksmuseumはそんなのオランダにないとあかんやろ、と言い、ルーブルはフランス国外に持ちだすのはだめざんす、と返して戦争状態になって、でもどっちもそんな裕福な国でもないので...     この2枚、2018年にRijksmuseumの“High Society”展で展示されていたのを見て、こんなでっかいのに見たことないやつだったので「?」になった謎が解けた。(この展覧会が初お披露目だったのね)

アムステルダムのJan Sixは家が代々地元で画商・コレクターをやっていて、その初代は“Portrait of Jan Six” (1654)としてRembrandtの肖像になっているくらいなので、Rembrandtにかける情熱も人一倍強くて、まず映画の冒頭で、”Let the Children Come to Me” (1627-28)を指して、この絵の中に若い頃のRembrandtらしい人物が描かれている、というのと、クリスティーズのカタログにあった“Portrait of a Young Gentleman”という作品 - ”by Rembrandt Circle”となっているけど実はRembrandt自身の手によるものではないか、というのと、これらの絵画の真偽を研究者を交えて追っていくのと、それを落札し、メディアに大々的に発表するまでのところでおまえズルしただろ、って叩かれて友人を失ってしょんぼりするまで。

彼にとっては血筋もあるしこの謎を世界に解き放つのは自分しかいないんだ、って自分で自分にスポットあてて使命感に燃えてしまったのだろうが、真偽鑑定に入るまえに「これは本物に違いない」から入ってしまうのは – しかもそこにお金が絡むのだとしたら – ちょっといけなかったかも。 敵が若くてハンサムで金持ちで家柄もちゃんとしていて、となると叩きたい側は燃えちゃうだろうし。

その辺の事情と経緯はNew York Times Magazineのちょっと長いけどこの記事に;

https://www.nytimes.com/2019/02/27/magazine/rembrandt-jan-six.html

こうしてみるとRembrandtの絵って、”My Rembrandt”とやや熱のこもった調子で呟かせてしまうような引力があって、それって「わたしはあなたを描いているんですよ」「いまのあなたはわたしにはこんなふうに見えるんですよ」ということを仄暗い蝋燭の灯の元で切々と説く、その密なやりとりを見ているような、彼のブラシのストロークとかタッチって、そういう狂おしい感覚を伝えてくるかんじがある、ということ(逆にものすごく適当に流しているようなのもあるけど)。

あと、真偽鑑定や所蔵先を巡ってこれだけ騒ぎが大きくなるのは、マーケットへの影響がそれだけでっかい – それだけ規模範囲が拡がっているということで、なんか複雑。絵は見たいし見るのは必要だと思うけど、そのために絵をあちこち巡回させるのって(それを追っかけまわすのって)しんどいしこわいし。でもデジタルばっかりになっちゃうのもなー。

ほんとはこれくらいの古典絵画って世界遺産みたいなものだから売買とか凍結しちゃえばいいのに、くらいのことは思う。投資と金儲けはバカっぽいモダンアートの連中にやらせとけばいいの。

Jan Sixさんが日本文化を勉強したら肩のあたりに「恋撫蘭徒 ヤン六」ってタトゥーを彫ってほしいと思う。どうでもいいけど。


8.24.2020

[film] Mudar de Vida (1966)

 16日、日曜日の晩、Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。リストア(リストレーションは2作ともPedro Costaが監修しているのね)されたPaulo Rocha作品 - 一週間前にここで見た”Os Verdes Anos” (1963) - “The Green Years”の後に配信されている監督第二作、英語題は”Change of Life”、邦題は『新しい人生』。 これもモノクロの映像が美しい。 音楽は前作に続いてCarlos Paredes。

“The Green Years”は19歳の若者がリスボンに職を得て都会に出て行く話だったが、これは長いことアンゴラに戦争に出てそこでそのまま働いていたAdelino (Geraldo Del Rey)が故郷の漁村に戻ってくる話。
かつて恋人だった女性は弟の妻となって生活に疲れていて親しくしてもぎこちないし、両親も老いて疲れていて、かつての自分の家とはどこか違っていて、落ち着くことができない。仕事で船に乗って沖に出ても豊漁とは言えなくて、しかも腰が痛くなって続けられそうにない。

このままここにいたらダメになってしまうどこかに移ろうか、ってどんより彷徨っていると教会で賽銭泥棒をしようとしているAlbertina (Isabel Ruth)と出会って、初めは野良同士で睨み合っているのだが、だんだん近寄っていって、彼女もこの村には絶望しているので一緒にどこかにー、となるのだが…

若者が都会の大きさ、無頓着さに触れて愛と苛立ちの両方を抱えて膨れて弾けてしまう”The Green Years”に対して、中年男が小さな貧しい漁村で疲れと諦念で動きようがなくなって、どこかに行こうとする(でも行けない)今作は、いろんな点で対照をなしているかんじがして、でもどちらも生き難い、それは都会だから田舎だから、若者だから中年だから、肉体労働をしていて豊かになれないから、女性がしっかり自分の考えを持っているから、そのどれでもありそうで、どれでもないような、中途半端な世界で幽霊のようになって生きる男が中心にいるような。 彼らは - AdelinoもJúlioも、自分でそれなりのことを決められるなんとかできる、と思いつつ、実はなんにもできないままAlbertinaやIlda - どちらもIsabel Ruthが演じているのは偶然? - に振り回されて立ち尽くしているだけなのではないか。

なんとなく思い出したのはPedro Costaの“Vitalina Varela” (2019)で、あれは夫の死の報を受けたVitalinaが異国から死ぬ前に夫が暮らしていたリスボンのスラムにやってくる話だった。 夫がいなくなってしまったことを確かめつつ、穴倉のように荒んだ暗い場所で、彼女は抜け殻になるどころかどうしようもないくらい圧倒的に生きてしまう - 『新しい人生』どころじゃない静かな強さと勢いでなにかを取り戻すの。

もういっこ、この3つを見て思うのは社会や住む場所のリアリズムって、なんなのかしら? って。50年以上時間が経つとそこで映される都市の様子も社会のありようも変わってしまうのは当然としても、それらって登場人物の背景以上に彼らの生を映しだしてしまうなにかなのではないか、とか。

Paulo Rochaのシリーズはこれで終わりなのかしら? もっと見たいなー。


ここのとこ、夕方から冷えこむようになって、上着がないと寒いくらい。もう秋なんだねえ。暑さがなくなったのは嬉しいけど、日が短くなってきたのは寂しい。そして今年の夏っていったいなんだったのか。