5.31.2016

[film] 女醫の記録 (1941)

5月4日の水曜日、シネマヴェーラの清水宏特集でみました。
この特集ではぜんぶで6本見た。 それまでも清水宏は少し見ていたが、今回のはどれもすごくおもしろくて改めてもっと見たくなった。

ある夏休み、山奥の無医村に女子医学専門学校の女子医学生を中心とした医師・看護団が派遣されて、田中絹代が女医さんの中心で、佐分利信が招いた村で小学校の先生したりその他よろず仕事ぜんぱんをやっている。

ぎりぎりの命の攻防、みたいな血と汗と涙の医療ドラマかというとそうではなくて(最近の気色わるいスーパードクターもの - 見たことないけど - とは断固ぜんぜん違うから念のため)、集団検診をやってもいろんな理由で来るひと来ないひとがいるので、来ないひとをどうしようか、とか、子供たちの間ではおねえさん達が先生の世話仕事を取ったとか、そこのごはん食べた食べないで小競り合いや仲間はずれがあったり、そういう身の回りの、ほのぼのしたエピソードがほとんど。
『木靴の樹』のにっぽん、森の奥ほんわかバージョンていうか。

やはり困ったちゃん系のはなしがおもしろくて、いくら検診に来いといっても祈祷師がいるからええ、とか言ってごろごろ籠ってばかりで、更に家から結核が出たなんて噂が立つだけでもやばいんだから、行くもんか、お金だってねえだ、娘は稼がせるだ、みたいな理屈を延々いって拒み続けている家があって、そこに乗りこんでいって祈祷師含めてやっつけちゃうの。

でも行ってみれば本当に悪い面倒な奴はいなくて、田中絹代が「おかあさん」(1952) みたいに入っていくとみんな黙って言うこときくの。 そら言うこときくよね。

村の奥、森の向こうまですっと伸びていく道をロングで捉えたところとか、そこに溜まったり澱んだりしている光の具合とか、そこをゆっくり動いていく人の影に表情とか、昔のすてきな風景写真を見たときに感じるぞわぞわしたかんじ、時間がそこに停まっているかんじがずっと残る。
そういうなかで、赤子を鳥の巣みたいのに置いて転がしてある、とか、いろんな子供たちがその空気に色の抜けたルノワールの絵みたいにはまっている。 ドキュメンタリーの空気感とも近いけど、それともちがうかも。

最後、家のすぐ傍を木々が茂って覆っているので陽が入らなくて健康上よくない、ということで村人みんなで木を切るとこがあって、作業の進行とともになにかが開けていくかんじもすばらしかった。

ああもう5月が行ってしまうなんて。

5.30.2016

[film] Zootopia (2016)

5月1日の晩、日本橋でみました。 GWぽいかんじをすこしだけ。

元気いっぱいのウサギの女の子Judyが警官になりたい、って田舎から都会に出てきて警察学校での特訓を経てようやく配属されたもののろくな仕事貰えなくて、でもがんばっているうちに失踪事件 - 元々おとなしかった人(獣)たちが突然凶暴化して消えた - に関われるようになって、詐欺師キツネのNickを仲間に入れてあれこれ探っていくと実は市政ぐるみの陰謀が明らかになって、でもそれだけでは終わんなくて  …

物語としては、がんばりうささんJudyの成長物語、ていうのと、都市の警察・犯罪小説みたいなのの二面があって、前者のほうは、ディズニーの本領発揮というか、事前のリサーチでそもそもはNickのほうだった主人公をJudyにして、更にもともと男のずる賢い系のキャラ(いなばの白ウサギとかバッグス・バニーとかロジャー・ラビットとか … なんでだろね?)だったウサギを女の子にして、それを見る子供たちがちゃんとコネクトできるキャラを作る、という点では成功している。 Judy負けるながんばれ、って思わないのはけだもの、ていうくらい。

問題は後者のほうの、例えばこれを人間の新人警官で実写でやったら結構血なまぐさい犯罪ノワールになってもおかしくないのをなんでぴょこぴょこ動物キャラにやらせるのか、なの。 人間ドラマだとこういうのって犯罪捜査する側も過去に傷があったり闇を抱えていたりして苦労するもんだが、そういうのないし、「おそれを利用するのだ」ていう犯人の言葉もあったけど、アニメによる擬人化でそういうおそろしさは軽減されるのか - ていうより外見とは関係なしにやばいやつはやばいんだから、そういうのに簡単についていっちゃだめよ、ていうことを言おうとしているのか。 あるいはあるいは、アニマルたちの多様性にもうちょっとフォーカスして、どのみち起こりうるものとして備えておくべきなのか。 でも多様性とかいう割には虫も爬虫類も両性類も鳥類もいなくて、なんか恣意性(んなのあるに決まってるだろ)を感じるし。

ミステリーものとしてシリーズ化してもよいかも。鑑識とかやたらめんどうなの。この毛は、この爪は歯型は、この血痕は、DNAは、とか。 新種とか珍獣だとすぐ迷宮入りするの。

そういうのもひっくるめてのZootopiaなんだね、とか。
たぶんディズニーは数年後にアトラクション(か、パークそのもの)を予定していて、そのための準備もあるんだとおもう。 ほんとに実現するんだったら、ナマケモノさんはチケットブースに置いてほしいし、カジノにはやばいかんじの苦虫ネズミにいてほしいわ。

欲をいえば、動物たちはみんなキュートなんだから、もうちょっと矢で射ぬかれるようなきゅんとする瞬間があってほしかったし、あの子たちならできたはずだ。
黒幕は割とすぐわかるんだけど、続編ではぜひ村上春樹のあれをやってほしい。 もうちょっとダークな、80’sのトーンで。

5.29.2016

[film] 45 Years (2015)

5月1日の午後、銀座でみました。
客層は『グランドフィナーレ』と同じように「さざなみ」してみたそうな老人達ばっかし。

『さざなみ』。 さざなみ、って字面だけ見ているとなんだかわかんなくなる。『しおさい』とかもそうだけど。

田舎の一軒家で犬と平穏に暮らしているKate (Charlotte Rampling)とGeoff (Tom Courtenay)の夫婦がいて、週末の土曜日に友人達を招いて結婚45周年のアニバーサリーを開く予定なのだが、月曜日に手紙を受けとる。

そこには夫がKateとの結婚前につきあってて山でクレバスに落ちて亡くなった女性の遺体が発見された、しかも当時のままの姿で凍って、とあって、Geoffはどんよりと動揺しているように見える。
その小さな揺れを感知したKateのほうも、だんだんにどんよりし始めてしまう。
毎日わんわんと散歩くらいしかすることがないのなら、そりゃ来るよね。

彼女はクレバスに落ちたときと同じ服装で、凍結された状態で発見されたのであれば同じ顔立ちと容姿のままで突然ふたりの前に、もちろん物理的でないにせよ現れた。 そこには何の意味もないはずなのだが、それ故にこそGeoffはものすごくいろんなことを考えてしまうに決まっていた。
  • 彼女がいまの自分を、自分たちを見たらどう思うだろう?
  • 彼女の思いはまだ自分のほうにあるのだろうか? あるいは亡くなる直前に仲良くなっていた登山ガイドのほうに移っちゃったのか?
  • 彼女にとってこの45年間はどのような時間だったのだろう? 
これらの裏返しで次のようなことも考えてしまうはずだ。
ていうか全ては自分に対する問いかけでしかないわけだが。
  • 自分は、自分たちは45年の間にどれだけ老いて変わってしまったのだろうか?
  •  自分はまだ彼女のことを愛しているのか、愛していると言えるのか?  それは今のKateに対するそれとどう、どれくらい違うのか?
  • 自分にとって、自分たちにとって、この45年間は?   総括なんてできるとは思えないけど、少なくとも、あの頃の時間の流れかたと今のそれとはなにがどう違うのか?   違っているとしたら、それはよいことなのかわるいことなのか?
そしてもちろん、こんなことも。
  • なんでよりによってアニバーサリーの5日前にでてくるー?
記憶の、忘却の彼方から蘇った彼女が投げかけてくる視線や問い、それらに自責の念も含めて迷い悩んで屋根裏で彼女の思い出を掘りはじめてしまったGeoff、そういった彼の思いや苦悶を瞬時に手にとるように察知してしまうKate。

彼女と共に山の彼方に凍結され、失われてしまった時間、ありえたかもしれないもうひとつの時間、そんなのはもちろんKateにとっては幼稚な男の妄想 - 耳の垢みたいなもんでしかないわけだが、ふたりのお祝いごとの直前にそんなもんにおろおろし始めた夫が、更にはそれにつられて揺れてしまっているらしい自分が情けないし腹立たしいし。 自分たちの45年間て、その程度のもんでしかなかったのか、自分が45年間を一緒に過ごした男はその程度の野郎でしかなかったのか? 
...  そんなもんだったのかも。たぶん。

というような面倒くさい蠅のように頭の周囲を回りだしたそのぐるぐるが時間と共にだんだんうざくなってくる5日間の曇天を、Charlotte Ramplingはその眼差し、表情、姿勢、などなどで圧倒的かつ驚異的に示してみせて、そして最後のパーティで彼女がなにをするのか、やっちゃうのか。

ほんとにラストのその瞬間、うおおおお、てなる。 かっこいい。
The Moody Bluesはよくないんだって。

[film] Omar (2013)

4月30日の午後、新宿でみました。
とっても不謹慎だと思うし、既にだれか言っているのだろうけど『オマールのえび』
と言ってしまう誘惑を抑えることができない、『オマールの壁』。

パレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区、イスラエルが占領してて町はとんでもなく高い壁であちこち分断されていて、そこをパレスチナ人のパン職人Omar(Adam Bakri)はするする登ってひょいひょい超えて、結婚したいと思っているNadia (Leem Lubany)に会いに行ったりしている。彼女の兄のTarekは反イスラエル活動をしているグループのリーダーで、TarekとOmarと幼馴染のAmjadは3人で射撃の練習をしたりしながら襲撃の計画を練っていて、ある闇夜に実行したら警備兵に命中して3人は追われる身となり、やっぱしOmarは捕まって拷問にあってぼろぼろにされて。

やがて囚人に紛れていたイスラエル人エージェントが獄中でOmarにコンタクトしてきて取引を持ちかける。 シャバに戻ってイスラエルの二重スパイとして生き、仲間を売るか、そのまま牢獄で埋もれて潰れてなくなるか。強制はしない選ぶのはお前だ。
ひどい選択肢だけど、Nadiaを諦めることができない、それ以上にこんなところで自身の生を棄てるわけにはいかないOmarが選べるほうはひとつしかなくて、でもそうして戻ってみるとNadiaはAmjadのものになっていて、周囲は自分に疑いの目を向けてくる(そう簡単に戻ってこれるわけないから)。

扉が開くと向こうに馴染みの顔があってお茶が出てきたり、というほっとする場面もいくつかあるのだが、そこに到達するまでにOmarは壁を越え、狭い路地や戸口を全速力で駆け抜けて追っ手を播き、を何度も何度も繰り返す。そこまでしないと仲間とのお茶にたどり着くことができない。

お茶もそうだし、3人の幼馴染の友情、ひとりの女性を巡る愛と嫉妬と裏切りという誰もの肌身に近いところのお話しを否応なしにずたずたにする理不尽な力、こんなのってテロや戦争以外にありえないと思うのだが、でもこれがグローバリゼーションの突端で「世界」から認知されているイスラエルが隣国に対してごくおおっぴらにやっていることなのだ、と。

映画はそんな運命・時局に翻弄されるかわいそうな青年Omarの成り行きを追う、というより、あらゆる壁に囲まれ狭められていく窮屈な生に抗って充満し横溢し暴走していくOmarの怒り=生を真正面から見据えて離れることがない。 やられちまったパンクであるOmarのそれでも緩めることのできないぼろぼろの拳や瘡蓋や魂をふざけんじゃねえよおら、と叩きつけておわる。

Omarの目を見ろ、彼の、あの目を忘れるな、しか言わない。 見ろ。

5.28.2016

[film] Youth (2015)

4月29日の午後、渋谷で見ました。 フィナーレをグランドにしたいと思っているっぽい老人たちでぱんぱんに混んでた。(みんな終って小声でぶうぶういってた)

『グランドフィナーレ』。 

風光明媚なアルプスの奥にある金持ち/セレブ専用の養護施設に引退した指揮者Fred (Michael Caine) とかその友達で次作を準備中の映画監督Mick (Harvey Keitel) とか次作の役づくりをしている人気俳優Jimmy (Paul Dano) とかがいて、期限がきたらエビにされちゃう心配もいらないので散歩したりスパに入ったり演し物を見たりしてのんびり過ごしている。

そんなある日、英国の女王陛下の使いが現れて、女王の式典用にFredが昔作ったオペラ曲を指揮してくれないか、と依頼するのだが彼はそれをつっぱねる、とか、Fredの娘(Rachel Weisz)が旦那に浮気されたあーてびいびい泣きながら現れたりとか、Mickとそのクルーが伝説の老女優 (Jane Fonda)を想定したドラマの脚本を練ったりとか、空中浮遊の瞑想をしている東洋人の僧侶とか、そういうエピソードを散らしつつ、若さと老い、美と醜、捨てることと捨てられること、などなどの対比を通して平穏に見えるけど実は崖っぷちー の生のありようを描きだす、というのがおっきなテーマ、かなあ。

ここらへん、監督のPaolo Sorrentinoが、過去の"The Great Beauty" (2013)とか”This Must Be the Place” (2011)を通して一貫して追求し続けているテーマでもあって、悪くはないし、わかんなくはないのだが、まだ若いよねえ、みたいなかんじはする。 あなた70年生まれでそこにそんなに突っこむ? とか。

例えば映画監督の最期のとことか、"Big Fish"(2003) とかと比べちゃうとぜんぜん来ないんだよね、とか、女のひとの裸が出てきてもぜんぜんエロがないんだよね、とか。いろいろ文句(ていうよりケチ)をつけたくなってしまうのはなんでだろうか、て見ながら思っていた。

どれだけ老いても腐ってもこびりついて落ちない焦げ、みたいのは誰もが持っているもので、それらにどう折り合い(生きる、狂う、死ぬ、など)をつけていくのか - 特に芸術家やパフォーマーの人たちは - でもそんなの人それぞれに決まっているし、だから基本他人のそんなのなんて知ったこっちゃないもんだし、だからそんなとこに隔離されてやってくるような柔いシングルやろうはエビにでも変えちまえ、ていうのが例えば”The Lobster” の思想なんだと思うが、Paoloはきっと、とってもやさしい奴なんだろうな、て思った。

あーでも、一番印象に残って最後まで消えないイメージはFredの老妻の遠くを見つめる目、その顔だったりするので、一筋縄で行かないかも、なんか抱えこんでるのかも、とか。

Mark Kozelekさんが本人で出ている。 ちょっとびっくりしたけど。

5.27.2016

[film] L'enlèvement de Michel Houellebecq (2014)

元のトラックにもどります。 がんばるけど、もう追いつくのはむりだわ。

4月29日の午前、イメージフォーラムフェスティバルの最初の。
すごく混むかと思って行ったらそんなでもなくて、日本語字幕の映写に問題があって英語字幕のみになったので入場料タダ、なのだという。 よくわかんないけど、日本語字幕なしでタダになるならそんなのいらないからぜんぶタダにしてほしい。

『ミシェル・ウエルベック誘拐事件』。 英語題は、“The Kidnapping of Michel Houellebecq”。

ウエルベックの本はいくつか積んである。まだ読んでない。
今のこのくそみたいな状態で「積んである」のを「読んである」にどうやったら ...

気難しそうで面倒なかんじの老人がウエルベックで、明示されるわけではないが作家本人としてそのまま出ていて、町を徘徊していろんな人と会ったり話したり - コルビジェをこきおろしてそこからバラードの話しになって、みたいなのを - している。
で、アパートに戻ったら後ろから屈強な男3人 - ボディビルやっていたり格闘技やっていたりでぶだったり - がついてきてそのままするする縛られて箱に詰めこまれて、それごと車でどっかに運ばれて、梱包を解かれてみるとそこは郊外の一軒屋で、運んできた3人の他にそもそもそこに住んでいるらしい老夫婦がいる。

何のための、何を狙った誘拐なのかよくわからないまま、ベッドのところにやんわりと繋がれた軟禁生活が始まって、映画は著名作家の誘拐事件をめぐる緊迫したやりとりとか救出 or 脱出劇からはほど遠い、誰かから言われるままに誘拐してきた3人と、彼らから頼まれて彼を家に置くことになった老夫婦と、世の中を舐めまくり拗ねまくりろくなもんじゃねえと思っている老作家の、ぜんぜん噛みあわない変な時間空間を描いていくことになる。

誘拐された側が実は難物で曲者で大迷惑、というパターンはこれまでもあったと思うが、ウエルベック氏は腹減ったとかタバコとか酒とか、女(近所の娼婦の姐さんがやってくる)とか、その程度を老人のやかましさでわーわー言うくらい、脱出計画を立てるどころか、日にちが経つにつれて互いにだんだん馴染んできて下宿人みたいになってきたり。

そういうすっとぼけ誘拐ドラマ(コメディ)としてのおもしろさもあるのだが、主眼はたぶんそこではなくて、彼らが誘拐したのは作家としてそれなりに認知されたほんもんのミシェル・ウエルベックで、この「事件」のもたらすインパクト(予測)、犯人像(予測)なども含めて、そのまま現実と繋がっているということだろう。 一軒屋に連れてこられたウエルベックが拷問を受けて殺されて、のようなオルタナの筋書きがあったとしてもおかしくない、そんなふうな何が起こるのか一寸先の見えない緊張感と距離感でカメラは動いていくし、ウエルベック本人にしても演技をしているような熱はまったく感じられないの。

「ミシェル・ウエルベック誘拐事件」 - 映画のタイトルにもニュースの見出しにもなりうるようなこのタイトル、そしてコトは映画用のセットでもなくネットや監視カメラに曝された町中でもない、われわれの視界の外側で、ごくふつうの事件と同じようなかたちでぽつりと起こった。 その妙な生々しさ。

あとなんといってもウエルベックじじい本人のなんともいえないおもしろさ、だよね。 娼婦呼んだときとかもとってもまじなかんじだし。
日本の老作家でああいう絶妙な「演技」したり存在感をだせるひと、いるかしらん?

5.26.2016

[log] NYそのた2 -- May 2016

食べものとかそのた。

17日の夕方、JFKに降りたのは18:15くらいで、そこからもんのすごい勢いでイミグレと税関を一直線に走り抜けて(たぶん一番のりだったはず)、タクシーに飛び乗ってホテルに行って貰う。 

まずはOther Musicに、なんとしても行かねばならないことだけははっきりしていたのだが、タクシーのなかで今夕のOther Musicはインストアイベントをやっている(Tim Heideckerてひと、あとで調べてそれなら見ておけば…と)ことがわかって、ちょっと萎えたのだが、とりあえず、20時ちょっと前に駈け込むことができた。

イベントがあると、狭い店なので半分以上の棚が片方に寄せられてしまう、つまりレコードが半分以上見えない状態になって悲しいのだが、しょうがない。 とにかく店に入って手に取れる範囲にあるレコードを掴んで何枚か買う。 寄せられてしまった奥の棚のも懸命に手を伸ばしたりあれこれやってみて、でも届かなくて泣きそう。 Sam Beam & Jesca HoopとかFrankie CosmosとかMeow the JewelsとかVivien Goldmanとか、で、翌日も時間が空いた隙に一瞬立ち寄ったりしたのだが、あんましなかったかも。(でも、結局、12inch6枚、7inch3枚くらい)

今回はお買い物よりお店にお別れをいうのが目的だったので、棚とかなでなでしてきた。
確かにここ数年は昔ほどの輝き - この店に関していうとものすごく変てこな宝物(それこそ"Other Music")が見つかりそうな雰囲気とか気配 - は以前ほどはなくなったような気がしていて、それってたぶん、音楽の配信とか聴かれかたの変化(Apple Musicの登場とか)に関係しているのかもしれない、て少しだけ思った。 それかあの近辺の再開発のせい - レント代上がっていそう - だろうか。

そこからMcNally Jackson Booksにも走っていって、雑誌とかいくつか。 今回はあんまなくて、Mobyのメモワールをどうしようか悩んで、やめた。 荷物もそんなに持てやしないんだから。
Academy Records(12thの)とか、Mast BooksとかSt,Marksは諦めざるを得なかった。くやしい。
あと一日あったらなあー。

NYのお食事。
Blue Hillが23時の回しか取れなくて、いつものPruneでもよかったのだが、今回新しいのを試してみた。

Le Coq Rico
フランスでミシュランの3つ星を取っているAntoine Westermannによる鶏料理に特化したビストロ。
昨年オープンしたばかり。 店名は仏語のコケコッコ(オノマトペ)に引っかけてあるのかしらん?

鳩とか鴨とか魚も少しだけあるが基本は鶏と卵の店で、鶏の場合は、メニューに90daysとか110Daysとか書いてあって、ああたった生まれて90日で食べられちゃうんだわかわいそうにー、とか思うのだったがそれゆうたら卵なんて。

いただいたのは、En Meurette ていうベーコンと野菜が入った赤ワイン煮込みに半熟卵がふわんと乗ったやつ(見事なバランス)と、メインがBrune Landaise、ていうスペシリャリテ - アルザスの郷土料理で鶏一羽まるごと野菜とかといっしょに煮込んだやつ。 参鶏湯みたいなかんじかも、だけどあそこまで体に効くみたいな濃さ強さはなくて、どちらかというとだらだら煮込んだので好きにして、フレンチフライも付いているよん - のようなやさしさ - ぜんぶふわふわにほぐれて鶏も野菜もぐだぐだになったかんじがたまんないの。 このやさしさ柔さは牛とか豚にはない、鶏特有のなにかだよねえ、ておもった。

あとはNYのフーディーに早めに飽きられないことを祈る。 結構混んでいたけど、こういう系のお店って早めに亡くなられてしまうことも多いので。 ミシュランで星取ったことなんてぜんぜん評価していないのよね、NYの連中は。

18日の朝はDough DonutのプレーンのとToby's Estateのコーヒー。
DoughのとDonut Plantのと、そばとうどんくらい違うので難しいねえ。どっちもおいしいけど。

お昼は、Red Hook Lobster Poundのロブスターロール。  Luke'sのよりこっちのが上だとおもう。

晩は、8時までにシアターに行かねばならず、更にOther Musicにも行ったりしたので時間がぜんぜんなくなってしまい、Porchetta NYCのサンドイッチにした。 それくらいしかなかったのだが、相変わらずおいしい。

というわけで、鶏 → 粉 → 海老 → 豚 で終わってしまった。
これが精いっぱいだったよう。

ダラスのお食事は、覚悟はしていたけど、しょうもなかった。 牛しかおらんのかあの地帯には。

まだなんかあったかも。

5.25.2016

[log] NYそのた1 -- May 2016

NYへの行きの便とダラスからの帰りの便で見た映画とか。 あんまりなくて新しいの2本だけ。
NYからダラスへの便は完全に失神していた。

The Choice (2016)

原作はNicholas Sparksで、「王道」である、とか解説には書いてあったので見ないわけにはいかない。

獣医のTravis (Benjamin Walker)は湖畔(?)に代々からのでっかい家を持っていて毎日夕方になると外に椅子を出して犬とビールで涼んでいて(いいなー)、彼女はいたりいなかったりで、その隣にやはり犬持ちの医学生Gabby (Teresa Palmer)が越してきて、ふたりは最初つんつん喧嘩しているのだが、案の定仲良くなってそしたら彼女には婚約者がいることがわかってTravisはむくれてしまうのだが、やっぱし彼女じゃなきゃだめなんだ、って婚約者に殴られにいって、とにかく一緒になって子供もふたり生まれて、そうしたらやっぱし運命の嵐の晩がきて、Gabbyは …

題名の“The Choice”ていうのは、あのときの選択が運命を決めたんだか運命の選択が天からやってきたんだか、でもそのおかげでぼくは/ぼくたちは … みたいな例のやつで、そんなふうに自分を信じれる強いやつだけが赤い糸に繋がっているのだ、みたいないつものやつで、あんなかっこつけたセリフそう簡単に出てきてたまるかよ、ていうあたりも含めてたまんないのだった。

でも今回のはなんかふつう過ぎてちょっと「王道」からは遠かったかも。
あれじゃ神さまお星さまありがとうー、で終っちゃうのよね。

Benjamin Walkerさんはなんかムダに見えてしまう額の横皺を除けば悪くないし、”Warm Bodies” (2013)のTeresa Palmerさんも素敵なんだけどー。

Concussion (2015)

帰りの便で見るのがなくて。
NFL (アメリカンフットボール、たぶん)業界と脳震盪の闇に迫った感動の実話。だって。

アフリカからやってきた真面目で敬虔な検屍医のDr. Bennet Omalu(Will Smith)は、NFLのスター選手だったMike Websterのホームレスと化してぼろぼろになった遺体の検屍を担当して、なんかおかしい、てスライスした脳の組織を調べていく。 生前の脳スキャンに異常は見られないのだが、組織片には細かい血だまりがいっぱいなの。 で、同様に不可解な事故起こしたり自殺したりした元選手達のケースを調べても同様で、要するに、水溜まりにぷっかり浮かんだお豆腐であるところの脳が激しくぶつかったり揺すられたり震盪したけっか、内部に細かい血栓がいっぱいできて脳が機能しなくなって、認知障害を起こしたり記憶をなくしたり自分が自分でなくなったり … おっかないよう、としか言いようがない事態になっていたことがわかる。

Omaluはこの症例に名前をつけて学会誌に発表するのだがNFL側からはそんなのいんちきだフットボールと脳障害に関連なんてあるもんか、て激烈に反論されて脅迫まで受けて疲れて田舎に引っこんでしまうの。

これが報道されていた当時はひどいなあ、くらいにしか思っていなかったがこんな裏側があったんだねえ、と。 タバコ業界がタバコと健康被害に関連はない、て主張していた頃のと同じやり口なのだが、スポーツだからねえ、おそろしやおそろしややっぱりスポーツもオリンピックもぜんぶなくなっちゃえばいいんだわ、て改めて思った。

Will Smithは抑えに抑えた劇渋の演技で、ああ「名優」になりたいんだろうなー、なかんじ。
“Bad Boys”のちゃらちゃらしてた頃が一番好きなんだけど。(来年の”Bad Boys 3”は…)


そのた。
今回、なんとしても見たかったのはもちろん”Love & Friendship”だったのだが、NYではむりで、ダラスではそんなのどこでもやっていないのだった。

あと、夜中にHBOをつけたらたまたま”Game of Thrones”やってて、娘さんが火山の前ですっ裸になってて、みんなその前に跪いていて、唐突にすごくて、あーぜんぶ見てみたいなー、になった。

あと、深夜のLate Night: Seth MeyersにGreta Gerwigさんが20日公開の”Maggie's Plan” のプロモで出ていた。 髪をショートにして、とってもきれいだった。

5.21.2016

[log] May 21 2016

だらだらと帰りのDFWの空港まで来ました。
この辺で、陽気も地面もあまりにぺったんこでなんもなさすぎるかんじ。
ラウンジにカップ麺を置くのはやめにしてほしい。

19日の朝4:00にNYのホテルを出て、6:00のフライトでこっちに着いて、そこから先はほーんとになんもなかった。 ホテルの歩いていける範囲にはスタバとかサンドイッチ屋がある程度で、車がないとなんもできない。 最後の晩だけぶちきれて外に出てしまったが、結果、映画1、演劇1に留まってしまった。

食べものもサンドイッチとステーキとサンドイッチと日本食で、まあなんというか。
(NYのはそのうち書きます)

こんなに消化不良で欲求不満たまりまくりの旅が続くのは近年珍しいことでしたわ。
仕事だからね。しょうがないわよね。

でもテキサスのこういうところで暮らしたらどんなふうになってしまうのだろう。
この週末はフェスがあるらしく、幟があちこちに立てられていたが、ラインナップはこんなふうなの。

ASIA feat. John Payne, The Guess Who, Survivor, John Waite, Dennis DeYoung and the Music of Styx, Peter Frampton …. 。
さらに日曜日にはトリビュートバンドのステージ、まで出てくる。
Cheers for Tears (Tears for Fears tribute)、Pearl Gem (Pearl Jam tribute)、Forever Mac
(Fleetwood Mac tribute)、Swan Song (Led Zeppelin tribute) ….

行くんだったらやっぱり日曜日、かなあ。

搭乗時刻になってしまった。
ではまた。

[film] Neighbors 2: Sorority Rising (2016)

20日の晩、あまりにつまんなかったのでUberで2mileくらい先にある映画館に行って、見ました。
22:45の回。 これ、シンガポールでもやっていた(米国より早い)のだが、時間がなくて。

映画館はAlamo Drafthouse Cinemaていうモールの中にあるシネコンみたいなとこなのだが、昔の映画のチラシとかポスターがトイレの中までいっぱい貼ってあって、座席の前はぜんぶカウンターテーブルで、メニューとオーダーシートがあって、30分前に来て食べ物頼んでね! と言ってる。 メニューも映画にちなんだ特別なの - 怪しげなカクテルとかはっぱ入りブラウニーとか - もあって、上映前にはFunnie or Dieとか流していて、携帯を切ろうね、も地元のコメディアン(? たぶん)とかがおもしろく言ってくれたりして、デジタル4Kで音もすんごくよくて、好きにならずにいられようか、な場所だった。 また来よう。来れるものなら。

映画は、冒頭から騎乗位でゲロで、おもしろくないわけないの。 だいすき。
前作で、Zac Efron率いるフラタニティ一派との死闘を繰りひろげたSeth Rogen一家は、ふたり目ができるので家を売ろうとして、とりあえず買い手は現れたのだが、30日間、仲介業者が家を預かって監視する期間があって、その間は家と家の周囲にはなにも起こってほしくないのだが、空いていた隣の家に今度はソロリティ(女子学生グループ)が借りて、日夜のどんちゃん騒ぎを始める。

Chloë Grace Moretz率いるこの連中は、お行儀よろしくみんなで仲良くやろう、の女子会みたいの(Selena Gomezがリーダー)がだいっきらいで、酒のんでハッパやって好き放題やってなにがわるいんだよ? をやりたくてたまんなくて、そこにDave Francoの同性婚によって住処を追われたZac Efronがメンターとして入って、前作とまったく同じ構図の死闘が繰り広げられる。 フラタニティは、あれはあれでおもしろかったけど、こんどの女子連中の無軌道ぶりも相当なもんで、校長(Lisa Kudrow)に文句いったり父親に説得してもらったりしても、らちがあかない。

やがて割とこまめに口を挟んでくるZac Efronがうざくなった女子達は彼も追い払ってしまい、けっか、彼はSeth Rogen一家とタッグを組むことになるのだが、それで事態が収拾するわけがなく燃え広がって、さあどうなる、お家は売れるのか、なの。

Seth Rogen一家がそもそもゆるゆるなので、正義対悪みたいな対立には決してならなくて、互いにバカの応酬をしてぐだぐだになっていくだけ、なノリはおんなじで、そこに帰ってきた筋肉バカZac Efronと、気持ちよくなりてえんだ何がわるいんだ? の理屈もくそもない(みんなで”The Fault in Our Stars”を見てひたすらびーびー泣きまくるとか)女子軍が絡んで、さらにどうしようもなくなって、でもおもしろいんだから、いい。

Seth Rogenの人間ミサイルみたいないつもの芸は今回も健在で、あれが見れるだけでよいの。
あと、Beanie Feldstein - Jona Hillの妹さんはすごいねえ。 Rebel Wilsonと組んでなんかやって。

前作ですらシネマカリテでちょっとしかやってくれなかったので、今回のも日本での上映はちっとも期待していない。 けど、ほんとにおもしろいんだからね。しんないからね。

[theatre] The CRUCIBLE

18日の晩、BroadwayのWalter Kerr Theatreで見ました。 この晩は当然のように他にもいろいろあったのだが、これだけ見れればいいや、といっこだけ空いていた前から4列目の真ん中(値段高すぎだよう)を飛びおりて取ってしまった。

Arthur Millerの1953年の戯曲。『るつぼ』。
演出は、こないだNTLで見た「橋からのながめ」のIvo Van Hove。
John ProctorにBen Whishaw、Elizabeth ProctorにSophie Okonedo、Abigail WilliamsにSaoirse Ronan、Hale牧師にBill Camp、Mary WarrenにTavi Gevinson、オリジナルスコアはPhilip Glass、などなどなど。

17世紀末、マサチューセッツのピューリタン社会 - セイラムでおこった魔女狩り/魔女裁判(19人が絞首刑になった)を題材にしたドラマで、こないだの「橋からのながめ」の移民問題と同様に、あるいは初演当時にその連関を指摘された赤狩りと同様に、あるいは、今まさに世界中で、ミクロなレベルで起こりまくっているヘイトや疎外排斥排外、原理主義云々の問題を正面から見据えるためにも、見ておかなければ、とおもったの。

8時開始、休憩一回の4幕もの、2時間55分。
眠くなったらどうしよう、だったが、がちがちばりばりの緊張感にやられてそれどころじゃなかった。
ストーリーはあたりまえだけど、原作を読んでほしい。文庫は絶版らしいが探せばどっかにはある。

舞台は奥に大きな黒板が置かれたシンプルな、埃っぽく薄汚れた教室仕様で(「橋からのながめ」は法廷仕様だった)、ドラマチックな転換や変転はなく、側面からの光や黒板へのプロジェクション(黒板の絵が突然動きだしたりする)を効果的に使いながら村人の間から、少女たちの間から、コミュニティを統治する側から、不気味に不可避的に溢れてくる抗いようのない力の奔流を、そのヒステリックで言いようのない怖さ不気味さを静かに際だたせることに注力していた。

その静かな嵐のなか、善と悪の、神と悪魔の、聖と俗の狭間でぼろぼろになりながら自分や家族にしがみつき、やがて力尽きて崩れ堕ちていくJohn Proctor - Ben Whishaw。 自分を正しく生かし導いてくれるものが神であり信仰であるとするならば、自分を自分でないほうに引きずり込んでいくこの渦とか抑圧とか力とかは、いったい何と呼ぶべきなのか(彼らはそこに神の名を置くわけだが)、どこから来るものなのか。 それを魔女という? ちがうよね? でも…
 
「セールスマンの死」がそうであるように「橋からのながめ」がそうであるように、自分を自分でなくしてしまうような何か、フォースが、自分にとって近しい家族やコミュニティのまんなかから渡されたりやってきたりしたら、そのひとの精神や行動はどうなってしまうのか、どうあるべきなのか、その「何かがやってくる」ありさまや現れを、そいつらがかき回す自分との終りのない葛藤/戦争状態(脳内だけでなく、自分と他者との融和しようのない一線も含めて)をおそらく「るつぼ」という。

社会のある状態(密度、温度、湿度)が持ちこむべくして持ちこんでくるコミュニティと個人の相克をダークに描いた側面がひとつ、もうひとつは謎めいた恐るべき少女たちのお話しとしても見ることはできて、特に冷たい魔女としか言いようのないAbigail - Saoirse Ronanとちっちゃい体で涙鼻水まみれで彼女に立ち向かいおかしくなっていくMary - Tavi Gevinsonの対決は凄まじく、あれだけでゴスホラーのサイドストーリーを作ることができたかもしれない。 彼女たちっていったい何だったのか? は最後まで語られないしわからない。 が、これはこれでなにかを指し示している。

原作では厳しさと強さを持って皆から尊敬されて畏れられているJohn Proctorを演じたBen Whishawは暗い瞳で自身の罪の深さ重さを背負いこみ、ほんの少しの脆さ危うさも併せ持つ人物として彼の皮をむいて裸にして、見事に演じきってみせた。 特に第二幕の終り - 上半身裸になって窓の光に包まれるところなんて、幕が下りたとこでみんなため息をついてしまうくらい神々しいのだった。

過去のプロダクションだと、Liam NeesonとLaura LinneyがProctor夫妻を演じた2002年の舞台は見たかった、のと、サルトルが脚色に参加してYves MontandとSimone Signoretが主演した映画”Les sorcières de Salem” (1957)もみたい。

もういっこ、ちょうどいま、舞台でEugene O'Neillの”Long Day's Journey Into Night”もやっていて、Tyrone一家を演じるのはJessica Lange, Gabriel Byrne, Michael Shannon, John Gallagher Jr. ていうなかなかの人たちで、でもこの作品については、2003年の舞台でPhilip Seymour Hoffmanが演じたJamieが自分にとっての決定版なので、いいや、と思ったの。

演劇って、あんまし見てはこなかったのだが、 Arthur MillerとEugene O'NeillとTennessee Williamsはちゃんと見ておいたほうがいいなあ、って改めて。 アメリカの映画とかアートとかを見たり考えたりするときにいつも的確な補助線になってくれる(ことに最近気づいた - おそすぎ)。

5.17.2016

[log] May 17 2016

先週の機中二泊地上二泊のシンガポールぐうのねもでないがんじがらめ緊縛ぢごく - おとなしくされるがままにしていると少しはよいことが訪れてくれるものじゃと信じてじっとしていたのにまじでなんにも起こらなかったのであぜん  - に耐えられたのも今週のこれが少しだけ見えていたからで、ふんとそういうときに限って極上の湿気と低気圧と偏頭痛、微熱、咳などなどの鼓笛隊がわんわん威勢よく送り出してくれるもんなんだわ。

さっき、こういう陽気にしては珍しく動いていたNEXに乗って成田に来て、これからNYに行って、火曜日の晩と水曜日の晩を過ごして木曜日の朝6時にテキサスかどっかに飛んで、日曜日の夕方に帰ってくる。
仕事のメインはテキサスのほうらしいが、肝心なのはNYの滞在約36時間、仕事だの仕事だの諸雑費諸雑用差っぴいて10時間かそこらにわたしはこの恵まれてない2016年上半期のぜんぶ(ってなに?)を賭けるつもりで山の神海の神自由の女神さまにお願いしてきたの。 この、ほんの、たった、10時間だけなんとか好きにさしてくれればあとの人生どんな辛苦にだって屈辱にだって耐えよう。  耐えるつもりなんてないが。

あっちにはなんとしても見たい文芸映画がいっこと、あともういっこのやつと、両方は無理みたいなので映画は泣きながらあきらめるけど、美術館も今回はあきらめるけど、もういっこのほうだけわあああー。(祈)

だから飛行機おねがいだから飛んで。 東方にまっすぐいって。 遅くに着いたりしないで。

東京ではクラウス・ウィボニー特集とアンスティチュの恋愛映画特集がくやしいよう。

あと、Other Musicにばいばいをするんだ。😢

ではまた。

5.16.2016

[film] À trois on y va (2015)

24日の日曜日の昼、アンスティチュの特集『恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章』で見ました。
『彼らについて』。  英語題は”All About Them”。 おもしろいったらー。

Micha (Félix Moati)とCharlotte (Sophie Verbeeck)のふたりはずっと一緒に暮らしてて新しいおうちの準備リフォームとかもしているのだが、Charlotteは軽犯罪専門の弁護士をしている友達のMélodie (Anaïs Demoustier)とずっと恋仲だったりするので、3人でいる時にもなんか微妙なそわそわ感が漂って、その微妙な温度差をつまんないと感じたMichaと、日頃のしょうもない仕事に振り回されてうんざり疲れていたMélodieはついMichaとキスしちゃって寝ちゃうの。

これでいちばんばたばた大変になっちゃったのがMélodieで、昔からの大切なCharlotteはもちろん、やさしくしてくれるMichaもなんか好きになっちゃったみたいだし、でもそんなことCharlotteには言えないし、MichaにはCharlotteとのことも勿論言えるわけないし、内緒ごとにがんじがらめになりつつも仕事は朝晩容赦なく鬼のように降ってくるし、ああ神様、になってしまうの。

おもしろいのは、Mélodieって決して恋愛に貪欲だったりぎんぎんの肉食系娘でもなんでもない、どちらかというとMichaとCharlotte それぞれの関係においては受け身でケアされてキスされる側にいるかんじなのに、ていうか、そういう断りきれないやさしい娘さんだからこそ恋も仕事もわんさか寄ってきちゃうんだ - でもかわいそうに、とは言わないよ - ていう描きかたをしているとこ。

MichaとCharlotteの新居になる家でMichaとMélodie、MélodieとCharlotteそれぞれが鉢合わせしてそれぞれが大慌てでMélodieに揃って別々の窓から「逃・げ・て!」 ていうところはカメラの動きや構図も含めて本当にじたばたおかしい。『彼は秘密の女ともだち』で「彼女」になってしまった彼の登場にびっくりしつつも受け容れてなんとなく修羅場を回避して前を向くAnaïs Demoustierさんのコメディエンヌとしての得難い魅力が全開で、彼女が好きなひとはぜひ。

そのまま3人で幸せに暮らしていけばいいのになー、というこちらの期待を少しだけずらして、やっぱりそうなっちゃうのかあ、みたいな終り方なのだが、でも「彼ら」はそういうことなんだからいいか… て思わせる、というか最後の浜辺のシーンがほんとうに美しくて素敵で忘れ難くて、”All About Them”の時間がぜんぶあそこにある、そういうかんじがとってもよかったの。

こういう修羅場も悲嘆場もなんもないけど、3人の恋愛と青春の断面がきちんと描かれている映画、ありそうで実はなくて、素敵なんだけどなー。なんで公開しないのかしらん。

この特集、隅から隅までぜんぶ見たいのになかなか行けないよう。くやしいよう。

5.15.2016

[film] Apocalypse Now (1979)

なんもできなかったシンガポールから戻ってきている。 体調は変わらずひどおい。

23日土曜日の夕方、「光の墓」の後に新宿で見ました。アジアもの続き。

2009年のバウスの爆音のときにRedux版を見て以来か。
それを見た人の見かた考えかた世界観とかを壊したり変えたりしてしまうような経験をしてしまうことを「映像体験」とか呼びうるのであれば、80年の春に有楽座で見た70mmバージョンというのは自分にとって最初の「映像体験」であったことは間違いなくて、その70mm版のデジタル・リストレーションであるのであれば、見ないわけにはいかない。

ずうっと長いこと、ヴァイナルからカセットまで、フラットな鼓膜に刷りこまれたその最初のイメージ、質感量感、打突感、アウラ、などなどが、デジタル化やリマスタリングやリストレーションなどの最適化や修復を経たバージョンの再/追体験後に「こんなんじゃなかったもん」になってしまった経験は死ぬほどあって、それって一概にデジタル技術のせいとは言えない単なる摺り込み思い込みの類に近いもんであることはわかっているものの、これもやっぱりこれもそういうのが最初にくる。

しょっぱなになんでか”StudioCanal"のロゴが出てくるし、冒頭のヘリの音が左右に散った後にジャングルが燃え広がるとこは初めて見たとき、なんだかわけわかんなかったし、トラが飛び出してくるとこもそうだし、ド・ラン橋のとこなんて錯綜しすぎててなにがなんだか、だった。はずだ。 これらはその後に何度も繰り返してみた35mm版で補正/Fixされたのであるが、それでもあらゆるものがなにこれ? 状態のまま脳に叩き込まれてしまった70mm版の衝撃と鮮烈さから逃れられていない(ことを改めて思いしる)。 そういうもんと思っていたので、今回見たバージョンはひたすらぺたんこでクリアで明るくわかりやすく、湾岸戦争以降、てかんじがした。

70mm版を基軸として物語の全容 - なんてそもそもわかりようがないのだが - はあると思っていて、だから70mm版とエンドクレジットで王国を焼き打ちしてしまう35mm版はまったく別の映画であると、未だに信じこんでいる。(Redux版は? ...)

2010年の”MASH” (1970)の40周年記念上映のとき、トークに出てきたElliott Gouldさんは客席からあるシーンの「意味」について問われて「意味なんてあるもんか。戦争なんだぞ。」と一蹴した。
この映画でも、こんな戦い、内輪揉めをやってなんになるのか、ていう意味/無意味を巡る問いの応酬と諍いがぐだぐだ繰り返し渦巻いていて、これってやはりその目的が「勝利」というより国外に派兵して示威・牽制すること or 利権うんたら にシフトしてしまった最近の戦争のありようには馴染まないのかしら、て思った。 

例えばアフガン戦争を題材に"MASH"や"Apocalypse Now"は撮れるのか? とか見ながら考えていて、撮れない・難しいのだとしたらそれってよいことなのかやばいことなのか、とか。たぶんやばいことなんだ、終わりが見えないから、「意味」が延々先延ばしされるだけだから。 で、そのツケはぜんぶ兵士のほうに - 『帰還兵はなぜ自殺するのか』 とか。

だから宣伝のコピーにあった『血まみれの歴史にジ・エンドを』はちょっと違うかも、と思いつつ、でもこのわけのわかんなさ、その恐怖 - “The horror... the horror... ” - は今こそ見られるべきなんだわ、て思った。

5.11.2016

[film] Cemetery of Splendour (2015)

9日の深夜にシンガポール行きの飛行機に乗りこんで、なんにも食べず、なんにも見ないで眠りに落ちて着陸態勢のアナウンスが出たところで起きあがったら喉をやられて声がでなくなっていたのでびっくりしたが、とにかくシンガポールに着いて仕事して夜はされるがままにどこかに連れていかれてホテルに戻ってからはぐったりだったのでTVでやっていた"Cinderella" (2015)を見ながらしんだ。ていうのが昨日で、本日も同じようにまる一日監禁状態で、午後に逃げようとしたらすさまじいスコールが来てどうしようもなくて、やはりどうすることもできずにホテルに戻って来た。
いま、TVで”Walk of Shame” (2014) ていうのをやってる。  Elizabeth Banks vs 猫。


23日、土曜日の昼、渋谷で見ました。
もわーんとしたアジアでだらーんと書くには丁度よいネタかも。 『光の墓』

廃校になっている木造平屋の建物が病院になっていて、そこに男達がごろごろマグロのように死んだように寝ていて、でも彼らは死んではいなくて、みんな深く寝入ったまま起きてこないのだという。なかなかの病気ではないかと思うのだが誰も慌てず騒がずに、脚のわるいジェンていうおばさんと知り合いの看護婦と死者とかと交信できるおねえさんとかがいて、のんびり面倒を見ている。

たまに目を覚ます(でもまた落ちる)患者とかと話をしてみると、この土地はおお昔は戦場で、そこで彼らは兵士として戦い続けていることとかがわかってくる。
アフガンの帰還兵を治療したというネオン光を出す機械を入れたり、お詣りにいったらそこに祀られていたお人形が生もののお姫様として現れたりとか、変なことはいろいろあるのだが、患者がみんなゾンビになって踊りだすとか、時間の扉がぱっくり開いて太古のなにかが溢れだすとか、おお昔に何々(戦場、墓場、処刑場、学校、病院、などなど)だった場所であるが故に起こってもおかしくない何かが(期待した通りに)起こる、ようなことにはならない。

それはそういうのにぜんぜん動じないふうのおばさんたちがいるので諦めちゃっているのか、眠りの向こう側で何が起ころうが(それで起きあがれないのなら)知ったこっちゃない、であるのか、いろんなことが想定できるのであるが、「ブンミおじさんの森」のように見るからに変なのが現れること(画面を見ている限り)はなくて、これはお墓のお話しなので地の底でなにか起こっているのかも知れないが、でもそれが「光の墓」なのだとしたらこの世はまっ暗闇であってもおかしくないのに、そうなってはいないのだからそもそも何かが狂ってしまっているのだと思う。

そういう、そもそも何かが狂っていることを前景に置いたり背景に置いたり、それによって影響を受けていたりいなかったりするなにかが遍在している、それでも世界は一部の箍が外れた状態を保ちつつおおわくでは保たれている - 誰によって、とか、なんのために、とか、あのときこうしていたら、とかは置いておいて - ていうのがアピチャッポンなんだねえ、と思った。 
そこに「神様」(多分に、アジアの)を持ちこむのはよいのかわるいのか、とか。

なんとなく、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』のおばさんふたり、アジアバージョン、のようなかんじもした。あの映画はどうしようもなくパリ、だと思うが、こっちはどうしようもなくアジア、だよね。

ふつうのストーリーテリングのおもしろさとはちがうおもしろさがあって、そこに中毒性があるのもわかって、たぶんもうじゅうぶんやられているのだが、これってなんなのだろうか、ていうところが既に。

あんなふうに眠り続けたいな。
たまに起きて、戦争をしているのです、とかいってまたひたすら寝るの。

5.09.2016

[film] SHARING (2014)

こっちから先に書く。

7日の土曜日の晩、新宿でみました。

前回、Filmexでみたときの感想はこちら。
http://talkingunsound.blogspot.jp/2014/11/film-sharing-2014.html

2014年11月に見たときも、早くきちんとした形で公開されますように、と祈ったものだったが、それがようやく実現した、ことを喜びたい。

あの当時から比べるとネットでもSNSでもその上で動くゲームでもIoTでも、ネットの向こう側の世界は爆発的に幾何級数的にでっかくなり、それと共に向こう側の世界にいるわたし、のなりすましも偽造捏造も同様に広がって、向こう側にいる自分がどんなふうに伝播したり複製されたりしているのか、誰にもわからないひでえ状態になってしまった。

更に熊本の震災が起こったことで我々は(福島の)震災「後」ではなく、震災と震災の「間」を生きていることが改めて明らかになり、更に、あそこの原発を停止できなかったことでリスクと脅威は倍加した(なにひとつコントロールできていない、というメッセージとして受け取るよね)。そしてもちろん、福島だってちっとも落着・沈静化していない。 

なんか、どう見たって、よりひどくなっている。

ふたりの女性の、本人達の知らないところで勝手に詳細化され更新されていく、途切れない夢と記憶とそれらの断片、終わらない夢、その恐怖と、でもそこに留まらねばという強い意志、思いの相克、これらの追いかけっこをサスペンス・ホラーの形式で描く、というのが大枠だとすると、彼女たちは2014年以降も夢に囚われたままずっと漂い、彷徨い続けているにちがいない、というのを改めておもう。

ていうのがひとつと、この映画はとても切ない、えぐられるような切なさを抱えこんでいて、それらに対して瑛子と薫が互いにどうすることもできないことをわかっていながらも、ではなにができるのか、と煩悶するのと同様の問いがこちら側にも来る。 この映画を見るのはそういう板挟みのなかに自身を置く、その自分を見つめる体験、でもある。

「共有」という一見ポジティブな衣を纏って暴走する集団的無意識の怖さ(それが生んでしまう自分は自分でなくても構わない、という自棄の感覚と、なぜそれが自分のところに来てしまうのかうざい、という自虐の感覚)と、それでもそれらのダイナミックに動いていく共通感覚のなかで生きなければいけない、これらの負の連鎖連携やしょうもない悪夢の連続を断ち切るにはそこにダイブするしかない、という辛さをどうするのか、ということ。
そして奇妙なことに我々はこの辛さ中でしか生きられないのだ。大切なひと(の記憶)はそこにいる/あるのだから、と。

という覚悟と決意と、あとは絶対確実にいる悪い奴らとどう戦うか、ていうところと。
デモがあんなふうに活性化していくなんて、2014年には想像もしていなかったけど、でも。

あと、もうひとつの反原発映画である『ジョギング渡り鳥』との対比でなにが言えるだろうか。
冒頭のニーバーの言葉にあった、変えられないものを受け入れる冷静さと、変えられるものを変える勇気と、それらを見分ける知恵と、これらを渡りやジョギングという運動とか行為を通して獲得しようとする試みが『ジョギング渡り鳥』で、演劇や聞き取りを通して見極めようとするのがこの映画である、と。

あと、前者がスポーツ、体育会系の映画であるとすると、これはどこまでも文系・屋内(学園)派のための映画なのだと思う。(笑ってはいけないのだが、瑛子のペンギン走りのすさまじさを見てやってほしい)
或いは、瑛子や薫は夢の間を渡り、ジョグしながらこの世界をサバイブしている、とは言えないだろうか。

上映後の篠崎監督ともうじき正式公開される『わたしの自由について~SEALDs 2015~』の西原孝至監督とのトーク、ぜんぜん期待していなかったのだが(ごめんなさい)、ものすごくおもしろく、フィクションとドキュメンタリーの狭間や映画を作ることについて堂々ど真ん中のところを語っていて、カサヴェテスの話しまで出て、よかったの。 『わたしの自由…』 も見なければ。


今週あと一回上映されるアナザーバージョンもすごく見たいのだが、今は羽田で、これからシンガポールに飛んで、金曜の朝に戻ってくるの。  連休からずっと微熱と咳が止まらなくて、今日は低気圧でまじ死にそうで、脳みそごと脱皮しちまいたいのだが、お仕事がなあー。

5.08.2016

[film] Spotlight (2015)

17日の日曜日の午後、新宿でみました。
00年代の始めの、ボストンの新聞社を舞台にしたスクープとそのネタ掘りの実話ね。

2001年、Boston Globe紙に編集局長のLiev Schreiberが着任したところで、彼はかなり昔から小ネタ的にあがってはいるもののなま乾き状態で放置されてきた地元カトリック教会の子供への性的虐待事件/問題を取りあげるようSpotlightチームに指示する。 Spotlight、ていうのは、同紙内でひとつのネタを継続して追っかけていくコラムで、そこでもかつてこのネタを扱ったことはあったのだがそういえば、と戻って振り返ってみると、なんかおかしなところが出てくる。

被害者の弁護士も教会側の弁護士も妙に頑固でほとんど動きがないし情報をくれないので、地味に被害者の声を拾っていくのだが、被害者も年を取っていくし、加害者のほうはどこかに異動か休職か休暇中になっている。でも被害者の痛みや苦しみは消えていないのだから、と入手できる情報をこまこま分析していくと虐待を加えていた(と思われる)教会関係者、地域、そして被害者の数は裁判になっていない分も含めると過去30年間でとんでもない数に膨れあがっていくのだった。

これをいつ、どのような形で公開するのか、についてのいろんな攻防 - カトリック教会側との、新聞社の上との - がスリリングで、早期の発表を求めるSpotlightチームに対して、神父ひとりひとりを告発するんじゃない、告発すべきなのは組織的にこれらを隠蔽してきた教会のシステムそのものなんだ、て上はいう。
こうして2002年に我々の知るようなかたちでのスクープが発信されて、もちろん大騒ぎになった、と。

Spotlightチームを率いるMichael KeatonやMark Ruffaloといった渋いおじさんたち(Rachel McAdamsさんは …)がユーモアの欠片もなしに事件と向き合い、悩み、一直線に奔走する姿はテーマの重さからしてもオスカーなんだろうな、としか言いようがないのだが、テーマのでっかさ、スキャンダラスさから正義のジャーナリスト達を描いた映画のように捉えるのはちょっと違っていて、彼らも事件をわかっていながら長年放置しておいたという点ではより広義な「システム」の一部なのかもしれないと、そういう苦さも描かれている。
なので、編集局長のLiev Schreiberがなんであそこまで力強く揺るがずにGoを出し続けたのか、やろうとしたのか、はもっと掘り下げてもよかったかも。

この、個人というよりもシステムを相手にして追求の手を緩めない、ていうのはそうだよねえ、マスメディア、ジャーナリズムのそもそもの役割ってそこだよねえ、て今のこの国のメディアの惨状をみるとしみじみまっ暗になってしまう。
今読んでいる(あとちょっと)トーマス・ベルンハルトの「消去」に『新聞社のデスクというのは糞ひり野郎以外の何者でもない』ていうところがあって、ほんと日本のことだ(噴)、て思って、まだちゃんとした志をもっている(と思っている)ひとに見てもらいたいもんだわ、だった。

5.07.2016

[film] 東京の恋人 (1952)

17日の日曜日の午前、シネマヴェーラの千葉泰樹特集で見ました。
千葉泰樹特集、ぜんぜん見れなくて、でもこれくらいは、と。 原節子の追悼もしてなかったし。

銀座の街角で似顔絵描きをしているユキ(原節子)は靴磨きの三銃士(浮浪児3人組)と貧しくても清く楽しく歌うたったりしながら暮らしてて、ユキは偽宝石作り(まっとうな仕事なんだと彼はいう)をやっている黒川(三船敏郎)と知りあって、彼が店頭ディスプレイ用に商品を納品した宝石店の隣にはパチンコ玉製造でぶいぶい儲けている森繁久彌の会社があって、森繁は愛人の藤間紫に50万円の宝石をパパ~買って~ てせがまれてて、それが正妻の清川虹子にばれて、更にお店で偽モノと本モノがとりちがえられちゃったのでいろんな修羅場も含めて大騒ぎになって、その火の粉がユキたちのほうにも飛んできてしっちゃかめっちゃかになるのがひとつ。

もうひとつは、黒川が道端で倒れていた娼婦のハルミ(杉葉子)をアパートに連れて帰ったらそこはユキたちの貧乏アパートと同じとこで、病状がよくないので郷里の母親を呼んだほうがいい、ていうことになって、ハルミは母には結婚していて幸せよ、て手紙で伝えていたものだから急遽黒川が夫役で登板することになってじたばたして、でもハルミの病は…

ていうドタバタとかわいそうなののアップダウンが激しくて、メインに置きたいのはたぶん、ユキと黒川のラブコメのはずなのだが、黒川はうさん臭がられたり嫌われたりちんぴらと大乱闘したり介護したり婿役やったり洗濯やったり、あそこまでいろんなひどい目にあったらこんな奴らとかかわりあうのはまっぴらごめん、になっておかしくないのに根が善良なのか他に友達がいないのか、いやいやユキに惚れちゃったからよね、というあたりがよいかんじだった。

それにひきかえユキのほうは、目線も行いもまっすぐでぜんぜんぶれない純正よいこで、三銃士に慕われ、森繁にも惚れられ、黒川にも、ていう満場一致で「東京の恋人」、としか言いようがないのだった。

ラストの、隅田川をボートですーっと滑っていくよいこ組と隅田川の底に潜って指輪を探し続けるじじばば組と、残酷でくっきりした対比もよかったの。

ハルミの看病のシーンで、狭い畳の間に三船敏郎と小泉博(= 追分三五郎 - 三銃士のひとり) - どっちも目鼻が異様にきりっとした若侍顔 - が並んで神妙に座っているのってなかなかシュールな光景だった。

あと、清川虹子が藤間紫を貶していう「あんなふうちゃかぴいの粕漬けみたいな女」ていうのが耳から離れない。 正しい使いかたを知りたい。

5.05.2016

[film] Captain America: Civil War (2016)

連休は風邪ひいたりでさんざんで … こっちから先に書こう。
30日土曜日の晩、六本木で見ました。 3Dじゃなくてもいいか、と2Dで。音だけTCXの。

“Captain America: The Winter Soldier” (2014)と”Avengers: Age of Ultron” (2015)でShieldが実質解体再編成された続きの世界で、Captainのチームが生物兵器を巡る捕物の過程でミスして現場の建物に入っていたアフリカのWakanda国のスタッフに死傷者を出してしまう。

この辺りがきっかけとなってAvangersの活動に一定の歯止めをかけるべくSokovia協定の検討が進んでAvengersは反対派と止むなし派に分かれてしまうのだが、その締結の議場で再びテロが起こり、その犯人として浮かびあがったのがWinter Soldier - パッキーで、Captainはますます窮地に立たされてしまうの。

ここからAvengers同士の二手に分かれての内戦 - Civil War - が加速していって、それはそれはごちゃごちゃやかましく目が疲れるのだが、この映画のテーマはCMで言っているような仲間だの友情がどーした、とかそんなどうでもええ幼稚なところにあるのではなく、そういう内戦状態の持続こそ悪い奴らにとっての思う壺だ、とかわざとらしくいうのでもなく、正義や悪の境界を定義し、それを承認するのは誰なのか、その結果責任はだれが負うのか、というおっそろしく深い根源的で複雑な問い、その提起なのだと思った。

第二次大戦からレッドパージを経由して冷戦、更に911以降、それに伴う地政の変遷、などなどを通してアメリカの正義感、倫理観、イメージは何を基軸にしてどうあったのか、どう変わっていったのか、それらをアメリカンコミックのヒーローであるAvengers(背負って立つ時代背景はそれぞれみんな異なる)はどう鏡像として体現してきたのか、ということ。

今作では海中から巨大戦艦が浮かびあがったり街全体が空中に浮いたりといった子供ごころのカタルシスに訴える見せ場が殆んどないまま、ごちゃごちゃ込み入った(ほんと目が疲れる)地上戦肉弾戦を繰り広げてばかりいるのも、この地味で遠大なテーマと無縁ではない。
ちょうどこないだの”Batman v Superman: Dawn of Justice"も同様のスーパーヒーロー同士の諍いを取りあげているが、あの喧嘩がなんか浅くて半端に見えてしまうのだとしたら、Supermanは地球外から来たやつ、ていう設定と無関係ではないと思う。 ついでにいうと今回の内戦にThorとHulkが入ってこないのにはおそらく明確な理由がある。

話を戻すと、やっちまう前に第三者機関による事前承認がSafeguardとして必要(ネゴ調整可)なんだとするIron Man派と、緊急さと重大さを自身で判断して行動するしその責任は100%とる(だから信じろ)、とするCaptain派と、この対立には正当な解はありえなくて、互いにぜったい譲れない、とするその根っこにあるのが親の仇、だったり、終生の友、だったりするのもおもしろいの。(“Batman vs…”でも生みの親と育ての親がそれぞれ重要な役割を)

更にあのラストに登場するアフリカの第三国、というのもとても示唆的だよね。
正義のよりどころを自分の守るべき家族や友人というよりミクロなところに収斂させ民の納得感をもって煽る、ていうのは戦争のプロパガンダの常道で、それを複数の立場の登場人物のそれぞれの立ち位置を含めて重層的な漫画として描く、そして/それでもこの映画の主人公はCaptain Americaなのだ、というところが、なんかすごいわ、ておもった。

でも個々のAvengers同士のケンカはあんましで、Ant-Manのあれはねえだろ、とか、あれで死傷者がゼロのわけない - 本気だしてないだろ、とか、空港あんなにしちゃって誰が賠償するんだ、とか。
いちばんウケたのは地面にのびちゃったSpider-ManにCaptainが「おまえどっから来た?」 - 「クイーンズだよ」 - 「そうか、おれはブルックリンだ」ていうとこ。 現地で見たかったなあー。 

Spider-Manはあんなつるっとしたガキになっちゃうのかあ、と思っていたら正式(サブ)タイトルは”Homecoming”なのだと。 クイーンズなめんなよ、ていうこと?

5.04.2016

[film] Céline et Julie vont en bateau: Phantom Ladies Over Paris (1974)

16日の土曜日、「夜警」に続けてリベットの二本目。『セリーヌとジュリーは舟でゆく』 193分。
はじめてみた。 おもしろいもんじゃのう。

Julie (Dominique Labourier)が公園のベンチで魔法の本を読んでいると向こうからCeline (Juliet Berto)がすたすた歩いてきて、サングラスを落として、それでもすたすた向こうに行っちゃうのでJulieはCelineを町の奥のほうまで追いかけていって、こうしてふたりの冒険が始まる。

いろんなひとが既に言っているようにこの冒頭から「不思議の国のアリス」としか言いようがなくて、あれが世界をまるごとメタメタで再定義しようとしたのと同じく、この世界では、このふたりの前ではどんなことだって起こりうるし、ふたりにできないことはない。 そんなふうに物語を、世界をいちから作ろうとしている。 

基本はこちら側と向こう側のことで、それはふたりの女の子CelineとJulieの間のことでもあるし、追うものと追われるもののことでもあるし、ふたりが扮したマジシャンとシンガーのことでもあるし、魔法をかけるものとかけられるもののことでもあるし、町のどこかにある謎の古いお屋敷の扉の向こうのこと、そこにいる男とふたりの女と連れ子のこみいっているぽい事情のこと、彼らの時代劇みたいなやりとりとふたりのアナーキーな70年代ふうやりとりのこと、人形と人間のこと、そこに流れる可逆不可逆な時間のことでもあるし、互いが互いのことなんて知ったこっちゃない状態で、すべてが想像上の、虚構の、なんでも起こりうる、どうとでも見る/感じることができるようなやつらでいくらでもわらわら湧いてくるので、じゃあどうするんだよこんなの! て頭がじたばたしてくると、飴玉をなめてごらんよ、とか言われる。 

で、こういう世界のありようにしたって最後にもういっかいぐるりと倒立してしまうのでお手あげである、と。

こんな事態や状況や世界は、CelineとJulieみたいな女の子と猫だけが渡っていくことができる。
世界をきれいに対照的に分かつ水面/鏡面の上をすうーっと魔法のように滑っていけるのはボートだけで、だから『セリーヌとジュリーは舟でゆく』なの。 ボートはひとつでなくてもよくて、別のボートにはアダムスファミリーみたいな例の一家も乗っかって、彼岸と此岸の間を静かに流れていく。
世界(の成り立ちとか現実・非現実)ってひょっとしたらこんなふうなのかも、という重層/多層感を押しつけっぽくなく描くコメディ - ていうかコメディっていうのはこういうかたちで世界を再定義するものなのだ。
とかドゥルーズせんせいはかつて言った。 のかな。

CelineとJulieのふたりって、今だともろBroad Cityだよね。 すてきだこと。

この後の『彼女たちの舞台』(1988) - “Gang of Four”は、大好きだしできれば見たかったのだがもうへとへとだったので諦めてRSD2016のほうに走ったのだった。

5.03.2016

[film] Jacques Rivette - Le veilleur (1990)

16日の昼間、アンスティチュの特集『恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章』(すてきー)で見ました。
前にも書いたが、この日は馬車道でAkermanの最後の上映もあって、ものすごく悩んだのだが、馬車道は遠かった(前売りなんて買いにいけないし)。

現代の映画シリーズ『ジャック・リヴェット、夜警』。

TVのドキュメンタリーシリーズ"Cinéma, de notre temps"の一遍としてClaire DenisがJacques Rivetteを撮ったもの。 同シリーズではかつてRivetteがJean Renoirを撮ったりもしているのだと(1966-1967)。
2部構成で第一部が"Day"、第二部が"Night"、あわせて122分。
基本はSerge DaneyがRivetteにいろんな話を聞いていく、というスタイル。

最初にギャラリーでJean Fautrierの作品を見ているRivetteの姿があって、そこからFautrierの絵の、貌や身体の捉え方の話、画家と描かれる対象の話になって、クローズアップのことまで。
そこからいろんなカフェを巡って、車や地下鉄でパリを移動していくRivetteの姿が捉えられる。 話はあっちへ行ったりこっちへ飛んだり、ロメールやゴダールと会った頃の話から、パリの建築の話から、いろいろランダムに移っていって、それは町中をすたすた歩いたり横切ったりしていくひょろ長い棒のようなRivetteの姿にも重なって、そういうのもあわせて、とにかくとりとめなく移ろっていくの。
“Paris nous appartient” (1961)  - パリはわれらのもの - は勿論引用される。

後半の「夜」は昼間とはうって変って、どこかの建物 - パリ全体を見渡せる - の屋上のテーブルでの対話で、表情すらあまりよく見えない薄暗い照明のなか、ほとんど動きのない状態で対話が続けられる。

最初は17世紀の劇作家Pierre Corneilleのはなしで、古典における悲劇と喜劇の境界とかドラマトゥルギーとか、そういうところから入って、日常とか内面とか、たぶん、聞き手であるSerge Daney、もしくは撮り手であるClaire Denisのなかではそれなりに整合の取れた、一貫したお話しになっているのだろうが、浅い知識の自分とかからすると、ぴょんぴょん飛び地の、これもまたとりとめのないものになってしまうのだった。 でも「夜警」ていうタイトルはなんだかとてもよくわかる気がして。

ああもう少しRivetteを深くきちんと見ていれば見なければ、としみじみ思うのだったが、こういう方面の探求とか旅に誘う - それこそ彼の語るCorneilleとかまで含めて - のって、RivetteとかAlain Resnais特有だよねえ、ておもった。 Éric Rohmerにはあまりこういう啓発するなんかってないよね - かわりに、いいから恋しろ、って煽る。

挿入されたのは ”L’amour fou” (1969) - 狂気の愛とか、”Out 1, noli me tangere” (1971) - アウトワンとか。 アウトワン、なんとしても見たくなってしまったので、クラウドファンディングに参加した。

映画は夜がうっすら白くなりはじめた頃に終るのだが、これはClaire Denisの作品でもあるのだなあ、と彼女の映画で描かれたいくつかの夜について思った。 彼は亡くなってしまったが、彼の映画はまだたくさん薄暮のなかにあって見られることを待っている。 見よう。

5.02.2016

[film] Shine So Hard (1981)

こっちから先に書こう。
5月2日の月曜日の晩、イメージフォーラム・フェスティバル2016で、”Performing the Self”ていう6作品72分のプログラムを見てきた。
ねらいはもちろん、Echo and the Bunnymenの”Shine So Hard” (1981) - 32min の上映。

同名のライブEPでしか知らされていなくて、昔その断片を見た気がしていたが、全体は見てない。
ただライブを撮っただけのものではなく、ホテル近辺にメンバーが現れて会場に向かうところ、周囲の建物や自然のイメージとかも取り混ぜて入っている。
このライブに至るまでのシーケンスがなかなかかっこよくて、ライブになってからも驚異的にかっこよくて、ああ35年間、とか思ったわけさ。 これを35年前に見ていたらいまはこんなとこでこんなことしてないよね、こんちくしょうめ。

Ian McCullochは、つるつるのお肌に真っ赤な唇で、セーター袖を首に巻いて、格好だけだと早すぎたネオアコなんだが、バンドの音の硬さとうねりはとんでもなくて、ああもうーなんかなにに血が騒いでなにに頭きていいんだかわからねえ(嘆息)て、呆然と見て聴いていた。
こういうのを聴いていたので、当時はJoy Divisionなんてどこがよいのかさっぱりだったこととかも思いだした。
Joy Division聴くならCabsとかTGのがまだ、だったし。

ライブEPは4曲で、この映像版では6曲 - Monkeys - Stars Are Stars - Pride - Going Up - All That Jazz - Crocodiles - だった。家戻ってEPも聴き直してみたけど、映像のがぜんぜん音が生きている気がした。 You Tubeにもあがっているけどクオリティひどいのでやめたほうがよいかも。

やはりこの頃がバンドのピークだったのだろうか。もちろん ”Porcupine” (1983)もだいすきだし、"Never Stop”も"The Killing Moon (All Night Version)”も外せないのだが。

これの他に上映された5本は以下;

■The Modern Image (1979)  13min
■Solitude (1980)  13min
Derek Jarmanと一緒にやっていたJohn Mayburyの作品。マスクの、かっこつけの時代。

■Bungalow Depression (1980) Grayson Perry & Jennifer Binnie  4min
こないだSydneyで回顧展をみたGrayson Perryさんの。 Lou Reedの”Walk on the Wild Side”に乗って女装したGrayson Perryが楽しそうに暮らしている。

■The Private View (1981)  Neo-Naturists  7min
体中にペインティングした3人の全裸お姉さんが雪のなかうろうろパーティしているの。
楽しそうだけど、どうみたって寒いでしょ。死ぬよ。

■Adam Ant: Stand and Deliver  (1981) Mike Mansfield & Adam Ant  3min.
こういう構成でAdam Antのクリップ1本だけ流したってだめでしょ。”Prince Charming”とかも入れて纏めて出してあげないとAdamのすごさはわかんないでしょ。

終って、ああかっこよかったよねええー! て言いあう人がいなかったのがちょっとつまんなかった。
ま、当時だっていなかったわけだがね。 ふん。

5.01.2016

[theatre] A View from the Bridge

10日、日曜日のお昼、モランディに浸っていて時計をみたら開始まで15分だったのでびっくりして大慌てで日本橋に駆けこんだ。 シアターのいつものくだんないCMのおかげで助かった。
National Theatre Live。 原作はArthur Miller(初演は1955年)。演出はオランダのIvo van Hove。

1幕もの(2幕バージョンもあるらしいが)で舞台は裁判の審問が行われる法廷(or 格闘のリング?)のように四角に切り取られていて、その辺上に法律家(or セコンド?)の背広姿の男が座ったり立ったりずっといて、たまに公正中立な立場からなんか言ったりする。

あまり治安のよくないBrooklynのRed Hookで港湾労働者をやっているイタリア系移民のEddie Carbone(あのレストランの…)(Mark Strong) は妻のBeatrice (Nicola Walker)と妻方の姪で両親のいないCatherine (Phoebe Fox)と3人で幸せに暮らしていて、そこに妻の従兄弟のMarcoとRodolphoがイタリア - シチリアのほうから渡ってくる。彼らは不法滞在になるわけだが、今のままイタリアにいても望みがないのでやってきたのだと。Eddieもその辺の事情はわかるよ、と彼らを家に置いてあげることにする。

兄弟のうち兄のMarcoは寡黙で力持ちで真面目な働き者で、イタリアに残してきた家族のために仕送りをいっぱいするんだと張り切っていて、弟でブロンド髪のRodolphoは割とちゃらちゃら自由で無邪気で、アメリカで歌手になって成功したいんだ、とか言っている。

やがてみんながおそれていた通りにCatherineとRodolphoは簡単に恋におちて結婚したいとか言い出して、Eddieはそんなのあいつが永住権ほしいからに決まってるし、結婚したらすぐ捨てられる俺にはわかるぜったいにだめ、と懸命に説得するのだが彼女は聞く耳もたないので、最後の手段でEddieは兄弟のことを移民局に通報してしまう ...

Arthur Millerの他の作品がそうであるように始めから(彼らが家にやってきたときから)そのどん詰まりの結末、悲劇は見えていて、Eddieの養娘への強すぎる愛、広い意味での家族 - 同郷愛、素朴な労働に対する誇り、それらをもって地道に一途にやってきたんだ、という圧倒的な思いが、横から現れた若者と、彼らのいう「愛」によって裏切られ引き裂かれたとき、それらは誰にも止められない、誰も引きさがりようのない野蛮な力へと変貌して辺りを血の海に変えてしまう。

その始まりには愛しか、心地よく汗を流してくれるシャワーしかなかったはずなのに、なんで? なにが? どうして? を俯瞰して一挙にみせる後半の演出が見事だった。 とてつもない緊張感と、溢れかえるそれぞれのエモが音をたてて正面衝突する轟音と。

いまの移民問題に結びつけて考えることは可能なのだろうか。 人道支援と家族・身内への愛が同心円上でぐるぐる回って衝突すること、或いはこれってどこにでも起こりうる陣取り合戦のようなものなのか、とか。 アメリカという国(合衆国)はよくもわるくも数百年以上に渡って、いまだにこういう課題問題に向かい続けていて、曝し続けていて、なんだかんだえらいと思う。
お金だけ出して、みてみてうちが一番!て言い続けているしょうもない子供の国よりは。

Eddieを演じたMark Strongの力強さと哀しさはすばらしくて、スパイ映画の悪役とかよりもこっちのほうがだんぜん、と思った。使うの難しいかもしれないけど。
生の舞台で見てみたいなー。

[art] Giorgio Morandi - Infinite variations

ああもう一年の三分の一が終ってしまったなんて。

10日の日曜日の午前、東京駅で見ました。『ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏』
気づいたら最終日であぶねえあぶねえ、だった。

いっぺんにまとめて見れてほんとうによかった。
生涯ひとつのテーマを静かに追い続けた作家モランディ、というイメージは予想していた通り簡単に崩れさり、怒涛のパワーと情念でスタジオでちりちりと音響や無響の研究を続けたエンジニア、のような像が浮かびあがった。
「静謐」のような概念で括ることができないモランディ像については岡田温司さんの『モランディとその時代』を参照のこと。

ある物があるということ、それを認識すること、それがそこにある(あるいはない)、と確信をもって言える、とはどういうことか、というアリストテレスの頃からの存在論・認識論から入って、物のフォルム - でっぱりにひっこみ - や色彩 - 濃い淡い - 置かれた角度に光のあたる角度に眼差しの角度、光の濃度に粒度まで、物が静物としてあること、それが単数であることと複数であること規則性をもってあること、それらの遠近、色の異なりと光の異なり、線と面と境界、絵の具に画材にメディウム、これらのテーマと変数の気の遠くなるような組み合わせ、加工調合リミックスを経て、ふたたび最初の問いに戻って検証してみる。 目に見えていたものは目に見えていたようにそこに現前しているだろうか、違いがあるとしたらそれはなんなのか、と。 この延々続くサイクルを「終わりなき変奏」という。

こんなのちっともシンプルでも静謐でもない。

彼はそれを彼にしか為しえないような秘術や職人芸をもってやろうとしたのではなく、哲学論文が文字と論理を積み上げて精緻に説明したり論証したりするのと同じように絵画の技術を使ってやろうとしていたのだな、ということがひとつひとつを追っていくと見えてくる。根の分岐は3Dで地中300mにも達していて追いきれないのだが、でも幹はいっぽんで。 そこには具象も抽象もないの。

セザンヌのほうがまだ単純でわかりやすい。よくもわるくも。
セザンヌはまだ対象が間違いなくそこにあってその存在とか重心とか核心とかがこちらになにかを訴えかけてくる現れる、というのを素朴に純朴に信じて、そこから始めることができた(そういう時代の - )。
モランディはそのひとつ手前に仮定とか疑いを置いて、そこから始めようとしているかに見える。 えらいなーて思うのは存在の不安とか眼差しの不在みたいなとこに逃げこまずに描きはじめて、止めなかったことよね。

油彩だけでなくエッチング(驚嘆)があって水彩があって、花瓶画があって風景画もあった。
なかでも水彩の存在の境界が融解していくような滲みが - 硬質な油彩の並びのなかにあるとなおのこと - すばらしくて、痺れた。 風景画は初期のカンディンスキーのようだった。

混んでいたのだが珍しく没入して行ったり来たりして、気づいたら時間が。