夕方にマドリッドから戻ってきました。
8日月曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。 上映後に François OzonとのQ&Aつき。
一次大戦後のドイツで、婚約者のFranzを戦地のフランスで亡くして沈んでいるAnna(Paula Beer)がいて、他に身寄りのない彼女はFranzの両親と暮らしている。
ある日Franzの墓に花が供えてあるのを見つけて、更に彼の墓の前に佇んで泣いているひょろっとした若者を見かけて、声をかけるとそのフランス人はパリでFranzを知っている、単に知っている以上に彼とFrantzとの間にはなにかあったらしい。
フランスで彼になにがあったのか、彼はどんなふうに死んだのか、Frantzのことを少しでも知りたい彼女は彼- Adrien (Pierre Niney) を家に連れて帰って、でも戦後間もなくだしドイツ万歳の義父は敵兵 - 息子の仇としか彼のことを見ることができない。そのうち話を聞いていくとAdrienが本当にFranzの死を悼んでいることがわかって義父母も打ち解けて、食事を共にしたり散歩したりしていくうち、彼女はFranzと同じように文学や音楽を愛する彼を好きになり始めて、両親も一緒になることを勧めるようになるのだが。
この後にAnnaはドイツを去ってしまったAdrienを追ってパリに渡り、行方不明になっていた彼と再会して、でもお話はそう簡単には決着しないの。
まずロスタンの戯曲(未読)があって、それを原作としたルビッチの"Broken Lullaby" (1932) (未見、たぶん)が元にあるのだが、ルビッチのにいろいろ付け加えたりひっくり返したりしているので別のものとしたほうがよいかも、と監督は言っていた。
画面はほぼモノクロで、美しい思い出や回想シーンになると淡いカラーに変わる。すべては夢のなかのような。 Franzの死も含めてすべては夢であってほしかったのに、ともいう。
秋に結婚するはずだったのに夏が来る前にフランスで死んでしまったFranz、亡骸すら戻ってこないので、彼に関する欠落した記憶を求めて、その穴を埋めるために彼女はなんとかAdrienを探して話をせがんで、彼の語るFrantzを、彼の記憶にあるFranzをどこまでも求めて、でもどうあがいても彼は戻ってこなくて、Franzの最後の姿はAdrienの頭のなかにしかいない。 そんなの我慢できないし、それであるならば。
ああなんてかわいそうなAnna.. というそれだけのメロドラマなのだが、いいの。 こんなにむごい、かわいそうな話はないわ。
というような残酷なメロドラマとして見ることもできるし、ひとは愛するひとのイメージのなかで/イメージがあればどこまでも生きていけるものなんだねえ、ていうコメディ(のようなもの)として見ることもできるのかも。
なんで死なんてもんが簡単にひとを引き裂くことができるのか? ちがう、ひとを引き裂くのは生の世界なんだわ、って。
Annaを演じたPaula Beerさんの強い目がすばらしくて、それだけで見る価値はじゅうぶん。
ふたりの佇まいがモノクロのコントラストにとっても似合っているなあ、とか。
ルーブルにあるマネの"Le Suicidé” (1877-1881)、こんど見ないと。
上映後のQ&Aでおもしろかったのは、あるシーンが”Casablanca” (1942)を思い起こさせるのですが? という質問に「実は”Casablanca” って見たことないんだ」とか。
あと、二人が田舎をデートするシーンはカザンの”Splendor in the Grass” (1961)を参考にしている、とか。
第一次大戦後のドイツを舞台として撮るのは結構大変だった、とか。
ひとによっては思うかもしれないLGBT的ななにか、はまったく考えていなかったって。
5.17.2017
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。