1月28日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
Steven Soderberghの新作、脚本をDavid Koeppが書いていて、昨年のSundanceでプレミアされた。
びゅうびゅう吹いてくるだけの予告がなかなか怖そうで、幽霊ホラーぽかったが、実際にはそんなに、ぜんぜん怖くなかったかも。85分。
冒頭、どこか(NJらしい)の古い、木造の大きめの家のなかの描写 – がらんとしていて引っ越された後なのか引っ越してくる前なのか、やがてそこに不動産屋と思われる女性が入ってきて、その後に物件を見に来たと思われる家族がやってきて、部屋や備え付けの家具 – 大きな楕円の鏡がある – を見て、夫と妻はローンのことなどで少し議論するが、次のシーンでその家族はそこに越してきて暮らしている。
カメラは家のなかをスムーズに動きまわり、窓辺に立って外を眺めたりするものの、家の外に出ることはない。その動き – 立ち止まるところ、その高さ、視点 - 目がとまるところ - などが一貫していることから、これはこの家にずっといる何か、誰かひとり、何かひとつの目線なのだな、というのがわかって、更にはタイトルとか既に知っている情報から、ふつうにずっとこの家にいる幽霊のそれだ、というのは簡単に導きだせる。
家族は力強いRebecca (Lucy Liu)と優しく受けとめるChris (Chris Sullivan)の夫婦と、水泳をやっていて学校の人気者らしいTyler (Eddy Maday)とちょっと不安定にみえるChloe (Callina Liang)の子供たちの4人で、RebeccaはTylerを溺愛していて、ChrisはChloeのことを気にかけている。 特に異様なところがある、そういうのが出たり取り憑いたりする - とは思えないごくふつーの人たちのようで、やがてカメラ(それ)は自分の部屋にいるChloeのことをよく見ていることがわかってくる。
そのうちChloeの部屋で、ベッドの上に置いておいたものがシャワーから出たら片付けられていたり、ものが突然ぜんぶ落ちたり、といったことが頻発して、Chrisの伝手で幽霊が見えるらしい女性に来てもらったりするのだが、彼女は家に入るなり... で、家族もこの家にはなんかがいてやばいかも、ということを意識するようになる。
でもTylerの同級生で下心ぷんぷんの不良のRyan (West Mulholland)が家に来た時、Chloeの飲み物に薬を入れたのを「それ」が妨害するシーンがあって、住人に悪さをする幽霊のようではなく、どちらかというと見守り系、そこにいるだけの奴なのかも、とか。
やがて週末に泊まりで父母が出て行ってしまうと、兄妹のところに好き勝手やったれ、って悪いRyanが泊まりにやってきて…
そこによくわからない何かが写っている、とか、なにかがいる/いた気配がある、ってそれだけで十分怖いものにすることができると思うのだが、あんまり怖いかんじがしないのは何故なのだろうか? あまり怖がらない、っていうのもあるけど、無理に怖がらせようとしていない、悪意殺意があるわけでもないし、ただそこにいる - Presenceだけ、その透明なありようを示して、それだけ。それでよいのかもね… ってなったところであの終わりが来たので少しびっくりしたり。
ただいるだけ系の幽霊話だとDavid Loweryの“A Ghost Story” (2017)を思いだしたけど、あの、変に切なく迫ってくるものもないし。
これ、Lucy Liuを真ん中にした方がおもしろいものになったのではないか? とか。
これ、おなじ予算(2百万ドル)を黒沢清に渡して同じ設定でなんかやらせたら、簡単にこれの百倍怖いのができると思うけどなー(ってみんな思う)。
R.I.P. Marianne Faithfull.. “Faithfull: An Autobiography” (1994)が出た時、まだ57thにあったRizzoli Bookstoreでサイン会があって、サインしてもらった。すごく柔らかくて素敵な人だった。ありがとうございました。
1.31.2025
[film] Presence (2024)
1.30.2025
[film] Cloud クラウド (2024)
1月26日、日曜日の、羽田からロンドンに戻る便の機内で見ました。
これ、日本に向かう便でも当然やっていたのだが、日本に向かう時にこんなのを見てしまうとあまりに不穏で不吉なことが起こりそうな気がして怖くて、なので戻りの便にした。戻りの方にすると、あの雲から抜けてよかったわ - さよならにっぽんー、っていうかんじになる。
監督&脚本は黒沢清。 もう、これだよね、しかないかんじ、懐かしいのとも少し違って、この爛れて錆びて腐れていく強い酸のような揺るぎなさ、どうにもたまらない。
冒頭、吉井(菅田将暉)が町工場に入っていってなにかの機具を安値で束で買い叩いて家に帰るとそれを撮影してネットにあげて、PC上のそれら商品がぜんぶ売り切れになっていくのを眺める。彼は「ラーテル」のハンドルネームで転売屋をしていて、この商売がおもしろくなってきたので数年間勤めていた工場を辞めてこれ一本でやっていこうとする。彼の上司で彼の昇格を考えていた滝本(荒川良々)は引き留めるが、吉井の意志は固い、というかそっちの仕事には興味を持てない。
郊外の一軒家に恋人の秋子(古川琴音)と移り住んで、バイトとして雇った佐野(奥平大兼)も加えて専業の転売屋を始めるのだが、思っていたように売れなかったり、不審者ぽい影や荒らしが出てきたりよくない空気になってきて… ここまででよいか。
あまりカタギの商売とは思えない転売屋だが、日常にはふつうにあるし、誰もすごく悪い何かとは思っていないし、そういう土壌の上で、昔だと「一線を越える」のような表現で言われていた向こう側に行ってしまう行為や様相が、雲 – クラウドに覆われるようにじわじわと、気がつけばあらら、の状態として描かれていく。線から面への変容。
後半は転売屋「ラーテル」をやっちまえ、の声のもとに集まってきたどう見ても怪しい、けどふつうのようにも見える連中がわらわらと、これも雲のように湧いてきて、廃れた工場のような場所(絶妙)でがしゃがしゃした殺し合いが始まってしまう。各自が最初は殺っちゃった(どうしよ…)だったのがなんの躊躇いもなくぶっぱなすようになっていく過程が雪だったり雨だったり安定しない不気味な光のなかで描かれる。ノワールのがまだわかりやすい、だんだらのくすんだ模様と空気のなかでの、殺されないために殺す、自分の命を転売する、決断の重さとは反対側のぶっきらぼうで投げやりな軽さもあって、これもまたクラウドの?
登場人物たちの顔も全員一様につるっとプレーンで、なにかに憑りつかれたような声や威力を、その黒さ悪さを誇示強調する画面の動きや発声はない。やっていることはやくざ映画やギャング映画のそれと大して変わらないのだが。
これらはどれも、黒沢清の映画に特徴的な、(綿密に計算したうえでの)画面に写りこんでしまった何か、のような輝度と濃度、そのはみ出した影たちと共に語られていくので、ああこれだわ、と思いつつも凝視せざるを得なくて、凝視していると祟られたり後ろからばっさりされたり。
そしてこれはまたものすごく的確な、今のにっぽんの、富裕層ではない側の人々の働きながらおかしくなっていく姿を描いた映画にもなっていると思った。富裕層が腐って禄でもないのは当然として。
Space Cadet (2024)
↑と同じ機内で、にっぽんの暗い映画を見てしまったので、反対にアメリカの明るいのでも見てみようか、と。
フロリダで日々明るくパーティ暮らしをしているRex (Emma Roberts)は、幼い頃は優秀でいろんな発明したり、Georgia Techにも合格していたのだが母の病気~死で進学は諦めて、そこからは日々てきとーに遊び暮らしていたのだが、NASAの訓練生募集の広告をみた友達が、宇宙飛行士、夢だったじゃん! て偽の経歴で応募したらパスしちゃって、持ち前の度胸と軽さで他の候補生を蹴落としていくのだが、やっぱりあと少しのとこでバレて追いだされ、でも宇宙に行ったかつてのライバルのいる宇宙ステーションが何かの衝突で機能不全になって、このままでは全員窒息死という危機にRexは…
実話ベース… のわけがない、相当にめちゃくちゃで、いいかげんにしなはれ、の展開なのだが、その適当さ加減はとても21世紀の映画とは思えないのだった(半分ほめてる)。
[log] Tokyo Jan.13-26
今回の滞在は約2週間だったのだが、真ん中の土日が病院だったので美術館も映画館もあったりまえに行けず、その他の日々、病院に行っていない時はふつうに会社で仕事をしていたし、ロンドンのオフィスが開く日本の夕方18時頃はあっち側とリモートでの打合せがあったりしたので動けなくて、夕方のだるくてとっとと帰りたくてたまらない頃にロンドン側は朝なのでみんな元気いっぱいで、そのやり取りの後で映画に向かう気にもなれず、体調に対する意識(たんに気持ちの問題)もあったのだと思うが、ほぼなんとなくもういいやー この次で、になってしまうのだった。 以下、見たもの感じたことなどの備忘。
『現れる場 消滅する像』 @ ICC
音のインスタレーションの方は割と普通だったけど、予約して入った無響室がおもしろかった。音が聞こえる、というのは反射してくるその響きを聞くことであって、間に響きの媒介がなくなると音は直接おのれの頭蓋骨を叩きにくるのだな、と。頭の上というか裏というか、その辺でぽかぽこ鳴ってくるのですごく変なかんじで、確かにひとによっては気持ち悪い、ってなるかも。
ここでふつうのロック - NINとか聴いたらどんなかんじになるのかしら? とか。
鳥展 @ 国立科学博物館
24日、金曜日の昼、検査と検査の間に3時間の空きができて、映画でも.. と思ったもののうまくはまるのがなさそうで、東京現代美術館の坂本龍一のは、次に来たときもやっているようだったのでパスして、上野に行けばきっとなにか、と思った.. 程度で。
途中で西洋美術館のモネの行列を見てげーっとなってこっちにした。鳥は見るのも遊ぶのも食べるのも好き。ちょうどこないだまでロンドンの自然史博物館でも鳥展やってて - “Birds: Brilliant and Bizarre” - でももう終わってしまった。サブタイトルにゲノム解析云々、とあったものの、飛べない状態で大量に並べられたり転がったりしている剥製たちを見ると、ゲノムだの系統だの、そんなのなんになるのだろう、くらいにはなる、くらいに鳥が群れて並んでいるのはざわざわくる。飛ばしてあげたい。
オーガスタス・ジョンとその時代—松方コレクションから見た近代イギリス美術 @ 国立西洋美術館
モネ展はどうでもよかったのだが、常設展示のなかの小企画でやっていたこれは見たかった。こっち(常設展)のチケットなら4秒で買える。
SargentやSickertといった有名どころからChristopher Richard Wynne Nevinsonの「波」とか、おもしろい。
一点、Laura Knightの油彩があって、海岸の海辺で立っている女性の絵、Tate Britainの企画展 - ”Now You See Us: Women Artists in Britain 1520-1920”にあったのやつの連作だろうか、とか。 近代イギリス美術って、いろんな流派とかSchoolがあって、ほんとおもしろいのよ。
どうでもよいけど、わかんないけど、モネを好きな人って、アートに政治を持ちこみたくない系の人たちが多い気がする。
須田悦弘 @ 渋谷区立松濤美術館
帰国前日の25日土曜日の昼に見た。ちっちゃくてどれも素敵だったが、展示はここよりも駒場の日本民藝館とかのがよかったかも。
そんなふうに展示会場を選んでしまう作品たちだったかも。
Has Anybody Seen My Gal (1952) @ シネマヴェーラ
もし日本にずっといたのだったら、この特集と京橋のメキシコ映画特集はずっと入り浸りだったはず。新作だったら”Dicks: The Musical”と『オークション..』のと清原惟監督特集は見たかったのだがぜんぜん時間が。
せめてシネマヴェーラのあの空気に触れたくて、空いた時間に1本だけ。『僕の彼女はどこ?』
Douglas Sirkはこんな軽いコメディも作っていたのねえ、だった。
Rock Hudsonとかも出てくるけど、メインは富豪役のCharles Coburnで、どたばたおとぎ話みたいなやつだったがところどころでなんなのこのカメラの変な動き? みたいのが。
今回、レコード屋は行かなくて、新宿の紀伊国屋書店に2回くらい行っただけだった。
ロメールの鈍器本と、ジョン・バージャーの美術史2冊と、あと『図書館を建てる、図書館で暮らす―本のための家づくり―』。
日本で本を買ってもそのまま置いて(積んで)くるだけなのだが、これだけはこっちに持ってきて少しづつ読んでいる。
本はふつうに溜まる、でも片付けたり「処分」することなんてありえない、それらは等しく手に取れるところで並んでいてほしい(それが本というもの)、というベース、基本中の基本、に立ったときに、どんな現実解・選択肢がありうるのか、を正攻法で詰めてひとつひとつ実現していく過程は、いいなーしかない。
うちはレコードもあるしな、なによりそんなに先がないしなー、とか。
1.27.2025
[film] The Wild Robot (2024)
1月12日、日曜日の夕方、羽田に向かって発ったJALの機内で見たのを2本。
それにしても機内映画って、昔と比べると本当につまんなくなった、というか見るものがなくなってしまった。
昔は日本でリリースされていない映画を見る割とよい機会だったのに、もう殆ど見てしまったやつか、どうでもよさそうなC級のばかりで、見ても時間のムダっぽいけど他に見るものもないし... って悩むことになる。いまは機内で仕事をする人も増えたし、自分のPCやタブレットに入れている人もいるし、TVのドラマシリーズとかバラエティとか視聴の選択肢も増えたし、ということなのだろう。 これは日系の航空会社に限ったことでもなくて、BAなどに乗っても同様だし。
Jackpot! (2024)
監督がPaul Feigなので見た、けどAmazon Prime Videoで配信リリースのみっぽい。
2030年、財政逼迫で首が回らなくなったカリフォルニア州は、宝くじ収入頼りになって、より多くのお金を集めるために、賞金当選者を当選者発表日の日没までに殺したら、それをやった人がその賞金を丸ごと手に入れることができる、ただし銃の使用は不可 - という追加ルールを設定。これにより当選者は逃げ回り、一般市民が当選者を追い回し、という図が冒頭、逃げ回るSeann William Scott – 最後におばちゃんにやられる - を使って描かれる。
ショービジネス界での成功を夢見てカリフォルニアにやってきた元子役のKatie (Awkwafina)が自分では望んでいないのに36億ドルのJackpotに当たってしまい、見ず知らずの大量の市民から追い回されることになってあわあわしていると、Noel (John Cena)が現れて、日没まで彼女のボディガードをやるので生き延びることができたら成功報酬として賞金の10%を、ていうのをオファーしてきて、しょうがないので彼と契約して一緒に逃げることにする。
警察まで殺しにやってくるし、Noelがかつて所属していたエージェント会社のトップ(Simu Liu)とかいろいろ絡んでくるし、KatieとNoelは生き延びることができるのか、と。
昔(70~80年代)の荒唐無稽なお笑いB級アクションを思い起こさせるし、たぶんその辺を狙ったのだろうけど、もうちょっとちゃんと作ればー になった。アクションとかあまりに雑で適当で、笑えるところもないし、やる気がなさすぎるように見えた。
The Wild Robot (2024)
日本でももうじき『野生の島のロズ』のタイトルで公開される?”How to Train Your Dragon” (2010)のChris Sandersによるアニメーション。
この作品、LFFでも少し話題になっていたのだが、あんま見る気になれなかった。だってこういうでっかいロボットものって、最後はぜったい飼い主のために自分を犠牲にして決着つけようとしない? 見るからにそういう顔をしたロボットだし。
嵐でどこかの島に打ちあげられて動かなくなっていたロボットのRozzum Unit 7134 – Roz (Lupita Nyong'o) が立ちあがって、自分に割り当てられたタスクを実行すべく周囲にご用件を聞いてまわるのだが、そこにいるのは野生動物ばかりで、でもタスク実行ロボットで、タスクを実行して相手に満足してもらうことが至上命題である彼女(でいいの? 女性キャラなのがちょっと嫌なんだけど)にとって森の動物たちはタスクを与えてくれるお客様なので、ひとつひとつ彼らの問題や悩みを解決して共生していくうちによい関係ができてくるのだが、ものすごいストームがやってきて…
互いに解りえない、敵対関係だったりもする言葉の通じない相手とどうしたら解りあっていくことができるのか、というのは”How to Train Your Dragon”でもテーマだったと思うのだが、この映画のRozにとっては理解=タスクの実行→完了だし、でも言葉の異なる種の間で競合しうるタスクの落とし前(そこを「愛」でごまかすな)とか、機械学習などでどうにかできそうな域を越えていたりしない? 漫画だからよいの?とかいろいろ思った。
このお話しの教訓て、なんになるのだろう? どんな依頼でもとにかく引き受けてマルチタスク管理ができるようになりなさい、ではないだろうし、ロボットはうまく接してきちんと使ってあげることが肝心、も違うし、ビーバーみたいに人からバカにされても愚直にひとつのことをやり続けるのです、かなあ?
これからの(今の)ロボットって壊れない、壊れても自動修復されるしIDもデータも復元できるし、常に復旧・代替可能で「万能」であることが前提、となったときに、そこからどんなドラマを作ることができるのかしら? って。ストーリーのなかに置いてもかえってつまんなくなる気がした。 あと、ロボットにとって野生とは、ノラであることの意味とは? とか。
など、考えるネタあれこれを提供してくれるのだったが、お話としてはきれいに纏まり過ぎてかえってすっきりしないかんじが。
関係ないけど、機材のA-350のビジネスってぜんぶキューブ型の個室で仕切られてて、遠くからみると「畜舎」ってかんじがとってもするの。
1.26.2025
[film] Babygirl (2024)
1月12日、日曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。
日本に発った日で、夕方の出発まで少し時間があったので。
冒頭から喘ぐNicole Kidmanで、終わりもそうで、設定も含めて全体としてはNicoleさまフロントのゴージャスな調教ポルノ、みたいなかんじ。
監督・脚本は女優でもあり小説も書いているオランダのHalina Reijn。
Romy Mathis (Nicole Kidman)は革新的なロボティクス倉庫会社のCEO & Founderで、マンハッタンにかっこいいアパート(1245 Broadwayって出る。もうちょっとよい場所にしても.. )と郊外にプール付きの別荘を持ち、舞台演出家の夫Jacob (Antonio Banderas)と2人の娘に囲まれて幸せそうに見えるのだが、冒頭のセックスで喘いだ(相手はJacob)すぐ後に別部屋でノートPCを開いて自慰をしていて、要は満足していないらしい。
ある日Romyが会社に向かう途中、路上で暴れてあわや、になった犬を一瞬でおとなしくさせてしまった青年にでくわし、その彼 - Samuel (Harris Dickinson)は彼女の会社にインターンとしてやってきて、彼女が彼のことを意識しているのをわかっているかのようにメンターに指名して、強引に彼女とふたりきりになる時間を作ろうとする。 でも彼女は忙しいし一番偉いんだから、ってつーんとすればするほど、敵の穴にはまって and/or 自ら落ちてやめられなくなっていくのだった。
それと並行してJacobとの関係とか家族との関わりは薄く、というかこれまでと違うものになってきたことが家族の側から指摘され、でもSamuelに”Babygirl”- よいこよいこ - って調教されて別世界へと連れていかれてしまったRomyには戻ってくることが難しく…
こういうドラマの場合、嵌った穴から抜けようとするRomy、自分の穴に引き摺りこもうとするSamuelの間でなんらかのアクションが取られて、それが失敗して惨事を引き起こすか、うまくいってリセットされるか、場合によっては全てがちゃらになってしまうか、だと思うのだが、この辺が、え? こんなもん? ていうくらい弱いかも。ストレスからドラッグに嵌ったけどなんとか更生しました、程度でよいのか?
これは女性ドラマでもあるので、女性の目からすればこれはこれでとても重い決断がなされたのだ、と言えるのかもしれないけど、やっぱりストーリーとして、そこなの? それでよいの? はあるような。Jacobの演出している舞台『ヘッダ・ガブラー』や娘の名前 - Nora (人形の家)から読み解け、はちょっと難しいかも。
あとは最後の方でおろおろ泣きだしてしまうAntonio Banderas。俺だって昔は狂犬のよう… って呼ばれた季節もあったんだ、ってSamuelを縛りあげてその口に機関銃を… にはならなかったねえ。昔は泣く子も黙るだったのに、いまはPaddingtonにすら勝てない(そういえばNicoleもあの熊には負けてたな…)。
せっかく彼女はロボット倉庫会社のトップにいるのだから、Samuelを始末してアクセス不可のブロックに隠して鍵かけちゃえばよかったのに、とか。
でもとにかく、いろんな点で - 特に自ら誘って堕ちるような役をやらせた時には - Nicole改めて最強、であることを知らしめた映画、ではあるかも。
あと、「川崎」は「東京」じゃないからね。
戻ってきましたー。さむいー
1.25.2025
[log] January 26 2025
今回の日本滞在は何度も書いたり叫んだりしたようにぜんぜん楽しくないものになったのだが、生まれて初めて入院(一泊だけど)したり、全身麻酔をしたり(されたり、か)、いろいろあったので備忘として書いておきたい。不愉快に感じられる方もいると思うので、申し訳ありませんがそうなったら読まないで。
これが「手術」と呼ばれるようなものなのか、「検査入院」と言われたのでただの「検査」なのかも知れず、もし「手術」なのだとしたらそれも生まれて初めて、になる。 そんなのそれがどうした、ではあるが。
土曜日の午前に病院に行って手続きをして、連帯保証人について確認されたのでそんな人おりません、と言ったら替わりにごっそり保証金を取られる - 後で引かれて返ってきたけど。
入院する部屋に連れていかれてしばらく放置され、部屋にひとりにされるのは喜ばしいことのはずなのに、病室にこうして放っておかれると、みんな忙しいんだろうな、とか、手続きに誤りがあったのでは、と不安でそわそわしてくる不思議。 刑務所でもこんなかんじになるのかしら?
そのうち手術の準備をします - 「手術」って言った! 手術なんだわ…. と着替えさせられ、点滴(これは何度かやったことある)の管に繋ぐべく、結構長めの針をぶっ刺そうと右左の腕をとんとん始めるのだが、よい場所が見つからないらしく看護の方がもうひとり来て、左の手首の近くに刺してみたもののなんかはずれた、とかで引っこぬかれて改めてその近くに刺し直される。割と泣きたくなる痛さだったがこんな入り口の手前で泣いてはいけない。
予定していた時間から1時間くらい早まりましたので行きましょう、と言われ、こころのじゅんびが.. なんて恥ずかしくて言えない状態でベッドごとがらがら運びだされ、いろんな計器類で沸きたっている部屋に入れられて、ああきっとこのままなんか改造されちゃうんだわ、って10分後に計器ケーブルをずたずたに破壊しつくす絵とか… 浮かぶわけない。
さて、実はこれまで失神というのも経験したことがなくて、他からの力によって意識を落とされる、というのがどんなものなのかを知る、よい機会だとは思っていて、でも口に軽めのカップみたいのを被せられ、はい始めまーす、と言われ頭のなかで、1. 2. 3. 4. 5.. くらいまでカウントしたあたりで、視覚でいうと右左上くらいから立ちのぼって下りてくる何かを感じる、と思ったら落ちた。落ちた、ということすら思い起こせず。
次に気づいたのは「終わりましたよー 起きてくださーい」という声で、目覚めのぼけぼけとは明らかに違うケミカルな靄が目の前に広がっていて、この状態で病室まで運ばれたのだが、去り際の手術室の揺れとか流れていく天井のうねりとか、ああこれが医療ドラマとかでよく見るあの映像なんだわ、って。
部屋に戻り、魚市場の魚としてひと通りのチェックを施されて、問題なさそうですがどうでしょう? と問われたので痛いです、と本当に痛かったので訴えると、じゃあ痛み止めしておきましょうかね、ってホコリを払うみたいに坐薬をぽんっ!て突っ込むとさーっといなくなられて、こっちも眠りに落ちた。
そうやって起きたら晩ご飯の時間で、なんだか普通にハッシュドビーフなどを食べることができてしまい、夜中はいろいろあったものの、朝ご飯も - 普段は食べれないのに - フルの洋食ブレックファーストなどを食べることができて、血圧だのなんだのも正常で、午前中にあっさり退院できて、そんなの病院からすれば当たり前なのかもしれないが、組織をちょきちょき切り取られて血も結構でてしんどかったのにこんなふつうに歩いて活動できるものなのか、って残念に(思うな)。
そんなしょうもない感想よか、そもそも総合病院というのはそういうものなのだろうが、ものすごい数のスタッフや機械が24時間ずっとフルで稼働してて、それらのリソースをすべての人が生き延びられるように、って使って、使えるように配備していて、その歴史と世界規模の蓄積でここまでのものができあがったのだ、というスケールを少しでも実感してしまうと、ガザでの病院への爆撃がどれだけ酷いことであったか、とか、高齢者は自らお引取りをなんて、そんな考えがどうしてありうるのだろうか、とか。
少なくとも、病院と学校は効率化を追求してどうにかなる領域ではないよねえ、とか少し考える。全方位からのケアって、指標などで定量化して比較評価できる部分なんてほんの一部なのだ、って改めて実感した。健康であるに越したことはないのだろうが、こういう議論ができる土壌 - 哲学と想像力、広義の人文学を養える場が、恣意的・政治的にであろうが - 奪われている。それは本当に恐ろしいこと。
検査の結果は見込みどおりのバツで、3月にまた戻ってくること - こんどは正真正銘の手術だよ - になってしまったのだった。 あーあー。
1.24.2025
[film] Se7en (1995)
1月11日、土曜日の晩、BFI IMAXで見ました。"Seven"
公開30周年を記念しての1回きりの上映で、売り切れてはいなかったが席は前から2列目で、見あげるかたちになってしまったが思っていたほど悪くなかったかも。
監督はDavid Fincher、少し後の“Fight Club” (1999)と並んで、90年代の暗く荒んだ、擦り切れた空気感を代表する「名画」「古典」、のように紹介されることも、現在活躍するいろんな「クリエイター」が影響を受けた映画としてあげることも多いみたいだが、自分はなんとこれまで見たことがなかった。
だって、95年頃なんて、音楽のが断然ものすごくおもしろかったので、映画行くならライブ行くわ、だったから。
上映前、客席に向かってこれまで見たことない人~?って手をあげさせたら半分くらいから手があがったので、見てない若い子も増えているんだろうな、って。
オープニングのタイトルバックが、90年代の雑誌 – Ray Gunとか - のエディトリアルのルックス(というか、こっちが影響与えたほう?)でなんだかとっても懐かしいったら。
ストーリーはいいよね。ずっと雨が降っててくすんでて滅入るNY - のように見えるが明示はされないどこかの都市 - で、Seven Deadly Sin - 七つの大罪をテーマにしていると思われる死体ぐさぐさ、肉塊陳列系の惨殺事件が月曜日から順番に起こっていく。担当するのはもう定年を前にしたSomerset (Morgan Freeman)と若くて漲っているMills (Brad Pitt)のお互い気にくわないし合わないし合わせようとしないふたりで、これは七つの大罪起因だ、って推理して絞り込んでいくのは読書家っぽいSomersetで、その反対側で当然姿を見せようとしない犯人John Doeも相当に暗くて闇が深そうだねえ、って。
ただの犯罪推理サスペンスで終わるのではなく、どちらかというとどれだけ日を重ねても働いても働いても先が見えない雨ばっかりに降られる刑事たちのどんよりと重い日々、殺されていく人々の死体になる前からそうと推測されるなんとも.. としか言いようのない様相と、そんな中でのああいう殺人(のやり口)を晒して狙って挑戦・挑発してくる犯人と、部屋にも扉にも、すべてに横たわってこびりついて離れない閉塞感、疲弊感、怨念のようなの、ってなんなのだろう?から、なんかどうもそういうもんかも… に変わっていって、その状態であの結末がくる。最後まで終着点としての罪がべったりと横たわって床にこびりついて、ヒトの善なんてありえない、勝てる余地のない世界が大きく広がって、最後にヘミングウェイの引用があったりするけど、それにしても..
そしてこれははっきりと当時の時代の空気のようなものとして、あった気がして、それを現場の塵やノイズ込みで映像に落とした。地獄はすぐそこ、ではなく、いまの、ここの、これが、あなたが、地獄なのだという目覚めとかお手あげとか。
Trent Reznor絡みで引き合いにだすわけではないが、David Lynch (RIP) のほうが、悲惨を彼岸のほうにあえて置いてみようとするかんじがあった。というか彼岸には狂って箍の外れたすべてを用意できるので地獄だって天国になるし紙一重だよ - あとは渡るか留まるか - という描き方をするのがLynchで、Fincherはどこまでもこの現世に留まって、その痛み鈍痛ひと揃えを解剖台の上に並べてみせる。
どっちがどう、って比べられるものではないが、80年代に出てきたLynch、90年代に出てきたFincher、って置いてみるとなんか分かりやすいかも。
結局時差ボケが半端に解消しない状態のまま、滞在24時間を切ろうとしている。映画ぜんぜん見れなかったよう。