10.30.2011

[film] Correspodencia Jonas Mekas - J.L Guerin (2011)

27の晩はライブで、会社を午後休まないわけにはいかなくなった。
前にも書いたが、ライブのたびに休んでいたら有休なんてすぐ無くなってしまうだろう。
開始時間が7時とか、ほんとにほんとにやめてほしいんだけど。

というわけで、午後が空いたのでTIFFでいっぽんだけ、見ました。
今回のTIFFで見たかったのは、これと"Crazy Horse"くらいだったのだが、どちらも前売り開始当日の晩には売り切れていた。 でも、当日昼の1時にいったら当日券はふつうに買えた。
これの仕組みがよくわからない。 だって、こういう映画の前売りがすぐなくなるなんて、ありえないよね。 だれがいったい買い占めているの? なんでそんな簡単にリリースできるの?

終盤の平日の昼間だったかもしれないが、会場は静かでぜんぜん映画祭のかんじはなかった。
例によってスポンサーのCMがわんわん。 日本のCMはいつからあんな屑みたいのばかりになってしまったのだろうねえ。 

と、愚痴は置いておいて、Filmは、すんばらしくよかった。
『メカス×ゲリン 往復書簡』。

往復書簡として、Guerinが旅先の"Guest"として、"Guest"の目で撮ったものとMekasが自宅周辺でラフスケッチとして自由に撮ったものを交互に並べる。いや、並べるだけではなくて、お互いの映像に反射し、お互いの生に"React"するかたちで、Guerinの世界とMekasの世界が反響していく。

世界を可能な限りフレームの中に置いて考える、フレームの中と外の関係のなかで生真面目に世界を捕えようとするGurinに対して、「また道を誤ってしまった」とか言いつつ、自身がカメラとなって世界の境界をひょいひょい跨いでぐいぐい拡げていくMekas。 Guerinは移民としての、越境者としてのMekasを師と仰ぎ、MekasはパダワンGuerinの真摯な問いにユーモラスに、堂々と応えていく。

言葉のやりとりだけではなくて、映像でもきちんと呼応していくところがよいの。
最後のやりとりに出てくる、マンハッタンの歩道でうずくまって飛べなくなってしまった鳩さんと、北鎌倉のお墓で干からびたミミズを何度も何度も墓石の上に運ぼうとして失敗する蟻さんの対比には言葉を失う。 あんたたちって。

それにしてもGuerinの映像の端正で美しいこと。
スロヴェニアから映画関係者として参加した女の子、その後マニラで突然殺されてしまった彼女の目の強さ、そこにこそ映画を撮る動機はあるのだと言い切るGuerin。
更に、最後の日本からの手紙。これが2011年の日本で撮影されたものだとはとても思えない。
日本映画のクラシックにあった風景がそのままさらりと再現されてしまっている。
去年のFilm Comment Selectsで"Guest" (2010)も見ておけばよかったなあ。

と、Guerinに感嘆する一方、やはり目線はMekasのNY日記のほうに吸い寄せられてしまう。

なんでさあ、パンとチーズとサラミとワインだけで、あんなおいしそうに見えるんだろう。
板の上で生ガーリックをスライスしたのをそのまま齧るだけ、瓶からそのままピクルスを引っこぬいて齧るだけなのに、涎がとまんなくなるの。

ちなみに出てきた瓶ピクルスはここの。
http://www.mcclurespickles.com/

あと、ジャームッシュとの会話で出てきた「ほんもんのイタリアン」はここ。
http://romansnyc.com/

次に行ったときぜったい行く。

ちなみにこの会話があった2010年11月18日は、AFAでジャームッシュのTalk&上映があったのを憶えている。 この日はCharlotteから帰ってきたのだった。たしか。

あと、12月26日の大雪の模様も映画にでてくるねえ。
楽しかったなあ ... (涙)

 

[film] エイリアン・ビキニの侵略 (2011)

26日の水曜日、いろんなことがいいかげん我慢ならなくなってしまったので、こういうのに逃げる。
このタイトルだったら、行かないわけにはいかない。
猿にやられるよりは、エイリアン・ビキニにやられたほうがましかも、とか。

でも、期待してたのとはちょっと違った。ずっとダークでぐんにゃり殺伐としてた。
もうちょっと笑えると思ってたのに。 笑いを期待したらいけなかったのか。

まずだいいちに、あれ、ビキニじゃないし。下着だし。

四畳半の攻防が地球全体の危機に、というのはわかんなくはない。
童貞喪失 = エイリアン侵略、というのもわかんなくはない。("Super8"もこの系列だよね)

でもあのオチはなによ。 
あれじゃ自主映画だわよ、と思ったらそこまでのいろんな小細工がなんかぜんぶ同様の幼稚なやつに見えてしまったのね。

そうじゃない、あそこの挫折と敗北にリアルをかんじて涙してしまうんだというひとも、ひょっとしたらいるのだろう。若者たちの間には。 たぶん。

ところで、ビキニ姿で来場してタダになったひと、何人くらいいたのだろうか?

『人喰猪、公民館襲撃す!』のほうを果たしてどうすべきか、ちょっと考え中。

[film] Rise of the Planet of the Apes (2011)

同じく日曜日、シネマヴェーラの後で、新宿に行ってみました。

うん、悪くないよね、で終ったちゃったかも。
ほんとに悪くないんだけどね、でも泣いちゃうほどじゃないよね。

だってぜんぶ人間がわるいんだし。自業自得だし。
身内愛を切なくなるくらい煮詰めて貫いた結果として、人類そのものを滅亡の危機にさらしてしまう、そのアイロニーも含めて、なにもかも的確で(過激ではない)、そうそう、それそれ、としか言いようがない。

人類なんかいなくなっちゃえ派としてずうっとやってきた我々(てだれ?)としては、シーザー君には座り目と食いしばり歯で、なにがなんでもがんばってもらうしかない。

ひとつ気になったのは、これは猿立ちの(Rise of …)、思春期を描いた映画なのでしょうがないのかもしれないが、女の子とかエロとかジェンダー的ななにかが決定的に欠けている。
あのいきりたった猿共に、人類は警官隊ではなくて♀猿さんたちいっぱいぶつけるべきだったのよ。

"Sex & Drugs & Rock & Roll" (2010)でIan Duryを演じて少し人間に戻れた気がしたAndy Serkisが再び猿に戻ってしまったという、でも、実質的には進化してるのかも。 パンク猿として。
喋るとこまで行ったのだから、続編ではバンドを結成して歌いはじめるんだとおもう。

で、続編では飛行機がいきなり自由の女神に突っこんじゃうのだろうか。
それか、舞台はNYに移って、"Limitless"で脳細胞全開薬を服用しているぎんぎんのBradley Cooperと対決するの。 
どっちの薬がいいのかなあ。 Virusでやられちゃうのと副作用がひどいのと。

こんなふうに、どうでもいいことばかり浮かんでしまうのだった。
あ、馬 vs. 猿とかおもしろいとこはいっぱいあったので、次も見たいです。

[film] Boarding Gate (2007)

23日の日曜日は、少し回復してきたので2本。

まずはシネマヴェーラでこれ。 「レディ・アサシン」て違うよねえ。
彼女、別に確信的な暗殺者とは違うし。

前の日のDesplechinとかAssayasの映画って、何回でもいくらでも見れる。
それは、好きな曲を何回も何回も再生するのとおなじような感覚なの。

この映画については、あんましないかー。

Asia Argentoがすごい。めちゃくちゃかっこいい。それだけなの。
彼女の一挙一動を追っていく、カメラが、我々ができるのは、それだけなの。

下着いっちょうの彼女が豚としか言いようのないMichael Madsenを屠殺するみたいに、ぶっころす、そこに至るまでのきんきんに張りつめた空気がすべてなのね。
(ここまで、音楽はぜんぜん鳴らない)

とにかく彼女をみろ! そしてBoarding Gateに走れ! でおわり。 


ラストで流れるSparksの"The Number One Song in Heaven"て、なんかバージョンちがう気がしてクレジットみたら、(part2) て書いてあった。  そんなのあったのね。

(あとが詰まっているので少し急ぐ)

        

10.29.2011

[film] Kings & Queen (2004)

22の土曜日は、いつものように低気圧でしんでて、午後にようやく1本だけ見た。
シネマヴェーラで"Kings & Queen"。 

もう3回目か4回目くらいなのだが、こないだの日仏のMaurice Garrelの追悼特集でも見れなかったので、改めて。 この映画で、死んでしまってもなお自分の娘に呪詛の言葉を吐く彼の姿を、改めて目に焼きつけておきたい。

改めて、しみじみ、なんて豊かで深くて、でもどろどろではなくて、すばらしいドラマだねえ。

筋は複雑でもなんでもなくて、Nora (Emmanuelle Devos)の家族と彼女が愛した4人の王のお話。
最初のPierreは死んじゃって、彼の子供を育てながらヴィオラ奏者でちょっと頭のへんなIsmaël (Mathieu Amalric)とつきあった後、今はそんなに好きでもない大金持ちと結婚して幸せになろうとしている。
いや、ずーっと愛と幸せと安定を求めてきたのよ、って。

そんなふうに過去を振り返る彼女の半生に作家である父(Maurice Garrel)の病とその死が被ってくるの。

Noraはエモーショナルにびーびー泣きまくるもののそんなに不幸でも苦悩に満ちているわけでもなく、寧ろPierreの自殺に近い死の後、彼との婚姻証明をもぎとったり、金持ちとの結婚の前に息子をIsmaëlの養子として押しつけようとしたり、Noraへの憎しみと怒りに満ちた父の遺言を焼いてしまったり、そういうずるさ - 父はそれを見抜いて責めた - を淡々と描く。
そうされたって、彼女は分厚い胸板で堂々として揺るがないの。 Queenなの。

そして勿論、同様に、男共だって、ろくなもんじゃないのね。
Pierreは癇癪起こしてロシアンルーレットで死んじゃうわけだし、Ismaëlは病院に強制入院されて、それでもこれっぽっちも自分が変だなんて思っちゃいない。彼の家族もみんなそうだし。

このへんの、ぜったい自分が悪いと思わない、間違いを恐れない、でも決して他人に依存しない強さが登場人物の基本にあるので、ぜんぜん暗くなくて、「それがどうしたのよ」て、つーんとできる。 ところどころに現れる神話のモチーフはその辺をくっきり浮きあがらせる。

このへん、Noraのダイアログよりは、最後にIsmaëlが彼女の息子に語る言葉に全部出ているの。
(この博物館でのシーン、Ismaëlはもう死んじゃっているのかも、と思って。服が幽霊として出てくるPierreのと同じだし、病院とか博物館は死者が出てくる場所だし)

NoraとCatherine Deneuveが並んで歩くシーンは圧巻だねえ、と思う一方、やはりMathieu Amalricだよねえ。 彼が病院でダンスを踊るとこと、彼のパパのデリが襲撃されるとこのとてつもないおもしろさときたら。 このふたつのシーンだけでも、再見する価値あるわ。

この映画の音楽もまた、すばらしいの。
Moon River、Randy Newman、いろんなヒップホップ、RavelにWebern。

んで、まあ、ここは日本でここの現実は、この映画にあったようなのとはぜんぜんちがうわけだ。
この違いってなんなのか、っていっつも思うのね。

10.27.2011

[film] Uma Noite em 67 (2010)

21日の金曜の晩、何回目かのブラジル映画祭の東京の最終日の最後の作品。「MPB 1967」。
これだけは見ておきたかった。

1967年の10月、ブラジル音楽祭が行われた会場、それが全国に中継放映された1晩の、そのFootageと当時の出演者・関係者が語るあの晩、なにが起こったのか。

当時のブラジルはまだ独裁政権下で、音楽祭はスポンサーのTVレコードがいろんな利権もふくめ独占支配していた。
聴衆にはじゅうぶんうっぷんが溜まっていて、野次まみれで一色触発状態、演奏者側もそれはおなじで、ここで認められれば大スター、そうじゃなければたんなる素人。そのプレッシャーは尋常ではない。

そんななか、まだぴちぴちのEdu LoboとかChico Buarqueとか、Gilberto Gilとか、Caetano Velosoが登場し、例えば、ここでなにかしらの手ごたえを掴んだであろうGilとCaetanoは、レブロンの浜の一軒家で後にトロピカリズモと呼ばれるムーブメントを立ち上げることになるの。

原題の「1967年のひと晩」というのはこの晩のこのイベントがなかったら... というそれだけの話で、GilにしてもCaetanoにしても、彼らならこの晩がなかったとしてもじゅうぶんすばらしい音楽家になれたに決まっているのだが、でも、この晩の異常な熱気と圧力が彼らのなかに眠れるなにかを動かしてしまった、そんなかんじは十分にうかがえるのだった。

冒頭のEdu Loboのデュエットから尋常じゃない騒ぎっぷり(結局これが優勝した)にまずびっくりする。
ライブの雰囲気の騒々しさとしては、Bob Marleyの"Live!"の、あのかんじに近い。
音楽を聴く、というより驚いたりどよめいたり、ただならぬ事態に晒されつつも、はっきりとなにかが生まれ、動こうとしている、その臨場感。

Edu Loboの次のSérgio Ricardoは、とてつもないブーの嵐を前に最初はなんとかしようとがんばるが、最後には負けてギターを叩きつけて退場する。 残酷なのよ。

しばらく後で出てくるMPB4をバックにタキシードで歌うChico Buarqueもすばらしいが、なんといってもCaetanoでしょう。
若いころのMichael Jacksonみたいにひょろひょろで、でも素晴らしい笑顔で"Alegria, Alegria"をうたう。
歌い進むにつれて客がどよめき、野次モードだった彼らみんなに笑顔が伝染し、彼と一緒に歌いだしていくことがわかる。 奇跡が起こるその瞬間がはっきりと。
現在のCaetanoが当時を振り返りつつ、もうあれ以来あんま歌わないんだけど、と言いつつそばにあったギターを手にとって"Alegria, Alegria"歌ってくれるシーンがあるの。 その場にいたら卒倒しちゃうだろうな。

そしてこの後の、Os Mutantesをバックに歌うGilberto Gilもとんでもないことは言うまでもない。(これが2位になった)

こういうのを見ると、MPBのパフォーマーが、そのライブが、なんであんな絶対外れないのか、なに聴いても極楽なのか、その理由がわかるの。 こんだけの聴衆を前にして、彼らの耳と対決して、それを乗り越えてくるわけだからね。
強いよねえ。

というわけで、映画としてどう、というよか、おもしれー、すげー、とか呻いているうちに終ってしまったのだった。

10.23.2011

[film] Pearl Jam Twenty (2011)

19日水曜日の晩に見ました。
世界同時公開のは六本木のチケット買っていたのに行けなかった。
ロンドンでも、一応検索して狙ってみたのだが、当然のように売り切れていた。

でもそんなにPJ好きかというと、実はそんなでもなかったりする。
"Ten"が出てPVがわーわー言われだしたころはなんだよこのうっとおしいガキ共は、としか思えなかった。 特に、"Jeremy"のPVがMTVのVMAでVideo of the Yearをとったときはほんとにうんざりだったの。
(ま、同様にNirvanaだってなんだこの薄汚れた連中は、だったのだが)

変わったのは、"Vs."からだろうか。
この映画でもMTV NewsでTabitha♡が報道していたように、"Vs."の発売は相当な大騒ぎだったんである。 発売前から、発売当日も、がんがんに報道していた。(MTV Newsだけどね)
で、あんまりうるさいもんだから、発売2~3日して買ってみて、うん、この固さなら、とか。

映画のオープニングは"Go"で、エンディングは"Alive"だろう、と思ってたらほんとにそうだった。
このへん、なんともいえずCameron Croweだよねえ。歳と共にだんだん下世話に、ねちっこいおやじになってきている気がする。

バンド、というよりシアトルシーンの前史から入って、思っていたより沢山あるんだなあ、の画像資料を重ね織りしていくかんじ。 メンバー同士の運命的な、決定的な出会いやケミストリーから始まるべくして始まったバンド、ではなかった。 すごいカリスマがいたわけでもなく、むしろ前バンドのカリスマ的なヴォーカリストの死を埋めるべく、海岸に流れ着いたカセットのひとつの中からEddie Vedderが現れ、ようやくバンドのピースが揃って、なんとか揃ったから、そこから始まった、そういうバンドだった。 (この点ではFoo Fightersも似ているのだが、Dave Grohlはひとりでもへっちゃらだった)

そうして、まずはライブががんがん当たって、レコードも売れて、メジャーになって、戸惑って、Ticketmasterと喧嘩して、でも売れ続けて、Roskildeの事故があって、でも立ち直って、メンバーの結束は変わらず、そして相変わらずでっかい。 そんな20年。
120分で20年。 1年6分。それをメンバーの数で割る、ファンの数で割る、ライブの数で割る、踏破した国の数で割る、そんなふうに等しく割りふられて、それぞれの重さと共に流れていく時間。

なによりもファンひとりひとりへのお手紙のような120分。

MTVと一緒にバンドの成長にびっくりし、ライブに行って狂喜し、でもモッシュにげろげろになり、親や周囲の無理解にあきれ、チケットの値段に憤慨し、新譜のたびにどきどきし、またドラマーが変わったよ、とか、やっぱしライブすげえわ、とか。 
それはバンドの20年、だけではなかった。 ファンと一緒の、みんなの20年、だった。

何度か映像として出てくるが、小綺麗な格好して、グランジなんて始めて聞いたわ、とか、ぱーるじゃむ? とか言うおじさんおばさん達との間にはきっちり線が引かれている。 

だからすごいんだどーだ!みたいな20年ではなく、よくもまあ(よかったねえ)、の20年。
アーティストエゴと、シーンに対する距離と、ファンに対する思いと、綱渡りだったかもしれないが、これらのバランスを繊細に、しかし確信をもって取り続けること、それができたのはバンドの成り立ちのそもそもが盤石ではなく緩めの、どちらかというと70年代的な西海岸のメンタリティ(シアトル郊外のよいひとたち)を引きずったものだったからではないか。

そして、バンドのそんなありようを心底愛してしまったであろうCameron Croweは映像の編纂編集に尋常ではない量の愛と情熱を注ぎ込んでいる。 クライマックスの"Alive"のとんでもないこと。 
このライブの音にあわせて、バンドの過去と現在が、メンバーの過去と現在が、生きてるひとも死んじゃったひとも、そしてなによりもファンのひとりひとりが、アメリカの、世界の20年が、それらすべてがぐじゃぐじゃの塊となって今ここにある自分の足下にでーん、と落ちてくる。

"Alive"。

"Teenage Wasteland" そして、"Rockin' in the Free World"

どうでもいいことだが、各メンバー紹介にはいったとこで、ああドラマーのとこはどうやるんだろ、とはらはらしたらなかなかうまく処理していた。 うまいね、Cameron。 

前にどっかで書いたが、90年代前半、MTVと共にあった自分にとっては懐かしい映像だらけだった。 SNLのAdam Sandlerのあれも、Headbangers Ballのも、みんな覚えていたわ。

確かに、メンバー自身が言うように"The Kids Are Alright" (1979) には及ばない(しょうがないわよそれは)かも知れないが、バンドのドキュメンタリーとしては相当よかったかも。
少なくとも、こういうドキュメンタリーが可能になるバンドって、いま、他にあるだろうか。

なんか久々に"Singles" (1992)が見たくなった。 
Cameron Croweの特集、どっかでやってくれないだろうか。

    

10.22.2011

[film] The Ward (2010)

低気圧ひどすぎる ...

日曜日、『そして僕は恋をする』の後、そのまま"Demonlover" (2002)にを見るかこっちにするか悩んで、上映回数が減ってきたこっちにした。 
これを見逃すことは許されないの。見逃したら監禁病棟に入れられるの。

こわかったよう。 おもしろかったよう。

森や原っぱを逃げている女の子がいて、やがて彼女は原野の一軒家に火を放って放心しているところを捕えられて病院に連れてこられて、監禁病棟に入れられる。 66年、オレゴンの。

名前はKristen (Amber Heard)、なんでこんなとこに入れられるのかわからない、他方、彼女がそれまでなにをしていたのか、なんで火を放ったのか、Last Nameさえも、はっきりしない。

棟には他に女の子が4人いて、でもそういうところに監禁されるほど凶暴にも壊れているようにも見えない。 Kristinはぜったいこんなとこ出てやる、と何度も脱走を試みては連れ戻される。

彼女が来る前にTammyていう子がいたことがわかるが、彼女がどこに行ったのか、誰も語らないの。
あとAliceていう子もいたらしく、彼女も消えた。でも彼女はもっと謎で、女の子達みんなが恐れていることがわかる。 Kristinがあちこち嗅ぎまわり動きまわるにつれて、Alice (?)があちこちに出没するようになり、女の子がひとりまたひとりと。

John Carpenterが描く病院、しかもそこで監禁。 監禁とか拘束とかはこの監督のお得意でもあるのでそれはそれはおっかないしこわいし、間違いないのであるが、Aliceの出てきかたがなんか変で、徹底的に即物的で論理的であるはずのCarpenter先生にしてはなんか ... と思い始めたころに、あーこれか、と。

やられた。 最後の最後まで。

という見方もあるし、強くて負けない少女達の映画、として見ることもできる。
彼女たちの目線の強さ、それにしゃっきり応える切り返しの外さないこと。
みんながラジオからの音楽にあわせてぴょんぴょん跳ねるところは切なくて素敵。


あ、探偵を呼んできてもよかったかも。 Johnnie Toのあのひとを ...

10.21.2011

[film] Comment je me suis disputé... (ma vie sexuelle) (1996)

シネマヴェーラではじまった特集『フランス映画の現在』。 日曜日の1本。 178分。
『そして僕は恋をする』。 英語題は"My Sex Life... or How I Got Into an Argument"。

この作品は、90年代に米国でみた。"My Sex Life...”ていう英語題に惹かれて行ったのだが、当時は英語字幕に慣れてなくて見事に轟沈した。 そういう苦い思い出を胸に改めて「恋」に向かいあってみませう、と。

博士論文を提出できないままずるずる大学で哲学の講師を続けているPaul(Mathieu Amalric)の職場の主任としてかつての同級生(犬猿)が赴任してくる。がーん。 で、ずうっとつきあってきたEsther(Emmanuelle Devos)との仲はもうぼろぼろで、別れるしかないか、みたいなところに来ている。

仕事もだめ、恋もだめ、将来の見通しもあんまし、そんななか、ぶつぶつ言いながらもSylvia(Marianne Denicourt)とかValerie (Jeanne Balibar)とかとつきあったり、Patricia (Chiara Mastroianni)のお尻に見とれたり、でもEstherの面倒もみてやらないと、とかじたばたしまくる日々。

なんで自分はいろんな女性に恋をしまくるのか、なんで自分はしょうもない屁理屈こねて言い争いばっかりしているのか(How I got into an argument)、という中盤あたりまでに積み重なっていく問いが、Estherの「Paulが死んじゃったのよ!」という叫びによってきれいに反転する。 
(その前に死んじゃっていることはわかるのだが)
もうすでにいないPaulの魂を通して語られる、かつてそこにいて、恋と哲学のなかに生きていたPaulの姿。落ちつきなく走り回ってばかりいた彼が、別の影と輪郭をもってそこに現れる。

それはジョギングの最中に全ての存在が真白になって立ちすくんだり倒れたりしてしまう彼の姿とも重なる。
生の直中に全てが突然ブラックアウトする、あるいはホワイトアウトする瞬間、その不安、あるいは確信。

後半はEstherのなかにいる、でも間違いなくそこにいるPaulが繰り返し彼女にいう。 
円熟なんかするな、恋をしろ、きみはきみなんだよ、と。 Estherは泣いて、笑うしかない。 

そして、それでも、これはPaulの恋のお話し、何度でも始まる、走りだす恋のお話しで、だから「そして僕は恋をする」のね。 Mathieu Amalric以外にこれを演じられるひとがいるとは思えない。

とにかく出てくる女性はみんなほんとにすごい。みんなエゴまるだしで、癖だらけで面倒そうで、でも彼女たちもまた、はっきりとそこにいるのだよね。 その、それぞれの存在感がものすごくて、どっしり成熟してて、でも(それ故に)Paulはふらふら吸い寄せられていくのね。

Emmanuelle Devosはやっぱりとてつもない。 彼女がひとり外の空を見上げるシーンでラヴェルの"Daphnis et Chloé" がぶわーんと被さってくるところ、わけもわからず興奮する。 あれなんだろ。
("Kings and Queen"の"Moon River"(2004) もよかったねえ、そういえば)

で、これだけの濃さをもった、最後の、決定版、としか思えないように分厚い恋愛映画を作ってしまうと、あとは「家族」のほう - 最後の厄介者 - に向かわざるを得ないのかな、Arnaud Desplechinとしては。

音楽はPJの"C'mon Billy"をはじめ、Jazzからヒップホップから、ほんとにあらゆる音楽が流れる。
青春映画のざわざわしたかんじもたっぷりある。

これって90年代ていうディケードの軸で見るとどうなのかな、と少しだけ。 あるのかないのか。

あとは、カメラのEric Gautierもすごいの。
女性の腰から脚にかけてのラインを追っかけることに関しては天才、としか言いようがない。
たんに、Arnaud Desplechinがすけべ、ということだけなのかもだが。

今回の特集ではかかりませんが、久々に"Esther Kahn" (2000)が、すごくみたいよう。

10.20.2011

[film] Accident (2009)

15日、土曜日はあれこれ悩んでさまよって、結局じめつぜんめつ。 かわいそうに1本だけ。

Johnnie Toプロデュース作品。 Milky Wayのあれが、右側からじゅーん、て入ってくるだけでアドレナリンが湧いてしまうような体、になりつつある。

ごくふつうの事故(アクシデント)に見せかけるかたちで依頼された殺しを実行する4人組がいて、シナリオ考えて4人で役割と配置決めて時間とか天候とか見て、決行するの。 
確かに、冒頭の「殺し」は鮮やかにきまる。

次に依頼されたやつを準備して、天気とかを散々待って、やっと実行して、それ自体はうまくいくのだが、そのあとで予期していなかったことが起こって仲間のひとりが死んでしまう。
これは「アクシデント」なのか、べつの角度からの「殺し」なのか。

リーダーのブレインが依頼人や仲間までも含めて張りこみをして、じりじりねちねち「アクシデント」、ではない「殺し」の可能性を探っていく。 殺しを仕掛ける側の緊張が、仕掛けられる側の恐怖と焦燥に変わっていく、その鍋底に追いたてられていくような感覚。  Johnnie To作品の悪党って、なんでいつもあんなに過酷でおかしくてかわいそうなんでしょう。

Johnnie To(関連)作品を見るときの醍醐味って主人公の思いに感情移入するというよか、置かれた状況のひたすら居心地悪くて気持ちよくない宙づり感覚を味わうところにあるのかも、って改めておもった。
クリアで冷たいようで、でも結局は闇、とか、画面のあちこちにいて変な動きをするよくわかんない人たち、とか、同じようになんか不機嫌に鳴り続ける不快な音、とか。

ブレインを演じるLouis Kooは、こないだ機内で見た『単身男女』でも一見真面目ふうで、でも腹黒なんだかなに考えてるんだかわからない爬虫類みたいなエグゼクティブを演じて見事だったが、今回もおなじような。 もてないとおもうわ彼。

そういえば、痕跡を残さないプロの殺し屋のお話としては、ついこないだジェイソンはげの"The Mechanic"ていうのがあったが、あれが問答無用のマッチョはげの一撃ですべて蹴散らしてしまう俺様やろうだったのに対し、こっちは起こることぜんぶにいちいちびくびくぴりぴりして、仲間もぜんぶ失って哀れで、なんかアメリカ人とアジア人のちがいかもねえ、とか思った。

86分。 クリスピーで、なんか気持ちわるいけど気持ちよくて、よかったです。

[film] 無言歌 (2010)

ワン・ビン特集。 続けて、12月に一般公開予定の『無言歌』。
制作はフランスのWild Bunch。

ドキュメンタリーではなくてフィクション。ただ、事件を告発した本と生存者の証言をベースに作ったということなので、実際に起こったことを再現したドラマ、と言ってよいのか。

反右派闘争の粛清で各地から集められてきた囚人が強制労働をする収容所でのおはなし。
場所はゴビ砂漠のはじっこで、仕事はよくわからん溝を掘るだけ。 なんの溝なのか見当もつかない。そんな原野で。
(ちなみに英語題は "The Ditch")

サバイバルゲームが繰りひろげられるどころか、ゲームにすらならない。 労働が終ると彼らは洞穴のようなねぐらに横になり、飢えとか病とかで朝になるとごろごろのまま死体として布団に巻かれて運びだされていく、それが毎日、何体も、そんな光景がえんえん続く。

人の吐瀉物を食べる、屍肉を食べる、というのも阿鼻叫喚の地獄絵、としてではなく、このごろごろ巻きの延長として淡々と描かれてしまう。

エモーショナルなとこは、新婚夫婦の夫のほうが収容所で病で亡くなったあとに奥さんが訪ねてきて、半狂乱になって大騒ぎして、砂漠のはじっこの、彼が埋まっている場所(死体捨て場)を探して、ぜんぶ堀りおこして、彼を骨にして連れて帰る、それくらい。 それですら、彼女がすごい顔で泣き叫ぶ声と砂嵐の音がわんわん追っかけっこをしているだけなの。

ひとりの老女がカメラに向かって3時間、ずーっと喋り続けるだけの『鳳鳴―中国の記憶』(2007)、あそこでも語られたひとつの事件が、おばあさんの声として語られることのなかった死者のそれも含めて反復される。 びうびう鳴り続ける風の音とともに。

なんとなく、ソクーロフの『ボヴァリー夫人』みたいなかんじもした。

終わりも、解放の明るいトーンは全くない。 今の収容者の健康状態がよくないのでリリースする、それだけで、でも管理する側の班長は残る。収容所もそのまま残るの。
で、風は吹いているの。


上映後のトークで出てきたワン・ビンさんは、そうだろうな、とイメージしていた通りのものすごく静かそうな、冬になったら穴に篭っていてもおかしくなさそうなかんじのひとだった。 

トークでおもしろかったのは、柳下さんが、体面とか尊厳とか必要なものを全てそぎ落とされてしまった人間のあり姿を記録しようとしているように思える、と言ったら即座に、いや、歴史の記憶をきちんと撮りたいと思っているのです、と答えていたところ。

でもこれって同じようなことを言っているように思えたの。
歴史の記憶を形作るのは、全てを剥ぎとられてしまった人達の声とか、声にもならない震えとか、そういうものにほかならないのではないかと。

あと、彼の作った全ての作品は、これまで中国で一度も一本も上映されていないし、一度でも上映したら罰されてしまう、ということ。

でもその事実によって、正確にはその事実+ワン・ビンの作品に描かれた過酷な世界によって、今の中国のイメージはものすごくはっきりと定まってしまう気がする。 よくもわるくも。
そして、その彼に手を差しのべているのがフランスのWild Bunchとか、Pedro Costaである、というところが、なんかいいなあ。 アンダーグラウンド、地下活動、てかんじ。

10.19.2011

[film] 名前のない男 (2009)

先週の10日、体育の日なんてくそくらえ、と。 でも2本だけ。

ワン・ビンのレトロスペクティブ、「鉄西区」制覇の野望は今回も果たせそうにないが、他のやつは見ておこう、ということで。

『名前のない男』(2009) - "無名者"から。

冒頭、地中の穴からごそごそ這いだしてくるおじさんがいて、雪がうっすら積もった地面を歩いてどっかに行って、どっかから帰ってくる。 あるいは、穴の中であったかいゲル状の汁麺(のようなすごいモノ)をずるずるすするおじさん、あるいは、凍った道路に散乱しているなんかの糞をこそいで、丁寧に袋に集めていくおじさん、あるいは、泥の川とか水たまりみたいなとこでペットボトルに水を汲んでいるおじさん、がいる。

言葉も音楽もナレーションもない。
でも、未知の生物ではないので、おじさんがなにをしているのか、はなんとなくわかる。
食べて、寝て、はたらく(土を掘って、なんか育てて、収穫する)。

おじさんはほとんどしゃべらず(収穫した瓜みたいなのを調理して食べるときだけ、なんかごにょごにょ言ってすこし嬉しそうだ)、たまにちらっとカメラのほうを見る。 カメラが撮っていることはおじさんにもわかっている。

この穴がおじさんの住処なので、ホームレス、ではない。 エコとかサバイバルとか、そういうのともぜんぜんちがう。 
帽子は季節に応じて3種類くらい違っていたし、ライターも持っているようだし、煙草だって吸う。
名前はあるのだろうが、どうでもよいかも。 生年月日も、どうでもよいかも。

おじさんはこうやって1年間過ごす、というか生きている。
これだけでもひとって生きていけるんだ、という感嘆よか、生きるっていうのはこういうことなんだねえ、というのがダイレクトにわかる、そういう強さをもった映像であり、おじさん、である。

例えば、このおじさんの手前で、家族とか共同体とか国家とか、或いは歴史とか法とか、そういうのって何ありうるのだろうねえ、とか、そういう問いがふと浮かんでくるのね。

そのへんが、(例えば)Discovery Channelとかの(単なる)記録モノとは違うところなの。

しかし、休暇で山奥にドライブに出かけて散策していたら、穴から野人のようなのが出てきてなんかやってるので興味がわいて撮りはじめた。 
というのを後のトークで監督はしれっと言っていたが、すごいよね。 
それを1年以上やっていったわけだから、ワン・ビンもおじさん並みにすごいとおもうわ。

これ、においがでる4Dでやったら、すごいのになー。

おじさんは、今も地球のどっかに開いた穴のなかにいて、ごそごそしているんだろうなー。

10.18.2011

[film] Palermo Shooting (2008)

連休のまんなかの日曜日、9日。
まったく起きあがれず、午後遅くに出て1本だけ。 もう終っちゃうし。

自分の仕事に虚しさをかんじはじめた写真家 - デジタル修正をばりばりかける「クリエーター」寄りの - がふいに死の淵、のようなものを覗いてしまい、同時にそれに惹かれるようにしてパレルモに向かう。   筋としてはそれだけ。

写真に写りこむのは生きているものなのだが、生を生(ポジ)たらしてめているのは影(ネガ)としてある死なので、生の写像を追及していくと死に辿りつくのは必然でもあるのだが、そこに求められるべきリアルさ、がデジタル技術だのなんだのによって最近なんだか揺らいでいるように思える、と。
で、パレルモに行って、あーそんなかんじかも、と思っていたら突然死神に矢を放たれてびっくり、目が醒めたわ、と。

死神との対話のとこは、ポジとネガであるところの生と死を巡るだけでなく、写真論であり、最終的には映画論、のようなところにも向かっていく。

生きるか死ぬかの戦いを繰り広げる、というよりは生と死の中間地帯のようなところ(図書館...アナログの巣窟)で、坊さん相手(ここでのDennis Hopperは「地獄の黙示録」のカーツのようにも見える)のような問答をするだけ、なのだが、その内容がものすごくおもしろいの。 たぶん、Wenders自身がずっと自身に問い続けてきたような内容なのだとおもう。 

そしてそれらの言葉が、アメリカの友人であるところの、そして既に十分に死を意識していたであろうDennis Hopperを介して語られることで、「おまえは死ぬんだよ」とか静かに宣告されることで、パレルモを起点とした世界がぐるーっとひっくり返っていくのを感じる。 
そして、死神の語ることのあまりの正しさに戦慄する。 死神ばんざい。

なぜ最近の「コンテンツ」は一見しただけでつまらないものになってしまっているのか、なぜどこにも「死」の影のない薄いかんじがするのか? それは単にデジタルになったから? というような問いも含めて、Wendersはこの問題を映像作家である自分自身の問題として正面から考え、答えを探そうとしている。

個人的にはこれは、"Until the End of the World"(1991)から20年を経た続きで、あそこで人々の目を盲いでいった「夢」の映像を追っていく旅、旅の続きだったのではないかと。 あそこで人々が没入していった映像は、間違いなく「リアル」なデジタルの3Dのはずで、そんな世界に対抗するためにも彼はデジタルと、この次には3Dに向かわざるを得なかったのではないか。  

そんな彼の蒼い決意が全面に出ていて、だから音楽はほんとにすばらしい。

Grindermanから、Velvets、Bonnie Prince Billy、Calexico、Iron & Wine、Portishead、Beirut、あと、うれしかったのはThe Long Wintersの"(It's A) Departure" でしたわ。

Lou Reedは、やはり変だった。
このひとの容貌て、はっきりと映画にはむかないのだと思う。あれだけ幽霊みたいにぼかしても変て、ある意味すごい。

そして、Giovanna Mezzogiornoさんは、最強すぎて、すばらしすぎて。

オーディトリウムで、たぶんもういっかい見る、見ようとおもった。


16日の日曜日に閉幕した49回目のNew York Film Festival。
今年は企画もセレクションもものすごく力の入ったフェスだった気がしたが、その理由が最終日にわかった。
Chairmanで、Program DirectorのRichard Peñaさんが退任することを表明したの。

彼はNYFFの顔、というかLincoln CenterのFilm Societyの顔で、NYFFの期間中はいつでも、どこにでもいた。(NYFFには12歳のときからずーっと参加していたのだという) 
でっかい体とでっかい笑顔で映画の紹介のときは本当にわかりやすくなめらかに、でも怒涛の勢いでしゃべりまくるのだった。 そして、彼が前説に登場する特集上映や特別上映は、ぜったい、はずれることがなかった。

イベントや宣伝のために出てきてしゃべるのではなくて、映画のために、それを見ようとどきどきしている我々のためにしゃべってくれるのだった。
こういうひとがいたんだよ、ということをここに記して、彼のすばらしかった笑顔に心から感謝したい。
またどこかで会えるよね。

10.15.2011

[film] Battle: Los Angeles (2011)

これも土曜日、Gleeに続けて六本木でみました。
でっかいスクリーンでみたかったのによう。

あの予告見たら、ぜったい見るだろ、というかんじだったのだが、よくもわるくもすんごく地味でねちっこい作品だった。

大統領自らが飛行機乗って出撃していく"Independence Day" (1996)の景気のよさ、わかりやすさはぜんぜんない。 よくもわるくも。

ロスの海岸から街が突然襲撃されて、空軍が一斉空爆を始める前までに空爆エリア内に残った市民を救出して連れ戻す、US Marinesの歩兵小隊に与えられたミッションとその地上戦をじりじり。

空中戦だとそれなりの規模とか範囲とかが見渡せて戦慄したり心の準備もしたりできるのだが、最初の襲撃のとこはほとんど荒れたニュース映像ばかり、小隊のメンバーの誰もが敵の正体を具体的にはしらない。なんか突然来て海岸線を占拠してしまった、手強そうかも、程度。

戦う相手の具体的な姿を誰もしらない、わからない。同様に指令を出す軍の上や、更に国がいまなにを考えていて、なにをしたがっているのか、これもわからない。そういうなかで、とりあえずミッションだけはある。 市民を守れ、エイリアンはやっつけろ。

小隊にはいろんな若者とか、暗い過去をもつリタイア直前の曹長(Aaron Eckhart)なんかがいて、地上戦あれこれのなかで結構ばたばた殺されていくのだが、ぜったいこんな仕事やだ、と思うのに、みんなめげないの。えらいの。

女のひとは強いよね。 傷ついたエイリアンをばさばさ開腹して急所を探す獣医さんとか、情報担当だから、とかいいつつばりばり殺しまくるMichelle Rodriguezさんとか。

ネタばれだけどさあ、情報塔やられたら一挙におちるって、襲撃計画としてはだめだよねえ。 
そんなのクラウドに置いとけよ。

これもネタばれだけどさあ、せっかく生還したのに水も飲まず座りもせず、なんでそのまますぐ前線に戻ろうとするの? これ、US Marinesのよい宣伝になるねえ、と思ってみてたけど、ここんとこで萎えるよね。こんなハードな職場はありえない。 救出した子供に挨拶くらいすると思ったのに。

続編では今回の連中と"Independence Day"の艦隊が手を組んでやってくるの。
もうだめかと思ったらTransformersが出てくるの。
それか、世界中で生き残って行き場を失ったエイリアンが"District x"を・・・

そういえば、Criterionからついに!
http://www.criterion.com/films/27755-godzilla

[film] Glee: The 3D Concert Movie (2011)

帰国したらしたで見ないといけないもんがそれなりにあるのだった。(仕事もね ...)

まず、TIFFのチケット前売りは、ふつーにわすれてた。 あ、と気づいたのは発売日の夜で、当然ほしいやつはぜんぶミスした。 別にいいかー。

渋谷の「鉄西区」も今回は(も)諦める。 体力ないときにはむりだし。

で、8日の土曜日に見ました。
GleeのTV版は、昨年のどさまわりの最中、火曜日の晩に宿に戻ってTVをつけるとよくやってて、いいなーとか思っているうちにふてくされて寝てしまう、というのを延々繰り返していたの。

なので、実は背景も登場人物もぜんぜんわかっていない。 
でもみんななんか輝いてていいよねなんだろうねえ、って。
日本の学園モノはぜんぜん見る気にならないが、これならば、と思わせるなにかがあったのだろう。たぶん。

映画はコンサートのライブを3Dで映したもので、曲の合間にいろんなファンのひとのコメンタリーが入る。
Gleeはさいこー、Gleeが人生を変えてくれた、Gleeがなければしんでた、などなど。

こっちは、よい曲をきれいなコーラスで聴ければそれで幸せなので、ふーんと見ているだけなのだが、このファンのひとたちのポジティビティがそれを歌う連中、演奏される曲のそれぞれにまっすぐに繋がっていることがわかる。
ふつーじゃない自分を認めること、ひとと違っていてもいいんだ、とはっきり言えること。

このきらきらした明るさははっきりと自分の高校時代にはないものだった、なかったからいいなあ、というのともちょっと違う気がして。
上から降ってくるような、そこらにあるような価値観をとりあえず全部しらんぷりして無視を決めこむこと、ひとつの体系から流れてくるいろんなことをぜったい信じないこと。

だから"Don't Stop Believin'"というのはげろげろ以外のなにものでもなかった。
Neal SchonとJonathan Cainのぱおぱおぴろぴろしたおめでたい音はほんとにうんざりだった。

それがあんま悪く聴こえないのはなんでなのかなー、って。 (Steve Perryがいないから?)

たぶん、全否定の果てに見えてくるやさぐれた荒野と全肯定の果てに見えてくるばら色のなんかは同じようなドメインにあるなにか、なのかもしれない。 非暴力・不服従・役立たず。 
とか、やけ起こして全肯定に向かわざるを得ないくらい今の若者たちは切羽詰ってしんどいところにいる、ということなのか。 しんどいよね。たぶん。

みんな歌も踊りもうまいなー、とかふんふんしつつ、そんなことを考えていたのだった。
でも、自分がいま高校生だったらあんなふうにわーわーときめくか、というとそれはたぶんぜったい、なかっただろう。 そこらへんはふくざつなのよね。

3Dのライブとしては、Foo Fightersの3Dのあれのようになめてんのか、みたいなやつではなかったが、そんな無理して3Dでなくてもよかったかも、程度。

Drumsを叩いてたのは、B-52'sにいたZachary Alfordさんでしたね。

10.12.2011

[log] NYそのた - Oct.2011

NY、残りのあれこれ。

New Yorker誌のCartoonistとして、或いはShrek!をはじめとする児童書の作者としても有名なWilliam Steigが遺した膨大なイラストを未亡人のJeanneさんが纏めた本。 サイン入り。
日本だと滝田ゆう、あたりになるのかしら。

http://www.amazon.co.jp/Cats-Dogs-Women-Ninnies-Clowns/dp/0810995778

この本の経緯については、ここに少し。
http://fnewsmagazine.com/2009/11/interview-with-jeanne-steig/

あとこんな本もかった。
"Record Collecting for Girls: Unleashing Your Inner Music Nerd, One Album at a Time"
http://www.amazon.com/Record-Collecting-Girls-Unleashing-Inner/dp/0547502230

いろんなPlay Listを作るのってたのしいなー。なのだが、選曲は割と凡庸かも。

まだ書いてなかったレコード関係はー。

Generation Recordsで、Little Feetのアナログ2枚。こないだのアナログばか一代でよかったので。
- Jawboxの"absenter"の7inch。別テイク。$15。
- Psychic TVの"Just Drifting"の7inch。Holophonicの最初の7inch、ということで。


帰りの飛行機はほんとにへろへろで、3本しか見れなかった。

"Bad Teacher"
冒頭からRockpileの"Teacher Teacher"ががんがん流れるのでうれしい。エンディングはJoan Jettの""Real Wild Child"がかっこよくて。 あとは、"867-5309 Jenny"もいいかんじで。

キャメロンが不良教師役なんだけどねえ、そんなに不良じゃないのよね。なりきれていない、というか。
ジャスティンもぜんぜんやるきないみたいだし("Friends with Benefits "と比べると特に)。
やっぱし、下ネタが決定的に足らないの。”There's Something About Mary”並みにしょうもないネタのオンパレードを期待したのにさ。
よかったのはJason Segelくらいだったかも。

"Letters to Juliet"
見たくて、でも見逃していたやつだったのでよかった。
男はみんな(最後にでてくるほんもんのロレンツォをのぞいて)バカで幼稚で、Vanessa RedgraveとAmanda Seyfriedだけが聡明で美しくて、という楽しいおはなしだった。
プレハネムーンでイタリアに来たら彼が忙しくて相手してくれないので暇つぶしに50年前に書かれた手紙に返事書いて出してみたら、おばあさんとその孫が興奮してイタリアまでやってきてしまった。
で、暇ついでに一緒に50年前の恋愛の相手を探してあげるの。
しかし、ほんとにアメリカ人のおせっかいもいいかげんにしろよ、な話だとおもった。
うまくいかせないとみんなあまりにかわいそうで哀れになるから、うまくいくに決まっているお話しなの。
だから安心して見ていられた。
Amandaがたまにすごいぶーぃてふくれた豚顔になるところも趣深くてよかった。

続いて、イタリアついでにこれを。
"Mine vaganti"
「あしたのパスタはアルデンテ」 ~ きょうのパスタはぶにょぶにょ、ってことね。
パートナー会社との会合も兼ねた家族の集いにやってきたパスタ屋の次男坊が、会の前日の晩、兄に告白をするの。
家業を継ぐために大学で経営学をやっていることになっていたけど、実は文学を志している、しかも自分はゲイでローマに恋人がいる、親父がこれを知ったら勘当するに決まっているから明日でさよなら、ぼくは自由に生きる、と。

家族会議の日、それを次男が切りだそうとしたら兄が遮って、自分はゲイだ、ずっと従業員と恋仲だった、っていうの。 父親は激怒して長男を勘当、次男を含めて一同あぜん...
父親はそのまま心臓発作で倒れちゃってひいひい言いながら次男に向かっておまえだけが希望だ、あんなおかまやろうはほっとけ、って。 次男はしぶしぶパスタ屋経営の道を歩みはじめるの。

という微笑ましくぐじゃぐじゃした家族のありようががんがんのイタリア歌謡に乗って楽しく綴られる。 どいつもこいつも、のイタリア家族ドラマの典型。
パスタ、というよりミートボールのごった煮で、すんげえ適当に雑にいいかげんに作っているくせに、なんかおいしい、おいしすぎてなんかずるい、そういう風味の映画。 おもしろいけどね。

ゲイ兄弟のいかにもなかんじとか、その他家族の変な人たちとか、ちゃんと描けてはいたものの、でも、あのおばあちゃんのエピソードにフォーカスしたほうが、おもしろくなったかも。

あとは半分寝ながら"Super 8"をとばしとばしごろごろ。

あとはなんかあったか。

10.11.2011

[music] Jon Brion - Oct.3

3日の月曜日はNew York最後の晩で、仕事次第、ではあったのだが、なんとかなった。

ほんとは、Brooklynの奥地でShellacもあったのだが(なんでこの人たちはManhattanでやってくれないの?いつも)、体力的にあそこまで行くのはきつくて、こっちにした。

ヴィレッジのLe Poisson Rougeで日曜日からはじまったJon Brion 3 daysのまんなか。

書くのを忘れてしまったが、Miranda Julyの"The Future"の音楽はJon Brionで、それは流れるだけで猫のPaw Pawの手の動きが浮かんでくるようなすんばらしいものだったの。 
音楽はもういっこ、Peggy Leeの"Where or When"がとっても素敵に使われている。

Jon Brionのライブは2005年に2回見ている。ついでに、同年のTribeca Film Festivalでのトークも聞きにいった(SOHOのPradaのブティック内であったんだよね)。
その2回は、どっちもすごく楽しくておもしろくて、とにかくひとりでぜんぶ転がしていくの。
(うち1回はBrad Mehldauがゲストだったな。ふたりでKinksやったの)

今回は3日もやる(後で4日目の追加がでてた)、ということで機材も大がかりで、モジュラーシンセとか鉄琴とかまである。なんかやるきなのだな、と。

前座なしで、9時ちょっと過ぎに登場。 スーツにネクタイまでしてる。
ギターとかピアノ数曲をひとりで軽く流してから、いつものひとりバンドがはじまる。
ドラムス叩いて、キーボードやって(メロトロンまで使ってた)、ギターの低音でベースやって、ギターいれて最後にヴォーカル。 これらをループでまわして重ねて。

別にこれだけならそこらの芸人でもできることなのだろうが、このひとは絶えず楽器の間をちょこまかばたばた走り回り、彼が音楽を作る映画の登場人物そのままに懸命に突っ走ってばかりで、芸としての完成度とは目指しているところがどこか違うの。

恒例のカバータイムは、まず"The Slider"を。 リンゴのDrumsをぶったたき、keyで、ここ、Tony Vincontiね、といちいちことわりをいれてくれながら楽しい。 
その後でなぜか突然、XTCの"Senses Working Overtime"を弾きはじめ、歌えなくなったので客に歌わせようとしたがあんまうまくいかずに1コーラスのみ、ちくしょー、というかんじでこんどは"Making Plans for Nigel"をやって、こんどは見事にしてやったぜ、みたいな。
基本はこんな調子なの。

最後のほうはギター1本でいろんなリフをちょこちょこ、BeatlesやってCreamやって、Jimi Hendrixの"Foxy Lady"からForeignerの"Hot Blooded"に繋ぎ、そっから更に"Smells Like…"に強引にもっていく、というなんだそりゃ、みたいなことも平気でやってた。

鉄琴のとこは女性ヴォーカルが入って、ゆるゆるのHip-Hopみたいのをやってた。
とにかく器用なんだからね、と。

アンコールではBeach Boysの"God Only Knows"を自分はキーボードだけ、うたは全部コーラスも含めて客席に歌わせる。 これがねえ、コーラスになるのよね。みんな好き勝手に歌うのに。サラウンドであの歌に包まれていくようで素敵でしたわ。

最後の最後に”Look for the future!”という客からの野次に答えて、「だいじょうぶ、そういう曲もあるから」と"The Future"のテーマをやった。
サントラの音に更にいろんな音を練りこんで、捻りこんで、儚くて哀しくてでもほっこりしてて、見事なエンディングではありました。

前回見たときよかゴージャスで、やるきたっぷりの独演会だった。
2時間以上、とにかく楽しかったこと。


[film] We Can't Go Home Again (1972-2011)

2日の日曜日の3本目。 夜9時から。 チケットは滞在が延びてすぐに取った。
昨年と同様、illy'sのエスプレッソ(タダ)の屋台が出ていた。うれしい。

Tokyo Filmexでもやることはわかっていたが、一刻もはやく見たくて。
当日券もいっぱい出てた。前のほうはがらがら。

リストレーションが完了して、生誕100周年の今年、ベネチアで新装お披露目されたNicholas Rayの遺作。 (後のQ&Aでも補足があったが、ずっと上映がなかったというのは間違いで、数年前のMOMAのレトロスペクティブでも上映されたし、機会は割とあった、ただレストレーションに時間が掛っていただけ、と)

上映前に未亡人のSusan Rayさんが登場して、Nicholas Rayがこの映画で狙っていたこと、等を簡単に紹介する。 従来の映画の形式とは異なるフレームを導入すること、それによって複数のViewや複合的な効果をもたらすこと、更にこれをJournalisticな映画、として実現すること、などなど。

ちょっとよかったのが、この映画の共同制作者達です(The creature of the night, と呼ばれていたそう)、と紹介された人たちが客席のあちこちで立ち上がったところ。 もちろん、みんなもう学生ではなくて、それぞれにはげたり太ったりしなびたりしているのだが、なかなかよい光景だった。

冒頭のタイトル、"We Can't Go Home Again"と出たあとで、”by US”と。

内容は実験的なところも多いので見て頂くしかない、というものなのだが、映画の教師としてやってきたRayが、生意気な学生に、あー理由なき反抗のひとね、とか言われつつ一緒に映画を作っていく、その過程と、作られた映像と、当時のニュース映像、などが、Rayの独眼、ではなく複眼で綴られていく。

エンドロールのThanksに名前のあった Nam June Paikのvideo synthesizerの技術も使われている。

そして最後のほうは殆どRayの遺言のような。 "I was interrupted"の一言も聞こえる。
なぜHomeに戻ることはできないのか。 Homeはどこにあるのか。

あっというまの93分でした。 72年から2011年まで、Rayとその共同制作者たちが映画というメディウムにぶちこもうとしていた、捕えようとしていた当時のアメリカの光景が半端ない情報量と手仕事で展開されている。

そして、この意思を継いだヴェンダースが、デジタルを経て3Dに向かうのは当然のことでもあるのね。

上映後のQ&Aの質問で印象深かったのは、「なぜNicholas Rayは最後にこんな実験的な作品に向かったのでしょうか?」という質問に対して、Susanさんが「あら、彼は"They Live By Night"の頃からずっと実験的だったのよ」とこともなげに答えていたこと。

あと、「映画に出ていた若者たちはその後どうなったの?」という質問には、客席から"We are grown up!" - "some of..."(笑) とか。 その詳細についてはSusan Ray監督による"Don’t Expect Too Much" (2011)のほうを見てくださいね、ということでした。

NYFF、まだ続いていますが、昨晩突然発表されたSecret Screening, Scorseseの"HUGO"だったのね。  いいなー。

[film] Music According to Tom Jobim (2011)

2日の日曜日2本目。 BAMの後で、マンハッタンに戻ってNYFFに。

1本くらいは軽めの、音楽ものを見ておこうと思って、前半でかかったのはこれと、"Andrew Bird: Fever Year"というのがあった。
もちろん、Andrew Birdは大好きだし、映画だって見たいのだが、彼はまだこれからのひとでもあるし、そのうちどっかで見る機会はありそうだ、ということで。

時間を間違ってて、6:30だと思っていたら6:00開始だった。
地下鉄の駅に着いたらもう6:00になってた。Walter Readeの窓口に駆け込んだら、ごめんもう売切れてるの、あーでもさっき1枚いらないって置いてったひとがいるからあげるわ、ってただでくれた。 で、中に入ったらまだ始まっていなかった。 さらに、前のほうはがらがら空いてた。
この映画祭のこんなふうにゆるいとこ、好き。

Antonio Carlos Jobimが94年に亡くなってからかなりの時間が過ぎてしまったが、彼の音楽が風化することはないし、映像としてちゃんと遺すべきところは遺しておこう、とTom Jobim財団と巨匠Nelson Pereira Dos Santosが一緒になって作り上げた記録映画。

彼の公の場での最後のライブとなったCarnegie HallのVerve 50周年コンサートは、チケットが高くて手がでなかった。くやしかったので95年の追悼公演はAvery FisherとCarnegieのと、両方行った。 どちらも、とんでもないクオリティで自分のなかのブラジル音楽ライブ史上の決定版のままー 。

ただJobimの音を聴くのはほんと久しぶりで、どんなもんじゃろ、と思っていたら冒頭から、リオ上空を飛ぶジェットの映像(モノクロ)をバックに、ジェットの爆音並みのやかましさで"The Girl from Ipanema"のオーケストレーションががんがんに鳴りだしたので、一挙にあがった。 これだよねえ。

モノクロのフィルムはまだ開発中のRioの海岸や建設中の道路を映していく。 
これがBossa Novaが生まれた原風景、と。

このイントロに続いてGal Costaがでて、更にElizeth Cardosoへと続く。 
そっから延々、ライブ映像、TV番組の映像、PV、等などが切れ目なく続いていく。
Jobim本人のは勿論、Ella Fitzgerald、Judy Garland、Dizzy Gillespie, Chico Buarque、Caetano Veloso、Paulinho da Viola、Carlinhos Brown あたりまで。いっぱい。
日本からはなんかのTV番組に出て歌うマルシアと、小野リサが。

そろそろコメンタリーとかナレーションのひとつでも、と思う他方で、あれよあれよといろんな映像が流れていくのにわーわーしていると、結局最後までこの状態で、88分、走りきってしまった。

上映後のQ&Aで監督は、音楽が全てを語ってくれていると思ったので、結局しゃべりは入れないことにした、と語っていた。 ま、その通りか。

殆どがひとり1曲なのだが、シナトラ(& Jobim)は例外的に2曲続けて。
これがよくて、さっき見たばかりの"Some Came Running"との流れもあって、あ、Daveだ、と。
リオ上空からの海のばーんとした俯瞰とあの映画のラストはなんか繋がるねえ、とか。

個人的によかったのは、Elis & Tomの"Águas de Março"のPV(かな?)。ヘッドフォンつけたふたりが向かいあって歌って踊るだけなのだが、ほんと幸せそうなの。

これもQ&Aで出た質問で、訊くまでもなく、だったのだが、João Gilberto(1stのジャケ写のみ)とStan GetzのFootageがないのは何故? と。
監督曰く、Joãoは今、自分で自分の映画を作ろうとしているので貸してくれなかったのだ、と。
たぶん、とんでもない金額をふっかけてきたのだろうな。

そういえば、95年のAvery Fisher HallでのTributeライブのとき、Joaoの扱いはさすがに別格で、休憩時間後にソロで4曲、ちゃんと枠が取ってあったのだった。 でもそのあと、Astrud Gilbertoのところで、AstrudがJoãoを呼んできなさいよ、ときーきー騒いで、急遽ものすごく不機嫌そうな表情のJoãoが呼ばれてセッションがはじまったのだが、バックのミュージシャン(Lee RitenourとかMichael Breckerとか、すごい面々)ががちがちに緊張して総崩れした、ということがあったの。 いろいろ複雑みたいだねえ。

要するに、Joãoが登場しないこれを”Music According to Tom Jobim”と呼んでしまってよいものか、Joãoのあの様式なしにBossa Novaはありえたのか、という例の問い、最後はいつものそこに行ってしまうのであったが、そこさえ除けば、とっても楽しい時間と映像でしたわ。

10.10.2011

[film] Some Came Running (1958)

2日の日曜日も映画3本だけ見ました。

お昼はFreemansでSmoked Troutをいただいた。
絶妙な塩加減と適度にほぐれた魚の身は体内の猫毛総立ちの一皿でした。

デザートはスキップして、Spring stの駅の脇にできてたこのお店にいった。
"The Best Chocolate Cake in The World"

http://www.thebestchocolatecake.com/

お店の名前だけで食べてやろうじゃねえか、となるでしょ。
PlainとBitterの2種、リスボン起源だそうで、ちょっと甘いかんじもするけど、おいしい。
お店に買いにきたおばさんが、「ねえねえ、これってBest Chocolate Cake in The Worldなの?」て素朴に聞いていた。 で、お店のおねえさんは、ふつうに"Yes"、て。

ケーキの後で、McNally Jacksonで雑誌でも漁ろうと思ったら、すごい人だかりで。
この日までのNew Yorker Festivalのサブ企画で、サイン会をやっているのだった。

丁度1:00pmからのRichard Dawkinsせんせいが始まるところだった。
サインは貰わずに、こいつか!と顔だけ見ておいた。

買ったのは1冊だけ、"Destroy All Monsters Magazine 1976-1979".
Destroy All Monstersの活動初期に発行されたZine 6 册分を束ねたもの。

2:00pmからは、Jonathan Franzen(とColson Whitehead)のサイン会もあったのだが、時間がないので次のOther Musicに向かい、ここもさいごのお買い物。
店内でなんでかTalk Talkががんがんに流れていた。 いいよねえ。
Dum Dum GirlsとSt.Vincentのアナログだけ買った。中古はパス。

そこからBAMに向かって、The Complete Minnelliからの1本を。

上映前に"Designing Woman" (1957) (邦題:「バラの肌着」..?)の予告がかかった。
Gregory PeckとLauren Bacallによるラブコメ。すんごくみたい!

筆を絶ってしまったアル中の作家で退役軍人のDave(Frank Sinatra)がバスで故郷の街に帰ってくる。 シカゴのバーで拾ったらしい頭からっぽの娘(Ginnie: Shirley MacLaine)もなんでかついてくる。あとは、プロのギャンブラーのDean Martinとか、よそから流れてきた人たちがいて、他方には街で宝石商をやっているDaveの兄Frankとか、そのサークルの堅気の、上流の人たち、街でずうっと平穏に暮らしている人たちもいて、両者の間にいろんな波風がたつの。

地元の学校の文学の先生(Gwen)に一目惚れしたDaveは、彼女に未完稿をあげて、もともと彼のファンだった彼女はそのクオリティにびっくりしてふたりの間に恋が芽生えたりもするのだが、やっぱし結婚はできないわ、ということで別れるの。

で、結局一途なGinnieと一緒になることにするのだが、かつてのヒモが追ってきて最後には。

筋だけだとこんなもんなのだが、他にもDaveの兄の家族とか、その職場の秘書とか、いろーんな人間関係がこってり細やかに描かれていて圧倒される。

先を見失って苦悩するDave、先は知らねえ運の向くままというギャンブラー、Daveと一緒ならなんもいらないわというGinnie、Daveの世界に圧倒されながらも自分の生きてきた世界と体面は崩せないGwen, 自身が築いて来た家庭と職場の安寧が全てのFrank、父に感謝しながらも外の、Daveの世界に憧れる姪、などなどDaveの帰郷と共に露にされるこれらの人々の感情と魂のありよう、そしてそこから去っていく人々と。

Frankが学校の先生と森の邸で愛を交わすところとか、ラストの夜のFestivalの描写の凄まじさ(Minelliの映画の最後のほうって、いつもなんであんなにぶっとんでしまうのか、よい意味で)とか、そこで描かれたエモの決壊が最後の葬儀の場面の像と河を見下ろすばーんとしたショットではらはらと陽の光に融けていく。 その強さというかでっかさにあっけにとられるしかないの。

音楽はElmer Bernstein、これもすばらしかった。

10.08.2011

[film] 50/50 (2011)

土曜日の3本目。 金曜日に公開になったばかりのやつ。

この日の1本目もこれも、死を目の前にした若者たちの映画だった。 

Joseph Gordon-Levittが真面目な会社員で、煙草も酒もやらないしジョギングだってしてるよいこなのに、なんか腰が痛いなあ、って医者に行って検査受けたらあなたは脊椎の癌です、と言われる。
生死の確率は50/50 - 半々だと。

いやいやいやちがうし、おかしいし、とか言いつつも、治療しないといけないし、周りにも言わないといけないし。

親友がSeth Rogenで、同棲している彼女がBryce Dallas Howard、父親はアルツハイマーで息子のこともあまりわからないのだが、母親は、Anjelica Huston、彼らに言ったときの、言ったあとのそれぞれの反応がおもしろい。

基本はさらっとしたコメディで、どんなつらいときでも希望を信じてがんばろうー、とかそういう話しではぜんぜんなくて、単純に自分だけではなくて近くの人たちも混乱してじたばたしてしまう、その様がたんにおかしいでしょ、という。

病になったが故に広がった世界もあるし。 病院のChemotherapy仲間とか、あとメンタルのセラピスト役がAnna Kendrickさんで、"Up in the Air"(2009)と同じようにこんなリス顔の小娘になにができる、と最初は鼻で笑われるけど結構がんばってくいこんでくる、そういうキャラをきちんと。

役者さんがみんなすごくよいの。
Joseph Gordon-Levittは言うまでもなくほんとにうまいし(500 Daysよかこっちか)、Seth Rogenも、いつものように横で、がはがはげへげへバカ言っているだけなのだが、いいのよ。 Bryce Dallas Howardも、実はすごくやなかんじの女だった、を見事に。
Anjelica Hustonも貫禄の。 あれが自分のママだったらこわくてなんもできない。

サントラも素敵でねえ。 Radioheadの"High and Dry"があって、Bee Geesの"To Love Somebody"があって、Roy Orbisonの"Crying"があって、締めにはPearl Jamの"Yellow Ledbetter"がじーんと流れる。

ほんと、久々に見た気がしたきれいな青春映画、でしたわ。

このあとでThe Stoneに行こうと思ったがなんか疲れたのでここまでで帰りました。

[film] The Last Picture Show (1971)

日本に戻りました。まだぜんぜんだめ。

先週の土曜日(1日)の映画2本目。

"Restless"の後で、外にでたら雨で、でもRestlessだから、もう時間ないから、ということでWilliamsburgに向かいレコード屋をあさった。 けど、あんまなかったので買わなかった。 "Pretty Hate Machine"のアナログのオリジナルを$25で売っていたが、今更ねえ。

で、再びマンハッタンに戻り、Film Forumで、この映画をみました。
40周年記念でNew Printが焼かれて、1週間上映される。

予告でゴダールの"Weekend"がかかる。 これもNew Printで。 しみじみかっこいい。

"The Last Picture Show"はWalter Readeでも2回くらい見ていて、何回見ても好きだし、素敵だとおもう。 
そういう人が多いのか、席は結構埋まっていた。 (しおれた年寄りばっかりだけど)

モノクロ、暗めのぼうぼうした画面の上でうだうだと吹き溜まっている人たち、若者たちを、同じようにぱっとしないまま、抗うこともあらぶることもなく静かに廃れていく街とか道路をまっすぐに描く。

男の子たちは、Timothy BottomsにSam BottomsにJeff BridgesにRandy Quaidに... 要はぜんぜんぱっとしない、女の子のほうも、Cybill Shepherdで、むちむちで、わるいけどものすごくきれい、というかんじではなくて、彼らが放課後、というか、学校の外でぐだぐだしているだけのおはなし。

大人もBen Johnsonの他に、いろんな女の人たち - それぞれに強い印象を残す -、 みんな崩れかけて滅びるのを待つだけ、みたいな、でも後悔も逆恨みもじたばたもしない。 ただそこにいて、たまにぶつぶつ言ったり、泣いたり、その程度で、でもそんなふうだよね、という世界。Wasteland.

その情景がまるごとLast Picture Showとして沈みこんでいく光のなかにあって、それを上映する映画館もまるごと闇に向かって畳みこまれていくような、でも、それでも人たちは生きていくし、生活は続いていく、そんな二律背反のなかにある時間。 その軽さ、あるいは重さ。

終わって、脚本のLarry McMurtryさんのところで拍手がおこる。これはいつものこと。
エンドロールのRandy Quaidのところで笑いがおこる。これもいつものこと。

しかし、Jeff Bridgesがこの40年後に"Crazy Heart"になったり"True Grit"になったりするのは興味深いことだねえ。

"The Grapes of Wrath"(1940)の流れに連なるほんとうに偉大なアメリカ映画のいっぽん、だと改めておもった。

10.04.2011

[log] Oct.5 2011

帰りのJFKにおります。 まだ咳がすこし。

滞在中の更新はここまで。 あとは帰国後にだらだらと。
あとのこりは、映画5本、ライブ1本、かな。 たぶん。

つかれた。 
昨晩のJimmy Fallonに出てたRadioheadを聴いていたらいつのまにか意識を失っていた。

今回は、でっかい古本は買わなかった。(Bergdorfの古本は規模が小さくなってた)
古レコードもそんなに買わなかった。
でも、なんかすんごく重くなった。 
どうでもいい雑誌とかいっぱい買ったからか。 

反省しよう。 なんかの買い付けに来てるわけではないのよ。

帰国したら"Glee"と"Battle: LA" は見ないと。
それだけが楽しみだわ。

[film] Restless (2011)

金曜日の晩から雨が降りだして一挙に寒くなり、当然のように風邪はよくならず-

滞在が延びて最初に浮かんだのがNJでのATPだった。(去年もそうだったねえ、たしか)
前日に見たら、土曜日のチケットはまだ売っていた。 $118。
会場であるAsbury Parkへの交通をみたら、電車で約2時間以上。 向こう発の終電が12:01発で、2時過ぎ着 ...  いろいろ考えて諦めました。 

それから金、土、日と、New Yorker Festivalもあったのだった。
けど、これはこれでスケジュール組むの面倒だし、Stand-byでいちいち並んではらはらしたりがっかりするのもなんなので、きれいに諦めた。

なので、最後の土日はおとなしく映画をみることにしたの。

最初のがGus Van Santの新作、"Restless"。
もうマンハッタンでは1館のみになってしまっていた。

他人のお葬式に参列するのが好きな青年(Henry Hopper)がおなじような女の子(Mia Wasikowska)と出会う。

彼は両親を事故で失っていて、自分も臨死体験をしていて、なんでか、日本軍の特攻兵(加瀬亮)- 幽霊だよね - の友達がいたりする。

彼女のほうは、脳の病で長いこと生きられないのがわかっているの。

こんなふたりが出会って、仲良くなって、そして、ふたりにとってはわかっている/わかっていた別れがくる。

ストーリーとしては、これだけ。
"Last Days" (2005)でも描かれた蜉蝣のようにはかない、でも確かにそこにあるふたつの生をスケッチしていく。
"Restless"とは、生も死もない - 時間的にも距離的にも - 止むことなく流れていくそれぞれの思いとその有り様のこと、なのかもしれない。 死はRest、ではない。生もまた。 
"gerry" (2002)のソフト版、と言えないこともないかも。 

ただ、この辺の死生観(という呼び方には注意が必要だが)て、こっち(アメリカ)のひとには通じるのかしら、とか。
日本兵が出てくるところとか(なんで英語をしゃべる?とか)、最後に彼が恋人にあてた(でも出されることがなかった)手紙とか、日本人にはなんとなくわかるのだが。

日本兵は、四月怪談の弦之丞とおなじ位置づけかねえ。

とにかく主演のふたりが爽やかでよくて、ふたりがいろんな着せ替えしてじゃれあっているのを見るだけで、それだけでいい。和服を変なふうに着てても許す。

Mia Wasikowskaは"Never Let Me Go"のCarey Mulligan とおなじくらい素敵だとおもった。

エンディングで流れるのがNicoの“The Fairest of the Seasons”。
この曲は"The Royal Tenenbaums" (2001)でも流れたねえ。 お別れと旅立ちの-。

エンドロールの最後に小さく "In memory of Dennis Hopper"と出る。
Henry Hopperは、彼の息子さんだったのね。

[film] Carnage (2011)

木曜日に風邪ひいた。 
仕事がうまくいかないのは風邪のせいにして、とりあえず滞在を延ばした。

金曜日の9/30は、NYFF(New York Film Festival)の初日で、昨年は"The Social Network"のStand-byに並んだのだった。
(あのときも、たしか直前に延期になったんだよね)

今年のNYFFは、いいなー。 後半のほうが特に。
Wendersの"Pina"があるし、Mia Hansen Loveの"Goodbye First Love"があるし、Wisemanの"Crazy Horse"があるし、Cronenbergの新作もあるし、Sara Driverの"You are not I" (1981) はあるし、"The Royal Tenenbaums"の10周年(ええぇ、もぅ?)はあるし、クロージングはAlexander Payneの新作だよ。

他のイベントあれこれもあたまかきむしりたくなるくらい行きたい。

で、オープニングのは、去年もそうだったが、お祭りだから、いいの。 どんなやつでも。
昨年は2時間前に並んで(正確には、並んでもらって)、結構長い列で入れるかどうかはらはらしたのだったが、今回は、ぜんぜん並んでいなかった。 だいじょうぶか? というくらいに。

Stand-byは基本、並んでもチケットが出る保証はありませんよ、というラインなので、待つしかないのだが、なかなかリリースの連絡が来なくて、別の意味ではらはらした。

結局10分前に買って入れた。 1枚$50。 いいの、お祭りなんだから。

オープニング作品は、ポランスキーの新作、"Carnage"。
原作は、フランスのYasmina Rezaさんの戯曲"God of Carnage"で、これは2009年のOlivierとTonyの両方を獲っている。(彼女は映画の脚本にも参加、今回の舞台挨拶にもでてきた)

最初に主催者挨拶、でChairmanのRichard Penaさんがあれこれしゃべる。 
今年のNYFFでは、日本の日活100周年を記念してすばらしい作品がいっぱい上映されます、大スターのJo Shishidoもきます!  とか言うのだが、しーん・・・だった。 (ま、そうだろうね。きんきんの正装のみなさんには)

挨拶では、プロデューサーと脚本のほかに、Jodie FosterとJohn C. Reilly が登場した。
わー、ほんもんのJodie Fosterだあ、と素直に喜ぶ。 (John C. Reillyは舞台でみたことあったから)

さて映画のほう。
冒頭でどっかの公園を遠くから。 子供たちが小競り合いしてて、ひとりの子が木の枝でひとりの子をひっぱたき、もうひとりの子が顔を押さえるのがみえる。

そのあとで、カメラはブルックリンのアパートの一室に切り替わり、PCで子供達が起こした事故の顛末書を確認している4人 - 2組の夫婦に切り替わり、そのアパートから出ることはない。 登場人物もこの4人のみ。

そのアパートの住人で、被害者側の子供の親夫婦がJodie FosterとJohn C. Reilly、加害者側の子供の親夫婦が Kate WinsletとChristoph Waltz。 顛末書の内容にもお互い合意して、さて帰ろうかというときに、どちらか側の発したちょっとした棘のある一言がざらっとしたなにかを生み、それを打ち消すべく、まあコーヒーでも、ということになり、そのやりとりが延々続いていく。 コメディ、と言ってよいのよね。 とにかく笑える。 

加害者側の夫のChristoph Waltzの仕事はLawerで、会話の合間にしょっちゅう仕事のCallが入り、会話はいやーなかんじで途切れ、でも分別ある大人なのでみんな作り笑いでもちこたえる。
基本はその持ちこたえ、我慢の上重ねのシーソーゲームで、それをゲームとして成り立たせているのは一体なんなのさ? みたいなところまで修羅場が転がっていく。

所詮は子供同士の喧嘩よ、わたしたちは大人よ、うんわかっている、でもなーんか許容できない何かがお互いの間(単純に対峙する夫婦間だけではない、男女間にも)に小さな傷をつけて、その小さな綻びが不可避的に拡がっていき、なにかを決壊させてしまう、そのプロセスのリアルでおもしろいことったら。 

セットのなかの会話劇なので、つまんないかも、と思うでしょ。でもそれがある噴出(なかなかすごい)をきっかけにとんでもないことになっていくの。
タイトルの"Carnage" - "God of Carnage" - 大虐殺の神は、アフリカのどっかにいるやつで、それがなんでタイトルになっているのかは会話のなかではっきりする。

"Ghost Writer"にもあったような最後の最後のどんでん、みたいのがあるかと思ってどきどきしてたのだが、かわりにものすごいやつが現れる ...   それは。

80分きっかり。 全員の描き分けもリアルでちゃんとしているし、怒涛のテンションでがーっと走って、ぷち、っておわる。 めちゃくちゃおもしろいわ。

これを例えばアレンがやったらどうか(たぶんやらないけど)、とかいろいろ考えるに、会話とか場面の切りがえらくさくさくシャープで、このへんがポランスキーなのかなあ、と。

冒頭とエンディングの音楽はAlexandre Desplatさんによるもの。最近調子よいねえ。

ちなみに、Broadway舞台版のキャストは、Jeff Daniels, Hope Davis, James Gandolfini, Marcia Gay Harden。 これも見たかったなあ。

[music] Laura Marling - Sept.28

水曜日はお仕事のほうの宴会で、ライブは無理と思われたのだが、スポーツバーでJero-Shotていうアルコールを練りこんだゼリーをみんなわんこそばみたいにかきこみはじめて、ぐだぐだになりそうな気がしたのでそーっと抜けてWebster Hallにむかった。 もちろん当日券。

着いたのは8:55でライブ本篇は9:00開始だった。 

Laura Marlingのライブは昨年、Brooklynで見てて、それがとってもよかったの。
こないだリリースされた新譜の、とぐろを巻くアコースティックがすごく気持ちよくて好きなかんじで、ライブは絶対みたかった。 UKでは地下鉄の駅構内に新譜のポスターがいっぱい貼ってあった。

この日はUSツアーの最終日。 バンドは、G+Key、チェロ、弦&管、ダブルベース、ドラムス、の5名が彼女を囲む構成。 新譜にもあったようなきめ細かな波打ち際の寄せては返し、が基本で、たまに大きな波とかうねりがさーっと全てをさらっていく。 
強引ではないが、気がつくと取り囲んでいてじっくりと聴くことを強いる、そういう磁場を持ったアンサンブルでした。

しかし、あんましこういうこと書きたくはないのだが、ほんとにきれいなお嬢さんだよねえ。
この容姿だったら、他にいくらでもどうとでもできるだろうに、DustだのDevilだの、そういうことばかりを詞と音に乗っけることに集中している。

前作から比べると新譜はもこもこしてよりダークになった。 でもかっこいいよねえ。

新譜も旧譜も織りまぜて、終盤にソロで3曲くらい、バンドが戻って4~5曲、アンコールなし、全部で1.5時間、というのは前回と同じ構成だが、揺るぎない堂々としたものでした。

おしゃべりで面白かったのは、歌詞なんていいかげんなもんなのよ、”Salinas”は、行ったこともないカリフォルニアの町のことだし、"My husband left me last night"とか歌ってるけど、夫なんてもちろんいないしね、とか。 でも、そういうふうにこの人は自分の音楽を作ろうとしているの。
  
日本にも来ないものかねえ。 むりかあー。

[music] SWANS - Sept.27

滞在中の音楽関係は、じみなもんでした。

到着翌日25日のBoweryでのThe Shinsは、ロンドンからチケット取ろうとがんばってみたもののぜんぜんだめ。 同様に突然発表となったRadioheadは、同志Mにがんばってもらったもののこれもまったくだめ。こういうのはもう、年寄りはだめだよね。 金とコネを手に入れるしかないのか。

月曜日の夕方、どっちみち行く予定だったOther Musicで8:00からTwin Sisterのインストアライブがある、ということで、行ってみる。 着いたときは8:15だったのだがまだ開いてなくて、8:30頃にようやく開いた。

Twin Sisterについては前知識もほとんどなくて、Sisterだから2人組?とかそんな程度だった。
前の方が人で埋まっていて殆ど見えなかったのだが、5人組だったのね。
ここのインストアはレコード棚をいくつか片づけて、ほんとにちいさい空間で行われるのだが、それに見事にはまる四畳半ポップスだった。 けど、それはスペースの仕様に合わせて抑えているだけで、でっかい箱に行ったらそれなりに暴れるからね、という勢いを、時折かちかちぶおぶお膨らむ予兆を見せるドラムスとベースは示しているのだった。 

昨年みたNeon Indianもそうだったのだが、シンセ(モジュラーシンセだった)の80年代(not 後半)風の使い方がほんとうに上手なのね。

ここのインストアライブ、9月からNeon Indian ~ Girls ~ Twin Sisterと続いている。
おみあげに、Twin Sister、Girls、Beirutの各アナログ買った。 もうCDは買う気にならないのね。

火曜日、BrooklynでのSwans。 これだけは出張が決まった時点でチケットをおさえた。 この日はSold Outして、水曜日の追加がでてた。

311でキャンセルになった日本公演のチケットは結局払い戻しするの忘れてしまった。MelvinsもGaslightも忘れてしまった。 あの後、なんかどうでもよくなっちゃったのね。

前座はSun City GirlsのSir Richard Bishopさん。 へたっていたので床に座って聴いていたのだが、ひとりギターとは思えない、ありえない音が螺旋階段状に伸びていった。 終演後、Michael Giraがわざわざ出てきて、Right Handの巨匠に改めて拍手を! て敬礼していた。

始まったのは10時過ぎで、最初にパーカッションのひとが出てきてぶぉーん、て音をキックしてそのままひっこむ。 その5分後くらいに、横置きギターのひとが出てきて別の音をびぉーん、て加えてまたひっこむ。 耳が痛くなってきた頃に、ドラムスが出てきてパーカッションをかちかちやりはじめて、次に... こうして全員が出てきた頃には既に30分くらい経っていたか。

んで、予想はついたものの、全員が揃って、せーので一斉にぐぁんと鳴らした瞬間、めまいがして床に倒れそうになる、それくらい強い音圧だった。
そういうのは結構慣れているほう、と自分では思っていたのだが、ちょっとレベルがちがった。

金属系のパーカッションをがんがんごんごん打ち鳴らしつつ突っ走るドラムスとパーカッションがとにかくすごくて(ドラムスはCop Shoot CopのPhil Puleoさんだった)、この爆風にスライドのギターが目潰しみたいに刺さってきて、あとは頭がつーんとしてわけわかんなくなる。
Michael Giraのヴォーカルも、以前ソロで聴いたときの百倍の獰猛さでがなりまくるが、基本は轟音を打ち鳴らして、打ち鳴らして、焼き払っていくのみ。

所謂ポストロック系の(統御可能な)「美」に向かいがちな轟音とは明らかにちがう、明確な意志と悪意(それは80年代初から続いている)によって鳴らされるインダストリアルの極北。 
こういう音が、確かにむかしあった、よね。 と麻痺しつつある頭の奥で点滅しているなにかがゆった。

ほぼノンストップ、アンコールなしで2時間半たっぷり。 
約30年を経ての、ようやくの邂逅、というよりは、あまりに生々しく、いまここにある暴風雨として、手のつけられない理不尽な力、として彼らはやってきた。

というか、GiraがSwansを再開した理由はそこにしかないのだ、ということがはっきりとわかる音でした。

耳の片方は完全にしんで、戻るのに2日かかった。

10.02.2011

[film] Red State (2011)

まだ25日の日曜日なのだった。

IFCで、この日2回だけ、Kevin Smithの新作がかかって、本人がQ&Aをするというので、チケット
買った。 7:00の回と10:00の回、チケットは$20。 行ったのは10:00の。

シアターの前に結構並んでいたので、ええー、と思ったらPJ20の人たちだった。
Kevinのほうはシアター内で、そんなでもなし。 とっても元気がよさそうなPJ20の人たちと比べると、こっちは…

ホラー、という話しだったし、予告見るとたしかにおっかなそうだったので、びくびくしながら見たのだが、心霊系ではないし、スプラッターとか臓物とかもそんなになかった。 
88分のジェットコースターだった。 おもしろいよう。

ゲイヘイトクライムへの関与を疑われているキリスト教原理主義の教団があるアメリカの中西部で、高校生3人がやらしいことができる、という誘いにのって出かけていったらそれがごきぶりホイホイで、監禁されてミサの生贄にされるらしいことを知る。 脱出できるのか、助けは現れるのか。

最初のほうはひたすら気持ち悪くて怖くて、何度か帰ろうかと思ったのだが、警官隊が来てからは怒濤の勢いで引っ張られる。普段教室の隅でぶつぶつ呟いているやつが突然100m走でぶっちぎってしまって一同唖然、みたいなそんな。 いや、そこまではいかないか。

警官隊のリーダーがJohn Goodman、とてつもなく不気味な教団の神父がMichael Parks、その信者で"、The Fighter"を遥かに上回る鬼婆演技がすさまじいMelissa Leo、などなど。
捕まる3人の高校生もそれぞれにすばらしい。

音楽はまったくなし。 但し、最後のほうでとんでもない音が鳴るので、これは爆音しかありえない。
   
アメリカのバカ、愚鈍を描いてきたKevin Smith、という観点からすれば、これはこれで一貫している、のかもしれない。 或いは宗教的なものへのアンチ、というところで"Dogma" (1999)を引き合いに出すこともできるのか。 或いは警察権力への ...  (以下略)

Kevin Smithにとっては、"Chasing Amy" (1997) - なつかしい - 以来の低予算映画なのだという。
ふうん、とてもそうは見えないのだが。

上映後のQ&Aは、本人はこなくて、西海岸からのストリーミングだった。
画面の横で並行して流れているTwitterで、「$20払ってビデオかよ!」と吐き捨てるような発言もあったが、そうだよねえ。
質問の内容も今シーズンのNJ Devilsはどう? とか、この映画の資金集めとリターンの話しとか、どうでもいいことをいつもの勢いでべらべら喋りはじめたので、途中で抜けた。

別に巨匠になってほしいとはちっとも思わないが、そのお喋り、もうちょっとなんとかしたほうがいいよ、って誰か言ってあげて。