22日、月曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。日本でももう公開されているのね。
英語題は“Happy as Lazzaro“。 Lazzaroが幸せになる話でもLazzaroを見て幸せになれる話でもないの。
冒頭、イタリアの田舎の村で農民が共同生活をしているらしい掘立小屋に夜みんなが集まってしょぼい楽隊をバックに若者が求婚して、それはうまくいって酒盛りになるのだが、若者のひとりのLazzaro (Adriano Tardiolo)はおばあちゃんを運んだり、みんなにあれこれ命令されてこき使われていて、でも穏やかに言われたことをこなしている。
村の名前はInviolata(inviolate – 不可侵)といって、タバコの葉を生産していて、監督官のNicola (Natalino Balasso)がバイクでやってきて帳簿をつけては渋い顔をして、典型的な昔の小作農家のようなのだが領主のMarchesa (Nicoletta Braschi)やその息子のTancredi (Luca Chikovani)のナリを見ると遠くない現代のお話しのようなので少し驚く。
家族から離れてうだうだしているTancrediと彼に呼ばれて小間使いをしているうちに気に入られたLazzaroは仲良くなり、義兄弟として一緒に狼の遠吠えをしたりするようになる。そのうちTancrediが画策した狂言誘拐の手伝いをさせられ、姿を消した彼の大規模な捜索が始まるのだが、熱をだしたLazzaroは傍にいられなくてどうしよう、っておろおろしていると崖から真っ逆さまに(見ているひと全員、あっ.. て)。
やがて狼がLazzaroの目をさますのだが、村に戻るともう跡形もなく、Marchesaは村人を騙して隔離して子供に教育も受けさせずに放置していた、という罪で逮捕されていて、しょうがなく彷徨っているとかつて同じ村にいた連中と再会してトラックの荷台に乗せてもらう。のだがかつてガキだった奴は青年になっていて、どうも崖から落ちてから数年が経過していたらしい(Lazzaro自身は変化なし)。連中は街の外れのバラックみたいなとこで盗品を売ったりして変わらぬ底辺の共同生活を続けていて、Lazzaroも入れて貰うのだが相変わらず下っ端であることは変わりなくて、そのうちTancrediとも再会して..
こんなふうにいろんな偶然が重なって転がっていく筋だけ追っていてもふうん、でしかないか。
かつてのInviolataの村人たちは場所と時間が変わっても社会の下層にいてあがいてて、でもずっと一緒にいて、Lazzaroも同様なのだが彼も以前と同様になんの抵抗もしないで笑みを浮かべているだけ。 そんな社会の不条理を告発したり正義、更には抵抗のありようを云々するわけでも、歳をとらないLazzaroの非抵抗の笑みと身振りはX-Men系のあれなのか、でもなくて、いつになっても社会はひどいままで変わりそうにないけど、たとえばこんなやり方で生き残っていくことはできる、かもしれない、と。
キリスト教的な幸福や善、受難について、Lazzaroの宗教画の顔立ち(と名前)からなんか言うことはできるのかもしれないが、そこにテーマがあるとは思えない。約束された富や幸せ、約束の地なんてどこにもありはしないことを明かしつつ、それでも風として狼として走り抜けること、これは社会とか宗教とかとはあまり関係がない。だれの承認もいらない。
寓話やファンタジーとしてではなく、都会に生きる半野生動物のドキュメンタリーのように見るべきだと思った。
見た後のかんじ、個人的には大島弓子の漫画の読後感と似ていて、降りかかってくる生き辛さを肯定の身振りで全てひっかぶってそれでもあなたと一緒に、どこにだっているよ/いくよ、っていう態度の表明。 漫画はぜんぶ日本に置いてきたのでどの作品が近かったか確かめられないや。
もういっこ、Agnès Vardaの“The Gleaners & I“ (2000) - 『落穂拾い』も。ものを拾い集めて生きていく人達は、道路脇に生えている草を食べられるじゃん、て言っている元村人らに通じる。 Agnèsが追っていったThe Gleanersの人達って、Lazzaroの顔(ところどころ)と向かい合うように立っているかのようだ。ていうか、AgnèsってLazzaroのママなんじゃないか。 狼ではなくて猫だけど。 狼も猫も仲良くしてくれるけど、誰にも制御はできない。野良。
できればもう一回みたい。最初のとき、見ている間はずっとはらはら –Lazzaroがひどいことになりませんように – だったけど、もうだいじょうぶだから。
4.30.2019
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