いくつか確認したいことがあったので原作本(翻訳だけど)を本棚から探してみたのだが見つからなくて、諦めて本屋に買いにいったら絶版だったのでびっくりして、改めて本棚の奥地まで掘り進んでひっぱりだすのに時間がかかってしまった。 せいりせいとん。
30日の水曜日、BroadwayのRichard Rodgers Theatreで見ました。 『焼けたトタン屋根の上の猫』。
前の晩のCat Powerから猫つづき。
これに関して、上演していることは知っていたものの行けるとは思っていなくて、半ば諦めていた。
会社のシアター好きのおばさんに時間があったらみたいなー、くらいのことを言っておいたら、$100超えのチケットが$99になるクーポンを持ってきてくれた。 同じく会社の(映画・シアター好き、ゲイ)の長老におうかがいを立てたところ、レビューは散々だぞ、ていうのとMaggieの役を Elizabeth Taylor以上にうまくできる娘がいるとは思えん、と言われた。 そんなこと言われてもさ...
で、夕方、ICPに行ったついで、シアターのブースに寄ってみたら当日券があって、真ん中のあんま悪くない席だったので取っちゃった。
アメリカの映画を、旧いのも新しいのも見て追っていきたい、と思った頃から、Eugene O'NeillとかArthur MillerとかTennessee Williamsの演劇はライブできちんと見ておくべきでは、という気がしていて、だから「欲望という名の電車」は2005年にJohn C. Reilly - Natasha Richardsonていうキャストで、「ガラスの動物園」は2005年にJessica Lange - Josh Lucas - Christian Slaterていうキャストで見た。 どれもそれぞれにびっくりして、「トタン猫」はその流れで、本当は2003年のMaggieがAshley Judd, BrickがJason Patric、Big DaddyがNed Beatty、というのを見ておきたかったのだが、もうどうすることもできない。
更に昔だと初演時(1955年)の演出 : Elia Kazan、Brick役はBen Gazzara、って見たかったなー。
あとは1990年の、Maggie役にKathleen Turnerとか。
今回のはMaggieがScarlett Johansson、BrickがBenjamin Walker("Abraham Lincoln: Vampire Hunter" のひと)、でこれはこれで、もちろん見たいよね。
8時開始、3幕もの、休憩2回。
幕は薄明の淡い白にアメリカ南部の、覆いかぶさるような木々のシルエット。虫の声、鳥の声。
一幕目で焼け猫であるところのMaggieがBrickを虐めまくって、二幕目でBig DaddyがBrickを虐めまくって、三幕目でなにかがひっくり返って、抱擁が。
ゆっくりと傾いて沈んでいくアメリカ南部の大家族のそれぞれが抱える歪んだ欲望、自己欺瞞、親友の死に対する罪悪感、疑念、妬み、憎悪、焦燥、捨て鉢、やっぱり愛、それでも絶望、などなどをぐるぐるのとぐろ模様のなかに描いて、それでも最後はなんとなく落着してしまう。 何の解決もしていないと思うし、陽がさせばトタン屋根は再びやけて熱くなって、翌日からまた同じことを繰り返すかもしれないし、絶望とか病気とかが加速して突然死んじゃうかもしれないのに、とりあえず、カーテンは降りる。 この放棄・放任と、もういい終わり、終わるんだ、という言い切りの強い意思。 眩暈がするくらいの臭気とついていけないかんじと、でもそういうものかも、という。
彼らを最後の最後に立ち直らせたのは家族の力とか絆とか、それぞれのそれぞれに対する愛や希望とか、そんな抽象的なものではない、南部の沼地の向こうから立ち上がって吹いてくる、雷のように鳴り響く怪しげななにかが一対一、個と個で向い合って罵りあい渡りあう彼らの呼気や血流をさらっと裏返した、そんな描き方をしている。 ていうか、あの終わり方は、たんなる偶然で、そんなに気にすることもないのかもしれない。
Scarlett Johanssonさんは、声を少し嗄らしていて、これが原作の冒頭に細かに指定されているMaggieの声の出し方にどこまで合っていると思えるか、がおそらく評価の分かれ目なのかもしれないが、なかなか立派に猫していた。 最初はすごくつんつんとげとげしたビッチで、そこからだんだん丸く透明になっていって、やがてはあの声と唇でやさしく包みこんでくれる、少し前のWoody Allenを虜にしたであろう彼女の生の魅力が南部の湿気とともにこちらに吹いてくるのだった。
意外なほどよかったのが、Brick役のBenjamin Walkerさんで、MaggieとBig Daddyの両者からてんこ盛りの愛の裏返しでぼこぼこにされ、松葉杖という3番目の肢(..これはつまり。)がないと歩けなくて、親友の死によって自責と孤独と絶望の淵に立たされ、アルコールと汗と涙でぐしゃぐしゃの汁まみれ、ひくひく悶えまくるさまを見事な艶っぽさで演じていた。
で、このふたりが大きな家の大きな部屋のまんなかの大きなベッドの上で互いの頬を包みあったところにレースのカーテンがすうっと降りてくると、ここが世界の中心で、原作の冒頭で著者が書いていた我々はなんのために生きるのか、なんのために死ぬのか、その答えも布の向こうに幻のように浮びあがってくるの。
見ながら、なんとなくファスビンダーの映画を思い浮かべた。 彼の映画にある自縛とか自棄とか不自由とか。(ファスビンダーの場合、女性をぜんぜんきれいに描かないけど)
で、今のわれわれがファスビンダーを必要としているのと同じように、こんなふうな生煮えの地獄をみんな望んでいるんだねえ、と。
2.13.2013
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