10.07.2026

[film] L'étrange Madame X (1951)

9月28日、月曜日の晩、シネマヴェーラの「映画を輝かせるために」の特集で見ました。
監督はJean Grémillon。 英語題は”The Strange Madame X”、邦題は『迷宮の女』。

Irene (Michèle Morgan)は出版社社長の妻として社交界の華だったが、体面とお金のことばかり気にする夫とは冷めて終わっていて、でも木工所で働く若者Etienne (Henri Vidal)と恋におちてしまい、身分を隠して自分は金持ちのお屋敷で働くメイドである、って嘘をついて、会えない時も仕事の事情で、って断ったり(それは正しいのだが)。

やがてEtienneの子を妊娠してしまったIreneは夫とも相談して隠れて子供を産んで(ちょっと無理あるよね)Etienneに託し、彼はそれをおじさんのとこに預けて、もう結婚しかない結婚したい、と押してくるEtienneにIreneも同意して、夫にもそれを告げる(夫は自分のビジネスにも影響するので当然いやだ、と)。

のだが赤ん坊が突然病気になって、大変な時にIreneがつかまらない – Etienneが思い切って彼女が働いているはずの屋敷に駆けこんだら彼女はメイドではなくゴージャスな衣装(by Pierre Balmain)を纏う女主人で、うそ… とか言っているうちに赤ん坊は亡くなってしまい、Etienneは彼女のもとを去って、彼女は…

『曳き船』もそうだったが、自分のことなんて屁とも思っていない夫のもとで鉄の仮面を被るようになってしまった女が、ようやく素敵な男に出会えた、と思ったのに、その男にもふられることになり、あーあ(でも生きていかなければ)。この、でも生きていかなければ - の冷たさを正面から受けてひとりで立っている姿がかっこいいの。男からすれば自業自得、って言われそうなところを、それがどうしたこれが自分だ、って返して、決して媚びを売ったり泣きついたりしないその面構えの見事なこと。(日本の女優だったら誰だろうか、ってずっと考えている)

映しだされる路地の風景が素敵でさー、通りの奥に向かってずっと走っていく黒猫とか、ベンチで泣き崩れるIreneの少し奥から現れてくる馬車とか、動く絵、としての痺れるようなかっこよさがある。


Remorques (1941)

9月26日、土曜日、シネマヴェーラの特集初日の4本目で見ました。

上映前に蓮實重彦さんのトークつき。ほんとどうでもよさそうな、他愛ないことをおもしろおかしく話して、でも映画の根幹のようなところはちゃんと掬って、枯れて何を言ってもおもしろくなる落語家みたいになってきたなあ、って。彼のこういうプレトークを最初に聞いたのはいつだったか。シネセゾン渋谷での記念碑的な上映となった「生きるべきか死ぬべきか』のオープニングの時だったか? あの時は横に淀川長治さんがいたなあー。 今回でた本、どうせなら『映画千夜一夜』もマージして四巻本とかにしてもよかったのに。

英語題は” Stormy Waters”、邦題は『曳き船』。原作はRoger Vercelの同名小説 (1935)、シナリオ/台詞にはJacques Prévert。監督はJean Grémillon。 もう何遍も見ている。

André (Jean Gabin)は嵐とかで動けなくなった船から救助を求められると海に出ていってロープで引っ張って救助する曳き船の船長で、面倒見もよいので自分の仲間からの信頼も厚くて、冒頭は自分の船の仲間の結婚記念パーティなのだが、雨天で救助依頼が入ったとたんに出て行っちゃうので、妻のYvonne (Madeleine Renaud)は心配で心配で、この晩の活動ではその船にいた船員たちの救助はできたものの、船はそこの船長が嫌なやつで向こうから勝手にロープを切断しやがったので、お金を取りっぱぐれたAndréはそいつを殴り倒す。

救助された船員のなかに、その嫌な船長の妻Catherine (Michèle Morgan)がいて、彼女も夫に愛想をつかしてもうあの船にもあいつのところにも戻らない、と言い張るので、心配になったAndréが気にかけていたら、ふたりは恋におちてしまい、でもその裏でYvonneは病に倒れて…

ずっと大雨で天気が悪かったり揺れまくる船の上だったり、結婚式のすぐ後に新郎が指切断とか、不倫に死別に「呪われた映画」ここにありー、としか言いようがないのだが、「曳き船」そのものが絶望のなかの光として現れるように、彼らが苦しんでどうしようもない状況にこそ生がばちばちと叩き出されてくる。 吹きっさらしの階段に容赦なく叩きつけられる雨のようなあれらがどうにもすごいったらなくて、名画を見る感動とは別に、生きていくのは大変だなー、の重さがじっとりやってくるの。 もちろん、「曳き船」なんて来てくれない…

[film] La venue de l'avenir (2025)

9月27日、日曜日の午後、『眺めのいい部屋』のあと、ヒューマントラストシネマ有楽町に移動して見ました。

英語題は”Colours of Time” - 邦題は『モネと時間旅行』。 客寄せだろうけど、「モネ」の名前を出すのはどうかと思うし、時間旅行をする話でもない、原題をそのまま翻訳すると「未来の到来」。 監督はCédric Klapisch。

現代のフランスの郊外の宝探しと、ベルエポック時代のル・アーブル/パリでの親探しの話が交互に行ったり来たりしていく。

現代の方では、巨大なショッピングモール建設計画の予定敷地内にある1944年から誰も中に入っていない家屋の取り壊し承認を得るために、その家を所有していたAdèle (Suzanne Lindon)の子孫たちが不動産会社によって大量に集められて説明会が開かれ、建設の邪魔になるので潰しちゃってよいでしょうか? って問うて、でもその家の中に何があるのか誰も知らないので、Adèleの直系の親族から4人の代表 - 教師のAbdelkrim (Zinedine Soualem), コンテンツ写真家Seb (Abraham Wapler), 会社の偉いひとCéline (Julia Piaton), 養蜂家のGuy (Vincent Macaigne)が選ばれて、初めて対面する4人が互いの腹のなかと家のなかを探っていく。

これと並行して、19世紀では、その同じ村のその家を出て列車と船を乗り継いでひとり母親探しにパリへと向かうAdèleの姿が描かれる。 Adèleに向けて生活費の仕送りだけはしてくれている母親を訪ねるべく公証人のところで住所を聞いて行ってみたらそこは娼館で、客の相手をしている母Odette (Sara Giraudeau)を見ていたたまれなくなって、旅の始めに出会った青年2人のモンマルトルの下宿に転がりこんで、せっかく来たのでしばらく滞在してみることにする。サラ・ベルナールなどにも会えたりするし。

現代の方では家の壁に貼ってある大量の古い写真とか油絵とかカンバス布に赤い線とか、アートっぽいものが見つかるが専門家でもないのでほぼガラクタにしか見えなくて、破棄してよいものか、になっていくのと、Adèleの方は改めてきちんと母と対面して、自分の父親は誰? と聞いてみたら、ふたりの候補がいると。 ひとりは写真家のナダール、もうひとりが画家の…

ここまで来たら、Adèleの家にあれらがどういう経緯で遺されていたのか、というのと彼女の父親はどちらなのか、を詰めていくのかと思ったら、4人が薬草 – やはりVincent Macaigne持ち込み – でナダールのアトリエで開かれた第1回印象派展のサロンにタイムスリップするとか、父親については、うーんこっちじゃない気がするとか、その程度のもので、それなら『マンマ・ミーア!』みたいな楽しいバカコメディにしちゃえばよかったのに。(最初からその程度に軽く見るべきだった?)

当たり前だけど、誰にでも親がいて祖先がいて、それらはずっと繋がっていて過去でも今でも未来に向かって開かれているのだ、というだけの話が、モネの絵とかショッピングセンターとか、結局お金とか資産の話から切り出されていくのはしょうがないのか。落ちるところが「あなたの大切な資産をお守りします」みたいな話になるのがどうにも。

結局Adèleはどっちの男と結婚したのか、とか、あの絵は結局慰謝料なんだから親族全員で分配すべきではないか(→戦争)、とかそういうぐだぐだに向かっていった方が楽しくなったのではないか。

それか、Adèleの父親(候補)がRenoirだったら、Cézanneだったら、Manetだったら、果たしてどんな絵が遺されただろうか、彼女の運命も変わったのではないか、とか。

それか、実はあの家のなかでAdèleの遺体が見つかって、それを見つけた親族も殺されて、現場に遺された絵具のタッチから犯人を捜してみよう! とか。

Vincent Macaigneがいなかったらどうなっていたことか。

10.06.2026

[film] A Room with a View (1985)

9月27日、日曜日の昼、ル・シネマの7階で見ました。 4Kリストアされた『眺めのいい部屋』。

封切り時には当然シネマライズに並んで見た。今にして思えばバカみたいだが、誰もがStyle Councilの”Shout to the Top” (1984)の12inchの裏ジャケットの世界に繋げて夢と理想を見つめてうっとりしていた季節。 約40年後、これのリストア版を文化が隅々まで粉微塵に駆逐されてゴミそのものと化してしまったその同じ街の、家電量販店の上階なんかで見ることになろうとは。映画なんかよりも街をまるごとリストアしてくれないものか。

原作はE. M. Forsterによる同名小説 (1908)、監督はJames Ivory、製作はIsmail Merchant率いるMerchant Ivory Productions。このプロダクションについては、2024年のドキュメンタリー映画 - ”Merchant Ivory”で歴史も含めて詳しく綴られていて、裏側の事情などもすごくおもしろいので見る機会があったら是非。

この後の“Maurice” (1987)や“Howards End” (1992)といったもう少し文芸作っぽくなる映画よりもふわふわぼーっとしているかも。「眺めのいい部屋」では、窓の向こうに広がる眺めを楽しむべきなのか、そうして置かれた部屋そのものを楽しむべきなのか揺れてしまうのと同じように、主人公のLucy Honeychurch (Helena Bonham Carter)は、結局あんた、どこで、だれと、なにをしたいのよ ?! の山や谷間で揺れまくって、とにかく落ち着かない。親戚のおばちゃんになってそんな彼女を眺めているだけの約2時間。

1907年、Lucyは年長の従姉妹であるCharlotte Bartlett (Maggie Smith)と一緒にフィレンツェのペンションに滞在していて、ふたは当初約束されていたアルノ川を望む眺めのよい部屋でなかったことに落胆して、それでぶつぶつ騒いで呪っていたら、なにをして生きているのか不明なMr. Emerson (Denholm Elliott)とGeorge (Julian Sands)の父子が自分たちの部屋と交換してあげましょう、と言ってきてそんなのいいのどうするの?って揺れるのだが交換して、でもそんな翌日、広場の喧嘩で男が殺されるところを目撃して気を失ったLucyをGeorgeが助けてくれて、その後、小説家のEleanor Lavish (Judi Dench)を含むイギリス人一同の遠出で、GeorgeがLucyに情熱的なキスしているのを見てしまったCharlotteは、これは母親とかに言ってはいけません、旅もこれで終わり、ってイギリスに帰ってしまう。

イギリスのサリーに戻ったLucyは冷淡で尊大で身分以外に取り柄のなさそうなCecil Vyse (Daniel Day-Lewis)からプロポーズされて、お家も身上も安泰になるから、とあっさり受けて、一応これでめでたしになると思ったら、Cecilの嫌味でEmerson父子が近所のコテージに滞在することを知って…

誰が誰を見初めたくっついたはなれたを内なるエモの暴走と想定壁への激突と諦めの一人称のなかに楽しく描いていくJane Austenも楽しいが、ここでのLucyの「部屋」と「眺め」を巡る一筋縄ではいかない、外面からはあまり窺うことのできない呻きや爆発、などが見事で素敵で、この辺は公開時に見た時には(自分が未熟すぎて)見えていないところだったなあ、って。Helena Bonham Carterの自在に伸縮して溢れだす髪の毛の見事なこと。

彼女の内側に張られた糸が惑いながら解れて回りだすイタリア-フィレンツェの眺め、それはイギリスの都市や田園のそれとは違うものだった、というのは実際に行ってあの川とかドゥオモとかを見て思い知るようなことで、その眺めのよさって、単に内から外を眺めるだけのものではなかったのだなー、って。

あと、Maggie SmithとJudi DenchとHelena Bonham Carterの3人が同じ画面に入っている、ってなんだかたまんなかった。

あと、Julian SandsとDaniel Day-Lewisの殴り合いとか素裸の水浴とか、あってほしかったかも。(Bridget Jones以降の)

10.05.2026

[film] The Spikes Gang (1974)

9月26日、土曜日の昼、シネマヴェーラで新しく始まった特集 『『映画を輝かせるために -蓮實重彦 山田宏一 山根貞男 映画談義集成』刊行記念特集』で見ました。

サイン本も欲しかったので早めに行って並んで、しょうもない雨であんま外に出たくないし特にすることもないし夕方にはトークもあったし、この日はここで4本見た。やっぱりつかれた。

今回の特集は、本の刊行記念 - 出たばかりの本に絡んで特集されたものなのだが、読んでいないからといって見るのを躊躇するかというともちろんそんなことはない、その逆で、「映画を輝かせるために」あらゆる言葉、映画史の知見を駆使してきた3人によって世にでた本、それに因んだ特集のために選ばれた作品なんて問答無用で輝いているに決まっているので、端から見ていくしかない。 実際にどれを見たってすごいし、時間も1時間半くらいのが殆どなので、平日の仕事帰りに引っかけるのに丁度よいの。

邦題は『スパイクス・ギャング』、これのスチールが今回の特集のカバーになっている。
原作はGiles Tippette による”The Bank Robber”、監督はRichard Fleischer。カラーの西部劇。
今回の特集のどれもが、みんなが知っているクラシックというより、半端でお金かけてなさそうなB級ばかりで、原作とか撮影とか音楽とかは知らない人ばかり、知らなくたってこんなにもすごいのかー、この勢いはなに? ばっかり。めちゃくちゃうまい3ピースバンドの3分間の演奏にぶっとばされる、そんなのばっかり。

Harry Spikes (Lee Marvin)は西部開拓時代の終わりを生きる老いた銀行強盗で、名は知られているががたがたで、冒頭に血まみれで死にかけているところを3人の小僧 – Wil (Gary Grimes), Les (Ron Howard – あのRon Howardね), Todd (Charles Martin Smith) – に助けられ治療をしてもらって食べ物ももらって、3人は謝礼とか受けとらなくて、Harryはこの恩は忘れねえ、と言って彼方に消える。

やがてWilは粗暴な父親からの暴力に耐えられなくなって家を出ると、あとの2人も彼についてきてみんなで放浪の旅に出て、お金がなくなったので見よう見まねで銀行強盗をしたらTodが人を殺してしまい、Lesはお金を落として、殺した相手が州の上院議員だったので全員が重めのお尋ね者になってしまうのだが、とにかくメキシコに流れ着く。

メキシコでも不器用で警察にしょっぴかれて、そこにたまたま通りかかったSpikeに助けてもらって、この時はそれだけで、まっとうな生活に戻ろうとするのだが、次にまたSpikeと会うと、自分とこのギャングにならないか、と言ってくる。

で、予行練習のような銀行強盗でも失敗して、Todが背中を撃たれて、Spikeは彼を捨てて逃げろ、というのだが2人は拒んで動かないのでSpikeは呆れて彼らから離れて、亡くなったTodの埋葬をしているところをまた襲われて、とにかくまったくついてなくて、そのうち改めてSpikeとも対峙するのだが、結局みんな…

そもそもがろくでなしのSpikes Gang – よれよれの年寄りと3人のガキ、が鈍かったり未熟だったりで全員散ってしまうしょうもないお話なのだが、印象はとても爽やかな青春劇のように瑞々しく、あまりにさらさら風となって消えてしまうのでなんだったのだろう、って3人とじじいの像がずっと残る。果たしてこんなの「西部劇」と呼ぶことが許されるのか、任侠モノのようにべったりしていなくて、女っけゼロで、そこらの道端に転がっていそうで、誰もあとで思いださないまま風に消える。 でも映画ったら、こんなふうにー。


The Rise and Fall of Legs Diamond (1960)

9月26日、↑のに続けて見ました。この2本はどういう事情か知らないけど特別料金設定(1600円)。
邦題は『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』、監督はBudd Boetticher。

こちらは西部劇ではなくて都会のギャングもの。1920年代のNYで、チンピラ小悪党のJack Diamond (Ray Danton)は宝石店からネックレスを盗むためにそこにいたダンス教師のAlice (Karen Steele)に近づいて、しょっぴかれたりするものの、ちっとも懲りなくて、戻ってから口八丁手八丁でギャングの用心棒になって、密造酒、麻薬、賭博といったあらゆる利権を自分の好きなようにすべく動き回って、親分が亡くなった後は勝手に引き継いで大股でやりたい放題を始めるのだが、当然敵もわらわら湧いてきて…

これも↑の西部劇と同様、暗いところがちっともない、でも陽気でバカなわけでもない、最後にAliceが彼について語る「彼は多くの人に愛されたけれど、誰のことも愛さなかった」姿そのもの、その空っぽさ、穴の輪郭が鮮やかに残るの。 ”The Spikes Gang”とはあらゆるところで対照的な。

[music] ROUGH TRADE 50

イギリスのインディペンデント・レーベルRough Tradeの設立50周年を記念して、同レーベルに所属する最近のバンド2つのライブと創業者のGeoff Travis、Jeannette Leeが来日してレクチャーとDJをするというので行くしかないと思った。

10月2日、東京藝大でのレクチャーの冒頭で司会のおじいさんも語っていたが、1980年のThe Pop Group の”For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”と翌81年に出た日本編集のオムニバス - “Clear Cut”は自分の物の見方とか世界への関わりかたをすっかり変えてしまった。当時はもちろん他にもいろいろあったが、Rough Tradeのとっ散らかった音がイギリスの、メジャーなわけではない、インディペンデントから来た、というのも大きくて、当時聴いていたPILとかSlitsとかと合わせて、当時の他のインディペンデント - Factory, Cherry Red, 4AD, Mute, Stiff, CRASS, なども含めて自分のイギリス熱を決定的なものにした(のはパンクよりもこちらの方だった)。

2人ともものすごくわかりやすい英語で、まずはGeoffのCity Lights Bookstoreの話は嬉しかった。あそこの地下フロアの哲学書と音楽本があるところが身悶えするくらい好きなの。

あと、まずディストリビューション(ネットワーク)から考えた、というところの正しさ。レーベルのカラーのようなのを前面に出す、というよりStep-ForwardとかPostcardとかPianoとか更に小さいところを繋いでいって、だから例えば、ポストパンクとは? と問われたら最初の”Clear Cut”の12曲を通しで聴いてみればよいのだし、今回の50thで復刻されている初期の7inchもその適度なばらけ具合がたまらない。

Jeannetteの子供の頃からMotownをずっと聴いていた、というところもすてき。一番聞きたかったのは講堂のスクリーンにもジャケット写真が大写しされたPILの”The Flowers of Romance” (1981)のどこにどう関わったのか、出かける前にこの時期に彼女がバンドの周辺を撮ったポラロイドの写真集 - “Private Image” (2017)を振り返っておこう、と思ったのだが、山の奥に埋もれていて出てきてくれなかった。

ただ、全体として、1時間半はあまりに時間なさすぎ。設立当初〜Jeannette加入時の話題からいきなりThe Smithsに飛んでしまうのはあまりにも。Young Marble Giants周辺、The Raincoats周辺、Scritti Politti周辺が当時のGeoffからどう見えていたのか、そこから彼の政治的な立ち位置がそれなりに見えて、それはそのままポストパンクをポストパンクたらしめた当時の視座、のようなものに繋がるはず、と思っていたのだが。あと3時間は語って欲しかったかも。

あと現在の主にロンドンにある、店舗としてのRough Tradeが今後どうなっていく/どうしたいのかも聞きたかった。マイナーなのとか重箱の隅系は年2回のRecord Store Dayと通販でどうにかなってしまっている昨今、イベントスペース提供とスタンダードな本とレコードを中心とした地元の発信地、のようなのでよいのか? - それでもあの居心地のよさは十分に素敵なのだけど。

10月1日、O-Eastのライブの合間のふたりのDJはリラックスした楽しいものだった。どうしても曲当てクイズみたいになりがちで、そういうとこも含めて。

ふたつのバンド、最初のMy New Band Believeも次のCarolineのライブ、SNSなどを見るとみんな大絶賛なのだが、自分にはあんま来なかったかも。

どちらも長めの、ストーリーを意識したような曲構成、フリージャズのような対話即興を交えつつ終盤に向けて盛りあがっていって、無邪気に真摯に音楽をとっても愛して取り組んでいることはわかるのだが、それならクラシックやジャズやプログレと同じで、自分にとってのRough Tradeの音は、そんな音楽、意識的なとこも含めたロックのありようとか態度とか愛とかに斜め左からばーか、ってやる音たちだったので。

あと、どちらの音にも、とにかく新しいなにか、得体の知れない、怪しいなにかがまるで感じられなかった。これは自分が鈍くなっているだけなのだろうが、むかしにGodspeed You! Black Emperorあたりで聴いたような壁の質感、最近のなんでもシューゲイザー(もどき)と同じような包み込んだもんがち、みたいなのしか。音楽が好きなんだようー なのはとてもよくわかったけど。

10.02.2026

[film] Bob Trevino Likes It (2024)

9月14日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。

作・監督はTracie Laymon。2024年のSXSWでプレミアされて、Grand JuryとAudience Awardを受賞している。邦題は『私たちはちょうどいい。』 ... 「ボブ・トレヴィーノはいいね!をしました」でいいじゃん。なにと比べて、どう「ちょうどいい」というのか?

冒頭、Lily (Barbie Ferreira)がスマホを握りしめて、彼が間違って別の女性に向けて出したべろべろメッセージを読んでぼろぼろ泣いていて、向こうが「ごめんごめん」ていうので、「ううん、いいのよ」ってお人好しふうに言ってから「あーおわった」って更に泣く。 

障害者のDaphne (Lauren "Lolo" Spencer)と暮らしながら彼女のケアをしているLilyは父親のBob Trevino (French Stewart)と会って自分の失恋のことを言っても父親は老人ホームで自分に向かってくる女性の話ばかりしているし、癒されるべくセラピーに向かっても、子供時代のことを話したらセラピストに泣かれてしまう(くらいひどい境遇であったと)。

父親Bobのデートについていって、相手の女性を怒らせてしまってから父親は彼女を置き去りにして(この父親がぜんぶ悪いのにひどすぎ)、なんとか彼との関係を修復すべくコンタクトを取らなきゃ、とFacebookを開いて、見つけたBob Trevinoに友達申請をしたら、「承認」が来たのでほっとするが、こいつは全く別、アカの他人のBob Trevino (John Leguizamo)なのだった…

彼は隣のインディアナ州に住む建築現場のマネージャーで、仕事もちゃんとするけどちょっと気難しいので友達もいなくて、間違いに気付いた後もLilyが送ってくるどうでもいいメッセージや投稿に「いいね」をぽつぽつしてくれるようになって、やがてチャットも楽しんで、Bobの妻のJeannie (Rachel Bay Jones)も最初はフェイクに騙されているんじゃないか、と疑うのだが、彼がなんだか楽しんでいるようなので放っておく。

Daphneが詰まらせてしまったトイレでどうしようもなくなった件のヘルプでやってきたBobとLilyは初めて対面して、BobはLilyの生活能力のなさに愕然としていろいろ教えてくれたり、Bobのことを冗談で「パパ」と呼んだら動揺した背景に彼は息子を亡くしていたことがわかったり、実父のせいで犬を飼えなかった彼女を保護施設につれていってあげたり、際どいところを行くようなほんわかしたエピソードが続いて、John Leguizamoだし、最後のほうにとっておきのが、と思っていたら…

もちろんとっておき、なのかもしれないが、いきなりあんなふうになるとは思わず、ペルセウス座流星群とかスクラップブックとかLilyの詩とか小道具がいっぱいあるので、なんかずるいや、のかんじもした。昔だったら手紙とか、近年だったら”You've Got Mail” (1998)の電子メールから始まっていった何かが、”Like”のクリックひとつのやりとりから始まって、その奥というか向こうの分厚いスクラップブックに溜まっていくまで、をrom-comを回避するかのように積みあげて、あそこまで持っていくのはたいしたもんかも。あ、でもLily役のBarbie Ferreiraがよすぎるだけかも。

監督の身に実際にあった話で、ショートフィルムの企画をやさしかったBobに伝えようとしたらああなっていたことを知って、そこからいろいろあってこの映画になったのだそう。ちょっといい話、というよりはもう少しおもしろく、深い。

それにしてもひどすぎる彼女の父親、最後にソーシャルでぼこぼこにされればよいのに、と思ったのだが、それはなくてただ視界から外す、みたいな消し方もよかったかも。

10.01.2026

[film] Mr. Nelson, Did You Kill People? (2026)

ロンドン行く前に見て、書いていなかったやつなどから。
9月13日、日曜日の昼、kino cinema新宿で見ました。

邦題は『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』 - これはどちらかというと洋画枠だと思うので。

この時も満席で、その状態が続いているらしいのは裏事情があるにせよないにせよ、よいこと。結果的にヒットすればもっとよいこと。とにかく多くのひとが見ればそれで。

原作はAllen Nelsonによる同名の手記、脚本・撮影・監督は塚本晋也、9月のヴェネツィアでプレミアされて、Leoncino d'Oro Award(イタリアの高校生たちが審査員となる)を受賞している。

元海兵隊員でベトナム戦争の退役軍人のAllen Nelsn (若い頃Mark Merphy、少し歳をとってからRodney Hicks)は、復員後NYで猫と暮らしているが明らかにPTSDで大きな物音がするとパニックを起こして倒れてしまう。ある日、高校の同窓生と再会して、小学校で教師をしている彼女から戦争体験について子供たちの前で話してくれないか、と乞われて、最初は断るのだが、子供たちの手紙をみてやってみることにして、なんとか自分の体験を話して、でもその最後に子供から「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」と尋ねられると…

そこから数年後、Allenは妻のLinda、彼女の連れ子のSeanと暮らしてDr. Daniels (Geoffrey Rush)の元で治療を続けていて、そこで自分の過去を語る。暴力的だった元軍人の養父の元で育ったこと、そこから逃れるように海兵隊に入って、戦地ベトナムに派遣され、そこから先は凄惨な戦争 – 殺し合いの現場の描写が延々続いていく。それを治療とは言え記憶を掘って医師に語るのはものすごいストレスなのだが、治療の終わりにDr. Danielsは「なぜ人を殺したのか?」と聞うてきて、Allenは目を背けるように「戦争だった。殺さなければ自分が殺されてしまう」とか「上からの命令だった」とかどうにか返すのだが、その問いは彼にとって銃を突きつけられるような地獄で、でもDanielsは静かに、何度でも同じ問いを繰り返す。

戦時の前線での描写はいつもの塚本映画のそれで、恐怖を煽ってそれを重低音のように引き摺って目を背けさせない、ディゾルブの多用も含めて感覚にダイレクトにくるのはしんどいのだが、これと併せて彼が現地の子供たちと仲良くなって遊んだりする場面も描かれて、でも、それでもAllenは人を殺しているんです - こんなふうに、というところに戻っていく。

『野火』 (2014)の暴力が理性の崩壊の果てに現れるようなかたちを取っていたのに対して、ここでの暴力は理性を維持させようとする軍のシステムのもとで正当化され、でもどっちにしても人は殺されて、殺された人々は田村やAllenのように生き残る - 生き残って苦しむことはない。ただ消える。地獄はどっちの側に。

死のうが生き残ろうがどっちにしても救われない、戦争とは表向きは国と国がやるものだから、でもそれは地面の上で(or 空の上から)人が人を殺すということなのだ、とゆっくりと引き摺りおろすように告げる。 戦争が、でも軍が、でもなく主語は「自分」なのだと。

このやり方でいったら、例えばアメリカ人の社会のそこそこの地位にあって「よいひと」「頼りになる人」の半分くらいは人殺しになってしまうのかもしれないし、自分らの先祖だって人殺しだらけなのかもしれない、だって人類の歴史は戦争と共にあったのだから… という形で「そういうもんだ」と言うのをもうやめよう/やめるべきだ、ということを切々と訴えているのだと思った。 

だってもうリモートで手を汚さずいくらでも大量に簡単に人を殺せるようになって、核兵器の所持や使用について政治家がカジュアルに口にするようになって、ガザであれだけ子供たちが殺されているのに誰もちっとも動かないし。 これらのメッセージに対して「不快感」とかのたまう腐った連中もな.. (まっくら)

もう始まっているのだろうが、AIが人の代わりに人を殺すようになったら、こんな問いは成立しなくなってしまうだろう。そうなってしまう前に。