5.01.2016

[art] Giorgio Morandi - Infinite variations

ああもう一年の三分の一が終ってしまったなんて。

10日の日曜日の午前、東京駅で見ました。『ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏』
気づいたら最終日であぶねえあぶねえ、だった。

いっぺんにまとめて見れてほんとうによかった。
生涯ひとつのテーマを静かに追い続けた作家モランディ、というイメージは予想していた通り簡単に崩れさり、怒涛のパワーと情念でスタジオでちりちりと音響や無響の研究を続けたエンジニア、のような像が浮かびあがった。
「静謐」のような概念で括ることができないモランディ像については岡田温司さんの『モランディとその時代』を参照のこと。

ある物があるということ、それを認識すること、それがそこにある(あるいはない)、と確信をもって言える、とはどういうことか、というアリストテレスの頃からの存在論・認識論から入って、物のフォルム - でっぱりにひっこみ - や色彩 - 濃い淡い - 置かれた角度に光のあたる角度に眼差しの角度、光の濃度に粒度まで、物が静物としてあること、それが単数であることと複数であること規則性をもってあること、それらの遠近、色の異なりと光の異なり、線と面と境界、絵の具に画材にメディウム、これらのテーマと変数の気の遠くなるような組み合わせ、加工調合リミックスを経て、ふたたび最初の問いに戻って検証してみる。 目に見えていたものは目に見えていたようにそこに現前しているだろうか、違いがあるとしたらそれはなんなのか、と。 この延々続くサイクルを「終わりなき変奏」という。

こんなのちっともシンプルでも静謐でもない。

彼はそれを彼にしか為しえないような秘術や職人芸をもってやろうとしたのではなく、哲学論文が文字と論理を積み上げて精緻に説明したり論証したりするのと同じように絵画の技術を使ってやろうとしていたのだな、ということがひとつひとつを追っていくと見えてくる。根の分岐は3Dで地中300mにも達していて追いきれないのだが、でも幹はいっぽんで。 そこには具象も抽象もないの。

セザンヌのほうがまだ単純でわかりやすい。よくもわるくも。
セザンヌはまだ対象が間違いなくそこにあってその存在とか重心とか核心とかがこちらになにかを訴えかけてくる現れる、というのを素朴に純朴に信じて、そこから始めることができた(そういう時代の - )。
モランディはそのひとつ手前に仮定とか疑いを置いて、そこから始めようとしているかに見える。 えらいなーて思うのは存在の不安とか眼差しの不在みたいなとこに逃げこまずに描きはじめて、止めなかったことよね。

油彩だけでなくエッチング(驚嘆)があって水彩があって、花瓶画があって風景画もあった。
なかでも水彩の存在の境界が融解していくような滲みが - 硬質な油彩の並びのなかにあるとなおのこと - すばらしくて、痺れた。 風景画は初期のカンディンスキーのようだった。

混んでいたのだが珍しく没入して行ったり来たりして、気づいたら時間が。

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