2月16日、日曜日の午後、Curzon Bloomsburyで見ました。
原題は” Dāne-ye anjīr-e ma'ābed”、邦題は『聖なるイチジクの種』で、日本でも既に公開されている。
Mohammad Rasoulofが脚本・共同製作・監督を務め、昨年のカンヌではSpecial Jury Prize - 審査員特別賞を受賞し、今週末のオスカーではBest International Feature Film部門にドイツからエントリーされている。
映画を見ても大凡の感触に触れることができるであろう弾圧と言ってよいくらいの検閲、脅迫、拘束、逮捕、鞭打ち、等を乗り越えて、どうやって映画を作って外に持ちだすことに成功したのか - そんなことよりも監督と関係者がこれからも無事でいられることを祈るしかない。
という背景・事情を踏まえて見なくても十分おもしろいのだが、踏まえて見ると、よくこんな国のありように正面から噛みつくようなものを作れたな、と感嘆する。この映画を貫いている緊張感と怒りは、そのまま監督のそれと繋がっていることがわかるし、そういう情動でもって紡がれた表現がここまでの強さを持つ、ということにも。
Iman (Missagh Zareh)は弁護士としてまじめにがんばってきて、冒頭に革命裁判所の裁判官になる手前の調査官(検事)に昇進して、妻Najmeh (Soheila Golestani)も2人の娘Rezvan (Mahsa Rostami)、Sana (Setareh Maleki)も喜んでお祝いするのだが、職場=政府からはいきなり銃を支給され、家族には仕事の内容は絶対に極秘、詳細を見ずに死刑執行令にサインすることを求められ、従わないとどうなるか(前任者は解雇された)...と同僚から言われ、誇らしげな家族の裏側でそれらの重圧がゆっくりと彼を圧していく。
学生を中心に反ヒジャブの抗議活動が広がり、Imanの仕事(死刑執行状へのサイン)も増えて重くなっていくなか、娘たちはスマホに流れてくる動画とライブで友人らを含む学生たちが弾圧され酷い目にあっているのを目にして、お茶の間でImanと口論になったりするが、当然平行線で、そんな中、Rezvanの親友がデモで顔を撃たれて家に運び込まれてきて、応急手当はするものの、病院にも連れていけないしImanにも勿論言えない。
そんな火事の手前でImanの銃が突然、家のどこかに消えてしまい、家族全員に聞いても銃があることすら知らなかった、とか言われ、職場では大変なことだ、へたに騒ぐなと言われ、紹介してもらった専門家によって家族全員の個別尋問をしてもわからず、誰も信じられなくなった彼は家族を連れて生まれ故郷近くの山の方に向かって…
最初の方はごく普通にありそうなホームドラマで、居間でTVのデモの様子を見たりして大変ねえ、とか言っていたのが、そのデモの波をひっかぶったかのように父親がひとり戦争状態になって、地の果てのようなところに走りだし、ラストはまるで”The Shining” (1980)になってしまう。小説家Jack (Jack Nicholson)の孤独な/との戦い以上に、ここでのImanの孤絶感やプレッシャーは生々しく、国と家族の両方がのしかかってくるので、少しだけかわいそうになったりもするのだが、ぜんぶ国のせいにしてやめちゃえば… なんて軽々しく言えるものでもなく、だからこういうのを地獄とよぶ、というのは伝わってくる。
監督自身も対峙したであろう調査官Imanへの目線以上に、より細やかな目と共に綴られているのがNajmehとRezvan、Sanaの3人の女性たちの日常で、夫/父の仕事の内容は勿論、社会へのアクセスがTVやスマホ、その先は学校くらいと限定されていながらも、普段彼女たちが何を見て、どんなふうに日々を過ごしているのかを描いた女性映画として見ることもできる。
このふたつの目線があまりうまく嚙みあっていないので、後半の展開はややがさつでがたがたするものの、最後の方の(いつの間にそっちに行ったのか)食うか食われるかの緊張感と、あまりにすっこ抜けた終わり方はなんかよいと思った。
そしてラストはあんな父親なんか(ほっとけ)、と街頭でのデモや抗議の様子を延々と映して終わる。国からの圧を反省もせずありがたく受けとめ、その矛先を身近な家族や弱者や外国人に向ける、というのはどこかの国でもよく見る景色だが、それをここまでの映像にして曝したのは偉いな、って。
2.28.2025
[film] The Seed of the Sacred Fig (2024)
2.26.2025
[theatre] Cymbeline
2月15日、土曜日の晩、Shakespeare’s GlobeのSam Wanamaker Playhouseで見ました。ひどい雨の日だった。
原作はシェイクスピアの戯曲(1609-1610頃)、最初のうちは「悲劇」に分類されていたようだが、どう見てもそうには見えなかったかも。演出はJennifer Tang。
舞台はローマ帝国時代の古いブリテン王国の頃の話で、国王Cymbelineは女王(Martina Laird)で、原作とは異なる女王を中心とした女系社会、という設定で、中心のカップル - 女王の娘のInnogen (Gabrielle Brooks)と幼馴染で恋仲のPosthumus (Nadi Kemp-Sayfi)も、どちらも女性、となっている。更に - 見た目だけではあるが - 人種構成も多様でマルチカルチュラルな世界っぽく、敵味方などの識別はほぼ着ている衣装で見るしかない。大昔の話だからか、舞台には骨らしきものが飾ってあったり、音楽もガラスや打楽器の響きと生声、ハミングを中心としたシンプルかつプリミティブなもので、昇ったり降りたりが頻繁な火のついた生の蝋燭(ここのいつもの)もよいかんじ。
そろそろ結婚しようか、になっていたInnogenとPosthumusだったのに、頑固でいじわるな女王は夫Duke (Silas Carson)の連れ子でボンクラなCloten (Jordan Mifsúd)とInnogenを結婚させようとPosthumusを追放し、更にふたりを永遠に引き離そうとそれぞれに嘘を吹きこんだり、策謀とか悪党のIachimo (Perro Niel-Mee)とか、危ない影が寄っていってどうなるー? なのだが、互いの愛を信じるふたりはどうにか(というか襲う側が結構間抜けだったりして)切り抜けて、でも離れ離れにはなって、という顛末が描かれる一幕目は、薄暗いなか、目まぐるしく場面も人物も替わってごちゃごちゃ落ち着かなくていろいろ大変だなあ、というかんじ。この役は女性が演じているけど配役上は男性のはずだから… などと考える暇もないくらいばたばたする。
後半の二幕目は、男装して旅に出たInnogenが、Belaria(Madeleine Appiah)、Guiderius (Aaron Anthony) 、Arviraga (Saroja-Lily Ratnavel) の頼もしそうな3人の母子(に見えるけどそうではない)と出会って、Innogenを殺しにやってきたClotenがGuideriusと決闘して首を落とされて、眠りから目覚めたInnogenが傍に落ちている布に包まれた首をPosthumusのだと思ってパニックになって… など、すったもんだしながら新たな出会いが新たな希望を呼んでくる.. かと思ったら、今度はローマ帝国との戦争が始まり、その混沌とどさくさのなか、InnogenとPosthumusは再会して、GuideriusとArviragaは王の血を継ぐものであったことが明らかになって、新たな絆とファミリーが改めて確認されてめでたしめでたしになるの。
二幕目はつんのめるように威勢がよく、その勢いと共にどうなるのかも見えてくるし、ラストの戦がそれに火を点けてくれるかんじでなかなか盛りあがって楽しいのだが、女系を軸にファミリーを再構成した意味のようなところがやや弱かったかも。あるとしたら出てくる男たちがどいつもこいつも頭も性根も悪いのばっかしで、その辺 – だから王様になれないんだよ、の辺りだと思うが、そんなのとうにわかりきったことだしな.. になるし。突っ込みどころはたっぷりあるものの、高低差のある客席をうまく使って兵士たちが出入りしたり、どたばた楽しかったかも。
『シンベリン』のちくま文庫版の解説にあったように、これが「喜」と「悲」や「男」「女」を含む際どく危うい二項対立を軸に幾重にも組み上げられたお話しだとすると、こんなふうにごちゃごちゃ散漫なものになってしまうのはしょうがないのか、と思いつつ、でもこういうのは割と好きかもー、って。
[film] Companion (2025)
2月15日、土曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。
クソ彼に当たってしまったヴァレンタインの翌日に見るにはちょうどよいやつかも。
痛い系のサスペンスホラーかと思ったら違った。97分がちょうどよい。
脚本、監督はこれがデビューとなるDrew Hancock。以下、軽くネタバレしていると思う。
Iris (Sophie Thatcher)とJosh (Jack Quaid)はスーパーマーケットのオレンジ売り場で、これしかない、みたいな理想的な出会いをしてあっという間に恋人同士になって、週末に友人のレイクハウスに車で向かうところで、別荘には所有者の富豪で見るからにカタギではなさそうなSergey (Rupert Friend)、その恋人のKat (Megan Suri)、男性同士のカップルEli (Harvey Guillén)とPatrick (Lukas Gage)が集まっていて、そんな変な集団にも見えない。
翌朝、Irisが散歩しているとSergeyが寄ってきてへらへら笑いながら上に乗ってレイプしようとしたので、そこにあったナイフで首を刺して殺して、頭から血まみれになってパニックしているIrisの耳元でJoshが”Go to Sleep”っていうと彼女は白目になって停止する。ここまできて彼女はJosh(の操作するアプリ)によって動作するコンパニオン・ロボットであることが明らかにされ、冒頭のふたりの出会いのシーンも予め用意されたプログラムがIrisの脳内で再生されていただけだった、と。
椅子に縛られた状態で再起動されたIrisは隙を見てJoshのスマホを奪って森に逃げこみ、アプリを使って自分の設定を見て自分がどんな扱いのものだったかを知り、知能設定が40%だったのを100%にして復讐のために動き始める。 のだが、そんなに簡単にコトは運ばず、Eliと一緒にいたPatrickも同じコンパニオン・ロボットだったのでやや事態が面倒なことになって…
生身の人間ではなくコンパニオン・ロボットでいろいろ済ませようとする/それを誇示しようとする人が(頭だけはよい)クズ系であることは”Ex Machina” (2014)でも示されていたが、あれよりもう少し下世話にわかりやすく、こんなにもクズでゲス、のようなところ(だけ)を見せていておもしろい。そしてそのクズは他の人たちや他のロボットの間にも紛れていて、不気味で変なソサエティを作っていて、というあたりだと、こないだの”Blink Twice” (2024)とか”Don’t Worry Darling” (2022)にもあった、スタイリッシュでつるっとした(中味はありそうであんましない)サスペンスの傾向にも繋がっているのだろうか。 富豪も社交もロクなもんじゃない、という今。
そういうところから少し離れると、”After Yang”(2021)みたいな静かな世界に行ってしまう – か、”Robot Dreams” (2023)のような平和でフレンドリーなやつとか。 まあ、手元のタブレットすらきちんと操作できない人間がロボットなんかには近寄らないことよ。
更にそこから離れても、Joshみたいに女性を性処理の対象とか道具のようにしか見ない、見ようとしない男の像がロボットやAIへの対応を通してあぶり出されてくる、というおもしろさ(おもしろくない)。本当は、そんなのを通さなくたって(介さないほうのが)そこらにうじゃうじゃいるはずで、問題はそっちの方だよね。など、あーうざいねえ、とか思いながら見ていた。
Irisを演じたSophie Thatcherさんはこないだ”Heretic”(2024)でHugh Grantとも対決していた。
Joshを演じたJack QuaidはMeg RyanとDennis Quaidの息子で… ということはこいつとは昔に会ったことがある。95年くらい、Barneys New Yorkの当時地下にあった食堂(Mad 61)でランチをしていたら隣のテーブルにMeg Ryanがきて、わあぁーってなったところで彼女の連れていたガキがテーブルの下で大暴れして.. あの時の彼だったか… 大きくなりやがって。
[log] お引越し 2025
先週はロンドン内での自分のフラットの引越しをしていた。以下はその備忘。
こちらに赴任したのが昨年の1月で、とりあえず、割と簡単かつ適当にフラットを見つけて住み始めたのだが、1年後に契約の更新がある(= 家賃がたぶんあがる)のと、住み始めてから部屋の寒さとか近隣のやかましさとかいろいろ出てきたのと、前回住んでいた時はロンドン内での引越しをやろうと思いつつできなかったので、一度くらいはやってみようか、などなど。
数えてみたら自分にとって国内海外を含めてこれが21回目の引越しで、そのうち自分の意思でやったのは14回で、そんなに多いほうだとは思っていないけど、こんな歳になっても住処を求めて不動産屋に通ったり、箱を作って出し入れしたりをするようになるとまでは思っていなかったかも。
ひとつ想定していなかったのは、11月に帰国して体にしょうもないなんかが見つかり、1月の中旬にも検査のために帰国しなければならず、12月はクリスマスなどで賃貸のマーケットはほぼ動かない、とかその辺のことなど。理想としては遅くとも1月の初めまでには物件を決めて各種手配や準備ができるようにしておく、だったのだが帰国手前でオファーを出したやつに全く返事が来なくて、帰国する前日になって自分で住むことにしたからこの件なしで、とか返してきやがったので、お先真っ暗になり、最後の最後は日本からZoomで見て決めた(建物自体は内見で入ったことがあったところ)。
今回は年末で物件自体があまりなかったせいもあったのと、家賃(だけじゃなく物価全般が)上がっているのもあったのか、ぜんぜんよいのにぶつからず、結構いろんな物件をこまめに見て回った。そういうのが嫌でない人にはおもしろい経験になると思うが、それにしてもほんとにいろんな物件があるもんよね。古い建物が残っている分、東京やNYと比べるとはっきりとピンキリで、ぜんぶ何らかの訳アリ – ないほうがおかしい - なのではないか、とか。
前に住んでいたのはChelsea近辺のジョージアン様式のフラットで、今回もその線で探し始めたのだが、もう日々の階段昇降はだるすぎるのと、水道とかお湯が出る出ない弱いとか、変な音がするとか、部屋の暑い寒いで日々じたばた苦労するのは面倒になっていて、そういうのを避けるべくモダンな方にして、そうすると中心部からはやや外れてしまうのがまた難で、結局住んでいたところから地下鉄で一駅のところにしてしまった。老人はそうやって引きこもっていくんだわ。
で、引越し屋にZoom経由で見積もりしてもらって箱一式が来て、とりあえず床に積んであった本などから詰めはじめる。
こちらに来てから小さめの本棚は買って、でもそこに入らなかった分についてはどうせそのうち引っ越すから、と床に積んでおいたのがあり、これらを詰めるのは割と簡単だし早いし。
こちらに持ってきた本の船便は段ボール計3箱で、今回詰めたら+6箱の計9箱になった。あと、箱には入れずに手で運んだ大事なのが数十冊。1年間で増えた6箱は多いのか少ないのか、たぶんこんなもんなのでは、くらい。ほら、美術とか写真の本ってサイズも大きいし。でもこの調子で増えていったらぜったい日本の家は床おちる… の前に入らないかも。
あと、サイズでいうと演劇のパンフレット - 演劇は見始めたところでもあるのであったら買うようにしているのだが、サイズがてんでばらばらでいい加減におし!になった。みんなあんなのどうやって整理しているのか。
箱に入れなかった自分にとって大事な本たちは紙に包んでスーツケースに入れて、新フラットとの間を5往復した。引越しトラックがテムズ川に落ちたり炎上したりするリスクと、自分が途中で線路に落ちたり行き倒れになるリスクと、若干のお気持ちみたいなので、手で運ぶやつは決めて選んで実行した。前にマンハッタン内を引越した時は、同様にレコードをがらがら運んだことを思いだしたり。
本以外の箱は、割とどうでもよかったのだがこれはこれで面倒で、なんであんなにどうでもいい未開封の調味料の瓶とか缶詰 – 特にいろんな国のイワシ缶とサバ缶ばかり – が後から後から湧いてくるのか、など。
そして箱に詰めるのは時間かかるのに箱から出すのはあっという間すぎて、人生そんなもんよね、に改めてなる。
住み心地? 100%のおうちなんてあるわけないのよねー を改めて噛みしめているところ。まずはお片づけだわ。
どうか来年も同じことをやるはめになりませんように(なるかも)。
2.24.2025
[film] Captain America: Brave New World (2025)
2月14日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
3D上映もあったようだが2Dにした。でもいちおう公開初日には見る。
“The Falcon and the Winter Soldier” (2018)からのSam Wilson / Captain Americaを主人公に据えつつ、背景とかキャラクターはEdward Nortonが緑Hulkを演じた”The Incredible Hulk” (2008)を引き継いだりしている。
超人だったSteve RogersのCaptain Americaに自分は絶対なれないことを自覚しつつアメリカの危機を前にすると身体と翼が勝手に動いてしまうSam Wilson (Anthony Mackie)と、そんな彼を政治利用しようとする合衆国大統領のThaddeus Ross (Harrison Ford)と、Celestials で見つかった希少金属Adamantiumの権益を巡る争奪戦 - に日本も巻き込まれている - のごたごたがぜんぜんスマートじゃない - 単にごりごり押し合うばかりの政治サスペンスふうに描かれていく。”Captain America: The Winter Soldier” (2014)にあったクールネスは微塵もない。
みんながふつうに思っていることでしょうが、今のアメリカ合衆国は冗談ではなくHydraに乗っ取られてしまい、あの風船デブと成金バカのやりたい放題になっていて、こんな状態で彼らの手先としてCaptain Americaなんて動けるわけがなかろう、というアタマで見ていくと、Thaddeus Rossも軍人あがりの超タカ派、自分が一番の傲慢野郎で、最後にやっぱり衝突しているのでそれみろ、なのだが、今の合衆国にはSteve RogersもSam Wilsonもいない、という現実の方に頭が向いてしまう。犯罪者が最高権力を手にしたらどうなるか、が想定ではない現実として現れてしまった時、正義とは… 例えば、そんなアメリカを守る、とは?
Steve Rogersの時代、敵は明確にアメリカの外 - 二次大戦期のドイツ - にあって、そこからサノスとか更に外に広がっていった訳だが、Sam Wilsonの場合は、最初から自国内のプロパガンダ狙いも含めて敵はずっと内部にいる、という難しさ(この映画のマーケティングもそう?)を彼ひとりが抱えていて、CIAだってなくなっちゃうようだし、見ていて辛くなってくるのだが、それでも少しづつ彼の周りに集まってくるFalcon (Danny Ramirez)とかRuth (Shira Haas)とかすっかり善き人になってしまったBucky (Sebastian Stan)とかはいるので、次に期待する、しかないよね(それまでに「アメリカ」が少しでもよくなっていますように)。 でもいま一番期待してしまうのは”Thunderbolts*” (2025)の方かも
ホワイトハウスが下斜めからぐざーってぶっ壊される絵がなかなか見事で、これって、”Independence Day” (1996)で真上から攻撃を受けて粉々にされるのと対照的でおもしろいな、とか。
あと、ものすごく濃く強く黙って闘う男性中心に貫かれたドラマで、この辺の息苦しさはわざと狙ったものなのか。Thaddeus Rossが多様性を排除した結果こうなってしまったということなのか。この辺のみっしりと男くさいトーンを歓迎する層も間違いなくいそうだし、これはこれであーあ(…なーにが”Brave New World”か?)、だし。
いろいろ意見だの見解だのはあるのだろうが、わたしはCaptain America的な(”GREAT”に向かわない)正義は(特に今のアメリカには)必要だ(ずっと言い続けることも含め)と思っていて、だから本作も大事だとは思うものの、いろいろもどかしくて難しいよねえ、って。 そのためにも”Eternals” (2021)の続編がほしいし、Nick Furyは宇宙で遊んでないで降りてこい、ってなるし。
Harrison Fordって、これから先も赤Hulkで出てくるの? おじいちゃんだいじょうぶなの?(癇癪をおこしやすい爺、という点ではわかりやすいけど..)
2.20.2025
[film] Bridget Jones: Mad About the Boy (2025)
2月13日、木曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。こんなの公開初日に見るわ。
11日の晩がCyndi Lauperのライブで、12日の晩が”The Last Showgirl” (2024)で、この日がこれで、ぜんぶこれで終わりのLast Showgirlみたいな話として連なっていたかも。
Bridget Jonesの4つめので、原作(2013に出た)は勿論Helen Fieldingで、共同脚本にも関わっている。
こういう続きもので、結構長い時間が経って、やると思っていなかったようなのがリリースされた時って、最初は懐かしいのもあって、変わってないなー、って笑ったりしているのだが、だんだんいたたまれなくなって – 所謂「イタい」状態を感じて、なんでか? など振り返りつつ結局もやもやと現実世界に戻る、というのが割とある - 3作目の”Bridget Jones's Baby” (2016)で既にそれはあったので、今回もそれなりに覚悟して見る(ほかになにができよう?)
現在のBridget Jones (Renée Zellweger)はHampstead Heathの一軒家(いいなー)に住んで、小学校に通うBillyとMabelのふたりの子のママとして暮らしていて。夫のMark Darcy (Colin Firth)は4年前、スーダンでの人道支援活動中に亡くなっていて、その替わりではないがDaniel Cleaver (Hugh Grant)がベビーシッターで来てくれていたり、でも全体としては学校の送り迎えだけで十分へとへとで、他のきらきら系のママからは素敵なパジャマねえ(でもあのペンギンのかわいいな)、とか嫌味を言われたりして、でもそんなのどうでもいいくらい大変で日々慌しくて、それどころじゃないのだ、になっている。
でも、健診でDr Rawlings (Emma Thompson)から励まされたりしたので、昔の職場 – TVプロデューサーに戻ってみることにする。
それと並行して若くて筋肉たっぷりのRoxster (Leo Woodall)が木から降りられなくなった彼女を助けてから近くに寄ってくるようになり、若者みたいなデートをしてみたり、Billyの学校の理科の先生Mr Wallaker(Chiwetel Ejiofor)も気になり始めたりする。恋も仕事も、のセカンドチャンスが彼女のところにようやく、のようでそんな簡単にいくはずもないことはわかっていて、ポイントはどうやって若い頃と同じように失敗して痛い目にあって、同じようにへらへら笑って立ちあがるのか。
なのだと思っていた。Bridget Jonesとはそういうキャラクターで、そういうキャラクターであるが故にColin FirthとHugh Grantの両方から言い寄られ、このふたりにずぶ濡れ殴りあいの喧嘩をさせてしまったりする。実はとんでもない女性なのだ。
でもそういった過去を、キャラクターをなぞるようなところには向かわない – いや、向かうのだけどそうではないところに目が流れていってふつうに感動して暖かいかんじになって、最初はJohn Lewis(デパート)のクリスマスのCMかよ、とか思ってしまうのだが、でもよかったんだから、に落ちてしまう。彼女のパパ(Jim Broadbent)も最愛のMarkももう亡くなっている、でもパパの思い出は手の届くところにあるし、Markはちょこちょこ幽霊のように出てくるし、Danielも心臓がよくなくて入院したりして、みんなが同じように年をとって、ぼろぼろだったりするけど、互いのことをずっと気にかけてて、かつての飲み友達も、職場仲間もみんなそこにいて思いだしてくれたり笑いかけてくれたり。これらを成熟とか克服とか共感の物語に落とさなかったところがよかったのかも。
湖水地方に遠足に行ったBillyが夜中、Mr Wallakerに自分はそのうちパパのことを忘れてしまいそうでとても怖い、って相談するの。それに対する答えが全体を貫いていて、あまりに想定していなさすぎてつい星を探してしまう…
エンドロールで、過去のスチールとか名場面が流れていって、客はみんな帰ってしまったのだが、なんかひくひくしながらあったねー って見ていた。
シリーズを見ていない人がいきなりこれを見たらどう思うのか... はまったくわからないけど、映画的なよさとは別の何かかもしれないけど、とにかくとってもよかったの。
引越しは、明日から本気だすことにした。
2.19.2025
[film] The Last Showgirl (2024)
2月12日、水曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
まだ正式公開前のPreviewで、上映後に主演のPamela Andersonのトークがあった。ここの一番大きいシアターが満員になって、ロンドンの他の映画館でも別の日にトークがあって、週末のBAFTA授賞式ではプレゼンターとして登場した。そこにいるだけで場が明るく、暖かくなるかんじの人だった。
監督はGia Coppola、脚本はKate Gersten、たった$2millionの予算で、18日間で撮られた、と。
Shelly Gardner (Pamela Anderson)はラスベガスの場末のダンス小屋Le Razzle Dazzleで30年間ショーガールを務めてきて、でも突然プロデューサーのEddie (Dave Bautista)が、ショーはあと2週間で閉じる、次はない、と告げてきて、若い子たちは別のとこを探さなきゃ、ってざわざわ始めるのだが、30年間ここで踊ってきたShellyはどうしよう… ってこれまでのことも含めて考え始めてしまう。
こうしてかつての同僚で親友で、今はカジノのバーでウェイトレスをしているAnnette (Jamie Lee Curtis) - 恐るべしJamie Lee Curtis - と会ってつるんで話したり、若い踊り子たちと話したり(でもまったくついていけず)、突然現れた疎遠だった娘のHannah (Billie Lourd)とも話したり、そして過去に当然いろいろあったであろうEddieとのディナーがあり。でもいくら相談しても話してもなにひとつ解決することはない。この仕事が好きで、ずっとこれだけをやってきて、ここでの自分は誰よりもうまく踊れる自信がある、その場所、機会を奪われるというのは自分にとって何を意味するのか。
なので新しいところにオーディションに行ってみたりもするのだが、そこの監督(Jason Schwartzman)はどこまでも(彼女からすれば)意地悪すぎて彼女を見てくれなくて、やってられない。
好きな仕事を失う - 奪われる、というバックステージものによくある残酷な運命を描きつつ、ぎりぎりでそちらの波にはのまれない。こないだの”The Substance” (2024)のように若い娘に取って替わられる悔しさと妬みと執着を前に出すのでもなく、これしか残っていない自分を最後の最後に肯定して抱きしめようとする。もちろん、それにしたって先はないのかも、だけど。
これはもうPamela AndersonにしかできないShowで芝居で、そんな一世一代の、最後の見得というのがどういうものか、それを見とどけるだけの映画、でよいの。Pat Benatarの”Shadows Of The Night”があんなにかっこよく鳴る瞬間、つい拳を握ってしまう日がくるなんて誰が想像しただろう?
“Everything Everywhere All at Once” (2022)があったので何も驚く必要はないかも - のJamie Lee Curtisもすげえなー、なのだが、それよりDave Bautistaって、あんな演技ができるのか、と。
ヴェガスのくすんだ空気、靄のかかったような、Deborah Turbevilleの写真の世界が少しあるものの、カメラの動きがあんまりよくないのが少し難で、あと少しでRobert Altmanがやったような西海岸のドラマになれたかも、なのに。
エンドロールのSpecial ThanksにはCoppolaファミリーはもちろん、Dita Von TeeseやSam Bakerの名前が流れていった。
上映後のトークで印象に残ったのは、もう残っていないヴェガスのショーガールの世界は、していいことしてはいけないことが厳格に定められた規律の厳しい世界だった、というところ。誇りをもてる仕事ってよいなー、って羨ましくなった時にはもう遅すぎ…