5月3日、水曜日の午後、ユーロスペースで見ました。シネマヴェーラのフォード特集 - 『黒時計連隊』と『四人の復讐』の合間に。スコットランド – インド – 江戸 – インド – イングランド - 南米。
脚本・監督は阪本順治。彼の映画はたぶんそんなに見ていない。
江戸の安政から万延に移る頃、序章と終章を入れた全9章からなる90分。ずっと鉛を溶いたような重めのモノクロ – かと思ったら各章の終わりに、季節が動くように淡いカラーが入って温度が変わる(ちょっと素敵)。
冒頭、雨が降ってきたので小屋の軒下で雨宿りをする3人の若者、下肥買いの矢亮(池松壮亮)と紙屑買いの中次(寛一郎)とお武家の娘のおきく(黒木華)が並んで、それだけでなんかよいの。下肥買いはお屋敷や長屋からでる糞尿を買って農家に肥料として売る商売で、汚くてきついけど人の家から糞尿がなくなることはないので商売としては割と安定していて、そこに紙屑を売るよりはましと思ったのか中次が加わって、ふたりでぶつぶつ喧嘩したり客に蹴とばされたりこぼしたりこぼされたり糞尿にまみれながらやっていく。
おきくの父・源兵衛(佐藤浩市)は勘定方をやっていた藩を去っておきくとふたりで貧乏長屋に暮らし、おきくはお寺で字の読み書きを教えたりしている。長屋も糞尿が溢れたりで騒がしくやっていると源兵衛のところに侍数名が訪ねてきて彼を連れ去って、それを不審に思ったおきくが後を追うと…
源兵衛は道端で斬られて殺されて、おきくも少し離れたところで喉を切られてそれ以降声を出せなくなってしまう。倒れている源兵衛が動こうとして、でも動かなくなるところのイメージの強さ。
タイトルにもある「せかい」は厠にしゃがんだ源兵衛が呻きながら中次に語るでっかく広がっている「せかい」のことで、くそにまみれていても、くそのためにしゃがんでいても、すぐそこにそういうのがあるんだぜ、って。そのあとすぐに殺されちゃうんだけど..
そういうのがあるにしても父を失い、声も失ったおきくに「せかい」は甘くなくて、でも最初の章で「むてきのおきく」だった彼女は首に布を巻いて外に出ていって、子供に字を教えてやっていくと、矢亮との喧嘩が絶えなくてひとりぼっちの中次が彼女のせかいに映りこんでいく。そこでおにぎり。
本当にせかいの片隅の、頻繁に映しだされる肥溜めの、そこから自然と溢れかえる糞尿とおなじような、でも確かにそこにあって生きている人々や若者が片隅だろうが鼻つまみだろうが「せかい」にあることを、「せかい」がどんなもんなのかをぼんやりと意識するまでの「青春だなあ」としか言いようがない青春映画だなあ、と思いながら見た。今の若者や子供たちが見るアニメなどで描かれていそうな「世界」- 自分を受容してわかってもらえる人々がいる側と、そうでない側が頑としてあり、すべては最初から見渡せていて、その境目で悲劇が起こって泣いたり喚いたりする(推測だけど)のとは根本的にちがう。「せかい」はくそにまみれて/介して遠くまでずっと向こうまである(らしい。しらんけど)って。
そうして「字を教えてほしい」ってやってくる中次とそれを見つめるおきく、自分の胸をどんどん、て叩いてそれに応えるおきくの姿、しゃがみこんで向かい合うふたりに降りかかる雪が見れたのでそれで充分だったかも。
それにしても黒木華さんはすばらしいねえ。
矢亮と中次が「青春だなあ」とか「ここ笑うとこだぜ」とか言い合いながらくそにまみれていくのって、いまの若者が居酒屋で飲んで帰りにげろまみれになるのと同じようなかんじなのかなあ、なのだがこの青春時代劇がいまの若者にどれくらい届いたりするのかしら。(客席は老人だらけだったような)
あと、やはりエコとかSDGsの文脈になるのかー、うんこなのにな。うんこそのものはそういうふうにおもしろおかしく扱えるのだろうけど、それを仕事で扱う人たちを差別的に見てしまう昔からある傾向が、SDGsなんて被せることできれいに薄まってしまう懸念 - どころか悪癖て、これはここだけじゃなくて今の世にごくふつうにあるので、そっちの方がさー。 結局さいごは金儲けとイメージじゃねえかくそ(企業・代理店)が! ってなあ。
5.09.2023
[film] せかいのおきく (2023)
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