なんもできなかったシンガポールから戻ってきている。 体調は変わらずひどおい。
23日土曜日の夕方、「光の墓」の後に新宿で見ました。アジアもの続き。
2009年のバウスの爆音のときにRedux版を見て以来か。
それを見た人の見かた考えかた世界観とかを壊したり変えたりしてしまうような経験をしてしまうことを「映像体験」とか呼びうるのであれば、80年の春に有楽座で見た70mmバージョンというのは自分にとって最初の「映像体験」であったことは間違いなくて、その70mm版のデジタル・リストレーションであるのであれば、見ないわけにはいかない。
ずうっと長いこと、ヴァイナルからカセットまで、フラットな鼓膜に刷りこまれたその最初のイメージ、質感量感、打突感、アウラ、などなどが、デジタル化やリマスタリングやリストレーションなどの最適化や修復を経たバージョンの再/追体験後に「こんなんじゃなかったもん」になってしまった経験は死ぬほどあって、それって一概にデジタル技術のせいとは言えない単なる摺り込み思い込みの類に近いもんであることはわかっているものの、これもやっぱりこれもそういうのが最初にくる。
しょっぱなになんでか”StudioCanal"のロゴが出てくるし、冒頭のヘリの音が左右に散った後にジャングルが燃え広がるとこは初めて見たとき、なんだかわけわかんなかったし、トラが飛び出してくるとこもそうだし、ド・ラン橋のとこなんて錯綜しすぎててなにがなんだか、だった。はずだ。 これらはその後に何度も繰り返してみた35mm版で補正/Fixされたのであるが、それでもあらゆるものがなにこれ? 状態のまま脳に叩き込まれてしまった70mm版の衝撃と鮮烈さから逃れられていない(ことを改めて思いしる)。 そういうもんと思っていたので、今回見たバージョンはひたすらぺたんこでクリアで明るくわかりやすく、湾岸戦争以降、てかんじがした。
70mm版を基軸として物語の全容 - なんてそもそもわかりようがないのだが - はあると思っていて、だから70mm版とエンドクレジットで王国を焼き打ちしてしまう35mm版はまったく別の映画であると、未だに信じこんでいる。(Redux版は? ...)
2010年の”MASH” (1970)の40周年記念上映のとき、トークに出てきたElliott Gouldさんは客席からあるシーンの「意味」について問われて「意味なんてあるもんか。戦争なんだぞ。」と一蹴した。
この映画でも、こんな戦い、内輪揉めをやってなんになるのか、ていう意味/無意味を巡る問いの応酬と諍いがぐだぐだ繰り返し渦巻いていて、これってやはりその目的が「勝利」というより国外に派兵して示威・牽制すること or 利権うんたら にシフトしてしまった最近の戦争のありようには馴染まないのかしら、て思った。
例えばアフガン戦争を題材に"MASH"や"Apocalypse Now"は撮れるのか? とか見ながら考えていて、撮れない・難しいのだとしたらそれってよいことなのかやばいことなのか、とか。たぶんやばいことなんだ、終わりが見えないから、「意味」が延々先延ばしされるだけだから。 で、そのツケはぜんぶ兵士のほうに - 『帰還兵はなぜ自殺するのか』 とか。
だから宣伝のコピーにあった『血まみれの歴史にジ・エンドを』はちょっと違うかも、と思いつつ、でもこのわけのわかんなさ、その恐怖 - “The horror... the horror... ” - は今こそ見られるべきなんだわ、て思った。
5.15.2016
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