8日の火曜日の晩、渋谷で見ました。
いったん世界がなんかで滅んだあと - というしょっぱなからまたかよ、のお話しなのだが、崩壊後に新しく作られた世界では、人々は紙みたいに白く綺麗なおうちに住んで毎朝錠剤のまされて、門限も決まっていて、言葉遣いからなにから監視されてて、国だか世界だかの境界はあるんだかないんだか - 知らされていなくて、ぜんぶモノクロなの。
そういうところで学校を卒業するなかよし3人組 - Jonas (Brenton Thwaites)とFiona (Odeya Rush)とAsher (Cameron Monaghan) がいて、卒業のセレモニーで彼らはひとりひとり職業を言い渡されて、それに生涯従事する決まりになっていて、その呼び出しでJonasは最後まで居残りになって、やがておまえはThe Receiverをやるのじゃ、と告げられる。
The Receiverってなに? というと"The Giver"ていうのがいて、それは町のはずれのでっかい家に住んでいる世捨て人のようによれよれのJeff Bridgesで、どうやら過去の歴史のいろんなのを次の代に伝えるような役割らしく、The GiverはJonasにいろんなビジョンとかイメージとかを見せて、Jonasは楽しいのでもっともっと、になって世界はカラーに変わっていくのだが、当然やがて悲惨なやつもでてくるので試練なのと、知れば知るほど、自分の暮らすモノクロの世界は本当の世界なのか、なんかおかしいんじゃないか、境界の向こうにはなんかあるんじゃないか、とか思い始める。当然の帰結として。
ここから先はみんなもどこかで見た展開で、おっかない統治者(Meryl Streep - なんか楽しそう)が出てきて、家族はそんなことやめなさい、て言って、警察に行った友達は敵になって、でも彼女はついてきてくれて、追っかけっこがあって、追いつめられて、などなどなど。
The Hunger GamesでもDivergentでもMaze Runnerでも、こんなふうな若者向けのディストピアばっかしなのはもちろん現実の、じつぶつの世界観や厭世観の反映としてある部分はあるのだろうが、それって勘弁してほしい、て思うところがある反面、ひょっとしたらそれなりに健全な反応なのかも、と。 少なくとも、そばにいたいよう、とか、つながりたいよう、とかめそめそべたべたしている日本の若者映画のかわいそうな「症例」に比べればまだ。 この映画のなかでも過去の陰惨な災禍とかのアーカイブ映像に続いて、各国各地の民衆のデモ映像が流れ、Jonasがそうだ戦わねば! て目覚めるところがあって、そこはどう考えても正しいのよ。 煽られるのは。
あと、The Giverが腐ってしまった原因として、初代Receiverである娘のTaylor Swiftを失ってしまった、ていうのがあって、そりゃ廃人にもなるよねえ、Taylor Swiftを失くしちゃったら。
9.30.2015
9.29.2015
[film] Ernest et Célestine (2012)
6日の日曜日の朝、なんとなく荒んでいたので渋谷でみました。
『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』
いつも腹をすかしているごくつぶし系の(自称)ミュージシャン、クマのアーネスト(おじさん)がいて、寮でクマの脅威を説かれてもそんなことないとおもうわ、ていうはねっかえりネズミのセレスティーヌ(女の子)がいて、この二匹が道端で出会ってなんとなくなかよしになって、お腹をすかせてうるさいアーネストのためにセレスティーヌはお菓子屋襲撃を手伝ってあげて(いけないことよね。 たぶん)、ふたりしてすたこら逃げるのだが雪山のアジトを包囲され攻防戦の果てに捕まって、アーネストはネズミ側で裁判にかけられて、セレスティーヌはクマ側で裁判にかけられて(それって法的にどうなのか、クマの法とネズミの法って並べられるものなの? とか) 二匹の運命やいかに ... なの。
これがニンゲンの世界だったらダークなノワールか拳系の社会正義を説くドラマになってもおかしくないのだが、クマとネズミのアニメだもんだからゆるゆるで、どかどか騒ぐかちょろちょろ騒ぐかしかなくて、なんかわかんないままにみんなうんうん納得させられちゃって、こんなふうだから差別や格差はなくならないんだとか、だから世界は変わらないんだ、とか結局は食べ物(エサ)なんだろ、とか、つっこみたいひとはつっこむのかもしれないが、べつにいいの。 クマとネズミって、それぞれのサイズの比も含めてアニメーションで動きを表現するのに理想的だよねー、とか改めて思った。
クマとネズミだってこんなになかよしに共存できるのにニンゲンときたらまったくなにやってんだか、とぶつぶつ怒りつつ、そのまま伊勢丹前の抗議に向かったのだった。
日本語吹き替えはとてもよいかんじだったが、オリジナル版のアーネストの声はLambert Wilson、英語版はForest Whitakerなのね。 どっちも見てみたいかも。
あんま関係ないけど、ネズミのガンバをあんなふうにするのはいいかげんやめて。
原作の薮内正幸の絵のガンバしか認めないんだから。
『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』
いつも腹をすかしているごくつぶし系の(自称)ミュージシャン、クマのアーネスト(おじさん)がいて、寮でクマの脅威を説かれてもそんなことないとおもうわ、ていうはねっかえりネズミのセレスティーヌ(女の子)がいて、この二匹が道端で出会ってなんとなくなかよしになって、お腹をすかせてうるさいアーネストのためにセレスティーヌはお菓子屋襲撃を手伝ってあげて(いけないことよね。 たぶん)、ふたりしてすたこら逃げるのだが雪山のアジトを包囲され攻防戦の果てに捕まって、アーネストはネズミ側で裁判にかけられて、セレスティーヌはクマ側で裁判にかけられて(それって法的にどうなのか、クマの法とネズミの法って並べられるものなの? とか) 二匹の運命やいかに ... なの。
これがニンゲンの世界だったらダークなノワールか拳系の社会正義を説くドラマになってもおかしくないのだが、クマとネズミのアニメだもんだからゆるゆるで、どかどか騒ぐかちょろちょろ騒ぐかしかなくて、なんかわかんないままにみんなうんうん納得させられちゃって、こんなふうだから差別や格差はなくならないんだとか、だから世界は変わらないんだ、とか結局は食べ物(エサ)なんだろ、とか、つっこみたいひとはつっこむのかもしれないが、べつにいいの。 クマとネズミって、それぞれのサイズの比も含めてアニメーションで動きを表現するのに理想的だよねー、とか改めて思った。
クマとネズミだってこんなになかよしに共存できるのにニンゲンときたらまったくなにやってんだか、とぶつぶつ怒りつつ、そのまま伊勢丹前の抗議に向かったのだった。
日本語吹き替えはとてもよいかんじだったが、オリジナル版のアーネストの声はLambert Wilson、英語版はForest Whitakerなのね。 どっちも見てみたいかも。
あんま関係ないけど、ネズミのガンバをあんなふうにするのはいいかげんやめて。
原作の薮内正幸の絵のガンバしか認めないんだから。
[film] Summer Trip to the Sea (1978)
LAの夏休みの後から、かな。 どこまで追いつける、かな。 むりか、な。
9月5日の土曜日の昼、川崎市民ミュージアムの映像ホールの特集『終戦70周年記念 戦争の記録と映画・戦争映画の視点』ていうので見ました。
『海に出た夏の旅』。 原題は"Летняя поездка к морю"
Web上にはあまり情報がなくて、製作は78年なのか80年なのか、とか。
ソビエトの戦争映画で、42年、戦争用の食糧調達のために少年たちとそれを監督するおじさんひとりが船で無人島に送られる。 そこは断崖絶壁にウミガラスのコロニーがあるところで、少年たちは3人ひとくみで、一人が綱を巻いて崖を降りて卵(おいしいらしい。おいしそうだ)をとり、二人が上でその綱をひっぱる。 とか、鉄砲でウミガラスを撃って(群れているのでどれかには当たる)、羽をむしって食肉にする、とか。 ひねた子、いじめっこ、寡黙な子、おしゃべりな子、いろんな子がいて、みんなよい顔で、過去に自分の子供を失っているらしい監督のおじさんは、厳しいけどそんな意地悪ではなく、静かに少年たちを見守っている。
冒頭、モノクロで描かれる戦時下の街の緊迫した空気感と、カラーに変わってからの少年たちの無人島での共同生活と、どちらも過酷でどちらも死がすぐにそこにあるし、少年たちは喧嘩してばかりだったりするのだが、カラーのなかの少年たちのひとりひとりの姿、その真剣な刺すような眼ざしがとてもよいの。自分たちもウミガラスのように群れているだけで、そのうちどこからか飛んできた銃弾にやられてしまうこともぼんやりわかっている、でも誰もそれを言わないし、そういう暗黙の了解のもと、無人島で言われるまま卵を拾っている、戦争っていうのは例えばこんな不条理のなかを生きることでもあるのだと、不条理なんて知らない子達の姿は語るだろう。
女医の健診とか、空から落ちてきたドイツ兵とか、少しだけ楽しいエピソード、いくつかの辛く悲しいエピソードを経て、画面は再びモノクロになり、少年たちが今度は兵士として戦場に赴くところで終わるのだが、画面がカラーになることは(おそらく)もうないの。
監督の作為やメッセージがあるのだとしたら、この色の切り替えくらいなのだが、それだけでも十分戦争の異様さ歪さを示すことができる。
しかしここの椅子、なんでこんな座りにくいの?
映画の後、(せっかく遠くまで来たのだから)隣のミュージアムでやっていた『木村伊兵衛写真賞 40周年記念展』ていうのも見た。
好きな作家、嫌いな作家いろいろあって、「木村伊兵衛」という固有名のもと語られてしまう賞の、写真(表現)のありようって、なんなのかしら、と思いながら見る。表現者の意図から(おそらくは)離れたところで木村伊兵衛的な構図とか被写体、というふうに括られてしまう何か、それによって排除されてしまう何かがあるとしたらそれは? とか。
9月5日の土曜日の昼、川崎市民ミュージアムの映像ホールの特集『終戦70周年記念 戦争の記録と映画・戦争映画の視点』ていうので見ました。
『海に出た夏の旅』。 原題は"Летняя поездка к морю"
Web上にはあまり情報がなくて、製作は78年なのか80年なのか、とか。
ソビエトの戦争映画で、42年、戦争用の食糧調達のために少年たちとそれを監督するおじさんひとりが船で無人島に送られる。 そこは断崖絶壁にウミガラスのコロニーがあるところで、少年たちは3人ひとくみで、一人が綱を巻いて崖を降りて卵(おいしいらしい。おいしそうだ)をとり、二人が上でその綱をひっぱる。 とか、鉄砲でウミガラスを撃って(群れているのでどれかには当たる)、羽をむしって食肉にする、とか。 ひねた子、いじめっこ、寡黙な子、おしゃべりな子、いろんな子がいて、みんなよい顔で、過去に自分の子供を失っているらしい監督のおじさんは、厳しいけどそんな意地悪ではなく、静かに少年たちを見守っている。
冒頭、モノクロで描かれる戦時下の街の緊迫した空気感と、カラーに変わってからの少年たちの無人島での共同生活と、どちらも過酷でどちらも死がすぐにそこにあるし、少年たちは喧嘩してばかりだったりするのだが、カラーのなかの少年たちのひとりひとりの姿、その真剣な刺すような眼ざしがとてもよいの。自分たちもウミガラスのように群れているだけで、そのうちどこからか飛んできた銃弾にやられてしまうこともぼんやりわかっている、でも誰もそれを言わないし、そういう暗黙の了解のもと、無人島で言われるまま卵を拾っている、戦争っていうのは例えばこんな不条理のなかを生きることでもあるのだと、不条理なんて知らない子達の姿は語るだろう。
女医の健診とか、空から落ちてきたドイツ兵とか、少しだけ楽しいエピソード、いくつかの辛く悲しいエピソードを経て、画面は再びモノクロになり、少年たちが今度は兵士として戦場に赴くところで終わるのだが、画面がカラーになることは(おそらく)もうないの。
監督の作為やメッセージがあるのだとしたら、この色の切り替えくらいなのだが、それだけでも十分戦争の異様さ歪さを示すことができる。
しかしここの椅子、なんでこんな座りにくいの?
映画の後、(せっかく遠くまで来たのだから)隣のミュージアムでやっていた『木村伊兵衛写真賞 40周年記念展』ていうのも見た。
好きな作家、嫌いな作家いろいろあって、「木村伊兵衛」という固有名のもと語られてしまう賞の、写真(表現)のありようって、なんなのかしら、と思いながら見る。表現者の意図から(おそらくは)離れたところで木村伊兵衛的な構図とか被写体、というふうに括られてしまう何か、それによって排除されてしまう何かがあるとしたらそれは? とか。
[log] LAそのた2 - August 2015
夏休みのLAで食べたものとか。 でもだいたい昨年とおなじようなー。
29日の昼間に着いてまず向かったのはGrand Central Marketで、それはもちろんEggslutのため。
相変わらずの行列で、相変わらずおいしいったら。 日本のTVでも作り方含めて紹介されているのを見たけど、ぜったいあれちがうと思った。
Marketのなかも1年間でお店がいろいろ変わっていた。 怪しげな油で小魚を揚げていたお店はなくなって、とってもベンチャーぽいお店がちらほら。べつにいいけど。 もうじきラーメン店も出来るらしい。
その晩は、”American Ultra”を見た後、たまたま予約が取れたので歩いてAlmaにいった。
www.alma-la.com
もうたぶん死語になっている”farm-to-table”のお店で、でもそんな洒落た高飛車なかんじはしなくて、お皿のポーションは小さくて日本みたいで、印象だとBlue Hill にちょっと似ているけど、あれよかカジュアル、でも相当きっちり作りこんであっておいしい。時間があったらTasting Menuにしたんだけどなー(3時間かかるって言われた)。 ウニの乗っかったEnglish Muffinとか低温調理した鱒とか、Jidori Chickenとか、でも”Jidori”ってFree-Range Chickenのことじゃないの? “Wagyu”みたいなブランドになるの? とか。
終って外にでると、通りの反対側にはAce Hotelがあって次はここに泊まろうと思って、だらだらBroadwayを歩いて戻ったのだが、途中で通りがまるごと閉鎖されでっかいやぐらが組まれていてお祭りでもやるのかなあ、と思っていたら翌日の晩、MTVのVMAでPharrell Williamsが歌って踊っているのがまさにここだった。 それにしてもVMA、知ってるひとがほぼぜんぜんなかったのがショックでねえ。
ふつか目の日曜日の昼、Hollywood Farmers' Marketに行こうと思ったが着いたらもう閉まる直前くらいで、マーケットの横のUmami Burgerで食べた。 わるくはないけどなー。ちょっと濃いかなあー。 この晩はライブだったので、終ってから薄暗いホテルのダイニングでフライドチキンとか。
みっかめの午前は、昨年も行ったThe Pie Holeのほう(Art District)にバスで向かって、Shepherd's Pie といちごのパイを食べた。 やっぱしすんごく、驚異的においしい。 こことかFour & Twenty Blackbirdsのパイとかを食べると、パイを発明したひとってほんっとに天才だと思う。 ラーメンとかカレーにはぜんぜん魅力を感じないが、こういうのの化学反応(て言ってよいのか)の凄さにはびっくりする。
これの通りの向かい側にあるホットドッグ屋(かなあ) - Wurstküche - が気になっていてお腹はパイで既にじゅうぶん苦しかったのについ食べてしまった。
http://www.wurstkuche.com
ソーセージがお肉屋のカウンターみたいなとこに10種類くらい並んでいて、1本とトッピング選ぶと挟んで作ってくれてテーブルまで運んでくれる。パンはややしっかりめ。 テーブルにはケチャップとかマスタードとかソースが5種類置いてあって、こんなの外しようがないのはわかっているけど、やっぱりおいしい。
この近所に仕事場があったら、毎日パイとホットドッグかわりばんこでランチできるよねえ。
で、ここから延々バスにのってThe Groveていうモールに行って買い物とかして、そこのFarmer’s MarketでBob's Coffee & Doughnutsていうとこのドーナツたべた。ドーナツはドーナツだし、これもほら、外れないよね。
晩は結構くたくたになっていたのでホテルの近所のメキシカンに行った。
http://www.bstaqueria.com
店内は薄暗くてかっこいいんだかかっこわるいんだかよくわかんなくて、でも侮れないのだった。
NYのメキシカンは割とちゃらちゃらコロナビールみたいなのだが、ここはなんか変にどっしり力強くてテキーラしてて、Carne Asadaとか、複雑な風味でほうほう、て感心することしきりだった。デザートのChurrosも、こんなおいしいの食べたことないくらいで、びっくりした。
よっかめの昼も昨年に行ったとこ - Bottega Louie で、ディスプレイも含めてきれいでなんか落ちつくのだった。値段がちょっと高いとこだけなー。
天文台の後、夕方くらい、山だか丘だかを降りたところでバスに乗ってずーっと行ったところのフレンチに行った。Bon Appétit誌の”America's Best New Restaurants 2015”に乗っていたところ。
Petit Trois (サイトがなんでか開かないや)
モールというほどでっかくない、駐車場のまんなかにいろんなお店が固まっている商店街の間に挟まっているお店(隣はとってもチープなふうのドーナツ屋)で、予約は取らないから早めの6時過ぎに行ったのだが、すでにほぼいっぱいだった。テーブルはひとつもなくて、キッチンに面したカウンターと壁に面したカウンターがあるだけ。 ドアを開けた瞬間、威勢がいい、というわけではないのに店の勢いが吹いてきて、あーここはよいかも、と確信する。
米国ではあんま見ないエスカルゴ - 狂おしいくらいおいしい - とか、ラーメンどんぶり(ふうの器)で出てくるブイヤベースとか、お店のかんじに全然マッチしない威風堂々としたナポレオンパイとか、怒涛の、びっくりのフレンチどまんなかのお皿ばかりだった。
あとはバゲットが異様においしいのでおかわりして、後でBon Appétit誌みたら、独学でパン焼きを勉強したColleen DeLee さんという方が自分ちで焼いてるやつだという。
食べ終わって店の外に出たらなかなかの行列が出来てて、すごいねえこんなところなのに、と改めて思った。
今度きたときには、バーガーと舌平目(時価)を試したい。
お腹いっぱいだったのでだらだら歩いて北上していったらSunset Blvdにぶつかって、更にそのまま右にずーっと歩いていったらAmoebaのにたどり着いた。 ロスの市街、広いのか狭いのかの感覚がまだちょっとわからない。 もう一回くらい行くと馴染んでくるのかも。
まだなんかあったきがする。
29日の昼間に着いてまず向かったのはGrand Central Marketで、それはもちろんEggslutのため。
相変わらずの行列で、相変わらずおいしいったら。 日本のTVでも作り方含めて紹介されているのを見たけど、ぜったいあれちがうと思った。
Marketのなかも1年間でお店がいろいろ変わっていた。 怪しげな油で小魚を揚げていたお店はなくなって、とってもベンチャーぽいお店がちらほら。べつにいいけど。 もうじきラーメン店も出来るらしい。
その晩は、”American Ultra”を見た後、たまたま予約が取れたので歩いてAlmaにいった。
www.alma-la.com
もうたぶん死語になっている”farm-to-table”のお店で、でもそんな洒落た高飛車なかんじはしなくて、お皿のポーションは小さくて日本みたいで、印象だとBlue Hill にちょっと似ているけど、あれよかカジュアル、でも相当きっちり作りこんであっておいしい。時間があったらTasting Menuにしたんだけどなー(3時間かかるって言われた)。 ウニの乗っかったEnglish Muffinとか低温調理した鱒とか、Jidori Chickenとか、でも”Jidori”ってFree-Range Chickenのことじゃないの? “Wagyu”みたいなブランドになるの? とか。
終って外にでると、通りの反対側にはAce Hotelがあって次はここに泊まろうと思って、だらだらBroadwayを歩いて戻ったのだが、途中で通りがまるごと閉鎖されでっかいやぐらが組まれていてお祭りでもやるのかなあ、と思っていたら翌日の晩、MTVのVMAでPharrell Williamsが歌って踊っているのがまさにここだった。 それにしてもVMA、知ってるひとがほぼぜんぜんなかったのがショックでねえ。
ふつか目の日曜日の昼、Hollywood Farmers' Marketに行こうと思ったが着いたらもう閉まる直前くらいで、マーケットの横のUmami Burgerで食べた。 わるくはないけどなー。ちょっと濃いかなあー。 この晩はライブだったので、終ってから薄暗いホテルのダイニングでフライドチキンとか。
みっかめの午前は、昨年も行ったThe Pie Holeのほう(Art District)にバスで向かって、Shepherd's Pie といちごのパイを食べた。 やっぱしすんごく、驚異的においしい。 こことかFour & Twenty Blackbirdsのパイとかを食べると、パイを発明したひとってほんっとに天才だと思う。 ラーメンとかカレーにはぜんぜん魅力を感じないが、こういうのの化学反応(て言ってよいのか)の凄さにはびっくりする。
これの通りの向かい側にあるホットドッグ屋(かなあ) - Wurstküche - が気になっていてお腹はパイで既にじゅうぶん苦しかったのについ食べてしまった。
http://www.wurstkuche.com
ソーセージがお肉屋のカウンターみたいなとこに10種類くらい並んでいて、1本とトッピング選ぶと挟んで作ってくれてテーブルまで運んでくれる。パンはややしっかりめ。 テーブルにはケチャップとかマスタードとかソースが5種類置いてあって、こんなの外しようがないのはわかっているけど、やっぱりおいしい。
この近所に仕事場があったら、毎日パイとホットドッグかわりばんこでランチできるよねえ。
で、ここから延々バスにのってThe Groveていうモールに行って買い物とかして、そこのFarmer’s MarketでBob's Coffee & Doughnutsていうとこのドーナツたべた。ドーナツはドーナツだし、これもほら、外れないよね。
晩は結構くたくたになっていたのでホテルの近所のメキシカンに行った。
http://www.bstaqueria.com
店内は薄暗くてかっこいいんだかかっこわるいんだかよくわかんなくて、でも侮れないのだった。
NYのメキシカンは割とちゃらちゃらコロナビールみたいなのだが、ここはなんか変にどっしり力強くてテキーラしてて、Carne Asadaとか、複雑な風味でほうほう、て感心することしきりだった。デザートのChurrosも、こんなおいしいの食べたことないくらいで、びっくりした。
よっかめの昼も昨年に行ったとこ - Bottega Louie で、ディスプレイも含めてきれいでなんか落ちつくのだった。値段がちょっと高いとこだけなー。
天文台の後、夕方くらい、山だか丘だかを降りたところでバスに乗ってずーっと行ったところのフレンチに行った。Bon Appétit誌の”America's Best New Restaurants 2015”に乗っていたところ。
Petit Trois (サイトがなんでか開かないや)
モールというほどでっかくない、駐車場のまんなかにいろんなお店が固まっている商店街の間に挟まっているお店(隣はとってもチープなふうのドーナツ屋)で、予約は取らないから早めの6時過ぎに行ったのだが、すでにほぼいっぱいだった。テーブルはひとつもなくて、キッチンに面したカウンターと壁に面したカウンターがあるだけ。 ドアを開けた瞬間、威勢がいい、というわけではないのに店の勢いが吹いてきて、あーここはよいかも、と確信する。
米国ではあんま見ないエスカルゴ - 狂おしいくらいおいしい - とか、ラーメンどんぶり(ふうの器)で出てくるブイヤベースとか、お店のかんじに全然マッチしない威風堂々としたナポレオンパイとか、怒涛の、びっくりのフレンチどまんなかのお皿ばかりだった。
あとはバゲットが異様においしいのでおかわりして、後でBon Appétit誌みたら、独学でパン焼きを勉強したColleen DeLee さんという方が自分ちで焼いてるやつだという。
食べ終わって店の外に出たらなかなかの行列が出来てて、すごいねえこんなところなのに、と改めて思った。
今度きたときには、バーガーと舌平目(時価)を試したい。
お腹いっぱいだったのでだらだら歩いて北上していったらSunset Blvdにぶつかって、更にそのまま右にずーっと歩いていったらAmoebaのにたどり着いた。 ロスの市街、広いのか狭いのかの感覚がまだちょっとわからない。 もう一回くらい行くと馴染んでくるのかも。
まだなんかあったきがする。
9.27.2015
[log] LAそのた1 - August 2015
もう何カ月も彼方のとおいとおい昔のこととしか思えない夏休み - LAの残りのあれこれ。
行きの飛行機で見た映画から。
Woman in Gold (2015)
NYのNeue Galerieが出来たとき、その目玉として展示されたクリムトの"Adele Bloch-Bauer I” (1907) 、こんなところに何故こんなすごいのが突然に? と思ったものだったが、その真相がこうして明らかに。 ていう実話。
LA在住のMaria (Helen Mirren)が、亡くなった姉の遺品を整理しつつ家族の記憶を掘り返しているうちに、祖国オーストリアの美術館にある、叔母をモデルとした絵は自分の家族のものだから取り返したくなって、と知り合いの若い弁護士Randy (Ryan Reynolds)に相談してみる。一回独立したものの失敗して大法律事務所に入ったばかりの彼はあんま深く考えずに引き受けて、調査も兼ねて現地に行ったりしているうち、そんな簡単ではないこと - へたしたら国家間の諍いになってもおかしくないくらいの大ネタであることがわかって、Mariaは諦めて、会社からももういいかげんにしなさい、て言われるのだが、それでもネチネチ追い続けて、とにかく互いの「国」を土俵に引っ張り出すところまで行くの。
国が勝手に壊して引き裂いた家族の歴史と遺産を巡って再び国と国が争う、その愚かしさ見苦しさから離れて、やはり残るもの/残すべきものはあるのだし、それを引き寄せる力はとてつもなく強い - 国だって超えるのだと。
Helen Mirrenの素晴らしさは文句なしなのだが、Ryan Reynoldsがなあー、ふつうのアメリカンで、あのシェーンベルクの孫には見えないのよね、どうがんばっても。
名画の辿る運命っておもしろいねえ、で終わらせてはいけなくて、集団組織の暴力 - 戦争 -による芸術作品の破壊は今も続いているんだ、ということも忘れてはいけないんだからね。
Neue Galerieでは、この映画の公開を記念して”Gustav Klimt and Adele Bloch-Bauer: The Woman in Gold”ていう展示があったの(9/7まで)。 見たかったなー。
A Little Chaos (2014)
行きの飛行機の二本め。
ルーブル宮からヴェルサイユに本社を移転していた時代のフランス王室、ルイ十四世のお抱えカリスマ造園家ル・ノートル (Matthias Schoenaerts)のとこにアシスタントとして応募して、ねちねち貶されたのに何故か採用されてしまったサビーヌ (Kate Winslet)の造園奮闘記。彼女には暗い過去があって彼にも暗い影があって、でも互いの才能に惚れこんだ二人の火花が未来の庭園に向かってスパークしたとき、奇跡は起こるの。
連続テレビ小説みたいに山あり谷あり涙ありてんこ盛りでおもしろいのだが、出てくる人物のなかでサビーヌ = Kateがいちばんがっしり強そうで頼もしくて(外見ね、なんとなくの)、負けるながんばれ、みたいな感情移入がぜんぜんいらないふうなあたりがひとによって賛否分かれるかも。
監督のAlan Rickmanがルイ十四世で、彼がいちばんのびのび楽しそうだったので、それでよかったのかも。(なげやり)
Penguins of Madagascar (2014)
行きの便で半分、帰りの便で残り半分みた。
マダガスカルのシリーズを見ていないので、シリーズのなかでの位置付けとか差分がわかんないのだが、相手はペンギンだからね。立って変な動きしてるだけでもペンギン - ゆるすとか、なんかずるいよね。
ペンギン4匹組が世界制服を企む大タコのデイブ (John Malkovich)とその軍団、あと彼らを追う狼 (Benedict Cumberbatch)とアザラシとシロクマと白フクロウの組織 - The North Windと絡んで大騒ぎするの。デイブはセントラルパークの動物園でペンギンに人気を取られた(でもあそこにタコいないよ)のをずっと恨んでてかわいいやつを醜い化け物に変えちゃう光線(”Despicable Me 2”に出てきたセラムとおなじ、たぶん)を使おうとしてて、4匹のなかでいちばん若い新入りが人質になっちゃうの。
でも化け物になったとしても、なんだかんだ結局みんなかわいいから説得力ないことどうしようもない、てぶつぶついいながらでっかいタコに巻かれる。
本屋は泊まったところの近所のLast Bookstoreしか行かなかった、けどそれでじゅうぶん。お店のなかの仕切った区画にレア本を扱うAnnexが出来てて、おそるおそる入ったらそんなすごいレアでもなかったので安心した。 店内のデコールがややゴスしててとっても素敵。土地柄か(or 店のひとの趣味か)、犯罪ものとか狂った系のが多かったような。 一冊、いまは廃墟となっている各地の州立精神医療施設を撮った大判の写真集 "The Asylum" - 荘厳で美しすぎるのが恐ろしい - を買った。序文をOliver Sacksが書いているのだが、これを買った翌朝に彼の訃報が...
レコード屋もAmoeba Musicしか行っていない。これでじゅうぶんだよね、となんか後ろめたく思う反面、奥に掘り進めば進むほど一線を越えてしまうかもしれない恐怖がじわじわとやってくる。新しいものを探すというよりこの恐怖の外側でどうしようどうしようとおろおろしつつ三日間通ってしまったわけだが、結果は勇気をだせないまま、あんまし、で終ったのだった。
10000ドル手元にあっても、1時間で使ってやる自信あるね。
新譜だとBeach Houseの”Depression Cherry” (よいタイトル)が当然のように積んであったので買う(白色じゃなくて透明のだった)。
あと、Record Store Dayので、ずうっと探していた7inchの箱が中古で出ていたのだが、そのうち1枚だけ欠けているやつだったので、3日間悩んで結局諦めた - ついでに25日の晩に走りこんだときにもまだあって悩んだのだが、やっぱし諦めた。
9月1日、最後の日の午後にグリフィス天文台に行った。 “Love and Mercy”の映画のなかで、Brianが世界で一番寛げる場所、て言っていたので、それなら寛ぎたいかも、と。
Metroの駅からの無料シャトルが出ているのは週末だけ、平日の交通機関がなかったのでしかたなくTaxiを捕まえて上に行ったのだが、たしかに丘(あれは丘? でよいの?)の上に登ってみた眺めは昼間でもすごくよくて、360°拡がっていて素敵で、これなら夜景もすばらしいに決まってるよね - 20世紀FOXのってここの? - だった。
有料のプラネタリウムにも入ってみたのだが、ライブの語りのおじさんの声がプロみたいに気持ちよくて(いや、プロなんだよねあれ)、椅子がぐーんて倒れた瞬間に自分はどっかに飛ばされて気がついたら終っていたの。
他にはぜんぜん止まらない振り子(猫は何時間でも)とか、Tesla Coilのほんもんのデモ(火花ばちばち)とかも、おもしろかった。
帰りはTaxiなんていそうになかったので土埃を巻きあげながら歩いて山(あれ丘?)をくだって、ふもとでバスに乗ってご飯食べるところに行ったの。
ここらで一旦きります。
行きの飛行機で見た映画から。
Woman in Gold (2015)
NYのNeue Galerieが出来たとき、その目玉として展示されたクリムトの"Adele Bloch-Bauer I” (1907) 、こんなところに何故こんなすごいのが突然に? と思ったものだったが、その真相がこうして明らかに。 ていう実話。
LA在住のMaria (Helen Mirren)が、亡くなった姉の遺品を整理しつつ家族の記憶を掘り返しているうちに、祖国オーストリアの美術館にある、叔母をモデルとした絵は自分の家族のものだから取り返したくなって、と知り合いの若い弁護士Randy (Ryan Reynolds)に相談してみる。一回独立したものの失敗して大法律事務所に入ったばかりの彼はあんま深く考えずに引き受けて、調査も兼ねて現地に行ったりしているうち、そんな簡単ではないこと - へたしたら国家間の諍いになってもおかしくないくらいの大ネタであることがわかって、Mariaは諦めて、会社からももういいかげんにしなさい、て言われるのだが、それでもネチネチ追い続けて、とにかく互いの「国」を土俵に引っ張り出すところまで行くの。
国が勝手に壊して引き裂いた家族の歴史と遺産を巡って再び国と国が争う、その愚かしさ見苦しさから離れて、やはり残るもの/残すべきものはあるのだし、それを引き寄せる力はとてつもなく強い - 国だって超えるのだと。
Helen Mirrenの素晴らしさは文句なしなのだが、Ryan Reynoldsがなあー、ふつうのアメリカンで、あのシェーンベルクの孫には見えないのよね、どうがんばっても。
名画の辿る運命っておもしろいねえ、で終わらせてはいけなくて、集団組織の暴力 - 戦争 -による芸術作品の破壊は今も続いているんだ、ということも忘れてはいけないんだからね。
Neue Galerieでは、この映画の公開を記念して”Gustav Klimt and Adele Bloch-Bauer: The Woman in Gold”ていう展示があったの(9/7まで)。 見たかったなー。
A Little Chaos (2014)
行きの飛行機の二本め。
ルーブル宮からヴェルサイユに本社を移転していた時代のフランス王室、ルイ十四世のお抱えカリスマ造園家ル・ノートル (Matthias Schoenaerts)のとこにアシスタントとして応募して、ねちねち貶されたのに何故か採用されてしまったサビーヌ (Kate Winslet)の造園奮闘記。彼女には暗い過去があって彼にも暗い影があって、でも互いの才能に惚れこんだ二人の火花が未来の庭園に向かってスパークしたとき、奇跡は起こるの。
連続テレビ小説みたいに山あり谷あり涙ありてんこ盛りでおもしろいのだが、出てくる人物のなかでサビーヌ = Kateがいちばんがっしり強そうで頼もしくて(外見ね、なんとなくの)、負けるながんばれ、みたいな感情移入がぜんぜんいらないふうなあたりがひとによって賛否分かれるかも。
監督のAlan Rickmanがルイ十四世で、彼がいちばんのびのび楽しそうだったので、それでよかったのかも。(なげやり)
Penguins of Madagascar (2014)
行きの便で半分、帰りの便で残り半分みた。
マダガスカルのシリーズを見ていないので、シリーズのなかでの位置付けとか差分がわかんないのだが、相手はペンギンだからね。立って変な動きしてるだけでもペンギン - ゆるすとか、なんかずるいよね。
ペンギン4匹組が世界制服を企む大タコのデイブ (John Malkovich)とその軍団、あと彼らを追う狼 (Benedict Cumberbatch)とアザラシとシロクマと白フクロウの組織 - The North Windと絡んで大騒ぎするの。デイブはセントラルパークの動物園でペンギンに人気を取られた(でもあそこにタコいないよ)のをずっと恨んでてかわいいやつを醜い化け物に変えちゃう光線(”Despicable Me 2”に出てきたセラムとおなじ、たぶん)を使おうとしてて、4匹のなかでいちばん若い新入りが人質になっちゃうの。
でも化け物になったとしても、なんだかんだ結局みんなかわいいから説得力ないことどうしようもない、てぶつぶついいながらでっかいタコに巻かれる。
本屋は泊まったところの近所のLast Bookstoreしか行かなかった、けどそれでじゅうぶん。お店のなかの仕切った区画にレア本を扱うAnnexが出来てて、おそるおそる入ったらそんなすごいレアでもなかったので安心した。 店内のデコールがややゴスしててとっても素敵。土地柄か(or 店のひとの趣味か)、犯罪ものとか狂った系のが多かったような。 一冊、いまは廃墟となっている各地の州立精神医療施設を撮った大判の写真集 "The Asylum" - 荘厳で美しすぎるのが恐ろしい - を買った。序文をOliver Sacksが書いているのだが、これを買った翌朝に彼の訃報が...
レコード屋もAmoeba Musicしか行っていない。これでじゅうぶんだよね、となんか後ろめたく思う反面、奥に掘り進めば進むほど一線を越えてしまうかもしれない恐怖がじわじわとやってくる。新しいものを探すというよりこの恐怖の外側でどうしようどうしようとおろおろしつつ三日間通ってしまったわけだが、結果は勇気をだせないまま、あんまし、で終ったのだった。
10000ドル手元にあっても、1時間で使ってやる自信あるね。
新譜だとBeach Houseの”Depression Cherry” (よいタイトル)が当然のように積んであったので買う(白色じゃなくて透明のだった)。
あと、Record Store Dayので、ずうっと探していた7inchの箱が中古で出ていたのだが、そのうち1枚だけ欠けているやつだったので、3日間悩んで結局諦めた - ついでに25日の晩に走りこんだときにもまだあって悩んだのだが、やっぱし諦めた。
9月1日、最後の日の午後にグリフィス天文台に行った。 “Love and Mercy”の映画のなかで、Brianが世界で一番寛げる場所、て言っていたので、それなら寛ぎたいかも、と。
Metroの駅からの無料シャトルが出ているのは週末だけ、平日の交通機関がなかったのでしかたなくTaxiを捕まえて上に行ったのだが、たしかに丘(あれは丘? でよいの?)の上に登ってみた眺めは昼間でもすごくよくて、360°拡がっていて素敵で、これなら夜景もすばらしいに決まってるよね - 20世紀FOXのってここの? - だった。
有料のプラネタリウムにも入ってみたのだが、ライブの語りのおじさんの声がプロみたいに気持ちよくて(いや、プロなんだよねあれ)、椅子がぐーんて倒れた瞬間に自分はどっかに飛ばされて気がついたら終っていたの。
他にはぜんぜん止まらない振り子(猫は何時間でも)とか、Tesla Coilのほんもんのデモ(火花ばちばち)とかも、おもしろかった。
帰りはTaxiなんていそうになかったので土埃を巻きあげながら歩いて山(あれ丘?)をくだって、ふもとでバスに乗ってご飯食べるところに行ったの。
ここらで一旦きります。
9.25.2015
[log] September 25 2015
帰りのLAXまで来ました。 やれやれ。
昨晩は飛行機が少し遅れて、LAX前のホテルに入ったのが19時半くらい。(そういえば注:水曜の夕方から同行者が帰ったのでひとりになっている)
とりあえず何か食べなきゃ、と空港に戻ることにして、ちょっとした可能性だけでも、とバス乗り場に行ってみたらFlyawayバスのハリウッド行きのが来たのでつい乗っかってしまった。 $8だし、あそこは23時までやってるし、これで地獄におちるようなこともなかろう、と。
が、途中までは快調だったものの、101号線に入ったところで事故による渋滞が襲いかかってきてぜんぜん前に進まなくなってしまう。 どうしようもない。ふつうこうなると確実に車酔いするはずなのだが今回ならなかったのは、なんかやりたいことがあったからなのね。 で、結局1時間半くらいかかって、Vine stのところに着いたのが21:30過ぎ。 半泣きしながら走って、まだ開いていたTrader Joe’sで会社へのおみあげ(そうだ出張だった)と趣味のトルティーヤチップを買って、Amoebaに走りこんで、泣きそうになりながら約30分。ひっつかんだのは新譜のみ、Courtney Barnettさんの(オレンジ)、Beirutの(ブルー)、Lowの(ふくろう!)だけだった。 焦った状態で中古を漁ってはいけない、と肝に銘じているので店内を恨めしい目(だと思う。どんなふうに見えるんだろ)をして歩きつつ、ここで3時間くらいどっぷり過ごすことができるのはいつのことになるのやら、とかおもった。
それにしてもここ、遅い時間になるとHollywood的に変なひとがいっぱいいておもしろい。ハウスミュージックのところで徘徊していたお兄さんとか、宇宙人のようだった。
22:30くらいに店を出て、何も食べていなかったことに気づいてスタバでサンドイッチとローストアーモンドの袋を買って歩きながら食べ、直行のバスは終っていたからMetroでUnion Stationまで行って、そこからFlyawayのバスで戻り(こんどは渋滞なし)、空港からホテルの送迎バスでもどった。 23:50くらい。Jimmy Fallonには間にあった。 えっへん。
というわけで、今回は映画2、Museum1、水族館1、レコ屋2、というあまり満たされないかんじで終ってしまった。 まあね、お仕事だしね。そのうちなんか。
ではまた。
昨晩は飛行機が少し遅れて、LAX前のホテルに入ったのが19時半くらい。(そういえば注:水曜の夕方から同行者が帰ったのでひとりになっている)
とりあえず何か食べなきゃ、と空港に戻ることにして、ちょっとした可能性だけでも、とバス乗り場に行ってみたらFlyawayバスのハリウッド行きのが来たのでつい乗っかってしまった。 $8だし、あそこは23時までやってるし、これで地獄におちるようなこともなかろう、と。
が、途中までは快調だったものの、101号線に入ったところで事故による渋滞が襲いかかってきてぜんぜん前に進まなくなってしまう。 どうしようもない。ふつうこうなると確実に車酔いするはずなのだが今回ならなかったのは、なんかやりたいことがあったからなのね。 で、結局1時間半くらいかかって、Vine stのところに着いたのが21:30過ぎ。 半泣きしながら走って、まだ開いていたTrader Joe’sで会社へのおみあげ(そうだ出張だった)と趣味のトルティーヤチップを買って、Amoebaに走りこんで、泣きそうになりながら約30分。ひっつかんだのは新譜のみ、Courtney Barnettさんの(オレンジ)、Beirutの(ブルー)、Lowの(ふくろう!)だけだった。 焦った状態で中古を漁ってはいけない、と肝に銘じているので店内を恨めしい目(だと思う。どんなふうに見えるんだろ)をして歩きつつ、ここで3時間くらいどっぷり過ごすことができるのはいつのことになるのやら、とかおもった。
それにしてもここ、遅い時間になるとHollywood的に変なひとがいっぱいいておもしろい。ハウスミュージックのところで徘徊していたお兄さんとか、宇宙人のようだった。
22:30くらいに店を出て、何も食べていなかったことに気づいてスタバでサンドイッチとローストアーモンドの袋を買って歩きながら食べ、直行のバスは終っていたからMetroでUnion Stationまで行って、そこからFlyawayのバスで戻り(こんどは渋滞なし)、空港からホテルの送迎バスでもどった。 23:50くらい。Jimmy Fallonには間にあった。 えっへん。
というわけで、今回は映画2、Museum1、水族館1、レコ屋2、というあまり満たされないかんじで終ってしまった。 まあね、お仕事だしね。そのうちなんか。
ではまた。
[film] Straight Outta Compton (2015)
23日水曜日の晩20時、Shake Shackでバーガー食べてから会場の近所のシネコンで見ました。シアトルのと同じく、ここも来るたびに通っていて、シアトルと同じようにいつもがらがらなので心配になる。 この回も自分いれてふたりしかいなかったし。
もんだいは、見たいのをあんまやっていないことだ。
山のとか、ハゲのジョニデとか、迷路のとか、どうせ日本に来るようなのはべつに見なくても、だし。
この映画は見ようかどうしようか、の微妙な線上にあって、きちんと背景しらないところに西海岸の荒れた英語で、そういう状態で音楽映画を見るのはなんかいけないことのような気がしたりしてた。
でも見てよかった。147分あっというまの、怒濤の、直球の音楽青春映画。
86年、荒れたLAの外れ、乱暴な警察にやられっぱなしのEazy-EとかIce CubeとかDr. Dreとかが、地元の自分たちの鬱憤怒りそのたもろもろと共に/に向けて始めたラップが白人プロデューサー(Paul Giamatti)の目にとまり、レコードとライブで唸りをあげてのし上がっていく様を当時の世相やニュース映像と絡めて驚くほどぶっとく鮮明に、痛快に描いていく。
N.W.Aの5人のケミストリーと契りが時代を蹴散らし時代に飲まれ、やがてぱらぱらと散っていくそのさまが彼らの音楽とストレートにリンクしていて、これってコンプトンという土地、ラップミュージックであるが故に起こりえたことなのだ、というのを、誰もが納得できるように示している。自分たちの音楽を希求するその周りで、音楽で儲けるひと、搾取するひと、乗っかるひと、敵対する警察、メディアいろいろ、音楽が立ち上がって終るように、現れては消えていく。
N.W.A - “Niggaz Wit Attitudes” - (この名前のつけかたのセンスは、”Public Image Ltd.”とか”Pop Group”とか”New Order”とかに近いものを感じる) - バンドではない、ばらばらな個の寄せ集めであったが故に為しえたこと、為しえなかったこと、いろいろあって、その辺のどうすることもできなかった感 - でもありがとうみんな - もきちんと描かれている。
“Eden” (2014)と見比べてみるのもよいかも。 どちらも自分たちの音楽を作るんだという夢と野望、それがどう達成され、その果てに彼らはなにを失ったのか、をその現場にいた当事者が制作に携わってディテールも含めて丁寧にあの頃を掬いあげている。
こういうふうに映画になるのって、クラブミュージックとかヒップホップでのみ起こるのではないか、ということも思った。
例えばパンクの当事者だったひとはこんなふうな回顧、あんましない気がする(除. Dave Grohl)。
ヒップホップはそんなに聴いてきているわけではないのだが、それでもやっぱり自分は東海岸の - Public EnemyとかNaughty by Natureあたり - を中心に聴いてきたんだなあ、て改めて思った。 なんもしなくても耳に入ってくるようになったのは90年代に入ってからで、この映画でも後半にSnoopとかTupacとかが登場するのだが、当時はぜんぜんよいとは思わなかったのよね。
あと、Jimmy Iovineさんも出てくる(本人じゃないよ)。
あー、今のデモとの関係で見るのもおもしろいかも。 SEALDsの子達も当然見るとおもうし、見てほしいし。 警察、相当あったまくるけど(きたよね)。 でも非暴力で。断固不服従で。
日本公開決定はうれしいけど、シネクイントかあ… 爆音以外ありえないんだけどなー。
もんだいは、見たいのをあんまやっていないことだ。
山のとか、ハゲのジョニデとか、迷路のとか、どうせ日本に来るようなのはべつに見なくても、だし。
この映画は見ようかどうしようか、の微妙な線上にあって、きちんと背景しらないところに西海岸の荒れた英語で、そういう状態で音楽映画を見るのはなんかいけないことのような気がしたりしてた。
でも見てよかった。147分あっというまの、怒濤の、直球の音楽青春映画。
86年、荒れたLAの外れ、乱暴な警察にやられっぱなしのEazy-EとかIce CubeとかDr. Dreとかが、地元の自分たちの鬱憤怒りそのたもろもろと共に/に向けて始めたラップが白人プロデューサー(Paul Giamatti)の目にとまり、レコードとライブで唸りをあげてのし上がっていく様を当時の世相やニュース映像と絡めて驚くほどぶっとく鮮明に、痛快に描いていく。
N.W.Aの5人のケミストリーと契りが時代を蹴散らし時代に飲まれ、やがてぱらぱらと散っていくそのさまが彼らの音楽とストレートにリンクしていて、これってコンプトンという土地、ラップミュージックであるが故に起こりえたことなのだ、というのを、誰もが納得できるように示している。自分たちの音楽を希求するその周りで、音楽で儲けるひと、搾取するひと、乗っかるひと、敵対する警察、メディアいろいろ、音楽が立ち上がって終るように、現れては消えていく。
N.W.A - “Niggaz Wit Attitudes” - (この名前のつけかたのセンスは、”Public Image Ltd.”とか”Pop Group”とか”New Order”とかに近いものを感じる) - バンドではない、ばらばらな個の寄せ集めであったが故に為しえたこと、為しえなかったこと、いろいろあって、その辺のどうすることもできなかった感 - でもありがとうみんな - もきちんと描かれている。
“Eden” (2014)と見比べてみるのもよいかも。 どちらも自分たちの音楽を作るんだという夢と野望、それがどう達成され、その果てに彼らはなにを失ったのか、をその現場にいた当事者が制作に携わってディテールも含めて丁寧にあの頃を掬いあげている。
こういうふうに映画になるのって、クラブミュージックとかヒップホップでのみ起こるのではないか、ということも思った。
例えばパンクの当事者だったひとはこんなふうな回顧、あんましない気がする(除. Dave Grohl)。
ヒップホップはそんなに聴いてきているわけではないのだが、それでもやっぱり自分は東海岸の - Public EnemyとかNaughty by Natureあたり - を中心に聴いてきたんだなあ、て改めて思った。 なんもしなくても耳に入ってくるようになったのは90年代に入ってからで、この映画でも後半にSnoopとかTupacとかが登場するのだが、当時はぜんぜんよいとは思わなかったのよね。
あと、Jimmy Iovineさんも出てくる(本人じゃないよ)。
あー、今のデモとの関係で見るのもおもしろいかも。 SEALDsの子達も当然見るとおもうし、見てほしいし。 警察、相当あったまくるけど(きたよね)。 でも非暴力で。断固不服従で。
日本公開決定はうれしいけど、シネクイントかあ… 爆音以外ありえないんだけどなー。
[film] Sleeping with Other People (2015)
20日、シアトルに着いた日の夕方、水族館から戻ってすぐ、いつものホテルの裏のシネコンで見ました。座席指定じゃなかった。
Lainey (Alison Brie)とJake (Jason Sudeikis)は、2002年に学寮の男のとこに殴り込んできたLaineyをJakeが落ちつかせて面倒を見てあげたとこから出会って、話しているうちふたりともVirginであることがわかってそんなら、と揃って処女と童貞をなくして、そこから話しは現代、それぞれにこじれたり乱れたり適当だったりする男女関係(複数)のなかで殴られたり焦ったり溜息ついたりしていて、Laineyはセックスセラピー(ラブセラピー、て言ってた)とかにも参加していて、そこでJakeと再会し、それぞれに互いに互いのいろんなセックス(関係) - 妄想に近いところも含めて - をべらべら喋っていくうちに、互いに互いの抜けられないなにかになっていって「わたしったらひょっとして…」になっていく、とっても露骨ではあるが気持ちよくストレートにひねくれてて、くるりと一回転してどまんなかに落ちるところが憎めないラブコメ。 結末なんかわかりきっているし深みもなんもない(あるかもしれんが考えたくない)けど、ああよかったねえ、になるし、こういうのは不滅だし大好きだ、て改めておもった。
まずAlison Brieさんがすばらしく魅力的で、幼稚園の先生をしている彼女が屋外で上着をさっと脱いで、Bowieの”Modern Love”にあわせて子供たちにダンスの指揮をするとこなんか、ほんと惚れ惚れするの。 (なんで女の子は”Modern Love”で動くとあんなにも輝くのだろうか)
だれもが”When Harry Met Sally…” (1989)を引き合いに出すであろうし、あんま異論反論はないのだが、 Jason SudeikisにBilly Crystalほどの魅力があるかどうか、については賛否別れるのではないか。 まちがいなくNYを舞台にしたラブコメとして今後の雑誌の特集とかには括られそうな。公開されれば、だけど。
プロデューサーにはWill FerrellとAdam McKayがいて、このふたりの匂いは確かにあるかも。
Adam McKayさんは映画のなかでもLaineyの妄執の根源となるエリート医者をねちっこく演じていて、なかなかのものだった。
Lainey (Alison Brie)とJake (Jason Sudeikis)は、2002年に学寮の男のとこに殴り込んできたLaineyをJakeが落ちつかせて面倒を見てあげたとこから出会って、話しているうちふたりともVirginであることがわかってそんなら、と揃って処女と童貞をなくして、そこから話しは現代、それぞれにこじれたり乱れたり適当だったりする男女関係(複数)のなかで殴られたり焦ったり溜息ついたりしていて、Laineyはセックスセラピー(ラブセラピー、て言ってた)とかにも参加していて、そこでJakeと再会し、それぞれに互いに互いのいろんなセックス(関係) - 妄想に近いところも含めて - をべらべら喋っていくうちに、互いに互いの抜けられないなにかになっていって「わたしったらひょっとして…」になっていく、とっても露骨ではあるが気持ちよくストレートにひねくれてて、くるりと一回転してどまんなかに落ちるところが憎めないラブコメ。 結末なんかわかりきっているし深みもなんもない(あるかもしれんが考えたくない)けど、ああよかったねえ、になるし、こういうのは不滅だし大好きだ、て改めておもった。
まずAlison Brieさんがすばらしく魅力的で、幼稚園の先生をしている彼女が屋外で上着をさっと脱いで、Bowieの”Modern Love”にあわせて子供たちにダンスの指揮をするとこなんか、ほんと惚れ惚れするの。 (なんで女の子は”Modern Love”で動くとあんなにも輝くのだろうか)
だれもが”When Harry Met Sally…” (1989)を引き合いに出すであろうし、あんま異論反論はないのだが、 Jason SudeikisにBilly Crystalほどの魅力があるかどうか、については賛否別れるのではないか。 まちがいなくNYを舞台にしたラブコメとして今後の雑誌の特集とかには括られそうな。公開されれば、だけど。
プロデューサーにはWill FerrellとAdam McKayがいて、このふたりの匂いは確かにあるかも。
Adam McKayさんは映画のなかでもLaineyの妄執の根源となるエリート医者をねちっこく演じていて、なかなかのものだった。
9.24.2015
[log] September 24 2015
サンノゼで泊まったところは”Great America”ていうすごい名前のアミューズメントパークの横で、ふんとーに周りにはなあんにもなくて、昼間のお仕事も車で移動してばかりだったのでもうほとんど覚えていないくらい。 あ、Google社のキャンパスをぐるーっとまわった。 みんなGoogle自転車に乗って楽しそうだった。 いいなー、ああいう.. (以下略)
夕方、Vegasに向かうフライトが突然キャンセルになって、7時過ぎのをあわてて押さえて、Vegasに入ったのは夜の9時すぎ、ライオンでゆーめーなホテルで、ここは2008年くらいにも来たとこなのだが、とにかくこんな場所でイベントやらないでほしい、なのよね。 昼間、窓のそとを見るとみんな流れるプールとかでぱちゃぱちゃ遊んでるし、脱出しようにも本屋もレコ屋もない、映画だってちっともおもしろそうなのやってない。 まずは缶詰になって勉強して仕事しろ、夜はパーティとか酒とかばくちとかはいくらでもどうぞ、なんだろうけど。
ライオンのホテルは連泊すると部屋代が3倍以上に跳ね上がるということで水曜の午後に別のホテル - ピラミッドとかスフィンクスがあるとこ - に移動した。 観光客でごった返していて、まるで空港のイミグレーションみたいなチェックインの列に並ぶこと30分、ようやく鍵もらってピラミッドの回廊みたいなところを延々歩いて部屋に着いてもドアの鍵が開かなくて、フロントに戻って文句を言うと、部屋番号の数字が”6”ではなくて”0”だったという - 1000人に聞いてもあれは6だよ - 全てがこんなふうで、べガスはなんかかんじわるいよね。
みんな理由なく(楽しみに来たのだから楽しむのだし楽しいんだわるいか? ていう理屈)浮かれてはしゃいで酔っ払ってガハガハしているし、働いているひとは慇懃無礼でチップが少ないと露骨にやな顔するし、ホテルの中は煙いしホテルの外は暑いし建物はバカみたいに薄っぺらいし、何百回でもいうけど本屋もレコ屋も車がないと行けないし、そこに住んで生活しているひとには悪いけど、ここはあんまし来たくない土地。 バカ映画のなかで見ればじゅうぶん。
べガスに着いた晩はホテル内のNathan’sでホットドッグを食べて、翌日の晩はShake Shackでハンバーガー食べた。 和食を恋しがるようにNYの味を求めてしまうじぶん。それ以外の食事は朝も昼も会場のコンファレンス飯。 いちいち文句いってもしょうがないけどさ、Kinako Tiramisuてなんだよ。
このままべガスに連泊して翌朝にロス経由で帰国、というプランもあったのだが、とっても我慢できないのでこれからロスに飛んで空港前のホテルで一泊する。 ロスに着くのは18:40くらい。でも空港前だからね、いろいろむずかしいよね。
ではまた。
夕方、Vegasに向かうフライトが突然キャンセルになって、7時過ぎのをあわてて押さえて、Vegasに入ったのは夜の9時すぎ、ライオンでゆーめーなホテルで、ここは2008年くらいにも来たとこなのだが、とにかくこんな場所でイベントやらないでほしい、なのよね。 昼間、窓のそとを見るとみんな流れるプールとかでぱちゃぱちゃ遊んでるし、脱出しようにも本屋もレコ屋もない、映画だってちっともおもしろそうなのやってない。 まずは缶詰になって勉強して仕事しろ、夜はパーティとか酒とかばくちとかはいくらでもどうぞ、なんだろうけど。
ライオンのホテルは連泊すると部屋代が3倍以上に跳ね上がるということで水曜の午後に別のホテル - ピラミッドとかスフィンクスがあるとこ - に移動した。 観光客でごった返していて、まるで空港のイミグレーションみたいなチェックインの列に並ぶこと30分、ようやく鍵もらってピラミッドの回廊みたいなところを延々歩いて部屋に着いてもドアの鍵が開かなくて、フロントに戻って文句を言うと、部屋番号の数字が”6”ではなくて”0”だったという - 1000人に聞いてもあれは6だよ - 全てがこんなふうで、べガスはなんかかんじわるいよね。
みんな理由なく(楽しみに来たのだから楽しむのだし楽しいんだわるいか? ていう理屈)浮かれてはしゃいで酔っ払ってガハガハしているし、働いているひとは慇懃無礼でチップが少ないと露骨にやな顔するし、ホテルの中は煙いしホテルの外は暑いし建物はバカみたいに薄っぺらいし、何百回でもいうけど本屋もレコ屋も車がないと行けないし、そこに住んで生活しているひとには悪いけど、ここはあんまし来たくない土地。 バカ映画のなかで見ればじゅうぶん。
べガスに着いた晩はホテル内のNathan’sでホットドッグを食べて、翌日の晩はShake Shackでハンバーガー食べた。 和食を恋しがるようにNYの味を求めてしまうじぶん。それ以外の食事は朝も昼も会場のコンファレンス飯。 いちいち文句いってもしょうがないけどさ、Kinako Tiramisuてなんだよ。
このままべガスに連泊して翌朝にロス経由で帰国、というプランもあったのだが、とっても我慢できないのでこれからロスに飛んで空港前のホテルで一泊する。 ロスに着くのは18:40くらい。でも空港前だからね、いろいろむずかしいよね。
ではまた。
9.22.2015
[log] September 21 2015
日曜日の昼間にシアトルに着いて、月曜日の午後遅くにサンノゼに来ました。
シアトルへの行きの飛行機で見たのは1本だけ。
あと、ぼーっとした頭で”Spy”をもう一回見た、くらい。
Far from the Madding Crowd (2015)
原作は1874年のThomas Hardyの小説。(読んでいない)
wikiを見る限りでは邦訳は2つ。タイトルは『遥か群衆を離れて』とか『狂おしき群をはなれて』とか。
19世紀、ヴィクトリア朝時代の英国、ドーセットで伯母の手伝いで農家をやっているBathsheba Everdene (Carey Mulligan)(..なんかKatniss Everdeenを思い起こさせる)は、まず隣で羊飼いをやっている誠実そうなGabriel (Matthias Schoenaerts)男から求婚されて、伯父の遺産として受け継いだ大農園にやって来ると今度は近所のお金持ちWilliam (Michael Sheen)からも求婚されて、でもどちらもありがとう考えときます、て応える。3人目に現れたのはちょびヒゲの軍人 - Frank Troy (Tom Sturridge)でかっこつけててアグレッシブで、彼のアピールに負けて結婚するのだがこいつがしょうもない遊び人の浪費家で(ヒゲの軍人にろくな奴いない)、かつて結婚を誓った女が困窮の末に亡くなったことを知ると絶望のあまり海に入っていって帰らぬひとになっちゃって、彼の遺した借金返済のために隣りのお金持ちと結婚することにしたその式の日に。
やや冗長だしカメラがいまいちなのだが、これはCarey Mulliganのいろんなふうに湿ったり曇ったり惑ったりするその瞳と口元にやられる映画、というだけで十分なのかもしれない。 あと、”Inside Llewyn Davis”でもそうだったように歌も素敵なの。
この原作、67年にも映画化されていて、そのときの主演はJulie Christieだって。これもみたいなー。
今回のは久々のANA便で、ここんとこずっと乗ってきたJAL便と比べるといろいろ思うところあった。
ビジネスの座席のレイアウトは、どっちも工夫してるなあ、と思うものの、Jのが頭絞ってひねくりだすように考えたかなあ、とか、洋画のセレクションは昔はAのがよかった気がしたがいまは互角かなあ、とか、コントローラーはJの悪口をさんざん言ったけどAのもいまいちだねえ、とか、お食事は昔はAの圧勝でいまもその地力は残っている(バゲットとかよい)ものの、Jも相当がんばったんだねえ、特にメインの食事のあとのお好みの幅の広さとか。 こっちは運んでくれれば文句ないから別にいいのだけど、ついあれこれ比較したくなってしまうのって、よくないよね。
シアトルの昼間、日曜の午後は、タクシーとばしてダウンタウンまで行って、数年ぶりにEMP museum行って展示をみっつ見た。 “Nirvana: Taking Punk to the Masses” (これとジミヘンのは、もう常設なのかしら) と”What's Up, Doc? The Animation Art of Chuck Jones” (これが一番みたかった)と、”Star Wars™ and The Power of Costume” (ここだけ別料金)。
みんなが大好きLooney Toons - Chuck Jonesはほんと楽しくて、(特に年寄りは)みんなニワトリみたいにケコケコ笑っていた。 しかし、コヨーテの尻尾って北斎の「神奈川沖浪裏」から来たってほんとなの?
で、そこからアナログを買うべくそこの近所のSilver Platters行ったら閉まっていてショックで立ち直れなくなる。 今回は荷物少なめだから買うのは7inchだけにしようと思ってきたのにー。
前回、Easy Street Recordsがなくなってて衝撃だったのに、こんどはここまで。
で、時間が空いてしまったのでSeattle Aquariumに歩いて行ってみる。天気わるくなかったし。
ちょうど、山火事の煙で喘息持ちになったここのラッコのMishkaが訓練して自分で吸入器を使えるようになった、ていう記事を読んだので会いにいこう! と。
水族館は海沿いの木造のでっかい平屋で、おもしろかった。いっぱいの鮭とかおいしそうだったし、ラッコもでっかくてくるくるまわっていた。どいつがMishkaかはわからなかったけど。
来週の26-27は”Sea Otter Awareness Weekend”なのでシアトルのひとは行くべき(なにやるんだろう)。
で、またタクシーで戻って(往復で$80.. ばかばかばか)、ホテルの裏のいつものシネコンで映画いっぽん見て、でもうろつき足らなくて日が沈むまでもやもやうろうろしてた。 天気のよい日曜日なのにさ。
サンノゼに向かう前、前日のショックが尾を引いて、空港のSUB POP Shopで7inchを4枚(知ってるのも知らないのも)買ってしまう。 それくらいショックだったということなんだ。
サンノゼは、シアトルより更になんもない。 荷物あけて、寝て、荷物つめて、次。これだけなの。
シアトルへの行きの飛行機で見たのは1本だけ。
あと、ぼーっとした頭で”Spy”をもう一回見た、くらい。
Far from the Madding Crowd (2015)
原作は1874年のThomas Hardyの小説。(読んでいない)
wikiを見る限りでは邦訳は2つ。タイトルは『遥か群衆を離れて』とか『狂おしき群をはなれて』とか。
19世紀、ヴィクトリア朝時代の英国、ドーセットで伯母の手伝いで農家をやっているBathsheba Everdene (Carey Mulligan)(..なんかKatniss Everdeenを思い起こさせる)は、まず隣で羊飼いをやっている誠実そうなGabriel (Matthias Schoenaerts)男から求婚されて、伯父の遺産として受け継いだ大農園にやって来ると今度は近所のお金持ちWilliam (Michael Sheen)からも求婚されて、でもどちらもありがとう考えときます、て応える。3人目に現れたのはちょびヒゲの軍人 - Frank Troy (Tom Sturridge)でかっこつけててアグレッシブで、彼のアピールに負けて結婚するのだがこいつがしょうもない遊び人の浪費家で(ヒゲの軍人にろくな奴いない)、かつて結婚を誓った女が困窮の末に亡くなったことを知ると絶望のあまり海に入っていって帰らぬひとになっちゃって、彼の遺した借金返済のために隣りのお金持ちと結婚することにしたその式の日に。
やや冗長だしカメラがいまいちなのだが、これはCarey Mulliganのいろんなふうに湿ったり曇ったり惑ったりするその瞳と口元にやられる映画、というだけで十分なのかもしれない。 あと、”Inside Llewyn Davis”でもそうだったように歌も素敵なの。
この原作、67年にも映画化されていて、そのときの主演はJulie Christieだって。これもみたいなー。
今回のは久々のANA便で、ここんとこずっと乗ってきたJAL便と比べるといろいろ思うところあった。
ビジネスの座席のレイアウトは、どっちも工夫してるなあ、と思うものの、Jのが頭絞ってひねくりだすように考えたかなあ、とか、洋画のセレクションは昔はAのがよかった気がしたがいまは互角かなあ、とか、コントローラーはJの悪口をさんざん言ったけどAのもいまいちだねえ、とか、お食事は昔はAの圧勝でいまもその地力は残っている(バゲットとかよい)ものの、Jも相当がんばったんだねえ、特にメインの食事のあとのお好みの幅の広さとか。 こっちは運んでくれれば文句ないから別にいいのだけど、ついあれこれ比較したくなってしまうのって、よくないよね。
シアトルの昼間、日曜の午後は、タクシーとばしてダウンタウンまで行って、数年ぶりにEMP museum行って展示をみっつ見た。 “Nirvana: Taking Punk to the Masses” (これとジミヘンのは、もう常設なのかしら) と”What's Up, Doc? The Animation Art of Chuck Jones” (これが一番みたかった)と、”Star Wars™ and The Power of Costume” (ここだけ別料金)。
みんなが大好きLooney Toons - Chuck Jonesはほんと楽しくて、(特に年寄りは)みんなニワトリみたいにケコケコ笑っていた。 しかし、コヨーテの尻尾って北斎の「神奈川沖浪裏」から来たってほんとなの?
で、そこからアナログを買うべくそこの近所のSilver Platters行ったら閉まっていてショックで立ち直れなくなる。 今回は荷物少なめだから買うのは7inchだけにしようと思ってきたのにー。
前回、Easy Street Recordsがなくなってて衝撃だったのに、こんどはここまで。
で、時間が空いてしまったのでSeattle Aquariumに歩いて行ってみる。天気わるくなかったし。
ちょうど、山火事の煙で喘息持ちになったここのラッコのMishkaが訓練して自分で吸入器を使えるようになった、ていう記事を読んだので会いにいこう! と。
水族館は海沿いの木造のでっかい平屋で、おもしろかった。いっぱいの鮭とかおいしそうだったし、ラッコもでっかくてくるくるまわっていた。どいつがMishkaかはわからなかったけど。
来週の26-27は”Sea Otter Awareness Weekend”なのでシアトルのひとは行くべき(なにやるんだろう)。
で、またタクシーで戻って(往復で$80.. ばかばかばか)、ホテルの裏のいつものシネコンで映画いっぽん見て、でもうろつき足らなくて日が沈むまでもやもやうろうろしてた。 天気のよい日曜日なのにさ。
サンノゼに向かう前、前日のショックが尾を引いて、空港のSUB POP Shopで7inchを4枚(知ってるのも知らないのも)買ってしまう。 それくらいショックだったということなんだ。
サンノゼは、シアトルより更になんもない。 荷物あけて、寝て、荷物つめて、次。これだけなの。
9.20.2015
[log] September 20 2015
いまは成田で、にっぽんは秋晴れの楽しい連休だというのに、もう米国の属国でしかなくなってしまったのだからなにも言うな、といわんばかり、これからお仕事をしに飛んでいくの。(向こうは連休かんけいないしね)
まずはシアトルで、そこから二箇所くらい転々とする。ホテルも毎日変わるのでめんどうでしょーもないし、シアトル以外は本屋もレコ屋もゼロ、みたいな文化不毛の地だから、地味に素直に諦めて溜まっている感想文でも片付けることにしますわ。(いや、まずは仕事をね...)
しかしなんだよね、ここ一カ月くらいって、仕事なんてほんとどうでもよくて、デモに行けるか行けないかとか、国会内の冗談みたいなやりとりに唖然とか、そんなことばかりやっていた。 法案が通ったら通ったで早速に経団連の武器輸出の件とか、そんなにひとの仕事のやる気(ええ、もともとありませんけどね)奪いたいか。 どこまで内輪で醜く固まって劣化して喜んでるんだ?
(そうそう、それが戦争というもの)
これからもこうして腐った船に乗ったままずぶずぶいくのを見てるのかどうするのか、戦争をする国の一員にされてしまった立場で、少し国を離れて考えてみましょうか、と思っている。
いや、考えてどうなるもんでもないのだが。 いまが間違っているのだから正しい方へ行くしかない、それだけを改めて、なんどでも。
NEXではBowieの”Station to Station”と”Low”を聴いていた。 自分にとっては平熱に戻るための音楽なの。
それからGuided by Voices。 これはいつもの。
したコメの"Absolutely Anything”、見たかったのになー。Art Book Fairも行きたかったのになー。
ではまた。
まずはシアトルで、そこから二箇所くらい転々とする。ホテルも毎日変わるのでめんどうでしょーもないし、シアトル以外は本屋もレコ屋もゼロ、みたいな文化不毛の地だから、地味に素直に諦めて溜まっている感想文でも片付けることにしますわ。(いや、まずは仕事をね...)
しかしなんだよね、ここ一カ月くらいって、仕事なんてほんとどうでもよくて、デモに行けるか行けないかとか、国会内の冗談みたいなやりとりに唖然とか、そんなことばかりやっていた。 法案が通ったら通ったで早速に経団連の武器輸出の件とか、そんなにひとの仕事のやる気(ええ、もともとありませんけどね)奪いたいか。 どこまで内輪で醜く固まって劣化して喜んでるんだ?
(そうそう、それが戦争というもの)
これからもこうして腐った船に乗ったままずぶずぶいくのを見てるのかどうするのか、戦争をする国の一員にされてしまった立場で、少し国を離れて考えてみましょうか、と思っている。
いや、考えてどうなるもんでもないのだが。 いまが間違っているのだから正しい方へ行くしかない、それだけを改めて、なんどでも。
NEXではBowieの”Station to Station”と”Low”を聴いていた。 自分にとっては平熱に戻るための音楽なの。
それからGuided by Voices。 これはいつもの。
したコメの"Absolutely Anything”、見たかったのになー。Art Book Fairも行きたかったのになー。
ではまた。
[film] God Help the Girl (2014)
なんかいっぱい溜まっているがこれもまだ休暇前。
8月23日の日曜日のごご、新宿で見ました。 おお忘れていたわ、と。
Stuart Murdoch - Belle and Sebastianていうのがそもそも微妙なの。
96年の頃、”If You're Feeling Sinister”を誰もが大絶賛してて(NYのOther Musicではスタッフ全員がその年のベストに挙げていた)、んで、聴いてもあんまよくわかんなかったのね。 Glasgow School - Orange JuiceとかJosef Kに浸かっていたものとして、彼らからの影響はわかんないでもなかったけど、どう言ってよいのやら、みたいな音楽の意匠だったの。要はピンとこなかったと。
で、この作品もNYの公開当時、評判はなんか中途半端なのが多かったしさ。
でも見てみたら、ぜんぜんよかったかも。 すごーい、パーフェクト、とまでは言わないけど。
施設に強制収容されているEve (Emily Browning)は何度でもするりと脱走して、バンドをやろうとしていたJames (Olly Alexander)と知り合って、そこにやはりバンドをやりたいお嬢さんCassie (Hannah Murray)も加わって、俺らなんかいけるんじゃないか最高かも、になっていく。 ていうような誰にでもある青春の盛りあがりの予感、が淡い恋も絡めてミュージカル仕立てで綴られる。 その流れのなかでEveは本当にやりたいことに気づいて目覚めて旅立っていくの。
というような音楽:バンド映画としてはきらきら眩しくスタイリッシュだし王道だねえ、と思いつつも、女の子の旅立ち映画としてみると、隔離施設でがちの治療を受けていた彼女が、内面吐露もせずエモの爆発も起こさずにあんな簡単に自分で自分の幸せを見つけて、関係がべったり面倒になる前にさらりといなくなってくれる、ちょっと男子に都合いいように描きすぎていないか、ていうのはあるかも。
ただ中心の3人のばらけぶりがよいかんじなので、あんま気にならないの。ぜんぜん三角形を作ろうとしない3人組の適当さとちゃらい三文ロッカーとのB級の逢瀬が結果的にEveの肩の重荷を解いた、そんなのもまたEveの妄想だったのかも - でもいいんだ、みたいな。
Emily Browningさんは歌も含めてこういうサイコな囚われ役 - ”Sucker Punch” (2011)にしても”Sleeping Beauty” (2011)にしても - がほんとうにうまいねえ。 心ここにあらず、でもどこかなんかむずむず … ていうあたりが。
音楽はサントラ盤買って聴いているが、あえてゴージャスにしない(できない?)へなちょこなところが素敵で、なんか最近の英国音楽、ぜんぜんわかんないけど、昔の香りがなんともいえない。
シリーズ化しないかしら。 次は "The Return of The Girl" とか。
8月23日の日曜日のごご、新宿で見ました。 おお忘れていたわ、と。
Stuart Murdoch - Belle and Sebastianていうのがそもそも微妙なの。
96年の頃、”If You're Feeling Sinister”を誰もが大絶賛してて(NYのOther Musicではスタッフ全員がその年のベストに挙げていた)、んで、聴いてもあんまよくわかんなかったのね。 Glasgow School - Orange JuiceとかJosef Kに浸かっていたものとして、彼らからの影響はわかんないでもなかったけど、どう言ってよいのやら、みたいな音楽の意匠だったの。要はピンとこなかったと。
で、この作品もNYの公開当時、評判はなんか中途半端なのが多かったしさ。
でも見てみたら、ぜんぜんよかったかも。 すごーい、パーフェクト、とまでは言わないけど。
施設に強制収容されているEve (Emily Browning)は何度でもするりと脱走して、バンドをやろうとしていたJames (Olly Alexander)と知り合って、そこにやはりバンドをやりたいお嬢さんCassie (Hannah Murray)も加わって、俺らなんかいけるんじゃないか最高かも、になっていく。 ていうような誰にでもある青春の盛りあがりの予感、が淡い恋も絡めてミュージカル仕立てで綴られる。 その流れのなかでEveは本当にやりたいことに気づいて目覚めて旅立っていくの。
というような音楽:バンド映画としてはきらきら眩しくスタイリッシュだし王道だねえ、と思いつつも、女の子の旅立ち映画としてみると、隔離施設でがちの治療を受けていた彼女が、内面吐露もせずエモの爆発も起こさずにあんな簡単に自分で自分の幸せを見つけて、関係がべったり面倒になる前にさらりといなくなってくれる、ちょっと男子に都合いいように描きすぎていないか、ていうのはあるかも。
ただ中心の3人のばらけぶりがよいかんじなので、あんま気にならないの。ぜんぜん三角形を作ろうとしない3人組の適当さとちゃらい三文ロッカーとのB級の逢瀬が結果的にEveの肩の重荷を解いた、そんなのもまたEveの妄想だったのかも - でもいいんだ、みたいな。
Emily Browningさんは歌も含めてこういうサイコな囚われ役 - ”Sucker Punch” (2011)にしても”Sleeping Beauty” (2011)にしても - がほんとうにうまいねえ。 心ここにあらず、でもどこかなんかむずむず … ていうあたりが。
音楽はサントラ盤買って聴いているが、あえてゴージャスにしない(できない?)へなちょこなところが素敵で、なんか最近の英国音楽、ぜんぜんわかんないけど、昔の香りがなんともいえない。
シリーズ化しないかしら。 次は "The Return of The Girl" とか。
9.19.2015
[log] September 19 2015
この一週間、落ち着いて感想とか書いていられる状態ではなかったのだが、これがまだまだぜんぜん終るもんではないことを踏みしめた上で、7月10日から国会前に通いだしたSlow Learnerの区切りとして、なんか書いておきたい。
前にも書いたかもしれないが、もともとこの国なんてこれっぽっちも愛していない、国籍破棄したいくらいに思っていたし、78年にパンクに出会ってからずっと”NO FUTURE”だったし、意味レス根拠レス逃走が自慢の80年代の子供だったので、この態度の延長・帰結として、そんなことしたって意味ないじゃん、という大多数の「大人」とおなじような態度であってもおかしくなかったはずなの。
でもやはり、ここ数年、日本がどう、というより世界まるごとがダンゴでひどくなっている、悪いほうに向かっているという確信を背景に、パンクとその思想を継承したポストパンクがその起点に抱えていた「音楽は、アートは、世界をどう変えることができるのか」という問いが改めてぶり返してなんか引っ掛かってくるのだった。非暴力は当然としてもその根底にあるべき正義や善て、人があれこれ勝手に語る価値観とは別に、運動として刺さってこないといけないよね。でもいまの世界で全部にいっぺんに通用する正義ってありうるのか、とか。
そういったもしゃもしゃした数年来の思いが、デモに行ってコールして、SEALDsとかの若者達の言葉を聞いているうちになんか軽くなっていったのだった。 デモは腐った政権を倒したりクソ法案をぶっ潰すためというより、なによりもまず参加者ひとりひとりの覚醒を促しもたらすものとして、本当に多くの学びや気づきをもたらすものとして「機能」していたの。 若者だったから、と人は言うかもしれないが、それこそなめんじゃねえ、なんだよ。 ひとりひとりが当然のように勝手に動いて勝手にコールして勝手に帰っていって、とにかく軽いしシンプルだし。
まずは自分が学べ、と。
SEALDsやT-ns SOWLは間違いなくなにかを変えたんだ。 誰がなにをどう言おうと。 よくも悪くも.. でいうと、悪いとはぜったいに、だれにも言えまい。 邪悪ななにかに取り憑かれているのはあいつらのほう。
919 - この3桁はこれからの日本で、米国での911とおなじような意味を持つだろう。 絶対に忘れてはならない一日として。
安倍とその取り巻きが数年かけて周到にメディアを押さえ、財界を押さえ、党内を縛り、労使や福祉を骨抜きにして、戦後日本の見えない拠り所、コアとして聳えていた憲法に対してクーデターを起こした。周囲や管制官(法学者)の言うことを一切聞かずに、病的なまでの妄信と暴走と共にそこにあったものを改竄しようとしている(おかしなことにそれを彼らは「取り戻す」という)。
911とはっきり異なるのは、まだ人は死んでいないこと、そして敵がはっきりしていることだ。
敵や憎悪を生み出すことこそダークサイドの、敵の思う壷なのだ、と言うことは十分わかったうえで、この数ヶ月でずいぶん敵と味方がはっきりしたと思う(敵の囲い込みがあまりに露骨で下品だったから、ていうのもある)。 そして今はもう昔の平和なにっぽんではなく明らかに非常事態なのだから、敵のほうは相手にしないし関わらないことにしよう。連中の話は一切聞くに値しない。 相手にしている時間はない。 まず自分が勉強していろんな想像力を働かせられるように。
とにかくもう、次にいくの。 ぶっといキックの鳴りと共に光より速く動いていこう。
そしていつものように、よい音楽、よい映画、よい本を。
前にも書いたかもしれないが、もともとこの国なんてこれっぽっちも愛していない、国籍破棄したいくらいに思っていたし、78年にパンクに出会ってからずっと”NO FUTURE”だったし、意味レス根拠レス逃走が自慢の80年代の子供だったので、この態度の延長・帰結として、そんなことしたって意味ないじゃん、という大多数の「大人」とおなじような態度であってもおかしくなかったはずなの。
でもやはり、ここ数年、日本がどう、というより世界まるごとがダンゴでひどくなっている、悪いほうに向かっているという確信を背景に、パンクとその思想を継承したポストパンクがその起点に抱えていた「音楽は、アートは、世界をどう変えることができるのか」という問いが改めてぶり返してなんか引っ掛かってくるのだった。非暴力は当然としてもその根底にあるべき正義や善て、人があれこれ勝手に語る価値観とは別に、運動として刺さってこないといけないよね。でもいまの世界で全部にいっぺんに通用する正義ってありうるのか、とか。
そういったもしゃもしゃした数年来の思いが、デモに行ってコールして、SEALDsとかの若者達の言葉を聞いているうちになんか軽くなっていったのだった。 デモは腐った政権を倒したりクソ法案をぶっ潰すためというより、なによりもまず参加者ひとりひとりの覚醒を促しもたらすものとして、本当に多くの学びや気づきをもたらすものとして「機能」していたの。 若者だったから、と人は言うかもしれないが、それこそなめんじゃねえ、なんだよ。 ひとりひとりが当然のように勝手に動いて勝手にコールして勝手に帰っていって、とにかく軽いしシンプルだし。
まずは自分が学べ、と。
SEALDsやT-ns SOWLは間違いなくなにかを変えたんだ。 誰がなにをどう言おうと。 よくも悪くも.. でいうと、悪いとはぜったいに、だれにも言えまい。 邪悪ななにかに取り憑かれているのはあいつらのほう。
919 - この3桁はこれからの日本で、米国での911とおなじような意味を持つだろう。 絶対に忘れてはならない一日として。
安倍とその取り巻きが数年かけて周到にメディアを押さえ、財界を押さえ、党内を縛り、労使や福祉を骨抜きにして、戦後日本の見えない拠り所、コアとして聳えていた憲法に対してクーデターを起こした。周囲や管制官(法学者)の言うことを一切聞かずに、病的なまでの妄信と暴走と共にそこにあったものを改竄しようとしている(おかしなことにそれを彼らは「取り戻す」という)。
911とはっきり異なるのは、まだ人は死んでいないこと、そして敵がはっきりしていることだ。
敵や憎悪を生み出すことこそダークサイドの、敵の思う壷なのだ、と言うことは十分わかったうえで、この数ヶ月でずいぶん敵と味方がはっきりしたと思う(敵の囲い込みがあまりに露骨で下品だったから、ていうのもある)。 そして今はもう昔の平和なにっぽんではなく明らかに非常事態なのだから、敵のほうは相手にしないし関わらないことにしよう。連中の話は一切聞くに値しない。 相手にしている時間はない。 まず自分が勉強していろんな想像力を働かせられるように。
とにかくもう、次にいくの。 ぶっといキックの鳴りと共に光より速く動いていこう。
そしていつものように、よい音楽、よい映画、よい本を。
9.13.2015
[film] Greatest Hits (2012)
22日の土曜日、「クリス・フジワラの「映画表現論」 現代映画とはなにか?」の3日目、3本目の上映と先生による講義。
原題は“Los mejores temas” 、監督はメキシコのNicolás Pereda。
歌謡曲のグレーテスト・ヒッツのミックスCDを街角で売って生計を立てている若者、母と妹と暮らしているその家に、15年間蒸発して不在だった父親Emilioが突然帰ってくる。 当然妻も息子も妹も反発してあれこれ言うのだが、父親は悪びれるふうもなく、当たり前のように日常に入りこんできて、ふつーの「家族」であるかのように暮らし始める。
前日の”Exit Elena”では外から入り込んだ娘の目を通して、この作品では元々そこにいたはずの男の目を通して家族のありよう - 個人の集合体ではあるが、「家族」として括られて守られるべき規範がある - があぶり出される。 例えば、家族の構成員はふつう、その家に帰ってきて、そこでみんなと一緒に暮らすもので15年も留守にしているなんて、ふつうはありえない。 例えばグレーテスト・ヒッツにおいて、その選曲と順番が大きな意味を持つ(なのでそれを売っている息子は曲の順番を必死になって覚えている)のと同じように。
もういっこ、後半になると別の俳優が演じるEmilioにより、別のかたちで物語が進んだり別のエピソードが出てきたりする。 家族の物語において、別のものに置き換え可能ななにかがあるとしたらそれはいったいなんなのか、過去におこった出来事もグレーテスト・ヒッツのアイテムように取り替えることができるのか、とか。
さらにさらに、この映画の変てこなところは、そうやって家族やその歴史のありようを異化するだけではなくて、あんまあってはならないようなことも起こる - 撮影スタッフ(と思われるひと)の声がカメラの側から出演者に話しかける - ことで、フィクションとドキュメンタリーとの境界も「家族」の概念を巡って曖昧に揺れはじめる。 一瞬、え? となるのだがそんなに違和感なく、ここをきっかけに全体の構成が転換されることもなく、この後はふつうに進行していくの。
すごーくおもしろい場面があるわけではないのだが、終始画面から目を離すことができなくて、異様な長回しも含めて考えされることいろいろ、変な意味でこゆい映画であることは間違いなかった。
映画の後で、フジワラ - 藤原組による3本の映画を俯瞰した「現代映画」をめぐる講義。
「現代映画」と”Contemporary Cinema”は日本語と英語で若干ニュアンスが異なることを確認した上で、現代映画を特徴づける4つの要素として以下を挙げる。
1. Division, Separation from 商業映画
2. デジタルの導入による低予算化
3. デジタル化の帰結として巨大な情報空間のひとつに分散化されている
4. 映画そのものの衰退に伴う観客の分散化、断片化
でもそれは「映画の死」に安易に繋げられるものではない、と。そんなものは映画が生まれたときからずっと言われていることなんだし、と。
で、今回上映された3本を振り返りつつ、「家族」へのフォーカスや演出上の特徴を“Hybridization of Fiction and Documentary” や“Slow Cinema”というところに集約させて、そこにLav DiazやPedro Costaの名前をだす。
あとは、時間感覚のこと - 今、それがどのような時間であるのか、という意識、時間の複数性に対する問いかけが常にある、というあたりはそうだよねえ、と思いつつ聞いた。
タイトルとか予告だけで見なくてもゴミってわかるような邦画とか、ああいうのも一応、現代映画なのかしら、とか。
それにしても、フジワラ先生久しぶりだったけど、やっぱりおもしろかったねえ。
ラストのQ&AのXavier Dolanの件とかも。
原題は“Los mejores temas” 、監督はメキシコのNicolás Pereda。
歌謡曲のグレーテスト・ヒッツのミックスCDを街角で売って生計を立てている若者、母と妹と暮らしているその家に、15年間蒸発して不在だった父親Emilioが突然帰ってくる。 当然妻も息子も妹も反発してあれこれ言うのだが、父親は悪びれるふうもなく、当たり前のように日常に入りこんできて、ふつーの「家族」であるかのように暮らし始める。
前日の”Exit Elena”では外から入り込んだ娘の目を通して、この作品では元々そこにいたはずの男の目を通して家族のありよう - 個人の集合体ではあるが、「家族」として括られて守られるべき規範がある - があぶり出される。 例えば、家族の構成員はふつう、その家に帰ってきて、そこでみんなと一緒に暮らすもので15年も留守にしているなんて、ふつうはありえない。 例えばグレーテスト・ヒッツにおいて、その選曲と順番が大きな意味を持つ(なのでそれを売っている息子は曲の順番を必死になって覚えている)のと同じように。
もういっこ、後半になると別の俳優が演じるEmilioにより、別のかたちで物語が進んだり別のエピソードが出てきたりする。 家族の物語において、別のものに置き換え可能ななにかがあるとしたらそれはいったいなんなのか、過去におこった出来事もグレーテスト・ヒッツのアイテムように取り替えることができるのか、とか。
さらにさらに、この映画の変てこなところは、そうやって家族やその歴史のありようを異化するだけではなくて、あんまあってはならないようなことも起こる - 撮影スタッフ(と思われるひと)の声がカメラの側から出演者に話しかける - ことで、フィクションとドキュメンタリーとの境界も「家族」の概念を巡って曖昧に揺れはじめる。 一瞬、え? となるのだがそんなに違和感なく、ここをきっかけに全体の構成が転換されることもなく、この後はふつうに進行していくの。
すごーくおもしろい場面があるわけではないのだが、終始画面から目を離すことができなくて、異様な長回しも含めて考えされることいろいろ、変な意味でこゆい映画であることは間違いなかった。
映画の後で、フジワラ - 藤原組による3本の映画を俯瞰した「現代映画」をめぐる講義。
「現代映画」と”Contemporary Cinema”は日本語と英語で若干ニュアンスが異なることを確認した上で、現代映画を特徴づける4つの要素として以下を挙げる。
1. Division, Separation from 商業映画
2. デジタルの導入による低予算化
3. デジタル化の帰結として巨大な情報空間のひとつに分散化されている
4. 映画そのものの衰退に伴う観客の分散化、断片化
でもそれは「映画の死」に安易に繋げられるものではない、と。そんなものは映画が生まれたときからずっと言われていることなんだし、と。
で、今回上映された3本を振り返りつつ、「家族」へのフォーカスや演出上の特徴を“Hybridization of Fiction and Documentary” や“Slow Cinema”というところに集約させて、そこにLav DiazやPedro Costaの名前をだす。
あとは、時間感覚のこと - 今、それがどのような時間であるのか、という意識、時間の複数性に対する問いかけが常にある、というあたりはそうだよねえ、と思いつつ聞いた。
タイトルとか予告だけで見なくてもゴミってわかるような邦画とか、ああいうのも一応、現代映画なのかしら、とか。
それにしても、フジワラ先生久しぶりだったけど、やっぱりおもしろかったねえ。
ラストのQ&AのXavier Dolanの件とかも。
9.12.2015
[film] Exit Elena (2012)
休暇前に見たやつとか、まだ書いていないのがあったので、少し巻き戻す。
8月はほんとにアテネ・フランセ強化月間となってしまったわけだが、20日から始まった3日連続講座 - 「クリス・フジワラの「映画表現論」 現代映画とはなにか?」の、2日目、21日のやつ。
介護士の資格を取ったElena (Kia Davis) が、派遣された家でのあれこれを、"Limits" - "A New Family" - "Sudden Decision"の3章、72分でさらさらと綴る。 日本初公開だって。
Elenaが介護するのは足が弱くて殆ど喋らないおばあちゃんで、お母さん(監督のほんとのママが演じている)は世話焼きでほうっておくとずーっと喋りながらちょっかいだしてきて(でも誰も相手にしない)、家にいがちのお父さんも好き勝手なことをべらべら言うほうで(でも誰も聞いていない)、夫婦として噛み合っているとは思えない、犬も喰わないタイプ、絵に描いたようなJewishの家庭で、Elenaはなんも考えていないのか関わらないことに決めているのか、言われるままにその家に部屋をあてがわれて住みこむことにする。 けど介護している時間以外は部屋に篭ってタバコ吸ってぼーっとしているか猫と遊んでいるか、なの(そうしているとママがまた ..)。
そこに大学に行っているもののちょっと心を病んでる息子のNathan(監督本人)が帰ってきて、パパママと同じようにElenaにちょっかいを出し始める。さらにこいつは恋愛みたいなところも絡めてくるので、面倒くさいしうざいことはたしかなのだが、Elenaの基本は変わらず、心開かず、相手にしない。それがいつ限界や境界を超えてしまうのか、がこういうドラマのポイントだと思うのだが、その辺はのらくらかわして、ある日Elenaは突然決意して出ていってしまう。 猫を小脇に抱えて。
Elenaが感じるなんとも言えない居心地の悪さは、そのままここの家族に流れる時間そのままで、その不安定さと不確定さ、その生々しさを演出しようとするという点においてJohn CassavetesやJacques Rozierの系譜にあるものだ、と翌日の講義では言っていたけど、そうかなあー。 まずこのふたりにはとてつもない会話のおもしろさ、ダイナミクスがあると思うんだけど。
でも、なんとも言えずにおもしろいことはたしかだった。なんだろ。
この日は講義はなくて、上映だけで終りだったので、そのまま金曜日の国会前に移動して抗議した。
8月はほんとにアテネ・フランセ強化月間となってしまったわけだが、20日から始まった3日連続講座 - 「クリス・フジワラの「映画表現論」 現代映画とはなにか?」の、2日目、21日のやつ。
介護士の資格を取ったElena (Kia Davis) が、派遣された家でのあれこれを、"Limits" - "A New Family" - "Sudden Decision"の3章、72分でさらさらと綴る。 日本初公開だって。
Elenaが介護するのは足が弱くて殆ど喋らないおばあちゃんで、お母さん(監督のほんとのママが演じている)は世話焼きでほうっておくとずーっと喋りながらちょっかいだしてきて(でも誰も相手にしない)、家にいがちのお父さんも好き勝手なことをべらべら言うほうで(でも誰も聞いていない)、夫婦として噛み合っているとは思えない、犬も喰わないタイプ、絵に描いたようなJewishの家庭で、Elenaはなんも考えていないのか関わらないことに決めているのか、言われるままにその家に部屋をあてがわれて住みこむことにする。 けど介護している時間以外は部屋に篭ってタバコ吸ってぼーっとしているか猫と遊んでいるか、なの(そうしているとママがまた ..)。
そこに大学に行っているもののちょっと心を病んでる息子のNathan(監督本人)が帰ってきて、パパママと同じようにElenaにちょっかいを出し始める。さらにこいつは恋愛みたいなところも絡めてくるので、面倒くさいしうざいことはたしかなのだが、Elenaの基本は変わらず、心開かず、相手にしない。それがいつ限界や境界を超えてしまうのか、がこういうドラマのポイントだと思うのだが、その辺はのらくらかわして、ある日Elenaは突然決意して出ていってしまう。 猫を小脇に抱えて。
Elenaが感じるなんとも言えない居心地の悪さは、そのままここの家族に流れる時間そのままで、その不安定さと不確定さ、その生々しさを演出しようとするという点においてJohn CassavetesやJacques Rozierの系譜にあるものだ、と翌日の講義では言っていたけど、そうかなあー。 まずこのふたりにはとてつもない会話のおもしろさ、ダイナミクスがあると思うんだけど。
でも、なんとも言えずにおもしろいことはたしかだった。なんだろ。
この日は講義はなくて、上映だけで終りだったので、そのまま金曜日の国会前に移動して抗議した。
9.11.2015
[log] September 11 2015
今日は9月11日で、14年目なので、国会前のデモに行った。
New Yorkはまだ朝の8時くらい、14年前だと火曜日の、本当に気持ちよく晴れたあの朝を想って、湿った闇のなかで声をあげる。
あんなに気持ちよく晴れていた14年前の朝、沢山のひとが一遍に一瞬に、誰も望まないかたちで突然に、家族と、恋人と、友人と、引き離されて死んでしまった。 あの朝、そんなことが起こるなんて、誰ひとり想像もしていなかった。誰ひとり受けとめることができなかった。 でもそれは起こった。
道を歩くひとみんながうなだれて、たまにあの方を振り返って声を出さずに泣いていた。2nd Aveから振り返るとダウンタウンのほうは煙で曇ってなにも見えなかった。あんな気持ちよく晴れた朝だったのに。
あの日亡くなった沢山の人たちと同じように、自分のある部分もまた亡くなったのだと思うし、あの日から半年以上立てられていた人探しのボードに貼られた沢山の笑顔の写真と悲痛なメッセージをいまだに忘れることができない。
デモが糾弾している元凶の根、そのひとつが14年前のこの日、あの朝に生まれたことは確かだと思う。
今の総理とおなじくらいバカだった当時の合衆国大統領は、二度とこの悲劇を繰り返さないように、と仮想の敵と偽の疑惑をでっちあげて兵を送った。 それはパンドラの箱で、それに連なる暴力の鎖は未だに断ち切れていないままだ。 突然襲ってきたらどうする? という疑念と汚れた大義から始まった一連の活動ははっきりと失敗したんだ。 その負の連鎖に自分から繋がれにいってどうするの?
それにね。あの日亡くなった人たちがそんなことを望んでいたとはとても思えないんだよね。
(70年前の戦争で亡くなった人たちも)
改めて(何度でも)ご冥福をお祈りします。
そして誓う。 ぜったいに忘れない。 本当に止める。
本日のお勉強: 懈怠(けたい)ではなく精進を!
New Yorkはまだ朝の8時くらい、14年前だと火曜日の、本当に気持ちよく晴れたあの朝を想って、湿った闇のなかで声をあげる。
あんなに気持ちよく晴れていた14年前の朝、沢山のひとが一遍に一瞬に、誰も望まないかたちで突然に、家族と、恋人と、友人と、引き離されて死んでしまった。 あの朝、そんなことが起こるなんて、誰ひとり想像もしていなかった。誰ひとり受けとめることができなかった。 でもそれは起こった。
道を歩くひとみんながうなだれて、たまにあの方を振り返って声を出さずに泣いていた。2nd Aveから振り返るとダウンタウンのほうは煙で曇ってなにも見えなかった。あんな気持ちよく晴れた朝だったのに。
あの日亡くなった沢山の人たちと同じように、自分のある部分もまた亡くなったのだと思うし、あの日から半年以上立てられていた人探しのボードに貼られた沢山の笑顔の写真と悲痛なメッセージをいまだに忘れることができない。
デモが糾弾している元凶の根、そのひとつが14年前のこの日、あの朝に生まれたことは確かだと思う。
今の総理とおなじくらいバカだった当時の合衆国大統領は、二度とこの悲劇を繰り返さないように、と仮想の敵と偽の疑惑をでっちあげて兵を送った。 それはパンドラの箱で、それに連なる暴力の鎖は未だに断ち切れていないままだ。 突然襲ってきたらどうする? という疑念と汚れた大義から始まった一連の活動ははっきりと失敗したんだ。 その負の連鎖に自分から繋がれにいってどうするの?
それにね。あの日亡くなった人たちがそんなことを望んでいたとはとても思えないんだよね。
(70年前の戦争で亡くなった人たちも)
改めて(何度でも)ご冥福をお祈りします。
そして誓う。 ぜったいに忘れない。 本当に止める。
本日のお勉強: 懈怠(けたい)ではなく精進を!
[film] Aloha (2015)
帰りの飛行機で見た映画ふたつめ。
Cameron Croweの新作が公開されない国になんか帰りたくない、てずーっと思っていた。
冒頭、過去の宇宙開発のアーカイブ映像 - 失敗したのが多い - がざーっと重なっていったその向こうからThe Whoの"I Can See for Miles"がわーんて走り出す。 ここだけでもう十分なの。
Brian (Bradley Cooper)は軍を辞めて大富豪Carson Welch (Bill Murray)とのコンサル契約を結んでアフガンに行き、そこでのミッションに失敗(16箇所だか骨折)して、仕事干されたあとで再び彼に拾われて、ハワイに向かう。
当面の任務は米軍基地の統合に伴って現地民の土地を接収したい、のでその説得と地鎮祭の実施。
そこに若くてぱりぱりの新兵Allison (Emma Stone)がお目付でくっついてきて、交渉そのものは微妙なのだが、Alisonの笑顔を現地民の長は気にいった模様。
ハワイにはもうひとつ、結婚直前に別れたBrianのExであるTracy (Rachel McAdams)がいて、彼女は彼と別れたあと、やはり軍人のWoody (John Krasinski)と結婚して2児をもうけて、幸せそうに暮らしている。 彼女と再会してWoodyとも会って認めあって、みんなそれぞれ思うところはあって。
ビリオネアの支援なしには成り立たなくなっている米軍の運営と彼らに土地を奪われてきた現地民の生活、という経済と支配のヒエラルキー(+その歴史)があって、その上でいったん全てを失った男、失いかけたものをようやく取り戻した女、まだこれからできらきらの娘、という3者が絡むの。
やがてBrianの本当の仕事はCarson Welchの会社の新衛星を打ち上げること、というのがわかるのだが、打ち上げ直前にその衛星には核ミサイルが積まれていることがわかって、Brianとそれを別の方角から知ってしまったAlisonも揺れはじめる。
軍も富豪もイケイケで、成功して当然、やるべし、のように言うけど、みんなの星空にそんなものを置いてしまってよいのか、やっと自分らを信頼して受けいれてくれた現地民の人たちやハワイの自然に恥ずかしくないのか、と。
そうこうしているうちにロケットは発射台に乗っけられ、カウントダウンがはじまって。
一度すべてを失くした中年男が自然(のようなもの)と出会って自分を取り戻す、ていうのは前作の"We Bought a Zoo" (2011)とおなじで、ただあれが実話ベースだったのに対して、こっちはCameron Croweの創作で、だからというかなんというか傷を負った中年男のファンタジーで溢れかえっていて、だって雇い主は変てこだけど(一見)やさしいし、仕事はうまくいきそうだし、別れた彼女もまだ未練ありそうだし、彼女になるかもしれない若い娘はかわいいし、しかもここはハワイだし。
もちろんそんな、なにもかも都合よくはいかないのだが、でも十分じゃん、て誰もがふん、と横を向きたくなったところで、Alison - Emma Stoneの輝ける笑顔がぜんぶまっさらにおやじ臭をさらっていってしまうの。 そのへんの予期せざるバランスの悪さ、みたいのがないとは言わない。
けどいいの。 Sonyへのハッキングで流出したメールでぼろかすに貶されていたけど、そんなのぜんぜん。
とにかくEmma Stoneのハワイの太陽みたいな眩しさ(←凡庸)にやられてしまえ。
音楽もいつものようにー。 Harpers Bizarreの”Witchi Tai To”(だいすき)が流れるし、Bill MurrayとEmma Stoneが一緒に踊る”I Can't Go for That (No Can Do)” とか。
いちばん笑ったのはあれ、Bradley CooperとJohn Krasinskiの犬の会話。(見ればわかる)
あと、Alec Baldwinの役回りが”MI - Rogue Nation”とほとんど同じこととか。
あと、ハワイって、長女の映画が似合う、のかも。(→ “The Descendants”)
公開されないのはあれでしょ、沖縄と安保法案を思い起こさせるからでしょ?
Cameron Croweの新作が公開されない国になんか帰りたくない、てずーっと思っていた。
冒頭、過去の宇宙開発のアーカイブ映像 - 失敗したのが多い - がざーっと重なっていったその向こうからThe Whoの"I Can See for Miles"がわーんて走り出す。 ここだけでもう十分なの。
Brian (Bradley Cooper)は軍を辞めて大富豪Carson Welch (Bill Murray)とのコンサル契約を結んでアフガンに行き、そこでのミッションに失敗(16箇所だか骨折)して、仕事干されたあとで再び彼に拾われて、ハワイに向かう。
当面の任務は米軍基地の統合に伴って現地民の土地を接収したい、のでその説得と地鎮祭の実施。
そこに若くてぱりぱりの新兵Allison (Emma Stone)がお目付でくっついてきて、交渉そのものは微妙なのだが、Alisonの笑顔を現地民の長は気にいった模様。
ハワイにはもうひとつ、結婚直前に別れたBrianのExであるTracy (Rachel McAdams)がいて、彼女は彼と別れたあと、やはり軍人のWoody (John Krasinski)と結婚して2児をもうけて、幸せそうに暮らしている。 彼女と再会してWoodyとも会って認めあって、みんなそれぞれ思うところはあって。
ビリオネアの支援なしには成り立たなくなっている米軍の運営と彼らに土地を奪われてきた現地民の生活、という経済と支配のヒエラルキー(+その歴史)があって、その上でいったん全てを失った男、失いかけたものをようやく取り戻した女、まだこれからできらきらの娘、という3者が絡むの。
やがてBrianの本当の仕事はCarson Welchの会社の新衛星を打ち上げること、というのがわかるのだが、打ち上げ直前にその衛星には核ミサイルが積まれていることがわかって、Brianとそれを別の方角から知ってしまったAlisonも揺れはじめる。
軍も富豪もイケイケで、成功して当然、やるべし、のように言うけど、みんなの星空にそんなものを置いてしまってよいのか、やっと自分らを信頼して受けいれてくれた現地民の人たちやハワイの自然に恥ずかしくないのか、と。
そうこうしているうちにロケットは発射台に乗っけられ、カウントダウンがはじまって。
一度すべてを失くした中年男が自然(のようなもの)と出会って自分を取り戻す、ていうのは前作の"We Bought a Zoo" (2011)とおなじで、ただあれが実話ベースだったのに対して、こっちはCameron Croweの創作で、だからというかなんというか傷を負った中年男のファンタジーで溢れかえっていて、だって雇い主は変てこだけど(一見)やさしいし、仕事はうまくいきそうだし、別れた彼女もまだ未練ありそうだし、彼女になるかもしれない若い娘はかわいいし、しかもここはハワイだし。
もちろんそんな、なにもかも都合よくはいかないのだが、でも十分じゃん、て誰もがふん、と横を向きたくなったところで、Alison - Emma Stoneの輝ける笑顔がぜんぶまっさらにおやじ臭をさらっていってしまうの。 そのへんの予期せざるバランスの悪さ、みたいのがないとは言わない。
けどいいの。 Sonyへのハッキングで流出したメールでぼろかすに貶されていたけど、そんなのぜんぜん。
とにかくEmma Stoneのハワイの太陽みたいな眩しさ(←凡庸)にやられてしまえ。
音楽もいつものようにー。 Harpers Bizarreの”Witchi Tai To”(だいすき)が流れるし、Bill MurrayとEmma Stoneが一緒に踊る”I Can't Go for That (No Can Do)” とか。
いちばん笑ったのはあれ、Bradley CooperとJohn Krasinskiの犬の会話。(見ればわかる)
あと、Alec Baldwinの役回りが”MI - Rogue Nation”とほとんど同じこととか。
あと、ハワイって、長女の映画が似合う、のかも。(→ “The Descendants”)
公開されないのはあれでしょ、沖縄と安保法案を思い起こさせるからでしょ?
9.10.2015
[film] Spy (2015)
帰りの飛行機は月が変わって9月になっていて、機内の映画プログラムも変わって、見たくてしょうがなかったのが2本入っていたので万歳した。 機内で見たやつはこういうかたちでは書かないことにしているのだが、やっぱし書いとこ、書きたい、と思った。 ので書く。
おもしろかったし。 そのうち公開されるのであればいいけど、その見込みあんまなさそうだし。
それにしても、なぜ自分はこんなにMelissa McCarthyの映画を見ているんだろう、て思う。
最近のは殆ど見ているのよね、機内とか現地とかで。 愛してしまったのかしら。
Bradley Fine (Jude Law)がCIAのスーパー諜報員で現場にいて、Susan (Melissa McCarthy)がCIAオフィスの端末(彼のコンタクトレンズと連動している)からいろいろ敵の位置とか経路とかの情報を渡したり注意を促したり彼の後方支援をしてて、ふたりのコンビネーションはパーフェクトで、問答無用で相手をやっつけてしまう。 冒頭で核弾頭の取引をしようとしていたロシアのボスをやっつけた(くしゃみしたら引き金が、ていうクラシックなやつ)後、どこかに消えてしまった核の行方を追うべく、彼の娘(Rose Byrne)にたどり着いたところでBradleyは顔面に弾丸うちこまれてしまう(のがSusanの画面に)。
彼の仇を討つべくこの件を全うするのは、スパイをやるのはあたししかいない、てSusanは奮起して、スパイ道具一式(めちゃくちゃしょぼい)もらって、偽名と偽プロファイル(めちゃくちゃださい)もらって、Rose Byrneを追っかけてパリに行くの。
そんな彼女の行動に絡んでくるのは、どSの上司とか、すべてがとんちんかんのくせにちょっかい出してくるJason Stathamとか、女ならなんでもいいイタリアすけべ野郎とか、オフィスの同僚女子とか、同僚とはちがうけど、50 Centとか、癖のある連中ばかりで、彼女だってあの体型のあの振る舞いなので、真面目に真剣に突き進めば進むほど、二次災害も含めて騒ぎはでっかく転がっていって収拾がつかなくて、痛快ったらない。
おおよそスパイらしからぬネジの外れた人がスパイをやって大騒ぎを巻き起こすどたばたコメディには、Rowan AtkinsonのとかSteve Carellのとか、これまでもいろいろあったが、これはなかなか本格的なかんじがして、おもしろい。
なんで本格的なかんじがするんだろ、と思ったのだが、Melissa McCarthyひとりが突出しているわけではなく、味方も敵も全員が異様なテンションで追いかけっこして変なことをやっている、ということにつきる。 スパイって全員変態(Rogue Nation)なんだよね、てこないだMI5を見て思った、そういうテイストがこの映画にもあるのと、Paul Feigて、こういう群衆変態ドラマをやらせるとしみじみすごいの。”Bridesmaids"にしても"The Heat"にしても。
”Ghostbusters”たのしみだよねえ。
キッチンでのバトルとか半分くらいはスタントなんだろうけど、サモハンかよ、とか思うくらいすごいし楽しいし。
続編つくらないかしら。 その前に”The Heat 2”だけど。
おもしろかったし。 そのうち公開されるのであればいいけど、その見込みあんまなさそうだし。
それにしても、なぜ自分はこんなにMelissa McCarthyの映画を見ているんだろう、て思う。
最近のは殆ど見ているのよね、機内とか現地とかで。 愛してしまったのかしら。
Bradley Fine (Jude Law)がCIAのスーパー諜報員で現場にいて、Susan (Melissa McCarthy)がCIAオフィスの端末(彼のコンタクトレンズと連動している)からいろいろ敵の位置とか経路とかの情報を渡したり注意を促したり彼の後方支援をしてて、ふたりのコンビネーションはパーフェクトで、問答無用で相手をやっつけてしまう。 冒頭で核弾頭の取引をしようとしていたロシアのボスをやっつけた(くしゃみしたら引き金が、ていうクラシックなやつ)後、どこかに消えてしまった核の行方を追うべく、彼の娘(Rose Byrne)にたどり着いたところでBradleyは顔面に弾丸うちこまれてしまう(のがSusanの画面に)。
彼の仇を討つべくこの件を全うするのは、スパイをやるのはあたししかいない、てSusanは奮起して、スパイ道具一式(めちゃくちゃしょぼい)もらって、偽名と偽プロファイル(めちゃくちゃださい)もらって、Rose Byrneを追っかけてパリに行くの。
そんな彼女の行動に絡んでくるのは、どSの上司とか、すべてがとんちんかんのくせにちょっかい出してくるJason Stathamとか、女ならなんでもいいイタリアすけべ野郎とか、オフィスの同僚女子とか、同僚とはちがうけど、50 Centとか、癖のある連中ばかりで、彼女だってあの体型のあの振る舞いなので、真面目に真剣に突き進めば進むほど、二次災害も含めて騒ぎはでっかく転がっていって収拾がつかなくて、痛快ったらない。
おおよそスパイらしからぬネジの外れた人がスパイをやって大騒ぎを巻き起こすどたばたコメディには、Rowan AtkinsonのとかSteve Carellのとか、これまでもいろいろあったが、これはなかなか本格的なかんじがして、おもしろい。
なんで本格的なかんじがするんだろ、と思ったのだが、Melissa McCarthyひとりが突出しているわけではなく、味方も敵も全員が異様なテンションで追いかけっこして変なことをやっている、ということにつきる。 スパイって全員変態(Rogue Nation)なんだよね、てこないだMI5を見て思った、そういうテイストがこの映画にもあるのと、Paul Feigて、こういう群衆変態ドラマをやらせるとしみじみすごいの。”Bridesmaids"にしても"The Heat"にしても。
”Ghostbusters”たのしみだよねえ。
キッチンでのバトルとか半分くらいはスタントなんだろうけど、サモハンかよ、とか思うくらいすごいし楽しいし。
続編つくらないかしら。 その前に”The Heat 2”だけど。
9.09.2015
[film] Grandma (2015)
この低気圧はなんだ。
1日、火曜日、LAさいごの晩の8時すぎ、なぜか気がついたらAmoeba Musicの前にいて、おかしいなあそれならしょうがないな、とその横のArcLightで見ることにした。 79分だし、監督は”American Pie”の、”About a Boy”の、”Admission”の、Paul Weitzさんだし、いいかも、見るべきかも、て。
最初、Elle (Lily Tomlin)が同居していたGFのOlivia (Judy Greer)にあんたとはもうお別れ、出てって、ていう修羅場で、Oliviaはなんで? こんなに好きなのに? てぴーぴー泣くのだが、Elleは冷たい。
でもOliviaが出ていっちゃうとElleは風呂場でさめざめと泣いて、そうしていると今度は孫のSage (Julia Garner)が現れる。 子供ができたみたいなので中絶したい、夕方にクリニック予約していて現金で$630いるんだけどある? ていう。おばあちゃんはくらくらしつつもクレジットカードを粉々にしちゃった直後でお金ないから、お金くれそうなひとを探そう、ってぼろい車(あれ、Lily Tomlinの私物だって.. )をひっぱり出してふたりで旅に出る。 そんな一日のおはなし。
道中でカフェの店員 (John Cho)をいじめたり、そもそもおまえを孕ませたくそ野郎はどこのどいつだ?って彼 (Nat Wolff)のとこに押しかけて悪態つくそいつの金玉をホッケーのスティックでどすっ、てひと突きして財布から$50抜きとり、とかそんな調子で、昔の面倒みてあげた友達とか恋人 (Sam Eliott)とかを訪ねてまわる。 けどあまり反応はよくない。
その過程でElleはかつてフェミニズムの闘士で詩集も出版している生粋のボヘミアンであることがわかったりするのだが、よくある破天荒で我儘な老人がギャップをもろともせず若者をきりきり舞いさせて大騒ぎ、のようなコメディとはちょっと違って、ElleはElleで頑固で不機嫌でいらついたまま、SageはSageでイライラのイラ - 孫の不機嫌を全開にしていて互いに一歩も譲りやしない。けど、それ故におばあちゃんと孫のもの言わぬ絆、みたいのが静かに浮かびあがってくるの。
夕方が近づいてきて、どうしようもなくなってママ (Marcia Gay Harden) - Elleからすれば娘だし、Sageからすれば母親のところに行くのだが、ふたりの中間にいる彼女 - 会社の重役とかしているバリバリ - もあったりまえに強くてアクが強くておお女系家族、「父親」なんて影もかたちもありゃしない。
内容が内容なので最後はみんな朗らかにハッピー、というわけでは勿論ないのだが、最後のElle - Grandmaの姿は”Admission”のラストのTina Feyにも通じるたまんないものがある。
Lily Tomlinのかっこよさがすべてで、少し目を細めてOliviaやSageを凝視するその姿が素敵で、愛すべきくそばばあ、てこういうもんなんだわて思って、「おばあちゃん」て言ってみたくなる。
日本公開される可能性は400%ないね。
これでLAの映画館で見た映画はおわり。 LA来たのなら”Straight Outta Compton”を見るべきではないか(ほんと看板だらけだった)、と悩んでいたのだが、西海岸の英語、あんまよくわかんないのよね、しかも147分となると ... でも公開しないってほんとなの? どこまで ...
1日、火曜日、LAさいごの晩の8時すぎ、なぜか気がついたらAmoeba Musicの前にいて、おかしいなあそれならしょうがないな、とその横のArcLightで見ることにした。 79分だし、監督は”American Pie”の、”About a Boy”の、”Admission”の、Paul Weitzさんだし、いいかも、見るべきかも、て。
最初、Elle (Lily Tomlin)が同居していたGFのOlivia (Judy Greer)にあんたとはもうお別れ、出てって、ていう修羅場で、Oliviaはなんで? こんなに好きなのに? てぴーぴー泣くのだが、Elleは冷たい。
でもOliviaが出ていっちゃうとElleは風呂場でさめざめと泣いて、そうしていると今度は孫のSage (Julia Garner)が現れる。 子供ができたみたいなので中絶したい、夕方にクリニック予約していて現金で$630いるんだけどある? ていう。おばあちゃんはくらくらしつつもクレジットカードを粉々にしちゃった直後でお金ないから、お金くれそうなひとを探そう、ってぼろい車(あれ、Lily Tomlinの私物だって.. )をひっぱり出してふたりで旅に出る。 そんな一日のおはなし。
道中でカフェの店員 (John Cho)をいじめたり、そもそもおまえを孕ませたくそ野郎はどこのどいつだ?って彼 (Nat Wolff)のとこに押しかけて悪態つくそいつの金玉をホッケーのスティックでどすっ、てひと突きして財布から$50抜きとり、とかそんな調子で、昔の面倒みてあげた友達とか恋人 (Sam Eliott)とかを訪ねてまわる。 けどあまり反応はよくない。
その過程でElleはかつてフェミニズムの闘士で詩集も出版している生粋のボヘミアンであることがわかったりするのだが、よくある破天荒で我儘な老人がギャップをもろともせず若者をきりきり舞いさせて大騒ぎ、のようなコメディとはちょっと違って、ElleはElleで頑固で不機嫌でいらついたまま、SageはSageでイライラのイラ - 孫の不機嫌を全開にしていて互いに一歩も譲りやしない。けど、それ故におばあちゃんと孫のもの言わぬ絆、みたいのが静かに浮かびあがってくるの。
夕方が近づいてきて、どうしようもなくなってママ (Marcia Gay Harden) - Elleからすれば娘だし、Sageからすれば母親のところに行くのだが、ふたりの中間にいる彼女 - 会社の重役とかしているバリバリ - もあったりまえに強くてアクが強くておお女系家族、「父親」なんて影もかたちもありゃしない。
内容が内容なので最後はみんな朗らかにハッピー、というわけでは勿論ないのだが、最後のElle - Grandmaの姿は”Admission”のラストのTina Feyにも通じるたまんないものがある。
Lily Tomlinのかっこよさがすべてで、少し目を細めてOliviaやSageを凝視するその姿が素敵で、愛すべきくそばばあ、てこういうもんなんだわて思って、「おばあちゃん」て言ってみたくなる。
日本公開される可能性は400%ないね。
これでLAの映画館で見た映画はおわり。 LA来たのなら”Straight Outta Compton”を見るべきではないか(ほんと看板だらけだった)、と悩んでいたのだが、西海岸の英語、あんまよくわかんないのよね、しかも147分となると ... でも公開しないってほんとなの? どこまで ...
9.08.2015
[film] Mistress America (2015)
31日、月曜日の晩7時にArcLightで見ました。
これもなんとしても、の一本だったのだが上映開始時点で席にいたのは3人、シアターの挨拶のひとにはPrivate Screeningへようこそ! て言われた。 うん、日本から来た甲斐があったってもんよ。
2015年はNoah Baumbachの新作が2本も公開された年として映画史には刻まれることになるのだろうが、愚かもんばかりのこの国では、あーんなにすばらしかった"While We're Young” (以下、WWY) ですらようやく来年公開、というありさまなので、これなんかへたしたら再来年になりかねない。 ほーんとに、何千回言ってもいい、くそったれだわ(→日本の洋画配給会社)。 こーんなにおもしろいのにさ。
さてこの"Mistress America" (以下MA)、Noah Baumbachの作品としてはWWYに次ぐものだが、Greta Gerwigさんとの共作、という点では”Frances Ha” (2012) に次ぐもので、”Frances Ha”の公開当時にふたりが準備中の次作として、”Fuckin' Times Square Project"て呼んでいたやつと思われる(そういう台詞がでてくるから)。
コロンビアの文芸科(?)に入学したTracy (Lora Kirke)は周囲に馴染めず課題の作品も書けずにもやもやしてて、そんな彼女に母は、再婚予定の男の娘(つまりやがて義姉に)がマンハッタンにいるから会ってみればとアドバイスして、TracyはBrooke(Greta Gerwig)とTimes Squareで出会う。
独身アラサーのBrookeはジムでインストラクターとかしながら毎日毎晩パーティやイベントに駆け回るさまを慌ただしくTweetしつつ、夢である自分のレストランをオープンするための投資パートナーを探していて、もう物件は押さえてあるからあと一歩なのだ、とぺらぺらハイテンションでTracyに喋りまくり、そんな将来想像すらしていなかった彼女はひたすら感心して圧倒されて、Brookeの語る言葉や彼女の挙動を自身の作品用のメモとして書き留めはじめる。
やがてちっとも投資話が進まないことに苛立ったBrookeは、かつての婚約者で富裕層のDylan(こっちからふってやったんだぜ)から金を引きだすことと、ついでにかつて自分のTシャツビジネスのアイデアを盗んでDylanと結婚しやがったMarie-Claire (Heather Lind)に文句をつけるために、Tracyのex-BFとこいつ未だにTracyに気があるんじゃないかとカリカリしているその彼女の計4名で車で郊外グリニッジの豪邸街(あるのよ、そういうとこが)にわーわー乗りこんでいくの。
後半はDylanの邸宅のリビング(ほとんど舞台劇設定)で繰り広げられる(主に)Brookへの投資を巡る愛の下剋上とか陣地合戦とか格差とかのずるずるじたばたのディスカッションがとんでもなくスリリングでおもしろすぎて鼻血が出そうだった。
前作のWWYとこのMAは似たところもあって、WWYでは年齢的にも先が見えてきた主人公(Ben Stiller)の目の前に現れた若い才能(Adam Driver)に感じる焦りと羨望がテーマだったのに対して、MAではどん詰まり状態にある若い主人公が自分よりひとまわり先を軽やかに(でもほんとは傷だらけで)走っていく年長者に出会ってどうしたもんか、と思ったりする。
更にそこから模範とは、模倣とは何か、野望とは、成熟とは、信頼とは、といったところまで踏みこんで考えさせて、それははっきりとFrancesのあの見事な疾走の先を敷衍 - 俯瞰できる見晴らしのよい高台に我々を連れていってくれて、それってNoah Baumbachの若さというものに対する誠実さ(あるいはGretaに対する愛 - ラストの彼女の表情を見よ)に他ならないの。 そういうのを自己実現とか啓発啓蒙とかから遠く離れた地点からからりと描いて、それに成功している - 知ったふうの、理解者の素振りなんてこれっぽっちも見せずに。 Wes Andersonが子供の世界を掬いあげたのと同様のことを(「大人」に対置される)若者の世界でやろうとしている、というか。
Greta Gerwigさんのネジの外れた女王っぷりは揺るぎなく堂々としているのだが、Lora Kirkeさんの不機嫌かつ強靭な果実っぷりも見事で、このふたりが今のところ世界最強。すばらしいんだ。
画面の色味がとてもよい。 秋から冬にかけてのNYの色彩が泣きたくなるくらい素敵で。
音楽は、”The Squid and the Whale” (2005) 以来となるDean Wareham & Britta Phillips。
他には、OMDの”Souvenir”とかSuicideの”Dream Baby Dream”とかも聴こえてくる。
Dean Warehamさんは、グリニッジ在住、児童ポルノ愛好を疑われているDylanの怪しげな隣人(...とってもそれらし)として出演もしているの。
“Trainwreck”との共通項はねえ、どっちにもVeselkaが出てくるとこ。そりゃ大好きだけどさー。
それはそうと、今日はとにかく、ものすごおおおくあったまきた。
いいかげんにしろよくそった おぼえ 。 14日な。FXXX
これもなんとしても、の一本だったのだが上映開始時点で席にいたのは3人、シアターの挨拶のひとにはPrivate Screeningへようこそ! て言われた。 うん、日本から来た甲斐があったってもんよ。
2015年はNoah Baumbachの新作が2本も公開された年として映画史には刻まれることになるのだろうが、愚かもんばかりのこの国では、あーんなにすばらしかった"While We're Young” (以下、WWY) ですらようやく来年公開、というありさまなので、これなんかへたしたら再来年になりかねない。 ほーんとに、何千回言ってもいい、くそったれだわ(→日本の洋画配給会社)。 こーんなにおもしろいのにさ。
さてこの"Mistress America" (以下MA)、Noah Baumbachの作品としてはWWYに次ぐものだが、Greta Gerwigさんとの共作、という点では”Frances Ha” (2012) に次ぐもので、”Frances Ha”の公開当時にふたりが準備中の次作として、”Fuckin' Times Square Project"て呼んでいたやつと思われる(そういう台詞がでてくるから)。
コロンビアの文芸科(?)に入学したTracy (Lora Kirke)は周囲に馴染めず課題の作品も書けずにもやもやしてて、そんな彼女に母は、再婚予定の男の娘(つまりやがて義姉に)がマンハッタンにいるから会ってみればとアドバイスして、TracyはBrooke(Greta Gerwig)とTimes Squareで出会う。
独身アラサーのBrookeはジムでインストラクターとかしながら毎日毎晩パーティやイベントに駆け回るさまを慌ただしくTweetしつつ、夢である自分のレストランをオープンするための投資パートナーを探していて、もう物件は押さえてあるからあと一歩なのだ、とぺらぺらハイテンションでTracyに喋りまくり、そんな将来想像すらしていなかった彼女はひたすら感心して圧倒されて、Brookeの語る言葉や彼女の挙動を自身の作品用のメモとして書き留めはじめる。
やがてちっとも投資話が進まないことに苛立ったBrookeは、かつての婚約者で富裕層のDylan(こっちからふってやったんだぜ)から金を引きだすことと、ついでにかつて自分のTシャツビジネスのアイデアを盗んでDylanと結婚しやがったMarie-Claire (Heather Lind)に文句をつけるために、Tracyのex-BFとこいつ未だにTracyに気があるんじゃないかとカリカリしているその彼女の計4名で車で郊外グリニッジの豪邸街(あるのよ、そういうとこが)にわーわー乗りこんでいくの。
後半はDylanの邸宅のリビング(ほとんど舞台劇設定)で繰り広げられる(主に)Brookへの投資を巡る愛の下剋上とか陣地合戦とか格差とかのずるずるじたばたのディスカッションがとんでもなくスリリングでおもしろすぎて鼻血が出そうだった。
前作のWWYとこのMAは似たところもあって、WWYでは年齢的にも先が見えてきた主人公(Ben Stiller)の目の前に現れた若い才能(Adam Driver)に感じる焦りと羨望がテーマだったのに対して、MAではどん詰まり状態にある若い主人公が自分よりひとまわり先を軽やかに(でもほんとは傷だらけで)走っていく年長者に出会ってどうしたもんか、と思ったりする。
更にそこから模範とは、模倣とは何か、野望とは、成熟とは、信頼とは、といったところまで踏みこんで考えさせて、それははっきりとFrancesのあの見事な疾走の先を敷衍 - 俯瞰できる見晴らしのよい高台に我々を連れていってくれて、それってNoah Baumbachの若さというものに対する誠実さ(あるいはGretaに対する愛 - ラストの彼女の表情を見よ)に他ならないの。 そういうのを自己実現とか啓発啓蒙とかから遠く離れた地点からからりと描いて、それに成功している - 知ったふうの、理解者の素振りなんてこれっぽっちも見せずに。 Wes Andersonが子供の世界を掬いあげたのと同様のことを(「大人」に対置される)若者の世界でやろうとしている、というか。
Greta Gerwigさんのネジの外れた女王っぷりは揺るぎなく堂々としているのだが、Lora Kirkeさんの不機嫌かつ強靭な果実っぷりも見事で、このふたりが今のところ世界最強。すばらしいんだ。
画面の色味がとてもよい。 秋から冬にかけてのNYの色彩が泣きたくなるくらい素敵で。
音楽は、”The Squid and the Whale” (2005) 以来となるDean Wareham & Britta Phillips。
他には、OMDの”Souvenir”とかSuicideの”Dream Baby Dream”とかも聴こえてくる。
Dean Warehamさんは、グリニッジ在住、児童ポルノ愛好を疑われているDylanの怪しげな隣人(...とってもそれらし)として出演もしているの。
“Trainwreck”との共通項はねえ、どっちにもVeselkaが出てくるとこ。そりゃ大好きだけどさー。
それはそうと、今日はとにかく、ものすごおおおくあったまきた。
いいかげんにしろよくそった おぼえ 。 14日な。FXXX
9.07.2015
[music] Erykah Badu + St. Vincent
30日の日曜日の晩は、昨年夏のLAがそうだったようにHollywood Bowlでのライブ(ちなみにNIN + Soundgardenね)で、だんだんと日が暮れていくのを感じつつだらだら緩やかな坂を登っていくのが気持ちよいの。 人によってはバスケットやトートにワインの瓶とかをぶら下げて楽しそうなのでなんだろと思ったら、会場の前の方にはテーブル付きの席があってみんなピクニック気分で持ちこんでわいわいやっているのだった。なんかいいなー。
チケットはずっとsold outしてて、直前にリリースされる(はずの)数枚を地味に狙い続けて、離日直前に掬いあげたのだった。 この顔合わせだったら無理もないし、Erykah Badu単独でも十分そうなったと思う。 会場に向かう途上で眺めた限りでは客層は緩やかに分界してて、多数なのはゆったりだぼだぼオーガニックで、でも手を抜いているわけじゃないのよのおしゃれ上手オーラぷんぷんのBadu派と、ほんとはぴっちり決めたいけどいろいろ考えてちょっと緩めてみましたVincent派の、その混ざり具合が楽しいったら。
山を登ってなんかお腹すいたかも、とホットドッグの列に並んでいた7:30頃、突然”Rattlesnake”のイントロが聞こえてきたので慌てて席に走る。 チケットにあった7:00て、開場時間じゃないのね、たぶん。
St. Vincent、出音もじゅうぶん、彼女モデルのギターをぶんぶん振りまわし、バンド編成はこれまでと変わっていなかったようだが、ぴっちり銀ラメスーツを着込んでかくかく踊るダンサー2名を背後に従えて貫禄だった。もうぜんぜんライブハウスに納まるパフォーマンスじゃない。
1時間強、最後はステージから走り出て前のほうでワイン飲んでた客のグラスをかっさらって飲み干し、寄ってきた客にギター押しつけて錯乱状態でくるくるとステージに舞い戻り、ダンサーに抱きかかえられ制御不能のぶっこわれた状態で“Your Lips Are Red”をしんみり呟くように歌っておわった。
そしてErykah Badu。わたしのBadu体験は2001年8月、Mama's Gunのときのツアー - Central Parkのそれはそれは濃厚な夏夜のソウルで完全にやられて、更に2003年のS.O.B.'sでのライブでも叩きのめされた、そんなかんじ。S.O.B.’sのときはアンコールでThe Rootsが入ってきて、目の前50cmくらいのところでQuestloveのでっかいお尻の律動に目の前を塞がれ、あれこれ圧倒されて、要するにErykah Baduのライブについては全面降伏するしかない状態なの。
問題は今宵女王さまのご機嫌がどうなのか、で、バックの演奏が始まって5分くらい、やはり(ほらね)ぜんぜん出てこない。 やっと出て来たと思ったら、ステージまんなかのエレクトリックパッドを手でぱかぱか鳴らして、山のように高い帽子を脱いで、ティーポットから自分で注いだお茶(たぶん)を優雅に飲んでから、静かに客に向き合う。 客席固唾。
バックはバックコーラス3人を含む8人編成くらい、ギターレスで、ベルベットのように滑らかでしなやかに脈打つ極上のソウルが鳴っていて、彼女の歌はその上を気持ちよく滑っていく。威圧的に会場全体を圧倒しなぎ倒すディーバではなく、まずは慎ましくグルーヴを舌の上で転がしてみるかのように。 こないだリリースされた”Mixtape and New Álbum”の落ち着いたヴィンテージの風格そのままにノンストップで澱みなく。 それが夏のカリフォルニアの乾いた夜空にどれだけはまる快楽の風となったことか。
客席も含めてあがってきたのは4曲目くらいの”On & On”から、ジョークを言ったり変てこなポーズを決めたりするようになり、なんだそりゃも含めてこっちは大喜びで、やがて体を巻いていたカーテンみたいな布から脱皮する(ように見えた)と、デニムのオーバーオールで、すると空気も温度も更に軽やかに上昇し、みんな自然に立ち上がって踊りまくっていた。”Love of My Life (An Ode to Hip Hop)”とか、たまんないったら。
St.Vincentさんとの共演はなかったが、彼女について「かっこいいわねえ、あんな衣装着てやってみたいもんよねえ」とか言ってた。 できないことはないよ、て少しおもった。
それにしても、あのポーズ、だれが考えたのか。
チケットはずっとsold outしてて、直前にリリースされる(はずの)数枚を地味に狙い続けて、離日直前に掬いあげたのだった。 この顔合わせだったら無理もないし、Erykah Badu単独でも十分そうなったと思う。 会場に向かう途上で眺めた限りでは客層は緩やかに分界してて、多数なのはゆったりだぼだぼオーガニックで、でも手を抜いているわけじゃないのよのおしゃれ上手オーラぷんぷんのBadu派と、ほんとはぴっちり決めたいけどいろいろ考えてちょっと緩めてみましたVincent派の、その混ざり具合が楽しいったら。
山を登ってなんかお腹すいたかも、とホットドッグの列に並んでいた7:30頃、突然”Rattlesnake”のイントロが聞こえてきたので慌てて席に走る。 チケットにあった7:00て、開場時間じゃないのね、たぶん。
St. Vincent、出音もじゅうぶん、彼女モデルのギターをぶんぶん振りまわし、バンド編成はこれまでと変わっていなかったようだが、ぴっちり銀ラメスーツを着込んでかくかく踊るダンサー2名を背後に従えて貫禄だった。もうぜんぜんライブハウスに納まるパフォーマンスじゃない。
1時間強、最後はステージから走り出て前のほうでワイン飲んでた客のグラスをかっさらって飲み干し、寄ってきた客にギター押しつけて錯乱状態でくるくるとステージに舞い戻り、ダンサーに抱きかかえられ制御不能のぶっこわれた状態で“Your Lips Are Red”をしんみり呟くように歌っておわった。
そしてErykah Badu。わたしのBadu体験は2001年8月、Mama's Gunのときのツアー - Central Parkのそれはそれは濃厚な夏夜のソウルで完全にやられて、更に2003年のS.O.B.'sでのライブでも叩きのめされた、そんなかんじ。S.O.B.’sのときはアンコールでThe Rootsが入ってきて、目の前50cmくらいのところでQuestloveのでっかいお尻の律動に目の前を塞がれ、あれこれ圧倒されて、要するにErykah Baduのライブについては全面降伏するしかない状態なの。
問題は今宵女王さまのご機嫌がどうなのか、で、バックの演奏が始まって5分くらい、やはり(ほらね)ぜんぜん出てこない。 やっと出て来たと思ったら、ステージまんなかのエレクトリックパッドを手でぱかぱか鳴らして、山のように高い帽子を脱いで、ティーポットから自分で注いだお茶(たぶん)を優雅に飲んでから、静かに客に向き合う。 客席固唾。
バックはバックコーラス3人を含む8人編成くらい、ギターレスで、ベルベットのように滑らかでしなやかに脈打つ極上のソウルが鳴っていて、彼女の歌はその上を気持ちよく滑っていく。威圧的に会場全体を圧倒しなぎ倒すディーバではなく、まずは慎ましくグルーヴを舌の上で転がしてみるかのように。 こないだリリースされた”Mixtape and New Álbum”の落ち着いたヴィンテージの風格そのままにノンストップで澱みなく。 それが夏のカリフォルニアの乾いた夜空にどれだけはまる快楽の風となったことか。
客席も含めてあがってきたのは4曲目くらいの”On & On”から、ジョークを言ったり変てこなポーズを決めたりするようになり、なんだそりゃも含めてこっちは大喜びで、やがて体を巻いていたカーテンみたいな布から脱皮する(ように見えた)と、デニムのオーバーオールで、すると空気も温度も更に軽やかに上昇し、みんな自然に立ち上がって踊りまくっていた。”Love of My Life (An Ode to Hip Hop)”とか、たまんないったら。
St.Vincentさんとの共演はなかったが、彼女について「かっこいいわねえ、あんな衣装着てやってみたいもんよねえ」とか言ってた。 できないことはないよ、て少しおもった。
それにしても、あのポーズ、だれが考えたのか。
9.05.2015
[film] Trainwreck (2015)
30日、日曜日の午後、ハリウッドのAmoebaの隣のシネコン - ArcLightでみました。
これだけはなんとしても見たくて、お願いだから上映終っていませんように、だったJudd Apatow作品。
“Funny People” (2009)も“This Is 40” (2012)も劇場公開されていないし、どうせ日本では無理なんだろうけど、でもこんなに楽しくて面白いラブコメ、最近ないのになー。
ArcLightは初めてだったのだが、各シアターが広々きれいで上映前に係のひとが前に現れてぺこりと自己紹介してから、みんなの迷惑になるから携帯切ってね、画質と音質のチェックのために15分おきに見回りに来るのでなんかあったら言ってね、じゃあ楽しんで! とか言って消える。 こういう人力ガイド、NYのSunshineとか新宿のシネマカリテでもやっているけど、ここまで丁寧でちゃんとしてるのは初めて、この後2日続けてここに通ったのだが、ずっと同じだった。 上映前のCMはなし、予告は4本くらいで、上映作品によってぜんぶ変えてて重複は殆どなかった。 こういう映画館、ひとつでも東京にもあればなー。(遠い目)
さて、童貞喪失 〜 彼女の妊娠 〜 芸人というお仕事 〜 40になっちゃったよ 〜 と自分の半径10m(憶測)の人生模様をおもしろおかしく描いてきたJudd Apatowさんだが、今回はAmy Schumerの原作を得て、びっくりするくらい「まとも」なラブコメを作っているの。
雑誌社に勤めるAmy (Amy Schumer)は幼い頃、妻に逃げられてしまった父 (Colin Quinn)の話を聞いたりしているうちに、一生ひとりの男と一緒に、みたいのが信じられず、男とセックスしても朝まで共に過ごすことはなくて、たとえそこが海を隔てたスタテンだったとしてもマンハッタンの自分のアパートに這って戻ってぐだぐだの関係には陥らないようにしている。
スポーツなんてバッカじゃねえの(強く激しく同意)、ていう自分の雑誌の特集のためマッチョからほど遠いスポーツ外科医のAaron (Bill Hader)を取材したAmyは、こいつは自分がこれまで付き合ってきた男と違う(Amyが付き合うのは筋肉バカ系ばっかしだった)、と思いつつ気になりだして、Aaronのほうも彼女に惹かれていって、一度寝てしまうと彼は忠犬のように嬉々として彼女にくっついてきて、彼女は困惑して避けようとしつつ、かえって典型的なマンハッタンデートみたいのを楽しんでしまったりしてどうしたものか、になる。
Amyの背後には介護施設に入っている偏屈な父とか結婚して「普通」の家庭を築いている妹 (Brie Larson)とか、編集部の鬼編集長 (Tilda Swinton)とか異様に人懐こい編集見習い (Ezra Miller)とかがいて、Aaronの背後には彼の患者としてほんもんのLeBron James(NBAのひとね)なんかがいたりして、そういう小ネタが積み重なってあっという間の125分なの。 笑いはもちろんいっぱい、泣いてしまうところもいっぱい。
もちろん途中にはやっぱし会わないことにしよう、とか、体を張った取材原稿が結局ボツになったりとか山もあれば谷もあるのだが、とにかくこのぜんぜん美麗とは言えないふたり組がだんだんお似合いになってくるところがたまんないの。 互いのフィールドが異なる系のラブコメとしては“Fever Pitch” (2005)にちょっと似ていて、でもあれよかしっくりくる。 そういえばあれ、Bostonやろうの話だったしな。
ラストのぶちかまし具合は強烈で激烈で口あんぐり、完全にぶっとばされる。
Amy Schumerの下から突きあげるような破壊力、おそるべし。
そしてBill Haderもたまらなくいい。”The Skeleton Twins”を見て、”The Disappearance of Eleanor Rigby”を見て、これを見ると、このひとが体現する繊細さの、その最初っからの裂きイカのような細やかさにびっくりするはず。
小ネタの集積とそうして流れる時間を通して、ラブコメかくあるべし、みたいな定石から離れて、Judd Apatowはいつものようにはっきりとなにかを語ろうとしている。
それにしても、Lena DunhamがいてAmy Schumerがいる米国。
NYを舞台にしたラブストーリーとしてもお見事なの。 セントラルパークの池でリモコンボート遊びって、Nick Cassavetesの“The Other Woman” (2014) - これもおもしろかったのに公開されてないねえ - にもあったけど、やってみたら楽しいのかなあ。
Aaronが外科手術中のBGMにBilly Joelの”Uptown Girl”をがんがんかけているので、AmyはこれってBilly Joelの曲のなかではさいてーなのに、なんで? て聞いて(同感)、この曲はラストで反復されるのだが、その直後にBIlly Joelだったらこれだ! うりゃああーていうかんじで流れるのが - - 。
もういっかい見たいなー。
これだけはなんとしても見たくて、お願いだから上映終っていませんように、だったJudd Apatow作品。
“Funny People” (2009)も“This Is 40” (2012)も劇場公開されていないし、どうせ日本では無理なんだろうけど、でもこんなに楽しくて面白いラブコメ、最近ないのになー。
ArcLightは初めてだったのだが、各シアターが広々きれいで上映前に係のひとが前に現れてぺこりと自己紹介してから、みんなの迷惑になるから携帯切ってね、画質と音質のチェックのために15分おきに見回りに来るのでなんかあったら言ってね、じゃあ楽しんで! とか言って消える。 こういう人力ガイド、NYのSunshineとか新宿のシネマカリテでもやっているけど、ここまで丁寧でちゃんとしてるのは初めて、この後2日続けてここに通ったのだが、ずっと同じだった。 上映前のCMはなし、予告は4本くらいで、上映作品によってぜんぶ変えてて重複は殆どなかった。 こういう映画館、ひとつでも東京にもあればなー。(遠い目)
さて、童貞喪失 〜 彼女の妊娠 〜 芸人というお仕事 〜 40になっちゃったよ 〜 と自分の半径10m(憶測)の人生模様をおもしろおかしく描いてきたJudd Apatowさんだが、今回はAmy Schumerの原作を得て、びっくりするくらい「まとも」なラブコメを作っているの。
雑誌社に勤めるAmy (Amy Schumer)は幼い頃、妻に逃げられてしまった父 (Colin Quinn)の話を聞いたりしているうちに、一生ひとりの男と一緒に、みたいのが信じられず、男とセックスしても朝まで共に過ごすことはなくて、たとえそこが海を隔てたスタテンだったとしてもマンハッタンの自分のアパートに這って戻ってぐだぐだの関係には陥らないようにしている。
スポーツなんてバッカじゃねえの(強く激しく同意)、ていう自分の雑誌の特集のためマッチョからほど遠いスポーツ外科医のAaron (Bill Hader)を取材したAmyは、こいつは自分がこれまで付き合ってきた男と違う(Amyが付き合うのは筋肉バカ系ばっかしだった)、と思いつつ気になりだして、Aaronのほうも彼女に惹かれていって、一度寝てしまうと彼は忠犬のように嬉々として彼女にくっついてきて、彼女は困惑して避けようとしつつ、かえって典型的なマンハッタンデートみたいのを楽しんでしまったりしてどうしたものか、になる。
Amyの背後には介護施設に入っている偏屈な父とか結婚して「普通」の家庭を築いている妹 (Brie Larson)とか、編集部の鬼編集長 (Tilda Swinton)とか異様に人懐こい編集見習い (Ezra Miller)とかがいて、Aaronの背後には彼の患者としてほんもんのLeBron James(NBAのひとね)なんかがいたりして、そういう小ネタが積み重なってあっという間の125分なの。 笑いはもちろんいっぱい、泣いてしまうところもいっぱい。
もちろん途中にはやっぱし会わないことにしよう、とか、体を張った取材原稿が結局ボツになったりとか山もあれば谷もあるのだが、とにかくこのぜんぜん美麗とは言えないふたり組がだんだんお似合いになってくるところがたまんないの。 互いのフィールドが異なる系のラブコメとしては“Fever Pitch” (2005)にちょっと似ていて、でもあれよかしっくりくる。 そういえばあれ、Bostonやろうの話だったしな。
ラストのぶちかまし具合は強烈で激烈で口あんぐり、完全にぶっとばされる。
Amy Schumerの下から突きあげるような破壊力、おそるべし。
そしてBill Haderもたまらなくいい。”The Skeleton Twins”を見て、”The Disappearance of Eleanor Rigby”を見て、これを見ると、このひとが体現する繊細さの、その最初っからの裂きイカのような細やかさにびっくりするはず。
小ネタの集積とそうして流れる時間を通して、ラブコメかくあるべし、みたいな定石から離れて、Judd Apatowはいつものようにはっきりとなにかを語ろうとしている。
それにしても、Lena DunhamがいてAmy Schumerがいる米国。
NYを舞台にしたラブストーリーとしてもお見事なの。 セントラルパークの池でリモコンボート遊びって、Nick Cassavetesの“The Other Woman” (2014) - これもおもしろかったのに公開されてないねえ - にもあったけど、やってみたら楽しいのかなあ。
Aaronが外科手術中のBGMにBilly Joelの”Uptown Girl”をがんがんかけているので、AmyはこれってBilly Joelの曲のなかではさいてーなのに、なんで? て聞いて(同感)、この曲はラストで反復されるのだが、その直後にBIlly Joelだったらこれだ! うりゃああーていうかんじで流れるのが - - 。
もういっかい見たいなー。
[film] American Ultra (2015)
LAに着いた29日の土曜日の晩、眠くなるの防止でどかどかうるさそうな奴から見ました。
場所はダウンタウンから歩いて10分くらいの、コンベンションセンターとかが固まっているあたりのシネコン、何年か前に出張で来たとき、ここでFurious 6 (2013) をみた。
座席はやはり指定になっていて、こないだの銃撃事件のせいか荷物チェックとか警備の警官とかが沢山いた。(かなしい)
アメリカの田舎のさえないコンビニで店員をしているMike (Jesse Eisenberg)は彼女のPhoebe (Kristen Stewart)と一緒に地味だけど、はっぱ吸ったりGraphic Novel描いたり幸せに暮らしていて、ふたりのハワイ旅行は彼が直前にパニック障害を起こしておじゃんになって、それでも許してくれる彼女に彼はプロポーズしようと思っている。 そんな彼のところに怪しげなおばさんが現れて、意味不明の文章、というか言葉の連なりを告げて、それからしばらくすると怪しげな二人組が車のところでなんかしている - と思ったら突然Mikeのところに襲いかかってきて、彼はびっくりしつつも応戦し、気づいたらそいつらをぶっ殺してしまったので更にびっくりする。 で、その騒ぎで寄ってきた地元のシェリフが彼を逮捕してそこにPhoebeも呼ぶのだが、ぶちこんだ先にも新たな刺客がターミネーターのように現れて、そこでも彼は。
昔のCIAの極秘プログラムが彼を殺人兵器に仕立てたもののやばすぎるから封印してて、そいつが消去されることを察知したCIAのおばさんが彼のところに現れて封印を解いた、らしい。 彼が無意識ながらも抵抗して暴れれば暴れるほど破壊の規模はでっかくなり、なんでか危険なウィルス保持者として彼の顔写真はニュースにも出て指名手配されてて、軍の一連隊だのドローンだのがMikeとPheobeの前に次々とやってくるの。 彼はなにがなんだかわからないながらも、確かに青年期のある時期からの記憶がないことに気づいたりするのだが、そんなこと嘆いてもしょうがないくらいに慌ただしく敵は彼に群がってくる。
自分は政府によって改造されたなんかだったかわいそうに、という話は巷に溢れかえっているけど、この作品はそういう彼のプライベートな悩みや叫びや自分探しは置いておいて、とりあえず怯えて慌てるMikeの姿とスプーンでもチリ取りでもフライパンでも、コンビニで売っているものをなんでも凶器に変えて敵を血祭りにしてしまう彼の凄味のみにフォーカスして、それをJesse Eisenbergはひとり見事に演じ切ってしまう。こういう突然巻き込まれ ~ 覚醒するナードみたいなキャラクターをやらせると、このひとはほんとうにすごい。
そしてもうひとり、”Adventureland” (2009)に続いてJesse Eisenbergと共演となるKristen Stewartもまた、吸血鬼とか大女優とか若年性アルツハイマーとか、ふつーではなくなってしまったひとの横で悪態ついたり眉をひそめたり溜息ついたりしているだけで圧倒的なプレゼンスを播き散らしてしまう特性をもったひとで、今度のも見事としか言いようがなくて、要はほとんどこの二人の俳優の演技のすばらしさで成立してしまっているドラマなの。人の殺し方のなるほどー、なところとか筋書きはB級 - “The Bourne Identity” (2002)とか“The Avengers” (2012) のアメリカ辺境編みたいなかんじなのだが、でも96分、ちゃきちゃきしてて楽しいったら。
あと、久々にあのJohn Leguizamoさんが見れたかも。
場所はダウンタウンから歩いて10分くらいの、コンベンションセンターとかが固まっているあたりのシネコン、何年か前に出張で来たとき、ここでFurious 6 (2013) をみた。
座席はやはり指定になっていて、こないだの銃撃事件のせいか荷物チェックとか警備の警官とかが沢山いた。(かなしい)
アメリカの田舎のさえないコンビニで店員をしているMike (Jesse Eisenberg)は彼女のPhoebe (Kristen Stewart)と一緒に地味だけど、はっぱ吸ったりGraphic Novel描いたり幸せに暮らしていて、ふたりのハワイ旅行は彼が直前にパニック障害を起こしておじゃんになって、それでも許してくれる彼女に彼はプロポーズしようと思っている。 そんな彼のところに怪しげなおばさんが現れて、意味不明の文章、というか言葉の連なりを告げて、それからしばらくすると怪しげな二人組が車のところでなんかしている - と思ったら突然Mikeのところに襲いかかってきて、彼はびっくりしつつも応戦し、気づいたらそいつらをぶっ殺してしまったので更にびっくりする。 で、その騒ぎで寄ってきた地元のシェリフが彼を逮捕してそこにPhoebeも呼ぶのだが、ぶちこんだ先にも新たな刺客がターミネーターのように現れて、そこでも彼は。
昔のCIAの極秘プログラムが彼を殺人兵器に仕立てたもののやばすぎるから封印してて、そいつが消去されることを察知したCIAのおばさんが彼のところに現れて封印を解いた、らしい。 彼が無意識ながらも抵抗して暴れれば暴れるほど破壊の規模はでっかくなり、なんでか危険なウィルス保持者として彼の顔写真はニュースにも出て指名手配されてて、軍の一連隊だのドローンだのがMikeとPheobeの前に次々とやってくるの。 彼はなにがなんだかわからないながらも、確かに青年期のある時期からの記憶がないことに気づいたりするのだが、そんなこと嘆いてもしょうがないくらいに慌ただしく敵は彼に群がってくる。
自分は政府によって改造されたなんかだったかわいそうに、という話は巷に溢れかえっているけど、この作品はそういう彼のプライベートな悩みや叫びや自分探しは置いておいて、とりあえず怯えて慌てるMikeの姿とスプーンでもチリ取りでもフライパンでも、コンビニで売っているものをなんでも凶器に変えて敵を血祭りにしてしまう彼の凄味のみにフォーカスして、それをJesse Eisenbergはひとり見事に演じ切ってしまう。こういう突然巻き込まれ ~ 覚醒するナードみたいなキャラクターをやらせると、このひとはほんとうにすごい。
そしてもうひとり、”Adventureland” (2009)に続いてJesse Eisenbergと共演となるKristen Stewartもまた、吸血鬼とか大女優とか若年性アルツハイマーとか、ふつーではなくなってしまったひとの横で悪態ついたり眉をひそめたり溜息ついたりしているだけで圧倒的なプレゼンスを播き散らしてしまう特性をもったひとで、今度のも見事としか言いようがなくて、要はほとんどこの二人の俳優の演技のすばらしさで成立してしまっているドラマなの。人の殺し方のなるほどー、なところとか筋書きはB級 - “The Bourne Identity” (2002)とか“The Avengers” (2012) のアメリカ辺境編みたいなかんじなのだが、でも96分、ちゃきちゃきしてて楽しいったら。
あと、久々にあのJohn Leguizamoさんが見れたかも。
9.02.2015
[log] September 2 2015
というわけで帰りのLAXに来て、なんでかQANTASのラウンジでごはんをたべている。
こうしていつのまにか8月は終って9月になっていて、夏は終りで、夏休みも終ってしまったらしい。
仕事はどこまでも追っかけてくるくせに、こいつらは逃げるようにいなくなってしまう。
体はちっとも休まった気がしないが、とにかく遊ぶんだし楽しむんだから、ということでぱたぱた走り回って、いまはやり残したなにかがあるかんじはあまりないから、楽しいお休みだった、といおう。 2015年の夏はLAに行った、ということはくっきり刻まれた。
たった4日間だと当然、行けるところも限られていて、ライブひとつ、映画4本 - きちんといちにち1本ずつ、Amoeba Musicは3日間かよった。再訪したかったところには行けて、行ったことのなかった新しいところにも行けた。それでも行きつくした - 制覇できたかんじがしないのはエリアとしてでっかすぎるからだろう。 バスと電車だけだとどうしても、ねえ。 でもバスと電車だけでも1週間はじゅうぶん楽しめるよ。
食べものもいつもの言い方になってしまうが、おいしいのは底ぬけにおいしくて、都市もトレンドも関係ないよねえ、と思わないわけにはいかなかった。 おいしいものを求めて何千里、みたいに意気込まなくても、あるところにはあるんだわ。 アンテナさえ立てておけば、なんか引っかかってくるのね。 たぶん。
830国会前は、はらはらしつつTwitterを追って、それだけでじゅうぶん鳥肌だったから、その場にいたら凄かったんだろうな。 行きたかった。 デモされたバカには例によってあんま効いていなさそうなところが腹立たしいけど、とにかく、ほんとうに止めてやるから見てろよ。
滞在中のあれこれは、そのうちだらだらと。
ではまた。
こうしていつのまにか8月は終って9月になっていて、夏は終りで、夏休みも終ってしまったらしい。
仕事はどこまでも追っかけてくるくせに、こいつらは逃げるようにいなくなってしまう。
体はちっとも休まった気がしないが、とにかく遊ぶんだし楽しむんだから、ということでぱたぱた走り回って、いまはやり残したなにかがあるかんじはあまりないから、楽しいお休みだった、といおう。 2015年の夏はLAに行った、ということはくっきり刻まれた。
たった4日間だと当然、行けるところも限られていて、ライブひとつ、映画4本 - きちんといちにち1本ずつ、Amoeba Musicは3日間かよった。再訪したかったところには行けて、行ったことのなかった新しいところにも行けた。それでも行きつくした - 制覇できたかんじがしないのはエリアとしてでっかすぎるからだろう。 バスと電車だけだとどうしても、ねえ。 でもバスと電車だけでも1週間はじゅうぶん楽しめるよ。
食べものもいつもの言い方になってしまうが、おいしいのは底ぬけにおいしくて、都市もトレンドも関係ないよねえ、と思わないわけにはいかなかった。 おいしいものを求めて何千里、みたいに意気込まなくても、あるところにはあるんだわ。 アンテナさえ立てておけば、なんか引っかかってくるのね。 たぶん。
830国会前は、はらはらしつつTwitterを追って、それだけでじゅうぶん鳥肌だったから、その場にいたら凄かったんだろうな。 行きたかった。 デモされたバカには例によってあんま効いていなさそうなところが腹立たしいけど、とにかく、ほんとうに止めてやるから見てろよ。
滞在中のあれこれは、そのうちだらだらと。
ではまた。
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