5.02.2019

[film] La Pointe Courte (1955)

4月27日、土曜日の夕方、CurzonのBloomsburyで見ました。

昨年ロンドンで行われたAgnès Vardaの特集上映 – “Agnès Varda: Gleaning Truths” - で取りあげられた作品から追悼ということでいくつかぽつぽつ上映していて、そういえばこれは見ていなかったので。 彼女の長編第一作。編集にAlain Resnaisの名前がある。

南仏の小さな漁村で、漁をしている家族がいっぱいいる長屋に検査官が抜き打ちで来たりしていて、そこで生まれ育った若い男(Philippe Noiret)が帰ってきて、やがてそこに恋人と思われる女性 (Silvia Monfort)がパリからやってきて再会し、でもふたりはそんなに仲が良さそうではなくて、どちらかというとこれからどうするか、互いにきっちり納得して別れるために会いにきたふうで、ふたりで村のあちこちとか部屋とかで、幸せとは、とか一緒にいることとは、とか将来のこととかを延々ずーっと議論している(よくそんなに喋ることあるよな、ていうのと、60年以上前からこういう議論てあったのね、ていうのと)。

その脇で近場の浜で貝を獲ってはいけないので取り締る側と小舟との追いかけっことか、ひょっとしたら恋人同士になるかもしれない若いふたりの駆け引きとか、船の上から棒で押し合い合戦の祭りとか盆踊りとか、漁村のずっと続いてきた風景とか歳時記、そこらじゅうにいる子供たちや猫ところどころをとらえていて、飽きない。

こないだBFIで見た初期のMichelangelo Antonioniのいくつかの短編のよう - 漁村だし - でもあり、人々がいろんなかたちで仕事したりうろついたり毎日を生きて時間を重ねていく/きた姿と、その横で、というかその並びで恋とか幸せといったけったいな営みに没入して抜けられなくなっている男女の姿と、彼らの時間。 これらふたつの時間は同じものなのかしら?(という時間の経過に対する意識やこだわりが『5時から7時までのクレオ』(1961)とか『幸福』(1965) に向かわせた、ということはあるのだろうか)。

この漁村は数年後にはどうなっているのか(なくなっている?)、猫は?、このふたりは?.. という目線がはっきりとあって、ここのところは既にAgnèsだとおもったし、この後の作品群で彼女はつねに自分が足跡を残したところ(La Pointe Courte = The Short Point)に立ち戻っていく。彼女にとって映像やアートとはそういう自身の記憶を手繰って掘って向こう側(避けられない死や消滅のほう)に行かないように、毛糸玉のように生を手元に引き寄せるためのものだったように思う。

でも、そんなふうに、だいじょうぶ、ほらこんなかんじ、とずっと言い続けてくれた彼女が向こうに行ってしまうなんて思わなかった。間抜けなことに。 GleanersをAssembleした彼女をGleanする - 彼女がJacques Demyの作品紹介や”Faces Places” (2017)で人々に向けた眼差しを我々は継いでいかないとね、って。 

それはそんなに難しいことではなくて、きっとハート型のじゃがいもを探すのと同じような –

ところでこれって、ヌーヴェルヴァーグの枠に入るやつなの? 

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