英語題は"The Other Side of Hope"。 Googleで訳してみると"I hope beyond that"とか。
26日の晩、CurzonのSOHOでみました。 ここだけデジタルと35mmの両方のバージョンを交互に上映してて、35mm版のほうを。
これの2週間くらい前の土曜日、ここで”Le Havre" (2015)との2本立て(どちらも35mm)のプレビューがあったのだが、それは行けなかった。
冒頭の夜の波止場の風景からして素敵で、字幕の滲んだようなかんじといい、やっぱり35mmいいなー、だった。
で、その波止場に繋がれている貨物船の石炭みたいなのの積荷の缶からウィラード大尉みたいにぬうって頭を出してきたのがシリア難民のKhaled (Sherwan Haji)で、彼はそのまま船を出て駅のほうに向かい構内のシャワーを浴びて、難民申請をしに警察にいく。 もうひとり、シャツ配送サービスの仕事をしているがっちりして強そうな初老のおじさんWikström (Sakari Kuosmanen)がいて、彼は何を決意したのかガラ悪そうな妻のとこに指輪を投げ捨てて出ていって、賭博でいきなり大金を稼ぐと、それを元手に売りに出ていたレストランを従業員3人ごと買ってレストランをはじめる。
Khaledのほうにはシリアを出たあとで離ればなれになってしまった妹がいて、彼女以外の身内はシリアでみんな殺されてしまったので、彼はなんとしても難民登録された状態で彼女を探しだして一緒に暮らしたいと思っている。
移民局との面接の後でKhaledには非情にも強制帰国の決定がくだされて、その結果に彼は無表情で、悲しむことも悲嘆することもなく、でも送還直前に彼はするりと塀を越えて逃走して、おじさんのレストランのゴミ置き場にいるところをおじさんに見つかり殴り合い一往復のあとで、気づけばレストランで働き始めている。どこからか怪しい人たちが現れて偽の滞在許可証を作って貰える。 でもレストランのほうはあまり儲かっていないようでいきなりスシやってみたり苦労していて、楽じゃないよね、なの。
こんな具合に、シリアを中心とした誰が見たって絶望しか見えないような状況のなかで泣くことも笑うこと狂うこともできなくなってしまった男がいて、これほどひどくはないものの(なんて誰にも比べられるものではないけど)自身の人生のどん詰まりを見据えて同様に無口に不愛想になってしまった男がいて、彼らふたりほど詳細には描かれないものの同様に右往左往している(少なくとも希望に溢れて輝いているわけではない)人たちがいて、彼らのまわりではカントリー・ロカビリー・浪花節・パンクみたいのが楽団によってじゃかじゃかやかましく奏でられていて、そういう状態を "The Other Side of Hope"なんて呼ぶことは適切なのかどうなのか。
難民問題について、あるいはフィンランドの社会福祉についておおまじめに論じたり問うたりしている映画ではないことははっきりしていて、たぶん、登場する誰にきいても「希望? そんなのしるかボケ!」になるのだと思うのだが、それでもこの映画がふたりの仏頂面と共に描きだそうとした路上に寝ているひとを拾ったり、犬が(犬だけは)寄ってきたり、ていう波止場の風景、は悪くないよね、て思った。
Aki Kaurismäkiのどの映画もそうだけど、ひとりひとりの顔がどいつもこいつもたまんなくよくて、今回は特にKhaledの(無)表情がすばらしいったらない。 すばらしいなんて言うな、て彼は静かに言うのだろうけど。
KhaledとWikströmが並んで立っているだけで、じーんとくる。
やけっぱちのようにがしゃがしゃどこかで鳴り続けている音楽もよくてねえ。高揚するわけでもどんよりするわけでもない。Alternativeではない、Other Sideで鳴っている、誰かが延々鳴らし続けている音。
あと、紀伊國屋書店の文庫のカバーが唐突に出てきてちょっとじーんとした。(カバー付きの本を展示? しているの)
誰が置いていったんだろうねえ?
5.31.2017
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