10.31.2012

[film] Après mai (2012)

土曜日の風邪がみるみる悪化して、TIFF最終日のお楽しみ - カンボジア映画2本は諦めてずーっと寝てて、夕方になんとか立ち上がってこれだけ見てきました。 見ている間は快調だったが帰宅したら見事にぶりかえして火曜日は会社やすんだ。

『5月の後』。 英語題は"Something in the Air"。 BAMでも27日に上映されていた。

71年のパリ郊外の高校、まだ燻り続けている68年5月の後で、アングラ機関誌を売ったり暴動に参加したり高校に夜撃ちかけたり、他方で左翼系の映画製作に関わったり絵を描いたり、それから女の子ともあれこれあったり、その時代の子として「革命」に靡きつつも十分身を捧げることはできず、だからといって何をするともなく道を求めて彷徨うGillesの姿を中心に、あの時代、革命の中心から時間も場所も少しだけ離れたところにいた若者はどんなことを考えて、動いていたのかを、つまりは71年の青春を、描く。

言うまでもなくGillesはアサイヤスの分身で、その本体のほうには映画とは別に(映画よりも前に書かれた)『5月の後の青春 アリス・ドゥボールへの手紙、1968年とその後』という本があって、これを読むとそういうことかー、とわかることもいろいろある。

これって、今の自分はどうしてこんなんなって、こんなところに落ちてしまったのか、という大姐御アリス・ドゥボールへの問いに応えるという形を取りつつも、実は当時つきあい始めた利発な26歳下の恋人ミア・ハンセン=ラヴへの「申し開き」をつらつらやっているという、割としょうもない本なのだが、それにしても真面目なひとだよね。(すけべだけど)

"Carlos"で「革命」に向けてじたばた走っていくCarlosを、その挫折も含めて描いたのと同じようなやり方で、「革命」を夢見てじたばたしつつも、最後までそこに乗りきれなかったGillesの行方を描く。 どちらがどう、という話ではなく、あのときは、ああだったのだ、と。 周りがどう、ではなく、誰のせいでもなく、こうなった、という。 そこには自己弁護もナルシスティックな身振りもあまり感じられない。

或いは、『夏時間の庭』の場所で、『Carlos』の時間を描く、というか。
どちらも既に失われた、覚束ない記憶と共にあって、それゆえの作品としての弱さ、届かない距離のもどかしさ、はあるのかもしれない。
でも、もともと強くないものを強くは描けないんだ、とアサイヤスは言うだろう。 これをガレルの力強さでもって描くことはできないだろうし。

本作と同時代の同じ名前のGillesが登場する『冷たい水』は、もっとウェットに、あの時代の光と熱を伝えようとしているように思えた。
今作は、あんなこともこんなこともありました、という走り抜けてきたパスを(そこから推察しうる現在を)伝えようとしている、というか。
"Clean"や"Boarding Gate"にあった、思い切って向こう側にジャンプしてみる女性の姿は、今作でも確認できるのだが、男はそれができないまま、ぐずぐず右往左往してばかり、とか。

『冷たい水』で使われていた音楽は、Janisの"Me & Bobby McGee"とか、Alice Cooperの"School's Out"とか、Dylanの"Knockin' On Heaven's Door"とか、Leonard Cohenの"Avalanche"とか、CCRの"Up Around The Bend"とか、Roxyの"Virginia Plain"とか、Nicoの"Janitor of Lunacy"とか、要はこの時代のコアを照らしだすような、あの時、あの場所でくっきりと鳴っていた曲群だったのに対し、今回のはSyd Barrettの"Terrapin"に始まって、The Incredible String Bandの"Air"、Dr.Strangely Strange、Johnny Flynn、Captain Beefheart、Nick Drakeの"Know"、Soft Machine、んで最後にKevin Ayersの"Decadence"、などなど、どちらかというとプライベートなレコード棚から、あの頃からずっと流れ続けている、というかんじの曲が多い。

女優さんはいつものように素敵で、"Goodbye First Love"のLola CrétonさんとCarole Combesさんと。
ひとりは憧れていたのにロンドンに行って届かない人になり、もうひとりは一旦離れてまたもどってきてさてどうしよう、という。

あとは、Gillesの部屋にあった(はずの)本とかレコード、ぜんぶ見たい。
Gregory CorsoとかAlighiero Boettiとか、固有名もいろいろ出てきて、それらがどういうふうにあの時代のフランスの若者のあいだにあったのかとか、もっと知りたい。

たぶんやらないだろうが、これの続編も作ってほしい。彼の"Disorder" (1986)に呼応するような内容のやつを。
というのは『5月の後の青春...』にあったパンクとの出会い以降の箇所(p140あたりから)は、たんに「パンクとわたくし」的な思い出話に留まらない、見事なパンク論考でもあったので --


個人的なはなしではありますが、昨日の10月30日、丁度20年前のこの日に自分は初めてNew Yorkに降りたったのだった。
20年のうち、11年くらいは、そこに暮らしていて、残り9年くらいの半分は、New Yorkのことを思いながら暮らしていた。よくないよね。

いまあの場所は、びしゃびしゃ大変になっているようだが、The Stoneはだいじょうぶか、とか、Film Forumは、とか、McNally Jacksonの地下は、Housing Works Bookstoreは、とか、その辺ばかり気になる。 かけつけたいよう。

10.29.2012

[film] Bella Addormentata (2012)

土曜日の昼、TIFFの2本目。
『眠れる美女』。英語題は、"Dormant Beauty"。

2009年、イタリアで実際にあった17年間植物状態にあった女性の安楽死と延命措置を巡って巻きおこったあれこれと、その周辺の4つの家族(ひとつは家族ではないが)による3つのエピソードを追う。

映画はありがちな安楽死/延命の是非を問うものでも、その中心にあった何も語らない女性とその家族の葛藤を描いたものでもない。
イタリア近代/近年の史実をベースとしながらもその中心から少し離れたところで懸命になにか鍵爪を引っかけようとした - それはあなたとか自分とかだったかもしれない人たちのお話し。

一組は延命措置法案を緊急で提出しようとしている政党の国会議員とその娘Maria(Alba Rohrwacher)で、父親はかつて自身の寝たきりの妻との間で同様の問題に直面し、そのことで娘と疎遠になっている。娘は延命派の集会に出るため患者が搬送された地に向かい、そこで同様に延命反対のデモに来た兄弟と出会う。

娘は兄のロベルトと仲良くなるが、すぐに癇癪を起す弟がいて警察沙汰になったりしてうまくいかない。結局兄弟の母親が弟を連れにきて、彼と彼女は離れ離れになってしまう。 これが二組目。

三組目は高名な女優(Isabelle Huppert)で、植物状態にある娘の看病のために女優業を止め、そこに全てを捧げていて、聖女になりたいとまで言う。 彼女にとって今回の安楽死許可は断固容認できるものではない。 他方で俳優である夫も、俳優を志す息子 - 患者の兄も、今の状態が彼女にとってよくないことだと思っている。

四組目は病院に運びこまれたヤク中、自傷癖のある女性(『夜よ、こんにちは』のMaya Sansa)で、なかなか意識が戻らない彼女をある医師がじっと見つめている。

生と死の境目があり、カトリック - 反カトリック等それぞれの思想的な立場があり、実際に彼らの置かれている現実があり、彼らがなんとかしたいとあがく方角があり、それはその周囲の人々も巻きこむ複数の愛に貫かれていて、それ故にうまくいかない。 こうして折り重なるギャップを前に、更にその奥にある死という未知の、しかし絶対に逃れられない事象を前に、死を決定的な暗黒の深淵として、万能の解消薬として彼岸に置いてその流れに身を置こうとするのではなく、あくまで生の側に留まって苦しみ、戦う人々の姿を描く。

それは、それぞれの叫びを白日の下に曝す、個々の振るまいを極端に際立たせるようなアプローチを取るのではなく、どちらかというと暗い光の元、至近距離の静かな取っ組みあいとして示され、明確に鋭い叫び声をあげるのはIsabelle Huppertくらい、その強さは声というよりナイフのように瞬く。 その静けさは『眠れる美女』の目を覚まさないように、というより眠れる美女の尊厳と同等のなにかであるかのように。

『愛の勝利を』でも事件の周辺でわーわー言うだけのメディアが滑稽に描かれていたが、今回のそれは政界で、カバみたいに(カバの映像あり)お風呂に浸かってぬくぬくしているだけの無能野郎共でしかない、とそこにベルルスコーニ前首相の逮捕の報が入ってきたりする。

最後まで交錯することはない3名の女性の力強さとすばらしさ、そしてあのラスト。
窓を開け放つこと、靴を脱がせること、そして眼差し。 信じられないくらいすごいの。

見終わってからわんわんの悪寒に襲われ、咳が止まらなくなったので、当日券で入ろうと思っていたレイモン・ドゥパルドンのは諦めて帰りました。 ちぇ。

10.26.2012

[film] Led Zeppelin: Celebration Day (2012)

木曜の晩、なんとなくあいてしまったので20:50の回のを渋谷で見て帰る。

Led Zeppelinは、髪ふり乱すくらい好き、というわけではなくて、生まれたときには既に解散してたし(殴)、手元にあるアルバムも4/10くらいだし、ハードロックバンドといえば自分にとってはThe Whoだし、音のエッジだったらCrimsonのが好きだし、ギターリフだったらMarc Bolan、Angus Young、Joe Perryとかのがえらいと思うの。 なーんて。

キャプションも字幕も一切ないのはよいのだが、画面がちらちらせわしない(実際の映像と背後に映りこんでしまうバックスクリーンと変な効果を狙ったと思われる粗いディスプレイ画像のミックス)ので年寄りにはきついかも。

あとさー、シアターはでかいくせに音がちいせえよ。バスドラなんてぜんぜん前に出てこない。

フロントのふたりは長髪でよれよれのしわしわ。ひとりのお尻はきゅんとしていてもうひとりのお尻はぼてっとしている。 
ベースだけ唯一まともで、ドラムスは音はよいけど風貌が刑務所にいるようなこわいひとなの。

全体はやっぱりRobert Plantが引っ張っていて、音ではJohn Paul Jonesが締めていて、Jimmy Pageは締まりなくガバガバ(Ramonesじゃないよ)。 Robert Plantがどれだけ積まれてもこの後断固ツアーに出なかった理由はなんとなくわかる。

そういうわけでこのライブでピークだったのは中盤、30年代のRobert JohnsonとBlind Willie Johnsonに言及してから演奏された"Trampled Under Foot" ~ "Nobody's Fault But Mine"あたりだったように思う。 Plantにとって、今Zepが再び集まって演奏するまっとうな理由があるとしたらこの辺と、あとはAhmet Ertegunへの感謝と、それくらいしかなかったのだろうね、まじで。

で、その辺の地味めの曲をやったあとで、「これまで10枚アルバムを作ってきたわけだが、そうすると演奏しないわけにはいかない曲もあるわけだ。例えばこういうの…」と棒立ち状態で言って(よい性格だよね~)、"Dazed and Confused" 以降はずっと有名なやつばっかし。

しかしこの曲の冒頭で汗でびしょびしょの白シャツを纏って光のなかに浮かびあがるJimmy Pageの姿の異様なこと。 オバQの土左衛門みたいだった。 口元なんてもうはっきりとおじいちゃんのそれで、いつ涎が糸ひいて垂れるか気が気じゃないし。 ただ、こんなガバガバでも、その締まりなさが散っていくギターの音に奇跡的な艶を与えているとこもあったりした。"The Song Remains The Same"とか。

握り(ギターソロ)系はだめだがばらちらし系はまあまあ、でもシャリ(ドラムス)とお酢(ベース)とネタ(ヴォーカル)がしっかりしているので、そこそこおいしい、そんなかんじ。

125分、ちょっと長いけど、映画用のMixはAlan Moulderさんなので音はとってもよいです。

できればもういっかい、爆音のほうで、『狂熱のライブ』との二本立てをやって、みんなで「あぁー」と俯く、いうのをやってみたい。

終わったあとで、Zepの曲を改めて聴きなおしたくなったかというと、それはなくて、久々に青池保子を読みたくなったりしたのだった。

[film] La guerre est déclarée (2011)

24日の水曜日、終わっちゃいそうだったので慌てて駆けつけて見ました。
『わたしたちの宣戦布告』。 英語題も"Declaration of War"。

ロミオ(という名前の彼)とジュリエット(という名前の彼女)がクラブで出会って恋におちて結婚してアダムという男の子が生まれる。
アダムはかわいいけど、なんか動きがおかしいので医者に診てもらうことにしたら、診てもらうにつれて診察は大掛かりになり、スキャンしたら腫瘍があることがわかり、腫瘍を切除して成功したと思ったらそれが悪性で、生存確率10%の難病であることがわかり、ふたりは大騒ぎしながらアダムのために奔走するの。

親がかわいいかわいいわが子を救うため、守るためにしめしめべたべた泣いて耐えてがんばる、そういうお話しだったら見にはいかなかった。 いくもんか。

アダムの最初の診察でマルセイユに向かうとき、ふたりは「これはぼくたちの戦争だ」と宣言する。 いいか、ふたりで、戦って勝つのだ、と。
(車と電車、それぞれの窓に向かって歌うふたりのデュエットのすばらしいこと)

映画はその宣言を受けて、それに沿うかたちで、ふたりの数年間に渡る戦いを追っかける。
もちろんふたりは医者ではないので、手術したり薬で治したり、治療行為をできるわけではない。なにをするかというと、いちいち沈んだり祈ったり、アダムのそばにいてあげたり、検査の結果に一喜一憂したり、その程度のことしかできない。 家族とか友達はいちおう味方だけど、これはふたりの戦いで、ふたりで喧嘩しても、無一文になっても、やけくそでがむしゃらに走り続けるしかない。 そういう戦い。

とにかく、いろいろ理由はあるのだろうが、ふたりはずっと走っている。

その速さ、速くあろうとするふたりの意思が、映画に軽さと躁状態をもたらして、心地よい。
別に難病モノでなくても、ふたりのパンクスが疾走するだけの映画、としたって構わないくらいカメラはふたりの横について走っていく。

練りに練ったであろうと思われる音楽はずっと見事で、冒頭、ふたりが出会うシーンで流れるFrustrationていうバンド(知らなかった..)の"Blind"て曲のチープなトーンのパンクが全体のトーンを立ちあげて、その後はクラシックでもなんでも、時に沁みわたり、時に勇ましく追いたてる。 
特に、遊園地で流れる"O Superman"のなんという素敵なこと。

あとはファッションとか服の色(青とか赤とか)とか、いちいちセンスがよくて、それで彼らは仲間と呑んだり遊んだりしていて、その辺の譲らない、つんとしたかんじもよいの。

この出来事は主演しているふたりの間に実際に起こったことで、8歳になったアダム本人も出てくる。それをジュリエットのひとが監督して、脚本はふたりで一緒に書いている。
で? それがどうした? というくらい作品そのものがよいので気にならない。

最後のほうのナレーションでふたりは「より強くなるために関係を解消した」という。
え、と一瞬思うがそうなんだ、と思う。 ふたりは、ふたりして愛に殉じるロミオとジュリエットにはなりたくなかったのだ。 だって戦いは続くのだから、と。

それを知ったあとで、浜辺を歩いている親子3人を見るとなんかじーんとくるのね。

[film] Once More (1988)

再び時間が前後しますが、20日の土曜日、アンスティチュで見ました。
「映画とシャンソン」特集の、自分にとってはこれがラスト。

これ、字幕なしはちょっときつかったかも。

妻娘ある中年男ルイの1978年から1987年までの、それぞれの年の10月15日、そのなかの9分間をワンシーン、ワンカットで切り取り、それを10年分。 最後のエピソードだけ、カットが割られていて、それはつまり、ルイが動けなくなったことを意味するの。

その10年間で、ルイは妻娘と別れて家を飛び出し、浮浪者に拾われて男と恋をする喜びを知り、3人の男との間で想ったり想われたりを繰り返し、HIVに感染し、他方で妻とも娘とも再び仲良くなって、娘は結婚して、やがて全ては許される ~ "Once More" (Encore !) の境地に移行していく。

ルイに起こったこれだけのあれこれを、彼のエモーション、その欲望と葛藤のひだひだ、それが引き起こすドラマを作為的に切り取られたひとこま9分、10年分の連鎖連結のなかで簡潔に(簡略化することなく)描きだすにはどうしたらよいのか。 そこには明らかにシャンソンが必要で、ルイがこちらを向いて歌う、或いは彼のまわりの人たちが歌う、そのコーラスが、そこで何が起こっているのかを(説明するまでもなく)こちらに届けてくれる。 ていうか、これは歌があるからこそ可能となった様式のように思えて、そうするとそれって我々の、それぞれの(例えば)10年についてもまったくそうで、音楽で仕切られ、点滅しながら転がっていく無数のグリッドのなかで、その再生ボタンを何万回も押しながらみんな生きたり死んだりしていくのよね、ということをしみじみ思ってしまうのだった。 

んで、どこにでもいそうな中年男のある日の決意と別れ~転落から新たな愛、そして死といった出来事が、物語的にはファスビンダーぽく推移して、でもタッチはロメールのようで、それがミュージカルになっていて、すばらしかった。

外は秋なのだった。 秋の映画だねえ。

字幕つきでもう一回見たいよう。

10.23.2012

[film] 乾いた花 (1964)

順番が前後してしまいましたが19日、金曜日の晩、シネマヴェーラの篠田正浩特集で2本見ました。

この監督のことは殆ど知らなかったので、お勉強がてら。

最初のが、『乾いた花』(1964)

池辺良が村木(いかにも村木、ってかんじ)で、敵方を殺めて出所してきたばかりのやくざで、そのまま賭場にいったらそこにひとりで遊んでいる若い娘(加賀まりこ)がいて、彼女が気になって近寄ったらもっとでっかい金賭けてやりたい、とねだられたので連れていったりして、ふたりはなんとなく仲良くなる。 といっても二人できゃあきゃあ遊ぶというわけではなく、どっちも世に背を向けて車を飛ばしてつん、ていうかんじでつっぱりまくっている。

彼女のこと、彼女の正体が気になりだした頃に、命を狙われるようなことがあって、更にいろんなことが嫌になった村木は、別のやくざの殺し話に手を挙げて、実行して、再び刑務所に入るの。 
やくざ映画、なのかしら?

台詞は少なくて、村木の独り言が入るのだが基本不機嫌で、やってらんねえぜ、みたいなのばっかしで、加賀まりこも口を少しとんがらせて目ばかりが光っていて、正面向いたとこと横顔のショットがほとんどで、なに考えているんだかまったくわからない。

だがしかし、このふたりのビジュアルだけで最後まで押していってしまう強さはたいしたもんかも。
とくに加賀まりこの横顔て、すごいよねえ。

音楽は武満徹+高橋悠治。 原作は現東京都知事。
しかしなあー、虚無だの人の素性なんざ...だの散々主人公にかっこつけて言わせているくせに、虚無の対極にあるオリンピック万歳とか、素性の怪しいやつが町をうろうろしているのはいかん、とか平気で口にするようになるのだねえ。 ひとって腐っていくのねえ。

それから、『はなれ瞽女おりん』 (1977)

ニュープリントの現像がすばらしいと聞いたので見ました。 確かに問答無用の美しさ。
撮影は宮川一夫、美術は粟津潔、音楽は武満徹。

生まれた時から目が見えず、瞽女として育てられたおりんの一生。 掟を破って男と寝たためはなれ瞽女となった彼女は原田芳雄と出会って仲良くなるのだが、ふたりの行く手にはこれでもかこれでもかのかなしー運命が待っているのだった。

日本の四季のあれこれ、祭りの風景とかも含めてものすごくきれいに撮られていて、しみじみ美しい日本のわたくし、とか言いたくなる、のかもしれない。
のだが、その裏側には、おりんの運命をよってたかってもてあそんでずたぼろにしたにっぽん男共のスケベでやらしい性根、が藤壺のようにびっちり張りついているんだからね、わかっているよねそこのおっさん、くらいのことは言ってやりたい。

こんなに美しい景色をおりんはずっと見ることができなかったんだよ、それなのに彼女は、とおもうか。
彼女の心が見ていたものはこういう風景よりもずっとずっと美しいなにかだった、とかおもうか。

でもこれを、Sirk ~ Todd Haynesの『エデンより彼方に』のあたりのメロドラマとおなじように閉じた社会のグロテスクななにかがあぶりだされる映画、として見てしまう自分はいけないのかしら。

これを最後まで崇高さを失わなかったある日本女性への鎮魂、のように見ることはどうしてもできないのよね。 おりんの笑顔がほんとうに素敵だったぶん余計に。

[log] October 23 2012

シンガポールからは予定通り、火曜日の朝に帰ってきました。(5:45am着地)

ぐだぐだでしたわ。 湿気すごいし。 なにより眠いし。
でも東京に降りたとたん、すさまじい低気圧が襲ってきて、寝挫いたのに併せて頭痛も降ってきたのでなにこれ、だった。

シンガポールは、数年前に行ったときよかより変な建物がいっぱい建っていた。
熱帯気候も計画都市も好き勝手につくられた建物もしみじみ好きになれない、とおもった。
まだ見たことのないマーライオンもそういう一派なのではないかと推察する。

初めて乗った787は、あんなもんかしら。
最近の地下鉄の新しい車両みたいに全体として軽薄なかんじで、実際軽くて薄いのだろうな、くらい。
トイレなんてぺこぺこでワンルームのユニットバスみたいな印象で、ここに座っている間に落っこちたらやだな、と一瞬おもったが、古いやつだって、落っこちるのはいやよね。
機内のノイズも音量としては小さくなっている気がして、音域だとこれまでのと比べてやや周波高め、よりメタリックなかんじになっているような。
しゃー、とか、さー、とか、みーん、とか、きーん、とか、そういう系の音ね。
これまでの飛行機の体に悪そうな、鈍重めの音のが好きなひともいるだろうにー。

あとは、中距離だからなのだろうけど、カーディガン貸してくれなかった。 寒いと寝れない。

深夜発の便だったのでお食事は到着前の明け方に出るのだが、寝る前に食べたいというひと向けのもあって、寒いのに加えてお腹へると更に寝れなくなるので(冬眠前)、頼んだ。 お寿司と茶碗蒸しで、お寿司は握りがふたつ、かんぴょう巻きがみっつ。

ビデオのコントローラも小さいのに変わっていて、寝返りうっただけで敏感に反応してくれるのであれだったのだが、そういう状態で映画1本だけ見ました。 "Rock of Ages" - あっというまにシアターから消えちゃったねえこれ。

行きで1時間くらいみているうちに眠くなったのでそのまま落ちて、帰りの便で残りの1時間くらいみる。

なんかなー。
知っている曲ばかりだし、好きな俳優さんばかり出ているのに、なんでこんなにしっくりこないのか、すっきりしないのか。
ミュージカル版は見ていないのだが、それが致命的なことであるとも思えない。

バカが夢中になる音楽であるところのロックが世の中をひっくり返す、その勢いと痛快さがない。
例えば、80年代の"The Blues Brothers"、90年代の"Wayne's World"、00年代の"The School of Rock"にあったものが、はっきりとない。

聖地バーボンハウスを排斥しようとする連中、そこからのし上がろうとする若者たち、そこから全てをむしり取ろうとする業界、神のように君臨するカリスマスター、極めて漫画っぽい構図であるが、これはこれでいい。
問題は、ロック一筋で猛進するとんでもないバカとか勘違いやろうが、これらになんら決定的な打撃を与えることなく、たんに「みんなのうた」- "Rock of Ages"がまさにほんとに「みんなのうた」として機能して、みんなのとこに等しく降ってきて、結局のとこスタジアムロック万歳!みたいなとこに落ちてしまうところなの。

あんなのロックじゃない、とかそういうことを言うつもりはなくて、物語の決着のつけかたとして、あまりにわかりやすくて予定調和で代理店が作ったファストフードのコマーシャルみたいに見えるところがなんかいやだ。

あとさあ、カット割りとかしゃかしゃかやりすぎだよね。 ああいう田舎ロックにそんなことしてどうする、なの。

あと、Stacee Jaxxみたいなひとは、Bon Joviとか歌わないとおもうんだけど。
あと、"Oh Sherrie"はぜったい出ると思ったのに。

というわけで、いちばんきゅんとしたのは、昔のタワレコの店内だったりした。 
カセットとかあんなふうに並んでたのよね。 あそこにスリップしたいよう。

10.21.2012

[log] October 21 2012

と、いうわけで。 とりあえずぶじTIFFにも引っ掛かることなく、今は深夜に近いところの羽田空港で、これからシンガポールにびーんて飛んで、向こうには朝着いて、ざーっと動いて仕事(だとおもう、たぶん)をして、そのまま晩の列車、じゃない飛行機に乗って火曜日の朝6時くらいに戻ってきてそのまま会社にむかう(むかえ)、と。

けらけら。 ねむいよう。

ほとんど飛行機乗るだけじゃないのか、なのであるが、そうだよだって787乗りたかったんだも。

それにレコード屋と本屋がないとこ(正確にはそれらの場所の確認に相応の時間を要すると思われるとこ)には長居したってしょうがないしね。映画見る時間なんてあるもんか、だしね。

そういえばむかしむかし、NYで仕事していた頃、これとおなじような現地泊ゼロミッションをブエノスアイレスとの間で仕掛けて、見事に失敗して飛行機を逃し、ブエノスの繁華街のいかがわしい宿(一泊$25くらいだった)に泊まったことがあったなあ。

あのとき、背筋をひんやり流れたやられた失敗した感と、ラプラタ川に沈んでいく夕陽の赤かったことはぜったい忘れないんだ。

今回そんなふうになる可能性がまったくないとこも含めてちょっとつまんないのであるが、とにかく飛行機にはー。

しかしここのラウンジ、チーズがしょうもないのは仕方ないけど、メゾンカイザーとか、越州うどんとか、アイリッシュシチューとか、おかきとかキットカットとかあるのに、クラッカーがないってどういうことなの?

[film] Yellow (2012)

21日の日曜日、今年のTIFFの最初の1本。

相変わらずCMがひどい。あんなのInternationalな恥さらし以外のなにもんでもないわ。
どっかの宗教団体のCMかと思ったら「東京都」だし。 どいつもこいつも、映画を見て幸せになれるなら、こんな楽なことねえんだよ、くそったれ、とか。

この映画の最初のほうで、主人公が、周りでみんななんかわーわー言ってるけど、ぜんぜんConnectできない。どうでもいい、好きにやってろ、って毒づくのだが、それをそのままCM作った連中にぶちまけてやりたくなる。

冒頭から、そんな具合にセラピーを受けているらしいMaryは、小学校の臨時教員をやっているのだが薬物依存で明らかに挙動がへんで、まわりのグチがオペラになったり(ソプラノで"Fuck you - - -♪")、父兄参観でだれかの父親とやったとこを糾弾されるのが演劇になったり、教えている教室に水が溢れだしたり、膨らみすぎた借金で破産したことがわかるとそのままミュージカルレビューになだれこんだり、これらはどうみてもMaryの頭のなかで起こっていることだよね、ということがわかってくる。

彼女には子供が4人いて、妹(Sienna Miller - すばらし)がいて、で、現実にも彼女は学校をクビになり、破産して妹とも大喧嘩して、すべての居場所を失い、それでも依存症から抜けられないので故郷のオクラホマに戻って養生しよう、と車に乗っていくのだが、その途中の刑務所とか、実家とかでやはりいろいろわかってくるものがある。

実家にはママのMelanie Griffithがいて、祖母のGena Rowlandsがいて、病院から出てきたばかりらしい姉もいて、姉はMaryと顔を合わせるなり自分の腹にナイフを突きたてて裂いてしまうし、祖母はMaryにはっきりと敵意を抱いているし、まだまだいろんなことがある。

そんなふうでも(そんなふうだからか)彼女は薬を手放すことができなくて、だから幻覚は続いていって、近所の人たちとのパーティでは全員が家畜に変化してテーブル上には鶏がいたり、どこからどこまでが彼女の頭の中で、どこからが外なのか、わからなくなる。

それでも、彼女は断固引かなくて、負けなくて、姉と血みどろの修羅場をやって、母とも祖母とも大喧嘩をして、再び実家を出ていくの。

なにが起ころうとも、どんな痛い目にあおうとも、実際にどんなに悲惨だったとしても、自分を絶対に正しいと信じて曲げない、だからどうしたっていうのよ、と。 赤信号じゃない、確かに青とは言えないかもしれないけど、黄色だから、だからGoだろ。

これはMaryだけじゃなくて、この家族の女たち全員がそうで、そうしてみんな一見幸せそうに見えるから、誰も手をださない。
男共は... 父親は既に死んでいるようだし、兄は刑務所にいて一生出てこれないようだ。

ここまで来ると、誰もが思いあたる女性像があるはず。
"A Woman Under the Influence" (1974)の、"Opening Night" (1977)の、"Love Streams"(1984)の、Gena Rowlandsである。  この映画のMaryは、薬物やインセストといった外傷に引きずられてはいるものの、その揺るぎなさと断固愛に立ち向かうその強さにおいて、まるで彼女の生き写しのようだ。(そして、この映画のGena Rowlandsも久々に強く漲った演技を見せてくれる)

そいで、かつてJohn Cassavetesがそういうのを妻に演じさせたのと同じように、息子のNickは妻であるHeather Wahlquistと一緒に脚本を書いて、主演までさせてしまう。 なんという(女系)一族なのよ、としか言うほかない。

ラストでの彼女は、"Love Streams"でのGena Rowlandsと同じように新たな幸せを見つけたかに見えるのだが、しかしぜんぜんわかんないし信用できないの。 なにしろ半分アニメなんだもの。

あと、これは素晴らしいミュージカルとしても見ることができて、幻覚シーン以外にもRadioheadの"Codex"が流れるし、Gillian Welch and David Rawlingsがあるし、M.Wardもあるし、そしてすばらしいところでTracey Ullmanの"They Don't Know"が高らかに鳴り響くの。 嬉しくて鳥肌が立ちましたわ。

んで、なんとなく、クリストフ・オノレの家族映画とカサベテスの家族映画の違いをぼんやり考えている。  フランスとアメリカの-。

Q&Aのあとでちょこっと檀上にあがった(カサベテスの)孫娘っこ、早く大きくなるのよ。

[film] Les Chansons d'Amour (2007)

14日、日曜日の午後にアンスティチュで見ました。『ラブ・ソング』。
13日の『不景気は終わった』の後の上映もあって、こっちはトークと更に晩には音楽を手がけたAlex Beaupainのライブもあったのだが、そこまで深入りするのもなぜかためらわれ。

これも2007年のカイエ週間で、"La France"と同じ頃に見ていて、2回目。

出版社に勤めるイスマエル (Louis Garrel)は恋人のジュリーと暮らしていて、そこにある日彼の職場の同僚のアリスがやってきて、なんとなく一緒に暮らしはじめる。 3人でやったり女同士でやったりしている(関係者談)ようで、表面上はそんなに深刻な関係ではなく楽しくやっていたようだったのだが、ある日みんなでライブに出かけた先でジュリーが倒れて突然亡くなってしまう。

彼女の死をきっかけにいろんなことががたがたし始め、アリスはライブで出会った別の男と一緒になり、その男の弟がイスマエルのとこに子犬のようについてくる。生前から仲のよかったジュリーの家族、特にジュリーの姉のジニー(Chiara Mastroianni)は心神喪失状態のイスマエルを心配して気をかける。 イスマエルどこへ行くの…  というおはなし。

「別れ」-「不在」-「帰還」(だった、たしか)の3部構成になっていて、誰かに向けての、誰かとの間での歌(ラブ・ソング)が大きな役割をもつ。「誰か」というのはイスマエルの周りに家族のように(イスマエルの家族は出てこない)近しくいる人たちとイスマエルのことで、近くにいる彼らは皆、イスマエルに立ち直って元気になってほしい、と祈っていて、イスマエルはそれを十分わかっているのだがしかし、自分でも予期していなかったほうにそれは転がっていく。 
あらあらあら、って笑うしかないくらいに。

これの前年に作られた『パリの中で』- "Dans Paris" - を見たあとでこれを見ると、繋がっている、というかふたつの作品は鏡のような関係にあることがわかる。
『パリの中で』で意気阻喪していた兄の心配をしていたおちゃらけ弟のLouis Garrel(ジョナタンという名前だった)は、今作であらゆる災厄と喪失状態を自身がひっかぶって、自分の家族ではない人たちからも心配される側にまわって、でもやはりどうすることもできない。

「悲しみは目の色と同じで他のひとにはどうすることもできない」、という『パリの中で』にあったテーマはそのまま引き継がれ、その境界上で、あちら側とこちら側の間でロープが投げられ、歌がうたわれる。 その限りにおいて物語としての不自然さとか強引さはなくて、「不在」のあとの「帰還」は、息を吸いこんで声にしてそれが歌になる、そのあらゆる可能性を広げてみせる。

でもそれはよくありがちな「悲しみ」の後の「再生」というのとは違うの。
イスマエルの悲しみが前面に出てくることはないし、映画は夜のシーンが多いものの決して暗さに留まることなく、イスマエル、歌え! やりまくれ! ていう。

ほんとにすてきなんだよねー。

10.20.2012

[film] La Crise Est Finie (1934)

12日、土曜日のお昼に見ました。『不景気は終わった』
ナチスの迫害を逃れてドイツからアメリカに亡命したRobert Siodmakが渡上のパリで撮った作品。 無字幕フランス語でもへっちゃらさ。楽しいったら。

舞台歌手のニコール(Danielle Darrieux - まだ17歳。ぴちぴち)はいっつも傲慢女優のスタンバイでくすぶってて、やっと出番がきたと思ったらそいつが戻ってきたのでがっかりして、腹いせで嫌がらせ悪戯してやったらめちゃくちゃ怒られてクビになるの。 でも日頃のそいつの傲慢さにあったまきてた他の劇団員もつられて辞めちゃって、みんなで「パリだ、パリに行こう♪」て歌いながら意気揚々と上京するの。

でもみんな無一文なので、不景気で閉鎖されてた劇場に寝泊まりしながら、電球とか看板文字盗んだりいろんな悪いことして上演実現に向けてがんばるの。ニコールはピアノ借りるためにピアノ屋のおやじ(ちょび髭でぶ)のセクハラ呑みに付きあったりやなこともいっぱいあるけどがんばるの。

なんとか上演初日を迎えることができて、それに向けてニコールはママを田舎から呼びよせるのだが、ママはその劇場の場所がわかんなくてそこらのパリの人に訊ねてまわる。 するってーと「エリゼ=クリシー劇場てどこ?」「エリゼ=クリシー?」「どこそれ?エリゼ=クリシー?」ってRTが大拡散して大量の人々がわらわら劇場に押し寄せてしまい(とんでもない人波の空撮)、大盛況になってめでたしめでたし、と。

歌もいっぱい出てくるし、Danielle Darrieuxも眩しいくらいきらきらで素敵なのだが、あまりに強引かつ適当な筋展開にびっくりしているうちに終っちゃうのだった。
でもいいんだ、こうして「不景気は終わった」のだから。

Robert Siodmak監督はこの後アメリカでフィルム・ノワールの名作を沢山撮った、ということになっているのだが、このうち自分が見たことあるのは"Cobra Woman" (1944)ていうやつだけだった。 これも相当変な映画であったのう….

映画の後にジャン=マルク・ラランヌ先生によるフランス映画とシャンソンを概観総括する講演があって、とってもお勉強になりました。 ものすごーくどまんなかだった気もするが。
ドゥミだし、ゴダールはやっぱしだし、カラックスはあれとあれしかないし。

ドゥミと言えば、この講演でもかかった"Lola"の修復決定版がMOMAで10周年を迎えた"To Save and Project"(修復された映画を片っ端から上映しまくる祭)で、10/12に上映されて、アヌーク・エーメさんが挨拶したんだって。見たかったなあ。 "Lola"ってほんとにほんとに大好きなの。

10.19.2012

[film] La France (2006)

11日、金曜日の晩、『運命のつくりかた』に続けて見ました。
これは2007年に日仏(当時)のカイエ週間で見ていて、すごく好きになったので再び見る。 何度見てもよいの。

第一次大戦中、新婚のカミーユは戦地の夫から手紙を受けとるが、そこにはもう戻れないと思うから手紙書かないで、とあった。
錯乱して(でも無言で)いてもたってもいられなくなった彼女は、髪を切り、ぺたんこの胸にサラシを巻いて、男の子の恰好をして外に飛び出していく。
で、野原でたまたま会った第80小隊の行軍にくっついて歩いていくのだが、当然怪しまれて疎まれて追いだされそうになって、でも我慢我慢でついていくうちに馴染んでいく。 けどものすごい数の敵が来て大戦闘になるわけでも、味方が沢山きて盛りあがるわけでもなく、ひたすら地味で辛い行軍が続くばかり。 カミーユが夫に再会できる見込みも兆しもあるわけもなく、かと言って戻るわけにもいかず、全員そんなかんじで、なんのために、なんのために、なんのために、を噛みしめ、感情を押し殺しながらうらぶれて野山を歩いていくしかないの。

で、ふとなにかのきっかけで誰かが顔をあげ、無言で互いに目くばせして合図をしあい、この状況だと全員が銃を構えて敵に向かうことになるはずなのだが、彼らが手に取るのは何故か楽器で、みんなで演奏をはじめて歌をうたう。
楽器は缶からに糸を張ったようなやつとか、鉄琴とか手拍子とか、ぼろぼろのアコースティックで、歌うのは威勢のいい軍歌ではなく、愛しい娘さん~みたいなぼのぼのとした恋歌(当時の、ではなく今の)だったりするのだが、全員その場に立って、或いは座って、食事を摂るように音楽を奏でる。

なんで彼らが楽器を持って歌をうたうようになったのか、なんのためにそんなことをするのかは、まったくわからない。
戦場でそんな音をたてたらすぐに敵に見つかって危険なはずなのだが、音楽が流れている間は彼らは安全なように見える。(そんな根拠はどこにもないわけだが)

映画のなかで演奏するのは計4回、今回の再見で、どういう状態になると彼らが楽器を手に取るのか注意して見ていたのだが、とくにはっきりしたきっかけとかはないようだった。 音楽は特別のなにかとしてこの小隊の任務メニューに組み入れられているようではない、と。
なので、歌と演奏が終わったあとで、家族や恋人のことを思い出し、元気になって勇ましく任務に戻る、ということもない。

国と国が、人と人を殺しあう戦争という局面において、こんなような音楽は、歌をうたうという行為は、なんでありうるのか。
たぶん、なんにもならないし、なってこなかったし、これからもならないだろう、けど、でも、カミーユの場合のようにひょっとしたら、とか、そしてなによりも、映画を見ている我々は、少なくともほっとするのだった。
長雨の合間、一瞬だけ日が射したのを見たように。

今から約百年前の戦争で、うらぶれた小さな歩兵隊がオランダのほうを目指して歩いていった。
途中で思い詰めた目をした男装の女の子を拾って、彼らは何曲か歌をうたった。
それだけの、全体としてはとても暗いトーン(暗いけど色彩処理が素敵)の、しかし最後の最後、闇空に星が降ってくるような映画に『フランス』というタイトルをつけてしまうこと。


10.16.2012

[film] Un homme, un vrai (2003)

木曜の晩から咳が止まらなくなったので、金曜日は会社を休んで昼過ぎまで寝てて、16:00からアンスティチュに出て「映画とシャンソン」特集から2本みました。 『運命のつくりかた』。
運命のつくりかたを教えてくれるありがたい映画だったが、じぶんの運命はこうして腐れていくのだった。 歌っている場合か。

英語題は、"A Man, a Real One"。 あんまよくわかんないけど。 「男、ほんもんの男」って。

ボリス( Mathieu Amalric)がある会社の宣伝用フィルムを作って、そのプレゼンの席でマリリン(Hélène Fillières)と出会って、ふたりは運命的ななにかを感じて、その晩、マリリンのアパートでのホームパーティでそれは確信的な愛に変わり、そのままふたりはガスパチョを求めてバスク地方に旅にでる。 

5年後、ふたりには子供がふたり出来てて、ボリスは映画の脚本を書いたりしつつもぷーで、マリリンは仕事ばりばりなのでふたりの間には溝があり、家族でイビサに旅行に出ても、それって実はマリリンの会社の社員旅行だったもんだから大喧嘩したあと、マリリンはレズ友でクライアントの女社長とキューバに高跳びしてしまう。 ふたりの幼子を置いて。

そこから更に5年経って、マリリンはアメリカ人向けのツアコンの仕事をしてて、ピレネーの山奥にオオライチョウの求愛行動を見にツアー客を引き連れてきて、そこで何故か山岳ガイドをやっているボリスと再会する。 のだがボリスは彼女が誰だかわかっていないみたいで。

10年の歳月、国境を、海も山もばりばり超えて盛りあがる恋愛大河ドラマふう、でありながらものすごくささやかな、ミクロな愛のありようを掬いあげていて、とっても素敵でおもしろい。 ふたりが歌うシーンもあるのだが、それによってドラマチックになにかが起こる、変わるというよりもちいさなキス、ちいさなハグ、ちいさなダンスのステップ、それとおなじような耳元の囁きのような歌が、しかしそれは決定的な、種のようななにかを残すの。

原題からイメージされるようなマッチョなところはない。 終始アグレッシヴに動き回って人生を掻き回しているのはマリリンのほうで、ボリスはどちらかというとどんよりしている。 

出会いのとこではボリスがマリリンの巣にやってきて、仲直りのとこではマリリンがボリスの巣(+雛)にやってくる。 この辺の切り返しも素敵なのね。

そして、よくわかんないけど、動物が重要な役割を果たす。 最初のパートがシカ、イビサがトカゲとおかま、ピレネーがオオライチョウ。よくわかんないけど、なんとなく。  
野生のなにかがもたらす呪文としての愛とか運命とか発情とか。

オオライチョウのシーンは、なぜかそこだけ「ダーウィンが来た!」、になってしまったりするのだが、他にも山岳アドベンチャーとか、お料理ドキュメントとか、映像的にいろんな要素がいっぱい入っていて、でもとっちらかった印象はない。 最後に瞬く星空のように、見上げてわーっと落ち着いてほっとする、そんなかんじ。

あとは、ガスパチョがとっても食べたくなる。

10.15.2012

[film] Elis Regina: MPB Especial (1973)

10月6日から始まっていた(12日で終ってしまった)ブラジル映画祭、どうしても見ねばならぬものがふたつあったので、11日の木曜日、会社終って速攻で駆けこんで続けてみた。

最初に見たのがこれ。
O Homem que Engarrafava Nuvens (2008)
『バイアォンに愛を込めて』 "The Man Who Bottles Clouds"

ブラジル北東部、ノルデスチの音楽様式であるバイアォン(baião)、それを40年代からブラジル全土に広めていった歌手Luiz Gonzaga(ルイス・ゴンザーガ)と作詞家Humberto Teixeira(ウンベルト・テイシェイラ)、①その評伝をTeixeiraのひとり娘が綴る、②なぜバイアォンはこの時代、ブラジルのこころの歌として広がっていったのかを検証する、③バイアォンの魅力と輝きをMPBの大御所たちが語り、そして歌う、の3つの軸からなるドキュメタリーでした。

ドキュメンタリー映画としては、なにもかもぶち込み過ぎであっぷあっぷでしたが、お勉強にはなった。 あとは音楽ゲストがすごいので、とりあえずぜんぜん飽きずにわーわーしているうちに終っちゃう。

Gilberto Gil大臣によると今のブラジル音楽の原要素はバイアォンとサンバのふたつに大別できてしまうのだと。確かに、間口がでっかくてどんなアレンジでも、道端の歌と手拍子だけ、歌とギターだけのものから大編成だろうがごりごりファンクだろうが、なんでも吸収してなんにでも応用できてしまう。 こころの歌なんだからそりゃ文句ねえだろ、と。

こうして、バイアォンはボサノバ以降のトロピカリズモ(民族復興運動)の担い手達にも大きな影響を与えていったのだと。なるほどー。

でもさー、こういう地音楽の伝承についてちゃんと検証するんだったらポル語の音韻とか民族音楽誌まできちんと踏まえていかないと難しいよね。大衆音楽だから、って言っちゃうとそれこそ、レゲエのルーツはバイアォン(ていう証言も出てくるの)、みたいななんでもありの説まで出てきちゃうし。

ともかく、というわけで、スタジオで歌ったりライブ会場で歌ったりしてくれるゲストは以下のような。

Gilberto Gil, Caetano Veloso, Maria Bethânia, Chico Buarque, Gal Costa, Os Mutantes などなどなど。みんなHumberto Teixeiraの曲をカバーするだけなのだが、どれもがとんでもなく素敵。
Sivucaがものすごく滑らかに艶やかに弾きだしたアコーディオンの横からGal Costaの声が被ってくるとことか、いつものCaetanoとか(彼が"アイ~アイ~アイ~"とかやっているだけでじーんとくるのはなんで)。 あと、彼が"Terra"を歌って、ここだけ自分の歌を歌うの? と思ったらこの歌はHumberto Teixeiraのことを歌ったのだと。

そしてブラジル圏外から唯一、New Yorkの生き証人としてあれこれコメントしてくれるDavid Byrne先生も、2006年のJoe's PubのForró in the Darkのライブゲストとして演奏してくれるの。
彼がさっそうと自転車でBrooklyn Bridgeを、Down townを走っていく姿も映っている。
なんでわざわざ自転車姿なのかよくわかんないけど。(本の宣伝?)


Elis Regina: MPB Especial (1973)
『エリス・レジーナ ~ブラジル史上最高の歌手~』

2本目のやつ。
Elis Reginaが73年、TV番組でやったスタジオライブ、2回に渡って放映された内容をひとつに束ねたもの。 DVDは彼女の息子、Joao Marcello Boscoliのレーベルからリリースされている。  ほしい。

わたしが彼女のCDを貪るように聴いていたのは90年代末頃だったのでほんとに久々に聴いて、やはりぶちのめされる。

画面はモノクロ、カメラは固定の2~3台のみ。
バックはベースがLuisão、ドラムスがPaulinho、ピアノがCésar Camargo Marianoというすばらしいトリオ。
このそっけないくらいシンプルな画面仕様が、彼女の声の肌理とみごとに調和している。

Elisは、煙草をひっきりなしに吸い、ネックレスを落ち着きなくいじり、しかしカメラをしっかり見てこれから歌う曲、曲を作ってくれたコンポーザー(自作の曲はない)のことをとりとめもなく語って、そのまますっと曲に入っていく。 Elisが歌う。 Elisが笑う。

歌うのはGilbert GilからMilton NascimentoからTom Jobimまで、いろんな人たちによるいろんな歌。 全17曲。

例えば声の艶とか大きさだったらGal Costaのがすごいだろうし、個性的な歌唱、だったらMaria Bethâniaのが上だと思う。 でも、それでもなんでElis Reginaの歌がすばらしいのか、ひとを虜にしてしまうのか、その不思議がぜんぶ詰まっている。

声の気持ちよい冷たさ、悲しさ、寂しさ、他方でひとの作った歌を完全に自分のものにしてしまう強さ(自分は母親に似ている、ではなく、母親は自分に似ている、という言い方を彼女はした)、情熱的で圧倒的な歌声で聴き手を吹き飛ばすのではなく、曲と人を手元に手繰り寄せる魔法。 
ショートカットの少年の刺すような眼差しと猫のようにまんなかに集まる笑顔と。

これを見たら誰だって彼女に曲を作ってあげたくなるにちがいないの。

Jobimの「三月の雨」は彼女ひとりで歌うのだが、ひとりでもぜんぜんすごい。 
この曲もまた、なんてすばらしいのかしら、といつも思う。

10.14.2012

[music] Dirty Projectors - Oct.9

9日の月曜日、そういえばあったんだった、と当日券狙いで7時半過ぎにO-Eastに行ったら"Sold Out"と張り紙があって、ああそうですか、と帰ろうとしたら「もしもし…」と声をかけてくれた真面目そうな若者がいて、中に入ることができた。 ぱんぱんで、(いつものように)扉を開けたとたんに帰りたくなるが、耐えて奥にいく。 前座のひとの最後のほうでした。

新譜の"Swing Lo Magellan"は、個人的には微妙だった。いっこいっこの音の粒は気持ちよいのだが、全体としてスムーズに入って来すぎる気がして、受けはよくなるだろうけどどうか。

前作の"Bitte Orca"は3D展開されたPavementみたいだったのに、新譜は音のきれいなPavementみたい(つまりそれって)に聴こえて、あとでドラムスが替わったと知ってああそうかー、と。

ライブでの新しいドラムスも音が切れてて悪くはないのだが、前のドラムスのひとの百姓が地面をどすどす耕しまくるような練りの強さ、上空をひらひら舞うコーラスと薄板ギターを爆竹でばしゃばしゃたたき落とすスリルがなくて、すべてがリニアに気持ちよい調べとして流れていって、後半の長尺の曲もプログレみたいなかんじで、でもこのバンドにはぜったいプログレになってほしくないのだった。 でもどうかなー。Gongみたいになっていくのかしら。

本編1時間、アンコール1回3曲は丁度よいかんじ。 この構成でだらだらやってほしくはなかったから。

ずっと変遷を繰り返してきたバンドなので、ここに留まることはないとは思うものの、もっと暴れて錆びれてほしかったかも。

同じBrooklynバンドでいうと、Grizzly Bearの新譜後のライブの地を這うかんじと比べて、こっちはほんとに洗練されてて、最近のメディアで紹介されるBrooklynみたいに綺麗なかんじがして、なんとまあ、なのだった。

[film] The Bourne Legacy (2012)

8日の月曜日、"Out of the Past"の後で六本木に移動してみました。
これか、"The Hunger Games"(再見)にするか悩んで、なんとなくこっちにした。

まあ、こんなもんかしら。
これもある意味"Out of the Past"のお話しではあるのだが、なんと一本道でわかりやすいことか。合衆国が相手だから建付けは豪勢だけど、他に抜けようのない物語の貧しさがなんともきつい。
期待してるのは派手などんぱちなので、別によいのだけど。

でも、これで135分は長いよね。最初のほうの雪のなかの修行とかいらないのでは。

そういえば、Matt Damonの3部作は見ていなかった。
だって最初のがリリースされた当時、Matt Damonにアクションできるなんて思わなかったし。
けど、あんまし気にはならなかった。 Jeremy Rennerの狂犬顔が気持ちよくはまってて、なにがあったか知らんがやっちゃえ、てかんじにはなる。

最後の、未知数のパワーを持つ(関係者談)LARX #3(彼、"Predators"のHanzoだよね)との対決のとこはもうちょっとがんばってほしかった。 Rachel Weiszさんのヘルメットぼこ、で消えちゃうなんてさ。

合衆国側のEdward Nortonさんが最後に出張ってきて、わかるよ…おれも昔はやられたからさ、と言ってHulkに化けてくれたらおもしろくなったのにね。

あの薬、ほしいなー。身体のほうのはいらないけど、頭よくしてくれるやつのほう。

最後の主題歌はMobyさんなのだが、字幕の訳がなんとも恥ずかしくてわらった。(by T田おばさん)

10.13.2012

[film] Out of the Past (1947)

連休最後の8日、シネマヴェーラのノアール特集で2本見ました。

最初に見たのが "The Great Flamarion" (1945)
メキシコの興行小屋での公演中、女性の叫び声と銃声が鳴り響いて、女性が殺されているのが見つかる。警察の検分が終ったあと、どさっと落ちる音がするので行ってみると男が倒れていて、それは拳銃早撃ち芸人のフラマリオンで、彼は虫の息でここに至るまでのかなしー顛末を語り始めるの。

フラマリオンの芸は、バーで浮気している妻のとこに乗りこんでいって、拳銃早撃ちで彼女とその相手を撃ちまくって(でも絶対に当てずに)びびらせて拍手喝采、てやつで、妻役のコニーとその相手の男は実際には夫婦で、男のほうは酔っ払ってばかりいるのでフラマリオンには気にいらない。
ある日コニーがフラマリオンのとこにアプローチしてきて、最初は断固拒否していた真面目なフラマリオンが揺れ始めて一緒になることにして、決意したら一途だもんだから酔っ払っている男を公演中の事故に見せかけて撃ち殺して、彼女とはシカゴで落ちあうことにしたのに裏切られるの。

コニーはファム・ファタルなんかじゃないただの淫乱なビッチなので、こんなのにぼろぼろに破滅させられるフラマリオンさんが可哀相でしょうがない。 おまえ、偉大なるシュトロハイム先生になんてことを…って映画好きのひとならみんな思うよね。

続いてみたのが"Out of the Past"で、これは大好きでもう何回も見ている。
でも、ほんとにこれって劇場未公開なの? …ありえない。

わたしがこういう昔の映画に驚嘆して、出来る限りなんでも見て勉強せねば、になっていったきっかけが2003年、MOMAの映画部門の特集で、そのときに見たのがこれと、他には"Angel Face" (1952), "There's Always Tomorrow" (1956), "The Reckless Moment" (1949), "Touch of Evil" (1958), "All That Heaven Allows" (1955) とかだったの。 ほんとにびっくりしたんだよねー。

NYの私立探偵Jeffがギャングのボスを撃って金を持ち逃げしたKathieを探すように依頼され、アカプルコまで飛んで彼女を見つけるのだが、彼女の虜になってしまい、一緒に逃走するものの逃げ切れずバウムクーヘンみたいに犯罪ぐるぐるまきになって、いいかげん彼女に愛想つかして放り出し、田舎の街道沿いでガソリンスタンドをやって隠遁するのだが、そこにも組織は追っかけてくるの。

ストーリーは田舎で出会った、彼にとっては聖女のようなAnnに語りかけるかたちで進み、それ故に逃れられない過去の辛さと未来への一筋の光が、そのコントラストが際立ってたまんないの。
あとは都会の闇と田舎の自然の光の対照もすばらしい。
そいで、Jane Greerの悪女(こいつはまちがいなくファム・ファタル)も他に出てくる二人の女もみんな震えるくらいきれいなので、これじゃどっちにしても逃れようがないや、になるの。

Robert Mitchumも最後まで無表情で、自分の背負った過去を黙って、そのでっかい手で引き受ける。
かっこいいったらない。

そしてあのラストがまたねえ。 泣かせるんだようー。

過去から現在に至る複数の線を、過去から逃れる複数の可能性とそれと同じ数の絶望を静かに冷徹に描き出して、ものすごく豊かなので何回見ても新鮮で。 名画っていうのはこういうのをー。


10.12.2012

[film] Dans Paris (2006)

アンスティチュ・フランセで5日から始まった特集『映画とシャンソン』 - これもぜんぶ見たい - からまず1本。『パリの中で』。 英語字幕だった。

Christophe Honoréの『ラブ・ソング』のひとつ前の作品、といったら見るしかないでしょ。

冒頭、アパートの部屋で川の字で寝ている3人のうち、Louis Garrelのジョナタンが起きあがってベランダに出て、カメラの方を向いて話し始める。やあみなさん、ぼくはこのドラマのナレーターだよ、とかなんとか。 この時点ですでにきゅんとして、たまんない。

ノアールの過酷な世界もいいけど、やっぱこっちだ、とか揺れるったら。

クリスマスの直前に、ジョナタンの兄のポールが恋に疲れて父とジョナタンの暮らすアパートに帰ってきて、ジョナタンはそんな兄ちゃんを励まそうとボン・マルシェ(だい好き!)に買出しにいこう!ぼくは20分で着くからさ!とか軽く言ってびゅーんと飛び出していくのだが、彼は彼でナンパしたりされたり盛りのついた犬だもんだから、落語みたいにぜんぜん届かないの。

そうしているうち、アパートにはジョナタンを求めて彼の元カノが訪ねてきて、しかたなくポールがその相手をしてあげたりする。
その彼女にポールが言うことにゃ、悲しみは目の色のように植え付けられたものだから世話してやらなければいけない。君の目の色のことだから他の人にはどうすることもできないんだよ、って。

もうねえ、このフレーズがあるだけで、この映画ほんとに好きだし、Christophe Honoréえらい、って思うし、おとなのフランス映画万歳!になるわ。 
こういうのを見とけ悲しい寂しいだいすきの日本のガキども!

こんな具合にみんなが自棄になって川に飛びこんだりして、みんながそんなみんなのこと心配してばたばた走り回って、クリスマスがやってくるの。 なにひとつ決着しないけど、それのどこが悪いんだよ?

パパガレルの映画で恋に殉じるLouis Garrelもよいが、この映画でぴょんぴょん走り回っているLouis Garrelのが好きだなあ。『ラブ・ソング』もすばらしいので是非。

兄のポールを演じるRomain Durisは"L'arnacoeur" -『ハートブレイカー』の彼。 歌はそんなに巧くないけど、味があって、この映画でも電話越しに切なくしっとりと歌ってくれる。
あと、彼女が昔プレゼントしてくれた7inch、Kim Wildeの"Cambodia"をかけてめそめそするシーンもある。 そういえば、こないだ見た"Camille Redouble"でもKim Wildeのポスターはあったなあ。

Louis Garrelが女の子の部屋のベッドで読む本が「フラニーとゾーイ」、仲直りした兄と弟が一緒に読むのがオオカミのルウルウとウサギのトムが出てくるGrégoire Solotareffの絵本で、これだけでもなんかわかるのであるが、でも、本ではなくて歌なの。
歌のない世界なんてありえなくて、歌こそが世界を輝かせるんだよ。

ということを大上段ではなく、それこそベランダから話しかけるみたいに言ってくるの。
素敵なんだよねえー

ラストにがちゃがちゃ流れるのがなぜか、Metricの"Handshakes"。
Metricってなんでフランスの映画作家にもてるのかしらー?

[film] La Loi du Survivant (1966)

22日から始まっていたシネマヴェーラの特集『フィルム・ノワールの世界』、出張さえなければ全部行きたかったところなのに。 もうあんま残っていないが見れるものから見る、ということで6日の土曜日に見ました。

『生き残った者の掟』、英語題は"Law of Survival"。35mmプリントのでっかさ、がすばらしい。

『冒険者たち』の後日談らしいが、そっちは見ていない。けど、関係なく見れる。
どこかからコルシカの島に還ってきた男が、墓参りして旧友と会って、売春宿に連れていってもらうのだが、そこで出会った女が気になったので、翌日彼女を外に連れ出すの。
彼女は彼と一緒になってリハビリして元気を取り戻していって、他方で組織はむきになって追っかけてくるかというとそうでもなくて、でも最後には決闘があって、過去が明らかになって。

非情とか因果応報とか、そういうのとはあんま関係ないのだが、画面を覆うひりひりした緊張は最後まで途切れることなく、びっくりするくらいよいのだが、変な映画だったねえ。

救いだした彼女がすごい臆病もので、仔ロバが階段から降りてきただけでパニックおこして逃げまくって倒れちゃうの。 ロバは無言で無邪気に寄っていくだけなのに、あのサスペンス演出はなんというか。

彼女が囚われていた屋敷の庭師(でぶ大男)との間の決闘がヤマなのだが、「なんでここまでやるんだ?」って男が聞くと、庭師は「おまえ犬を殺した」って。彼の同僚も「そういうことなのよ」って頷いている。 それじゃしょうがないか。

で、決闘は岩とかがある浜辺で、昼間から夜を抜けて翌朝までえんえんやってるの。立ち会いの連中も焚き火しながら待ってる。道具は拳銃一丁で、それからナイフになって、最後は腕づくで。
だれひとり、バカみたいだからやめねえ? とか言わない。

これの決着がついてめでたしめでたしかと思ったら、更に続きがあって、生き残ったものはなにかと大変なんだなあ、と思いました。

続けて見たのが、"The Red House" (1947) - 『赤い家』ていうの。

足の不自由なEdward G. Robinsonと独り身の妹、養女のメグが暮らしているとこに、メグのクラスメートの男の子がバイトで来るのだが、裏手の森の奥には絶対に行ってはいかん、て言われるの。でも近道だから、って雨の日に通ろうとした彼が見たものはー。
学園モノとサスペンスとホラーが混じったような内容でなかなかすごい。圧倒される。

やっぱしEdward G. Robinsonが怖いんだよう。彼がメグのことを突然「ジニー」って呼び始める瞬間の目とかさあ。

メグ役のAllene Robertsさんが弱々しくて瑞々しくて、かわいそうでいかった。

この後に、"You Only Live Once" -『暗黒街の弾痕』もあったのだが、ついこないだも見た気がしたし、カエルさんとか、すごくかわいそうな映画なので、とばして飯田橋に向かいました。

[film] September 2012

アメリカ行く前の9月15~17の間に見た映画、少しでも書いておかないと忘れてしまうので、少しだけ。

次の3本は9/15, アンスティチュのRaoul Ruiz特集から。

Klimt (2006)
死の床にあるクリムトを弟子のエゴン・シーレが見舞い、そこで回想されるあんなことこんなこと。
淡々と理想のエロ画を追い求めつつ、社交界にデビューして有名になって煩悶して、そんななかでも、ガラスの向こう側とこちら側で見ているものと見られているものの関係が転覆したり転移したりという、Raoul Ruiぽいテーマが描かれている。
そういう混沌の渦とともに現れたヨーロッパの近代、そこから逆照射される人間の精神とか幻想とか野性とか野蛮とか。
でも、ふつうの「クリムト伝」を求めてきたひとにはきついかったかも、と思った。
画面には出てこなかったけど、カフェで喧嘩していたウィトゲンシュタインて、青本のウィトゲンシュタイン?
あと、Klimt役のJohn Malkovichはよいのだけど、やっぱし英語はしゃべってほしくなかったかも。

Ce Jour-là (2003) 『その日』  英題は"That Day"
スイスのどこかで大きな館を相続することになっている娘さんがいて、彼女は精霊さんとお話しできてしまうようなセンシティヴな不思議さんで、それを面白く思っていない親族のじじばば共が、精神病院にいた凶悪犯(中年、男)を送りこんで抹殺しようと企むのだが、顔をあわせたふたりは天才バカボン的に波長があってしまい、男のほうは館にやってくる客人を頼まれもしないのに端から血祭りにあげていくの。
筋だけ書くとホラーみたいに見えるが、実際は変な具合におかしくて、ふたりの意思が通いあってそういうことをしているわけでも、明確な悪意があって殺しをやっているわけでも、また殺される側もそんな悪いひとたちでもなく、妖精さんの仕業のように見えてしまうとこが、なんかすごい。
人が悪かったわけでも、その時だったからというわけでも、その家だったから、というわけでもない。 ただ、そういうことが起こって、びっくり、ていうそんな一日のおはなし。

狙ったわけではないのだろうが、無表情なコメディとしてなかなかおかしくて、めっけもんだった。

Le Temps Retrouvé, D'après L'oeuvre de Marcel Proust (1999)  『見出された時』 158分。
"Klimt"と同じく、死の床にあるプルーストが過去を振り返って、走馬灯のなかに失われた時を見出すおはなし。
原作は小説という形式でしかありえない内容をもったものなので、これを映画という形式で表わすにはこういうふうにするしかないんだろうねえ。
実際に死の床についたことがないからわかんないけど、クリムトにしてもプルーストにしても、よくもあんなブリリアントなイメージが蘇ってくるもんだねえ。 最後の最後の瞬間に、ほんとゴミみたいな記憶がぽこっと湧いて居座ったらどうしよう、ていつも思うの。しょうもないけど。

あと、わたしはジルベルト派ではなくてアルベルチーヌ派なので、その辺がちょっと不満だった。
サン=ルーも、あんな猿みたいのじゃないはず、とかおもった。

あと、"Klimt"見てこれ見ると、Raoul Ruizって、エロを描けないひとなんだねえ、と思った。
そこがなあー。

Mirror, Mirror (2012) 『白雪姫と鏡の女王』
16日に新宿で見ました。

おもしろかったー。 でもこれ、アニメでもよかったかも。ディズニーのキャラそのまま使って。
前半はあんましだが、後半、小人共に教育されて目覚めていくあたりからぐいぐい面白くなってくる。
でも、時間が経ってしまった今、自分のなかでは"Brave" - 『メリダとおそろし…』と混じりあってどっちがどっちだったかわからなくなっていることがわかった。
どっちも森はおそろしで、ママが嫌なやつで、小人とか熊とかがちょろちょろしてて、みたいな。

王子さまの彼って、"The Social Network"の双子のひとだよね。 
実際に大金持ちのお坊ちゃまなんだよね。 いいなー。

Rebecca (1940)
17日、日比谷の午前10時で見ました。

お金持ちのばばあのお手伝いをさせられてた女学生が別の大金持ちに拾われて結婚して彼のおうちに行ってみたらすんごい邸宅(Manderlay)で、でも彼の亡妻の影とか遺物とかがいろんなとこにあって誰にも相手してもらえなくてうんざりして、もうやだ、になったとこでなかなかとんでもない事実があきらかになる。
お金持ちってたいへんだよねえ、というのもあるが、旅先で知りあってそのままちゃらちゃらついて行っちゃった女学生も愚かだったのよね、とかおもった。
誰ひとりとしてかわいそうじゃないので、安心してぐいぐいひきこまれる。おもしろかったねえ。

Intouchables (2011)  『最強のふたり』
17日、"Rebecca"のあとに見ました。 大金持ちドラマ続き。

ふたりがひとつの画面に映りこんでいるとこ、このふたりがUntouchable、というよりそれぞれのUntouchableな過去や現在がきちんと描けているがゆえのふたり、であるとこがよいの。
あと、音楽がよくてー。 空を飛ぶとこで流れるNina Simone とか。
あのあんちゃんは、あのいでたちでEarth, Wind & Fireはないんじゃないか、Hip Hopのほうだろ、と思ったのだが、最後にちらっと映った御本人の姿をみて少し納得した。あれなら。

10.09.2012

[film] Katy Perry: Part of Me (2012)

1日の月曜日の夕方に帰宅して、そこからの火水木金はほんとにほんとうにしんどかった。
で、金曜の晩に脱出・逃亡して六本木でみました。

この一週間前に、Ingrid Cavenのライブフィルムで魂が震える感動を味わっていながらこんなしゃかしゃかしたのに行っていいのか、というのは若干あったのだが、とにかくそれくらい疲れていたんだよう。

この晩の六本木、裏ではかのゆーめーな"Magical Mystery Tour" (1967)とかもやっていたのだが、あれに行くんだったらまだこっちでしょ、とか。

(日仏- じゃないアンスィチュのシャンソン特集があったことを後でしる。 こっちにすべきだったか)

こないだ見たGleeのライブの3Dと基本は同じ(安心のMTV)フォーマットで、最初に熱狂的なファンのコメントと開演前のわくわくがあって、これでもかーという怒涛のオープニングがあって、曲の合間にいろんな苦労も含めたライブのの舞台裏を見せて、それでもこんなに沢山のファンがいるんだからがんばれ、ってエールが入って、みんな納得の、感動のフィナーレになだれこむ、という -。

曲の途中で平気で切ってコメント入れるし、なんで3Dにしているのかぜんぜんわからない。

それでも、こんなでも、この娘さんにはなんか惹かれる。
Lday GagaとかNicki MinajとかJustin Bieberとかは未だにどこがいいのかぜんぜんわからんが、そんな美人でもないし、スタイルもずん胴のこのひとが風車とか電飾を体中にいっぱい貼りつけて自分自身もくるくる回ったり跳ねたりしながら「あなたはわたしの花火なの~」とか懸命に歌っているのを見ていると、なんともいえないかんじになる。

しかもこのおねえさん、"Get Him to the Greek" (2010)を見てRussell Brandに惚れてしまったのだという。 たいしたタマじゃねえか。
だって、あの映画のRussell Brandはまじでほんとにかっこよいのだから。

映画ではツアー中の彼との悲しい別れとかも描かれてて、ステージの直前まで丸くなってぐずぐずめそめそしているのだが、ぜったいだいじょうぶだなこいつ、と思っているとほんとに立ちあがって歌いはじめる。 わざとにしても冗談にしてもあんたかっこいいわ、といおう。

あと、Alanis Morissetteが当時のお嬢さんたちに与えた影響って大きかったんだねえ、と改めておもった。

[log] New Yorkそのた - Sep 2012

続いて、New Yorkでのあれこれを -

レコード関係ですが、Other Musicで、渡米の2週間くらい前にTwitterで80年代の中古がいっぱい入ったよ、ていうのが出て、あーあ、だったのだが、その残骸、食い散らかしたあとみたいなやつが、でっかい木箱にそのまま置いてあった。 たぶんいいやつはもう取られてて、あるのはほんとに半端なやつばっかしだったのだが、自分の持ってるやつも相当あって、持ってないやつも相当あって、持ってないやつのなかには当時どうしても1250円(12inchシングルのだいたいの値段)出せなかった呑酸的記憶が蘇ってくる奴らがいたりしたので、そういうのをいくつか救ってあげた。 しょうもない。

Williamsburgのほうは、Melvinsの7inch 1枚だけ。 でも1枚あたりのお値段はこれが一番高かったかも。

お食事関係の、新規開拓はあんましなかったかー。

LT Burgerっていう、BLT系列をやっていたLaurent Tourondelのバーガー屋さんがBryant Park沿いにできてた。
BLTのバーガーは一時期トラックでやっていたのだが、こっちに集約されるのだろうか。
バーガーは普通においしい、けどそれ以上にミルクシェイクがとっても危険な風味だった。
Laurent Tourondelさんは、BLTをやりだす前、77thで"Cello"っていう小さいフレンチやってて、個人的にはあれがいちばん恋しいんですけど。

あとは、Osteria Moriniのパスタとか、Breslinの肉塊とか。 
あと、Lincoln CenterのBroadway挟んだ反対側にいつの間にかDaniel系列のお店が3つできてて(Bar Boulud, Épicerie Boulud, Boulud Sud)、なんかイラついたのでぜんぶ制覇しといた(Bar… だけ昔行っていたので残りふたつ)。 
Take out&立ち食い立ち飲みのÉpicerieとか、そりゃ悪くないし、ジェラートとか嬉しいけど、高いよね。

帰りの飛行機は、ほんと死にそうにへろへろで、機内でWiFiできますけど、とかクーポンを配りにきたりしたのだが、頼むからそんなサービスやめて、安らかな眠りを妨げないで、ってお願いした。 というわけで映画は1.5本だけ。

まず、行きの便で54分くらいの地点まで見た"The Lucky One"の続きを。
最大の懸念は、親権を盾にねちねち因縁をつけてくるex.夫の攻撃をどうかわすのか、どう決着をつけるのか、だったのだが、意外なほどあっさり、自然災害がお始末してくれたのだった。 こんなんでいいのか? て少し思ったけど、そうか、だから"The Lucky One"なのね。

あとは"Dark Shadows"をついに。
…やっぱし映画館で見るんだったわこれ。 
約200年に渡って、国を跨いでえんえん続けられるSM合戦。 魔女狩りというオカルトも、屍体発掘~蘇りというホラーも、なにもかも70年代ぽいどたばたSMに回収してしまうお茶目さがすばらしい。 しかもぜんたいは大真面目だし。
Eva Greenもすばらしいが、やっぱい銃をぶっぱなすMichelle Pfeifferだよねえ。
ああ、このノリで"The Addams Family"をリメイクしてくれないかなあ。

そして、" Frankenweenie"もう公開なのね。 「ふらんけんうぃーにぃー」って声にだすときもちよい。

昨晩行われたNYFFのシークレット上映(ただしまだ未完成)、今年はSpielbergの"Lincoln"だった。(昨年の同枠は"Hugo")。
なんか、みなさんありえない大絶賛ぶりなんですけどー。

[log] Seattleそのた - Sep 2012

シアトルでのあれこれについて少しだけ。

19日の夕方についてから22日の朝7:00に出てしまうまで、2日と少ししか時間がなかった。 とってもなかった。
更に、New Yorkに移動することも考えるとでっかい本とか12inchとかは決して買ってはならないのだった。 けど。でも。

19日の夕方5時にホテルに着いて、翌朝からはお仕事が始まってしまうので、動けるとしたらこのタイミングしかない、ということでレコード屋さんにいってみる。 前々回に行ったSilver PlattersとかEasy Street Recordsとか、あのへん。 時間ないからTaxiで。

Silver Plattersは、アナログのスペースは2割くらいなのだが、全体がじゅうぶんでっかくて、DVDだけじゃなくてLDとかもまだ置いている。
12inchはがまんしろ、がまんするんだ、とつぶやきながら見ていったのだが、Boris Karloffさんが朗読する「みにくいあひるの子」のジャケットがたまんないかわいさだったので、「これは音楽じゃないからいい」というバカな理屈をつけて買ってしまった。
あとは7inchで、NINとMarilyn MansonのSplitとか変なのがあったので買った。

Easy Steet Recordsもなかなか果てしないとこなのだが、ここでは7inchしか買わなかった。
Mark Laneganさんのむかしの7inch "Down in the Dark"、Background Vocalに"Kurdt Kobain"て印刷してあるやつとか。 
あと、ツアーでしか入手できないと思っていたMission of BurmaとWild FlagのSplit 7inchがあったのでそれも。

金曜日の夕方、晩御飯まで1時間くらい時間ができたので、Capitol Hillの界隈に歩いていった。
いちばんの狙いは、The Elliott Bay Book Companyに行ってみることで、やっぱしここはすごくよかった。 木造で、奥にCafeがあって、奥に分け入っていくにつれて、ああだめだこの本屋だいすきかもと胸の鼓動を抑えきれなくなり(レコード屋は好きになるのに時間がかかるが、本屋ってひとめぼれ系が多いよね)、あと2時間くらい籠りたくなってきたので、Molly Ringwaldさんのサイン本だけ買って外に出ました。 (Mollyさんのサイン本は、McNally Jacksonにもあったの...)

Elliott Bayの道路はさんで反対側にEveryday Musicていうこれもでっかい倉庫みたいなレコード屋があったのだが、いいかげん気持ち悪くなってきたのでひと周りしただけで出る。
でもその帰り、E Pine st沿い(この通り沿いには素敵なお店がいっぱいあった)のレコード屋兼古本屋(名前、探しているのに出てこない)で、つい12inchを2枚だけ。 

いっこがAlan Lomaxさんが採取したAmerican Folk Musicの選集、もういっこが北アメリカのカエル、っていうカエルの声を採取しただけのレコードなの(ちゃんとしたカエル解説のパンフがついてる)。 どちらもLibrary of Congressのレコードなのでちゃんとしたやつ、だとおもう。
カエルのは交尾のときの声とか入っているので、通関のとき少しひやひやしたけど、OKでしたわ。

あと、木曜日のお食事の前、レストランの近所のSonic Boom(前回行ったレコード屋)のとこで降ろされて、ほれ、10分だけやるから走ってこい、と犬のような扱いをされ、しょうがないので7inch 3枚くらい(HeatmiserとかBeat Happeningとか地場寄りの)を買った。
で結局、なんだかんだで12inchと7inchを抱えて飛行機移動することになったのだった。

お食事は、Bastille (http://bastilleseattle.com/)っていう、前回入れなかったとこを執念で取ってもらって、入った。
屋上に菜園があって、お皿の野菜はここから直で出しているそうな。 なので、ビーツのサラダはすんばらしー美味でした。 あと、ここはラム料理でずっと賞を取っているとこらしく、ラムのソーセージがとっても。

ここでお食事をしているときに、通りの向こう側に変な乗り物が止まってて、なんだあれ、と議論になったのがあって、後で調べたらこれだった。

http://www.thecyclesaloon.com/

たとえば、酒飲んでペダル漕ぐのって、酔っ払い運転にならないのか、とか。 そもそもリカーライセンスとか大丈夫なのか、とか。
でも、そのまま家まで送ってもらえるなら楽でいいな、とか、酔っぱらってげろしてもそのまま逃走できるよね、とか。
そういう議論しているうちにそいつはどこかに走っていっちゃったのだった。


10.07.2012

[film] Looper (2012)

29日の土曜日、"Ingrid Caven…" が終って、いいかげんへろへろだがあと1本は見よう、と。

これにするか、同じく金曜日に公開されたばかりの"Pitch Perfect"にするか悩んで、RPXていう音のでっかいシアターで見れるのと、昼間にタイムトラベル映画見ているのでついでに、ということでこっちにした。 ほんとに僅差だったの。 で、Times SquareのRegalに向かう。

22:40の回で、CMが終って予告が始まるまでの間、係のひとがいないのか5分くらい画面がフリーズしてた。 あんなでっかいスクリーンで死んでるWindowsの画面みたのはじめてだった。 (誰かがWindows98じゃねえの? て野次ってた)

さて、るーぱー。 2042年、30年後の未来から時間のトンネル抜けて落っことされてきた下手人をその場で射殺して葬り去ること(悪いのは元から絶たなきゃだめ)をお仕事にしている人たちがいて、そのひとり、Joe(Joseph Gordon-Levitt)がある日のお仕事に行ったら、そこに落ちてきたのは30年後の自分(Bruce Willis)だった、と。

評判よいみたいだし、途切れずによく出来ているとは思いました。損した気はしないことでせう。
でも、30年後にありえているかもしれないこんなタイムトラベル・サスペンスのために相当きっちり考え考え作り込んでいるので、この世界観、時間観に乗れないひとにはきついかもしれない。
Bret Easton Ellisさんは我慢できずに途中で出てしまったそうだが、わからないでもない。
負け惜しみで「ループしてんのはてめえの頭んなかだ! 時間はループしねえんだよ!」くらいのことは言ってあげたくなる。

それでも見る気になる理由があるとしたら、30年後の自分だと言ってBruce Willisみたいなしおしおのハゲが現れたらふざけんじゃねえお前なんかおれじゃねえ、ってぶっ殺したくなるだろうし、30年前の自分を目の前にしたらこんなちゃらい洟垂れがもうちょっと思慮深かったらこんなことには、ってぶっ殺したくなる、その辺のぐしゃぐしゃした苛立ちみたいなのは共感できるからー。

ていうかそこ(慢性的な自殺衝動 - 傾向)に焦点あてて見てたほうがおもしろい。 あんま正しい見方とも思えないけど。

あとは、Joseph Gordon-Levittさんの仕事仲間であるPaul DanoとかNoah Seganといった若い人たちがみんな一生懸命がんばっててすばらしいのと、Emily Bluntさんがえらくかっこよいことだろうか。
時間軸のことを考え始めると筋に集中できなくなるから仕方なく演技とかディテールのほうに目が向いてしまう、というのもあるのだろうがー。

音もすごいし、ちょっと事情がふくざつなギャング映画として見ればそんな悪くなかったかも。

しかし、1時過ぎのTimes Squareって、なんかすごいことになってた。

10.06.2012

[film] Ingrid Caven, Musique et Voix (2012)

29日の土曜日、NYFFの2日目18:30、"Camille Rewinds"の後で見ました。
監督は「ある娼館の記憶」(2011)のBertrand Bonello。
英語題は、"Ingrid Caven: Music and Voice"。

上映はでっかいメインのホールではなく、少し離れたとこの小さなシアターで、そこの前にRichard Peñaさんがいたのでやったあ、だった(この映画は当たり、ということ)。 その後のお手洗いでも彼の横に並んだので、お礼を言って握手をとか思ったが、恥ずかしがりなのでだめだった。 それにお手洗いだし。

お客さんは20人くらいだったか。
ほんとは監督もVideoでトークに参加する予定だったが適わずとのことで、代わりにPeñaさんが語ったところによると、監督が彼女のライブを見て、すごく感動したのでその場で翌日のライブのシューティングをお願いしたらOKが出て、それを撮ったのだが、公にするつもりはなくて、編集したのをIngrid Cavenさんにプレゼントしたのだそう。 それを気にいったCavenさんが、自宅のパーティかなんかで知り合いにちょっと見せたところ、すごいじゃんもっと見せろ見せろ、ということになってロカルノ映画祭かどこか(たしか)で公開したら更に評判になって、ここまで来ました、と。

ものすごく失礼な話しなのだが、わたしはまだ彼女が現役のシンガーとしてライブをしているなんて知らなくて、もう亡くなられたのか、或いは『トスカの接吻』みたいなことになっているのかと思っていた。 しかし、1938年生まれで、撮影がたしか2009年頃、と言っていたので、70歳は超えていたことになる。 ありえない。 しかも2日目でこれか。

カメラはいくつかあるみたいだが、アングルはほぼ固定、編集はPCで、クレジットもPCのフォントのまま、ナレーションもコメントもなにもなし、ライブの始めから終わりまでをざっくり撮っただけ。 演者の圧倒的な歌とその世界がずうっと流れてくるだけ。

ピアノとドラムスをバックにドイツ語の歌、フランス語の歌、英語の歌、スタンダードとかシャンソンとかキャバレー艶歌とか(あとでクレジットをみたらFassbinderの書いた曲もあった)、全く途切れることがない。 まずはその途切れないことにびっくりして、こわくなってくる。

特に、終盤の「アヴェ・マリア」以降の走りっぷり - アンコール2回 - はありえない。
音楽のライブ、というよりは彼女が出演した映画の世界を凝縮してその声で訴えてくる、世界の光も闇も表も裏も、西欧のどんな国にも、それらすべてに響き渡る声、それらを代表する声としてフィルム上にあったあの声、強い声、愛する声、切々とした声、震える声が現れる、というか。 

ライブフィルムって、これで十分なんだとも思った。


10.05.2012

[film] Camille Redouble (2012)

NYFF、オープニングだけじゃつまんないので、少しは他のも見ておきたい、と。

英語題は、"Camille Rewinds"。 これがNorth American Premiere。

この日、他に盛りあがっていたのは晩にかかった、Brian De Palmaの新作と、リバイバルだとストーンズの"Charlie is My Darling" (1965)とか。

40代後半(おそらく)のCamilleは夫と離婚手続き中で、家を出ていく出ていかないで喧嘩ばかりしてて、そんなある日、高校の友達んちのパーティに行って、仲良し4人で飲んで歌って踊っているうちに気を失って倒れちゃって、目覚めてみるとそこは高校時代の自分の部屋、自分は16歳になるところ(Sixteen Candles!)なのだった。

監督のNoémie Lvovskyが主演のCamilleをやっている。

こんなの、日本のしょーもないドラマとかでいくらでもありそうな設定なのだが、おもしろいのは、Camilleの容姿体型はおばさんのままで、でも周囲にはそうは見えないらしい、と。 おばさんだけど、洋服は80年代のああいう恥かしいのしかなくて、それをおばさんが着ておばさんがどたばたする。 (サイズはだいじょうぶなのか、と少し思った)

彼女の部屋に貼ってあるポスターはBelle StarsとかFlash Dance(映画)とか"True Blue"のMadonnaとか、そんなの。
音楽は、みんなで振りをあわせて踊る"Walking on Sunshine"(いいよね〜)とか、自転車Walkmanで"99 Luftballons Rock"とか。

で、この高校で彼女は夫と出会ってファーストキスをしてやがて結婚することになる。 でも未来から落ちてきた彼女は、そんなことしたら同じ痛い過ちを繰り返すことになるのであかん、ということがわかっている、だから一応じたばたしてみる。

あと、彼女はこのころに母親を突然の病気で亡くしてしまうので、それをなんとか防げないかと思って焦りまくる。 母親の声をテープに録ってみたり、病院で検査を受けるように勧めたり。

こういうタイムトラベルものって、自分にとっての「現在」とのギャップをなんとかしようってがんばるのと同時に、他人とか「現在」に影響を与えないようにせねば、と取り繕うところで倍のじたばたが加味されて、そういう全体の狂騒状態がおもしろいのだと思う(たぶん。おもしろいと思ったことあんまないけど)が、この作品のCamilleの場合、これは夢でわたしはそこに落ちているだけだ、というのが彼女のなかではっきりしてて、過去から現在を救うことができないことを、(口には出さないけど)彼女は知っている。 "Slip"ではなく"Rewind"。

だからこそ、母親が床に倒れる音を聞く彼女の後姿は、とってもせつなく、悲しい。
そこからさらに、過去を変えられないが故に獲得できる現在の自由、ここからの未来の豊かさ、のようなところに目覚める終盤が大人で、おばさんだけど大人で、すばらしいの。

印象として近いのは、『秋日子かく語りき』かなあ。 あれはタイムトラベルものではないけど。

Jean-Pierre Léaudが、主人公に呪い(?)をかける怪しい老人を見事に。
そしてMathieu Amalricが、があがあやかましい変な高校教師役でちらっと出てきます。

[art] Regarding Warhol: Sixty Artists, Fifty Years

29日の土曜日、さいごの休日。
この日はCentral Parkの原っぱで、グローバルうんたらによるでっかいライブイベントがあるはずだったのだが、これに関わると約半日ふっとんでしまうので諦める。 時間がないの。

朝9:30、Metropolitanの開場に合わせて中に入り、前回登れなかったルーフトップのジャングルジムみたいなやつ(Tomás Saraceno on the Roof: Cloud City)に再度トライしてみよう(チケット早いもの順)、と思い屋上行きのエレベータのとこ行ったらおばさんに、今日はルーフトップ開いてないの、と言われる。 ものすごくしょんぼりしたらおばさんに後ちょっとしたら開くかもしれないし、と慰められたが、おばさん、ぼくには時間がないんだってば、と返した。

もういっこ見たかった展示がこれ。
Andy Warholがポップアートみたいなことを始めてから50年、彼がモダンアートに与えた影響と拡がりを60人のアーティストの作品と共に振り返ってみましょうか、と。 こういう展示ってMOMAじゃないの? かもしれないが、Metropolitanのほうが、こういう大風呂敷寄りのキュレーションは優れているの。

5つのテーマ別 - ①日常(Daily News: From Banality to Disaster) - ②肖像(Portraiture: Celebrity and Power) - ③変態(Queer Studies: Shifting Identities) - ④消費(Consuming Images: Appropriation, Abstraction, and Seriality) - ⑤ビジネス(No Boundaries: Business, Collaboration, and Spectacle) に部屋が別れていて、これらを渡っていくことでここ50年、世界に浸透したPopという概念、というかアトモスフィアというかが、赤ん坊でもわかるようになっている。 たぶん。

Warholの作品も含め、どいつもこいつも、あれもこれも、超有名なやつばかりなので楽しい。 びっくりしたり痺れたり唸らされたり、ということはあんまなくて、どちらかというと動物園をまわっているかんじに近い。 こいつ見たことあるー、ゾウ-でっかいねえ、ライオン-おっかないねえ、ヘビ-きもちわるいねえ、そんなふうな。 で、Warholは、アートに対してこういうことをやろうとしたのだろう。 たぶん。

じゃらじゃらした金持ちふうのおかあさんが子供を連れて肖像のコーナーを回ってて、こいつがおかしくて。
「このひとは大統領夫人だったの... でももう死んじゃったのよ、このひとも... しんじゃってるわね、やーね死人ばっかしね... これは猿じゃないのよ、マイケルよマイケル …死んじゃったけど」  で、次の変態コーナーにきたら「... さ、ここは飛ばして次に行くわよ」 だって。

とにかく、モダンアートのビッグネーム、ミリオンセラーが出るわ出るわ。 この展示全体の資産価値総額はとんでもないものだったのではないか。 それを、ばっかじゃねーのこんなもんに、と誰もが言えるようなところまで持っていったのね。 
こうして、ケミカルな駄菓子をくちゃくちゃしているうちに頭がぼーっとしてくるあのかんじと共に、アートが資本主義の化け物に変態していったここ50年を俯瞰することもできるのだった。

最後のコーナーが、アルミの風船雲が浮かぶ"Silver Clouds"で、朝早かったので風船を天井に向かって浮かべようとしているとこだった。
係員のおじさんとふたりでVelvetsの"There She Goes Again"に合わせて、風船をつっついて上にあげるお手伝いをした。 とーってもたのしかった。

で、そこを出て、Café Sabarskyでウィーン朝ご飯食べてから、川を渡ってMoMA PS1のNY Art Book Fair 2012に行ってみる。

去年から行ってみたかったイベントだったのだが、それなりに覚悟というか、心構えが必要で、撤収条件をつくって、即時撤退するか、だらだら居続けるかどっちかしかない、と。 だらだら居続けることにしたら、午後以降の映画の予定とかもひっくり返さねばならないし大変だわ。

入場はタダだが、カンパおねがいー、と言っているので$2くらい入れる。
もともと学校だった場所なので、教室みたいなスペース内に中小いろんな出版社だの本屋だのがびっちり文化祭みたいにブースを出している。

紙(含.屑)好き、インク好き、雑誌好き、地下出版物好き、にとっては蟻地獄、無間地獄いがいのなにものでもありませんでした。
日本のこういうのはZineフェアみたいのでも、古本市でも、なんか雰囲気がなじめなくてあんま行く気にならないのだが、こっちのだとそもそもツーリストの異邦人として、てきとーに見てまわれるから気楽でよいの。 

であるがそれにしても。

稀少本は当然のようにガラスケースとかに入っているのだが、砂場の砂みたいに掬っても掬ってもあるわあるわ。
昔のSearch & Destroy Magazineがひとつ$250、Ryan McGinleyのぺらぺらのパンフみたいなサイン本が$1250、地下のスペースでやってたMike Kellyに捧げる展示(彼の本棚、みたいな)のとこにあったサイン本が$6000、Jerry Wexlerのサイン本が$1250、などなどなど。
たぶん、いっこ買ったら他も芋づるだし、でもそれやりだしたら一網打尽のすっからかんだし、1時間くらいうじうじ悩んで、頭がへんになりそうだったので結局本を買うのはやめた。

ひとつだけ、12:30からMalcolm Mooney氏のサイン会がある、と貼り紙があって、そこで12inchを1枚買ってサインしてもらった。
だって、CANの、初代ヴォーカリストだよ。 12:30過ぎに行ってみたらぜんぜん人がいなくて、しおれたおじいさんが座っているだけだったが、サインをもらって少し話した。 今はカナダに住んでるとか、日本だとP-Vineてとこから出してるんだけど知ってる?(もちろん知っていますよ)とか。 その声は、まぎれもなく、あの、"Yoo Doo Right"の、"Father Cannot Yell"の、あの声だったの。

で、2時少し前くらいに出て、Lincoln Centerのほうに向かいました。

来年は札束でガラスケースをぺしぺし叩いて一頭買いしてやるんだ。

10.04.2012

[film] Life of Pi (2012)

これのタイトルを得意げに「ライフ オブ "ピ"」と連呼しているひとがいたが、それはもちろんまちがいなので念のため。

しかし、それにしても、狙ったわけでもなんでもない、ただ出張で来ているだけなのに、NYFFのオープニングに3年連続で居合わせることになろうとは。 去年のときは、わーい2年連続ラッキーと喜んでいただけだったが、さすがにちょっとこわい。 これで運を使い果たしたくない。

例年通りStand-Byの列に並ぶつもりでいたのだが、朝から降ったり止んだりのよくない天気だし、体力もしんでいるのでしんどいーと思って朝Webを見たらチケット売っていた。 で、買おうとしたら1枚$100よ。 ええー、だったが、50周年のお祭りだし、御祝儀込みでいいや、と買ってしまった。

9:00pmの回。 初回は7:00pmの回だから、厳密にはほんもんのWorld Premireではないのだが、それでもお祭りはお祭り。

50周年を記念したオープニングのスピーチでは昨年、NYFFのSelection Committee Chairを辞めることを発表した Richard Peñaさんのが感動的だった。
こないだのVillage Voiceにもこの人がある年のNYFFの開催直前にJia Zhangkeの"Platform"を発見して、プログラムに強引にすべりこませたエピソードが載っていたが、このひとが巨体をゆすって嬉しそうに前説をする映画に外れはなかったの。
ほんとうにありがとうございました、と。 (でもその翌日、平気で前説している姿が... Chairmanをやめただけだったのね)

その後にスピーチをしたAng Lee監督は、えらくふつうのおじさんに見えた。(オーラみたいのがばっさりと、ない)

冒頭に流れるNYFF50のTrailerが例年通りすばらしい。 最後にこっちを見てにっこりするのは、ルーズベルト大統領なの。



さて、「ぴ」。製作に4年をかけたという3D超大作、であるが、圧倒的な「大作」感はあんましない。
まず、冒頭に出てくるいろんな動物 - ナマケモノのまわりにハチドリとか、前景にブタその後ろにカバ、とか、そういう桃源郷映像にやられる。

動物好き、動物園好きのひとは見に行って損はない。 BBCのドキュメンタリーの驚異の映像!とかいうのより、ある意味感動した。

インドで動物園を経営するお父さんお母さんお兄ちゃんと幸せに暮らしていたパイが、家族でカナダに移住することになって動物一式ごと日本船籍の船に乗って引っ越しの旅にでる。
そしたら海のまんなかで大嵐にあって海に投げ出され、目の前にあった救命ボートに逃げこんだらそこに乗っていたのはシマウマ、ハイエナ、オランウータン、そして... トラだった。 あとのみんなは船ごと沈んでいってしまうの。 

"We Bought a Zoo"ではなくて、"I Lost a Zoo"なの。 かわいそうにー。

ノアの箱舟かと思いきや、そこからさきは諸行無常と忍耐の旅で、最後に残ったトラさん(彼の名前はRichard Parker)とにらめっこしつつ、救命ボートにあった保存食を細々と食らいながら命をつないでいく。 (しかもこいつ、ヴェジタリアンだから魚とか食べれねえの)

"Hulk" (2003)で人の肉体の限界超えを描き、"Brokeback Mountain" (2005) で山男同士の一線超えを描き、"Lust, Caution" (2007)で体制側反体制側の一線超えを描いたAng Leeであるから、今回はまさか人と獣の一線超え... があるかもしれないと期待したのだが、それはなかった。
トラが突然しゃべりだしてくる、とか、どうぞわたしをお食べくださいと身を投げだしてくるとか、少しだけ期待したのだが、あとちょっとでしゃべりそうでしゃべってはくれなかった。

ただ、見てもらえばわかるが、これはこれで十分一線を超えた、ひ弱な少年のAmazing Journeyであって(法螺話、ともいう)、ありそうでなかった3D電子曼荼羅、なのだった。 
作りものであることを十分にわかったうえで、それでもひょえー、とびっくりするしかない。

地球を半分ぐるりとまわるスケールをもっていながら、ありがちな愛と感動のフィナーレうんたらに持っていかないところはえらいと言おう。
これに感動して泣けるひとはよっぽどポジティブな(うざい)ひとだとおもうわ。

それにしても、トラってでっかい猫だなあ、と改めて思った。 あの顔の模様とか、見れば見るほどおもしろすぎる。 ほしい。 でもあんなに山盛りのミーアキャットは、いらない。

それにしても、Gérard Depardieuは、あんなとこでなにしてたのかしら。

[film] Dial M for Murder - 3D (1954)

27日木曜日の晩は、いちんちくらい仕事のおつきあいをちゃんとせねば、と思って備えていたのになくなってしまった。
しかたがないので、Williamsburgに出て、猫店ふたつ(レコード屋と本屋)をまわって、マンハッタンに戻ってOther Musicで遊んでいるうちにMercury LoungeでCorin Tucker Bandのライブがあったことを思い出したのだが、体力的にちょっと無理かもと弱気になり、結局Film Forumに篭ってこれ見ました。 『ダイヤルMを廻せ!』 (よくみると変な邦題かも)

今回の滞在中のFilm Forumは見たことあるやつばっかしでちょっとがっかしだったのだが、そういえばこれは見たことなかった。 こんなクラシックすらも見たことねえの。

元々当時の3Dで作られた作品で(それすら知らなかった)、これをデジタルリストレーションした。 ついでに3Dのとこも、どうやってやるのか見当もつかないけど、今の3D技術のそれに焼き直したと。 だから配られたメガネも、Dolbyのちゃんとしたやつだった。
デジタル化には相当苦労したそうだが、これがNew Yorkのみ、9日間だけ上映されると。

50年代の夢のような総天然色が3Dになって目の前に。 冒頭のGrace Kellyのドレスの滲んだような赤が、それはそれは生々しく美しく迫ってくるの。もちろんGrace Kellyのつーんとしたのも。

こういうデジタルプロジェクションもあるのだねえ、と思いました。
ダイヤル"M"のとこのへっこんだ質感とか、なんといっても惨劇の場面のこっちにぴーんと伸びてくる彼女の手指とか、唸らされるのだった。

お話しのほうは、いろんな男達がよってたかってGrace Kellyをいじめまくるやつで(だから"M"なのか)、3Dのなかでは彼女ひとりが突出して浮かびあがってみえるから、嫌疑をかけられたってしょうがないか、とか。
それ以外は会話がやたら多くて眠くなるのだったが、それもヒッチコックの手のうちだったということで。

とにかくこの3Dは必見だと思いましたの。

10.03.2012

[film] The Master (2012)

25日、火曜日の晩にEast Villageで見ました。
65mmという割と希少なフォーマットで撮影された作品で、マンハッタンでは3箇所のシアターで70mmプリントでの上映がされていて(先週時点)、そりゃ70mmで見るでしょ、ということでそれを見ました。

冒頭の青緑色に泡立つ海の描写で完全にやられる。 すばらしい肌理、デジタル上映だったらここはこう潰れちゃうだろう、みたいなのが素人にもわかるような見事な色立ち。 これだけで十分、でもあった。
カメラはCoppolaの"Tetro", "Twixt"(ヴァージニア)を撮ったMihai Malaimare Jr.(PTAと組むのは初めて)。 
フィルム上映で見た"Tetro"はすごくよかったので、"Twixt"もフィルムだったらもう少し印象が違うものになったのかもしれない。

Production Designは、前作の"There Will Be Blood"(2007)と同様、Terrence Malick組のJack Fiskさん。
でも今回は、前回の油井管大爆発のような大きなスペクタクルはない。
でも爆発寸前ぎりぎりのテンションがずっと続いて途切れない。ひたすらこわい。

Joaquin Phoenixが二次大戦からの帰還兵で、戦場にいたころから挙動が変で、カウンセリングに掛けられてもやっぱし変で、現像液とか洗剤とかコップに入れて真顔でごくごく飲んじゃうし、突然ぶちきれそうだから街でぜったい目を合わせたくないタイプの狂ったひとで、行き場を失った彼をPhilip Seymour Hoffmanのファミリーが(というかPSHが)受け入れる。

当初はサイエントロジーがモデルの、新興宗教が舞台のはなしと聞いていたので、JoaquinとPSHが"There Will Be Blood"のラストのような血みどろの惨劇になだれ込むのかと思っていた(だれもがそう思うだろう)が、違っていた。
40~50年代、戦後の混乱期に正気を失った男が"The Master"の懐に一瞬自身の居場所を見出す、あるいは師弟の、あるいは父子の絆にー。
ひょっとしたらそれは新興宗教ですらないのかもしれない、という微妙な場所で、同じ考えかた、同じ感じかたをするふたりの男が出会う。

戦後の歪みが道端に弾きだした魂をフィルムノワール的な光と闇の犯罪絵巻に落としこむのではなく、青緑の海、その泡立つ渦のなかに溶かしこもうとすること。
スピリチュアルな救いも癒しもありえなかった時代、誰もが迷える子羊だった時代に、人はどうやって生き延びようとしたのか。

"There Will Be Blood"は、足元を掘ることで懸命に生きようとした時代のお話しで、今度のはひたすら地面を這いつくばって転がっていくお話し。 そしてその横滑りの果てに、点と点は離れていくことになるの。

しかし、全体ががちがちにきつくて決して明るいトーンではないのに、見終わった後にほんのり優しいかんじが漂う。 それはなんなのか、かえって不気味だったりもする。

Joaquin Phoenix はこわいくらいすさまじい。 なで肩で、針金を埋めこまれて顔も歪んできしきしした姿勢で猿人のように歩いていく。 ひと目見て異様で、でも目を離すことができない。
留置場で暴れてじたばたしまくる彼をほぼワンショットで捉えたとこなんて、なんだあれ。
キャラクターとしては"Punch Drunk Love" (2002)のAdam Sandlerに近いかもしれない。 但し今回のは、"Love"のテイストからちと遠い。

突然、気がふれたように甘くドリーミィな50年代ポップスが流れるところも"Punch Drunk Love" に近いかも。あの映画で流れる"He Needs Me"とかよかったよねえ。

Jonny Greenwoodさんの音楽は、前回よりはよいのだが、これらのポップスに救われているかんじ。 このひとの音って、あんま映画音楽向きではないような気がするのだが。

あと、音楽よか、音の強さ、暴力的としか言いようのない音の鳴りは相変わらず。 いくら耳を塞いでも脳の奥まで追っかけてくる音。 どこでどうやって鳴らしているんだか。

Philip Seymour Hoffmanは、こないだ舞台でみた"Death of a Salesman"に続いてアメリカの父親で、それでよいのか?と少し思うものの、他の誰ができるとも思えない存在感の男を、Joaquinと同じような、でも別の獣として演じている。
彼が最後にしんみり歌う曲がまたねえ …

誰にでも勧められる問答無用の傑作、というのとはちがう。(いつものPTA作品がそうであるように)
でも、じわじわと滲みてきて独特の痺れをもたらす、という点では紛れもないPTA作品なの。

PTA、次のピンチョンが楽しみだなー。