7.30.2018

[film] The More You Ignore Me (2018)

16日、Heymarketのシネコンで見ました。ロンドンでの上映館はここだけ、しかも夜1回の上映になっていて、客はひさびさに最初から最後まで自分ひとりだけだった月曜の晩。

そしてこれも前日同様に壊れてしまった家族のお話しだった。ううむ。

“The More You Ignore Me, the Closer I Get” (1994) って、もちろんMorrissey(ソロ)の曲で、関係ないことないの。昨年の”England is Mine” (2017)に続いて、もう(Morrisseyが関与しない)Morrissey映画、みたいなジャンルができたっておかしくない気がする。

原作はコメディアンでもあるJo Brandさんの同名小説で、彼女自身が脚色して、少しだけ出演もしている。

70年代末、一軒家にパパKeith (Mark Addy)とママGina (Sheridan Smith)と一人娘のAlice がいて、冒頭でGinaは癇癪おこして絶叫して家のなかをめちゃくちゃに壊しまくる。Ginaは精神の病と診断されてママのことはパパが家でずっと面倒を見るから、と3人は不安定ながらも一緒に暮らしていった83年のある日、成長したAlice (Ella Hunt)はTVのTop of The Popsで”This Charming Man”を花をまき散らしながら狂おしく演奏しているThe Smithsを見て衝撃を受けて(まあ、いきなりあれ見たらそうなるわ)、レコードを買ってきてMorrisseyにファンレター書きまくり、のそういう少女になる。

やがてファンレターを読んでくれたのかMorrisseyからお礼の手紙とコンサートのチケットが送られてきて舞いあがるのだが、近所のボーイフレンドは親の横槍で一緒に行ってくれず、替わりの付き添いになった祖母は向かう途中で具合が悪くなって(そのままお葬式…)結局ライブには行けなくてしょんぼりで、それ以降もなにかと家族の事情に引っ張られてあれこれ潰されていくAliceの青春の日々を綴る。

で、AliceがThe SmithsをGinaに聴かせてみたら彼女も気に入ったようで、ふたりで一緒に聴き狂うようになって、その勢いでBlackpoolのライブに突撃するのだが、ここでもまた… (かわいそうすぎて書けないくらい。同じことが自分に起こったら…)

ママが壊れたからって、ちょっとやそっとのことでは壊れないママと娘の絆と、そんな娘を芯から支えたThe Smithsの音楽があって、だからだいじょうぶよとかそういう話では全くないのだが、「あなたが無視すればするほど、ぼくはくっついていくよ」っていうメッセージのありようは、日本では「ビョーキ」とか言われていた当時(80年代初)の心象風景とも繋がっていろいろ考えさせられる。

(この「ビョーキ」がバブル崩壊と共に加速度的に捩れてカルトとかストーカー犯罪の方に向かってしまったことを忘れてはいけない)
(関係ないけど、今の政府が恐ろしいのはここにあるのと同様の共感とか誘導のロジックを使って「健常者」とそうでない者を仕分けて自身の支持基盤として固めようとしているところ – だからあいつらしょうもないカルトなんだってば。)
(そしていまのMorrisseyもこれと同じような隘路に陥っているようなのが残念でならない。)

で、この映画に関しては、いろいろあってみんなぼろぼろだけど、とりあえずなんとか生き残れてよかったよね、ていう暖かさがあって、これはこれでよいと思った。

もっと全編にThe Smithsを流してあげればいいのに、The Smithsで流れるのは”This Charming Man”と”What Difference Does It Make?”くらいで、全体の音楽はElbowのGuy Garveyさんが担当している。

The Smithsの初期の頃って12inchシングルばっかり出していて、数週間おきにレコ屋の棚に並んでいく新譜をいちいち買えるほどの財力なんてなかったので、ほんと悔しかった。あれがなければもっと思い切りのめり込めたのかもなーとか、そんなことを思い出したり。

[film] Pin Cushion (2017)

15日、日曜日の夕方、”Incredibles 2”のあとに、BFIで見ました。これも家族のお話。ぜんぜんちがうかんじだけど。 
監督はこれが長編デビュー作となるDeborah Haywoodさん。

Lyn (Joanna Scanlan)とIona (Lily Newmark)の母娘がいて、ふたりがどこかから越してきておうちをセットアップして、Ionaは学校に通い始める。 Ionaは三つ編みおさげで大きな目をしたひょろひょろさんで、Lynはずんぐりころころでそれしか着るものがないのかいつもすごく変な組合せの服を着てて、ふたりは引っ越し後におうちを目一杯のお気に入りで飾って楽しそうで、寝るときは姉妹のように一緒に横になって仲良しで、貧しいけど幸せそうに見える。

Ionaの新しい学校では、当然のように「変なのが入ってきたぞからかってやれ」の視線と共に偉そうなぎんぎんの女子3人組が声を掛けてきて、Ionaも負けたくないから背伸びしてつるんでみたり化粧してみたり、気になる男子も現れたりでデートみたいなことしてみたり、Lynはそういうのいちいち気になるけど自分は自分で近所付き合いでいろいろあるし、自分が関わったらいけないって我慢しているといつの間にかどうすることもできないようないじめの壁みたいのができあがっていて、家でパーティされてLynの大切なインコを潰されて部屋の飾り物とかぐしゃぐしゃにされたり変な写真を回覧されたりしていて、ひどいったらなくて、最後にどうしようもなくなったLynがとった行動は ...

母娘の強い絆があって、でも娘も成長していくものだからいずれその絆は解けることはわかっていて、でもその娘の行末がブロックされたり疎外されたりしていることがわかったとき、針刺しというのか針山というのか、無口で無力な母親は娘のためにどんなことをしてしまうものなのか。

Lynの恰好や挙動が奇妙で変だったりするので、いちおうダーク・コメディのように紹介されているのだが、ものすごく暗い、残酷な童話のようでもあって、これで笑えるとしたらすごいし、これを英国風なんとかて呼ぶのだとしたらやっぱどっちみちすごいわ英国、って。こんな話、そこらの現実にじゅうぶんありそうかもってところも含めて。

あくまで個人の印象なので適当に流してほしいのだが、英国の人ってものすごく粗暴でいいかげんで(他者のことなんて)何も考えていないような人と、そこまでしなくていいのに、っていうくらい暖かく面倒みないと気がすまないよい人が両極端でいて、その振れ幅がえらく大きい気がしてて、その両方の像にうまくはまってくるかんじはした。それがどうした、だけど。

BBCで毎週土曜の朝に”Saturday Kitchen Live”ていう料理番組をやってて(オムレツ対決とかあるの)見たりしているのだが、こないだこれにLyn役のJoanna Scanlanさんがゲストで出ていて、この映画を自分のご近所さんに見せたら、とても喜んでくれて評判よかったって。そうか喜んで見てくれるんだなあ、って。

7.29.2018

[music] Pearl Jam

17日、火曜日の晩、The O2 Arenaで見ました。

6月のツアー中のロンドン公演の際、Eddieの声が突然出なくなったためにキャンセル・延期となって再設定されたのがこの日で、13日の金曜日に反Trumpのデモ会場に向かうバスに乗っているとき、よい席のチケットまだいっぱいあるよ、って連絡がきて、見てみたらフロアのスタンディングとかほんとにあったので、Trump許さんぞって思いつつ取った。 バスの中で立った状態でスマホにカードの番号打ちこんでチケット取ったのはじめて。

当日はとっても気持ちのよい夏の夕方で、地下鉄から出て会場にスキップしていったら傍にBaby Trumpバルーンが置いてあったのでまだいんのかよ、って思った。(ライブの曲間のお喋りでも、毎日オムツ替えなきゃいけないDirtyなやつで手間がかかってごめんな、って謝罪されてた)

前座はなしで、20:00開始とあって、バンドが出てきたのは20:20くらい。スタンディングだけど前の方に突っ込んでいく勇気は微塵もなくて、真ん中のやや後ろでひとりで跳ねていられるスペースがあればよくて、その状態でぐるりと上方を見渡してみると改めてでっかい会場だよねえ、って。

音はびっくりするくらいいいの。 日本だとStudio Coastのクオリティがアリーナであっさり達成されているかんじ。

最初の2曲がゆっくりと確かめるように歌いあげるかんじのだったので、まだ喉が完全に戻っていないのかしら別にいいけど、て思ったとたんの3曲目、”Go”で爆発してそのまま数曲 - “Do the Evolution”まで気持ちよく走る。 一息ついたところでEddieから、延期となってごめんね、ってそこまで言わなくてもいいのに(延期になったからこんなチケット取れたのだし)、ていうくらい丁寧かつ誠実なコメントがあって、とにかく今日はめいっぱい楽しんでってな! と “Given to Fly”を。

Pearl Jamを最後に見たのは2003年のMSGで、前座はBuzzcocksで、あーこれは世界最強ってやつだって思い知らされて、ライブはなんの心配もいらないのね、てしみじみした。とにかくどんな曲やってもどの順番でやっても激しくて強くて爽快ででも軽快で歌えるしジャンプできるしスイングもできるし、それがずっと延々続くので、ごきげん、ていうのはこういうときに使う形容なんだわ、とつよく頷く。

この日のセットは冒頭のコメントにもあったように楽しんでもらうから、って激しく体を揺するのと歌をじっくり聴かせたり一緒に歌ったりするののあがったりさがったりの大波小波がてんこもりで、ゆっくりめのになると客はビールを買いにさがって、ビール買って戻ってくると激しくなってビールが宙に舞っちゃって(何度かかかった。やめてほしいわ)、それが何度か繰り返される。

本編ラストの”Rearviewmirror” はとにかく圧巻で、”Saw things so much clearer - Once you, Once you ... ” の客席側もふくめた絶叫がほんとにしみた。

最初のアンコールの1曲目はEddieがひとりでギター抱えて、彼との思い出を語ってからTom Pettyの”I Won’t Back Down”をやって、大合唱になるの。彼のHyde Parkのライブはちょうど1年前だったなあ、ってしみじみ。 この日はもういっこ、Soundgardenへの想いもせつせつと語られていて、自分たちがこうしてライブをできることの感謝と歓びに溢れたものになっていた。 そこから40分くらいやっていただろうか。 Victoria Williamsの”Crazy Mary”なんて”Stairway to Heaven”のソロを含むぜんぜん止まないジャムに膨れあがっていた。

2回めのアンコールは3曲目、待ってましたの”Alive”がぶちあがって、もうなんも言うことないわ、ってしゃんしゃんになる … とこで”Baba O'Riley”のシンセが底からせりあがってきて、もうへろへろ状態で泣きながらばんざいするしかなかった(スタンディングじゃなくて椅子席にすべきだったわ..)。 照明ぜんぶついて明るくなってるし最後の力を振り絞って天井に向かって大合唱して、さて帰るか … と板になった腰と棒になった足首をくるってやろうとしたら”Yellow Ledbetter”のギターが足元に人懐っこく絡まってくるので、わかったもう好きにして、になった。 たっぷり3時間のすばらしい旅(釘付けだけど)だった。

よいライブだったなー、って帰って翌日セットリストをみたら、アンコール3で”All Along the Watchtower”やったって…  なんなのあのバンド(呆)。

[music] Heldon

7月14日の土曜日の晩、Café OTOで見ました。

Richard Pinhasのライブはむかーし吉祥寺で見ていたのだがあれはHeldonではなかった気がして、Heldonみなくていいの? Heldonだよ? って一ヶ月くらいずっと脳内で自問してて、その晩なんもなさそうなことが判明した数日前にチケット取った。

オープニングはHirvikolari ていう3人組で、モジュラーシンセ1名、トランペット1名、テナーサックス1名で、管楽器のパイプを通って擦れる音がモジュラーを通して加工されて膨れあがっていくのっておもしろい。ものすごくでっかい肺活量の肺がぶかぶかしたりとか大量の土管をウナギみたいのがすり抜けて暴れまわっていくようなかんじ。

そしてHeldon。 Richard Pinhasの他はFlorian Tatard、Arthur Nancyの2名の計3名、山伏みたいに屈強そうなドラムスと、ひょろひょろの神経質そうなエレクトロニクスの若者。

最初にPinhas先生が座って論文に向かうかのようにアンプを睨みながらギターをいじって編んで重ねてループさせていって、お湯も煮立ったしそろそろいいか、てなったあたりで立ちあがり、ペダルをぐしゃって踏み込むとどかーんて広がってその波に乗るようにドラムスがどこどこ鳴り出し、埃がもうもうと立つかんじになり、その背後の茂みで体育館座りをしていた若者が立ちあがってケーブルの山をいじりだすと音の雲が倍くらいの厚みになって少し音楽ぽくなる。 しばらくすると若者はボタンがいっぱいのアコーディオンを抱えて、そのボタンがベースとして鳴っていることがわかるのだが、とにかく音は終始ひたすら攻撃的にせっせと壁を築きつつもやかましく、その濃さときたらPinhasのソロの比ではなかった。

そのままノンストップで50分くらい、アンコールで戻るのがめんどかったのか、その状態のまま更に10分くらいのセットをどかすかやって終わった。スキゾというよりはひたすら土を掘り進んでいくパラノだった。

Lindsay Cooper Songbook

もういっこ、Cafe OTOでみたやつで書いてなかったのがあった。6月16日の土曜日の晩。

発表されていたメンバーはChlöe Herington, Tim Hodgkinson, John Greaves, Chris Cutler, Yumi Hara, Dagmar Krauseで、なんかほぼHenry Cowだし、Lindsay Cooperのソロ - “Rags”とか - は好きで、あの複雑な針金細工みたいな管弦音楽がライブでどんなふうになるんのかしら? があったので行った。 でも着いたらDagmarさんは風邪でお休みというアナウンスがあって、それじゃあなあー(がっくし)、になってしまった。

事前に前座がいっぱい告知されててだいじょうぶかしら、だったのだがJohn Greavesさんのソロなんて3曲くらいしかやらないし。

Lindsay Cooper Songbook 、John Greaves & Chris Cutlerの奇妙に絶妙によたっていくうねりに乗っかる菅や弦や鍵のアンサンブルはとっても変で独特なジャズで、これが Lindsay Cooperの音楽なんだなー、って改めて思った。 半壊した車に乗ってどこに連れて行かれるかわからないスリルと興奮と。 スコアはあってもこのメンツじゃないとこうはならないよね、と思ったのだった。 大好き。

7.26.2018

[film] Mamma Mia! Here We Go Again (2018)

23日の月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。公開から3日後ぐらい経って。

とにかくすばらしくおもしろくて楽しかった。夏のファミリー映画としてこんなパーフェクトなの、そうないのではないかしら。

前作がブロードウェイミュージカルからの翻案で、中高年向けの懐メロ懐古大会だったのに対して、79年と現在をスイッチしながら夢を追っかけるふたりの女の子と彼女たちを囲むでっかいファミリーサークルの物語になっている。(もうちょっとだけ恋愛要素があっても、と少し思ったけどファミリーのお話しなのだからいいのか)

Sophie (Amanda Seyfried)はママDonna (Meryl Streep) - 1年前に亡くなっている - の夢でもあった島のホテルのオープンに向けてがんばっているのだがSky (Dominic Cooper)につれなくされたり嵐でぐしゃぐしゃにされたりで挫けそうになって、こんなときママならどうしたかしら.. ていうところで79年の英国Oxfordに飛んで、大学の卒業式ではしゃぐYoung Donna (Lily James)とThe Dynamos の2人とか卒業旅行で出会うことになるYoungなHarryとSamとBill(ごめん、最後まで誰が誰やらほぼ見分けつかなかった)とのこととか、旅の果てにギリシャの島と出会うとか、これらとこちら側のSophieの踏んばりとオープンに向けてわいわい集まってくる仲間たちが繋ぎ目なしに切り替わっていって、この繋ぎ目なく往ったり来たりするふたつの時代を繋いでいるのが最強のABBAの音楽で、問答無用に万能すぎてひれ伏すしかない。

それってどんな辛いときでも歌と音楽だけはあって、歌を歌えばみんなが寄ってきて一緒に歌って踊ってくれるから、というそれだけのことなんだけど、それがどんなふうに起こってどれだけすごくてすばらしいことなのか、これを見ると十分納得できてしまう。最後は死者まで還ってくる盆踊りになっちゃうし。
それこそがみんなが知っているABBAの音楽のコアで、 世界遺産みたいなもんなのだと思った。ちょうど舞台はギリシャだし。

そして、その万能の風すら軽く吹き飛ばしてひとりでさらって行っちゃうのがいきなり(でもないか、くるぞくるぞ、って)登場するグランマのCherで、ストーリーからも画面からも数センチ浮き上がってしまう独特の存在感(シルエットなんて山姥)なのに、とにかくファミリーの、生態系の頂点にいて揺るがない。 まあABBAにキャリアも含めて正面から立ち向かうことができるポップスターなんて彼女くらいしかいないのだろうし。

でもFernando (Andy Garcia) がいるからって、正面から”Fernando”やっちゃうのか ... って。

Meryl Streepの若い頃として、Lily Jamesさんは元気いっぱいで申し分ない。70年代のMeryl Streepって、つーんとしているかんじだったけど、これはこれですんなり繋がるかんじ。

次作はグランマの青春時代ということで、60年代の西海岸に飛んでほしいかも。(まだABBAいないか..)

SouthbankでやってるABBAのExhibition、行けばよかったかな、もう無理かな。

7.25.2018

[film] Hotel Artemis (2018)

21日、土曜日の夕方、Islingtonのシネコンで見ました。
公開直後なのにロンドンの中心部の映画館ではやってない。なんでよ?

2028年のLA市街、水道が民営化されて水質が悪化したので(ほーらな)警官隊総出の大暴動が起きてて、そんななかSherman (Sterling K. Brown)の兄弟を含む4人(この中にJosh TillmanことFather John Mistyがいるの)が銀行強盗をやって、失敗してShermanの弟が負傷すると、彼は契約しているある電話番号をCallして、ぼろいビルの入り口にたどり着く。Callしていた先はJean -  “The Nurse” (Jodie Foster)のいるHotel Artemisで、そこはそれなりに払っている契約客 = 悪い奴らOnlyのセキュリティ万全緊急医療クリニックで、入口で凶器銃器は没収されたあと、患者は部屋の名前 - WaikikiとかHonoluluとか – で呼ばれて、The Nurseとその手下のEverest (Dave Bautista) の絶対管理下に置かれて、治してやるからおとなしく黙ってろ、になる。

でも他に入っている患者はNice (Sofia Boutella)とかAcapulco (Charlie Day)とか一触即発のやくざもんみたいな連中ばかりで、そこに組織の大物The Wolf King (Jeff Goldblum) - 病院のオーナーなので逆らえない - が怪我して行くから待ってろ、って連絡が入ってざわざわし始める。 それ以外にも過去になにかあったらしいThe Nurseの息子のこと、その幼馴染で今は警官になっているMorgan (Jenny Slate)のこと、Shermanの兄弟愛とかいろいろあって、外に出ても暴動で相当にやばいしどうするしんどい、の長い夜に入っていく。

少し足を引き摺って牛乳瓶メガネですたすた歩いていく変なおばあさん - The Nurseを始め、キャラクターもキャストも設定もとっても面白いのに、最後のほうでなんか踏み外して空中分解しちゃったかも。カタルシスも鳥肌もぜんぜんこないし。

”Panic Room” (2002)みたいな中と外の攻防戦にするのか、閉ざされたホテルのなかでの”The Hateful Eight” (2015)みたいなやくざの内部抗争劇にするのか、行きようはいろいろあっただろうにどれもどうも半端に終わっちゃっているの。これだと設定が病院でも監獄でもあんま変わんないふうに見えるし。 そんな世も末のかんじを出したかったの?

最後にぎーんて立ちあがるSofia BoutellaとDave Bautistaの芯から漂う極道のやばい香り、殺気に色気、あれを十分に活かせなかったのはほんと残念だわ。(”Atomic Blonde”でSofia Boutellaを殺しちゃったのはつくづく勿体なかったねえ..)

あと、ほぼみんな病人のはずなのにちょっと元気すぎ。

[film] Incredibles 2 (2018)

15日、日曜日の昼間、Picturehouse Centralで見ました。 2Dで。

1は映画館で見ていなくて、こないだTVでやっていたのを見てから来た。別に見ていなくてもだいじょうぶなかんじ。

前座の短篇は”Bao”って、中華のお饅頭のBao(包)で、粉をこねてほかほかBaoを作るお母さんと家族のお話しで、まだ良質なCMが作られていた昭和の時代のCMみたいなほのぼのしたやつだった。お饅頭食べたくなった。

Incredicbles 2、冒頭にモグラ戦車(1の球形ロボもそうだったけど、なんかどれも懐かしいよね)を使った銀行強盗との捕り物で街はぐしゃぐしゃの大騒ぎになり、これでスーパーヒーローは危険なので御法度論が復活して一家は職を失うのだが、唯一私企業で手を差し伸べてきたとこがあって、でもそれは女性活用みたいな観点からママに対してだったので、パパはむくれて、他方で宣伝塔になったママはどこからか寄せ集められてきた変てこ超人たちと一緒に颯爽と悪党退治に乗り出すのだが実はそれが罠で —

昨今のスーパーヒーローものではすっかり定番になっているスーパーヒーロー不要論(→ やっぱ生産性ひくい? ぷぷ)と、”Wonder Woman”あたりから出てきた、やっぱり女性かっこいいよね、ていうのと、スーパーヒーローって言っても市民なんだから家庭生活とか日頃の悩みとかふつうにあるよね、ていう下世話なうじうじが万遍なく散りばめられてて、今回一番ポイントになるのは、ママが働きに出てパパが家事育児の地味な大変さを思い知る、ていうあたりだろうか。スーパーヒーローだろうがなんだろうがそんなの関係なく家事育児への役割期待はあるのだから黙ってやれよ、って。あんたスーパーなんだろ? って。ま、それを文句言いながらも淡々とこなしていくパパは偉いよね。

でもとにかく、このアニメの最大の魅力である伸縮変幻自在の人体を駆使したキレのよいチームプレー - 地の果てまで跳んでしなって弾けて吹っ飛んで - は健在なので十分に楽しめる。顕現しはじめた赤ん坊のパワーもまだわけわかんないけど最強ぽいし。

それにしても妖怪人間ベムとかゲゲゲの鬼太郎とかを見て育った世代からすると、この明るさ朗らかさってすげえな、しかない。 Incredibleなもの(特に家族周辺)に対する目線の圧倒的な違い、清々しいくらいの正しさ。Respect。

予告でかかった”Wreck-It Ralph 2”がなかなかすごかった。 ウサギ…

7.24.2018

[film] Dementia (1955)

日本もあついみたいだが、いまの英国も相当あっつい。冗談みたいに雨が降らない。誰に聞いても20年ぶりとか30年ぶりとか言う。
オフィスには冷房あるけどアパートにはない。オフィスにはいたくないから映画館とかに逃げこむしかないのよ。

12日の木曜日の晩、Barbican Cinemaでみました。

ホラーとフェミニズムの接点・境界を探る映画上映集団  - The Final Girlsがキュレーションする夏のホラー映画特集 - 昨年もBarbicanでやってた。今年は”The Final Girls present: Unholy Women”ということで、週替わりで計3本。”The Mafu Cage” (1978)、”Dementia” (1955) -  これ、そしてラストにRobert Altmanの”Images”(1972) – 再見したかったのに逃した。

テーマをもう少し具体的に言うと、女性のIllnessや症例みたいの - 女性の聖性とは逆側に現れるやつ - を(ホラー)映画はどう扱ってきたか、ということらしい。

邦題は『恐怖の足跡 ビギニング』?  
冒頭に字幕でPreston Sturgesによる絶賛コメントが表示される。

夜中、カメラが外からアパートの一室に入っていくと女性が具合悪そうに起きあがったところで、外出先から戻ってそのまま寝ていたらしい、彼女はその状態のままふらふらと外に出て行くと浮浪者に絡まれたり、怪しげなお金持ちに拾われたり、墓場に連れていかれて幼いころに母親を殺した父親を殺した悪夢のような夢だか記憶だかが浮かんだり(ここのシーンはすごい)、酒場とかジャズとか警官とか夜の街の終わりのない彷徨いをなんとかして、てなったところで「はっ、今のは夢?」になるのだがそうでもなくて。 
ほぼ音楽のみで、台詞も叫び声も放たれる場所がなく押し殺されて助けも救いも求めることはできない。全体の作りはクラシックな実験系アート映画のようでありながら、ところどころ生々しくてどきどきしたかんじが残る – 丁度 David Lynchの映画から抜けた後のようなうまく説明できない疲労感みたいな何かが。

上映時間が58分と短いので上映後にFinal Girlsのいつものふたり(何人いるんだろ?)に加えて批評家のひとと映像作家のひと(.. たぶん。どちらも女性)が入ってのディスカッションがあった。
(個々の作家名作品名とか詳細をきちんと憶えてなくてごめんなさいなのだが)

女性のヒステリーやIllnessを描くコンテキスト(例えば父殺し)とか、その描き方の適切さについて、更にはこういうのを男性映画作家が描くことについて – うまくいっているケースもあるけどそれってなんでどうして? - といったようなことを過去の映画史とか批評のケースをこまこまひいて、それってホラー映画として、あるいは女性映画としてどうなのか、というところまで分け入っていくので学会のシンポジウムみたいになっていた。 そこまでして映画を見るのか、というと見るんだよね、なぜならホラー映画で描かれる恐怖も、ここで描かれているような女性の不安や恐怖も割とふつうにリアルに現前するものとしてあるから。 そしてそれを映画を介して解したり、その根を掘っていくのはそんな大変でもないし、そもそも映画を体験するっていうのはそういうことなのではないか。
(読書もそういうとこあるけど、もっとストレートに頁に挟まれた作家の世界に入る。映画は、例えばホラー映画の世界(観)みたいなのが闇の向こうに間違いなくあって、その扉を開く)

音楽はGeorge Antheil、と後で聞いてなっとく。
見てないけど、この映像、Faith No Moreの”Separation Anxiety”のPVに使われているんだって。
確かにMike Pattonの世界に近いかも。

7.23.2018

[film] Private Hell 36 (1954)

まだ書いてなかったやつがあったのでふたつまとめて。
6月29日の晩、BFIのIda Lupino特集で見ました。邦題は『地獄の掟』?

監督はDon Siegelで、脚本はIda LupinoとCollier Young(Idaのex.夫)の共同、主演の刑事のひとりHoward Duffは当時のIdaの夫、という”The Bigamist” (1953)にあったかんじで、BFIの上映時に配られたプリントにはDon SiegelのAutobiographyからの抜粋があって、これの監督をIdaからの依頼で受けたときの経緯とか彼女との対話とかいろいろおもしろいの。

丁度彼女が彼の“Riot in Cell Block 11” (1954)を見た直後で絶賛してくれて、数字の11は使っちゃったから彼女用に36を使った、とか、これをFamily Pictureだよね(先のような旦那衆事情による)、というDon Siegelに困惑する彼女とか、なんかわけわかんない。

そういうのはともかく、Film Noir、犯罪映画としてはぞくぞくするくらいおもしろかった。

NYで盗まれた札束入りの鞄にあった$50札がLAで見つかって、担当になったふたりの刑事コンビ - Cal (Steve Cochran) とJack (Howard Duff) - が捜査を進めて、その札が使われたナイトクラブで犯人と接触している歌手Lili Marlowe (Ida Lupino)をなだめてなんとか動かして一緒に競馬場とかに張りこんで、ようやくそれらしいのを見つけて車で追っかけたらそいつは車ごと崖から落ちて死んじゃうのだが、そのトランクからはほぼ無傷の札束鞄が見つかって、JackはCalが札束を自分の懐に入れるのを見て「あっ」てなって、やがて現場で紛失した札束の調査も始まってしまい、でもJackはCalの犯したずるを上には言いだせなくてどうしようどうなっちゃうのか…

LAの闇社会の突端でがんがんにデバって実績もあげていた刑事が捜査の過程で協力要請したクラブ歌手と恋に落ち、更に仕留めた犯人の札束にも引き寄せられて、でもそんなぐだぐだの果てに彼らを待っていたのは...  別に”Private Hell”というほどのものではないのでは...  とか思っていると最後にとんでもなく非情なやつが来るので戦慄する。

特にラストのショットはなかなか衝撃で、客席からなにかに押されたかのような放心の拍手が出ていた。


The Trouble with Angels (1966)
6月30日、土曜日の夕方、BFIで見ました。 Ida Lupino特集のラストで、これが彼女が最後に監督した映画作品。(この後、TV作品は監督している) 邦題は『青春がいっぱい』?

タイトルロールからお茶目なアニメーションが入って(エンドロールでも入る)、明るい青春どたばたモノなのね、というのがわかる。(ブレッソンの”Les Anges du Peche” (1943) -『罪の天使たち』みたいなやつかと思ってた..)

アメリカの田舎のカトリックの修道女になるための学校 - St. Francis Academyに電車で新入生がやってくる。Mary (Hayley Mills)とRachel (June Harding)のふたりもそうで、どっちも派手な恰好でタバコをふかして神様しらねえ修道女なんてやってられねえ、ていうノリで、他方、彼女らを迎える学校側は、Mother Superior (Rosalind Russell)を中心にいろんなシスターがいて厳かなのだが、ふたりはそんなのお構いなしで、春夏秋冬いろんな悪戯や騒ぎを仕掛けていって止まらない。映画はそんな悪ガキエピソードが繰り返されていくのだが、Mary (Hayley Mills)はだんだんにSister SuperiorのSuperiorなところが気になって、なんでそんなに聖人でいられるのあんた? って揺れて傾いてきて、あたし将来どうしようかなー、になっていって、最後はなんかよかったねえ、になる。

脚本とか初めからきちんと練られて作られているふうで、監督Ida Lupinoの過去作品にあった精緻な心理描写とその織物みたいのはあまり感じられないのだが、それでもほぼ全員が老若の女性キャストで、女性による女性のための映画にするんだから、という意思に貫かれた楽しい青春映画になっていてよいと思った。
(ほら、どうしても男性が撮ると徒に陰惨だったりやたらゴスしてたりおお神さま、になりがちな気が)

Rosalind Russellが演じたMother Superior、最初はGreta Garboにオファーが行ったって。
Garboが演じたらすごかっただろうなー。

7.22.2018

[film] Ryuichi Sakamoto: Coda (2017)

7日の午後、Oneohtrix Point Neverのライブに行く前にCurzonのBloomsburyで見ました。
坂本龍一の音楽活動を追ったドキュメンタリー。
NYのFilm Society of Lincoln Centerでは今も絶賛上映中のようだが、こっちではもうほぼ終わっていて、でも先月、彼のBarbicanでのライブがあった週の上映の際、BFIではQ&Aもあったりした。行けなかったけど。

311の津波で海に浸かった学校のピアノの弦を弾いて鍵盤を叩いて音を出してみるところ、放射能の防護服を来てそこの浜辺を歩くところ、避難所でのコンサートで「戦場のメリークリスマス」を弾くところ、ここまでが冒頭。 本編に入るとまず本人が癌でステージ3の治療中であることが明かされて、そこから新譜を製作していく過程とYMOの頃から映画音楽製作などを含む幅広いキャリアの振り返りが並行して流れていく。

坂本龍一についてはずっとあまりよい聴き手ではなくて、でも自分の高校から大学にかけてはYMOが全盛でどいつもこいつもバカみたいに聴いていたので聴かずに過ごすことなんてできなかった(それでも意地でもレコードは買わなかった。サウンドストリートは聴いてた)ので、それなりに思うところはあって、この映画を見ながら思い出したその辺のところを少し。

坂本龍一はいつも世界との関わりのなかで音を出し、音楽を作ってきたひとだ。音が世界のなかで立ちあがる、あるいは音の立ちあがりと共に世界がうまれる、その音が持続し、減衰し、やがて消滅する、その物理的なありようが世界にどのような響きやうねりをもたらすのか、彼の音楽は常にその成り行きに繊細に耳をすます、自分の音と音楽が伝わっていく世界やプロセスも込みで捕まえる、そんなふうに世界に向き合って「聴く」態度と共にあった。 だからある時のテクノロジー、ある時のダブ、ある時のオーケストレーション、ある時のオペラ、ある時のブラジル音楽、といった様々な領域への傾斜はその文脈のなかで捉えられるべきだし、世界をまるごとひとつを創りだすものが映画なのだとしたら、彼の映画音楽がその立ち上がりの瞬間に、その推移と共にあることは必然、要請に近いものなのだったのだと思う。

そしてこれって、パンクやロックが世界に向かって取ってきた態度とは根っこから相容れないものだった。(とパンクやロックを聴く人たちは勝手に思ったりしていたの)

さて、そんな彼が、音楽も含めた彼の世界が、病によって消滅するかもしれない危機にさらされたとき、あるいは911や311のような外の世界の唐突かつ暴力的な瓦解に直面したとき、彼の音はどんな様相をもって立ち上がろうとするのか、心身の減衰や消滅はどんな音として現れて記録されるのか、という問いによろよろと向き合う姿を記録したのがこの映画で、それはこういう闘病映画の際によく言われる「力強い」とか「精力的」とかいうのとは程遠く、よろよろした初老の男がレコーダーを抱えて野山を歩いたり部屋の隅で変な音を採取するさまが映し出される。 そしてその最後に立ち現れる音楽のなんと儚く、繊細で美しいことだろう。

こういう映画に「奇跡」のような言葉や概念を持ち込むことはあんまよくないと思うのだが、なんかそういうものが見えてしまっている気もするので、見てみてほしい。


Yellow Submarine (1968)

音楽映画をもう一本。 8日、日曜日の11:00にPicturehouse Centralで見ました。
公開50周年で、4Kリマスター版がでっかい画面で帰ってくるよ、ってお祭りのようにずっと宣伝していたので初日に行った。

ストーリーはいいよね。The Beatlesが世界征服を企む悪のBlue Meaniesと愛と音楽の力で戦うの。

最後に註記でアニメーションの仕様上リマスターには限界があって、のようなのが出て、でっかい画面だとやたらチカチカして目がまわるようで(お話とは全く関係ないところで)ちょっときつかったのだが、ドルビーでばかでっかく再生された音はちょっととんでもなかった。 お風呂で遊ぶおもちゃの潜水艦なんかじゃなくて、ほんもんの潜水艦としか言いようがないやつがばおおおーって襲ってくるのだった。

7.20.2018

[film] Tag (2018)

7月6日の金曜日の晩、West Endのシネコンで見ました。いろいろへとへとの金曜日で寝ちゃう気がしたけどだいじょうぶだった。

83年、9歳の頃から20年以上にわたって毎年1ヶ月(2月とか5月とか)の間、えんえんTag  - 鬼ごっこを続けている男子5人組がいて、Wall Street Journalでもレポートされた感動の実話の映画化。中味は単なるバカコメディなんだけど。

冒頭、Hoagie (Ed Helms)が清掃会社の採用面接を受けていて、あなたPh.D持っているのになんでこんなところに来るの?て聞かれたりしてて、その理由は幼馴染のBob (Jon Hamm)がCEOをしている会社に潜入してその年のTagを開始するためだった、と。 BobがWall Street Journalの記者とインタビューをしている時に掃除夫姿のHoagieが乱入してそれが始まって、Bobもそれを平然と受けて立っているので、あんた達なにやってるの? と記者がおもしろがって同行することになり、地方に散らばっていたTagメンバーのChillie (Jake Johnson)とKevin (Hannibal Buress)も拾うのだが、難関は故郷にいるJerry (Jeremy Renner)を捕まえることで、こいつはその月末に控えた結婚を機にTagをやめるとか言っているらしい、なめてんじゃねえぞ。

いろいろルール細則はあるらしいのだが、とにかく追っかける方は相手が結婚式の最中だろうが会議やっていようがトイレ入っていようが入院していようが24時間なりふり構わず徹底的に追っかけてよいことになっていて、逃げるほうはどんな手段を使ってもとにかく逃げて逃げて、どっちの側もそのためには騙しもなりすましも狂言もなんでもやる。ひとによってはそれを愛と呼ぶのかもしれないが、この場合は単なるバカなんだとおもう。

とにかくこうして5名+ WJ記者にHoagieの妻を加えた7名はHoagieの実家の地下に作戦本部を敷いて、Jerryの捕獲作戦に乗り出すのだが、こいつはJeremy Rennerなもんだからすばしっこくてずる賢くて最強で、Wedding Crasherやれるもんならやれば、でも新婦は妊娠してるんだし邪魔しないでね、とか軽くあしらわれて。 地元の結婚式なので親族同窓みんな来ていて、かつてガキ共全員を陥れたFemme FataleであるCheryl (Rashida Jones)が現れて撹乱したり、事態は混迷の度合いを増していく。ただ鬼ごっこをやりたいだけなのに。そしてその欲望を抑えることなんて誰もできやしないの。

ただの鬼ごっこに30年くらい没入して大人たちが(大人になっても)遊んでいる、というバカらしさが結婚式とか家族の絆とか故郷とかその他もろもろを巻きこんで一同総倒れの総崩れになっていくさまを面白く描いていて、確かにおもしろいんだけど、もーっともっとおもしろくできたのではないか、とか。 実話だからなんか遠慮したのかな。

ぼんくらMキャラを演じさせたら天下一品のEd Helmsと容赦ない狂犬Sキャラが似合うJeremy Rennerのせめぎ合いはなかなか絵になって、絵になるのはこれがただの追いかけっこだからなのかな。一方が追って、一方が逃げて、家の隅っこから地平線の彼方まで、延々それを繰り返しているだけ、でも見方によってはこんなにシンプルで楽しい映画になるネタもないかもしれないよね。

最後に実際にやり続けている本人たちの動画が映し出されるのだが、ほんとに楽しそうでよかったねえ、だった。

主題歌みたいに流れるのがCrash Test Dummiesの“Mmm Mmm Mmm Mmm”で - この変てこな曲を久々に聴いて、あったよねえーと思っていたらエンドロールで、今度は主要キャストが順番に歌ってくれるので、呪いのようにしばらく耳から離れてくれない。
「むーむーむーむー」

Portlandでセラピストの役で出ていたのはCarrie Brownsteinさんだよね?

7.18.2018

[film] Orlando (1992)

7月4日の水曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。
ここではそんなに古くない、でもあまり見れなくて微妙に懐かしい映画を35mmで上映してトークとかQ&Aをくっつける、という不定期緩めのシリーズがあって、そのひとつで。

上映後のトークに登場するのは、こないだ”The Cost of Living” - カバーが素敵 - を出した小説家のDeborah Levyさんと、こないだ” Free Woman: Life, Liberation and Doris Lessing”を出した批評家のLara Feigelさん。どちらも、読みたいけど全く読めていない。

“Orlando”は見ていなかった(あの頃ばたばただったのよ)。
原作はみんなが知っているVirginia Woolfの小説”Orlando: A Biography” (1928) 。

1600年から始まって現在(1992年時点)まで、Orlando (Tilda Swinton)が時間を超えて性を超えて英国の歴史を自在に渡っていくさまを、Death - Love - Poetry - Politics - Society - Sex – Birth といった章立てのなかで描く。 始めは男子だったOrlandoが女子になっちゃうのは”Politics”のところで。

400年に及ぶ話だし、英国の歴史に詳しいわけでもないので、個々のエピソードを読み解く - 原作との対比も含めて - ということよりも単にそのまますらすら見ていけばよいのかな、くらいで。 とにかく画面は、今ならCG使っちゃいそうなところを手作りでこまこま編み込んであって、綺麗な織物のようで飽きることがない。

400年だもんだから、Elizabeth I (Quentin Crisp !)からの寵愛とか、Princess Sasha (Charlotte Valandrey)との恋とか、コンスタンチノープルへの遠征とか、Shelmerdine (Billy Zane)との親交とかほんといろいろあって、最後には娘まで生まれていることになっているのだが、Orlandoはその仮面のような表情やしなやかで優雅な挙動をほぼ変えずに旅を続け、その時々の蜻蛉のように歴史の絵画の中に納まっていて、そういう描き方をすることでそれを見る我々は(性を超えた)個人におけるDeathとかLove とかPoetryとかPoliticsとかSocietyとか SexとかBirthとかについて思いを巡らすことになる。 たぶんあと10回見てもその感触は都度異なって見えるのだろうし、それをジェンダーやフェミニズムやクィアーの議論が活発になっている(よね? いない?)いま、見直してみること、あるいは例えば、前世紀初のVirginia WoolfやVanessa Bellも含めたジェンダーや結婚に対するスタンスを踏まえて見直してみることとか、あれこれ考えはつんのめっていくので、とっても豊かな映画だなー、と感心する。

トークの中でも指摘があったDerek Jarmanとの関係 - 監督のSally Potterさんは一緒に仕事をしていたそうで、彼の“Caravaggio” (1986)や”The Last of England” (1987)との関係から見えてくるものもあるはず。Tilda Swintonさんは彼の”Caravaggio”がデビューではなかったか。

ここで描かれた英国の変遷とか国境・時代越えのスケールに比べれば、Brexitなんてほんと小せえことだわ(だからやめちまえ)っておもう。 あと、ラテンアメリカ文学の作家がマチズモぷんぷんの世界に対してこれをやるのではなく、野蛮な男共がうなりをあげていた英国に対して女性のWoolfがやった、ということと、さらに映画版のほうではこれをはじめから女性であるTilda Swintonさんが演じた、その誕生を祝福したのはクィアーであるElizabeth I = Quentin Crispだった、ていうあたりが痛快なのね。

ゲスト2名によるトークはそれぞれが自作を朗読したりやや纏まりに欠いたとっ散らかったものだったが、Woolfの原作も含めて、Orlandoの世界が広げてくれる女の一生、男の一生、あるいは歴史・時間というものへの洞察の深さ豊かさは半端ない、という点で一致していたように思う。今こそ見られるべきクィアーな一本である、と。

音楽は最初と最後にJimmy Somervilleが天使の歌声を披露してくれるのと、途中の音楽にもLindsay CooperがいてFred FrithがいてDavid Bedfordがいて、Sally Potter自身も関わっているのだった。そういえば彼女の弟ってVdGGのNic Potterさんなのね。

Tilda Swintonさんはこの映画のあとも転生を続けていて、最近だとチベットの方に渡って”Doctor Strange” (2016)に出ていたよね。

この上映会、次回はこの金・土にWhit Stillmanさんをゲストに迎えて、”The Last Days of Disco” (1998)と”Love & Friendship” (2016)の上映があるの。

[film] Mary Shelley (2017)

7月8日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。
映画のなかに出てくるMary ShellyがShelleyと一時期暮らしていた近所にあるシアター。
(彼女が亡くなるまで過ごしたSloane Squareのアパートはこないだ見っけた)

監督は“Wadjda” (2012) -『少女は自転車にのって』- のHaifaa al-Mansourさん。

本屋を営む著名な父William Godwin (Stephen Dillane)と暮らすMary Shelley (Elle Fanning)が継母とぶつかったりしながら新進気鋭の詩人Shelley (Douglas Booth)と出会ってときめいて恋におちるのだが、彼には既に妻子があってなんだよ、って裏切られたり父にも反対されたり生まれた子供も亡くしたり苦難の波が続いて、そうやって彼女の内側でぐらぐら溜まっていったいろいろと見世物小屋で見た驚異の電気実験とか自分でもなんか書きたいな欲求などなどが嵐で閉じ込められたLord Byron (Tom Sturridge)の別邸でめりめりとスパークして有名な化け物譚 - ”Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)として誕生するまで。の実話。

そうして誕生したこの子 – お話しはその内容の異様さ故に彼女自身の名を付して出版されるまでにも困難続きでかわいそうでふざけてんじゃねーよ、ったらないの。

このメンツであれば(まだみんな若いんだから)例えばShelleyとの出会いとその後もずっと続いていく彼との愛を軸にドラマチックに構成することもできたであろうに、そうはしなくて、Maryが直面したいろんな不条理や不満がいかに彼女を悲しませ、絶望させ、そしてあの怪物を生みだすまでに至ったのか、なにが彼女をそこまで苦しめたのか、そして彼女はとうとうその怪物の母となって、周囲にざまーみろ、ってやったのか、を重層的に描いていてとてもよいと思った。苦しんで耐えて忍んで最後に光が、というより終始物語の底で渦を巻いているのは彼女の満たされない怒りとか不満とかで、それが閉じ込められた空間とByron卿の不遜さでぶちきれて着火して燃え広がって、いったん生を受けて立ちあがった怪物は誰にも止めることはできない。彼女はなんで あんな血も骨も凍るようなお話しを書いたのか、書けたのか。

ホラー映画だったら間違いなくどこかの時点で阿鼻叫喚の殺戮地獄に変貌してもおかしくないようなテンション。 “The Beguiled” (2017)に続いてElle Fanningさんの内面の渦と炎が表面に噴出するぎりぎり手前で彼女をどこかに引き留めている何かがあって、それって何だと思う?ってこちらを真っ直ぐに見つめてくる。

彼女がものすごい怪物的な衝動や妄想を育てて溜めこんでいた、それをホラーストーリーとしてぶちまけた訳ではなく、ただ書かれるべきものとしてそこにあって、だから彼女はひたすら書いた。アプローチとしては彼女の朽ちていく内面と分断された屍体の接合〜怪物としての復活をサイコドラマとして交錯させるというのもあったと思うのだが、そうはしなかった。そこを自分はかっこいいと思って、だから出版時に彼女の名前が伏せられてしまった時、彼女の怒りが爆発したのはよくわかるし、監督が拘ったところ、議論を呼びそうなところもこの辺りではないかしらん。

いっこあるとしたら、Shelleyがぜんぜん魅力的に見えないとこかなあ。

あと、同じ嵐の晩に同じおうちで生まれた"The Vampyre" (1819) by John William Polidori (Ben Hardy)のエピソードも少しだけ出てきて、いいの。 つくづく変態だったByron卿のやらしさも込みで。

7.17.2018

[music] Oneohtrix Point Never

7日、土曜日の晩、Barbicanで見ました。

この日はThe Cureの結成40周年の記念ライブ - 今年唯一のライブ - がHyde Parkであって、当然そっちに行くもんよねと発表時点から強く思っていたのだが、ものすごい勢いであっという間にチケットは無くなってSold outがついて、ううーむになってこいつはしぶとそうだ、と。

他方でこれのチケットも早々に売り切れていて、ある日悪くない席が空いていたのでとりあえず取って、そしてしばらくしてThe Cureのと日にちが被っていることがわかった。 こちらをキャンセルしてThe Cureのほうをなんとかする、というのがそれなりにThe Cureに寄り添ってきたものの取るべき態度ではないか、と思っていたのだが、日が近づくにつれて暑いしだるいし、なんかどうでもよくなっちゃったので、そのままにして当日が来てしまった。 あーあ。

7:30に場内の照明がサーチライトのようにぐるぐる回って、オープニングのCURLが現れる。
5人いて、まんなかにエレクトロがふたり、ギターがひとり、太鼓がひとり、曲によって3人がラップする。エレクトロのひとりはMica Leviさんで、彼女はたまにギターもがしゃがしゃやる。 音はエレクトロ+ヒップホップ、なのだが、全体に漂うアンダーグラウドのスカスカした殺気みたいのがすごい。 道端とか場末の倉庫で鳴らしているかのような素の空気感がそのまま演奏の粗さとテンションに出ていて、だからなに? の無頓着さもかっこいい。

8:30くらいにOneohtrix Point Neverが登場する。 配布されたプリントにはMyriad Ensembleとある4人のバンドで、ドラムスひとりとキーボードとかコンソールに向かう3人。OPN = Daniel Lopatinさんは真ん中の少し高い位置に座って、たまに愛想よく手を振ったり微笑んだりする。
背後には鋭角で切り取られたパネルが組み合わさっていて、ステージ右左の高いとこには化け物みたいな球形のオブジェが風鈴みたいにぶら下がってくるくる回っていて、照明は曲によって緻密に設計されているようで、ストロボからなにからがんがん。

こういう系統の音に詳しくないので、誰それのなにに似た音、みたいな形容ができないのだが、このショーの中心となる新譜”Age Of”のジャケットアートなどなどを見ると、中世の異形とか魑魅魍魎とか魔女狩りとか、その辺の過去の時間や非人間、非生物のありようをデジタルの波形を使って「数々」-「いっぱい」- Myriad - 表してみたらこんなふう、って。 

音は分厚いかんじはしなくて粒とエッジの立った音々がひとつの面上と線上でびちーっと並んで共時で攻めてきて、そこに人力のドラムスが独特の揺らぎを持ちこんでくる。 暖かい~冷たい音という形容とは別の、蛍とか星みたいに瞬いては消えていく、きれいなだけの音のうねりが無機質な平面上に散らされた時に一瞬立ちあがる生々しさ – 途中で1曲だけ、カウボーイハットに仮面をした長袖レオタード姿の女性ダンサーが5人、客席側からステージに上がってひと通り踊ってそのまま客席に降りて消えていった - なんだろあれ? の奇妙な感触 -これは映画 “The Bling Ring” (2013) や”Good Time” (2017)のサウンドトラック、それらが走っていた画面上でも起こっていたことだよね、と改めて確認した。

エレクトロでリズムもあるけど、フロアで踊るかんじの音ではなくて、どちらかというとクラシックを聴くのに近いかんじでみんな背筋を伸ばして聴いていた。曲によってはニューエイジみたいに聴こえるのもあったし。別にいいけど。

屋内よりも野外で聴いてみたほうがおもしろいのではないかしら。
アンコールもしてくれた。 もっと邪悪なひとをイメージしていたのになんかよいひとっぽかった(それがどうした? - Richard David Jamesみたいだと思ってたか?)。

7.13.2018

[log] July 13 2018

12日の昼前、在英日本国大使館ていうところからメールが来て、13日にトランプの訪英に抗議するデモがあるので「安全確保に努めるように」とあって、当日のルートとかがご丁寧にリンクしてあって、デモにはどっちみち行くつもりだったのでわざわざ教えてくれてありがとう、だった。

そのメールに直接そうは書いていないけど、危険だからデモには近寄らないように、みたいな書きっぷりで、なに言ってやんでえあの提灯フグがのさばって国境越えて来ることの方が世界にとって10000倍危険だわ、って思ったのと、昨年の2月に訪英しそうだったときにウェストミンスターでの抗議デモに行って、散々文句いって撃退したのにのこのこやって来るとはいい度胸だナメてんのかおら、って。

13日金曜日の午後は仕事でLondon Bridgeの方にいて、4時過ぎくらいからうずうず落ち着かなくなって4:30くらいにもう我慢できねえ、って地下鉄でトラファルガー広場に向かった。ほんとは着替えて行きたかったのだけど、そんなことも言ってられない。

昨年2月よりもすごい人出で、みんなそれぞれ好き勝手な格好(夏祭り?)で、思い思いいろんな手書きのプラカードを手に楽しそうで、雰囲気はすごくよくて - こっちのデモはほんとに雰囲気いいのよ、警察が出張って弾圧モードで危険なのは日本のやつよ -  プラカードを見ていると、しみじみあのブタやろうはこんなにもいろんな言葉や絵(すごいのが多い)や風船で底の底まで嫌われているんだねえ、って感動した。 で、ここまで言われてもカエルのツラでしぶとく辞めないからここまで行っちゃうんだなあ、って。

広場は人で埋まっていて暑いので池のとこにもじゃぶじゃぶ入ってて(いいなー)、その上のNational Galleryのあたりまでびっちりで、壮観だった。赤ん坊に子供から老人まで、いろんな人種の人たち、そして壇上で次々にスピーチしていく人たちもそれをそのまま反映して、パレスチナのひと、シリアのひと、メキシコのひと、アメリカのひと、ムスリムのひと、トランスジェンダーのひと、ラップのひと、環境活動のひと、どれも力強くてかっこよくて、スピーチ慣れしているのかな、と思ったけど、ちがうの。 みんな必死で切実なんだよ。

なんで英国の人たちが(そして日本人の自分が)アメリカの大統領について、その訪英についてこんなにも抗議するのかというと、レイシストでミソジニーでホモフォビアで環境を壊して自分たちの権益のためにはなんでもして、要するに橋をかけるのではなく壁を作って世界を分断した、それを大国の政治のトップにいるガマガエルがおおっぴらにやった、そのやり口があまりに酷くて勝手なのと、このヒキガエルが分断してぶっ壊そうとしている世界は、いま我々が暮らしている世界だからなの。だから黙るわけにはいかないの。 「みんなアメリカを嫌っているから行進しているんじゃない、アメリカを愛しているから行進しているんだ」

だからみんな自分の生きて立っているそれぞれの場所から、彼のやっていることは絶対におかしい、許されることではない (なんで子供を檻にいれて平気でいられる?)、とMartin Luther King Jr. やJames Baldwinの言葉を引いて、連帯しよう、Stand ByではなくStand Upしよう! って言うの。

そのスピーチの熱狂がいちばん盛りあがったのは、やはりJeremy Corbynが登場したときだろうか。すごい人気なんだねえ、だった。 明快で力強いスピーチの動画はネットにあがっているので見てみてね。

日差しが強すぎて目が回ってきたのと足が痛くなってきたのと夕立が来る気がしたので、途中で抜けたのだが、よいライブに行ったのと同じかんじで、すこし元気になった気がした。

それにしても、ここまで嫌われているやつの腰巾着でご機嫌とりまくって尻尾ふってばっかりの自分の国の首相(名前もタイプしたくない)って…  しばらくは英国でいいや。

夕立は久々にみごとなのが来て、雷もばりばりで、いいなー夏だなー、だった。

7.12.2018

[film] The Bookshop (2017)

3日、火曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。

たまたまこの日のこの時間帯、World Cupの英国 vs. コロンビア戦とぶつかっていて、場内は老夫婦とか女性たちばかりでたいへん静かなよい雰囲気だった。

丁度いまかかっている(もう終わっちゃったかな?)アメリカのRom-Comぽい” Book Club”の方はなぜかあんま見たくないのだが、こっちは見たかった。

原作はPenelope Fitzgeraldの同名小説 (1978)、で未読(読みたい)。

1959年、イギリスの海辺沿いの田舎町でFlorence Green(Emily Mortimer)が本屋を開こうと奔走していて、物件は”The Old House”ていう危険なくらいにぼろぼろであんなとこ住むのは無理、と言われるようなところで、地元の金持ちは人が集まるアートセンターに改築しようとしているのだが、彼女は負けずになんとしても、と買い取って開業する。近所のもしゃもしゃ髪の女の子Christine (Honor Kneafsey)が手伝ってくれて、丘の上に住む怪しげで頑固そうな老人Edmund Brundish (Bill Nighy)が本を送れと手紙で言ってきたり、他方でなんとしても建物を手に入れたい金持ちViolet (Patricia Clarkson)は汚い手を使ってきてFlorenceと対決して..

Florenceの本屋の運命やいかに、というお話しよりも建物を手に入れてこつこつ自分の本屋を作っていって、評伝とか詩の本を求めてきた老人Edmundにブラッドベリの『華氏451度』(1953)を送りつけて反応を見たり、その反応がよかったものだから今度は発売されたばかりのナボコフ『ロリータ』(1955)を送りつけて、あなたはこれについてどう思うか? これを店で売ってもよいと思うか? って聞いたりとか、そういうやりとりの方がたまらなくわくわくで、本屋を開く楽しみって、まずはこういうのなんだろうなってじーんとした。 ストーリーの成り行きはそんなに明るくぱっとくる話ではないのだが、最後のところで少しだけほっとする。 ここがあるだけでいいわ、って。

つまり、人はなんで本屋を開きたいと思うのか、開くとどんなことが起こるのか、それはどんなふうに本好きへと伝搬して更なる本への欲望をかきたててどこまでも広がっていくのか。それは本という分厚く綴じられた紙の束、読書という行為、本を手にいれるという行為、それらの大屋根となってくれる本屋をきれいに貫いていて、だから本屋はこんなにも必要とされるものなんだなって。図書館にもそういうとこはあるけど、あっちは神殿みたいなもんで、こっちの本屋は自分の掘立小屋で穴蔵で、でもどちらも極めて必要だし。

公の図書館が骨抜きにされ、町の素敵な本屋がどんどん潰されて、こういうのをビジネス(要は金)とかいうぜんぜん関係ない、読書経験なんてしたこともなさそうな屑共が動かしているのが今の日本で、だからほんとにあの国のなにもかもが嫌でだいっきらいでたまらない。でもあれらをあんなふうなのーたりんのバカ共がやっているのであれば、本好きの魂は、ジェダイのようにどこかにまだいっぱい残っているはずで、いつかきっと、とも夢を見たりもする。

ものすごく甘くて勝手なわがままだけど、先があと1年とか見えてきたら自分ちにあるのをぜんぶ並べて本屋とレコ屋をやってみたいな、ていうのはたまに思う。どこかの「業者」なんかに処分されるくらいなら自分で売ったりあげたりしてお片付けしたい。

地味な作品なので日本で公開されるかはわからないけど、本屋の日(確かあったよね?)にくっつけたりして公開されてほしいな。 いや、それ以上に本好きのためにはFrederick Wisemanの”Ex Libris: The New York Public Library”をお願い。(英国ではもうじき正式公開される)

Bill Nighyがすばらしくて、古典ばかり読んできた堅物なのにブラッドベリやナボコフに萌えておろおろしてしまう、そんな役は彼にしかできないわ。

FlorenceがChristineに贈る本が、Richard Hughesの”A High Wind in Jamaica”。
そして最後に、John Bergerに捧げる、ってでるの。(じーん)

[theatre] Joseph Morpurgo: Hammerhead

7月5日の水曜日の晩、SouthbankのQueen Elizabeth Hallの横にくっついているPurcell Roomていう小ホールで見ました。

演劇なのかパフォーマンスみたいなもんなのか、Joseph Morpurgoという妙な名前のひとがどこの何者なのか、ぜーんぜん知らないわからない状態で、おもしろいよ! とか宣伝文句にあった(まあ、つまんないよ! はないよね)から 、その程度で。予習しないで見るのも楽しいから(ものによっては)。

入ってみたら最前列だった。
ステージには折りたたみ椅子がひとつと小さな卓がひとつ、背後には、やけくそっぽい”THE END”ていうネオン文字が。

時間になるとJoseph Morpurgoさんがやあやあって出てきて、衣装は汚れた包帯みたいなぼろぼろで、目の周りを隈取りメイク(KISSのPeterみたいな)してそのメイクも少し剥げ落ちてややくたびれてて、どういう設定かというと、彼の一人芝居 –  “Frankenstein”(全長9時間)の終演後のQ&Aタイムで、おしゃべりの後にはチーズとワインも用意してあるのでみんな楽しんで帰ってくれたまえ、というもの。

最初の方はお約束で客席からの花束とかいろいろ(事前に客席側にあれこれ仕込んでいる)あって、彼も上機嫌で「うん、それはいい質問だね」とか応えたりしているのだが、だんだんに的外れだったり自分都合(あたしの誕生日だからなんか言って、とか)だったりの質問とか注文が増えてきて緩やかにいらいらし始めて、更には「あなたはわたしが昔養子に手放した子なの。お母さんよ!」 - でもそれは彼にじゃなくて会場の係員に対してだったり、こんなふうに客席側も容赦なくてぜんぜん止めなくなってくるので、自分から苦労とか工夫とか語り始めたり、それならばとTwitterやSkypeからの質問のほうに切り替えて逃げようとしても余計に酷くなるばかりで、ついにぶち切れて頼むからいまみんなが見た芝居についての質問にしてくれって懇願するのだがやめられないとまらない。これでだいたい1時間、最後はなんでかSamuel Beckett DJ Squad、みたいのでがんがんのダンスフロアになって唖然、とした状態でおわるの。

客席からの質問(への受け応え)とか背後に映し出すスライドとか映像とか相当周到に作り込んでいて、その切り替えも自分の手元で全部やってて、激怒して客席にまで乗り込んでいくアドリブとかも含めて、底なしノンストップの自虐ネタを次々と繰り出してきて、見ているこちらの笑いも止まらなくなる。

多分、日本の芸人さんにもこれくらいのことをする/している人はいるのだろうが、こういう執拗で血も涙もない系の虐めを眉ひとつ動かさずに笑いに転化させてしまう芸、更にそれを延々無意味に反復してカフカとかベケットみたいな不条理劇みたいなとこにまで落とし込んでみせるのって、英国とか西欧の方が秀でている気がする。(たぶん自国故の偏見が入っているのだと思うけど、日本人の自虐ネタって底に陰湿ななにかがあるようであんま笑えないの)

あと、みんなの餌食にされてしまう彼の扮しているのがFrankensteinが創りだした化け物だというのは、案外深い意味とかあるのかもしれないのだが、そこに行く手前でぜんぶ粉砕されてしまうようで、それもまた哀れで涙を誘うのだった。

こっちで映画とかの上映後のQ&Aに出ることが結構多くなったのだが、本当におもしろくて当たりだったのってあんまないかも。 日本のQ&Aもそうだけど。 こういうQ&Aだったらおもしろいのにねえ。

7.11.2018

[film] Vagabond (1985)

7月9日の夕方に仕事でポーランドのクラクフに飛んで(ポーランドはじめて)、11日の21:15発の便で戻ってきた。11日は現地の20:00からWorld Cupの準決勝でクロアチア – 英国戦があったものだから、ラウンジ(BAの)に入ってもみんなでTV画面を囲んでわーわーやっててぜんぜんラウンジになっていなくて、離陸するときもみんなスマホでゲーム見てて「このままでは離陸できないのでいいかげんスマホを切れ」てアナウンスが入り、それに対して「30分くらい離陸が遅れても構わないけど」-「おれも」-「おれも」と返す客…

試合のUpdateが入ると機内アナウンスしてくれて、乗り込んだときはまだ1-0でお祭りモードだったのに、途中から墜落することが決まったみたいなお葬式モードになってしまったの。

さて、7月2日、月曜日の晩、BFIで見ました。原題は”Sans toit ni loi”、邦題は『冬の旅』。

BFIでは7〜8月にAgnès Vardaの特集をやっていて、館内の至る所に猫を肩に乗っけたおばさんの切り抜き看板が立ってて楽しくて、10日には御本人が登場してIn Personのイベントもあるのだが、この出張のせいでぱあになった。で、この作品は特集の目玉のような形で2012年のリストアされた版を2 週間くらいリバイバル上映している。
(もういっこ、BFIで進行中の特集がMarco Bellocchio、こちらは壊滅的に見れていない)

冒頭、冬の畑の端っこで女性の遺体が見つかって、ただの行き倒れで凍死しただけみたいなのだが、静かに眠るように死んでいた彼女になにが起こったのか、を淡々と辿っていく。

Mona (Sandrine Bonnaire)は毛布とか荷物一式担いでヒッチハイクとかしたり宿借りたり簡単なバイトしたり野宿したりしながら旅をしていて、いろんな人たちと知り合って話したり寝たり喧嘩したり追われたり逃げたり、死んでしまったMonaに出会った人々の視線で語られる個々のエピソードはおもしろかったりするのだが、でも彼女の旅の目的地とか目標とか事情とかきっかけとかは何もわからない。ただただ移動してて、止まらない = 安住定住しないことが目的になっているような気がするが、それすらも憶測で、ただそこにはひとはなぜ生きるのか? なぜ生まれてきたのか? のような根源的な問いがあるかんじは、する。 もちろん、毎日同じところを行ったり来たりして、毎度毎度あんま変わり映えしない仕事を続けてはいるものの二度と同じ時間を生きることのない我々の日々の生活と何がどう違うのか? という問いもあって、でもそれに違わない、と答えても、違う、と答えても回っているところはおんなじではないか、とか。

つまりMonaがそうしているように、自分で見つけようとしないことには見つからない類いのものではないか、っていうのと、そんなような問いの周辺でうずくまってしまうことこそ彼女の生のありようから遠いなにかなのではないか、と。うだうだ言ってんじゃねえよ – “I don’t care. I move on”  - って彼女は言うよね。

これの前日に見た”Leave No Trace” - これも世界から遠ざかろうとする話 - との関係でなにか言えることはあるのだろうか?  “Leave No Trace” にはTraceしようとする側が明確にあって、そういう勢力というか態度の人達から逃げていく話だったけど、Monaのはそういうのなんてどうでもよくて無頼で、彼女を見た人々の間に強烈な印象を残していて、Traceできるもんならしてみ、どうせ明日にはもういないからさ、って言うの。かっこいいったら。

気のせいかもだけど、”Leave No Trace” のThomasin  McKenzieさんとこの映画のSandrine Bonnaireさんは同じ目をしている。わたしはわたしを見るあなたが何を考えているかわかるよこのクソ野郎、って言ってる。

この映画がリリースされた85年、という年を気にしておく必要はあるだろうか? ニューウェーブもポストパンクもひと段落して、ニューロマが居直りのような形で出てきて、英国音楽への夢と希望は断たれて音楽から離れる人もいて、それらの反動のような形で小汚いグランジが地下でうごめきはじめていた頃。 80年代の無責任無鉄砲さと90年代の切実さの両方を併せもつ、そういう見方もできるかも。 なんであれ、彼女を見よ、ってことよ。

生前の彼女を見たよ、と語る人々がいたように、こんな映画を見たよ、と我々が語り継いでいくような、そんなふうにして残っていく映画ではないか、と思った。

7.09.2018

[film] Leave No Trace (2018)

7月1日の日曜日の昼間、CurzonのBloomsburyのRenoirで見ました。2日続けて同じとこで、森を舞台にした映画を見る。
“Winter's Bone” (2010)のDebra Granik監督の新作、であれば見ないと。 本当にすばらしかった。

オレゴンの凍えて湿気の多い森の奥のほうで、親子と思われる男女が樹々の隙間に寝床(テントなんてちゃんとしたものではない、夜露を避けられるシートを張ったようなの)を作ってそこで暮らしている。
ふたりはWill (Ben Foster)とTom (Thomasin McKenzie)の親娘で、やばいことをしてどこかから逃げてきたふうではないし、なにかを固く信じてそこにいるふうでもないし、修行修練しているふうでもないし、そこでの生活のあれこれは手慣れて落ち着いたもので、食料や物資が不足するとリュック担いで町に出て行って買い出しをしたりしているし、緊急の場合の逃げ道とか逃げ方とかも日々訓練していたりする。

森の入り口にはホームレスの人たちがいるし、森には開発で人も入ってきたりするので無人の聖域ではなくて、やがてTomが見つかって、その後に集団で来られて森の中を逃げるものの捕まってしまう。
ふたりは別々にされて犯罪者である可能性も含めて尋問されたり検査されたりするのだが、そういうのは出てこない。 Willはイラク戦争に従軍していた過去があってその辺から社会が嫌になって、というのは考えられるのだが、学校に行っていないTomへの教育もちゃんとしているし、森での生活にはなんの問題もなかったようだし。

やがてふたりには道具一式揃った簡素な住宅と、Willにはクリスマスツリー用の木の畑での仕事を与えられて、Tomは近所でうさぎに触ったり養蜂を教わったり(うさぎいいなー)人と付き合うことを学んだりして、もう森での生活は卒業かも、になったかんじがあったのだが、でもWillは …

ここから先、お話が急展開するわけではないのだが、ふたりがそれぞれ最後にくだす意思と判断は、人は社会 - 人と人の間でどう生きていくべきか、等について、ものすごくいろんなことを考えさせてくれる。

特に最近の自治体のありよう - ITとかを使ったサービスセンター化していてその見返りのような形で強制参加とか課金(税金)とかして、結果的に統制とか網のなかに入ることを強いる - そういう緩やかな(でも実は野蛮な)支配って、世界中で進行しているのだろうな (日本はここに従来からのムラ意識をベースとした排除とか選別とか見せしめ、が入るので更にきつい - まじで抜けたい)と思わせて、つまり何を言いたいかというと、社会に関わらないで生きたいひとがそうっと生きたり逃げたりできるようなパス(場所も時間も機会も)がない世の中ってだめなんじゃないか、って。 だって実際そういうひとはほんとにいっぱいいるし、自分だってそういうとこあるし、などなど。 ひとは社会のなかで生きないといけないのです、とか小学校から学ぶけど、違うよね、って今更に。

“Leave No Trace” -  逃走の線を。

というのと、でっかくて深い森の威容に対比されるふたりの小さな影と、でもそれが実物大の姿なんだよね、って。

激しい演技をするわけではない消え入りそうに微細で繊細なBen Fosterの演技と“Winter's Bone” でのJennifer Lawrenceにも例えられるThomasin McKenzieの組み合わせはすごくて、このふたりが言葉少なく親娘の情を交わすとこなんてクラシックの名画みたいになる。

演技と同様に、ものすごく地味に響いてくる音楽は元TindersticksのDickon Hinchliffeさん。 ね?


関西の豪雨災害について、一刻も早く回復されますように。
上に書いたようなこととの関連で思うところはありますが、まずは人命、猫命、犬命の救助を。

7.08.2018

[film] Summer 1993 (2017)

6月30日、土曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。
原題は”Estiu 1993”、邦題は … どうでもいいや。

このBloomsburyの映画館には5つくらいシアターがあって、それぞれ名前がついているのだが、いっこRenoirていう名前のばかでっかいのがあって(他のはどれもすごく小さい)、そこでの公開前のPreview + 監督Carla Simónさんとのトーク。 シアターRenoirで、なんだかとても夏のRenoirぽい映画を見る。

6歳の女の子Frida(Laia Artigas)がいて、夜、荷物を整理してどこかに連れていかれる - 引っ越そうとしているようで、街の花火が鳴っているなか、みんなにばいばいって言われて車で運ばれていく。どうやらFridaのママは亡くなってしまって、彼女のおじさんおばさんのところに引き取られていくらしい。
新しい家は森のなかにあって畑があって、鶏がいて猫がいて、Fridaより小さい女の子のAnnaがいる。

新しい家族の3人は唯一の肉親だった母親を失ったFridaに目一杯気を気を配って暖かくやさしくしてあげるのだが、FridaのほうはAnnaに自分が持ってきた人形を見せて、これはみんなあたしが貰ったものなのなんだから、ってなんかお姉さんヅラして威張ってて、ちょっと意地悪そうなのだがこの年頃の女の子にふつうにあるようなあれかしら、と最初は思う。

映画はそんなFridaとAnnaのいろんなエピソードを並べていって、だいたいはFridaがAnnaを泣かせちゃったり、Annaを森のなかに置き去りにしたり、そういうのでおじおばが口論したり、実家からおばあちゃん達が訪ねて来てはまた口論になったり、ちょっと困った子になってしまった感のあるFridaを巡ってのあれこれで、FridaはFridaで、こんなふうになっちゃうんだからこんなとこにはもういたくないママに会いたいよう、って、どうすることもできないのでどうしろってのよ、になって、でもやっぱり …

“The Florida Project” (2017)がそうだったように、子供たちが子供たち同士でわあわあ遊んでいるのはそれだけで絵になってしまうのでずるいや、なのだが、ここのFridaには先に書いたような陰が少しだけ見え隠れして、それが瑞々しい森の景色やまだまっしろなAnnaとの間でなんとも言えない痛ましい対照をみせて、それが幼年期の情景をちょっと違ったものにしている。 でもそれって自分が振り返ったときに見える幼年期のそれに近いのかもしれない。 なにもかも輝いていて美しい、なんてことは決してなかった。 でも、そんなふうでも残っているものはあるよね、とか。

そういうのも含めて、すばらしい(永遠の)夏を描いた映画だとおもった。

上映後、空港からそのまま映画館に直行してきたという監督Carla Simónさんとのトーク。
監督自身の子供の頃を描いた、という点について、フランコ政権が崩壊して82年にスペイン(含. カタルーニャ)が解放された後、若者たちの間ではフリーセックスとかドラッグとかいろいろ自由な空気が広がって、自分の母親もそれらを謳歌したひとりで、彼女が自分を身篭ったのが86年、そのあとでAIDSに感染していることを知ったのだ、と。 なのでタイトルにある1993というのは、自分にとってはまちがいなく意味のある年なのだ、と。

描かれたエピソードはぜんぶ自分がやったものではなく、当時を知る人から聞いたものとか、新たに創ったりしたものとか、いろいろある。 Annaを森に置き去り、は(みんなにあんたあんなことやったのひどいー、って言われたけど)実際にはやっていないし、家出のエピソードもやったことはやったけどFridaほど勇敢に遠くまで行けなかった、とか。

次のがあったので途中で抜けざるを得なかったのだが、監督ってFridaがそのまま大きくなったような外見の方で、素敵だった。

7.07.2018

[film] My Daughter Joy (1950)

6月28日の晩、BFIで見ました。 英国映画で、米国での公開タイトルは“Operation X”。日本では未公開の模様。
原作はベストセラーになったIrène Némirovsky のデビュー作 “David Golder”。

これ、特に何かの特集に紐づいた上映ではなくて、昨年12月に亡くなった英国人女優Peggy Cumminsさんを偲んでのものだという。彼女はBFIの会員で、よく映画を見にきて気さくにお喋りとか思い出話をしてくれた方だったのだそう。

これは当時既にハリウッドスターになっていたPeggyさんが結婚で英国に里帰りしていた時に撮られて、その頃赤狩りのとばっちりで干されていたEdward G. Robinsonも参加して、彼にとっては都落ちのようなかたちになったらしいのだが、素晴らしい演技を見せてくれる。

大邸宅に暮らす貫禄たっぷりなGeorge Constantin (Edward G. Robinson)のところにGeorgette (Peggy Cummins)が訪ねてくるのだが、彼女がパパって呼びかけてもわからないようで明らかに様子がおかしくネジが飛んじゃっているかんじ。 彼に一体なにが起こったのでしょう? - と過去を遡っていくと --

イタリアの豪勢なリゾート地が舞台で、既に十分お金持ちらしくぶいぶい唸っているGeorgeのところにはいろんな怪しげな(どいつもこいつも、ってかんじの)男どもが出入りしてなにやら怪しげな画策をしていて、それは世界をまるごと掌握できるくらいの一攫千金大作戦(これが”Operation X”)のようで、その鍵はアフリカの奥地で採れる鉱物にあるらしいのだが、そういうやばそうな話とは別に、娘のGeorgetteがくるとGeorgeはめろめろになって目のなかに入れても痛くないふうで、彼女が婚約者だというLarry (Richard Greene) - 実はGeorgeの悪巧みを暴こうとしているジャーナリスト - を連れてきてもGeorgetteはパパの娘だからさ、と相手にしないくらい。そういう尊大さ傲慢さが娘をスポイルしていろんなごたごたを生むようになってきたので、ママがついに立ちあがり… 

がらがらがら -

74分の小品だけどかっちり作ってあって、それぞれのキャラクターにぶれも違和もないし、とにかくEdward G. Robinsonがすごいの。ファーストシーンの異様な眼差しと、ラストシーンの後ろ姿が全く無理なく繋がって、ギリシャに生まれて金と権力にとりつかれてのし上がっていった孤独な人物の闇と輪郭を際立たせている。

これ、日本でもできそうな設定のドラマよね(もうどこかにありそう)。 父親役は加東大介かな、山村聰かな。


今日(7月6日)の晩は、あまりに暑いのでアパートのドアも窓もぜんぶ開け放って風を入れていた(冷房ないし)のだが、Hyde ParkでやっているRoger Watersのライブの音が曲名まではっきりわかるくらいの音量で聞こえてきて、なかなかお得なかんじだった。ラストの”Comfortably Numb”の終わりの花火まで - さすがに見えなかったけど。

7.05.2018

[film] The Happy Prince (2018)

6月27日、水曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。公開から結構経っているのになぜかお年寄りで満杯だった。

Oscar Wilde (Rupert Everett) の晩年 – ソドミーの罪で投獄された彼が出所してからフランスに渡り、パリで亡くなるまでを輝いていた頃からの回想を挟みつつ描く。

Rupert Everettが演じるOscar Wildeについては、これの前にDavid Hareの演劇 - ”The Judas Kiss”があって、たまたま出張で来ていた2013年にWest Endのシアターで(席はやや遠かったけど)見ることができて、1895年と1897年の投獄ビフォア&アフターを描いたほぼ彼の独り芝居のようなこれを見ると、Oscar Wildeという人物(を演じる、というよりもWildeになること)に向けられた彼の情熱は十分に伝わってきて、おそらくライフワークのような形で演じていくんだろうな、と思ったのだったが、この映画は彼が脚本を書いて監督して、主演もしている。 事実と多少違っていたとしてもそれがなにか、というくらいOscar Wildeという人の最期、その輪郭、ありようがくっきりと浮かびあがってきて圧倒される。

牢獄を出たあと、友人たち - Reggie Turner (Colin Firth)、Robbie Ross (Edwin Thomas)と再会し、彼らの制止も聞かずにパリに渡って、彼の投獄の原因にもなった愛人 - Lord Alfred "Bosie" Douglas (Colin Morgan)のところに会いに行こうとして、実際に会って抱擁して、でも人々に罵倒され唾を吐かれて追い回されたりするその道行きで心身共にぼろぼろになって死んでしまう。

途中で前妻のConstance Lloyd (Emily Watson)や子供たちのことや落ちぶれて泊まった安宿にいた浮浪児兄弟たちのことが彼の家族のようなかたちで触れられて、そこで彼の童話 - ”The Happy Prince” - 『幸福な王子』を読み聞かせるシーンがあり、それは彼が単にそういうことをした/そうしたかった、というよりも、彼の全ての作品のありようとかそれを貫く想いというのはこんなふうに親密に触れてくるもの、(王子がそうしたように)全身全霊を捧げるようなものだったのだな、ということがわかる。

それと、そこから「愛すること」の反対側にあるヘイトがホモフォビアのような形で自分に降りかかってくることへの不条理と絶望、これが彼を苦しめ、ただでさえ自分の身体の金を削り取りながら惜しみなく与えていた彼 = 王子を押し潰してしまうことになる。

で、彼は亡くなるとき幸福な王子だったのかしら? - これは彼の作品を読んだり、これを見たりした我々が自分自身の底に降りて問いかけてみることでしか答えは見つからない気がして、彼はそういう問いをもって作品を創り、届けてくれた世紀の変わり目のアーティストだったのだな、って。 例えば、Bowieみたいな、ね。

(関係ないかもだけど)例えば、LGBTQの人々とそのアートが何故自分にとって大事なのかというと、人とか人生とかを深く愛するていうのはどういうことか、ていう極めて原理的な問いを常に投げてくれたり立ち返らせたりしてくれるからなの。それは普段どれだけジャンクだパンクだってへらへらしてても必ず10年後、20年後にはぶちあたってくる奴(日和らなけりゃな)で、避けて通ることはできない。 政治とか正義とか倫理とかも同じく、ぜったいやってくるから。

というようなことを、80年代の「あの」英国から出てきたRupert Everettがぼろぼろよれよれに落ちぶれて腐ったようになったWildeの姿を借りて切実に真剣に語りかけてくるような気がして、なんかとてもしみた。 とうの昔に亡くなってしまった人から突然届いた手紙、のような映画。

Oscar Wildeの裁判については、昨年BFIで”The Trials of Oscar Wilde” (1960)ていう映画とそれに続く法律関係者のトークを見たことがあって、裁判のシーンばかりだったのと、アイルランド英語と法律英語の嵐で、半分以上理解できなかったのだが、その後のトークで、この時の審議は相当に際どい拮抗した内容のものだったと(だからしぶとく残ったのね)。 ちゃんと字幕が付いた状態でみたい。

関係ないけど、ここで夫婦をやっているRupert EverettとEmily Watsonて、”A Royal Night Out” (2015)ではKingとQueenだったよね。

7.04.2018

[film] In the Fade (2017)

6月24日、日曜日の午後にCurzonのBloomsburyで見ました。

ドイツ映画で、オリジナルの題は” Aus dem Nichts”。”In the Fade”のタイトルはQueens of The Stone Ageの”Rated R”に入っている同名曲から取られたもので、映画のスコアもJoshua Hommeが担当している – というのを後から知った。それくらい音楽は地味で、この曲すら流れなかった気がする。

2017年のカンヌの最優秀女優賞、2018年ゴールデングローブの外国語映画賞、などなどをいっぱい受賞している。

冒頭は獄中にいるNuri (Numan Acar)とやんちゃぽいKatja (Diane Kruger)の幸せそうな結婚式の様子で、そこから数年後、Nuriは出所してハンブルグに事務所を構えて、ふたりの間には5歳の男の子Roccoができてて幸せそうで、ある日、Katjaがパパの事務所にRoccoを預けて晩に戻ってみると事務所の周囲には非常線が張られて大騒ぎになっていてNuriとRoccoは行方不明で、やがて事務所に仕掛けられたネイル爆弾によりNuriとRoccoは亡くなったことが(DNA鑑定で)わかる。

どん底に叩き落されたKatjaに捜査チームは容赦なくNuriのドラッグ取引をやっていた前科や事務所の帳簿操作の可能性(などによる報復とか)を疑ってきたりするのだが、やがて目撃証言からネオナチによるヘイトテロ(Nuriはトルコ系移民)の線も浮上して、もうどうでもいい、となにもかも嫌になった彼女が自殺しようと両手首を切ったところで、やはりネオナチだった、容疑者を捕まえた、と連絡が入る。

映画の後半は裁判での検察 - 被告男女2名の間の熾烈な、これもKatjaにとっては出口がなくきついばかりの論戦とか互いの証拠の潰しあいで、もはや憎悪と自棄の塊りとなった彼女にとって更にひどいことに証拠不十分で容疑者たちは釈放、という判決が下りてしまう。

この先、死人も同然の抜け殻になってしまったKatjaがとった行動については書きませんが、幸せだった三人家族の思い出(頻繁に挿入される)を抱えこんで動けなくなってしまった彼女にとってはもうあれしかなかったのだろうな、と思わせてしまう映画の過酷かつ周到な追い詰めかたはあるとしても、やはりこういうテロやヘイトで全てを失ってしまった被害者の居場所とか、なぜこういうのっていつまでも無くならないのだろうか、とかそちらの方ばかり考えてしまう - というのは決して悪いことではない、はず。 “Inspired by actual event”と出たように、これと似たようなことは今もいくらでも起こっていることだし、これに関して日本は決して対岸の火事ではないし、などなど。

というのとは別に、ひとつのドラマとしてどうかというと、更生したとはいえ元極道の妻で、脇腹に愛するNuriの顔姿の入れ墨(途中まで)を彫ってて、耐え難い悲しみを紛らわすためにドラッグに手を出して、メカには強くて説明書見れば爆弾くらいは作れてしまうKatjaの動きが最後にああなってしまう、のはどうかしら?  ていうのは少しだけある。Mad Maxをやってほしいとまでは言わないけど、Diane Krugerさんが目一杯がんばっているだけに、ちょっとなー。 いやそういうのも含めて”In the Fade”になってしまうこの閉塞感とか闇とかを見るのだ、と言われるのなら、黙るしかないのだけど。 

QOTSAの*In the Fade*では、“Live till you die, I know”ていう詞がそっけなく反復されるの。

RIP Robby Müller..
映画を見るようになって、初めて映画のカメラ - 撮影監督というのを意識させてくれたのは彼だった気がする。
ご冥福をお祈りします。

7.03.2018

[film] The Bigamist (1953)

6月19日、火曜日の晩、BFIのIda Lupino特集で見ました。邦題は『二重結婚者』。
この作品はIda Lupinoが監督して自身が出演もしていて、そういうのは彼女の作品のなかではこれだけだという。

上映前にBFIのひとのイントロがあって、彼女が言うには、この作品のプロデューサーで脚本も書いたCollier Youngは撮影当時Ida LupinoのEx夫(Idaは2番目の妻)で、Joan Fontaineのその時点の夫で、IdaとJoanはそれぞれがYoung氏と知り合う前からの友人同士で、Idaが離婚してからも3人はずっと仲がよくて頻繁に会ってこんな映画も作ったりしていて、映画の役柄とかテーマもあわせて考えると、ちょっと変態ですねー、って。 なんで別れたりするの? よね。

San Franciscoに暮らすHarry Graham (Edmond O'Brien) とEve (Joan Fontaine)の夫婦は養子斡旋所で養子をもらう申請をしようとしていて、彼らに相対した相談員のJordan (Edmund Gwenn)が、わかりました、問題ないと思いますが後程プライベートなことをいくつか調査させて頂きますから、というとHarryがぴくっ、となる(のがJordanには気になった)。

Harryは頻繁にLos Angelesに出張しているようだったので、JordanはLAに赴いて彼の滞在しているところを探すのだが見つからなくて、彼の勤務先のネームプレートにあった名前が”Harrison” Grahamとなっていたので電話帳で探したその住所に行ってみると、Harryと女性と赤ん坊が暮らしていたのでびっくりして、これは警察に電話しないといけないかも、となったJordanにHarryは過去を語り始める。

LAに出張で来ていたある休日、Harryは暇つぶしでハリウッドスターの豪邸を外から眺めるバスツアーに参加したら、そこで同じようにつまんなそうにしているPhyllis (Ida Lupino)がいて、彼女も孤独そうでぽつぽつと会話をするようになり、彼女がウェイトレスをしている中華料理屋で会ったりしているうちにだんだん離れ難くなっていって…

謎や心理を追い詰めて何かを暴こうとするような告発ものでもなくて、重婚(罪)を糾弾するようなものでもなくて、なぜ彼はこんなふうになっていったのか、をこまこま丁寧に追っていく。 その手口はこないだ見た彼女の”The Hitch-Hiker” (1953)と同じような、人と人の衝突とか出会いがそれぞれに引き起こす化学変化(この映画の場合は恐怖、ではなく、愛情、なのかな)をスローに緻密に追っていくもので、これなら誰にだって起こってもおかしくないことでしょ、という辺りに着地して、そこに違和感はまったくない。
愕然とするくらい冷めた、透徹な目線で孤独な人々の関係のありようを浮かびあがらせる。

ここでの女優Ida Lupino = Hitch-Hikerときたらとにかくものすごくて、その目線、俯きかた、黙りよう、ぽつんとしたかんじ、Femme Fatale的なそれとは真逆な風貌なのに強力な磁場を形成するような独りぼっち感があって、多忙なHarryはひとりであること、生きることへの憧れなんかも込みでふらふら吸い込まれていってしまったのではないか、とか。

そして、そんな彼女をいいように演出した監督Ida Lupinoも言うまでもなくすごし。

ふたりの会話で、「Chop Sueyって本場の中華料理じゃないんだよ、知ってた?」ていうのがなんかよいかんじで残ったの。

[film] The Man I Love (1947)

6月17日、日曜日の夕方、BFIのIda Lupino特集で見ました。
原作は Maritta Wolffの小説”Night Shift”、当初のタイトルは”Why Was I Born?”で、途中から劇中で歌われる1924年の哀歌がタイトルになった。  監督はRaoul Walshで、日本ではどうも公開されていない模様。

NYのナイトクラブの歌手Petey Brown (Ida Lupino)がいて、クリスマスの頃、事情は語らないがそこに居たくなくなったらしく、しばらくの間、西海岸ロングビーチの姉妹と弟がいるところに身を寄せることにする。

姉のSally (Andrea King)はやくざのNicky Toresca (Robert Alda)が経営するクラブでウェイトレスをしていて、小さな男の子がいるのに彼女の夫は復員後の後遺症で神経を病んで病院から出られる状態ではなくて、まだ若い弟のJoeyはTorescaのところで働こうとしていて、アパートの隣人で赤ん坊がいるJohnnyとGloriaのカップルは夢はあるのだがGloriaもTorescaに囲われているパーティガールなのでなんだかざわざわしている。こんなふうに家族や隣人がみんな夜の商売に片足突っこんでいて、喧嘩したり泣いたり笑ったり落ち着きなくてやばそうなので、Peteyはしばらく一緒に暮らすことにして、彼女自身もクラブで歌い始めるのだが、やはりTorescaが寄ってきたり、ややくたびれた船乗りだけど元JazzピアニストのSan Thomas (Bruce Bennett) のことが気になってきたり、いろいろある。 結末はハッピーエンドではなくて、かといってものすごく悪くもないのだが、でも生きていくしかない、流れていくしかない、それが人知れずの小さな決意、覚悟としてそっと差し出される、そんなメロドラマなの。

こんな小さな世界の片隅(アパートとか共同でいろんな人が固まって住んでいるとこ)に吹き溜まったいろんな形のエモとか思いを「綺麗に」散らして共に暮らす者たちのアンサンブルをつくる名手というとまず思い浮かべてしまうのは成瀬巳喜男で、これを見ててなんとなく『流れる』(1956)   とか『夜の流れ』(1960)とかを思いだしてしまったのだが、こういう映画ってありそうでないかも。
(そういえばこないだ、Prince Charles Cinemaで『女が階段を上る時』(1960)を35mmで上映してた)

そうすると更にそこからIda Lupinoの佇まいが杉村春子とか越路 吹雪とかに見えてきてしまったりして、彼女たちの顔って、見ているだけできゅうって切なくなるのってなんでだろう、とか。
あと、これらの夜の社会をテーマにしたドラマって、ノワールと同じように都市化・近代化の流れとかコミュニティの分断の痛みと切り離すことができなくて、この時代に特有の – こういう形でしか現れようがなかったものなのだろうか、とか(小説だと割といくらでもありそうだけど)。

Raoul Walshってこんなメロドラマも撮れるんだねえ、いやでも『いちごブロンド』(1941) みたいなRom-Comも撮ったりしているから万能だよねえ。ぶん殴るシーンの暴発感というか、かっこよさはまさにRaoul Walshだったけど。 セットのなかでは父と娘のようだったというRaoul WalshとIda Lupino、どんな話をしたのだろうねえ?

7.01.2018

[film] Ocean's Eight (2018)

6月23日、土曜日のごご、Picturehouse Centralで見ました。

Debbie Ocean (Sandra Bullock)が5年強の刑期を終えて刑務所から出てくるところから始まって、もう兄の Danny Oceanは亡くなっていて(えー)、彼女はダチのLou (Cate Blanchett)と落ち合って次の計画の話 - 次のMet GalaでCo-HostをするDaphne Kluger (Anne Hathaway)が身に付けるCartierの$150億のネックレス - をやっちゃうから、って。
Debbieが獄中にいる5年間でねっちり練り上げた計画なんだから、って。

それに従って落ち目のデザイナー(Helena Bonham Carter)、宝石屋(Mindy Kaling)、ハッカー(Rihanna)、スリ(Awkwafina)、主婦兼便利屋(Sarah Paulson)などなどが招集され、更にDebbieのExであるセレブ画廊主のClaude Becker (Richard Armitage) にも声が掛けられる。

計画はシンプルで、3Dスキャンしたネックレスからジルコンのレプリカを作って、それを宴の最中になんとかすり替えてわからないように本物を外に運び出す、というやつで、オリジナルを3Dスキャンするとこ、Metの監視カメラへのハッキング、Condé Nast社 - Vogueへの潜入、Daphneへのマーク、いろいろさくさく準備は進んでいって、Met Galaの当日がやってくる。

ここから先は書きませんけど、これって、まあすごい失敗も破綻もないのよ。
“Ocean’s Eleven” (2001) 以降のシリーズはどれもそうだけど、キャストがすごいのでどんなすごいのが… て目一杯期待しても結局はチームプレイを(捕まらないようにして)どう見せるか、という映画なので突出したものすごいことが起こるわけではないの。 Avengersや戦隊モノじゃない、ってことなのね。 印象に残るのは始まる前と終わって散っていくところばかりだったり。

でもなー、Sandra BullockとCate BlanchettとAnne Hathawayが華のMet Galaの表&裏舞台に揃ったらそこでどんな火花が散るのか、期待するなってほうが無理だわ。 とにかくCateさまの存在感がやや希薄なのがもったいない(きっとバックヤードであれこれ焚きつけたり励ましたりやっていたんだとおもう)。

このお話にはDebbieのかつての恋への復讐ていう別の線もあったりするのだが、そっちのほうはCateにやらせて地獄に叩き落とすべきだったんじゃないかしら、とか。
あと、これらとは関係なくRihannaの存在感がすごい。ミスキャストとかそういうのではなく、あのひと、どこにいてもなにしてても目立ってどうしようもないのではないか。

音楽は “Ocean’s Eleven”以降と同様に終始軽快に鳴り続けているのだが、前のDavid Holmesのほうが数段かっこよく画面と連携してて、そこは薄くなっちゃったなあ、とか。

あと、どうでもいいけど、Metのトイレってあんなしょぼくなかったとおもうー。

あと、出所直後のDebbieがBergdorf Goodmanでいろいろせしめるとこ、たいへん勉強になりました。

TVで”Call Me By Your Name”をやってた。 7月の初めに見る映画。