1.26.2018

[film] Monsieur Klein (1976)

19日の午後、アンスティチュで見ました。チケット購入に列ができていて少しびっくりしたがそういうのも含めて懐かしい。ものすごーく懐かしいわけではないところがまたなんとも。

この日から始まったJeanne Moreau特集の最初の1本 - 『パリの灯は遠く』 - 映画が始まって、原題が出たとこで、ああこれ見てたわ、になった(ふだん、いかに邦題を気に留めていないかってことか)。2015年の、たしかアラン・ドロン特集のときに。おもしろいからいいけど。

1942年、ドイツ軍占領下のパリ。冒頭で女性が裸にされて頭部を中心に細部をいじくりまわされ、ユダヤ人の特徴のあるなし、みたいのを動物のようにチェックされて診断されている。すごく怖くて恐ろしくてこんなの冗談じゃないわ、と思うのだが、この映画は最後まで、こんなの冗談じゃないわ、がついてまわる。

美術商のRobert Klein(Alain Delon)は、パリから脱出しようとしているユダヤ人から美術品をちょっと意地悪く買い叩いたりして優雅に暮らしていたのだが、彼の玄関口にユダヤ人コミュニティ向けの情報紙が送られてきて、自分がユダヤ人と間違えられている or どこかのユダヤ人が彼の名前を使ってなりすまそうとしていることがわかる。 そのままでいると自分がユダヤ人としてしょっぴかれてしまうので、彼はなんとしてもそいつを捕まえてこいつです、と差し出すか、この自分はユダヤ人ではない、という証明を取り付けるかしなければならない。

こうして自分とはなんの関係もないはずの、もう一人のMr.Kleinをそいつの女友達とか犬とかも含めて必死に追っていくうちにその名前で括られたなりすまし野郎がだんだん自分自身みたいになって、反対に走り回っている自分が空っぽになっていくような、鏡の向こう側とこちら側が反転していくような、そして次第にそうなっていくことの恐怖に取りつかれて、その恐怖が彼を更に走らせて … こうなると誰も彼を止めることはできなくて、どうなっちゃうのか。

他人が自分ではないことを明らかにすること、自分が自分であることを証明すること、あるいは他人がその他人そのひとであることを証明することがいかに困難か。それって上からみれば家畜の一頭一頭を識別することと同じようなもので、じゃあ識別タグつけるか、てなるとみんな俺は家畜じゃねえ、って言うだろうし。でもこれは紛れもなく人が家畜のように扱われて丸ごと収容所に送られていた時代の話で、でもその本人証明 = 家畜化する試みはいまだに延々続いていて、それなしにヒトは社会の中で認知されて活動できないくらいになっている。 なのでこれはぜんぜん昔の話ではない、いまの我々の話でもあって、なんで自分にこんなメールが? みたいのは日常ふつうにあることだし、もはや誰も気にしなくなっているという −

でもこの時代のこのお話しは、建物や道路の佇まいも含めて骨組とかがらんとした建付けなどが、カフカ的な不条理とその恐怖を煽りたてるかのように上から覆い被さってきて、逃げようのない場所をぐるぐる廻りつづけているようで、冒頭の診断の一頭ごとに隔離される描写も、ラストの雑踏のなかに団子で押し込まれてわけわかんなってしまう描写も、恐ろしいとしか言いようがない。

いまの欧州が個人情報保護をがちがちに固くやっている背景には、やはり過去にこういうのがあったからなんだろうなーとか、真面目に考えこんでしまったわ。

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