4月30日の午後、新宿でみました。
とっても不謹慎だと思うし、既にだれか言っているのだろうけど『オマールのえび』
と言ってしまう誘惑を抑えることができない、『オマールの壁』。
パレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区、イスラエルが占領してて町はとんでもなく高い壁であちこち分断されていて、そこをパレスチナ人のパン職人Omar(Adam Bakri)はするする登ってひょいひょい超えて、結婚したいと思っているNadia (Leem Lubany)に会いに行ったりしている。彼女の兄のTarekは反イスラエル活動をしているグループのリーダーで、TarekとOmarと幼馴染のAmjadは3人で射撃の練習をしたりしながら襲撃の計画を練っていて、ある闇夜に実行したら警備兵に命中して3人は追われる身となり、やっぱしOmarは捕まって拷問にあってぼろぼろにされて。
やがて囚人に紛れていたイスラエル人エージェントが獄中でOmarにコンタクトしてきて取引を持ちかける。 シャバに戻ってイスラエルの二重スパイとして生き、仲間を売るか、そのまま牢獄で埋もれて潰れてなくなるか。強制はしない選ぶのはお前だ。
ひどい選択肢だけど、Nadiaを諦めることができない、それ以上にこんなところで自身の生を棄てるわけにはいかないOmarが選べるほうはひとつしかなくて、でもそうして戻ってみるとNadiaはAmjadのものになっていて、周囲は自分に疑いの目を向けてくる(そう簡単に戻ってこれるわけないから)。
扉が開くと向こうに馴染みの顔があってお茶が出てきたり、というほっとする場面もいくつかあるのだが、そこに到達するまでにOmarは壁を越え、狭い路地や戸口を全速力で駆け抜けて追っ手を播き、を何度も何度も繰り返す。そこまでしないと仲間とのお茶にたどり着くことができない。
お茶もそうだし、3人の幼馴染の友情、ひとりの女性を巡る愛と嫉妬と裏切りという誰もの肌身に近いところのお話しを否応なしにずたずたにする理不尽な力、こんなのってテロや戦争以外にありえないと思うのだが、でもこれがグローバリゼーションの突端で「世界」から認知されているイスラエルが隣国に対してごくおおっぴらにやっていることなのだ、と。
映画はそんな運命・時局に翻弄されるかわいそうな青年Omarの成り行きを追う、というより、あらゆる壁に囲まれ狭められていく窮屈な生に抗って充満し横溢し暴走していくOmarの怒り=生を真正面から見据えて離れることがない。 やられちまったパンクであるOmarのそれでも緩めることのできないぼろぼろの拳や瘡蓋や魂をふざけんじゃねえよおら、と叩きつけておわる。
Omarの目を見ろ、彼の、あの目を忘れるな、しか言わない。 見ろ。
5.29.2016
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