12.31.2019

[log] 年のおわりに

気がつけば振り向けば1年の最後の日になっていましたどうしよう、と書いて嘆いてあたふたしてみせるけど実はなんにもしない、そういうお約束のいちにちが今年もやってまいりました。

.. という昨年の文言をそっくりそのままコピーするだけで反省しないし進化もないしなんのためにこの一年は、とか愚痴悪態をついてばかりのしょうもない一日が今年もやってまいりました。

この12月はなんだかとっても慌ただしくて、11月末のロシア行きがなにかを後ろに押してしまったせいもあるのだろうが、月のまんなかに仕事でドイツに行ってクリスマスの前にパリに行って2日あけてローマに行って29日に戻ってきても頭とか目が錆びたように重くて、今日はなんにも片付かないし片付けるつもりもないそういう1日で、それは片付けるべき山がどれくらいあるのかを振り返ることすらしない - 目の前にいっぱい積まれて傾いたりしているやつもあるのに目を合わせようともしない、なんか自然現象のように書いているけどただのやる気の問題として、とにかくどうしようもないんですけどどうしましょう、って(きみはそれを誰に向かって言おうとしている?)。

とにかくこちらに来て3回目の年のおわりを迎えることができて、本来であれば2年契約のアパートの契約更改時期だったので新しいところに越してもう少し空間に余裕のある快適な暮らしを、のはずだったのだが新しいところを見つけて契約改めて引っ越して、それらを実行する時間とかお金とか体力とか、そういうのは映画とかライブとか古本とか旅行とかに使ったほうがよいのではないか、と思ってしまったので 昨年末であれこれ諦めていたゴミの山の上に、さらにいろいろ積まれて重なってしまった今があって、なんども言うように、これは自分がどうしようもなくだめでそれをこうして認めているのだからいいじゃんか、と誰に向かって言っているのだかわからないあれこれを相変わらず。

昨日、Neil Innesの訃報を聞いて、え? 9月の”The Rutles: All You Need Is Cash” (1978)のトークではふつうにお喋りしてくれたのに、というのも、昔ほどには驚かなくなった。明日にはどうなるかわからないんだな、って。とても悲しいことには変わりないけど。

大晦日、今年最後にみた映画はBloomsburyでのBi Ganの”Long Day's Journey into Night” (2018)だった。
あーそうか、今がまさにそれだわ、よくわかんない夜の微睡みのなかにあるんだわ、とも思った。 

新元号なんてほんっとどうでもいいしあんなに嫌がっていたBrexitもオリンピックも来年は始まってしまいそうなその向こうで、しぬほど嫌いな日本の首相も英国の首相も米国の大統領もあーんなにゴミより臭くて耐えられない腐臭の群を放っているのに、そのままに放置されて存続しているってどういうことだ、って、こいつらを一網打尽にして宇宙の果てに塵ゴミとしてぶっとばすことはできないものか、っていうのはいつも思いながら、でもゴキブリみたいにいるねえ、あの連中。

家のなかがこんなで、世の中もあんなで、あれこれそんなふうだからとにかく自分を維持して朝起きあがるのが精一杯で来年も持ち堪えられるかどうか、くらいなので、ごちゃごちゃ言わないで新しい年に行ってしまおう、って。

でもとにかく、まわりの人みんなによいことがありますように。
自分には - 敗けたり失ったりは常態だったとしても - 少なくともよい出会い - 本でも映画でも音楽でも人でも - があって生き延びることができますようにー。

[log] Paris

21-23の土・日・月でパリに行ってきました。 昨年もやった気がするクリスマス前の買い出し、と言いつつあれこれうろうろする(したい)だけのアレ、だったのだが、今回は交通スト、という新たな試練が眼前に立ちはだかって電車(Eurostar)も止まるんじゃないか、という懸念もあり、でもなんとか向こう岸に到達することはできそうで、それなら、行けるのであればとりあえず行ってみて、どんなもんか見てみるのもおもしろいんじゃないか程度で - とにかくその、石橋が崩れているのに見ようとしないで渡って落ちて泣く、っていいかげんやめたら? - だったのだが、とにかく行って、予定していたモノたちをしがみつくように見たりして戻ってきた。

全体の状況がどんなふうだったかと言うと、地下鉄は半端な2路線くらいしか動いていなくて、バスは間引きされてのろのろなのでいつでもどこでもぱんぱん、人々の移動は車になるのでタクシーはちっとも捕まらないし交通渋滞がひどい、という悪循環に嵌っている - なのでどこに行くにもだいたいいつもの2〜3倍の時間がかかるし、それなら歩いたほうがまだまし、なのだがお天気はぐずぐずの風ぼうぼう、こんなときはこたつでごろごろ本でも読むのがふつうのヒトのただしい営みというもの。

Degas at the Opera

21日の午前、Eurostarでパリ北駅に着いて、地下鉄ではない普通の電車とバスを乗り継いでホテルに入り、お昼を食べた後にMusée d'Orsayで見た。 チケット売り場はがらがらだった。

ドガの踊り子(っていう言い方、なんかよくないんじゃないの? ダンサーでいいよね)のシリーズって寄せ集め展覧会とかコレクションとかに2-3点混じっているだけだとちっとも面白いと思えない(ドガに限らず大抵そうよね)のだが、今回のようにバレエを中心とした舞台芸術に向かう人々の動きとかシルエットとか色模様とか、それらが固まって連なって並んでいるとドガが捕まえようとしていた瞬間と空間がよくわかるのだった。

あと、なんといっても入ってすぐのところに展示されたオペラ座ガルニエ宮のでっかい断面模型。緞帳とか地下とかミルフィーユ並みに細かくて、我々が客席から見ているのはそのほんの一層、ひらひらの瞬間だけなのだな、って。

Huysmans Art Critic : From Degas to Grünewald, in the Eye of Francesco Vezzoli

ドガの展示の反対側でやっていた。
ユイスマンス - Joris-Karl Huysmans - といえば『さかしま』に代表されるデカダン文学作家なのだが、もともとはまじめな官吏だったし、ここでは彼の目や文章が当時のアートシーンにCriticとして与えた影響・果たした役割にフォーカスして、彼の周辺にあった画家や作家の作品を集めてある。
ドガにマネにピサロ、カイユボット、ルドン、ナダールが撮ったボードレール、ヴァレリーの肖像、などなど。 ゾラあたりからの自然主義が「近代」の立ちあがりと共にぐんにゃりと歪んでいびつな影や闇がまぶされていくその像を視覚的に追っていくことができるよい展示だった。

Paris by Mouth

パリの現地レストラン情報を載っけている英語のサイト、”Paris by Mouth”は日本語によるレストラン情報よりも役に立つことがあってよく参考にしているのだが、ここが少人数でのWalking tourをやっていて、それがNY times紙の36hoursのシリーズで紹介されたりしたのでいつも人気で売り切れていて、今回は空いていそうだったので参加してみることにした。 パリで初めて参加するツアー。
地域(St Germain, Left Bank, Marais)の特徴的な食材屋をまわる”Taste of ..”のシリーズとか、フランスのCheeseとWineに的を絞ったワークショップとかもあるのだが、今回は”Taste of St Germain”ていうコース。

ストの影響でキャンセルが結構あったらしいのだが無事決行された。16時にRue de Bacの駅前に集合して、歩いて肉屋、チョコレート屋、パティスリーにパン屋、バゲットにチーズにワイン屋を巡っていく(事前に店には通知してあるみたい)。単にそのお店をおいしいよー、って紹介するだけでなく、なんでここがおいしいのか、をその場所やオーナーの歴史(ときにはパリの街の歴史や成り立ち)も込みで説明してくれるのでなるほどねー、だし、最後にはワイン屋の2階のスペースでそれぞれのお店で買っておいた食材を切り分けて、ワイン屋のワイン3本と一緒にテイスティングしつつ復習してくれて、中でもチーズとワインは壁に貼ってあるフランスの地図を指差しながらなかなか深いところまで教えてくれた。

ガイドの女性も参加した人たち - 6人くらい -もみんなアメリカの人たちでやっぱしアメリカ英語、わかりやすいよなー、って泣きそうなくらい嬉しくなったり、現在のストの背景とフランスの政治状勢 - 今後の展望について、とっても今のアメリカン・リベラルの目線が入った政治の話も入って(うんうん)、あっという間の3時間半だった。

Eiffel Tower

パリに行ってまだ凱旋門もきちんと見ていないしエッフェル塔も昇ったことがないというのはいいの?  だったので22日の午前にやっと昇ることができた。 朝から雨が断続的に降って風が強くて天辺には行けなかったのだが眺めはすばらしいし鉄模様も素敵だし、あーパリなんだわ、って。

自分の世代ってなんでか東京タワーに思い入れるひとが結構多い気がするのだが、わたしは東京タワーにはそんな来なくて、でもエッフェル塔はとっても好きになりつつある。 なんかかっこいいかも、って。 あとで凱旋門もちゃんと見ることができて、観光レベルがあがった気がした。

Charlotte Perriand: Inventing a New World

22日の午後、Frank Gehry設計の、あのLouis Vuitton Foundationで見ました。
(家具でも空間でも建物でもなんでも)デザイナーのシャルロット・ペリアン(1903-1999)の、フロア全部使ったものすごくでっかい回顧展。 20世紀のデザインの歴史に興味があったり勉強したりしているひとは必見。”Inventing a New World”とは、それをデザインで実現するというのは例えばどういうことなのか、絵画、彫刻、写真、自然、東洋、政治、教育、ジェンダー、彼女の活動を通してそれらがどんなふうに渦を巻いて形を作っていったのか、などなどをその途方もないエネルギーも込みで俯瞰することができる。

他のアーティストではル・コルビュジエとフェルナン・レジェとの生涯を通じたでっかい作品がところどころに置いてあって、そういえば彼らも生活における形 - 特に丸み - を追求していった人たちだったねえ。
政治活動との関わりでいうと、でっかい壁一面(これでも縮小版レプリカだそう)を使ったコラージュ作品 - 1936年の“La grande misère de Paris” - “The Great Poverty of Paris”の勢いがすごい。 出発点付近にはこういう怒りがあったりする、と。

日本との関わりというと、髙島屋での『選択・伝統・創造』展のポスターとか、蚊帳とか畳とかイサム・ノグチのランプとか。

あとは屋上まで出てFrank Gehryによる建物も見て眺めて触ってみる。ブローニュの森の端っこにこんな建物があるのってどうなのかしら? 帰りに夕暮れの森を歩いて抜けてみたけど、ほんとうにただの森(そこがたまんない)だったしねえ。

最終日の23日の半分は買い出しなので、午前中の買い物場近辺のをいくつかうろうろしただけ。

Musée de Cluny  国立中世美術館

『貴婦人と一角獣』に再会したかった。 中世のいろんなのもちゃんと勉強しないと、そろそろ絵を見て回ってもきつくなってきたねえ、やらないとねえ、と改めて。

ここで近くのShakespeare and Companyに寄って古本ふたつ買った。

Église Saint-Sulpice サン=シュルピス教会

ドラクロアがその壁に描いた - “Jacob Wrestling with the Angel” - “Heliodorus Driven from the Temple” - とその天井に描いた”Saint Michael Vanquishing the Demon”を見る。
絵はすばらしいのだが、教会全体の佇まいからはちょっと浮いているのではないか。

Du Douanier Rousseau à Séraphine: Les grands maîtres naïfs

23日の午後。Musée Maillolで、日本語だと「ルソーからセラフィーヌまで:素朴派の巨匠たち」。アンリ・ルソー、セラフィーヌ・ルイの他には、カミーユ・ボンボワ、ルネ・ランベール、アンドレ・ボーシャン、ルイ・ヴィヴァンなどなど。

昔からnaïfs - Naïve Art - 素朴派、あるいはアウトサイダー・アートでもよいけど、昔からあるこの括り(そして昔からあるこの議論)ってどうなのか。正規の西洋美術の教育とか誰かの弟子としての訓練とか薫陶を受けていない、とか「アウトサイダー」とか、これってたんなる批評(界)とか画壇が勝手に作りだした枠だよね、だってひとつひとつこんなにも全然ちがうし。ちがって当然のものだし。

セラフィーヌ・ルイを纏めて見れたのはよかったし、メインビジュアルになっているカミーユ・ボンボワも素敵ったらない。

こんなもんかしら。 じつはパリにはやり残したことがあって..

[theatre] Translations

16日、月曜日の晩、National Theatre内のOlivier Theatreで見ました。
ここの隣にあるBFIには学校のように会社のようにほぼ毎日のように通っているのに、こちらに来たことは未だなかった。 ので、ようやく来れてうれしかった。

アイルランドの劇作家Brian Friel の原作をIan Ricksonが演出したもの。事前の予習とか一切しないで見てみる。

19世紀初、地の果てのようなところにあるアイルランドの田舎の村Donegalの台地にHedge School - 当時アイルランドの田舎のコミュニティ毎に作られた言葉 - ラテン語とかギリシャ語とか英語とか - を学んだりする非認可の学校 - で、先生のManus (Seamus O'Hara)と、老いてぼろぼろのJimmy Jack (Dermot Crowley)とかうまく喋れないSarah (Liadán Dunlea)とかMaire (Sarah Madigan)とか個性たっぷりの生徒たちがいて、堂々とした校長のHugh (Ciarán Hinds)がいて、都会のダブリンから戻ってきた息子のOwen (Fra Fee)も来て、みんなでわいわい楽しく授業をしていると、英国軍の兵士が現れ、Owenを通訳にして、この辺一帯の地図を作りたいので協力するように、という。

英国の兵士たちは彼らがSchoolで英語を学んでいることも知らず、彼らの喋る言葉は通じないと思いこんでいて、そのやりとりがなんか滑稽なのだが、その辺からだんだん明るみにでてくる彼らの企てとは。

やがて地図を作るために駐留している英国軍のYolland中尉 (Jack Bardoe)とMarieが恋に落ちて、そのタイミングで、英国による植民地支配に向けた企みが明らかとなり、言葉の通訳 - 地名の翻訳から始まったふたつの国の関係は突然天地がひっくり返って、向こうからどす黒い恐怖が。

日々自分の国の言葉ではない言葉を使うところで暮らして、普段からこちらの映画を見たり音楽を聴いたり本を読んだりしているものとして、ものすごくいろんなことを考えさせてくれる演劇だった。 出発点は自分が慣れていない言葉を自分の言葉に変換してその文脈も含めて理解する、それだけのことなのだが、それはそれだけのことではない、例えば異文化や習慣の理解みたいなところ、そもそもそういうのって「理解」できるのか? という問いとのせめぎ合いとか、その風呂敷は習得の度合いに応じて常に大きく不透明になりがちで、それが国レベルで極大化すると侵略とか植民地化、のようなところまで行ってしまう気がする。アメリカが先住民に対して、英国がオーストラリアの先住民に対して、日本が沖縄や北海道の先住民に対してやってきたような。

翻訳って、やるやらないでいうと、やるべきだし必要なことだし、多くの可能性に満ちた作業だとは思うのだが、そこには常に翻訳をする者はどこのだれなのか、その対象(その選択)は、という問題(のようななにか)がつきまとうはずで、そこに万国共通とかスタンダード、のような理想(幻想)を持ちこもうとすると面倒なことになる。 なぜならそういうスタンダード - 汎化を持ち込もうとするのは常に「強者」に決まっているから or - とされてしまうから。 (英語教育は素人だけど、例の共通テストの件が滑稽なのは彼らの前提の置き方がどう考えても変 - 気持ちわるい - から)

コミュニケーションがすべての礎、MUST、それは正しいことなのかもしれないけど、どこからどこまで、の線引きをしておかないと、言語が死滅したり民族が絶滅することにもなりかねない、ということが19-20世紀(以降)の歴史にはあったし、あるよ。 コミュニケーションなんてやりたい奴が尻尾ふって旗ふって喜んでやっていればいいのよ。

(関係ないけど、最近よく言われる「ダイバーシティ」があんま信用ならないのは、すでに確立された単一性を前提とした物言いの匂いがぷんぷんするから。あえてそう言わなければならないくらいに傾いて歪んでしまった、ということなのだろうけど)

ということを考えていったときに、あのラストの風景には慄然とする。そうだよね、って。

こういう作品がジョイスやイェイツを生んだ国から出る、というのもおもしろいな。

12.25.2019

[film] The Belle of New York (1952)

15日、日曜日の午後、BFIのMusicals! 特集で見ました(この特集、ぜんぜん見れなかったよう)。
35mm、Technicolor dye transferプリントによる夢の1時間半 - 理想的な日曜日の午後。
日本では劇場公開はされていない?

MGM - Arthur Freedによって45年から企画はあって、でもキャスティングされていたJudy Garlandがリハーサルで降りてしまったので一旦頓挫して、それでもなんとか作りあげたやつ。Arthur Freedのなかでは”An American in Paris” (1951) や”Singin’ in the Rain” (1952)に並ぶものとしてあったものらしい。確かにシンプルで - ややシンプルすぎるかもだけど、わかりやすいし。

世紀の変わりめ(19→20ね)のNYで、成金プレイボーイのCharles Hill (Fred Astaire)は女性をひっかけては婚約して式直前にキャンセルして賠償ごめん、みたいのを繰り返しているので後見人のAunt Lettie (Marjorie Main)は嘆き悲しんでいるのだが、CharlesはAuntもよく知るSalvation Armyのバンドで歌っていたAngela (Vera-Ellen)に一目惚れして、Angelaを追っかけ始めるのだが、彼女はつれなくて、まずあなたはぷらぷらしていないでちゃんとした職につくべきです、って職安を指差したので、Charlesはいろんな仕事について、それらを歌って踊っててきとーにこなして、どんなもんだい、でめげなくて、とにかく彼女のことも歌と踊りでおっことす。

Charlesは恋に夢中になると空中浮遊してしまう特殊体質をもっていて、ふたりの恋がスパークすると、Angelaの方もふわっと浮かびあがってしまうので、とってもわかりやすくてよいの。(でもこれ、相手が浮かびあがってくれないとバカみたいでつらいな..)

場面ごとにころころ変わって行く衣装も素敵で、女性のがHelen Rose、男性のがGile Steele。

ミュージカルナンバーはJohnny Mercer(詞) - Harry Warren(曲)のコンビの軽く鼻歌調でふんふんできるのがよくて、Charlesが空中浮遊してWashington Squareのアーチの天辺で歌うのとか、砂を撒いてその上でスクラッチして踊るの(ヒップホップか)とか、Fred Astaireは撮影開始当時52歳で、とてもピークを過ぎていたとは思えない軽妙な楽しさがあるの。

あんなふうに恋愛のことだけ考えていられたら幸せだろうねえ、と思ったことだよ。

[film] Shooting the Mafia (2019)

14日、土曜日の午後、BFIで見ました。 これは最近リリースされたドキュメンタリー。

監督はこれまでいろんな女性(含. トランス)のドキュメンタリーを撮ってきたKim Longinottoさん。
イタリアのシシリーで、現在84歳になる写真家のLetizia Battagliaさんの過去からの活動を追ったもの。

今もカメラを手に街角に出ていく彼女は、いろんな人々が挨拶しに寄ってくる人気者なのだが、でも彼女を有名にしたのはマフィアに殺されて道端に横たわっているいろんな死体(子供のも)とか嘆き哀しむ家族とか、そういう暗くて痛切なイメージの写真で、彼女をそれらに向かわせたのはなんだったのか。

フィルムの前半は幸せで平穏な家庭に育った彼女が変質者を目撃したことから男性恐怖に陥って回復するまでに長い年月を要したこと、夏休みで人手がいなくて困っていた新聞社を手伝ったことからジャーナリズムの世界に足を突っ込み(当時のイタリアではほぼ最初の、だったという)、犯罪現場に取材に行っても女はひっこんでろ、の世界と戦いつつ40歳でカメラを手にして、始めは地元の家族や子供達を撮っていくうちにマフィアによる脅しや虐待、搾取が彼らの生活を沈黙の世界に押し込めていることを知り、より悲惨なマフィアの殺しの現場 - 彼らが奪っていったものと残されたものの悲しみ - にフォーカスしていくようになる。 といったことが彼女自身の口と、かつての恋人(複数)の証言から明らかにされる。

フィルムの後半は、マフィアの掟 - Code of Silence - に支配されていた世界を打ち破った80年代パレルモの「マフィア大裁判」 - 476人が裁かれた - とそこから90年代前半まで続いていく政府・市民とマフィアとの長くしんどい戦い - 92年、マフィア撲滅の先頭に立っていたファルコーネ判事 - ボルセリーノ判事の暗殺を経由して - を当時のニュースフィルムを繋いでいって、こうして市民は - 警察ではなく市民は - 勝利をもぎ取ったのだ、という経緯を描く。

彼女の活動と後半のパレルモの歴史がもう少しうまくリンクできれば、と思ったが、それでもこれはひとりの女性の意思が自分を変えて、人々になにかを訴えて、社会を変える力の一部になっていった、そういう流れにはなっているし、少なくとも黙っていてはいけないのだ、というメッセージは伝わってくると思った。 のと、彼女の恋人たち(いかにもイタリアの - )から語られる彼女自身のおおらかな強さしなやかさ - 自由、みたいのは見習いたいものだなー、って。

日本でも沈黙を強いられて魂を殺されてしまうケースが割と日常になっていると思うけど、こんなふうに変わっていけないものか、とか。

やっていることはぜんぜん違うのだが、彼女より7つ年上のAgnès Vardaさんのことを少し思った。
どちらも自分のやり方で自分のやりたいことをやって道を開いていった女性。

[music] MONO

14日、土曜日の晩、Barbican Hallで見ました。チケット発売は6月くらいで結構早くにSold outしていた。

これはMONOの20周年を祝う - 英国で祝う - アニバーサリーイベントで、関連イベントもあるらしく、チケットを買うときに、追加であと£15払えばその前の日のBorisとenvyのライブにも行けますよ、っていうので、え? そんなの行くに決まってるじゃん? て取った(あと、翌15日にもどこかでなんかやってた)。

前日の13日金曜日のはOval Spaceっていう結構でっかいスタンディングの小屋で、よいかんじで埋まってる。けど、ぜんぶで4バンド出るよ17:00 doorで17:20開始とかわけわかんない時間割で、でも場所も奥のほうの遠いところだったので19:00過ぎにようやく着いたら、envyはもう始まっていた。

envy - Boris - MONOというと、2011年に(今もやっているか不明だけど)”Leave Them All Behind”ていうイベントで3つとも見ていて、この時は順番が今回と真逆でMONO → Boris → envyだったのね。彼らの音って、メンバーが誰とかヒストリーとか、どのアルバムがとか、そういうのはほぼわからないのだが、結構聴きに行ったりしている。たぶんあのやかましさが日々の生命の維持には必要なの。

フロアの前方はぎっちりで、日本の人もいたみたいだけど、圧倒的にこっちの民がいっぱい、こんな冷たい雨の晩でも、クリスマスのパーティがぼこぼこやってくるこの季節でも、13日の金曜日でもやってくるような人たちなのだから、みんなほんとうに集中して音に浸っていた。

 envyは互いに反響しあう複数のギターの音が広がっていくかに見えて逆にねじ込まれるようにそれらが地面に叩きつけられて固化していくさまが気持ちよく、Borisは3人とは思えないぶっとい杭が大気中のすべての塵だの磁気だのを叩きつけた後に浮かびあがってくるなにかが荘厳でくすぐったくて、要はどちらも素敵だったのよ。

envyが終わったあと、物販の近くにいたので軽い気持ちで寄ってみたら日本の朝のラッシュ時のような(ややなつかしい)混雑に巻きこまれ、みんな熱心なんだねえ、って。 10inchのシングルだけ買った(みんな買っていたから)。

翌日、Barbicanでのライブは着席で年齢層は高め(日本人率薄め)、客席を見てそこから音を想像するのは難しそう。Barbicanのサイトには”MONO with The Platinum Anniversary Orchestra”とあり、バンドの機材(グランドピアノまである)の奥にはオーケストラのエリアがあり、もちろん指揮者まで出てくる。

前座のAlcest (とっても真面目なよいこの音)の後に登場したMONOは、想像していた出音以上にそのスケール(広がり)にびっくりする。 こういう音(ヘビィロックっていうの?)にオーケストラがくっついた時に容易に想像できそうな厚さ、重厚感というより、それらは当然のものとして、隅々までカラフルになっている - しょうもない言い方だけど、MONOがStereoに変貌して暴れまわっていた。

後半には背後のオーケストラの他にバンドの横にチェロ (2) が付いて引っ掻きまくる弦の粒度とダイナミズムが倍になっていて、気持ちいいったらない。

わたしは日本のバンドが海外でこんなに、のストーリーとかぜんぜん興味ないのだが、この”MONO”というバンドがこんなふうにステージ真ん中に小さく固まって愛想もふりまかず、でも周囲のオーケストラも含めてとてつもない音を雷神のようにごうごう放射し続けているのを見るのはなんかよい絵なのだった。(ストロボだけちょっとしんどかったけど)

12.24.2019

[film] Van Gogh (1991)

11日、水曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。彼の作品にしては158分あって、結構長い。

今年はなんだかんだVincent van Gogh関連が続いた年で、春にはWillem Dafoe主演の”At Eternity's Gate” (2018)があり、Tate Britainで結構規模の大きな”Van Gogh and Britain”の展示があり、9月にはBFIでVincente Minnelli監督でKirk Douglasがゴッホを演じた “Lust for Life” (1956)を見ることができた。三つのそれぞれ全く異なるゴッホを見て、いろんな作風の初期作品も含めて見てみると、ゴッホに対する認識も改められることが多かった。で、Pialatのゴッホは相当違うねえ。

1890年 - Vincent van Gogh (Jacques Dutronc)は37歳で、Auvers-sur-Oiseで銃で撃たれたのか自分で撃ったのかで亡くなるまで、最後の67日間を追う。彼は列車でAuvers-sur-Oiseに着くと医師のGachet (Gérard Séty)のところを訪ねて診察してもらい、ま、こんなもんでしょう、みたいなことを言われて、旅館に宿を取って暮らし始めるのだが、いきなり筆を手にして狂ったように絵に打ち込んでばかりいるのかというとそうではなくて(そういうふうには描かれなくて)、穏やかで、そこらを歩いていそうな静かでちょっと変な人、くらいの印象でそこらにいる。

やがてGachetの娘のMarguerite (Alexandra London)と親密になって、でも彼は街の女達ともだらだら付き合ったりしていて、それは“Lust for Life”で描かれたような熱いゴッホ像とはぜんぜん違って(おそらく意識的にそうして)、精魂こめて絵に向かうというよりも、魂の抜けた状態で屋外に出ていっては絵筆を動かし(ここでの彼は絵を描くというより機械的に絵筆を動かしているだけのよう)、戻ってきてはうろうろを繰り返す。心配してやってくる弟Theo (Bernard Le Coq)の家族のあいだも基本構ってくれるな、なのでどうすることもできない。

それは『悪魔の陽の下に』(1987)でのDonissan神父のような、なにかに取り憑かれているかのような挙動で、もう先が見えているかんじもするのだが、でも異なるのはMargueriteとの関係で、これがあるからふたりでいるときの画面はとても穏やかで落ち着いている。といっても、通常の男女のそれというよりは、Margueriteがちょっかいを出しにきて、ゴッホが犬のように(時には乱暴に)応える、ようなものなのだが、なんかふたりでいるのがよいの。

と、もういっこは、La maison des bois (1971)で描かれたような昔のフランスの田舎の光景が極めてルノワール(パパのと息子のと両方)っぽく - ゴッホの映画なのに - 展開されていることで、これは見ていてひたすら快楽で、ゴッホはこの風景のなかにはいられなかったのだろうか、ということを思ったり。 彼の目は、ルノワール的な光や水のほうには向かわなかった、それらは彼の視野には入ってこなかった、ということなのかしら。

この映画のテーマは、Margueriteが最後にこちらに向かって言う一言に集約されている。
画業にすべてを捧げた天才でもなく、孤独で哀れな狂人でもなく ー。
そしてこれが、世のイメージとして語られるゴッホ像とどれだけ離れていたとしても、わたしにとってのゴッホはこれだわ、と思った。

[film] Star Wars: The Rise of Skywalker (2019)

19日の深夜、より正確には20日の0:30amにBFI IMAXで見ました。このシリーズの封切り(ep1以降)の際はこれまでずっとNYにわざわざ飛んで見てくるのが恒例だったのだが、今回のはなんかばたばた慌しくて、Londonでの初見やむなし、となった。 ネタはバレているかもしれないしいないかもしれないし。

この晩、これの前にはBFI Southbankの方で”Little Women”のPreviewがあり、膨らむ歓喜と共に終わったのが20時半過ぎ、一旦うちに帰ってなんか軽く食べて軽く寝て(でも寝れなくて)、23:30過ぎにWaterloo の方に向かった。終わってからどうやって帰るのかは、考えるのも面倒だったので白紙で。

78年に最初の1本- ep4を見て、これは米国では既に大ヒットしているのに日本では屑な配給会社のせい(日本の配給会社に対する不信と不満の根はこの頃から)で散々待たされ焦らされ、そのため公開された後には朝に映画館に入ったら一日中そこで見る - 当時は各回入替制なんてなかったから - ようなことをして50回くらいは見たはず。で、その頃からこのサーガの全体は3部 - 9エピソードから成ることはわかっていて、でも途中でルーカスの最後の3エピソードは作らない宣言もあったりしたので、まさか40年後にその最後の最後の1本を見ることができるとは。よく40年もぬくぬくダラダラ生きてこれたもんだわ。恥をしれ自分。

他方でこのファイナルを飾る作品に対する期待はとっても地味でlowで、なんでなのかな、と83年の”Return of the Jedi”の公開初日の晩- 新宿歌舞伎町のシアターで朝まで3回連続で見た - のヒステリックな熱狂を思い出したりしていた。

もうここまでのいろんな積み重ねと、前作”The Last Jedi”でLuke (Mark Hamill)が夕焼けにの向こうに消えてしまった後では、”Return of the Jedi”のラストにあったような爽快感なんて望めないし奇跡の大逆転なんてありえないしぜったい誰かが誰かのなんかの犠牲になって針の穴を抜けるような苦い勝利しかやってこないことはわかっていた。

それがこのサーガ全体を覆う暗い世界観 - 戦いに身を投じるものはみなダークサイドに堕ちたり直面したりして不吉で不幸な運命を辿る、という呪縛 - なのだし、ルーカスが最後の3つを一度は棄てた、というのもこの最後の落としどころに十分な確信を持てなかったからではないのか。

政治抗争の背後で揺れ動き翻弄される家族・血縁・結社の運命を描いた第一部、どん底の危機からならず者達を組織した反乱軍が新たな希望と共に奇跡的な勝利を収める第二部 - この部分がもっとも活劇の要素が大きい(ので最初に映画化した) - そしてそれでも揺り戻しつつ蘇る悪の亡霊たちとの止まない攻防のなか、試される者たちのドラマが描かれる第三部 - やっぱり最後のパートがもっとも地味で既視感に溢れてしまうのは仕方のないことなのかー。

というわけなので、どっちが勝ったからどう、とか、誰が生き残ったからどう、という筋の運びについては、スポーツのゲームではないのだし割とどうでもよくて、これまでの展開やキャラクターの造形から、ま、そうなんだろうな/こうなるよね、くらいで、いやそこはどう考えてもそっちじゃないのでは、というところはあんましなかったように思う。

ただいっこ、これはサーガ全体を通して言えることでもあると思うのだが、ルーカスも、今回のJJAにしても恋愛なんてどうでもいい、興味ゼロのなにかとして彼らの中にはあるようで、特に今回はその辺がなかなかしんどいかも。大昔の銀河系にはそもそもそんなもんなかった、としてしまえばよいのか。

あと、自分が誰であるのか、自分は誰の血を受け継ぐものなのか、その記憶や名前の喪失と獲得がテーマのひとつとしてあるよね。個の覚醒、といってしまえばそれまでだけど。

あと、Kylo Ren (Adam Driver)って、結局最後まで俺は最強だって大見得きりつつもあまりぱっとしない報われないかわいそうな位置に置かれていて、祖父はかつて帝国の支配者までやっていたのに、なんでかしらあんなことでよかったの? ていうあたり。次のはObi-Wanものになるらしいけど、そのうちKylo Ren の少年時代をRichard Linklater氏あたりに映画化してほしい。 なぜ”Ben”はKylo Renにならねばならなかったのか、を。

ラスト、タトゥイーンで自分の名前を名乗ったRey (Daisy Ridley)は、その一年後に父親のいない子供を産むことになるに違いない。こうしてサーガは反復 - 再生産されるのね。

12.21.2019

[film] Little Women (2019)

19日、木曜日の晩、BFIのPreviewで見ました。当然発売されたとたんに売り切れていた。
『若草物語』。 あの邦題にはShame on you! しかない。 Joが聞いたら顔を真っ赤にして怒るよ。

上映前のイントロでBFIの人から、今日はStar Warsの初日だというのにこちらに来られた皆さんは正しい選択をされましたね - すばらしい!て言われてみんな拍手をする。 これを見た4時間後にSWを見ることになっていたのでちょっと下を向いて体を縮めた。

Greta Gerwigの待望の新作。 前作 - デビュー作の”Lady Bird” (2017)はご近所コメディらしい手作り感が素敵だったが、今度のは原作がLouisa May Alcottのクラシック、サイレント時代から含めると計7回映画化されているど鉄板厚底ど真ん中の題材を、いけていようがいけていまいが、この世の中で女性である/女性として生きるというのはどういうことなのか、を自らのテーマのひとつとして考え、演じ、監督してきたGreta Gerwigがどう料理するのか、こんなのおもしろくならないわけがないの。

94年のGillian Armstrongによる映画化 – 4姉妹は上からTrini Alvarado - Winona Ryder - Kirsten Dunst - Claire Danes – のキャスティングは、当時としてはこれ以上ない完璧なやつとしか思えなかったのだが、あれから25年(..)経って、今回のキャストもやっぱしすごいよね伝説だよね、って思った。

冒頭は、Jo (Saoirse Ronan)がNYの出版エージェントの扉をくぐって偉そうなおやじに偉そうに原稿を添削されてもっと書いてみろ、ってはっぱかけられるところで、そこから先は7年前あたりとの間を行ったり来たりしながら、姉のMeg (Emma Watson)、下の妹Amy (Florence Pugh)、末の妹Beth (Eliza Scanlen)の4姉妹と、優しい母(Laura Dern)、ちょっと変わったAunt (Meryl Streep)の女性たちが笑って泣いて喧嘩して楽しく暮らしていて、そこに近所のMr. DashwoodとかLaurie (Timothée Chalamet)とかFriedrich (Louis Garrel)とかのメンズがいろんな角度から絡んでくる。 のをJoのお話しが読みたいな、っていうBethの思いに応えるかのように、ひとつひとつ丁寧に吹き出しとか脚注をいっぱい付けて綴っていく。

毎日そんなわいわい楽しいわけないじゃん、なのかも知れないけど映画では底抜けに楽しかった日々も底なしに悲しい時もみんなで一緒だったりふたりでいたりひとりで立っていたり、その瞬間を絵画の美しさ、小説の繊細さでもって近くから遠くから瑞々しく切り取ろうとする。絵画だとSorollaとかSargentとかWhistlerとか(NY Times紙のGreta Gerwigインタビューで名前が挙がったのはSeymour Joseph Guy, Winslow Homer, Lilly Martin Spencerといった19世紀中頃のアメリカの画家たち)。彼女たちの表情、動き、聞き取れない会話の端々に現れる秘密とか秘蹟、その瞬間が。

だからといって耽美なところばかり追った美術館になっているわけでもなくて、ところどころでバカが - だいたいオトコのまわりで - 紙風船のように炸裂したりする。JoとLaurieがダンスパーティが行われている館の外で手を取りあってとんちきな踊りをしてはしゃぐところの楽しさったらない。 (同NY Timesののインタビューで、このシーンはSNLのGilda RadnerとSteve Martinのバカ踊りからだって!)

過去の映画との繋がりは掘ればいくらでも出てくるだろうし、そもそもこの4姉妹のお話そのものがいろんな形で再生とリメークを繰り返してきているものだし、こういうのは永遠とか呼んでよいやつだと思う。

最後にJoの本が出来あがるとこは溜息しかない。本ていうのはその中身も含めてこんなふうに造られてひとりひとりの宝物になって抱きしめられるの。床に積まれていたって宝物なんだから。

Saoirse Ronanさんは改めて、何回でもいうけど、ほんとうにすごいわ。Mary Queenから「かもめ」のNinaからLittle Womenまで、そんなになんでも演じてしまえるものなの?
ここでのTimothée Chalametは、ぐにゃぐにゃとどこまでも得体が知れなくて、まるでVincent Macaigneみたいだなあ、って思った。Louis Garrelもいるしな。

音楽はAlexandre Desplatで、いつもながら凄腕の家具職人のような誂えっぷりがすごくて、Bethの柔らかいピアノの音にずっと寄り添いつつ、姉妹をダンスに誘う。

終わったら大拍手で、出てくる人みんなあったかそうな笑顔を浮かべていた。もう一回見るとおもう。
一旦おうちに戻って次のSWまで1時間くらい仮眠しようとしたのだが、なんかうれしくて全く眠れなかった。

12.18.2019

[film] Frozen II (2019)

10日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。ふつうの2Dで。とっても空いてた。

前作は自身の特殊能力(氷屋)で妹を傷つけてしまったエルザが氷のお城に篭って、その後で仲よくしなきゃと元に戻る、戻っちゃうんだー(やや残念)っていうお話、だった気がする。

冒頭で姉妹の亡き父から、ふたりが聞いた北の北の方にある国で若い頃の父が経験したこと、等が語られる。そこには自分たちとぜんぜん違う民族がいたのだが、何が起こったのか突然土地も含めて深い霧の向こうにその姿を隠してしまったのだと。

ここから現在のエルザ (Idina Menzel)が自分にだけ頻繁に聞こえてくる高音の歌声のような声をなんだろ?と思っていると風が吹いてきて、彼女の国があれこれ機能停止のような状態になって、あの歌声だ!と勘づいたエルザは、妹とトナカイと雪だるまとぼんくら男 - の桃太郎みたいないつもの連中を連れて北の北の方に旅立つの。

そこから先は野を越え山を越えの困難に試練 - ほぼエルザにのみ降りかかってくる - があり、Avengersみたいな服で歯をくいしばってそれらを乗り越えてそ辿り着いてみたところにはー。

自分のパワーがなんで自分だけに? って悩んで自己と周囲を受け容れる過程が描かれたのが前作だったとすると、今作では、そのパワーがどこから来たどういうものだったのかが明らかにされて、その理由を知った彼女はアナ (Kristen Bell)にQueenの座を譲ってその土地に留まる決意をする。

社会化を経て自分の居場所を見つけてそこに落ち着く、という正しいヒトのミチをそのまま辿っているので、たぶん次は、自分のパワーはそもそもなんのために用いられるべきものだったのか、みたいな役割論ぽい話が出てくるのではないか。ディズニーだねえ。

これをもうちょっと民話伝承や歴史も踏まえて社会主義ぽくすると宮崎アニメにおける自然と民、みたいなのになる。 隠れ里とか、一帯を守っている石の魔神みたいのとか、波に逆らって立ち向かう女の子とか、ねえ。

でもなんでこういう映画ってみんな判で押したように Back to where you belong、になっちゃうのかねえ。おれはスナフキンでいい、ってギター1本でノラとして旅に出るのがかっこいいのに。

どうでもいいサイドストーリーとして、ぼんくら男がアナにプロポーズしたいでもできないが延々とあって、あまりにどうでもよすぎるのでかえってその意味を考えてしまったりするのだが、あれは単に例えばこういう生き方もあるんですよ、って示しているのかしら? あれなら”Ice Age”のシリーズでどんぐりを延々追い求めるリス(みたいなやつ)の方がよっぽど楽しいわ。

あと、「水には記憶がある」はやばいやつなのでおとぎ話に(おとぎ話ならなおのこと)導入したらやばいのではないか。 だって水に記憶はないもん。  記憶はないけど、水とか氷のビジュアルは美しくてものすごくお金かかっているかんじがすごい。

音楽は90’sバラードのパロディみたいのが流れて、エンドロールでそれのWeezer versionていうのが流れて、でもあんま笑えないとこがまた..

あのトカゲの子はもうちょっと大きくなるとドラゴンになって、次の3では”How to Train Your Dragon”のシリーズにマージされるのだと思う。 氷 → 水 → 火 (じゅぅ)。

12.17.2019

[film] Ponette (1996)

9日、月曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。もうじき日本でも4Kレストア Blu-ray&DVDが発売されるらしいJacques Doillon監督作。

これは公開された当時 - まだJacques Doillonの名前くらいしか知らなかった頃にNYで見て(評判になっていたから)、こんなのかわいそうすぎるよう、ってぼろかすに泣いたことだけ思いだす。もう20年以上たって枯れたしだいじょうぶかも、と思って見てみたけどだめだった。 一応構えていたので前ほどではなかったけど。

Ponette (Victoire Thivisol)は交通事故でママを失ったところで、その横にいた彼女自身も怪我をしてギプスから出た指をしゃぶったりしていて、パパ (Xavier Beauvois)もつらくてたまらず、とにかくママはもう帰ってこないんだから頼むから泣くな、くらいしか言えなくて、いとこ達がいるおばさんのClaire (Claire Nebout)のところに彼女を預けて仕事でいなくなってしまう。 そのうちずっと大人が見ているわけではないBoarding Schoolにいとこと一緒に送られたPonetteは。

大人たちがいくらママの死を、もう戻ってこないの、もう会えないの、と語りかけてもPonetteにはわからない。まず死がどういうものなのか - 反対側のここにある生ですらどういうものかもわかっていないから、理解できなくて、だから大人たちが「死」という言葉を使ってこのことを説明しても、それはなんでママが自分の見える世界からいなくなって、突然自分と会えなくなってしまったのか、という問いには繋がらない(「神様」についても同様)。 なので今は無理かもしれないけどいつかどこかで会えるに違いないと信じているし、なんとかすれば、よいこにしていれば会えるはずなのだ、だってあたしのママなんだから、ママがこんなふうにあたしを捨てて消えてしまうなんてありえないし。

ここの純粋さは人間のそれというより忠犬ハチ公とか、動物の世界に近いやつの気がして、とにかく頑固で揺るがないのでいたたまれなくて、唯一なんとかできる道があるとしたら、ママがちゃんと言い聞かせることしかないのだな、と。 時間が解決してくれる、とか、しっかり言い聞かせれば、とかいうものではないの。「死」にしても「神」にしてもなにひとつとしてこの小さな子を救ってくれはしない(という大人の世界への批判)。 自分だって夏のお盆になればおじいちゃんは戻ってくるから、とかふつうに信じていたし、それのどこがいけないのか、なんでそれがありえないことだと言えるのか、誰も説明してくれなかったし。

Maurice Pialatの初期作品での子供たちの描き方もこれに近いかんじがして、デビュー作の”L'Enfance Nue” (1968)では孤児院から引き取られて悪いことばかりするFrançoisに対して、あるいは”La maison des bois” (1971)では疎開してきた母のいないHervéに対しても、単に手が付けられない困った子、というだけではなく、善い悪いとか、会える会えないの区別がつかない – それは教育、という仕込みで片付くようなことではなく、そういう子供たちはいるのだ。し、もちろんいてよいのだし、「大人」は彼らと共に生きていく必要があるのだと。こういう生や共生に関わる根源的な問い(あと、神? とか)を投げてくるところが今回のPialat特集に集められた90年代のフランス映画たちにはあるかんじがした。

ということをわかっていてもPonetteの泣き声と泣き顔はつらいわ。

12.14.2019

[talk] Phoebe Waller-Bridge - Fleabag: The Scriptures

もうなにもかも嫌になっているのだが、よくよく振り返ってみればそういう状態がずっと続いているし、それすらももう嫌になっているので、もうどうでもいいや。

8日、日曜日の晩、この日は昼から”Motherless Brooklyn”を見て、”The Cave”を見て、この世の中のすべてが嫌になった状態で、できれば布団被って泣いていたかったのだがそうもいかず(師走は慌しいよね)、SouthbankのRoyal Festival Hallで見ました。

Southbank Centreは毎年秋のLondon Literature Festival - 今年はBrett AndersonとかAnthony Daniels (C-3PO)とか、自分には未知の人が大勢 - を始めとしてトークのプログラムをいっぱいやっていて、ついこの前はHillary Rodham Clinton & Chelsea Clintonが出ていたし、丁度一年前はRoxane Gayが来ていたし、行きたいやつは割といっぱいある。 問題は自分が知っているくらいの有名度の作家だと、チケット発売日にがんばらないとすぐに売り切れてしまうことで、今回のこれもメンバー優先の発売当日にほぼ売り切れてしまい、公演直前に少しだけリリースされたのをなんとか拾いあげた。対話形式のトークだけだが、手話と字幕も付いている。

Phoebe Waller-BridgeさんのFleabagが日本ではどれくらい人気があるのかないのか、ちっともわからない(たぶんぜんぜん、ではないかしら?)のだが、英国ではエミー賞受賞後にさらに跳ねあがって、舞台版を収録したNational Theatre Liveはいまだにぽつぽつ上映されている – なぜかクリスマス映画特集の枠にも入っていたり。

ここにきて”Fleabag: The Scriptures”ていうハードカバーの聖書みたいな本 - トークでもあんたこれホテルの各部屋に置いてもらおうとしてるでしょ、って突っ込まれていた - がリリースされ、このトークはそれの販促もあると思うのだが、会場ではチケットを見せれば本を貰えるようになっていた。 買わないでおいてよかった。

トークの聞き手は”The Guilty Feminist”のDeborah Frances-Whiteさんで、ふたりは2011年の丁度この日(12/8)に初めて対面で出会ったのだそうな。
で、Phoebe Waller-BridgeさんがDeborahさんのやっていたコメディショーで10分のスタンダップのスケッチをやってみたらウケたので、今度はエジンバラ(Edinburgh Fringe festival)に持っていってみたらそこで爆発した、と。

日々の地下鉄や食堂や職場でひとりでボーっとしている時に見えたり出会ったり絡んだり絡まれたりするいろんなヒトやコトをグズグズだらだらいろんな妄想も含めて垂れ流し、その全体を自虐に落とすと見せかけてその手前で掬いあげ、こんなもんだけどそれがなにか? べつにいいよな? っていう。これが言いようのない破壊力と爽快感を呼ぶところがこの人の芸というか”Mind Your Own Business” (Delta 5)というか。

最初に話題に上ったのは、TV版の”Fleabag” – やっていたら見る、程度でしか見ていない - のSeries 2の終わりで、The Priest (Andrew Scott)が最後に言ったセリフについて – あれは友達とみんなで見ていたら全員が凍り付いたんだけど、あれってどういうことだったの? から。

Phoebe Waller-Bridgeさんの印象は思っていたとおりの、ものすごく考えて考えて考えてから書いているので、個々の質問に対する受け答えはクリアではっきりしていて、でもぜんぶ説明しきれるものではないのであわわ、ってなりそうになるとDeborahさんがそれってこういうことよね、って絶妙のフォローを入れる。

いっこ印象深かったのは、2011年から12年くらいにかけて、フェミニズムの動きに今のそれに繋がる大きな変化があって、それまでカウンターカルチャーに近い扱いだったところがより女性の生き方近くに寄ったかんじになって、Fleabagはその流れにはまったのでは? と。 彼女の答えはそこまでストレートなものではないがEveryday lifeに近いところで溜まったあれこれを出す、ってあたりは意識している、と。

今はFleabagのSeries 2の直後に思いついたプロジェクトに妹とふたりで掛かりきりになっていて、それが楽しくてしょうがない、と。 あと、次の007の映画にもちょっと関わっていて、脚本を少し滑らかにしたりとかそういうのをやっている、って(Daniel Craigとも会ったわよふふふん)。

みんなからの質問では、もう成功しちゃったからPizzaExpress(ロンドンでもUKでもそこらじゅうにあるピザのチェーンレストラン)とかには行かなくなっちゃったのでしょうか? と聞かれて、PizzaExpressは大好きだから行く、あそこに行くと誰も他人のことを気にしていないのがすばらしいのだ、と。 こんどPizzaExpress行ってみよう(まだ行ったことないの.. )。

12.12.2019

[film] The Cave (2019)

8日、日曜日の午後、”Motherless Brooklyn”の後に、Picturehouse Centralで見ました。

9月に見た”For Sama” (2019)と同様、市民への爆撃が続くシリアの医療の現場を取材したドキュメンタリー。
監督は、”Last Men in Aleppo” (2017)のFeras Fayyad。場所はダマスカス東にあるGhoutaで、冒頭、街の全景を映し出した静かな映像に突然ミサイルが3つ撃ち込まれて煙にまみれる。

これが日常なので常に怪我人が運び込まれてくる病院は、その地下にCaveと呼ばれるネットワーク状のトンネル穴を掘って深く広く張り巡らせて、子供たちをここに避難させるし、爆撃がひどくなると医師も患者もここに逃げられるようになっている。主人公はここの病院の責任者である医師Amaniで、フィルムの中での誕生会のシーンでは30歳、と言っているので少し驚くのだが、医師全員の選挙を通してきちんと選ばれているのだ - と、こんな女の医者になにができる?女は家で家事をやるもんだろ、といちゃもんをつけてきた男に男性の医師が説明したりする。 

飛行機の音がすると戦闘機? といちいち怯え、爆撃のたびに運び込まれてくる病人怪我人で床は血まみれで鳴き声叫び声が止まない、でも医師は冷静にならなきゃだし患者さんも落ち着いてね、とiPhoneでクラシックを流しながら手術をしていたり。

Amaniはいつも落ち着いていてもの静かなのだが飛行機の音で怯えるし涙もぽろぽろ流すし、戦争が終わったらマスカラ買うんだーとか言っていたり。彼女が誰もいない夜の通りをひとりで歩いていくシーンは本当に寂しそうでつらくて。

もう一人、料理担当の看護婦のおばちゃんがいて、彼女の料理の失敗成功 - 食材が乏しいから - が楽しくて少しだけ場が解れる。(”For Sama”にもそういう人がいた)

でもやはり病院は収容される人が増えれば食べ物も薬も足らなくなるし、衛生状態は悪化し、特にずっと暗いところにいる子供たちは栄養失調に..  など問題はいっぱい出てきて、最後の方に投下されるロシアの化学兵器のところは、恐怖しかない。「怪我をしていないのになんでそんなに苦しんでいるの?」から始まる地獄は、どんなホラー映画もふっとぶくらいにただ怖ろしい。

大人でも子供でも、人に対して(動物に対してだって)なんでそんなことができるのか。石を投げることだっておそろしいのに、鉄の塊とか爆弾とかで殺傷する、それでも足らずにナチスのガス室と同様のことをオープンエアでやる(人だけじゃない、犬も猫もみんな死んじゃうんだよ)。

見ていてとにかくつらいばかりだし、そんなの現地の人たちが見ているそれと比べられるものではないけど、これは見なければいけない。お金を払って見て、その内容を書いて広めて、少しでも映画を作った人のところに支援がいくように、日本のロシア寄り利権がこの地獄に加担していることを少しでも知ってもらうためにも。 日本もアメリカも既にじゅうぶん酷いものだしそこここにいろんな地獄が溢れている今の世の中でも、ここまで酷くて惨いのはないと思うし、アウシュヴィッツや原爆を経てもなおもこういうことは起こりうるのだ、ということ。

最後は”For Sama”と同様、これ以上ここにいることはできない、と病院を出ていくことになるのだが、出ていったから助かる、というものでもないし、こういう場所で病院がなくなる、ということはそこにはもう生はないのだ、と。

エンドロールで、映画の製作中に亡くなられたスタッフの名前(複数)も出てくる。 洞窟の奥からそこまでして届けられたなにかなのだと。  日本でも公開されますように。


UKの選挙、結果を見て吐きそう..  あーあ ...

[film] Sous le soleil de Satan (1987)

4日、水曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。

英語題は”Under the Sun of Satan”、邦題は『悪魔の陽の下に』。原作は1926年のGeorges Bernanosの同名小説  。 カンヌのパルム・ドールを受賞している、誰に聞いてもPialatの代表作のひとつ、と言うであろう1本(かな)。

フランスの北のカレーにあるカトリック教会に若くて修行に励む司祭のDonissan (Gérard Depardieu)がいて、彼の上の司祭(Maurice Pialat)も一生懸命に彼を教育しようとするしDonissanもそれに応えてがんばるのだが、なにが悪いのかなにかが変なふうに捩れていって止めることができない。道端で悪魔と会って取引をして、恋人を殺してしまったMouchette (Sandrine Bonnaire)を救おうとするのだが彼女は自殺して、修道院で修行しなおして戻ってくると奇跡を起こしたりするのだが、それが誰の手によるものなのかわかっているので、悶々どんより疲れて亡くなっているところを発見されるの。

救いとはどういう状態をいうのか、救われさえすれば善も悪もどうでもよいのか、そこにおいて祈りとは、聖性とは、宗教者による規律とか修行とか宗教活動とはどういう意味を持つのか。 Bernanos作品を2本映画化しているRobert Bresson、あるいはIngmar Bergmanのように登場人物の会話や動作が宗教的なシンボルやその顕現に直結する – なので映画を通して神や悪魔の存在とかその意味について考えることができる - そういう描き方をしていないかんじがした。 

殺人も自殺も復活も、すべてはただ生と死の境目を超えて起こってしまった/起こってしまうことであり、そこに神や悪魔は、あるいはDonissanの修業や苦悶その成果は絡んでいるのかいないのか、神様仏様悪魔様などの実存(あんまいそうにない)も含めてよくわからなくて、それは信じている人にはかわいそうとしか言いようがないのだが、だってそうなんだからしょうがないよね、となる。

それがPialatの人の、人と人の間の行為を描くときの基本的な位置というか視座で、だから、かわいそうな人、とか嘆き悲しむ人とか、或いは向こうに遠ざかっていってしまう人、とかは出てくるものの、絶対的な悪とか善、そのありようが傷のようにして刻まれたり膿のように噴き出したりすることは最後までない気がする。どこまで行っても相対的な距離をとることがベースとしてあって、そこに彼の優しさをみるのか、厳しさをみるのかは人それぞれで。 ここまでPialatの作品を見てきて思うのはものすごい斑模様だけど(触らないけど見つめる)優しさがあって、同様の線で見てみるとR.W. Fassbinderはその辺がとても厳しくてきつい、とか。.. そんな気がする、くらいだけど。 (Serge Toubiana氏は”intimidation”(脅し)ではなく数少ない”remorse”(自責)の作家としてPialatを定義していて、その辺かも)

“Loulou“ (1980)でのGérard Depardieu、“À nos amours“(1983)でのSandrine Bonnaire、これらの映画で自由奔放の独尊で生きる主人公を演じていたふたりが、がんじがらめの宗教や愛に殉じる役を演じる、っていうところもなんだかおもしろい。どちらも我々が暮らしている世界の、すぐそこに生きている人たちなの。

12.10.2019

[film] Motherless Brooklyn (2019)

8日、日曜日の昼にPicturehouse Centralで見ました。Jonathan Lethem原作、Edward Norton監督・主演による探偵もの。今年のNYFFのClosing pieceとなった作品で、Opening – “The Irishman”、Centerpiece – “Marriage Story”と比べると上映後の反応がやや静かめだったので大丈夫かしら? だったのだがとてもおもしろかった。 “The Irishman”より好きかも。

舞台は原作の90年代から50年代のNYに移されて、結果探偵ノワールぽくなる。
トゥレット症候群と映像記憶を抱えているLionel Essrog (Edward Norton)は、彼と同僚3人を孤児院から拾いあげてくれたFrank Minna (Bruce Willis)の探偵事務所にいるのだが、ある日Frankとクライアントの駆け引きの場が紛糾して彼は車で連れ去られ、追っていったLionelの前で彼は撃たれて亡くなってしまう。

Frankへの恩に報いるため、彼のコートと帽子を被ったLionelは彼が何を調査していたのか誰とトラブルになっていたのかを追い始めて、Frankが出入りしていたハーレムのJazzクラブの女性Laura Rose (Gugu Mbatha-Raw)と彼女の属する市民グループ、彼らが抗議する先にいる市当局の大物Moses Randolph (Alec Baldwin) - 都市再開発の名の元に古い建物を荒っぽく巻きあげて隔離政策を進めようとしている - に行き当たり、Lauraの父Billy (Robert Wisdom)、Mosesに反発している弟Paul (Willem Dafoe)とも会って調べを進めていくときな臭いことがあれこれ起こって、Lionelもぶん殴られたり脅されたり駆け引きされたり。

Lionelには先天性の障害があって、思ったこと閃いたことがそのまま反射的に口に出てしまったりして、それが彼の捜査の進行に独特のリズムというか拍を持ちこんで、そこに50年代のハーレムのJazzが絡んでいくとやばさ気まずさ後ろめたさも含めたクールネスが際立って、(こういう言い方が正しいのかどうか、だけど)よいの。

ノワールとしてどうか、というと背後にある奴がでっかくて間抜けでみっともないので、そういうドラマにはあんまり向いていない題材だったかも。Alec Baldwinは彼のTrump芸をほぼそのままのように流していて、それが違和感なく整合してしまう。そういう時代、でいいのかしら? (Moses RandolphのモデルってRobert Mosesなのね。ふうむ)

感触としては、Wes Andersonの“The Grand Budapest Hotel” (2014)とか“Isle of Dogs” (2018)の辺りとか(俳優も結構重なっている)。Motherlessで傷を負った子供や犬達が過去の恩義を背負って大きな陰謀や歴史の流れに挑んだり「父親」に抗おうとするドラマ。 背景を50年代のNYに置いた作り込み感(高い場所とか隠し札とか)もこの辺を意識したのではないかしら。 原作があるのでしょうがないけど、もっと変な人がいっぱい出てきたり、マジック・リアリズム的な出来事が降ってきたりするともっとおもしろくなったかも。

という見方もできるし、”The Irishman”と同様にいまのアメリカ(の都市)はこんなふうにできていった – 表社会と裏社会のせめぎ合い - その対流を生んだ理念とか起源を辿る旅の映画、として見ることもできるのかもしれない。そういうテーマと時代を追ったものがなぜ今、というのは...

Thom YorkeとFleaによるテーマ曲はふつうにJazzしててよいのだが、Daniel Pembertonによるサントラも悪くないの。 こないだの“The Cool World“ (1963) のように、背後でずっとバンドが演奏していて切れ目になんか喋る、くらいでもよかったかも。

俳優はみんなうまいしアンサンブルも含めて申し分ない。けど、(これはWes Anderson映画でも感じることだが)基本的に男の(男の子の)世界の物語なんだよね。

12.09.2019

[film] N'oublie pas que tu vas mourir (1995)

7日、土曜日の夕方、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。英語題は“Don't Forget You're Going to Die”。
”Les gardiennes” (2017) - “The Guardians” - 『田園の守り人たち』 - がすばらしかったXavier Beauvoisの監督/主演作で、同年のカンヌの審査員賞とジャン・ヴィゴ賞を受賞している。撮影はCaroline Champetier。
これ、ものすごくおもしろいのに日本公開はされていないの? 

大学で美術史を教えたりしているBenoit (Xavier Beauvois)はどん詰まりで精神科医(Pascal Bonitzer)から薬を貰ったりしているけどだめで、母(Bulle Ogier)も心配しているので軍隊に入ってみたりするが逆効果で馴染めなくて錯乱して、トイレで腕を切って自殺しようとしても失敗して病室で横になっていると医者が来て君はHIVウィルスに感染している、といわれる。それで自棄にドライブがかかって、警察に持っていかれた車を取り返そうとして留置場に送られ、そこでヤクの売人のOmar (Roschdy Zem)と知り合って仲良くなり、ヤクがもたらす快楽の世界にはまり込んでいく(変な着物を着たやくざの大親分役で先日亡くなったJean Douchetが..)。 深入りして更に稼ぐためにオランダにまで足を延ばしてそこそこの金を得るのだが親の顔を見たら恥ずかしくなってまた逃げて、ローマで絵を見ているとClaudia (Chiara Mastroianni)と出会って恋に落ちて、夢のような時間を過ごすのだがやっぱり無理、って電車に乗って国連軍が駐留している土地に行って軍に雇われて銃撃戦で突撃してしんじゃうの。

基本は先行きのどん詰まりとその少し先にはっきりと見えてしまった崖底の死があり、やけくそで落ちたり揚がったり錯綜した行動のありようは自閉してアンストッパブルになった「気狂いピエロ」のようでもある。

「どうせ死んじゃうんだってことを忘れるな」って言われたり自分に言い聞かせたりするとき、そこで取りうる行動は、周囲の迷惑を省みずにやりたい放題やるか、周囲から遠ざかって誰にも知られないところに消えるか、だと思うのだが、Benoitはそのバランスをうまくとって、顰蹙と内省を繰り返しながら時の経過と共にどんどん透明になっていくように見える。

彼が美術史の講義で、バイロン(の”Sardanapalus”(1821))を参照しつつドラクロアの”La Mort de Sardanapale” (1827-28)  - 『サルダナパールの死』の画面と色彩を通してロマン派における死を解説しながら、もうやってらんねーわ、ていうかんじで途中で止めてしまうところとか、なんかよくわかる。

そして同じ映画か、というくらいトーンが変わって陽の光に溢れるローマで紡がれていく生の瞬き、教会の絵もひまわりもパスタも、そしてClaudiaも、すべてが眩しくておいしくて、Benoitはあそこに浸ることでロマン派的な死の影から抜けだすことができて、自由を獲得できたのではないかしら。

音楽はJohn Cale。前半は静かなピアノソロで、ローマのシーンでは弦が全面に出てくる、その並走していくさまも素敵で。

あのフラットはJean Douchetさんの自宅なのかしら?

90年代初のHIVに感染した大学生、というと昨年見た”120 battements par minute“ (2017)が思い起こされるのだが、あの映画とはトーンも雰囲気もぜんぜんちがう。あたりまえかもだけど。

[film] Charlie's Angels (2019)

3日、火曜日の晩、Leicester Squareのシネコンで見ました。

監督・脚本は出演もしているElizabeth Banksさん。楽しそうに撮っているかんじ。
巷のレビューは全然よくなさそうなのだがElizabeth BanksだしKristen Stewartだし、見るよね。

冒頭が顔見世的なリオでの活劇で、このどんぱちをもっていろんなAngelsを育ててきたJohn Bosley (Patrick Stewart)は引退して、世界中にいるいろんなBosleyから祝福されている。(Bill Murrayでいいのに)

この時点でAngelsはSabina (Kristen Stewart)とMI6あがりのJane (Ella Balinska)のふたりで、Calistoっていう人類を壊滅させる可能性をもったやばいデバイスの行方を巡って大企業の悪い奴らと、それを開発したエンジニアのひとりElena (Naomi Scott) & Angelsとの間で駆け引きが始まるのだが、John Bosleyの後任のBosleyはすぐ殺されて、次のBosleyとして Rebekah Bosley (Elizabeth Banks)がきて、みんなで戦うの。それだけなの。 Mission Impossibleなかんじはあんまない。やりゃあいいんだろ、くらい。

70年代に始まったこのドラマはCharlieっていう顔の見えない司令官(男)とその命を受けた現場の指揮官Bosley(男)とその下で「男勝りの」活躍をするAngels、がいて、「女なのに」やるねえ痺れるねえ(鼻の下)、ていうのが伝統的な構図として延々あった気がするのだが、こんなのは今の時代には通用しねえんだよハゲ、っていうの。

Bosleyは世界中にいっぱい生息していて代替可能だし、Angelsにしてもそうだし、先代のAngels - Drew Barrymore, Cameron Diaz, Lucy Liuのトリオにあったような見て見て!の愛嬌みたいのはゼロなの。 Sabinaはずっとぶすっとして腹減ったーばっかり言っているし、Janeはトレーニングばっかりやっているし。ドラマは上に言われるままに技術を追っていたエンジニアのElenaがAngelsたちと接していく過程であたしもAngelsになって悪い奴らをやっつける! って目覚めるまでを描いていて、そういう女の子たち全員へのメッセージになっていて、それでぜんぜんよいし、もっとやっちゃえ、くらいに思った。

あとは、The Saintっていう007のQみたいなテクと癒し担当の男子がいて、執事というか下僕というかでなんでもケアしてくれるから、いいなーしかない。

Kristen Stewartは笑っちゃうくらいにKristen Stewartなので彼女のファンは必見。彼女の前職はPersonal Shopperだったんだって。

男性評論家どもはこんなの僕ら(こいつらがよく言う「僕ら」ってなんなの?だれ?)のエンジェルじゃない、とか言って酷い点を付けるのだろうが、構うもんか、シリーズにならないかもしれないけど、気にすんな、でよいと思う。

こないだTVでDrew Barrymore - Cameron Diaz - Lucy Liuの時代のをやっていたので久々に見てみたけど、これはこれで悪くないの。00年代のおめでたさバカバカしさがよくもわるくも全開(フルスロットル - フルスロットルが許された時代)で。

あと、夢企画としては、彼女たちとWild Speedの連中を戦わせてみたいな。

12.08.2019

[film] Romance on the High Seas (1948)

2日、月曜日の晩にBFIの”Musicals!”特集のなかでやっているDoris Day小特集、で見ました。 とってもきれいな35mm - Technicolor dye transferプリントでの上映。

英国での上映タイトルは劇中の挿入歌が既にヒットしていたので、”It's Magic”になっている。邦題は『洋上のロマンス』。
これがDoris Dayのデビュー作で、今回の特集では彼女の“Calamity Jane”(1953)のシンガロング上映とかもあって、これはどうしてなのかわからないけど、あっという間に売り切れていたり。

主演女優は、初めにMGMからJudy Garlandを借りようとしていたのだが、彼女は「個人的な事情」で出ることができず、次にBetty Huttonのところに行ったのだが、彼女はご懐妊していることがわかり、最後にバンドで歌っていた23歳のDoris Dayのところにオーディションの依頼が行ったそう。

冒頭は社交家Elvira (Janis Paige)と実業家Michael (Don DeFore)の結婚式で、互いにこいつそのうち浮気しそうだよな、て呟いたりしている。と、1回目のアニバーサリーの旅行も2回目のアニバーサリーの旅行も延期されたりキャンセルされたりで、3回目もか、と思ってElviraが彼のオフィスに行ってみるとMichaelはぱりっとした秘書と仲よさそうにしていて、そしたら案の定仕事の事情で延期とか言ってきたので、頭きた彼女は今度の旅行は自分ひとりで行くからって宣言して、NYに残ってこっそりMichaelを監視することにする。

というわけで、彼女はクラブで歌っていたGeorgia (Doris Day)をスカウトして、自分のなりすましとして南米へのクルーズに行ってほしい、費用は全部持つしお金もドレスもいくら使ってもいい(いいなー)けど、あたしの名前を使うんだからできるだけ部屋からは出ないで評判を落とすようなことはぜったいにしないでね、って。

他方で、Michaelの方も妻がひとりで旅行に行っちゃうなんておかしい誰か相手がいるに違いない、と私立探偵のPeter (Jack Carson)を雇ってクルーズ船に潜りこませて、妻 =実はGeorgia を監視するように依頼する。

こうして、豪華客船と停泊地のハバナ 〜 トリニダード 〜 リオと南の海をまたいでとんちんかんな監視・追跡劇が始まるのだが、そこに歌とダンスがあれば勝手に体が動いて歌いだすことを止められなくなる根っからの歌い手Georgiaと、彼女を監視対象として追っていたPeterが恋におちてしまい(互いにそれだけはぜったいやってはあかん、ってわかっている)、更にはクラブ時代からGeorgiaに想いを寄せていたピアノ弾きのOscar (Oscar Levant)も彼女を追っかけてきて、Peter→Michaelの、Georgia→Elviraの電話報告の様子がとってもあやしくめちゃくちゃになり、MichaelもElviraも別々に現地(リオ)に乗りこむことにしたものだから、クライマックスは関係者がぜんぶ揃ってなかなかとんでもない事態になる。もちろんハッピーエンドなの。

筋だけ書いていても十分おもしろいけど、これはミュージカルなので歌も踊りも楽しめて(ミュージカルパートの監督はBusby Berkeleyなんだよ)、船のバンドとか停泊地の楽隊に(言葉はわからなくても)Georgiaが寄っていって押したり引いたりしつつ緩やかに歌いだすところは素晴らしすぎるし、”It’s Magic”なんてタイトルそのままに見張っている探偵だって簡単に落ちてしまうのは当然。

彼女の歌のロマンティックな時には優しくゆるゆるに揺らしてとろけさせて、攻める時にはどーんとぶち込んでくる緩急がてんこ盛りで、デビューの頃からとうにDoris Dayなのだった。これじゃ人気でるよね。

12.07.2019

[film] The Nightingale (2018)

1日、日曜日の午後にCurzonのBloomsburyで見ました。

監督は“The Babadook” (2014)のJennifer Kentさんで、ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞している。
”The Babadook”の数千倍こわくてきつくてどんよりする。

フィクションではあるが、Jennifer Kentさんは英国の植民地政策時代のタスマニアで原住民のアボリジニや本国から連れてこられた囚人に対して英国軍が何をしたのか何がなされたのか、リサーチを重ねた上で作っているので実際にあった可能性の高い or それらの組み合わせ、として見てもよいのではないか。

1825年、Black Warの時代のタスマニアで、囚人としてアイルランドから連れてこられたClare (Aisling Franciosi)は夫と赤子ときついながらも下働きや歌うたいをしながらなんとか暮らしていて、でも軍の中尉Hawkins (Sam Claflin)からは性的嫌がらせを頻繁に受けていて(夫には言えず)、でも刑期を終えても国に戻してくれる気配がないので文句を言ったりしたら、酔っ払った軍の連中に夫の前でレイプされて夫も赤子もその場で殺されて自身も気を失った状態で放り出されてしまう。

Clareが目覚めると連中は既に本隊の方に向けて旅立っていたので、復讐に燃えるClareは彼らを追うべくそこにいたアボリジニのBilly (Baykali Ganambarr)をガイドとして雇って、ふたりは森の中を野宿したり食べ物を盗んで追われたりぶつぶつ喧嘩ばかりしながらHawkinsの小隊を追っていく。はじめは互いに嫌悪と憎悪の塊になっていて会話にならないくらいだったのだが、Billyの家族も全員殺されていること、Clareはアイルランドから連れてこられていること等を話していくと、ふたりの距離は少し縮まり、レイプと殺し(含. 子供)を繰り返しながら進んでいく鬼畜のHawkinsの小隊との距離も狭まっていって..  でもClareは近くに寄っても銃を撃つことができなかったりいろいろ新たな苦しみも重なってきて、果たしてClareとBillyは連中に復讐することができるのか。

でもここでは復讐は(Trantinoがやるような)メインのテーマではないの。 自分たちの土地を追われ、家族や民族全てを失い、自分たちの言葉すらも絶滅する手前にあるBillyと、自分たちの土地から引き剥がされ未開の地に連れてこられ、家族を殺され、ゲール語を話すClareという国の政策に全てを奪われすり潰されている彼らがどんな目をしてこちらにいる我々を見つめるのか、それでも彼らは共に戦うことができるのだろうか、という映画なの。 彼らはあの後どうなったのか?

”The Babadook”にも出てきた、この世に確実に存在して決してなくなることなく襲ってくる邪悪でどす黒い、すぐそこにいるなにか(悪)、をこれでもかと塗りたくりつつ、反対側で歌うたいでもあるClareの澄んだ歌声や楽しかった頃の家族の思い出を挟んで、救われなさがどこまでも際立つ。

侵略戦争なんて、植民地化なんて元からこういうもの、他の国でも、いつの時代でも行われてきたこと、あるいはClareやBillyに復讐しても家族は戻ってこないよ、という言い方をすれば許されたり、何かを言った気になるのであればこんなおめでたいことはない。これは間違いなく今の世の中でもなかったこと見なかったことにされ(歴史を改竄され)、思考すらも放棄され放置され続けていることで、こんなことが許されていいはずがあろうか、ということを容赦なく叩きつけてくるの。

最初に書いたように見終わるとほんとうにぐったりするのだが、でも見た方がよいとおもう。

12.05.2019

[film] The Shop Around the Corner (1940)

11月30日、土曜日のお昼、毎年恒例のクリスマス映画特集が始まったPrince Charles Cinemaで見ました。 これもその特集からの1本。 35mmフィルムでの上映。邦題は『桃色の店』(もういっこあるらしいけど、こっちでいい)。

何回でも何回でも見返したくなるErnst Lubitschの名作で、VHSも持っていてもう何回も見ているのだが、クリスマスが近づくとなんだか見たくなる。”Meet Me in St. Louis” (1944) なんかもそういう1本かも。 昨年は”It’s A Wonderful Life” (1946)の4Kリストア版で盛りあがっていたが今年はそういうのあるのかしら?

ブタペストの街角にある革製品のギフトショップで働くAlfred (James Stewart)はやかましい店主のMatuschek(Frank Morgan)の下でなんとかやっていて、強引に店に雇われにきたKlara (Margaret Sullavan)とか他の店員との仕事上のあれもこれもまったくもう!なことばかりなのだが、唯一の希望は文通している彼女のことで、彼女との手紙のやりとりの中でのみ自分はほんとうの自分になれて、彼女のほうもそうなんだろうな、と感じることができるし、それがあるからたぶんそのうち(もうじきクリスマスだし)彼女に会えるし会いたいから、そこをめざしてなんとかやっていくんだ、って。

それにひきかえさー、といちいちカチンとくるKlaraの態度とか見るたびにあーあ、になって、でもなんとか文通の彼女と対面すべくやってきたカフェで妄想のなかにいた彼女がKlaraであることがわかった時のAlfredの挙動とかほんとうにおかしくて、James Stewartうまいなー、って。このカフェの場面の期待が気球のように膨れあがってクラッシュしてそれでもなんとか持ちこたえて.. の彼の乱高下と彼女の平熱応対のところ、映画史上に残るくらいすごい場面だと思うんだけど。

こうしてクリスマスなのに、クリスマスに向けた大作戦は失敗に終わり、でもクリスマスだから起こることは起こるべくして起こる。それがふたりだけでなくてブタペストの街角の小さなお店ぜんぶの、みんなに向かって起こる。それこそがクリスマスというやつのスーパーパワーで、このテーマを宇宙規模にまで拡げてみせたのが”It’s A Wonderful Life”なの。

この辺、昨今だと誰かと会う – 特にデートとかの – 時って互いのプロファイルを全開にして事前情報として押さえて- 知っておかないとやっぱ怖いし危ないし – だからこういうことが起こりにくいのかも知れないけど、ほんの20年前、“You've Got Mail” (1998) の頃だとまだこういう大冒険みたいなスリル満点のでんぐりが起こる可能性はあったのよね。 “You've Got Mail”はこの映画のリメイクというほどではないが影響下にあると言われていて、公開当時はそりゃないよ、て思ったものだが、最近TVで見直したら、そんな悪いかんじはしなかったかも。

これSNS禁制となった近未来でリメイクするとしたら主役のふたりは誰かなあ、とか考えることがあって、男性はほぼAdam Driverではないか、と思うのだが、女性のほうは誰かしら? って。 やはりMeg Ryan 的な女優の不在って大きいねえ。Daisy Ridleyでもいいけどさ(ずっと仲がいいのか悪いのかわかんないままのあのふたり)。

ところで、“Fairytale of New York”がUKでもっともポピュラーなクリスマスソングだったという記事。 “Last Christmas”じゃないのか..?   そしてSladeが入るのもすごい。

https://www.theguardian.com/music/2019/dec/04/fairytale-of-new-york-uk-most-popular-christmas-song-pogues-accusations-homophobic-slur

あと、このリストの1位はあんま納得いかない。 2位と3位はなっとく。

https://www.theguardian.com/music/2019/dec/05/the-50-greatest-christmas-songs-ranked

12.04.2019

[film] Knives Out (2019)

11月30日、土曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。”Looper”(2012)、“Star Wars: The Last Jedi” (2017)のRian Johnsonの新作。 邦題は子供向け探偵アニメみたいなのが付いててバカっぽいけど、ああいうのとはぜんぜん違う。名探偵が鮮やかに謎を解いてみせましょう、みたいなのではないの。

大金持ちの犯罪小説作家 - Harlan Thrombey (Christopher Plummer)が自分の邸宅で85歳の誕生パーティを祝った翌朝、屋根裏のような自室で首を切って亡くなっているのが見つかった。果たして自殺なのか他殺なのか? 自殺ならなんで? 他殺ならだれが?

その時に屋敷内にいた主な人々(多くはその屋敷内に暮らしている)は、娘のLinda (Jamie Lee Curtis)とその夫のRichard (Don Johnson)、その息子で不良孫のRansom (Chris Evans)、亡くなった息子の妻/義娘のJoni (Toni Collette)、末息子でHarlanの出版元を管理経営しているWalt (Michael Shannon)、Harlanの身の回りの世話をしているナースのMarta (Ana de Armas) 、あと"Great Nana”と呼ばれて殆ど動かない地蔵のようなHarlanの母がいる。

で、ここにどこからか探偵のBenoit Blanc (Daniel Craig) – 彼は誰が自分を雇ったのか知らない、郵便受けに札束が放り込んであったから、という - と警部2名が現れてひとりひとりからその晩になにがあったのか聞き取り調査をはじめる。

それぞれの供述と、探偵に語られているのかいないのか定かでないのだが見たこと聞いたことに基づいたその晩の出来事が順番に映像として流され組み合わされて、通常の推理ものだと、それぞれで映し出された記録がどこかで食い違っていたり辻褄が合わなくなったりしてきて、ではここを掘ってみましょうか、になると思うのだが、この映画の場合にはそれがなくて、全員の語ること見たもの聞いたものはどれも整合しているようで、それが時間の経過と共に順番に明らかにされていく、探偵はそのひとつひとつを追って検証していく、勿論それらを見渡す深さとかその先を見たり峻別したりする目はあるようなのだが、所謂名探偵による謎解き、とはちょっと違う展開のやつ、というかんじはする。

どちらかと言うと屋敷内にいる雑多な人々が当主の死とそれに続く遺産相続を巡って各々の本性を徐々にむき出しにしてどろどろ喧嘩を始める、そのどたばたのアンサンブルを描く、アルトマン映画のようなところを狙ったのではないか。というふうに見てみると、一代で財をなしたワンマン経営者とその傘の下で同様に肥大して腐ってしまった一族の面々、その家に雇われて大事にされている献身的な(不法滞在)移民の娘、って、奴隷制の時代から余り変わっていないありそうな構図が見えてきて、そういう中で浮かんでくる犯人像もまあそうだろうな、くらいなので、飛びだしナイフのようなショッキングな結末とか、そういうのは来ないの。ちょっとしたツイストが入るくらい。 隔絶された異世界のからくり迷宮屋敷を舞台にしたどんでんミステリー、というより割とそこらに転がっていそうなありそうなご家族抗争物語、みたいな。

でもご覧のようにキャスティングはド豪華なので、それぞれの演技合戦をお正月映画のように眺める、だけでじゅうぶん楽しむことはできるからよいのか。 欲を言えば一族内部のぐさぐさした憎み合い刺し合いがもっとねちねちかつやかましく表に出てきたらおもしろくなったのに、というかそういうとこをもっと見たかった。

お屋敷のからくりはそんなに大したことなかったけどインテリアとか小物類は素敵なやつがいっぱいで欲しくなる。老作家(しかも犯罪小説作家)絡みのミステリーなのだから積んである本の奥からいろいろ湧いてきてほしかったなー。

12.03.2019

[film] Passe ton bac d'abord… (1978)

11月10日、日曜日の午後、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。 英語題は“Graduate First”。(今回のPialat特集のタイトルはすべて仏語の原題なの。CMもなくていきなり始まる)

タイトルは小津の『大学は出たけれど』(1929)を意識したのでは、と配布されたノートにはあったけど、どうかしら?

ランスの町で卒業を前に今度どうするのか、地元で就職するか、ここにはなにもないのでパリに働きに出るか、無理だろうけど勉強してバカロレア受けてみるか、しょうもないけど結婚するか、などなどの選択を前にうだうだ集まっては飲んでだらけてくっついたり離れたりを繰り返すティーンの若者たちを追う。親たちの方も自分の娘が連れてくる彼とかにはらはらしたり、そう簡単に開けたり収束したりするわけのないひとりひとりの今後や境遇を拾いあげていく。 卒業に向かう開放感や将来への希望なんて彼ら全員に聞いても「ない」だろうし、でもだからといって絶望して犯罪とか自殺とか、そっちの方にも行かない。好きに動いたり動かしたりしてほっといているかんじ。

その辺の子供に対する距離の取り方はデビュー作の”L'Enfance Nue” (1969)の頃から変わっていないようで、結果的に薄らと(ほんとは)みんなよいこ、って感じる。

浜辺で馬を連れていたお金持ちの女の子、パンクが好きだと言って下着が豹だか虎だかになってて、素敵ったら。

La gueule ouverte (1974)

11月2日、土曜日の夕方、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。 英語題は“The Mouth Agape”。

上のひとつ前に撮っている作品。撮影はNéstorAlmendros(やはりすばらしいわ)。

Monique (Monique Mélinand)は病院に通っていて、息子のPhilippe (Philippe Léotard)とは普通に会話していたのに突然倒れて、医者からは長くは続かないでしょうと言われ、始めは病院のベッドで看病して、延命は無理、となってからは自宅に戻っての介護になる。自宅は洋装雑貨を売っているお店で、夫のRoger (Hubert Deschamps)はぶつぶつ看病しながらも店に来る女性に手を出そうとしたり、Philippeも妻のNathalie (Nathalie Baye)がいない隙に浮気したりしてて、彼らの隣で死にゆくMoniqueはほぼ死体のように横たわってそのまま静かに亡くなっていく。一見、ここまでのPialat作品 - 家族のなかで彼らを引っ掻き回そうとする子供がいたり、夫婦間で終わりのない喧嘩ばかりしていたり、といった騒々しさと比べると余りに静かでちょっと異質に見えるのだが、ホラー映画の形相で横たわりながらもMoniqueは家族のひとりとして間違いなくそこにいて、そういう形で引っ掻き回しているのだな、というのがわかってきて、亡くなった後のしんみり静かなお別れも、車で去っていくところも、生者も死者も変わらないような落ちついた空気がある。

車で去っていくラストシーンって、Pialatの映画ではよく見られるのだが、この映画のそれがいちばん沁みたかも。

11月のPialat特集はここまで、12月からのPialat特集は後期の、巨匠と呼ばれるようになってからの有名なのばかりなのだが、行けたら行くよ。行きたいよ。

[film] La fille seule (1995)

11月26日、火曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集で見ました。英語題は” A Single Girl”。
これはPialatの監督作ではなくて、監督はBenoît Jacquot、撮影はCaroline Champetier。

冒頭、カフェでピンボールとかしながら不機嫌そうにだれかを待っているRémi (Benoît Magimel) がいて、そこに現れたのはやはり電車が遅れて不機嫌そうなValérie (VirginieLedoyen)で、ふたりの会話からRémiは職がなくてぷらぷらしていることがわかり、なんだか険悪なかんじなのだが、Valérieは彼の子を妊娠していることを彼に告げると、すたすた小走りで職場に向かってしまう。

その職場はホテル(結構大きめのチェーン系の)で、制服に着替えてルームサービスを担当するセクションに行くと、この日が彼女の勤務初日であることがわかるのだが、そこから先は職場の同僚との摩擦に衝突 - 味方になってくれる人にセクハラしてくる男、やさしいと思ったら突然切れたりしてめんどうな人、食事を運んで行った先での客とのいろんなやりとり – “The Chambermaid” (2018)を思いだして少しはらはら - があり、契約書にサインするときの女性上司からのカチンとくる言われっぷり、などなどが続いていくのだが、彼女はタフでへっちゃらで何をどう言われたって構うもんか、客もサービスもどうでもいいわ、なの。でも唯一、気にしているのが自分の母親のことで、客がいない部屋に入ってそこからこっそり電話して話をしたりする – でもその会話はお母さんもう構わないで心配しないでだいじょうぶだから、ていうのばかり。 これらがホテルの四角く曲がっていく廊下や部屋や階段やエレベーターを目まぐるしく通過しながら(惨劇の予感も少し孕みつつ – なんもないけど)転がっていって慌しい。

90年代に割とあった気がするなにがあっても負けないもん、系のドラマのようだがウェットな場面とか、がんばれ、みたいな説教臭い場面は一切なくて、Valérieのつーんとした佇まいとまっすぐな眼差しがいろんなゲスを蹴散らしていくのが心地よくてかっこいいと思う。

勤務先をちょっとだけ抜けてのRémiとのやりとり(彼は結局ずっとだらだらカフェにいる)も、とにかくあんたの子だけど、あたしは生むから、ってそれだけ。うだうだ言ってるんじゃねえよ、行くよ、って。

最後の公園の場面、髪をばっさり切ったValérieと突然その横に現れる彼女の赤ん坊と、これもやや唐突な彼女の母親とのやりとりの爽やかなことときたら別の映画のようで、ここにきて”A Single Girl”ていう言葉がそのイメージと共にすーっと入ってくる、のがよいの。

ここにべつにフェミニズムとか置かなくても(もちろん置いてもいいけどさ)、彼女は彼女ですたすた行っちゃっていいんだから、いいのかな、って。

12.02.2019

[film] The Cool World (1963)

11月25日、月曜日の晩、BFIで見ました。BFIでは10-11月にShirley Clarkeの小特集 “American Independent: A Focus on Shirley Clarke” : “The Connection” (1961)とか “Portrait of Jason” (1967) とか“Ornette: Made in America” (1985)とかその他中短編たくさん - をやっていて、自分としては何が何でも必見、のはずだったのだがいちいちしょうもない予定とぶつかってどうしようもなくて、結局見れたのはこの1本だけだった。

6月にBarbican Cinemaで行われた特集- “Bebop New York”でも当然のようにかかっていたShirley Clarkeの代表作。 上映前に彼女の娘のWendy Clarkeさんによるイントロがあった。 この作品は映画のことがまだ何もわからなかった自分(まだ10代だったそう)にとってキャスティングから撮影終了まで映画製作のプロセスに一通り関わることができた最初の作品で、キャスティングで地元の子供たちといろんなやりとりをして遊んだのはよい思い出だった、と。(でもあの子たちってみんな地元のギャングの子供たちだって後から聞かされた..  とか)

The Library of Congressのとてもきれいな35mmフィルムによる上映。プロデュースにはFrederick Wisemanの名前がある。原作は59年のWarren Millerによる同名小説で、翌年にMillerとRobert Rossenによって舞台化されてフィラデルフィアとNYで上演されている。

60年代のハーレムで、そこの通り沿いに暮らす若者たちのいろいろ - バスで遠足に行ったり、ギャングになりたくて偉そうなのに寄っていったり、銃を手にしたり、ストリートとアパートの屋内を行ったり来たりしつつ、大勢の若者が集まると粋がりの諍いが始まってやかましくて -  といった片隅のドラマがcinema veritéスタイルのライブ感たっぷりで活写されていて、そこにMal Waldron – Dizzy Gillespie 演奏による楽曲が重ねられると、バカみたいだけど”The Cool World”としか言いようのない世界だわこれ、とか思う。 原作が書かれた59年にこんなふうに形容される”Cool”って既にあったのだろうか?   ジャズがかかっているところ以外の喋りのパートは声が後からあてられていて、たまにぷつぷつ鳴る音も入って、そういう突っかかりも含めてリズムが刻まれて、そのリズムの向こう側に世界が広がっているかんじ。そこの湿度はどれくらいで風が吹くとどんな匂いがしてどんな音が聞こえてきたのか、夜が近づくにつれて季節が変わるにつれてそれらはどう変わっていったのか、アパート長屋は水漏れとか断水とか停電とかそういうのはなかったのかしら、とか、そんな想像の世界に連れていってくれるかどうか、が自分にとってのThe Cool Worldになるかどうかの境目で、それらも含めてかっこいいとしか言いようがない。30代前半でこんなのをさくっと(そんな気がする)作ってしまったところも含めて。あと、“Bebop New York”でも取り上げられた当時の監督たち、アーティストとの交流とか、どんなだっただろうねえ。

あと、アイスクリーム・トラックのチャイムって、この頃から既にあの音だったのね.. とか。

[film] Making Waves: The Art of Cinematic Sound (2019)

11月17日、日曜日の午後にCurzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。映画における音/音響の製作に関わるドキュメンタリー。めちゃくちゃおもしろかった。

人間の知覚で最初に生まれるのは聴覚なのです、胎児は聴覚(≠視覚)を通して最初に世界はこういうもの、という感触を掴むのです、音はそれくらい重要な要素なのです、という導入。

映画で使われる音はどんなふうに作られたり加工されたりあてられたりしているのか。この分野の大御所のWalter MurchやBen Burtt、SpielbergのSound Effect担当のGary Rydstrom等の代表作(監督の側からのコメントもあり)で、彼らが作って被せた音のいくつかを紹介しつつ、それらがいかに映画のダイナミズムと不可分でその迫力とか雰囲気作りに貢献しているか、等が紹介されていく。”Saving Private Ryan”(1998)の冒頭20分の音はあそこだけで2週間掛けているとか。

映画から聞こえてくる音の構成要素をVoice, Special Effect, Musicに分けて、更にVoiceをProduction Recording, Dialog Editing, ADR (Automated Dialogue Replacement)に分解して、Special EffectをSFX, Foley, Ambienceに分解して、それぞれでこんなことを、こんなふうにやっています/やってきました、という例示がいっぱい。もちろんMusicは当然あって、最後にこれらをオーケストレートするMixingのことも忘れないでね、と。

個人的に映画の音を最初に明確に意識したのはもちろん77年の”Star Wars”で、Ben Burttさんの名前はこの頃から知っていて、やっぱりああいう人だったのね、とわかって嬉しかったし、あとはいろんなネタがたっぷりで感心することばかり。 “Top Gun”(1986)のジェット機の音は実際の音はうるさくて使えないので、動物園で録ってきた音を使ったとか、劇場でずっとモノラル再生のみだったのをステレオ再生式に変えたのは”A Star Is Born” (1976)の時で、Barbra Streisandはこれのために$1 Milを自分のお財布から出してて、でもお金は返してもらってない、とか。

“Apocalypse Now” (1979)のサウンドスケープに大きな影響を与えたのが富田勲の『惑星』(1976)だった、と。冒頭のあのヘリの音の遷移はあれだったのかー! とか。『惑星』って出た頃に聴いて再生はしょぼいラジカセだったけど夜中、すごく怖くて気持ち悪くなったのよね。

映画の映像を通して目に見えるもの、についてはこれはセット、これはロケ、これはCG/SFXって目に見えるけど(勿論、見えるからわかる、それってなぜ? っていうのはそれでいっこのテーマだとは思うけど)、音については目に見えない分、背後ですごいアーティスティックな努力と労力が注がれているのはわかって、今回紹介されたのはその一端の数例で。

もう少し知りたかったところは、少しだけ触れられていたDolbyとかの音響技術やデジタル化がどこでどんなふうに適用されて、どの辺がブレークスルーになったりしたのか、とかそのへん。

あと、日本の映画でも特撮を始め音への執着は相当にあったはずなので、同様の歴史を追ったものがあったら見たいな。

12.01.2019

[film] Sorry We Missed You (2019)

12月だねえ。
11月28日、水曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。 今年のカンヌでパルムドールを獲った作品。 邦題は..  外れていないとは思うもののそれを言ったら終わりじゃないの、だと思う。ストレートに「ごめん我々にあなたは見えなかった」とかでもよかったのでは。

“I, Daniel Blake” (2016)に続いて、監督Ken Loach、脚本Paul Lavertyによる今の英国社会のどん詰まり諸問題を描いていて、見ていてとても辛い。 “I, Daniel Blake”と同様、はじめは真っ黒の画面の奥から会話だけが聞こえてくる。夢から目覚めるときのような。これは夢じゃないから、と言われているような。

冒頭、イギリスの郊外に暮らすRicky (Kris Hitchen)は宅配ドライバーになろうとしていて、フランチャイズだから雇用契約はないよ、定額の給与も年金も保障もない、機器類は貸し出し、でも働けば働くだけ収入になる、それでいいか? と言われて、そのオファーを受ける。彼の妻Abbie (Debbie Honeywood)はパートで訪問介護の仕事をしていて、Rickyが仕事用の車を買うので彼女は自分の移動用の車を売らなければならなくて、バスでの移動はしんどいけど、がんばるしかない。 ふたりにはストリートアーティストになりたいらしい息子のSebとよい娘のLisaがいて、子供達は苦労している両親のことはわかっているものの、そういう年頃でもあるSebはなんでそんなに無理して苦労してるんだ?..  って素行が悪くなっていく。行動の選択に幅があってそうなるのではなく、他に動きようがない状態で身動きがとれなくなっていく、ということ。

2008年の金融恐慌以降、社会の隅々にまで広がっていった自己責任型の社会意識が生み出す泥沼地獄の具体的なさまをこれでもか、と描きだす。 時間とコストの効率化を際限なく強いるサービス化社会の末端で、サービスを買った人とそれを提供する人の間で(どっちも人間なんだから起こって当たり前の)いろんな摩擦に衝突が、(それがそのまま収入にはねるので)人々を疲弊させ、結果として家族を壊していく。 そういうシステムの元で回っている経済、それを回している社会、そうやって隣の人たちを羊みたいに叩いて追って囲いこんでいく社会って、いいのこのままで?

“I, Daniel Blake”にもあったし、この作品では襲われて怪我をしたRickyが病院に行くシーンにもあるけど、このシステムは人間のベースを壊れない機械(壊れるのは自分の責任)と想定しているので、いったん自身の体が壊れてしまうとどうしようもない(代替を据えておわり) - そして本来ならそこを支えてくれるはずのシステムとしてのNHSもまた..  いくら家族の絆が..  とか想いが.. とか言ったってどうすることもできないんだよ、わかってる? にっぽんの「絆」が大好物なにっぽんじんたち?

あまりに生々しいしきついし、これってそういう境遇にある人たちを取材してドキュメンタリーとして纏めた方がよかったのでは、と思うかもしれないけど、ここでKen Loachが描きたかったのは単なる距離やギャップの問題ではなく、それでも傍に立って寄り添おうとするひとりひとりの姿や眼差しだったのではないか。だから老婆の皺だらけの指がAbbieの髪を梳くところとか、最後車を運転しながら子供のように泣きだしてしまうRickyとか、Lizaの心配そうな顔、底抜けの笑顔を見るべきなの。 その辺がシネフィルの人たちからは甘さとかくどさに見えてしまうのかもだけど、でももうそんなこと言ってもしょうがないくらい、今の厳しさって感傷込みでも抜きでもとにかく広げていかないといけない - 特にカンヌに来るような連中にはね - 性質のものなのではなかろうか、って。

あと、にっぽんの場合ここに、親の言うことには従え、とか、大黒柱、とか、世間の目、とか、トラッドに刷り込まれた地獄が重なって襲ってくるので更にしんどくなるよね。

例えば10年前と比べて、世界は本当によくなっていると言えるのかしら? “Sorry We Missed You”の”We”が意味するところの多層化・多重化などなども含め、2010年代の終わりに考えてみるのに丁度よい題材ではなかろうか。