2月10日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
なんの特集とも紐づいていない、”Big screen classics”っていう、名作を大画面で見よう、の枠で。 英語題は”An Autumn Afternoon”。
小津の作品は、超クラシックの『東京物語』とかよりもこれとか、『晩春』 (1949)とか、『秋日和』 (1960)とかの方が、こちらでは好まれている気がする。感覚だけど。
あと、どうでもいいけど、”An Autumn Afternoon”なので、『秋日和』と混同しがちかも。英語でいきなり「秋刀魚」とか言われてもわかんないのだろうが。
大企業の重役の笠智衆は妻に先立たれた後、長女の路子(岩下志麻)と次男と一軒家に3人で暮らしていて、長男の佐田啓二は岡田茉莉子と結婚して別のところいる。中村伸郎と北竜二の同窓生たちからは、若い奥さんを貰ったりして自立しないと路子ちゃんがいつまでも結婚できなくてかわいそうだ、と言われ、クラス会に呼んだ恩師の東野英治郎と娘の杉村春子を見てそれはそうかも、って思って路子に縁談をもちかけてみるのだが、彼女はあまり考えていなかったようでー。
いつもの、毎度の – この時代の日本映画なんてぜんぶそういうものなのかもだけど - セクハラ、パワハラがしぶとく全開すぎて感嘆する。
女性はある年齢になったら結婚しないと、どこかに「貰われ」ないと、貰い手がなくなって、寂しく孤独な老後を送ることになって、老いた男性も同じで身の回りの世話をしてくれる若い女性でも見つけないとみじめな老後を送ることになって、などなど(あくまで一例)。 主人公たちは、この流れというか周囲からの善意かつ気持ちよくないお節介を「ちがう」、ってなんとなく思いつつも、そうかそういうものか、って受けいれて、でも最後はHappily Ever Afterとは遠いところに立ってしょんぼりして終わる。
だってこの時代の日本社会ぜんぶがそうだったんだからしょうがないじゃん、はそうなのかもしれない。でも例えば、戦争映画の悲惨さは戦争という事態が招いた悲惨なのでその描写も含めた過去として受けいれることができるものの、この映画が描いている家庭や会社や飲み会でのいろんな言動は、あの時代のものである、とわかっていても見事に今のそれと繋がって微動だにしない、誰もそれをおかしいと思っていないかんじがある。映画に罪はないにしても、小津はすばらしい、って手放しで賞賛できないのは、映画を見てこの頃からずっとこうだったのか、なんで変われないのか… って絶句してどんよりしてしまうからなのだろう。
もちろん溝口にも成瀬にもあるけど、小津の場合は、家のなかの端正な格子模様や奥や横手に抜けるパスとか、すたすた歩いていく廊下とか、路地のデザインとか、テンポが軽快なので構成とか様式のようなところで、すごーいおもしろー、ってなりつつも、語ったりやり取りされている言葉はほんとうにどす黒くてひどいThe 家父長制で、コンプラ委員(not映倫)がチェックしていったらノート3冊くらいあっという間に埋まってしまうに違いない。これはこういう文脈で19xx年頃まで使うことを許されていた言葉の用法なのです、とか、上映前に不適切かつ差別的な言動がありますが… 等の注記やレーティングがほしい(だってほぼ暴力みたいなもんだよ)のだが、残念なことにぜんぶ投げられたり言われたりした心当たりがありすぎて、またか… って悲しくなる。だれに怒りをぶつけてよいのかわかんないし、好きにすれば、だけど、少子化なんて、酒のんでこういうのを垂れ流してなんの反省もない、ちやほやされ続けて自分が一番、って腐敗腐乱した老人たちをどうにかしないとぜったい解消しないよ。 こんな国潰れちゃえ、って思っているけど。
というような角度から小津(というか野田高梧の?)作品における家父長制と、それが高度成長期の一般家庭の意識形成にどう馴染み、影響を与えたのか、を分析した論文とかがあったら読みたい。
2.17.2025
[film] 秋刀魚の味 (1962)
[theatre] Oedipus
2月8日、土曜日にOld Vicのマチネで見ました。
昨年末に見た”Oedipus”は、Robert Icke演出、Lesley ManvilleとMark Strong主演だったが、こちらの演出はHofesh Shechter (振付も)& Matthew Warchus、翻案はElla Hickson、主演はRami MalekとIndira Varmaで、話題の舞台であることは確かなのだが、それよりも、この後、同日の晩に見た”Elektra”と合わせて、なんで今、こんなにもギリシャ悲劇なのか、は考えてみる価値があるかも。1時間40分、休憩なし。
現代都市における選挙戦〜キャンペーンというイベントを軸に市民大衆とのやりとりを背景に置いたRobert Icke版に対して、時代も地域も昔のギリシャっぽく、民衆はOedipusを熱狂的に支持しつつも干魃に苦しんでいて、よき施政者であるOedipusもその対応に頭を痛めている。
でもこれ、上演時間の半分(ほどでもないか)くらいがダンス、というか舞踏とか群舞のパフォーマンスなのよね。民衆の怒り、苦しみ、歓び、などをダイレクトに表現する様式としてダンスがあるのはわかる。わかるけど見たいのはそこではないわ、になる。パフォーマンスとしてのダンス、という点では、群衆の勢いを示す舞いなので一糸乱れぬ完成度とかスペクタクルとして見せるものではなくて、ライティングもバックの音楽もそこらで拾ってきたかのように雑でてきとーで、これなら映像を使ったりした方がマシだったのでは、とか。
なので、肝心のOedipusとJocastaが「がーん」てなるシーンもやや薄まってしまった感があり、でも最後は恵みの大雨が来てみんな歓んでいるのだからそれでよいのか、になってしまう。それでよい - 権力者の悩みなんてどうでもいい、のドラマなのだ - と言ってしまってよいの?
ただ、真ん中にいて悩んだり立ちすくんだりするRami Malekの表情 - 冒頭は彫刻のような彼の顔が背景に大写し - 立ち姿はやはり見事なものであった。
Elektra
2月8日の晩、↑の後にDuke of York’s theatreで見ました。
Captain Marvel = Brie LarsonのWest Endデビュー作。原作はSophokles* (原作者名もタイトルも”c”にxをして”k”に置き換えている)、翻案はカナダのAnne Carson 、演出はDaniel Fish。休憩なしの75分 - パンクだから短い。お芝居のハシゴをして休憩なしが続くのは珍しいかも。
会場に入ると、ステージ上では掃除機みたいな投光機みたいな、複数の機械がゆっくり同じ方向にぐるぐる回っていて止まらない - 止めることができない。
ステージに現れたElektra (Brie Larson)は七部刈りくらいのショートでBikini Killのタンクトップを着てハンドマイクを手にしたパンクシンガーで、ずっとマイクを手に客席に向かって吠え続け、たまに足下のエフェクターを踏みこんでその叫びを爆裂させる。声が彼女の武器となる。特に感情 - 特に怒りの。
初めの方は父が殺されたことについて、舞台の少し奥の方で揃ってなにやらひそひそ歌っている女性たちに対して、やがては陰謀に加担していると思われる母Clytemnestra (Stockard Channing)や弟Orestes (Patrick Vaill)や妹Chrysothemis (Marième Diouf)に対して、死の真相やだれがどうして裏切ったのかなんてことよりも裏だの陰だのでやらしくごちゃごちゃ言いやがって、おとなしく黙ってると思うなよ - 表に出てこいざけんな、って。結局、これらに対する物言いは権力とか女性とか家父長制とか、自動で動いていって止められない「システム」のようなところに集約されていって止まらなくて、そういうのに対するいいかげんにしろ!をぶちまけて終わる。
Brie Larsonさんは、先週土曜日朝のBBCのSaturday Kitchenていうお料理番組(大好き)にゲスト出演していて、お料理の腕前はふつうっぽかった(包丁を握るところまで)が、今回のWest End出演については、最初は毎日同じセリフの同じ舞台を何カ月も繰り返すのなんてありえない、と思ったけど、いまはものすごく楽しい、って。また演じに来てほしい。
どちらの劇も「ギリシャ悲劇」というかんじはあまりなくて、悲劇の土壌となる権力とか民衆の居場所、のようなところにフォーカスしたメタ悲劇のようで、今ってそういうものが求められているのかも、というのは演劇を見るようになってからずっと感じている。
2.15.2025
[music] Cyndi Lauper
2月11日、火曜日の晩、O2 Arenaで見ました。これが今年最初のライブになるのか(なんということ…)。
Cyndi Lauperがライブパフォーマンスはこれで終わり、と宣言している”Girls Just Wanna Have Fun Farewell Tour”のロンドン公演。アリーナツアーは1987年以来だそうで、最後は4月の武道館になるって。
彼女に対しては、最初の”Girls Just Wanna Have Fun”からまったく異議なし!よね、のまま、ずっときちんと向き合ってこなかった気がして、一度くらいライブに行かねばと思っていたところに今回の告知がきて、でも直前になっていたしチケットの値段が高かったら.. だったのだがそんな高くもなかったので取った。
“True Colors” (1986)がリリースされたときのレコード屋で、隣にMadonnaの”True Blue”並べられていて、散々迷って悩んで、結局決められずにNew Orderの”Brotherhood”を買ったことを昨日のことのように思いだす(記憶なんてこんなゴミの集積)。
会場であるO2アリーナの最寄り駅のNorth Greenwichの掲示板(遅延が出たりした時に書きこまれる)には、いつもライブに行く人向けに、これからライブするアーティストのことが書いてあったりするのだが、今回は彼女の曲のタイトルが小さな手書きでびっちり埋めてあって感嘆する。 あれ、誰かに書いて貰っているのかしら?
客層は圧倒的に中高年の民で、グループというよりはカップルだったり友達同士、のような。みんなきれいに着飾って、肩組んで手を繋いで、ラメ率が高くて、バッグとか靴も当時からの、みたいな。フェアウェルだけど、お別れじゃないことはみんなわかってる、今宵はとにかく楽しもうと。
前座はDJのひとで、まったく悪くないのだが、客席はみんなお年寄りなのでそう簡単には動かない。
登場前にBlondieの”One Way Or Another”(邦題「どうせ恋だから」)ががんがん流れて、おうおう、ってみんな立ちあがる(...立つのか)。
で、”She Bop”から始まって、”The Goonies 'R' Good Enough” – スクリーンにGooniesの映画のスナップがいっぱい – をやって、Princeのカバーの“When you were mine”~ ”I Drove All Night”〜 あたりまでは、(自分に)ものすごく馴染む音。バンドは、ドラムス、パーカッション、ギター、キーボード、ベース、バックコーラス2 - 80年代サウンドの王道の、きらきら分離して、リズムが跳ねて、性急でも緩慢でもなくうねりがあって、を見事に再現してくれる。打楽器のコンビネーションがよくて、ドラムスはRufusやBowieのバックにいたSterling Campbellであった。
声はものすごくしっかり、やかましいくらいに(←これこれ)よく出ていて、ここでやめてひっこむ理由がぜんぜんわからないくらいだし、曲間のお喋りはこれが最後なんてどうでもいいような軽くて楽しいお喋りばかり、難点があるとしたらこれくらいか - お喋りしすぎで曲たちの勢いが止まってしまうところ(リストにあった1曲を飛ばしちゃった、って)。曲間の衣装直しでメイク室にまでカメラがいって、メイクしている間もずーっと喋っていたのには笑った。でもこのかんじなんだなー、と思ったよ。こんなふうに身の回りの出来事などを延々喋ったり、この衣装はChristian Sirianoなのよー、とか言ったりしながら、ずっと傍にいて一緒に歌ってくれた。だから、やろうと思えばいくらでもエモに感動的に盛りあげることができるはずの”Time After Time”も、客席のみんなにスマホのライトを点けさせて、ほらきれいでしょーとか言いながら(本当にきれいだった)、すっきりあっさり終わって( - 終わらない)。
アンコールの”True Colors”ではアリーナの真ん中くらいまで下りてきて、Daniel Wurtzelのインスタレーション”Air Fountain”を靡かせながらの”True colors are beautiful ~ Like a rainbow”がとっても沁みて、虹色のあとは… ってステージに向かうとスクリーンになぜか草間彌生が大写しになり、全員が白赤の水玉衣装になっていて、“Girls Just Wanna Have Fun”をぶちまけるのだが、ステージ上にはこれもなぜかBoy Georgeがいて、GirlsにBoyなのか... と。
なんか、よくもわるくもちっともFarewellのかんじのしないパリパリによく揚がったライブだった。音楽はなくてもトークライブみたいなのはこれからもやっていくのではないかしら(トークのついでにギターを取りだし…)、とか。
2.14.2025
[film] Duel at Diablo (1966)
2月7日、金曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “Black Rodeo: A History of the African American Western”、で見ました。
これも35mmフィルムを米国から取り寄せての上映だよ、とのこと。邦題は『砦の25人』。
監督はRalph Nelson、原作はベストセラーになったというMarvin H. Albertによる1957年の小説 - ”Apache Rising”。
Sidney Poitierの初の西部劇、ということで、でも彼は主演ではないし、”African American Western”というカテゴリもちょっと違うかも。
敵も味方も沢山人を殺したり殺されたり、(いっぱい人が亡くなってほぼなんも残らん、という点では)惨い映画で、でもなんで? なにがそんなに惨いのか、をいろんな角度から考えさせる内容のものだった。決してつまんない、というのではなく、ごちゃごちゃ深くてすごい、という。
焼き殺された死体が吊るされている砂漠を馬で渡っているJess (James Garner)がいて、彼は遠くのほうに馬で砂漠を渡りながら馬と一緒に死にそうになっていた女性とその向こうに彼女を追っているアパッチを見て、アパッチを追い払って彼女を助けて町に連れて帰る。
その女性Ellen (Bibi Andersson)はその町の実業家である夫のところに戻るのだが、アパッチにさらわれて彼らの子供を産んだらしい彼女に夫も世間も冷たくて、Jess自身もその直後に自身のアパッチの妻を殺されたことを知り愕然とする。ひとりになったJessは再会した旧知の陸軍中尉のScotty (Bill Travers)から、砂漠で孤立している部隊に水を届けるミッションに誘われるのだが、とてもそんな気分にはなれない。無理やり砂漠に出されたScottyの部隊は25人の兵しかいなくて、でも砂漠を行くなかアパッチの襲撃は当然来て、そこに元軍人で馬商人のToller (Sidney Poitier)が加勢したり、アパッチから赤ん坊を奪い返した後のEllenとJessも加わるのだが、土地をよく知っているアパッチのが断然有利で水を断たれた部隊は次々にやられていって…
砂漠のなかでの戦いの過酷さや虚しさもあるのだが、それ以上にアパッチやTollerに対する差別偏見、Ellenに対するミソジニーなどが目の前にきて、それらがだんだら模様になって、銃撃もあるのだが、背後からすとんって弓矢でやられてお尻や背中に刺さってくる痛さ、がやってくる。砂漠の熱さと喉が渇いてからからのなか、なんのために戦うのか、という問いがやってきて、虚しいというよりこんなのに勝ったところでどうする、になる。(人によってはとにかく勝ったんだからぜんぶ自分のもん、て喜ぶかもだけど…)
TollerとJessのコンビは素敵だし、EllenとJessはやがて一緒になるのだろうが、60年代の西部劇で単なる原住民 vs. 開拓者・征服者の構図以上の、ベースにある(内側に当然あったはずの)他者への偏見や蔑視の構図を串刺しで見せていた、というのはすごいな、と思った。
The Learning Tree (1969)
2月5日、水曜日の晩、”Architecton”を見た後に、BFIの上と同じ特集で見ました。 邦題は『知恵の木』。
写真家として知られる(ずっと写真家だと思っていたわ)Gordon Parksが、自分で書いた半自伝小説を元に脚本を書いて監督してプロデュースもして、音楽まで自分でやってしまった作品。
アフリカン・アメリカンの監督が最初にメジャースタジオ(ワーナー)と契約して作った映画でもある、と。
1920年代のカンサスの田舎町で、主人公の少年Newt (Kyle Johnson)は勉強もできるよいこだったが、仲間達と一緒に近所のリンゴ園の木からリンゴを盗ってそこの主人を少し痛めつけたりしたら、差別主義まるだしの警官に仲間が簡単に撃ち殺されたり、別の仲間は牢屋に入れられたり、いろんなことを経験し(散々な辛い目にあっ)て少しづつ大人になっていく。きれいな構図と風景と、大人になるにつれて見えてくる人種差別の泥沼のコントラストと、それでも前に歩もうとする主人公の強い眼差しと。
時代もトーンもぜんぜん違うけど、これが50年以上経つと”Nickel Boys” (2024)のようになるのか。
共通しているのは、アフリカン・アメリカンの子供の命なんて簡単にどうとでもできる、と思う白人男たちの救いようのない軽さ、傲慢さ。
これがいままた復活しようとしている…(吐)
2.13.2025
[film] Architecton (2024)
2月5日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
豚さんのドキュメンタリー(ぽい)”Gunda” (2020)がとても好きだったロシアのVictor Kossakovskyの監督作。
“Gunda”がナレーションとか特になくても、なんとなくどんなものか(どんなものだ?)わかったのと同じように、流れていく画面を追って見ているだけであっさり終わってしまう。
風景全体とか岩場まるごととか、スケール大きめ、って思わせる画面が続いていくからか、IMAXでも上映される回があった(これなら行けばよかった)。
岩石とか瓦礫とか廃墟とか廃材とか、そんなのばかりが流れていく。「自然」の光景というよりは、岩を切りだしたり積みあげたり、山肌を爆破したり、戦争で部分部分が穴だらけで人影のない建物(ウクライナだそう)とか、地震災害で破壊された建物(トルコだそう)もあり、自然を眺めるのと同じスケールで(視界まるごとを支配するように)そこにある、でっかい人工物(のなれの果て) - でも人間はほぼ映らない - がナレーションも字幕もなしに、次々と映しだされて、それだけなのに、スペクタクル!というか、よくもまあ… みたいなかんじにはなる。
もうひとつは仙人みたいなおじいさん(イタリアの建築家/デザイナーのMichele de Lucchiだそう)が、どこかの遺跡を見ていったり、自宅の庭に石を円形に並べてストーンサークルのようなものを作っていく(実際に作るのは大工のような人たち)様子も描かれる。
最近の映画だと”The Brutalist”があったし、あとJóhann Jóhannssonの”Last and First Men” (2020)とか、でっかくてブルータルな建造物の映画とか、爆破シーン(好きな人は必見)はMichelangelo Antonioniの”Zabriskie Point”(1970)の飛び散るとこを思わせたりするのだが、あれらよりはとても穏やかに厳かに、なんで人はあんな重い石を掘って、切り出して、運んで、積んで、賞賛したりうっとりしたりして、それをまたぶっ壊したりするのか/してきたのか、を考えさせる。それらはほぼ黒と灰色と茶色で、とても男性的な力強い何かを思わせる - 自分だけか? あと、木造建築についてはまったく別種のなにか、であることもなんとなく確認できてしまう不思議。
これらの建造物(or廃墟)は、少なくとも始めは人間のために造られ、建てられたものであったはず、なのに、(特に壊された後のほうは)人が立ち入ることを頑なに拒んで閉じてそこにある、建っているように見える。そこでは人が亡くなっているのかもしれない。ただの遺物、墓石、ランドアート? アートでよかったの? とか、アートとは?みたいなところまで考えがとぶ。
最後のエピローグで、監督とMichele de Lucchiがストーンサークルの前で対話をする。人はなんでつまらない、醜くしょうもない建築を建ててしまうのでしょうか?と。
これは本当にそうで、でも人はしょうもない映画も、しょうもない料理もいっぱい作るし、そういうのに嬉々として向かっていく人もいるし – でも映画は見なければよいし食べ物は食べなければよいだけ。 建築は見たくなくても目に入ってくるし、ものすごいお金と時間と人手をかけて作っていくもので、そういうのも含めて考えるとうんざりするくらい嫌になる建物ってあるよね。ロンドンにもあるけど、東京のゼネコンの建てるのとかって、なにあれ、みたいなのがあまりに多い。紙とか板とかをベースに考えているから? など。
[film] Becoming Led Zeppelin (2025)
2月6日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
“Preview”とあったのだが、一日に何回も上映しているし、一般公開とどこが違うのかは不明。
Led Zeppelin初のオフィシャル・ドキュメンタリーだそうで、晩20:30過ぎの回でも結構埋まっていた。どうせならでっかい音で見たいし。
生き残っているメンバー – Rober Plant, Jimmy Page, John Paul Jonesの3人から話を聞いていくのと、亡くなったJohn Bonhamについては過去のインタビュー音声から生い立ちとか、使えそうなところに注記を入れてあてている。3人全員が一堂に会して顔を合わせて会話する場面はなくて、各自が好きなこと(自分に見えていたこと)を好きに語っているだけのようにも見える。
3人の生い立ちについては、ものすごく普通で、両親がドサ周りのボードヴィル芸人だったというJohn Paul Jonesを除けば、ふつうの家庭でふつうに音楽に囲まれてギターも買ってもらえて、自然と人前で歌ったり演奏したりするようになり、そうして既に十分に実力がついていた彼らが集まったのだから、そしてそれなりに努力してアメリカでもがんばったのだから、ああなるのは当然、みたいな描き方で、そりゃそうでしょうよ、しかないし、この程度ならふつうのファンなら知っていたのでは、くらいの薄くぺったんこな流れ。
彼らに酷いことをされた女性や関係者の証言、飲んだくれてホテルをぐじゃぐじゃにした、などいろんな狼藉に武勇伝、闇に葬りたいであろう過去のあれこれはきれいにクレンズされてこれぽっちも触れられず(なるほど「オフィシャル」)、とてもクリーンに齢を重ねた善良なお爺さんたちから輝かしい昔話を聞いていくかんじ。そんなはずねーだろ、と思う人には物足りないかも。
長さは2時間くらいで、半分を経過してもまだ1stの話をしているのでこの先だいじょうぶか? になったのだが、途中でそうかこれはドキュメンタリーの最初の1発なのか(Becoming..)、って。 なので、本作は2ndのアメリカでの成功と、それを受けてのRoyal Albert Hallの凱旋公演までで終わっている。たぶんこの後にあと2~3本続くことになるのではないか。さーすーがーにせこいジェイムズくん、だな。
Led Zeppelinについてはものすごい好き、というわけでもなく、LPもぜんぶ持っているわけでもないし、1番好きなのは1stと”Presence” (1976)くらいで、渋谷陽一があんなにわーわー騒がなかったらな、というか70年代ハードロックを聴いてうんちくたれてたうざいおやじ達(もう、じじいか..)がものすごく嫌で嫌いで、あれらがなければもう少し素直に向き合えたのかも、くらい。ほんとあの連中、なんだったんだろうか(いまだとシネフィル気取りのおやじ達になるのかな)。
でもとにかく、”Good Times Bad Times”のイントロはかっこよいと思って、この映画の予告でもがんがんかかるのでうれしい。
でっかいスクリーンで見て改めて思ったのは、ほんとに当時のメンバーはきらきら白人男性の典型で(いまのメンバーはしおしおで)それであんな音を出していたのだから冗談みたい、それこそ青池保子のあの漫画そのまま - 久々に読みたくなったかも。 なので、ディランのよりもビートルズのよりも、今の旬の男優たちを集めてバイオピック作ったらぜったいに客を呼べるネタになると思うのだが、やらないのかなあ?
2.10.2025
[film] Sergeant Rutledge (1960)
2月2日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
今月から始まった特集 – “Black Rodeo: A History of the African American Western”からの1本。BFI、今月はChantal Akerman特集だけでお腹いっぱいなのに、これに加えて、”The Films of Edward Yang: Conversations with a Friend”ていう特集もある。あれこれ忙しいってのに、いいかげんにしてほしい。
監督は問答無用のJohn Ford、邦題は『バファロー大隊』 - 原題の「ラトレッジ軍曹」でよいのに… 黒人俳優を主役に据えた最初のハリウッド西部劇 – らしいがオープニングタイトル上は、主役扱いではなかったような。
35mmフィルムでの上映で、米国から来るはずだったフィルムが、クオリティがあまりよくなかったので、急遽スウェーデンからの手配に変わった – スウェーデン語字幕が入っているけど許してね、と冒頭に説明があった。ものすごくきれいなテクニカラーだった。どうでもよいけど、西部劇とかカンフー映画の上映素材って、適切なプリントで上映するためなら命がけ(ではないけど)でなんとか海を越えて運んできたりするよね – 米州X欧州の場合。
舞台は1881年の、西部劇というよりは法廷劇で、第9騎兵隊のBraxton Rutledge1等軍曹(Woody Strode)の軍法会議を中心に展開していって、証言に基づくフラッシュバックで法廷の場と過去の現場を行ったり来たりする。Rutledgeの弁護に立つのは同騎兵隊の将校でもある若いTom Cantrell (Jeffrey Hunter)で、野外の掘っ立て小屋のような議場は、暑くて騒がしい村人たちや着飾ってお喋りするご婦人たちで溢れていて、そのだれた雰囲気に苛立つ判事たち - 水の代わりに酒を飲んだりしてる - も含めて、きちんとした裁きが行われるとは思えないかんじ。
Rutledgeは白人の少女をレイプして殺し、更にその父親で指揮官も殺した容疑で連れてこられていて、まずはMary Beecher (Constance Towers)が証人として立って、Rutledgeに命を救ってもらった、と証言するものの、全体としては殆ど喋らず不動で弱さを見せようとしない(親しかった彼らにそんなことをするわけないではないか、と無言の)Rutledgeに疑念が向かい、この雰囲気を覆すことは難しいように思われて..
フラッシュバックで犯行時の現場の映像も出てくるものの、全体に夜の闇のなかで事件は起こるので、見ている我々にも実際にあったこと -彼がやっていない証拠 - が明確に示されるわけではなく、他方で、Rutledgeを犯人として見ている(別の可能性を頑なに考えようとしない)白人たちの、犯人は彼に決まっている、から、どうしても彼に犯人であってほしい/彼でなくてはならない、の確信を固めて深めて同意を得ようとする、その意識の流れのなかに見ている我々をも引きずりこんで、結果として人種偏見や差別のありようを、少なくともその構成要素のようなものを見せる。それは、公民権運動が盛りあがり始めた当時のアメリカに向けた(それどころかいまの我々の社会にも十分、嫌になるくらいに通じる)過去の他人事にはさせない作劇で、今回は決定的な証拠が見つかったので落着するのだが、それがなかったらどうなっていたか、も含めて考えさせて、最近のだと”Juror #2” (2024)と同じくらいの難しさと手元の緊張をもたらす。
法の裁きの必要性と正当性を示しつつも、そこまでで、裁きの場に来る前に闇で消されてしまった可能性だってあった、そんなような正しさ、正義、という点ではまだ弱いのかもしれないが、John Fordがこういうのを作って、あるべき道のようなものを示した、というのは決して小さくなかったのではないか。
そういうのとは別に、軽くもなく重くもない、立ち止まって考える隙を与えない、手に汗握るおもしろさ、というのはあって、あれはなんなのだろう、って。