10.31.2014

[film] Laggies (2014)

25日土曜日の午後、Greenpointから戻ってきて、Astor Placeのシネコンで見ました。
リリース直後の週末だというのに、4人くらいしか入っていなかったけど。

最初に昔の粗いビデオ映像でプロムかなんかの後に、深夜のプールにはしゃぎながら女子連中が忍び込むところが流れて(音楽は"Such Great Heights"で、そんな昔じゃねえだろ、と思ったけど10年前なのね...)、今はそこから10年後、Megan (Keira Knightley)はお気楽で定職につくこともなく、父親の会計事務所の「税金申告書つくりますー」の宣伝看板を持って道端に立ったりしている。

今度結婚するという同窓生との集いに行っても、自分ひとりなんか浮いてて、あーなんかやばいかも、と思ったり、同棲している彼(Mark Webber)とはプロムのベストカップルに選ばれた相手だし特に不満もないのだが結婚を意識しだした彼のことを、えーそういうもんか、とぼんやり考え始めたりしている。

で、同窓生の結婚パーティに出てみたらいろいろ噴出するものがあって、たまんなくなって会場を飛びだした彼女は深夜の駐車場でスケボーでうだうだ遊んでいるAnnika (Chloë Grace Moretz)とその仲間の高校生に「酒買ってきてくんない?」て頼まれて、うんあたしも昔そうやって頼んもんだし、てやってあげて、一緒に遊んだら楽しくて、彼らと遊ぶようになって、その流れでAnnikaのとこに居候することになったらそこにはシングルファーザーのSam Rockwellとか亀とかがいたりして、そのうちSam Rockwellと寝ちゃったり。

そんな彼女らがLaggiesなの。 亀みたいな。

成長とか結婚とか気になりだした20代後半の女子の迷いとか惑いとか、なんでもぐちゃぐちゃ悩みにまみれる10代の女子のそれが散りばめられたラブコメで、それを世代間ギャップの話で茶化さずに、プロム幻想への訣別と、それでも小娘はプロムへいけ!ていうのの両面から真摯に丁寧に描こうとしていて、なかなかよかった。 好きな男ができたらそこにまっすぐ走れ、ていうだけのことかもしれんが。

こういう映画で等身大、とか言うのは嫌なのだが、Keira KnightleyもChloë Grace Moretzも本当によいの。 ヒステリアにも血まみれにもならない。

音楽はDeath Cab for Cutie - The Postal ServiceのBenjamin Gibbardさんで、でもそんなにきらきら青春していなくて、これも素敵だった。

10.30.2014

[film] Listen Up Philip (2014)

24日の金曜日の晩、IFCで見ました。 たまたま空いたときにやっていた、程度で。

Jason SchwartzmanがPhilipで、2冊目の本を出そうとがんばっている作家で、気難し屋でひねくれてて自惚れが強くて自分以外はみんなバカだと思っている、そんな揺るがないキャラクターをやらせたときのJason Schwartzmanの黒光りする凄味ときたら、たまんないひとにはたまんないかも。

彼のいまの彼女はAshley (Elisabeth Moss)で、当然のようにつんけん喧嘩ばっかりしている。
そんな彼の崇拝する老作家がIke Zimmerman (Jonathan Pryce)で、彼の前では少しだけ従順になるのだが、まあどっちも世間からずれている同種の大人子供なので、どこにも行きようがなくて、本人達はそれでよいらしいので、ほっとけ、みたいな。

そのずれたまま、かけちがえられたボタンがどこに向かうのか。 「いいから聞いてよ、フィリップ」ていくら頼んでも彼は自分に興味のあるとこにしか反応してこなくて、でもそのうちこっちも嫌になってきて、というやりとりが延々、クローズアップの切り返しのなかぴりぴりと描かれるのだが、とにかく本人はちっとも悪いと思っていないので話は一向に転がらない。

で、それでつまんないかというと、そんなことはなくて、おもしろいの、なんともいえない磁場が。
画面の雰囲気としては70年代のアレンの映画ぽいのだが、あれよか少し尖ったかんじ。

こないだ見た”The One I Love”でもそうだったが、こういう頭でっかちの独りよがり男に立ち向かうときのElisabeth Mossさんのかっこよさったらないの。 今回のだとシェルターで拾ってきた黒白のでか猫を抱えてぶつかっていく。 (予告で見れます)

あと、エンドロールで彼らの本の表紙デザイン(架空)が出てきてなんだかとっても読みたくなる。

http://www.slate.com/blogs/browbeat/2014/10/21/listen_up_philip_ike_zimmerman_books_in_the_movie_satirize_philip_roth_and.html


昨晩、日本に戻ってきました。 あーあ。つまんないったら。

10.29.2014

[log] October 29 2014

車酔いでげろげろになりつつ、なんとか帰りのJFKまできました。
大人になったら車には酔わなくなる、ていった当時の大人たちは出てきて謝罪してほしい。

仕事は例によってさいてーだったが、土日があったので救われた。 仕事は決して救われないが。
今回、美術館2、映画6、演劇1、本屋5、レコード屋3。 音楽のライブはだめだった。
でも、渡る前に見たいなーと思っていたのはだいたい見れたからよかったかも。
”Gone Girl”は結局みなかった。 この時期の2時間半はちょっときつい。

あとは秋の食べものまっさかり、どこでなに食べてもおいしいったらなかった。
で、おいしいもの食べると眠くなるの。 でも眠っているわけにはいかないの。だって外にはあんなにも。

夜になると薄手のコートがいるくらいのちょうどよい晩秋の陽気で、日中は陽射しが気持ちよくて外を歩いているのが楽しい。散歩させられている犬の気分だったかも。

ブライアントパークのスケートリンクはもうオープンしていた。真ん中付近の氷は融けていたけど。
で、あさってはもうハロウィンなんだねえ。 このぶん(てなに?)だと、盛りあがるねえ。

帰りたくないなー。 帰ったらもう今年はおわりみたいなもんよね。

日本ではNFCでやっているMOMAのがくやしいったら。
しばらくはそれに首つっこんで、日本を忘れることにする。

[art] Egon Schiele: Portraits

到着した23日木曜日のごご、雨のなか地下鉄で86thまで行って、Neue Galerieに行ったら外に行列が出来ていたのでびっくりした。 最初はCafé Sabarskyの列かと思ったらそうじゃなくて展示のだと。 木曜の夕方近く、雨なのに。 狭いところだからかしら、とにかく並んで入った。

Egon Schieleの肖像画を中心にした展示としては米国では初だという。
1907年頃の真面目な画学生の自画像 - 当然のようにお上手 - が、1909年あたりを境にあのぎすぎすした画風に突如変貌してしまうのがおもしろい。
展示作品のなかではなんといっても、“Portrait of the Artist’s Wife, Standing (Edith Schiele in Striped Dress)” (1915) がキュートですばらしい。こんな絵もあるんだなー。

あとは「エロス」のコーナーのいつものかんじとか、人物画以外では拘留されていた頃に描いた刑務所内の風景とか。

カタログはちょっと分厚かったので諦めた。

それからMetropolitan Museumに小走りしていくつか。雨はあがっていた。
美術館の前の広場、ずーっと工事していたやつが綺麗になっていた。(あんまおもしろみはない)

Thomas Struth : Photographs
写真におけるでっかさとは、サイズとは、ていうのをでっかい写真を前に考える。

Grand Design : Pieter Coecke van Aelst and Renaissance Tapestry

布好きとして見ないわけにはいかなかった。
ルネサンス期のタペストリー作家(ていうのかしら)、Pieter Coecke van Aelstの作品を圧倒的な規模で展開している。 新国立での「貴婦人と一角獣」も見事だったが、あの時代よかちょっと後。 とにかくばかでっかいのがどかどか沢山ぶら下がっているのでそれだけで感嘆する。
構図のかっこよいのと、でっかいくせにやたら精緻なこと、そしてよく見ていると生首とか死体とか生々しいのがごろごろ描いてあって、目を逸らすことができない。 あと1時間でも見ていられる。

Cubism: The Leonard A. Lauder Collection
コレクションの元になったLeonard A. LauderていうひとはEstee Lauderの一族で、Neue Galarieを作ったRonald Lauderの兄。 なんにせよおお金もち。

Cubismて、昔からそんなに興味を惹かれる分野でもなかったのだが、Juan Grisのが纏まって展示されていて、ここだけじっくり見る。
“Pears and Grapes on a Table” (1913)とか”Still Life with Checked Tablecloth” (1915)とか。
キュビズムにおける空間と物体 - 平面云々、というよかグラフィックとしてまずかっこよくて、色鮮やかにそこにある果物たちの静かな威厳があって。

Death Becomes Her : A Century of Mourning Attire

ほんとうはこれが一番見たかったThe Costume Instituteの秋冬もの。
19世紀初から20世紀初頭頃までの欧米の喪服あれこれを展示。
照明は薄暗めで、点数はそんなにないものの喪服はほとんどまっ黒(Queen VictoriaとQueen Alexandraが着たのだけ別)だし、鎮魂歌とか葬送曲みたいのが厳かに流れていてとっても地味で、それ故に生者が死者に向かう/死者を送るときの装いについてしんみり考えさせられる内容の展示で、よかった。 なぜ黒で、なぜ静かでなければならないのか? ”Death Becomes Her”。

あと、喪服の未亡人、みたいな妄想はいったいどこから湧いてきたのか、とか不謹慎ながら。


今回、MOMAは行かなかった。”Henri Matisse: The Cut-Outs”(こないだまでTateでやっていたやつね?)とか”Robert Gober: The Heart Is Not a Metaphor”とか、見たいのはいろいろあったのだが、なんとなく。

10.25.2014

[log] October 25 2014

発つときは低気圧でぐったりで着いてからも低気圧で雨びしゃびしゃ、空港からの道路はいつものようにありえない渋滞でみるみる頭痛が襲ってきて、車酔いも波状攻撃でやってきて、しんだ。
ホテルに入って、これもいつものようにお水買って、Eli'sでドーナツ買って、こいつをRonnybrookのミルクで戴いて、頭痛薬も流しこんで、これで落ち着くわけではないけど、とりあえずだいじょうぶ、て思いこむ。 で、3時過ぎに外にでた。

晩御飯食べて部屋に戻ったらTVがおおさわぎで、NYで最初のエボラ+の方がBellevueの病院に収容されたという。 聞けば、LでWilliamsburgに行ってボーリングしたり、Meatball Shop行ったりしたという。なんかいい人じゃないか。 だいじょうぶです落ち着いて、と市長とかは言っていて、そんなの当たり前だしLの地下鉄なんて乗らないわけにはいかないし。 どうか快方に向かわれますように。

昔の炭疽菌のときとおなじよね。 どうしろっていうのさ。

しかし、あんなふうに直近の行動ぜんぶ露わにされちゃったらたまんないねえ。映画館のどの椅子とか、レコ屋のどの棚とか、言わなきゃなんなくなったら、やだな。

というわけで土日がきた。 よい天気。 いかねば。

10.23.2014

[log] October 23 2014

低気圧頭痛でげろげろになりながらもなんとか成田まで来ました。
これからお仕事でNYに行って、木曜日に戻ってくる。
今度のは他の国とか他の大陸にはいかない。 JFKに飛んでって、JFKから戻ってくる。シンプル。
いつも通り、打合せはびっちり濃くて嫌でたまんないのだが、とりあえず、少なくとも土日は、ある。  土曜日と日曜日の48時間は。

前回、9月の始めに行ったときは、完全な敗北、作戦ぜんぶ失敗して、あらゆる隙間も突破口も退路すべて塞がれ絶たれて10回くらい悶死して憤死して脳死して、やるきをもがれた芋虫状態のままドナドナと次の土地に運ばれていったのだった。

今回はこの失敗と屈辱を胸に刻んで、ぜったいなんとかせねば、と誓った。 自分の時間を自分で使えないでどうするのよ。  まあそんなのいいから仕事しような。

でもさあ、いくらあがいて小細工したって土日しかないわけだし、スケジュール確定が直前だとどうしようもない。 とくにこんなふうな季節ときたらー。

CMJ Music Marathonが始まっている。 Slowdive (前座にLow)とか、取れるわけないし。
Wilcoだってやってるけど手も足も。

The StoneではResidenciesでMAKIGAMI KOICHI weekが始まるし。

MOMAでは毎年恒例の”To Save and Project: The 12th MoMA International Festival of Film Preservation” もはじまる。
MOMAといえば、京橋で始まるほうに突撃できないのもくやしい。

Lincoln Centerでは、”Goodbye to Language 3D”が29日(... 帰る日)から。

とかいっても、結局は頭とかお腹とかがぱんぱんになるか、ぐだぐだ時間切れで適当なところで落ちてしまったりするの。地図が常に描き換えられてて本屋とレコ屋になにが待っているかわかんない以上、しょうがないの。
でもそれでも失望や落胆に回収されることはない。NYていうのはそういう場所で、こうして永遠に満たされることがないまま気がつくとこんなふうな。

そうか、Strandがヴァイナルの扱いをはじめたか。

ではまた。

10.22.2014

[film] Dawn of the Planet of the Apes (2014)

低気圧のゔ ...

18日の土曜日、「あゝ青春」のあとで、あゝそういえば見てなかったかも、と六本木に出て、見ました。

元々すごい思い入れのあるシリーズでもなくて、最初の「猿の惑星」のラストの衝撃 - 「猿の惑星」は実は地球だった! の背景とか諸事情とかを遡って説明してくれるやつ。

小学校のときにTVで「猿の惑星」がかかった翌日、みんなで見たかすげえな、てざわざわしていたものだが猿ならいいじゃん、虫とかタコとかじゃなくてよかったじゃん、と思ってしまったくらいだし、近年はとくに、人間なんていらねえんじゃねえか感が強くなっているので、筋の運びも含めてまったく違和感ない。 X-Menは少しはらはらするけど、猿のほうは安心して見ていられるの。

前作の後、San Franciscoの山中でオーガニックでピースフルなコミュニティを育んでいたシーザー(Andy Serkis)たちのところに突然人間数名が現れて、人間界で電気が足らなくなったので、森の奥にある水力発電ダムを動かしたい、ていう。 そこでひと悶着あったので人間には出ていってもらうのだが、人間代表(Jason Clarke)は、シーザーは悪い奴じゃなかった、てもう一回お願いに行って、なんとか許可をもらう。 けど、猿のなかにはヘイト人間の武闘派がいて、クーデターを起こして山を下りて人間界に突進していくの。 迎え撃つのはGary Oldmanで、でもBatmanは出てきてくれない。

前作で猿達は山に逃げこんで、そこで人間とは切れたはずだった。 今作で先にちょっかい出してきたのは人間だけど、それを受けて攻め込んでいったのは猿で、結果的には猿が戦を仕掛けたようになってしまった、だから後戻りできない、もう戦うしかないのだ、とシーザーが決意をしてJason Clarkeと訣別するところで終わるのだが、これって近代のテロとか戦争が勃発するメカニズムそのもので、あーあ、だった。 薬物で進化した猿でもそこは無理なのか。

あとはリーダーの資質みたいなとこもシーザーと、クーデターを起こすコバとの間で問われたりするものの、ここも結局わかりやすいパワーゲームなのね、とか。 シーザーがふたたび王として君臨するところは「地獄の黙示録」みたいでおもしろかったけど。

人間くたばれ、シーザーがんばれ、目線で見ているので、お猿さん達には一生懸命がんばってほしいのだが、彼らって人間とおんなじエモと倫理と論理で動いていくので危なっかしくて、その危うさがおもしろいと思うひとにはおもしろいのかもしれない。 でも今回のに関して言うとヒトの人種間の紛争ものとそんなに変わらないよね。

次のでどれくらい猿要素が噴出してくるのか、に期待したい。 猿が勝つにしても。
James Francoが再登場してくれたりしないだろうか。 "This is The End"ぽいし。

Keri Russellさんもお母さん役なんだねえ ...

10.21.2014

[film] Jersey Boys (2014)

19日の日曜日の昼間、六本木で見ました。 ようやく。

オリジナルのブロードウェイのは、オープンした頃にNYのオフィスにいたおばさん(典型的なイタリア系の、口やかましいおばさん)がやや興奮ぎみにやってきて、いいか、あれこそがあたしの青春どまんなかのお話しなんだ、せったいよいからだまされたと思って見てこい、て散々煽られ、でもあんたの青春にはあんま興味ないから、て結局行かなかったのだった。
おばさんの青春はともかく、行っておけばよかったねえ。

冒頭、"December 1963 (Oh What a Night)"が鳴りだしただけで、うぅ(やばい)、てなって、最後のほうはぼろぼろに泣いてた。 特にFrankieの娘が亡くなってBob Gaudioがあの曲のスコアを持ってきて、スタジオのリハで曲の旋律の一部がぽろぽろりと聞こえたあたり、それが(わかっちゃいるのに)、きたきたきた(もうぜったいだめ)ってなって堤防が決壊してからはいっきに最後まで、画面がまっくらになるまでは滝のようだった。

音楽がいかに人の生を照らしだし、その同じ灯りが愛しいひとの顔と瞳を映しだし、それがどんなふうに救いと希望と安堵をもたらしてくれるのか、そのありさま ー 3ピースバンドが4ピースバンドとなり、やがてホーンやストリングスの奔流を巻きんでエモの洪水として襲いかかってくる、その数十年に渡る愛の絵巻を、そいつを3分間にパッケージしてしまう魔法。 魔法だからね。 抗っても分析してもしょうがないのよ。

どこにでもある/あった、使い古されたローカルバンドの成功譚。 大成功のあとで、メンバーの使い込みがばれて、でもそれを歯をくいしばって自力で返済しようとする。 拾いあげてくれた仲間だから。 Jerseyの少年達だから。 
もういっこ、裏の旋律としてイタリア系ギャングのうんたら、ていうのもある。
一度その目線を交わして掌を合わせたら、その契りはぜったいで、決して目をそらしてはならないの - Can't Take Your Eyes Off Me.

でもだからといってべったりしていない。 浪花節にも根性節にもならなくて、ひたすら音楽に、ハーモニーに向かっていくの。 バンドのバイオグラフィを音楽が追っかけるのでも、音楽の連鎖のなかにストーリーを浮かべる(ミュージカル)でもなく、そこには最初から音楽しかない。63年の12月のあの夜のことしかない。

“Oh, what a night
Hypnotizing, mesmerizing me
She was everything I dreamed she'd be
Sweet surrender, what a night”

ここでの”She”が音楽なんだ。 たとえば。

Clint Eastwoodの映画作法とか傷痕みたいのを掘るのは別にやりたいひとがやればいいけど、今回のに関してはBob Crewe & Bob Gaudio組の驚異とか、Frankie Valliの奇跡とか、そっちのほうだから。
ブロードウェイのプロダクションとしてあった、ていうのもあるけど、作家性のはなしなんてなくてもぜんぜん。

とか思うものの、画面の黒とか赤紫とか、素敵だよねえ。 (撮影はTom Stern)

小学生のとき、BCRの"Bye Bye Baby (Baby Goodbye)"があって、大学生のときは、Boys Town Gangの"Can't Take My Eyes Off You"があって、これらはいつどこに行っても流れていたので、なんか刷りこまれている、というのを改めておもった。 この映画が音楽好きの子供たちによい形で刷りこまれますようにー。

関係ないけど。 Rainer Mariaが復活し、Cursiveの”The Ugly Organ"が再リリースされ、The Afghan Whigsの"Gentlemen"が21歳記念で再リリースされ、更にはSleater-Kinney までもが!  なんというか、きっとふつうじゃない、よくないことがおこる。

これも関係ないけど、この映画のイタリア系移民の英語、とってもなじんでてわかりやすい。
自分の英語脳はイタリア系とプエルトリコ系なのね…  てしみじみした。

10.20.2014

[film] あゝ青春 (1951)

18日の午前、シネマヴェーラの佐分利信特集でみました。 
これも佐分利信監督 + 出演によるどまんなかの青春映画。

戦後、アプレゲールの若者たち。 峰子(高峰三枝子)は学費も滞納しがちでずっとバイト先を探していて、他にも夜中に人力車を引いている同級生とか同棲している友達とかいて、みんな大変だし、知性と肉体は別なのよ割り切れるわよ、て歓楽街のダンスクラブみたいなとこで夜のバイトを始める。 ぶあつくお化粧したり派手な洋服着たり踊りたくないのに踊らされたりいろいろあるけど、家族も周囲もがんばっているからがんばらなきゃ、なの。

リベラル寄りの佐竹教授(佐分利信)とか、大金持ちの会社員(河津清三郎)とかの大人の世界があり、教授んちのように裕福で幸せそうな家庭があれば、同棲している友達みたいに、理想と現実のギャップもろかぶり、みたいなとこもある。 世の中って。 大人って。

大学野球かなんかで勝ったお祝いのどんちゃん騒ぎの波に呑まれて酔っ払って、「おんなの命より大切なもの」をどうやら奪われてしまったらしい、て深刻に真剣に泣いたり、同棲していた友達は妊娠して(させられて)どうしよう、て泣いたりしていて、ほんとうにいろいろある。

公金を使いこんでやばくなったらしい河津清三郎に一緒にしんでくれ、て迫られるあたりがヤマなのだが、これがなくても十分目がまわるくらい忙しくて苦悶してばっかしだしお勉強もしなきゃならんし、息絶え絶えに「あゝ青春」ていった後に、ばっきゃろー、のひとつくらいは吠えたくなる。

結局、苦難を乗り越えて成長できたのかできなかったのか、幸せになれたのか、みたいなところでいうと、たぶん「成長」はできたのかもしれない、けど成長ってなんだよ? ていう問いの元に再びえんえんループが始まる。 で、これもまたお決まりの「あゝ青春」の変奏、ではあるのね。 真面目だからって幸せになれるのか、ていうと峰子ちゃんには難しいかも。

あと、結局貧困が、貧しさがいけないのか、諸悪の根源なのか? ていうところは今の世のと同じなのか違うのか、もし同じだとしたらこの辺の呪縛って、戦後からずーっと深くに根を張ったままで、相当ひどいよねえ。

高峰三枝子が学生には見えないくらい落ち着いてみえたので調べたら、映画公開当時はすでに30超えているのだった。 やっぱし。

[art] 菱田春草展

13日の月曜日の午後、「人生劇場」の後に竹橋に行ってみました。
「白き猫」(1901)とか重文の「落葉」(1909)はこの日までだというので少し慌てて。

それにしても、日本美術によくある展示替えって、なんなんだ、ていつも思う。
金と暇がいっぱいあるじじばば向けに少しでも多くの、かもしれないが、こちとらそんな暇じゃねえんだよ。 海外とかから来て一回しか見れない人のこととか考えてやれよ。 「黒き猫」と「白き猫」を一緒に見れないって、ひどすぎないか。

さて、菱田春草の絵は、竹橋とか上野でいくつかは見てきてはいたものの、纏まって見ていくとおもしろい。
日本画の空間表現、まで拡げてしまうと朦朧としてしまう(朦朧体だし)けど、絵の表面で「視線」はどこから入ってどこに抜けていくのか、そのとき地面と水平線はどこにあって、見ているわれわれはどこにいる想定なのか、この辺りが、西欧の絵画の明快さとははっきりと違っているの。 「落葉」の空間配置がいかに変で異様な印象を与えるか、については昔、岡崎乾二郎さんが溝口の映画を引き合いにしつつ論じたのがあって(Webのどこかにある)、ああこういうことなのね、て改めて思った。 フレームの下に向かって際限なく爛れるように落ちていく葉っぱたち。

そして、なぜ猫なのか問題、というのもある。 白いのは大抵丸まっていて黒いのには動きがある。でも白黒どちらの輪郭もその生の輪郭そのものとしてそこにある/いる不思議。 その特性は果たして絵画のものなのか猫のものなのか。  猫以外だと、あの鹿野郎はどこを見ていて、どこに行こうとしているのか、とか。
そいつらが動きだすまでこちらの動きも止まって凝視してしまう、そういう強さがあるの。 引き込まれる、というのとは違う、つい息を止めて睨めっこしてしまうような。

朦朧体、と言われていても絵から受けるイメージにはフレスコ画の硬質さがあり、ガラスの裏側にしっかりと塗り固められているかのようで、その濃厚な霧のなかにいる小さくて固い動物たち。 うずくまっているけど、どこかを見つめていて、それが射してくる光のように空間の濃淡と粒度を決定づけている。

そんなふうにしてそこにある靄と光とちっちゃい動物を見ているとそれだけでだらだら時間が過ぎてしまうのだった。

10.19.2014

[film] Under the Skin (2013)

17日の金曜日の晩、新宿で見ました。 なかなかふつーの時間帯に上映してくれなくてさ。

すばらしくおもしろくて刺激的。 そしてすんばらしいScarlett Johanssonのお尻。

最初に宇宙だか瞳だかの空間イメージがあって、上空から夜の山間を疾走するバイクがとらえられて、そのバイクから降りた男が茂みの奥から女性を担いで車に押しこんで、その動かない女性の服を脱がせて自分のものにするもう一人の女性がScarlett Johanssonで、彼女はスコットランドの町中をひとりで車を運転して車の中から男に声を掛けて道を訊いて、場合によっては男を車に乗せてあげる。

そういうのが数回繰り返されていくだけで、彼女がどこから来てどこに向かっていてなにをやっているのか、やろうとしているのか、一緒にいた男性達がどこに消えてしまったのかはあんましよくわからない。

邦題とか日本の映画の宣伝文句によると彼女はエイリアンで男性は捕食された、ということのようなのだが、そんなの画面を見る限りどこにも示されてはいない。 (原作にはあったのかもしれないけど)

むしろ映画が掘り下げていくのはタイトルにもある”Under the Skin” - 皮膚の表面とその下/裏側にあるなにか、感覚と非感覚の境界とかその間にあるギャップとか、さらにそれらの総体 - 肉の塊として歩いたり動いたりしていくヒトの身体とか、そういうところにあるような。

彼女が車に乗せた男たち - 食べられちゃった?  最初のふたりは割と均整のとれた肉体を持っていて自ら喜んで脱いだりするのだが、3人目に乗せた男は、実はFrancis Baconで(見ればわかる)、彼については服を脱がせても手をださないの。 それはなぜだったのか、がこの映画のテーマとするところで、それはそのままFrancis Bacon論になる、というかこの映画の原作はBaconの絵画なのかもしれない、とか。 スコットランドに南下してきたBacon。

そしてもうひとつ、なぜScarlett Johanssonだったのか?  ということ。

ストリングスをシュレッダーに掛けて散らして叩いて固めたような音楽はMicachu & The ShapesのMica Levi。 音響も含めてすばらしいので爆音でほしいよう。

[film] 人生劇場 第一部 / 第二部 (1952 - 1953)

シネマヴェーラの特集「日本のオジサマⅡ 佐分利信の世界」で11日の朝に「第一部 青春愛欲篇」を、12日の朝に「第二部 残侠風雲篇」を見ました。
これはもちろん、前の日に見た”Nymphomaniac”のVol. IとVol. IIにも時代を超えて呼応しているのである。(おおうそ)

尾崎士郎の原作は読んでいないし、この原作を元に作られた沢山の映画のどれも見ていない。
とにかく「人生劇場」的なもののすべてから全力で逃げてきたこれまでの人生だったわけだがそろそろ向きあってみてはどうか、とか思ってしまったわけだ。 もうどうせ手遅れだし。 台風とかきてるし。

父の死により郷里に戻った青成瓢吉(舟橋元)がいて、その帰省の電車には幼馴染の初恋のひとで新橋のセレブ芸者となったおりん(高峰三枝子)がいて、地元の侠客だった父(監督の佐分利信が演じてて、やたらかっこいい)は借金と立派な男になるべしていう手紙を遺しただけで逝ってしまい、瓢吉はわかったよ父ちゃん立派な男になるよ、てがんばるの。 それだけなの。

大学(早稲田)で総長夫人像の建設反対の学生運動とかを通して知り合った仲間との話とか、お袖(島崎雪子)を始め知りあったいろんな女性達とか、郷里で父の傍にいた侠客の吉良常(月形龍之介)に飛車角(片岡千恵蔵)といった強くかっこいい男達とか、いつも酔っ払ってズボンを脱いでご機嫌の黒馬先生(笠智衆)とか、そういう人達が次々に登場する劇場で人生が展開する、というか、人生とはそういう劇場とかドラマとかロマンとかを作っていくもんなのである、とか。

で、そんななか、主人公は気がつけば作家として有名になってて生活にも困ることなく、沢山の女も昔の仲間もやくざさん達も現れたり消えたりしつつもずっと傍にいてくれて、父の面影は頻繁に脳裏に蘇ってくるものの、何かすごい修羅場とか勝負に直面していちかばちかの決断を強いられ煩悶呻吟する、ような局面が映画ではあんま描かれていないので、なんかそつなくやってるじゃん、みたいに見えてしまうの。 そんなもんなんだから適当にやっとけ、ていうあたりが狙いなのだとしたら、おもしろいけど。

ヒトの人生についてとやかく言うつもりはないけど、この映画のなかで展開流転されていく要素って、特集のタイトルでもある「日本のオジサマ」が飲み屋とかで得意げに自慢しそうなあれこれそのまま、今だとギャグにしかならないようないろいろ、なのよね。  
で、最後にはママンのところに還る、ていう。

ストーリーはともかく、映画としてはやや強引に(おりんとの回想シーンがいきなり父の自殺につながるとことか、なに?)すたこら流れていって「愛欲」も「風雲」もあんまなくて、銅像の西郷さんが笑ったりしてお茶目なところもあるし、ぱっとしない系の青春映画としてはよいかんじだったかも。 

10.18.2014

[film] Nymphomaniac: Vol. I (2013)

11日の午後、「ジェラシー」の後、そのまま渋谷で見ました。 この日が初日だったのかしら。

薄暗くじっとり陰鬱で錆ついた路地のようなところをカメラがゆっくり動いていって、そこにRammsteinががんがん鳴りだすオープニング。 もろメタルのPVみたい。

地べたにJoe (Charlotte Gainsbourg)が行き倒れてて、それを通りすがりのおじいさん - Seligman (Stellan Skarsgård)が拾って自分のアパートの一室に連れていく。
介抱されたJoeは老人に警戒しつつも、彼に促されるままに身の上と生い立ちを語りはじめる。

Joeは子供の頃からやらしいことが大好きで止められなくて、何かに憑かれたように「道」としてのセックスを究めようとしているかのようで、そういうのを聞かされるSeligmanはあんまよくわからないながらも、おおこれはウォルトンの「釣魚大全」の毛針じゃ、とかフィボナッチ数列じゃ、とかバッハのコラールじゃ、とかいちいち頷いて興奮する(そっちか? みたいな)。 JoeとSeligmanの間に共通のプロトコルみたいのはなくて、Joe自身の語る自身の過去にも、なんでそんなんなっているのか、の解はないし、解を探しているわけでもない。 解とか和解/理解のないところで、精神分析とか家族問題に深入りすることもなく、でもセックス道は究めなくていけない、みたいに若いJoe(若いときだけ、演じているのはStacy Martin)は突っ走っていく。 

”Antichrist” (2009)で神を殺し、”Melancholia” (2011)では地球を壊したLars von Trierの根拠不明の不機嫌が、根拠不明の色狂いを追うことで少しだけ笑いの方に傾いているかのような。 わかんないけどね。 Vol. IIだってあるし、いつ臓物が、とか結構はらはら緊張していたし。

メタルに求められる映像のイメージをある程度集約可能なように、ポルノ映像 - 他人の肉を求めたり求められたり - に期待されるイメージやシンボルも集約可能で、さらにそれを(Vol. I では)求道の物語のなかに置く、しかもそれを枯れた老人が聞く物語としてしまうことで、全体が標本箱のなかに精緻に並べられた虫たちのように宙に浮かんでいるような。 生のコンテクストから切り離された、まったくそそられない、ホルマリン液のなかに浮かぶ「性」の世界。

そして少年ジャンプかよ、みたいなVol. I の終り方ときたら。 これだとVol. IIには公開前夜から並ばないわけにはいかなくなるよね。 

ボカシがうざくて見ていられなくなることを心配していたが、そういう箇所自体があんましないのだった。 でも、それでもボカシはあったけどね。 まったく意味わかんないけどね。
あと、エンドクレジットの終りのほうにでてきたdisclaimer。 まあそうでしょうよ。

10.17.2014

[film] La jalousie (2013)

11日の土曜日の昼、渋谷でみました。

役者をやっているルイ(Louis Garrel)はかわいい娘シャーロットがいるのに家を出て、やはり役者をやっているクローディア(Anna Mouglalis)と同棲してて、クローディアの方もいろいろあって、ぜんぜんうまくいかない家族とかふたりとかのやりとりが延々続く。
だれがどうしてどうなった、はあまり重要ではなくて、ジェラシー - 嫉妬が動かしていくなにか。

家族とかその繋がり、 とかよりも血、のようなものを描いているというか。

ついこないだ見たガレルの映画が「救いの接吻」(1989)だったので、どうしてもあそこで壊れてどんづまっていた家族のお話し - 自分を映画の妻役に起用してくれない、とぶち切れる妻 - を思いおこさせる。 あそこで主人公の映画監督を演じていたのは監督本人で、妻は当時の妻Brigitte Syで、息子はまだ洟たれのLouis Garrelだった。

今回のは、ルイが30歳だった頃の実祖父Maurice Garrelを演じているという。 監督ガレルにとってみれば自分の父を自分の息子が演じているわけで - 自分の父の過去の挙動を息子に映像として刷りこんでいるように見える。 それは教育なんてものではもちろんなくて、父の彷徨いと母の嫉妬と悲しみを反復させる - それをフィルムに落としこむことでなにがどうなるというのだろうか。

これが嫉妬なんです - こわいですねえやばいですねえ、みたいな書き方はしていなくて、嫉妬は目に見えない空気のようにそこにあって、彼女から彼へと伝染していく。 どちらが悪い、とかそういうことではなくて、ふたりの間に空気がある以上、感染は避けられないの。 子供だけが無垢で無防備で、子供だけは誰からも等しく愛されなくてはいけないから。

ガレルの描く修羅場って、まったく修羅場に見えない。 それは画面がきれいだからとかそういうことよりも、そういうのが乗り越えるべきもの、隠蔽されるべきもの、として登場人物たちの内面に落ちていない、というか。 そういうのを諦めてしまっている、ていうのともちがって、ただエモの嵐のなかに曝されて流されていて、それでいいの、というシンプルな愛のお話。 だってそういうもんだから、ていう。

その反対側にあるのが死とか別れとかで、死は確かに辛くて最悪で、ガレルは亡くなったひとのことを大切に大切に描く(今回父をモデルにしたのはその辺か?)、でもその反対側にある今回のは、なんかからからと(比較的) 明るい、ように見えてならない。

音楽はTéléphoneのJean-Louis Aubert。 “Hurt”のような、”Heart-Shaped Box”のような愛の呪文が。

あんま関係ないけど、フランス人と「嫉妬」というと大学の頃に読んだマドレーヌ・シャプサル(インタビュアー)による「嫉妬」(サンリオ文庫)が決定的で、だからフランス人て嫉妬するひとたち、と思いこんでいるところがあるかも、とか。

10.13.2014

[film] A Million Ways to Die in the West (2014)

ようやく追いついてきたかも。
すべてに疲れきってどうでもよくなっていた10日の金曜日の晩、日比谷で見ました。
Million Waysで殺していっそのこと、とか。

血なまぐさい西部の町でナードの羊飼いとして暮らしていたAlbert (Seth MacFarlane)はガールフレンドのLouise (Amanda Seyfried)と幸せだったのにムスターシュ野郎 (Neil Patrick Harris)に寝取られて、しかもそいつと決闘することになってどうしよう、てなったところにかっこいいおねえさん(Charlize Theron)が現れて特訓してくれて、憧れてぽーっとなるのだが彼女は盗賊団の首領 (Liam Neeson)の妻だった、ていう。

“Ted”の監督による西部劇、設定を19世紀後半に置いてみても基本はあんまし変わらない。 じゅうぶん大人になりきれない主人公がちょっと変な仲間とかの助けを借りて成長する、そういうお話。

誰もがいつどんなふうに死んでも/殺されてもおかしくない非情・無法の西部でナードはどんなふうに生きるべきなのか、生きられるのかという成長譚なので、ものすごい悪い奴とか絶体絶命とか復讐とか裏切りとか、そういう要素は薄い。 舞台をそのまま21世紀アメリカの田舎の高校とか大学に置いてもまったく違和感なくて、違うところは人がころころ死んでいく、とかそのへん。

というわけでドリフのギャグのように死にネタ下ネタ下痢ネタのオンパレードで、PTAには確実に評判よろしくない、であろうが別に構うもんか。 西部なんだし。
残念なのは音響というか、会話も含めて全体に音がクリアできんきんしていて、現代ドラマのそれと変わんないの。 TVでSNL見ているんならわかるけど、西部劇でこれはないよねー。

あと、これは完全に好みだろうけどSeth MacFarlaneの顔がさあ、Mike Myers のようでありRyan Reynoldsのようでもあり、のっぺりぺったりしすぎていてつまんないのよね。 西部にいないよねあの顔。 で、Sarah Silvermanならまだしも、Charlize Theronはあんなのに惹かれないだろ、とか。

[film] Ghost Busters (1984)

ずっと昔に見たやつで書くの忘れていた。 少しだけ。

9月5日の金曜日の晩、六本木で見ました。
30周年でBlu-Rayだか4Kリストアされたのを1週間限定公開する、というのを聞いて、日本でやらないのなら米国に行くしかあるまい、くらいに思っていたら日本でもやってくれた。

もちろん映画館でも公開時に2~3回は見ているし(昔は入替制なんてなかったから一日でも見ていられたんだよ)、TVでも数十回は見ている。

最高のNYバビロン映画であるだけでなく、Bill MurrayにDan AykroydにHarold Ramisの3人組が見事に拮抗していて、彼らの絡みにへらへらしていると、最後にマシュマロマンがぜんぶ持っていってしまう。最初にあれが建物の合間に現れたときの衝撃ときたらとんでもないものがあったの。

今回のリストレーションの画質というとなかなか微妙で、ゴーストをやっつける光線のウルトラヴィヴィッドな色味がばりばりに出過ぎて浮いていて、あんましだったかも。くすんでぼやけたフィルムの向こうでびかびかなにかが点滅する、くらいでちょうどよいのかも、て思った。

とにかくでっかい画面ででっかい音で見て聞ければそれでよかったのに (六本木のはArt screenだった)。 音もちょっと小さかったかも。 アパートのてっぺんから落ちてくるマシュマロの轟音を浴びたかったのになー。

そしてついこの前の、ぜんぜん進まなかったリブート版(part3)がPaul Feig監督により、主要キャストを女性にしてはじまるというニュース。 今度こそはじまってほしい。 どこかの誰かが予測していたような最強の4人のほかに誰がいるだろうか。  Melissa McCarthyとKristen Wiigはふつうに入るべきだとおもうし、リーダー格はCameron DiazとかKirsten Dunstにやらせてもよいとおもうし、戦闘員としてJennifer Lawrence, Shailene Woodley, Jena Maloneあたりがいても構わないとおもうし、喜んで血をかぶるChloë Grace MoretzとかSaoirse Ronanみたいな娘がいても素敵だとおもうし、大巫女としてYoko Onoとかがいても、とかいくらでも夢想してあそべるねえ。

で、主題歌はアナコンダのひととか?

10.12.2014

[art] Félix Vallotton - Le feu sous la glace

『ヴァロットン展 ―冷たい炎の画家』

展覧会最終日の23日、慌てて駆けこんだ。 チケット買うのに並ぶのが20分。見るのに30分。そんなもん。

あまり予習してこなかったので最初のほうでナビ派の名前が出てきたときには少し驚いた。
ナビ派、といって必ず名前の出てくる3人 - Édouard Vuillard, Pierre Bonnard, Maurice Denis - あれらのいじくりたおして爛れた色彩が照らしだす世界とはぜんぜんちがうし。

のっぺりと平坦に捉えた視野を少し歪ませてその球面に申し訳程度に人を置いてみるような「ボール」(1899)、「白い砂浜、ヴァスイ」(1913)といった風景画、「貞節なシュザンヌ」(1922)からうかがうことのできるひんやりした、悪意たっぷりの視線、あえて背後を、てかるハゲ頭を狙ってくる構図の室内画、ぜんせんエロくない裸体画、ぜんぜん神々しく見えない、みっともない人体ばかりの神話画、などなど。

簡単に連想できるのは、例えばEdward Hopper、ヨーロッパの辺境スイスで独特に捩れてしまったHopper、みたいな。 でも彼みたいに絵の世界にはまりこんでいるのでもなさそうな。
(Alex Katzの名前も出るようだが、そうかなあ… )

木版画も、線はくっきり出してくるけど彫りの情念、みたいのはあんましない。
「怠惰」 (1898) - うつ伏せの白い裸婦に白猫、とかのだらだらしたやつらがすばらしい。

「臀部の習作」 (1884)とか「赤ピーマン」(1915)とか、技術はしっかりしているふうなのだが、その情熱の向かう先がお尻 - 特に魅力たっぷりのお尻というわけでもない - というあたりが、「冷たい炎の画家」だの「裏側の視線」だの、ていうことになるのかしら。
でも裏側行ってみると実はなんもない、みたいな。 

1900年代以降のあの構図から抽象に向かわなかったというのもおもしろいねえ。

10.11.2014

[film] ソニはご機嫌ななめ

出張にでる前の日、27日の土曜日、新宿でみました。

やっと見れた。 「恋愛日記」と「ご機嫌ななめ」だったらどっちを取るか。 
「ご機嫌ななめ」のほうを取ってしまうのがいまのじぶん。

英語題は”Our Sunhi”。

オープニング、まっきいろのバックに手書きみたいなハングル、放課後の小学校で鳴っているようなピアノがぶかぶかと被って、「なめてんのか?」のかんじがやってくるとそこにはもうホン・サンスの世界が拡がっている。

ソニは大学の構内でかつての先生に米国留学の推薦状を書いてもらうためにやってきて、久しぶりだったし先生は今後のことも含めて当然いろんなことを聞いてくるのだがソニにはなんかそれが気にくわない。

なんかもやもやしてチキン屋に入ったら窓の外に元カレが歩いていたのでそいつを呼びこんで、でも彼はソニにまだ未練たらたらであれこれ言ってきて、彼とはもうおわったと思っているソニはめんどくせえ、ておもう。

元カレは未練たらたらの延長で先輩に会って、居酒屋でチキンを取ったりしつつぐだぐだ飲んで泣き言を垂れ流してみっともないのだが、まあよくあるはなし。 今度はその先輩がソニに偶然会って、また同じ居酒屋で同じような展開になって、妻と別居しているらしい先輩はソニのことが気になってくる。

ソニの推薦状を作る先生もソニに会っているうちになんか仲良くなって、この娘をなんとかしてあげなければ - なんとかしてあげられるのはこの自分だけだ - みたいになってくる。

そしてクライマックスは、前のなんかのホン・サンス作品(金太郎飴なので題名わすれた)にあったように公園での息を呑むすれ違いで、かといってぜんぜん盛りあがらないまま、誰が幸せになって誰が地獄に堕ちるのか不明のままにぷつん、と途切れてあの4人の像はあの公園のなかに永遠にとどまって彷徨っているの。 すてき。

恋愛がないからご機嫌ななめなのか、ご機嫌ななめだから恋愛がやってくるのか、ご機嫌まっすぐだったら恋愛はいらないのか、そんなような戯言の向こう側で、それぞれがそれぞれのご機嫌ななめを抱えこんですたすた歩いてすれ違って、それだけの映画。
恋愛なんてチキンみたいなもんだ。 食いたいやつが食えばいいだろ、とか。

10.10.2014

[film] Promised Land (2012)

前の前、米国-メキシコ-英国-オランダ-ドイツの出張から戻った翌々日の21日、日比谷でみました。

監督がGus Van Sant、原作はDave Eggers、これをMatt DamonとJohn Krasinskiが脚色して、エネルギー利権に絡む環境問題(ていうほどじゃない。その行方、くらい)を慌てず騒がずどっしりと描いた愛と正義のいっぽん。 まったく嫌いじゃない。

シェール採掘会社の営業屋 Matt Damonが君には期待しているから、と上に言われて部下のおばさん - Frances McDormand と共に田舎町に送り出される。 土地の農家にかけあってお金と引き換えにガスの採掘権をもらう、そういう契約を結ぶ。 地権者は高く売りたいし、買うほうは叩いて安くしたい、けど農民には金がいるし町にも金がいるし、大筋ではお金のほうに流れてくるはず、買い側が楽勝のはず、だった。

けど環境へのリスクがある、と地元の老人がひとり立ち上がり、はいはいじいさん、て嘗めていたら実は引退したばりばりの科学者でエンジニアだった、とか、どこからか環境保護団体のJohn Krasinskiが降りたち、先祖代々から続いていた土地をシェールはぼろぼろにした、後にはなにも残らなかった、止めなければいけない、て人なつこくキャンペーンを始めるとか、あとは土地の娘にぽーっとなってしまったりして、だんだんに揺らぎはじめる。

これを単なるビジネス戦記のように描くのでも、正義と悪の対立のなかに描くのでもなく、アメリカの田舎に流れるほんわかした空気と共に、いろんなひとがいていろんな考えかたもあるしお天気だって変わるよね、とうぜんよね、みたいに醒めて描いているのがよいの。 契約書ていう紙っきれのために大企業はものすごい時間と労力をつぎ込んで、その紙っきれが地面に穴をあけて、そいつが別の紙っきれ(札束)を呼びこみ、それらが(一部の)ひとを幸せにする、という近現代の異常さがとてもわかりやすく暴かれている、というか。

ある土地に生まれてそこで育ってそれを引き継いでそこに暮らして次に渡す、それは契約うんぬんとは全く異なる世界のはなし、そのサイクルを司るなにかにあーめん、て手を合わせるのは好き好きだとおもうが、でもそれらはやっぱしPromised Landと呼ばれる目に見えない契りのなかにあって、われわれが生かされるのはこちらのほうなのだ、という。 
決して「連中」の運んでくる紙束に置換しうるものではないのだ、と。

要するに金じゃねえんだよ坊主、ていうだけなんだけど、殴り合いにも殺しあいにもならない、勝者なんてどこにもいない原っぱのまんなかでそれを呟くのが素敵なの。

Matt Damonの最後のほうの顔がすばらしくよいねえ。
苦渋、というより悶々とした表情の果てに、静かになにかを見つけたとき/なにかを捨てたときの顔。

あとは大企業って、えげつないのよね、ほんと。 国もそうだけど。 よいこはくれぐれも気をつけないとね。

10.09.2014

[log] SFそのた - Sept 2014

土曜日の晩22時すぎに帰国して、風邪と低気圧でしんでた。

出張した週の後半から咳が止まらなくなってきて、いつも秋口に来るやつか、出張先で夜遊びするとばちが当たって出るやつかのどっちかで、飛行機に乗ってすぐ機内食も一切パスしてぐーぐー寝て、で日曜日起きたら声が出なくなっていた。 台風のせいにしておく。

しかし今回のはきつかった。 最後のラウンジまで報告書いて会議しているかんじだった。
そりゃあね、お仕事なんだからやりますけどね。 集団行動てむいてない。(いくつだ)

というわけで、San Franciscoあれこれはあんましないの。

行きの機内は、乗って座ったらすぐに落ちて、起きても機内映画でもう見てないのは残っていなかったから”Chef”とかもういっかい見ていた。 帰り便は10月になってプログラムが変わっていたのだがあんましなくて、目が開いて熱でぼーっとなった状態で”22 Jump Street”を見て(Ice Cubeがぶち切れるとこだけおかしい)、更に時間があまったので”Love Actually”とか見た。 これ、いつ見てもぜんぜんだめだねえ、と思うのだが、男の子が空港内で疾走するところと”God Only Knows”が流れるとこだけ泣いちゃうねえ。

月曜日のごご、仕事でSFのダウンタウン(Twitterの本社がある建物とか)に行ったあとで晩ご飯までの2時間くらいが空いた。 ので、これは行くしかない、と地下鉄でMission地区に走ってBi-Rite MarketとTartine Bakeryに向かった。

Bi-Riteでは、gâté comme des fillesのチョコレートがあったのでいくつか。
meyer lemon chocolate、驚愕のおいしさ。

http://www.gatecommedesfilles.fr/

Tartineは、ちょうどHuckleberryを使ったお菓子お料理のレシピ本の発売記念で、著者のひとが片隅のテーブルでサインしていて、午後4時なのにごったがえしていた。 折角なので、特別メニューのHuckleberry Mini Briocheを食べてみよう、て注文したら売り切れてて、替わりにHuckleberryが上に散らされたタルトを戴いたら、すばらしいさくさくの後からHuckleberryの滋味が襲ってきたので身震いした。 ハックルベリーすごし。

本、どうしようかなー、だったが日本でHuckleberryの入手は難しいよねえ、と諦めた。
でも本書いたひとのCafe、いつか行きたい。 Lupaにもいたひとなのね。

http://www.huckleberrycafe.com/

Tartineの日本進出はもちろん歓迎なのだがちょっと複雑かも。 Le Pain QuotidienもCity Bakeryも日本に来た途端になんかスケールダウンして普通のパンカフェみたいになってしまった気がするのは気のせいだろうか。 自分はそこにパンだけではないなにかを求めているのかも知れないが。

このあと、Valencia stに渡ってCraftsman and WolvesとかAquarius Recordsにも… と悩んだのだが、時間的にどうか、だったので諦めて電車のって帰った。

本関係は、着いたときのCity Lightsのみ、Chris Markerの英語による紹介本といろんなとこで話題の"Women In Clothes" - これおもしろいねえ - とかいくつか。 あと、帰りの空港内の本屋で"Not That Kind of Girl"かった。  いちばん欲しかったのはStephin Merrittの本だったのだが、なかった。

NYFFの動勢をずーっと横目で見てて、見てたからと言ってどうなるもんでもないのだが、シークレット上映作品がNoah Baumbachの"While We're Young" と聞いたときには、あーあ見たかったよう、てがっくりした。

Late Showの音楽で残っているのはBleachersくらい。 おおまじで80年代のスプリングスティーンをやろうとしているかのようにみえた。 そうかー、とか。

こんなもんかしらー。

10.03.2014

[film] The Skeleton Twins (2014)

うううねむいよう。
30日の火曜日の晩、SFのダウンタウンのシネコンで見ました。
ここ、2月に”Winter’s Tale”を見たのと同じとこで、デパートが入っているビルの5階にぽつんとある変なとこで、”Winter’s Tale”のとき、途中で画面がハングして上映が中断して、そのお詫びにタダ券をくれたときのを窓口で出したらすんなり入れてくれた。 

Milo (Bill Hader)とMaggie (Kristen Wiig)が姉弟ということなので”Step Brothers” (2008)みたいなどたばたコメディを期待していたらぜーんぜん違った。

冒頭でMiloはBlondieの“Denis”を大音量で流して、バスタブで手首を切って死のうとしていて、その失敗した自殺の知らせを受けたMaggieは10年ぶりくらいに弟と再会して、自分ちに引き取ることにする。

Maggieは夫(Luke Wilson)とふたり暮らしで、健康でなんも考えていないふうの夫とは距離を置いてて、ダイビングスクールの講師にぼーっと憧れたりしていて、突発的にセックスしてしまい頭を抱えて、でもそこから発展するわけでもなくて、疲れている。

Miloはゲイで、自殺未遂後、昔の恋人 - 高校の頃の英語教師(Ty Burrell)と会ったりしてみるが、既に家庭のある彼からは煙たがられてこちらもぱっとしない。

どっちもどんより腐れているふたりが励ましあったり奮起したりして前を向く、なんて話しではぜんぜんなくて、互いに顔をみてもうんざり、互いに互いをしょうもないと思っていて、どちらも昔の思い出とかにしがみついてばかりで、最後まで輝ける瞬間は訪れないのだが、でもなんかよいの。そんなもんだよねー、とか。

そんなふたりがStarshipの“Nothing’s Gonna Stop Us Now”でリップシンクするところとか、着飾ってハロウィンパレードに行くとことか、どこにも行けない彼らが身を寄せあってぼーっとしているところなんか、すばらしくよいの。

それにしても、Bill Haderもよいのだが、Kristen Wiigがとんでもなくすごい。
"The Secret Life of Walter Mitty”で”A Space Oddity”を歌うとこも泣きそうになったが、今度のはそんな瞬間ばっかし。 険しい顔、しょんぼり顔、寄ってくるな顔、消えてしまいたい顔、クッションに顔を埋めて叫ぶとこ、ぜんぶが素敵すぎる。 


ほんとうであれば、22:00から公開される”Gone Girl”にとつげきしたかったのだが、今日から空港前からより奥地の、周囲になんもないようなとこに移送されてしまったので動きようがない。
ほんとくやしいったら。